- Jealousy In Love -



ひやりとした手が額に当てられる。
そっと開けようとした瞼は思いのほか重く、睫毛を震わせただけで諦めてしまう。
「目が覚めたのか?」
心配げな声に、小さく頷く。どうやら、声を出すのも簡単ではなさそうだった。
とりあえず起こそうとした体を、少しきつい口調で止められる。
「熱が出てるから起きなくていい。知り合いの医者に来てくれるように頼んであるから、もう少し我慢してくれ」
何が何だかさっぱりわからなかったが、とにかく自分の体調がひどく悪そうなことと、そのせいで淳史が心配してくれているらしいことはわかった。
「……ごめん、なさい、お仕事……」
言いかけた優生の口元がそっと遮られる。氷を触っていたらしい冷たい指がひどく気持ち良かった。
「遅れるか休むかすると言ってあるからな」
「だめ、だよ……また」
言葉を塞いだのは、今度は指ではなかった。
「もう、おまえの“だめ”は聞かないことにした」
声音も、髪を撫でる手もやさしくて、優生はそれ以上何も言えなくなってしまう。
だるい腕を上げて淳史の手に触れる。抱きしめるように体を寄せられると、それだけで涙腺が緩んでくるのは熱のせいばかりではなさそうだった。
「悪かった、無理をさせ過ぎたな」
低い声に籠る悔やむような響きに小さく首を振る。今の優生には、誰が悪いのか、誰が一番傷付いたのかわかっている。
「ごめん、なさい」
あと5分、そのままでいられたら簡単に和解できただろうと思うのに、甘い空気を壊すようにインターフォンが鳴った。
「往診に来てくれたんだと思うから、ちょっと待っててくれ」
何より効きそうな精神安定剤が優生の手から離れてゆく。泣きそうに目を上げたことに淳史は気付いてくれなかった。

ロビーまで迎えに出たのか、淳史はなかなか戻って来なかった。
枕元に置かれた、氷を包んだタオルにそっと頬を当てる。体中が熱いのに、寒気がするのは何故なのだろう。
寝乱れたパジャマを直す気力もなく、横になったままでぼんやりと待っているうちに、また眠気が襲ってきた。ずいぶん眠ったような気がするのに、体はやけに睡眠を要求しているようだった。
沈みかけた意識が、話し声とドアの開閉する音を拾う。そのまま落ちてしまいたいのに、ささやかな理性がそれを引きとめた。
「優生?」
淳史の声に、重い体を何とか起こそうと思った。
今は自分の体を支えることさえ困難な細い腕を、駆け寄ってきた淳史が背後から支える。ホッとして力の抜けた体を強く抱かれ、来客者の方に向くよう促された。
「義貴先生っていう外科の先生だ、診療が始まるまでということで来てくれたから手短にな」
変わった名字なのか、名前で呼んでいるのかわからないが、義貴という医師が優生の傍に立つ。ずいぶん背が高いようだ。おざなりに羽織っただけの白衣が優生を落ち着かなくさせていることに自分でも気付かないまま、ゆっくりと顔を上げた。
義貴は身を屈めて、優生の顔を観察するようにじっと見つめている。
「顔色が悪いね。それに痩せ過ぎだよ。体調が悪いと気付いたのはいつ?」
柔らかなトーンで話す、ずいぶん綺麗な顔をした年配の紳士だった。外科というより小児科とか婦人科の方が似合いそうな風貌だ。
「痩せてるのは体質らしいんですが。熱が上がってきたのは明け方近かったと思います」
「熱は何度くらい?」
「一番高い時で8度5分、さっき計った時は8度ちょうどでしたが」
「水分は摂ってる?」
「今朝はまだ」
「じゃ、ちょっと診ておこうか。脱いで?」
ぼんやりと、淳史と義貴の会話を聞き流していた優生は、不意にパジャマに手をかけられて身を引いた。
「優生?」
驚いたのは淳史も同様だったらしく、逃れられなくさせるように抱き止められた。
「いや」
なぜ、見ず知らずの男にいきなり服を脱がされようとしているのか、咄嗟に理解できなかった。
「おとなしくしていてくれないと診れないよ?」
背中から淳史に羽交い絞めにされたような格好になり、抵抗を封じられて軽いパニックを起こす。自分へと伸びてくる、指の長い大きな手にギュッと目を瞑った。
なぜだかわからないが、ひどく嫌な感じがした。義貴の纏う紳士然とした態度とうらはらに、そこはかとなく危険な匂いが漂っているような気がして優生を落ち着かなくさせる。
「やっ……」
身に覚えのない指が触れた瞬間、体に震えが走った。淳史の胸元に身を押し付けたまま、また目元が潤んでくる。
「……なんて声を出すんだろうね」
驚いたのか呆れたのか、義貴が小さく息を吐く。
「医者にイタイことをされた経験でもあるのかな」
「すみません……優生、診察してもらうだけだ、ちょっとおとなしくできないか?」
「相手が医者ならいいの?」
もう誰にも触れさせるなと言ったくせに、この男なら構わないのだろうか。
「また思わせぶりなことを言うね」
大きな手が優生の頬に伸びてきた。両側から包むようにして顔を上げさせる少し骨ばった長い指が怖い。
一見優しげな双眸に覗き込まれると目を逸らせなくなってしまう。視線を外した途端に喉元へ噛み付かれそうな気がして、睨み合いは暫く続いた。
「口を開けて」
顎へ触れた手にハッとして顔を引く。淳史の背に阻まれて後退さることはできなかった。せめて、出来得る限り顔を背けようと努める。
「見た目に似合わない頑固な子だね」
呆れたような義貴の言い方に、淳史も困惑しているようだった。
「すみません、医者嫌いだとは知らなかったんですよ」
「押さえつけてでも診ておこうか?」
「いえ、興奮させると余計に熱が上がりそうな気がするんですが?」
「そうかもしれないね。一応、化膿止めと痛み止めを出して様子を見ようか?」
「お願いします」
ホッとした一瞬を、義貴は見逃してくれなかった。
「や、だっ……」
パジャマの上衣を捲り上げる手に肌が粟立つ。抗おうにも、淳史に縛められたままの腕を上げることは叶わない。
「胸の音くらいは聞いておかないと、往診に来た意味がないからね」
屈辱的だったが、それでも聴診器の無機質な感触の方が義貴の手よりよほどマシだった。
「はい、後ろ向いて」
淳史の胸に抱かれるような格好になり、優生はその背に腕を回してギュッとしがみついた。
「心配ないと思うけど、もし熱が上がったり、ひどくなるようだったら連絡して」
「はい、朝早くからご面倒をおかけしました」
帰り支度を始める義貴に、診察が終わったことを知ってホッとした。本来なら優生も挨拶をするべきだったのだろうが、そっとベッドへ戻されるのに任せて目を閉じた。
淳史が義貴を送って玄関を出る音を聞いて、少し休もうと思った。そうでなくても眠くて仕方がなかったが、どっと疲れが出てしまったようだ。また熱が上がってきたのか、少し朦朧としているような気がする。
熱い体を自ら抱いて丸くなる。毛布にくるまると、もう睡魔に逆らうのはやめた。


眠りかけたところで、またドアの開閉する音にジャマをされた。
「優生?寝たのか?」
答えるのは億劫で、小さく首を振る。
「氷、挟むか?」
もう一度首を振ったが、淳史は脇の下へと氷を当てようとする。
「いや、寒い」
いっそう身を縮める優生に、淳史は冷やすことは諦めたようだ。
「寝るのは薬を飲んでからにしないか?」
「うん」
答えたものの、起きるのを億劫がる優生の背に回された淳史の腕に抱き寄せられ、ベッドの縁へと座らせられる。
差し出された薬の包みを受けるように手のひらを開く。2錠とも素直に口に含むと、淳史は水の入ったグラスを唇まで持っていって傾けた。少し大きめの薬がなかなか喉を通らず、用意された水を空にしてしまう。
なんとか薬を飲み終えると、淳史の胸元へ凭れかかって目を閉じた。やはり、淳史に包まれていると安心する。
「少し寝た方がいいな」
「うん」
頷く優生の体がベッドへと倒されてゆく。背に回されていた腕が外されて、淳史の体が離れてゆくのを感じて、思わず袖を掴んでしまった。
「傍についてるから心配するな」
「いや」
引き止めるように、淳史の胸元に顔を押しつける。少し苦しい姿勢を気遣うように、淳史が背を抱き直す。
「添い寝がいるのか?」
可笑しげに笑われても、違うとは言えなかった。いつものように腕枕をしてくれるまで、しがみつく手を緩めることもできない。
やさしく髪を撫でられると、また眠気が襲ってきた。
今なら、眠っても大丈夫だろうか。
不安は拭い切れなかったが、瞼が塞がってくるのに任せて、意識を手放すことにした。




「いや」
浅い眠りの中にいても、淳史の体が離れてゆくのを感じてしがみついた。
「悪い、起こしたか?」
そのまま離れようとする体を抱き止めようとした腕に、淳史は困ったような顔をする。もしかしたら、仕事に行こうとしていたのかもしれないことに気が付いた。
「……仕事に行くの?」
「おまえが元気になったらな」
それなら元気にならなくていいと思ってしまった自分に驚く。あの美形の医師が来るまでは、淳史を仕事に行かせなければいけないと思っていたはずなのに。
優生の不安に気付いたのか、淳史は目を覚ます前と同じように腕に抱き直した。宥めるように、優生の背中をトントンと叩く。まるで幼い子供のような扱いに泣きそうになる。
「……ギュって、抱いて」
我に返ったら、きっと顔から火を吹きそうな稚拙な言葉が口をつく。でも、僅かでも離れたらまた優生は誰かに取られてしまう。
「大丈夫か?」
心配げな淳史の問いに答える代わりに、背に回した腕に力を籠めた。
「どこか痛むのか?」
「嫌だ」
体を起こそうとする淳史を引き止める。何かに急かされているかのように、いつもの自制心が利かなかった。
「優生?」
「傍にいて」
もう一度その腕に抱き直されると、ほんの少しだけ安心した。
窺うように目を上げると、覗き込んでくる瞳とぶつかる。視線を結んでから、ゆっくりと瞼を閉じた。
キスを請う唇に気付いてくれたのか、“おやすみ”の代わりなのか、吐息がやさしく重ねられる。触れ合いたくて開く唇が、軽く躱された。
「いや」
「熱いな。また熱が上がってきたんじゃないのか?」
額を確かめる手が髪をかき上げるように撫でる。でも、今はそれだけでは足りなかった。
「抱いて」
あやすように抱きよせる腕はやさし過ぎて、優生の不安を拭ってくれない。
「窮屈じゃないのか?」
見当違いな心配にいてもたってもいられず、縋るように首筋へ抱きついたまま、淳史の唇を塞いだ。驚いて離れようとする淳史を必死に追いかける。
抱きしめて欲しいのではなくて、抱いてほしい。それをどう伝えたらいいのかわからず、淳史のカッターシャツの衿を引いた。
「優生?」
淳史のシャツのボタンを外してゆく優生に、淳史はひどく驚いた顔を見せた。どのみち、皺になったシャツのままでは仕事に行けないのだから、さっさと脱いでしまえばいいと思う。
「暫く禁止だと言われてるんだが」
諭そうとするような言い方に、ますます我慢ができなくなる。
「……あの医者が相手だったら良かったの?」
義貴のことを思い出すだけで、優生は震えてきそうなほど怖くなる。なのに、あの冷たい指が優生の肌を晒してゆくのも、触れることさえも、淳史には気にならなかったようだった。誰にも触らせるなと言ったのはつい昨日のことだというのに。
「いいわけないだろうが。でも、診察してもらう時には仕方がないだろう?」
「……ふうん」
優生のものになったのかと思うたびに、いつも淳史の大人ぶった態度に傷付いてしまう。理性の利かなくなるような存在には、まだなれないらしかった。
「俺は医者でも看護師でもないし、病気にも詳しくないからな。下心のある相手には指一本触れさせたくないが、医者が診察する分には我慢するしかないだろうが」
納得のいかない優生を、淳史は辛抱強く説得しようとしているようだった。素直にわかったとは言わない優生に、淳史が不穏な顔を向ける。
「優生?」
同意を求められても、優生は目を逸らしたまま答えなかった。口を開いたら、きっとまたひどいことを言ってしまう。
「優生」
大きな掌に包まれた肩が、静かにベッドへ押し付けられる。優生の頑なさに、先に折れたのは淳史だった。
「また熱が上がっても知らないからな?」
甘い言葉の代わりに、淳史が短く息を吐く。
望むところだと言う代わりに、優生は淳史の首へ腕を回した。




「……もっと」
うわ言のようにくり返す言葉にも、淳史はあまり気が乗らないようだった。熱を出した原因がわかっているだけに躊躇いの方が勝ってしまうのだろう。
「いや」
深く欲しがる優生に、淳史は困惑顔を向ける。こんなになってもまだ求めようとする優生の淫らさに呆れているのかもしれない。それでも、繋がっていないと不安で仕方なかった。しっかりと繋ぎ止めていてくれないと、誰かに優生を攫われてしまいそうな気がする。或いは、淳史が優生のものではないのだと思い知らされてしまいそうで。
「ん……ぁん……」
少しでも深く淳史を感じようと腰を浮かせる。抱え上げられた脚が苦しいほど胸を圧迫しても、少しでも深く淳史を感じたかった。
「あまり、無茶をするな」
窘めるような声に従う気にはどうしてもなれない。僅かでも優生のものだと実感するにはまだ足りなかった。
「や……淳史さん、も、っと……」
「まさか、変な副作用があるなんてことはないんだろうな……」
独り言のように呟く淳史の肩に、指を伸ばしてギュッと掴む。猛々しいくらいの方が、優生の中にある存在を強く感じることができるような気がして、必死に淳史の動きを追った。
「……き……あっ……ぁん、ああ」
何と口走ってしまいそうなのか、自分でもわからない。
「優生?」
「もっと……強く、して……」
優生のものにはならなくても、淳史のものでいたい。もう、誰にも奪われたくなかった。
「俺の理性をあまり過大評価するなよ」
低い声も、少し苦しげな息使いさえ、優生の官能を刺激する。
「ぁんっ、あん……」
もう何処を擦られても感じ過ぎてしまう。引き出されてしまわないように必死で絡みつき、少しでも長く優生の中に留めておこうと躍起になった。
「優生?」
心配げな声に首を振る。体調が悪かったことなど記憶の果てに飛んでいってしまうくらい、ただ淳史のことだけ感じていたかった。
「まだ、やだ」
とっくに、優生の体は限界を越えているはずなのに、もっとと望む気持ちが淳史を引き止める。
「今日は“いや”ばっかりだな」
呆れたような口調だったが、行為はひどく優しかった。
疲労はむしろ淳史の方が強いのだとは知らずに、ただ貪欲に求め続けて、満たされた途端に意識を手放すことになった。




結局、仕事を休ませてしまったのだと気付いたのは、夕方近くなって目を覚ました優生がまだ淳史の腕の中にいたからだ。
「あ……」
熱が引いて冷静になった頭は、とんでもないことをしてしまったことに軽いパニックを起こしていた。
「少しは落ち着いたか?」
やさしい声に、頬が熱くなっていくのを意識しながら、答える言葉がなくてただ頷いた。
「起きられるなら何か食うか?」
「ごめんなさい……また、お仕事を休ませてしまって」
「今日は行かないって言ってただろう? 気にしなくていい」
こうも頻繁に休んでばかりだと淳史の査定は相当厳しくなっているだろう。ほぼ全ての欠勤が自分のせいだと思うと少し気が重くなった。
「ちょっと留守番できるか?」
「うん」
「何か欲しいものか食えそうなものはあるか?」
「うん……ヨーグルトとか杏仁豆腐とか」
「固形物は無理か?」
コンビニの棚を思い浮かべてみるが、あまりそそられるものが思い浮かばない。
「強いて言えば、蒟蒻めんとか」
「それ以上痩せてどうするんだ……手巻きくらい食えないのか?」
「じゃ、ツナかエビで」
「わかった。すぐ帰るからおとなしくしてろよ」
「うん。いってらっしゃい」
すぐ近くのコンビニに行くだけなのに、キスをしてから出掛ける淳史のやさしさが少しくすぐったい。今に始まったことではなかったが、おおよそ、イメージとは違った甘い行為だった。
優生が寝ている間に行ってくるのではなく、起きるのを待ってくれていたことも嬉しかった。
あの綺麗な医師にあってから、優生はわけのわからない不安に駆られてしまっている。なぜだかわからないが、嫌な予感が背筋を走り、見つめられただけで体が震えた。もし淳史がいなかったら気を失っていたかもしれないとさえ思う。


30分足らずで淳史は戻ってきた。出掛けた時と同じように、唇に“ただいま”のキスをして隣に腰掛ける。
「起きられるようなら、向こうで食わないか?」
「うん、大丈夫だと思う」
無茶をしたのは優生の勝手で、だるいとか足元がふらつくとかは言いたくなかった。
「あ」
ベッドから床へと伸ばした足元の頼りなさに、淳史は気付いているらしかった。
「暴れるな」
毛布を掛けたまま膝の裏をすくわれて、脇の下に腕を通されると容易く体が浮き上がる。
「淳史さん」
声を尖らせる以外にテレを隠す方法が思いつかない。
先にソファに下ろされて、纏った毛布を直される。隣に腰掛けた淳史に、肩を抱きよせられて寄りかかった。今日は、自分自身にも淳史にも驚かされることばかりだ。

淳史の肩に凭れたままで食事を始めることになったが、渋好みの淳史にはコンビニ弁当など似合わなかった。早く元気になって、優生のするべきことをしなくてはいけないことを痛感する。
「そういえば、淳史さんも食事できなかったんだよね。ごめんなさい、俺につき合わせてしまって」
「いや、朝は食ったからな。仕事で10時間くらい飲まず食わずの日もあるから気にしなくていい」
「うん……」
きっと、そんなことはアクシデントに見舞われたような特別ツイてない日にしか起こり得ないのだろうが。
騒いだり甘えたりと不慣れなことばかりしでかしてしまったせいで、我に返るとどうにも落ち着かなかった。いつも淳史には強がってばかりいたのに。年齢ほど幼くないから傍にいられたのかもしれないのに。
「優生?」
黙ってしまった優生を、心配そうに見つめる。
「うん」
「義貴先生は苦手か?」
唐突な問いに、平気なフリはできなかった。どういう知り合いだか知らないが、本人のいない所でそれほどの気遣いは無用に思えて肯定する。
「……ちょっと」
「外科の先生にしては穏やかなタイプだと思うんだが。おまえがあんな風に露骨に態度に出すのは珍しいから驚いたな」
「義貴っていうのは名前なの? 名字じゃなくて?」
「ああ、まだ代替わりしてないからな、名字で呼ぶと院長のことを指すんだ。たいてい、若先生とか義貴先生とか呼ばれてるな。俊明の父親だってことは、気が付いていたんだろう?」
「うそ……全然、思いもしなかった……あんまり似てないよね……?」
「いや。似ているから嫌がったのかと思ってたんだが」
「ごめんなさい、本当はちゃんと見てなかったかも。なんか、あの人に触られるのも見られるのも嫌だったから……」
思い出してもドキリとする。あの優美で穏やかそうな仮面の下に、一体どんな本性を隠しているのだろう。優生は綺麗な顔は好みではないが、それでも気を抜くと攫われてしまいそうな不安に襲われる。それとも、そんな錯覚も単に体調の悪さゆえの思い込みだったのだろうか。
「他の男に対してもそうだといいんだが」
やさしく抱きよせる腕は、もう怒っているわけではなさそうだった。
そっと凭れかかる優生の髪へ唇をよせてくる。
こんな風にされるのが初めてではなく、むしろずっとそうだったことを不意に自覚した。ずっと、やさしく抱きしめてくれていたのに。どうしてあんなに不安でいっぱいだったのだろう。いつもちゃんと腕に閉じ込めてくれていたのに。
「……好き、かも」
「優生?」
聞き返そうとするかのように優生を見る淳史の顔を、まっすぐ見つめ返して言い直す。
「俺、淳史さんが好きなんだと思う」
唐突に口をついた言葉は、相当に淳史を驚かせたらしかった。
「……早く、“思う”がなくなるといいんだが」
言葉より嬉しそうに唇が触れる。キスのジャマになりそうで、“思う”は余計だったと言うのはやめた。






「疲れた……」
家へ帰るなり、二人してソファに崩れるように座り込んだ。思わず優生が洩らした言葉に、淳史はすぐに反論してくる。
「それはこっちの台詞だろうが。人一人くれって言うのが、こんなに大変で気を遣うことだとは思ってなかったぞ」
先延ばしになっていた優生の実家に行く話がやっと現実となり、昼食をとりながら挨拶を交わすという計画が一応滞りなく完了した。おかげで病み上がりの優生は疲労困憊してしまった気がする。
「淳史さんがどうしても会いたいって言ったんでしょ。俺だって好きで行ったわけじゃないんだからね」
優生と、両親や弟との複雑な関係を知っているはずの淳史は、今更のように同情的な顔を向けた。
「そうは言ってもケジメだからな。籍を抜いてもらうのに挨拶も無しというわけにはいかないだろうが」
「それは、そうだけど……も、二度と嫌だ」
「二度目はないぞ、離してやる気はないからな」
「……うん」
素直に嬉しいと思う自分に驚きながら、そっと淳史の肩へ頭を凭れ掛けさせる。抱き寄せられるまま、胸元へ身を預けた。
「その前に、まだ俺の親に会ってないのはわかってるよな?」
気を抜くと嫌な顔をしてしまいそうだった。本音を言えば、会わずに済ませられるものならそうしたい。
「……やっぱ、会わなきゃダメ?」
「そりゃ、挨拶くらいは行かないといけないだろうが。親同士で会うのをやめただけでも有難いと思えよ?」
本来なら親同士の挨拶もするべきだろうと言われていたが、双方の予定が合わずに先延ばしにされることになっていた。密かに、そのままうやむやになって欲しいと思っている。
「今度は俺が挨拶するんだよね……?」
優生の両親とは殆ど淳史が話し合ってくれたが、単なる養子縁組として紹介されるのではないのなら、優生が挨拶しないわけにはいかないのだろう。考えただけで憂鬱な気分になった。
「まだ未成年だからな、おまえはそう畏まらなくてもいいだろう。普通に顔見せしてくれるだけでいいと思ってるんだが」
もしも優生が女の子で、一般的な結婚をするというのならそれでもいいかもしれない。でも、優生とでは婚姻届を出すことも出来ず、子供を望むことも出来ないのに、認めてくれるとは到底思えなかった。優生の両親のように負い目でもあるのならともかく、大事な息子のパートナーとして歓迎することはできないだろう。
ふと、大切なことを忘れていたことを思い出す。
「そういえば、淳史さんって兄弟とかいるの?お母さんが再婚したとか言ってたけど、お父さんは?」
ずっと尋ねるのは憚られていたことを、思い切って聞いてみた。
「弟がいたんだが、事故で父親と一緒に亡くなってるんだ。母親の再婚相手との間にもいないな。そもそも一緒に住んだこともないし、親しくしてるわけでもないから、これからもつき合う必要はないと思うが」
「ふうん」
優生とは少し違うが、肉親との情が薄いというところは似ているかもしれない。
「ふつうの親なら反対するよね……?」
「歓迎はできなくても反対はしないと言ってたからな、そう心配することはないだろう」
確か、母親が再婚する時に反対しなかったから、淳史のことも黙認するように話してあると言っていた。歓迎できないということは、祝福されるはずもない。
「もし俺が女の子でも賛成してくれないかもしれないんだよね、年も離れてるし」
「まあ、おまえが俺の親ほどの年なら考え直せと言うかもしれないが、逆だから心配ないだろう。とりあえず、初対面の時くらいは優等生にしててくれ」
「わかった」
優等生を装うのは苦手ではない。騙すと思えば気も引けるが、処世術だと割り切ればいいのだろう。それで淳史と一緒にいられるのなら、罪悪感など爪の先ほども感じない。
「コーヒー淹れてくるね」
「そうだな」
あと少し、と自分を励ましながら立ち上がる。コーヒーを用意したら、少し淳史に寄りかかりたいと思った。


淡いチャコールグレーのマグカップを持ってリビングに戻る。淳史の前に置いて、隣に腰掛けた。
本当はすぐにも肩を貸してもらいたかったが、淳史が一服するのを待つ。その思いを察したかのように肩を引き寄せられて、淳史の胸元へ顔を伏せた。
安心すると張り詰めていた気が緩んでゆく。それと同時に睡魔が襲ってきた。疲れと心地良さで瞼が塞がってくる。
淳史が黙ったままなのを了解と取って眠気に身を任せることにした。
「優生?」
淳史の胸に凭れたままで微睡みかけた意識が呼び戻される。頬を包む手は、そのまま眠りに落ちてしまうことを許してくれなかった。
「……ん」
かろうじて答える唇を覆われる。すぐに中へ入ってくる舌に少し強引に探られても、夢見心地を妨げられることはなかった。
「寝るな」
低い声は聞こえているのに、脳には届かなかった。命令口調だということさえ、その心地の良さに聞き逃してしまいそうになる。
「あっ……」
肩を掴む強い手が、優生の体をソファへと押し倒した。重い瞼を上げると、思いのほか強い眼差しと合う。
「寝るのは後にしろ」
「いや……眠い」
「だめだ、起きてろ」
その強い口調のせいで、体を求められていることにすぐには気が付かなかった。
シャツの中に入ってきた手が肌に触れて、露にしようとする。眠気で体温の上がってきていた体を庇うように身を丸くしようとしたが、淳史にジャマをされてままならなかった。
「あっ、や」
捩る体を掌と唇に辿られて震えた。眠りかけていた体が覚醒し始める。
「また足りなくなったら困るからな」
それが、優生がすぐにサカリのついた雌猫のようになってしまうと言われているのだとは気付かずに、ただ、求められるままに肌を揺らして応える。
「優生」
ぼんやりと目を上げると、瞳の奥まで覗き込むような視線に射抜かれて逸らせなくなってしまう。
「俺の、だよな?」
いつになく淳史の声が弱気に響いた気がして、その言葉を強めに肯定する。
「淳史さんのものになりたいって言ったでしょ」
優生の両親に淳史を会わせた時の、困惑と否定的な空気に思わず優生は“俺、この人のものになりたいんです”と言ってしまっていた。泣き出しそうな母親と言葉を失くした父親から、もう反対の言葉は出てこなかった。
「その場を納めるためじゃなく、ちゃんと本気で言ったか?」
「それは、お互いさまでしょ」
思い出すと顔から火が吹きそうで何とか言い逃れしたかったのに、淳史は真剣な顔で追求してくる。
「俺はおまえの親に引かれない程度に控えめに言ったんだ。そんな生易しい思い入れだと思うなよ? 俺と一緒じゃなけりゃ外にも出さないし誰にも会わせないと言っただろう? もう自由にしてやる余裕もないくらいおまえに惚れてる。だからおまえも諦めて俺のことだけ思って待ってろ」
「……うん」
過剰な束縛をすると言われたにも係わらず、寧ろ、喜んで頷いてしまっていた。
淳史のことだけを想って待っているのは、もしかしたら究極の幸せなのかもしれない。






やっと体調が戻ってきた頃、淳史の友人とその恋人が訪れた。
一目見ただけで、あの端正で不穏な医師の血縁者だとわかる風貌の義之(義之)と、その恋人だという、女の子と見紛うばかりに可愛い里桜(りおう)と過ごした一時は、楽しかったというよりはひどく疲れてしまった。特に、義之は苦手なタイプのような気がする。義貴ほどではないが、見た目ほど優しくも穏やかでもなさそうだと直感的に感じた。
そして、ずいぶん淳史と親しげな里桜の態度は優生を不安にさせていた。義之や優生の前でも、平然と淳史の首に抱きついたりする所は見ていて気持ちの良いものではなく、何度顔が引きつりそうになったかしれない。その行為に深い意味がないからこそできることなのかもしれなかったが、少なくとも、優生はあんな風に馴れ馴れしく淳史に接することは一生ないだろうと思うと、余計に穏やかではいられなかった。
淳史の方も、言葉遣いこそきつかったが、里桜に対してやけに甘いように感じた。それは決して優生が卑屈になってしまっているからではなく、嘗て淳史が言っていた、子供には興味がないというような言葉を全て覆してしまいそうなくらいに里桜が幼くて可愛らしかったからだ。
良くも悪くも、里桜からセクシャルなものは感じられなかったが、だからといって安心することはできなかった。
突然の来訪は、ずいぶん頭が弱いらしい里桜の家庭教師を優生に依頼するのが目的だったらしいが、淳史の思惑にも適っていたらしかった。優生の外出を禁止したぶん、里桜と接触することで多少なりとも退屈しのぎになると思ったらしい。それが波乱を起こす要因にならないことを祈りながら、優生は二人を見送った。


やっと嵐が去ったことに、優生は無意識にホッと大きな息を吐いていた。
「悪かった、急なことで驚かしたな」
「ううん、ちょっと緊張したみたいで……続けて知らない人に会ったからかな」
尤もらしい言い訳を、無難な言葉を選んで口にする。
本当は、里桜が懐っこく淳史にまとわりつくのも、満更でもなさそうな表情で淳史が構うのも見ていたくなかった。この数日間で、やっと淳史と親密になれたような気がしていただけに、仲の良さそうな二人を目の当たりにして受けたダメージは大きい。
「なんて言うか、すごく懐っこい感じだよね」
なるべく嫌味に聞こえないように慎重なニュアンスで言ったが、無用の気遣いだったようだ。
「今でこそ懐いてくるようになったんだが、最初は凄かったんだぞ。特に俺みたいなゴツイのがダメだったらしくてな。わざわざ時間を作って会いに行ってやってるってのに、すぐに義之の影に隠れるし、目が合っただけでビクつかれるし、まともに話もできなかったんだ。気は悪いし慣れさせてやらなけりゃならないしでずいぶん骨が折れたな」
「ふうん」
どんな事情があったのかは知らないが、淳史は随分と世話を焼いていたのだろう。優生も面倒を見てもらったことがあるだけに、その甲斐甲斐しいまでの優しさを想像するのは難しくなかった。淳史は意外と面倒見が良いタイプだったのだと、割り切るしかないのだろう。優生だけが特別ではなかったのだと知ってしまった今となっては。
「面倒見れそうか?」
「引き受けた以上、見ないわけにはいかないでしょ。そんな無責任なことはしないから心配しないで」
「そう堅苦しく考えなくても、ムリだと思ったら断ってもいいぞ? 直接言いにくかったら俺に言えばいいからな」
「うん」
苦手意識はともかくとして、優生には持ち得ないその人懐こさには興味がある。それなりに優生が譲歩すれば、フレンドリーそうな里桜と仲良くなれるだろうと思った。






「気が散ってしまいそうなんで、場所変えていいですか?」
里桜を送ってきた義之と、興味津々といった表情の淳史を従えていては、とてもではないが勉強に集中させることなどできないと思った。
土曜だから仕事は休みなのだろうが(もしくは休みを勝ち取ったのだろうが)、父兄同伴での勉強会など聞いたことがない。
「初日くらいは見学したかったんだけどな」
義之の未練たらしい抗議に、里桜は素っ気ないほど冷たく返していた。
「参観日じゃないんだから、あっくんと一緒に出掛けてきたら? ゆいさん人見知りしそうだし、そんな囲まれたら、教えてもらうどころじゃなくなっちゃいそうだよ」
まさか、人見知りだと見抜かれているとは思っていなかったから驚いた。
「優生は人見知りじゃない、控えめなだけだ」
フォローとも抗議ともつかない淳史の言葉に、優生は首を振る。
「どっちでもいいから席外してくれない? それか、俺らが出た方がいいの?」
「それこそ保護者同伴になってしまうんじゃないのかな」
意味ありげな義之の言葉は、優生が軟禁状態だと知っているからなのだろうか。確かに、淳史が優生と里桜だけで外に出してくれるとは思えなかったが。
「しょうがないな、一時間くらい出てくるか?」
義之と相談し始めた淳史に、すかさず里桜が声を掛ける。
「俺、バウムクーヘンが食べたい」
「おまえ、何しに来たんだ?」
「大キライな勉強するんだもん、そのくらいのご褒美あるでしょ」
「いいよ、それで里桜がやる気になるんなら」
優生には身勝手な言い分のように思えたが、義之の対応は途轍もなく優しかった。まるで包み込むように穏やかに笑いかける姿は、恋人というより過保護な保護者のように見える。
淳史も似たようなことを感じたのか、呆れたような表情で二人を見ていた。
「甘やかし過ぎだ」
「甘やかしたのは淳史にも責任があるだろう?」
二人のやり取りを聞いていると、優生には貢ぎ甲斐がないと言われたことを思い出した。話から察するに、里桜は素直に喜んでいたのだろう。
「ゆいは?」
不意に名前を呼ばれて驚いた。そう言えば、初対面の時から義之は優生のことを呼び捨てにしていた。
「俺はいいです、甘いものは苦手なので」
「別に甘いものじゃなくてもいいぞ」
淳史の気遣いにも首を振る。
「ううん、俺はホントに何も」
だから、優生は可愛げが無いのだとわかっていても、特別な理由もなく何かをもらうのには抵抗があった。
「しょうがないな、適当に選んでくるか。ちゃんと勉強しておけよ?」
「は−い」
大げさなくらい良い子の返事を返す里桜を、淳史から引き離すように義之が腕に抱く。見ている方がテレてしまいそうなくらい激しい抱擁が始まった。
「優生」
他人事ではなかったらしく、呼ばれて何気なく顔を上げると淳史に唇を塞がれた。こちらは“いってきます”のキスらしい。大人なはずの二人の人目を憚らぬ行為に面食らってしまった。
まるで遠距離恋愛中の恋人同士のように派手に名残を惜しんだあと、余計なギャラリーは出掛けていった。

勉強に入るために里桜に声をかけようとして、少し悩んでしまう。
「えっと、何て呼んだらいいかな?」
「里桜で構わないけど……俺、年下だし呼び捨てで」
「わかった。じゃ、里桜? そろそろ本題に入ろうか? 早く始めないと追い出した意味が無くなってしまいそうだし」
心配性な二人の保護者は、予定の時間より早く帰ってきそうな気がする。
「え、もう今日から勉強するの?」
「勉強するから、邪魔な二人に出て行って貰ったんだろう?」
「ううん。ゆいさん、義くんのこと苦手そうだし、ギャラリーが居たら緊張するのかなと思ったから」
「……ごめん、気を遣わせたんだ?」
「ううん。俺も他人と接するのが嫌になったことあるから、慣れるまでしんどいのわかるし」
優生が思っていたほど、里桜は幼くなかったようだ。可愛いだけの愛玩動物のような印象を持っていたことを申し訳なく思った。


「ゆいさんて睫毛長いよねー」
まじまじと見つめられるのは居心地が悪い。まして、相手が女の子と見紛うほどに可愛い里桜なら尚更だった。
「……そっちも充分長いと思うけど?」
「色も白いし」
「だから、お互いさまだろう? 本当に勉強する気あるの?」
見た目ほど幼くないと思ったのは、やはり勘違いだったらしい。 家庭教師をして欲しいと言われたから受けたにも係わらず、里桜からは勉強する気などちっとも感じられない。引き受けた手前、予定通りに進まないと優生の方が焦ってしまう。
「試験前でいいかなあとか思ってるんだけど? それより、俺は他に男の人とつき合ってる友達とかいなくて。勉強より、そっちの方を教えてもらいたいんだけどな」
可愛く小首を傾げられても、甘やかそうなんて気にはなれなかった。女の子に惹かれたことのない優生には、性別を聞くまで男かもしれないと疑いもしなかったような里桜の必殺技は通じない。
「あのねえ……」
当初の話とは違う、里桜の要望に盛大にため息を吐いてしまった。
「ゆいさんは他にいるの? 話できる人」
「まあ、話を聞いてくれる相手はいるけど……俺も男とつき合う友達はいないよ」
知り合いなら、若干できたような気がしないでもないが。
「友達にはできない話もあるでしょ? 中で出された時どうしてる、とか」
「なっ……」
優生がそういう話が苦手だというより、まさか里桜の口からそんな話題が出るとは思わなかったことに絶句してしまった。幼い容姿の里桜より、よっぽど顔を赤くしてうろたえてしまっている自覚がある。
「あっくんは、いつもゴム使う人?」
「……そういう話を他所ですると怒られると思うんだけど」
「他所じゃないでしょ」
突っ込む所が違う、と言い返す気力もない。見た目から想像していたのと里桜はかなりギャップがありそうだった。
「……俺の最初の相手は、こっちの都合とか一切構ってくれない人で初めての時にひどい目に遭ったから、すぐに出すようにしてるけど」
「ひどい目って、あの、暴力とか、そういうこと……?」
里桜は、まるで自分の身に降りかかってきたかのような痛ましい表情で優生を見た。そんな同情的な顔をされるようなことではなく、気を抜くと相手を過剰に警戒してしまう後遺症以外に困ることは特にない。
「中で出された時どうしてる、に答えたつもりだったんだけど……俺はそういうの知らなくて、放ったらかしにしてたから」
「そういえば、前に義くんに大変なことになるらしいって言われたことあるかも。どう大変なの?」
何と答えたら衝撃が小さいだろうか、と考える。見た目よりかなりあっけらかんとした里桜にはそれほど気を遣わなくても大丈夫だろうか。
「下剤みたいな感じかな」
「え……?」
「奥の方にいっぱい出されたら、結構短い時間でシャレにならない事態になるよ」
「げ……」
顔に似合わぬ悲鳴のような声が上がる。思っていた以上に里桜はショックを受けているらしかった。やはり、もう少し表現に気を遣うべきだったのかもしれない。
「それで早く出した方がいいって言ったんだ……それなら中で出さないでくれたらいいのにねえ?」
つい先日、中で出してくれと言ったも同然の優生としては答えに詰まってしまう。

「……あっくんて、おっきいんでしょ?」
唐突な問いに、何でもない顔をすることはできなかった。何の話かわからないととぼけるには、優生は自分でもわかるくらいに頬を熱くしてしまっていた。
何でそんなことを知っているのかと疑問に思う間もなく、里桜が心配げな顔で優生を覗き込む。
「ゆいさん、そんな細いのに大丈夫? なんか、壊れちゃいそうな感じ」
まさしく壊れかけて寝込んだばかりの優生は、すぐにはそんなことないとは答えられなかった。
「自分だって細いし小さいんだから、想像できるだろ」
「ゆいさんの方が細いって。あっくんと並んだら、ホント美女と野獣って感じだよ」
「淳史さんは野獣みたいじゃないよ、すごく優しいし」
思わず庇ってしまったのは、里桜が淳史を悪く言ったのかと思ったからだ。ひどく怒らせてしまった時でも乱暴に扱われたことはなかった。先だって寝込むことになったのも、優生が逆ギレして挑発したせいだ。
「うん。あっくんて優しいよね。やっぱり、する時にもそうなの?」
矢継ぎ早のあまりに率直過ぎる質問に優生は絶句してしまった。
「でも、俺にはさんざん子供っぽいとか男はムリとか言ってただけに、ちょっとビックリしたかも。ゆいさんと俺、そんなに違うのかな?」
「え……」
聞き間違いでなければ、里桜は淳史に思われたいということだろうか。
「そりゃ、ゆいさんの方が大人っぽいし美人だけど、あっくんの言ってたイメージとは違う気がするんだけどな」
「何て言ってた?」
「大人の、グラマーなお姉さんがいいって。俺みたいな色気のない子供には興味ないって」
「俺も同じことを言われてたよ」
「え? じゃ、興味ないってウソだったってこと?」
興味津々、と言った風な目を向けられると、さっきの心配が勘違いに思えてくる。
「そういうんじゃなくて、俺が前につき合ってた人と淳史さんが仲良かったから、別れることになった時に心配してくれただけだよ」
「でも、つき合ってるんでしょ。どっちが口説いたの?」
「俺じゃないよ」
「ってことは、あっくんの方なんだ? あっくんってどんな風に口説くの?」
また、里桜の瞳がキラキラと輝く。本当に、見た目にそぐわない野次馬ぶりだと思う。
「別に、口説かれたわけじゃないよ」
「え、だって、それじゃ、どうしてつき合うことになったの?」
何も知らないらしい里桜に説明するのは難しい。それに、あまり詳しく話して淳史の気を悪くさせてしまうのも怖かった。
「俺が行く所がないのをわかってくれてて、家に置いてくれたからかな」
「え、いきなり同棲なの?」
「同棲じゃなくて、居候だけど」
「居候? え、でも、籍入れたって言ってたのに」
「厳密に言うと親子になったんだよ、養子縁組したんだから」
「え? え? ゆいさん、あっくんと恋人なんじゃないの?」
訳がわからない、と言いたげにハテナマークを飛ばす里桜に理解できるように説明するのは難しい。面倒なので放っておこうかと思ってしまった。
沈黙が苦痛になる前に、玄関でドアの開く音が聞こえてきた。淳史と義之が帰ってきたようだった。
「あ、戻ったみたいだ」
できれば、里桜をリビングに待たせたままで出迎えに行きたかったが、一緒に立ち上がられてしまう。義之も一緒なのだから止めるわけにもいかなかった。
「おかえりなさい」
里桜が一緒にいるせいで、いつもの出迎えはできず、小さく声をかける。
「子守は上手くいってるか?」
最悪だよ、と言うわけにもいかず曖昧な顔で返す。出掛ける時と違って、里桜と義之の再会もずいぶん素っ気無さそうだった。
淳史の腕を取りそうな勢いで里桜が淳史の傍へ来る。部屋へ戻る間も待てないらしく、里桜の好奇心が真っ直ぐに淳史に向かう。
「あっくん、ゆいさんと恋人なんじゃないの?」
まさか、いきなりそんな直球で尋ねるとは思いもしなかったから、咄嗟に言い訳をする暇もなかった。淳史も、眉を顰めて里桜を見つめ返している。
「何の話だ? 勉強してたんじゃなかったのか?」
「社会勉強だもん。ねえ、ゆいさんと親子だって本当?」
「またそんなことを言ってるのか?」
俄かに漂う不穏な空気は、どうやら優生に向けられたらしい。
「客観的な事実を言っただけだよ、しつこく聞いてくるから」
優生の答えは淳史を怒らせてしまったらしく、不意に腕を取られて引きよせられた。思わず身を竦ませた優生の唇が塞がれる。
「やっ……」
抗おうにも、大きな手に後頭部を抱きよせられると首を振ることさえままならなかった。あまり機嫌の良くない時の淳史のクセのような、少しきつめに舌ばかり求められる息苦しいキスを振り切ることなどできるわけもない。
「……子供とこんなキスをするのか?」
どちらに向けられたともいえない言葉に、優生はただ俯いた。そんなことはわかっている。ただ、まだ知り合ったばかりの里桜に踏み込んだ質問をされて、まともに答えるのに抵抗があっただけだった。
やや声のテンションを落とした里桜が、それでも質問を続ける。
「ねえねえ、じゃ、あっくんは何て言ってゆいさんを口説いたの?」
「おまえに言う必要はないだろうが」
「だって、ゆいさんは同棲じゃなくて居候だとか恋人じゃなくて親子だとか言ってたよ? あっくん、本当に両思いなの?」
どうして、この可愛い悪魔はこんなにも淳史をキレさせるのが上手いのだろう。
「優生?」
低められた声に背筋が震える。抑えてはいても、吹き出しそうな怒りを痛いほどに感じた。
里桜には悪いと思ったが、仕方なく弁明しておくことにした。
「淳史さんは親しいんだろうけど、俺は知り合ったばかりだよ? 勉強を見るとは言ったけど、そんなプライベートなことまでいちいちまともに答えないといけないの?」
「乗り気じゃなかったのかもしれないが、そんな言い方はないだろうが」
里桜を気遣うような淳史の言葉に、形だけでも謝罪をしようと思ったが、里桜に先を越されてしまう。
「ごめんなさい。俺、いきなり厚かましかったかも」
素直に頭を下げる里桜に、優生はすっかり悪者になってしまったような気がする。
「こっちこそ、ごめん。でも、もう俺にはそういう話はしないでくれないかな? 聞きたいことがあったら、淳史さんに直接聞いて」
その場を離れようとした優生の腕を、察したように淳史が掴む。これ以上、説教は聞きたくなかった。
「淳史さん、も、交代して? ちょっと休憩したい」
「疲れたのか?」
こんな時こそ、病み上がりを強調するべきなのかもしれない。
「うん。なんかだるいし、熱っぽくて。悪いけど、淳史さんがコーヒー淹れてあげて?」
「薬が切れたからか?」
額へと伸びてくる掌に軽く目を閉じる。これだけ神経を遣えば、優生の体温が1度くらい上がっていてもおかしくはなかった。
「ちょっと熱いな」
思った通り、微熱くらいは出ているようだ。
「横になってていい?」
淳史の目を下から覗き込むように見つめて表情を窺う。つい、甘えるような口調になっていた。
「しょうがないな」
肩を抱く腕に、小さく首を振って辞退した。一人でも挨拶をして寝室に行くくらいできる。
「ごめんなさい。俺、風邪が治りきってないみたいで熱っぽくて。ちょっと休ませてもらいます」
心配顔の里桜と、ずっと無言のままの義之に頭を下げる。
そっと淳史の腕から抜け出して寝室に向かった。里桜は気を悪くしたかもしれないが、後は保護者二人が機嫌を取ってくれるだろう。これ以上、その可愛い姿をした小さな悪魔に打ちのめされないうちに意識を切り離そうと思った。

寝室へ避難するとホッとした。
懐こそうな里桜と親しくするのは難しくないだろうと思っていたが、あのテンションに合わせるのは困難かもしれない。まさか、あんな風に淳史とのことを聞きたがるとは思ってもみなかった。確かに深い話をする相手に困るというのは事実だろうが、相手が里桜だからというだけでなく、優生には荷が重い。
軽く首を振って、もう考えるのはやめた。遮光カーテンを引いて、ベッドに横になる。目を塞ぐように腕を上げた。視界が暗くなると安心するのは何故なのだろう。
熱っぽい体に何か被らなければいけないと思ったが、もう体の下に敷いてしまった掛け布団や毛布を抜くのは億劫だった。
鈍くなる意識の中で、腕が枕を探してしまう。仕方なく、本来の枕を抱きよせる。淳史の匂いのするそれは、少しだけ優生の気を落ち着かせてくれるようだった。




淳史がノックなどするわけがないとわかっているのに、なぜか疑いもしなかった。
額に触れる手の感触も、ベッドを覗き込む気配も、後から思えば淳史とは似ていなかったのに、思わず手を伸ばしてその腕に縋ってしまった。
「本当に熱が上がってきてるようだね、淳史を呼んだ方がいいかな?」
その優しい声の記憶を探る。ぼんやりとした意識が辿り着いたのは、優しいというだけの共通項だったのかもしれない。
「いや」
思わず両腕を上げてその体を抱き寄せてしまっていた。少々物足りなく感じても、枕はないよりはあった方がいい。
優しい掌が髪を撫でていた。淳史のとは違う、繊細なほどに軽い指が髪に絡む。

優しい仕草に意識が沈みそうになった時、またドアの開く音に邪魔をされた。
「優生?」
不意に耳が捉えた声が、優生のすぐ傍から発せられたものではないことの意味に気付いて、今度こそハッキリと覚醒した。
「何をしてるんだ」
淳史の怒声に身を離しても遅かった。
「心配するようなことは何もしてないよ?」
落ち着いた声で返すその人の腰に、さっきまでしがみついていたことを認識して、ますます焦ってしまう。
「どんな理由があったとしても、優生に触るな」
「考え過ぎだよ、熱を診ていただけだからね」
「余計なことをしなくていい」
義之を押し退けるようにして、淳史は優生の傍までやってきた。さっきまで他の男にしがみついていた体を、強い力でその胸へ奪い取る。
「ごめんなさい、俺、寝惚けてたみたいで……」
どちらにともなく呟いた言い訳は、淳史の怒りを加速させたらしかった。
「あっ……」
痛いほどに掴まれた肩が乱暴な動作でベッドへ倒される。義之を意識して抗おうとする体が、体重をかけて押さえ込まれてゆく。
「いや」
「俊明だと思ったんじゃないのか?」
低めた声で問われた疑惑は自覚のなかったもので、咄嗟に優生は否定できなかった。認めたも同然の反応に、淳史はますます表情を険しくする。
「あっ……」
不意に股間に触れられて身が竦んだ。淳史の意図がわからずに、その手を拒もうと膝を立てる。少し乱暴に膝を割ろうとする手を外そうと暴れた。
「おとなしくしてろ」
「いや」
泣きそうに声を上げる優生の唇が強引に塞がれる。義之の気配が寝室からは居なくなったからといって、おとなしく身を任せる気にはなれなかった。
「や」
大きな手に顎を掴まれて、首を振ることさえままならない。突っ張ろうとする腕も、厚い胸板に阻まれて何の役にも立たなかった。
「……っん」
顎を固定されたまま貪られるキスに頭の芯がぼやけてくる。
わき腹のあたりに直に淳史の掌を感じるのは、シャツの裾が捲り上げられているからだった。
肉の薄い腹を辿って、明確な意思を持った指が一点で止まる。尖ってゆく先端を指の腹で挟まれて、つぶされるように擦られると神経が全てそちらにいってしまう。
「あ……ん」
手元を隠すジャマな生地を、淳史はもどかしげに抜き去った。それ以上のことは阻止しなければと思うのに、体は優生の言うことを聞いてくれず、淳史の手のくれる感覚を追うことしかできない。熱を帯びた体を更に追い上げようとする淳史を拒むのはもう無理だった。
「……は、あ」
晒された肌を辿ってゆく唇にきつく吸われるたびに、過剰なほどに体が反応する。ずっと不安で仕方なかった優生が欲しがっていたものが、そんな風に強く求められることだと淳史は知っているのかもしれない。
「ま、って」
体の方はともかく、ささやかな理性がこの状況の不適切さを訴える。少なくとも、来客中にするような行為ではないことは間違いなかった。
「お客さん、は?」
「放っておけば帰るだろう」
「そんな、勝手な……」
「もう黙ってろ」
何かに追い立てられるように忙しない手に、着ているものがすっかり奪われてゆく。抗うほどに淳史をムキにさせてしまうらしく、手荒なほどに優生の体を開かせようとする。
「え」
優生の抵抗を軽くいなして体を裏返された理由は考えるまでもなかった。背後に聞こえる衣擦れの音に本気で怯えてしまう。
「いや」
優生が後背位を嫌がることを知っているはずなのに、敢えてその体位に持ち込もうとする淳史が信じられない。
「あまり暴れたら優しくできないかもしれないぞ」
脅迫めいた言葉に翻そうとした体が止まる。優生が望まない限り、淳史が乱暴なことをするはずがないと知っているのに、癒えたばかりの体はまだ痛みを忘れていなかった。
「ぁ……っん」
おとなしく抵抗を諦めた優生の中へ、淳史は慎重に身を沈めてきた。優しく扱われているとわかっていても、より深い所まで入ってこようとするのを止めたくて、つい体に力が籠ってしまう。
「優生、それじゃ入れられない」
「いや」
「ダメだ」
高く掲げられた腰がひどく恥ずかしい。伏せた顔の下に置いた指を噛むことで、堪え切れない声を少しでも抑えたかった。
リビングとの壁は特に厚いわけでなく、いくら押し倒される瞬間を義之に見られているとはいえ、決定的な事態を自ら暴露するようなことはしたくない。それが淳史の気に障ると思う余裕はなかった。
「ぃ……あ、ああっ」
深く、所有を刻み付けるかのように強く突き上げられると、唇と指の隙間から声が洩れてしまう。
そんな大人げない意地悪をしなくても、優生が淳史のものだということは、本人たち以上に客人たちも理解していたのだったが。




濡れた目元に唇が触れる。
余計に泣いてしまいそうな優生を抱き直す腕こそが、束縛するための鎖なのかもしれない。
「起きられるか?」
どんなに優しく尋ねられても、頷くことはできなかった。
どんな顔をして出ていけばいいのかわからない。
「おまえが気にするほど何も思ってないと思うが」
気にしているのは相手の反応ではなく、強引だったとはいえ来客中にこんなことをしてしまった自分の節操の無さだ。
気まずい思いでリビングに戻ると、二人はもういなかった。気を遣ったのか、耐え難かったのか、冷凍室にアイスを残して義之と里桜は帰ってしまったらしい。
カウンターに凭れかかるようにして電話をかける淳史の言葉を聞くともなく耳に入れながら、だるい体をソファに投げ出すように座った。
電話の相手に軽口をたたく淳史が、少し憎らしく思えてくる。相手に対しても、淳史は僅かも悪かったとは思っていないようだった。優生が思っていた以上に、淳史は人目など気にしないタイプなのかもしれない。或いは、相手の方にもそんな気遣いは不要なのかもしれなかった。
淳史と相手はともかく、優生は次に会う時のことを思うと気が重かった。引き受けた以上、二度と会わないというわけにはいかないのだから。
「優生」
憂鬱な原因を作った張本人が、電話を終えて優生の方に近付いてきた。隣に腰を下ろすのとほぼ同時に優生の肩を抱く。胸元へ引き寄せるのは優生の体を気遣ってのことだろうが、それくらいなら二人きりになるまで待って欲しかったと思った。




「大丈夫か?」
口をきかない優生を、淳史は心配げに覗き込んできた。頬に伸びてくる手に上向かされて、目を逸らすのを躊躇う。
「ちょっと……疲れたかも」
「無理をさせたからな、もう少し薬をもらっておくか?」
「いや」
あの不遜な医師のことなど、思い出したくもなかった。もう一度診察を受けて、またあの得体の知れない不安に苛まれるくらいなら体が辛いままの方がよっぽどマシだ。
「優生?」
「大丈夫だから誰も呼ばないで」
優生の言いたかったことは、正しく伝わらなかったらしい。
「里桜とは合わないか?」
「そっちじゃなくて……断っていいの?」
「じゃ、義之か?」
「そのお父さんの方」
「ああ、医者の話か。診察が嫌なら処方箋だけ書いてもらえばいいだろうが。でも、具合が悪いんなら診てもらわないとな?」
「ううん、大丈夫だから診察は嫌だ」
「……おまえ、医者になんかされたことでもあるのか?」
「ううん。お医者さんじゃなくて、あの人が嫌」
「初対面じゃなかったのか?」
訝しげな淳史に、どう説明したらいいのかわからなかった。
強いて言うなら本能的な問題で、生理的に逃げ出したくなるというか、嫌な予感がするというか、ともかく係わり合わないようにしなければという強迫観念のようなものだしか言いようがないのだった。
「……第一印象が悪かったのかな、俺は二度と会いたくない」
「そうは言っても俺は世話になってるからな……まあ、おまえには関係ないことかもしれないが」
「お仕事?」
「それもあるが」
旧友の俊明の父親で、時間外に往診に来てくれるということは、個人的なつき合いがあるということなのだろう。
「もし会うことがあったら気を付けるけど、もう俺のためには呼ばないで?」
「おまえにそこまで嫌う相手がいるとは驚きだな」
「そうかな」
確かに、人に対してあまり強い感情を抱かないようにしてきた優生には珍しいことだったかもしれない。
ただ、自分でも理解しきれない感情を尋ねられたら面倒だと思い敢えて言い直さなかったが、嫌いというのとも少し違うような気がする。

「優生」
呼ばれるのと同時に、強い力で手を引き寄せられた。掌を開かせるように絡んだ指が、人差し指を押し上げる。
「切れてるぞ」
見ると、第二関節から甲にかけてところどころ皮がめくれて、滲んだ血が乾いてこびりついたようになっていた。
「あ、うん」
声を殺そうとして噛んだ時の傷だとわかっている優生は驚きもしなかったが、淳史には自分のせいだということは理解できないらしい。
「暢気な顔をして……痛まないのか?」
「うん。一応、洗ってくるね」
立ち上がろうとした体が抱き止められて、掴まれた手を淳史の口元へ持っていかれる。
「やっ……」
傷口を舐めた舌の感覚がひどくいやらしい気がして、思わず声を上げてしまった。
優生の声など気にも止めてくれず、淳史は指を唇に挟んだままで何度も傷に舌先を這わせた。
「や……いや」
縛られたように身動きできなくなる優生の意識が遠くなりかけた頃、漸く淳史は唇を離してくれた。
「指を舐めただけで感じるのか?」
意地悪というよりは、驚いたような言い方だった。
「だって……」
「そういや、M体質なんだったな」
「なっ……何で? そんなことない」
「自覚はないのか」
優生の否定を軽く却下して、淳史は勝手に納得してしまったようだった。少し意地悪げな笑い方が気に障る。
「そういう要求に応えられる自信はないが」
「そんな欲求ないから」
「おまえに合わせるのは大変だな」
「だから、そんなの求めてないから!」
「しなくていいのか?」
一瞬、何を尋ねられたのかわからなかった。
「え……なっ、何言ってるの、さっき、したばっかでしょ」
真っ赤になって否定する優生に、淳史が苦笑する。
足りないと言って以来、淳史の心配は過剰になってしまったと思う。確かに、他の男と絡む度にサカっていたと言われたら、確かめずにはいられないのかもしれなかったが。
「それなら、次は腹を満足させないといけないな」
この所ずっと、優生の体調を気遣ってくれていたために家事は免除されていたが、そろそろ復帰しないといけない頃だった。
「ごめんなさい、最近サボってばっかりで」
「体調が戻ってからでいい。外に出るか?」
暫く家に籠りっきりだったせいか、出掛けるのはひどく億劫に思えた。それに、まだ空腹感もあまり感じない。
「ごめんなさい、俺は欲しくないから淳史さんだけで行ってきて?」
「食えないんなら病院だな」
にべもなく言い切られて慌てた。
「大げさだよ、俺は元々あんまり食欲旺盛な方じゃないんだ」
「だからすぐに体調を崩すんだ。病院で食欲の出る薬でも出してもらえ」
有無を言わさない口調に、大きく息を吐いて体を起こした。
「……何か作るから買い出しに行っていい?」
「優生?」
「どっちみち外に出るんなら、買い出ししてご飯作ればいいんでしょ」
「そんな無理しなくていい」
「じゃ、食べろとか病院行くとか言わないで? その方がよっぽどムリしないといけないから」
「おまえ、本当に元からそんなに食わなかったのか? じいさんに何も言われなかったのか?」
「小さい頃はムリに食べさせられて、よく戻したり胃を壊したりしたよ。そのうち、おじいさんの方が根負けしてあまり言われなくなったけど、精神的な後遺症なのかな、食べろって言われると余計にダメみたい」
ショックを受けたような顔をしている淳史に、少し言い過ぎたかと思ったが、嘘ではなかった。
「……わかった、じゃ薬をもらってくるからおまえは休んでろ」
「本当に大丈夫だから気にしないで」
「だめだ。連れて行かれるのが嫌ならおとなしく寝てろ」
そっと腕を外されて、ソファへと押さえ込まれる。
優生の傍を離れた淳史は、わざわざ寝室から毛布を持ってきてくれた。どうやら、寝室ではなくソファで待っていろということらしい。
顔にかかった髪を大きな手が払って、そのまま頬を包む。瞼を閉じるのを待っていたように唇が触れた。
「ゆっくりしてればいいからな?」
念を押すように囁かれて、優生は見送りに出ることもせず淳史が掛けてくれた毛布にくるまった。




頬を撫でる手の優しさに意識が引き寄せられた。部屋が薄暗いのは夕方近くなっているのだろうか。
「……おかえり」
優生の顔に触れたままの手に、そっと指を伸ばす。近付く顔が短く唇を啄んだ。
「ただいま」
「俺、寝過ぎた?」
「いや、疲れてたんだろう。無理に起きなくていいからな?」
「うん」
ゆっくりと体の向きを変えて、体を起こしてみる。もう頭痛も熱っぽさも感じなかった。
「ごはん、食べたの?」
「ああ、おまえは? 何か食べられそうか?」
「そんな気はするけど」
「気分の問題なのか?」
不思議そうに見つめられて、優生は変わっているのは自分の方だったことを思い出した。
「なんか、食べられそうにないと思うと受け付けなくなるみたいなんだ」
「それなら、いつも食べられると暗示でもかけておかないとな」
それが効いたのかどうかはわからないが、淳史に見守られながらの食事は無事に完食することができた。
片付けもさせてもらえないまま、優生はまたソファに深く身を預けるように凭れかけさせられた。このところの優生は一日の大半をソファかベッドのどちらかで過ごしているような気がする。
「眠かったら寝てろよ? 薬に眠くなる成分が入ってるようだからな」
「うん」
さっき飲んだばかりの薬はまだ効き始めていなかった。それに、何もせずに寝てばかりいる優生の体が睡眠を要求しているとは思えない。それでも、これ以上淳史の手を煩わせるのは躊躇われて、ソファでおとなしくしていることにした。
ぼんやりと毛布にくるまったまま、淳史の方を窺う。少し離れたパソコンの前に座った淳史は、何やら難しい顔をしてブラウザを睨んでいた。尋ねるまでもなく、仕事のことなのだろう。
ジャマにならないように、優生は音を消してメールを打つことにした。まだ、軟禁状態になっていることを勇士に知らせていなかった。
『当分会えそうにないかも』
簡潔な一言に、勇士から返信があったのは10分ほど経ってからだった。
『工藤さんに止められてるのか? バイト中だから続きは9時以降な』
時計を見ると、あと半時間以上あった。とりあえず、その返信だけして待つことにした。
『一時的なものだと思うけど、一人では外出禁止だって。学校にも行ってないよ』
こういうのは告げ口になるのだろうか。辟易するほど優生とのことを聞かれたらしい淳史は、おそらく勇士に対して好意的な感情は持っていないはずだった。

ぼんやりと思考を巡らせているうちに、時間が経っていたらしい。
音もバイブも止めた携帯のサブディスプレイが光ったことに気付いて目をやると、勇士のアドレスが表示されていた。
『また何かやらかしたのか?』
『約束破ったかも』
『まさか、俺のことじゃないよな?』
『勇士のことじゃなくて、なんか、俺は人間として情緒に欠陥があるみたいで』
『意味不明なことを言うな。喜怒哀楽が乏しいってことか?』
『モラルがないっていうか、節操が無いっていうか』
『浮気でもしたのか?』
強い動揺に思わず手が止まった。軽く返せばいいのに、上手く言葉が見つけられず、何度も打ち直す。
『すると思われてるかも。気が済むまで籠ってることにした』
何とか返信して携帯を閉じた手元に、大きな影が落ちた。
「優生?」
メールを打つのに集中していたせいで、すぐ傍に来られるまで淳史の存在に気が付かなかった。
「あ、うん?」
携帯を手にしたままで淳史を見上げる。
「ずいぶん熱心だな」
「ううん、勇士に暫く会えないって話してただけだよ」
「理由を聞かれただろう?」
迷ったが、無難な言葉で濁しておくことにした。
受信を知らせるライトが点いたことに、先に気付いたのは淳史だった。
「返事、きたんじゃないのか?」
「うん」
まるでこちらの気配を察したように、勇士の返信は“了解”の一言だった。ひとまず、メールを中断しても問題はなさそうだった。
「俺がいなくても守れるんだろうな?」
淳史には言っていないが、以前にも勇士の家に行ってはいけないという約束を破ってしまったことがある。それも一度や二度ではなかった。そう考えると、確かに優生のモラルは著しく欠けていたのかもしれない。
「淳史さんと一緒の時以外、一歩も外に出てないでしょ?」
「本当に信じていいんだな?」
念を押す淳史の疑り深さにちょっと困ってしまう。そんな風にさせてしまったのは優生のせいだとわかっていても。
「信じるも何も、出られないでしょ? 俺、縛られるのもヘンなプレイされるのも嫌だから」
「縛るはともかく、変なプレイって何だ?」
「ベッドに縛り付けられたらトイレにも行けないでしょ」
「そんな心配しなくても、俺にはそんな知識も技術もないぞ」
「……じゃ、しない?」
「しないと言ったら安心して抜け出すつもりか?」
「そんなことないけど……脅迫だよ、淳史さんがやってるのは」
「おまえを他の男に取られたくないからな」
「誰も取らないよ、淳史さんは俺を過大評価し過ぎてる」
「おまえの危機意識が薄過ぎるんだ」
それは、簡単に他の男に許してしまうということだろうか。
「ごめんなさい、もうそんなことはないから」
「最初の男にはなれないんだからな、最後の男でいさせろよ?」
「……“さら”が良かったの?」
「そういうわけじゃないが……俺以上におまえのことを知っている奴がいるというのはいい気がしないからな」
そういうのも独占欲なのだろうか。そう思うと、言葉は自然に出てきた。
「ごめんなさい」
「悪いと思ったら、もう誰にも触らせるな。見せるのも駄目だ」
だから、他の男の気配の残る優生を必ず抱いたのかもしれない。
「……俺だけなの?」
思わず尋ねてしまった言葉に、驚いたように見つめられて、失言だったことに気が付いた。
「ごめんなさい、今の聞かなかったことにして」
「そうだな、今更そんなことを言われるとは思ってなかったな」
優生を抱きよせようと伸ばされた腕に体が震えた。厚かましいことを言ってしまった自覚が体を熱くさせる。
「おまえが他の男に会いに行ったり浮気したりしていた間も、俺はおまえ以外の誰にも触れたことさえないんだからな」
冷たいほどに嫌味な言葉に胸が痛くなる。短い期間に淳史を裏切るような行為を何度もしてしまったことを責められたのだと思った。
すっかり腕に抱き取られた体を強く抱きしめられて、優生は自分の思い違いを知らされた。
「言われるまでもなく、俺はおまえのものだろうが」
「……ウソ」
あまりにも突拍子もない言葉は、俄かには信じられなかった。
「嘘じゃない、俺の方がよっぽど一途だと思うぞ」
一途という言葉がこれほど似合わない人物もいないのではないかと思ってしまったが、結果的にその言葉は真実だった。
「ごめんなさい、そうだよね」
「だから、おまえも勝手に他の男に触らせるな」
「うん」
それでも、まだ優生は素直に信じ切ってしまうことは出来ずにいた。優生は誰かの所有物になったことしかなく、逆は初めてだったからだ。
慣れない言葉はいっそ不安で、それを隠すように淳史の背をギュッと抱きしめた。




そっと、抜け出そうとした体に回された腕に力が籠められる。
こわごわ淳史の顔を窺うと、いつから起きていたのか、きつい双眸は優生を捕らえていた。
「まだ早いだろう?」
「……朝ごはん、作ろうかと思ったんだけど」
「無理しなくていい」
心配というより怒ったような淳史の表情に怯んでしまう。なんとか、もう元気になっていることをアピールしようと思った。
「もう大丈夫だから心配しないで。ずっとゆっくりさせてもらってたし、そろそろ動かないと」
大きな掌が、優生の視界を遮って額を確かめる。淳史の手の方が熱いくらいだ。
「それなら少しずつにしろよ? 急に動いたらぶり返すかもしれないからな」
「うん、ありがとう」
今度こそ腕から出ようとした体が引き止められる。“おはよう”の挨拶がまだだったことに気付いたのは、一頻り甘いキスを交わした後だった。

まともにキッチンに立つのは数日ぶりで、まずは何があるのかを確かめることから始めた。
元からたいして買い置きをしていなかったぶん、使えなくなっているものは殆どなかったが、食材も乏しかった。冷凍ものと乾物で簡単な朝食メニューを考える。
先に米を研いで仕掛けてから、出汁を取っている間に乾物を戻す。生野菜も果物もないと彩りに欠けてしまうが仕方なかった。どうあっても、今日は買い出しに行かないわけにはいかないようだ。
「まだ大分かかるんだろう? 先にコーヒーでも入れるか?」
朝食が出来上がるのを待ちかねたのか、淳史がキッチンに顔を覗かせた。
「あ、ごめんなさい、俺が」
コーヒーの用意をしかけた淳史と代わろうと思ったが、軽く遮られる。
「間ができたんなら座ってろ」
「……うん」
少し躊躇ったが、淳史に任せてカウンターに着くことにした。
「そろそろ買い出しに行かないと、お昼作れそうにないんだけど」
「出歩いても大丈夫そうか?」
「うん。少しは動かないとかえって体に悪そうだし」
「そうかもしれないな。飯食ったら出掛けるか?」
「うん」
珍しく円満に、何日ぶりかの外出をすることになった。






週が明けて3日目、里桜は今夜も保護者付きでやってきた。
義之が送ってきたからか、或いは淳史の都合なのか、二人がやってきたのは21時近かった。
「遅くなってごめんなさい」
ちょこんと頭を下げる仕草も女の子と見紛うほどで、おとなしくしていれば里桜は可愛い中学生のようだ。でも、その外見から受ける印象と中身が著しく異なっていることは嫌というほど思い知らされていた。
「すぐにかかる?」
聞いた優生が悪かったのかもしれないが、里桜は待ってましたと言わんばかりに洋菓子の袋を差し出した。
「プリン買ってもらったから先に食べようよ?」
「……食べながらにしようか?」
優生なりに譲歩したつもりだったのだが、途端に里桜は不満げな顔を見せた。
「えー勉強しながらなんてプリンが不味くなっちゃうよ」
何をしに来たんだ、と言いそうになるのを寸での所で堪えた。前回、迷惑をかけたことを思えば、そのくらいの譲歩はしなくてはいけないのかもしれない。
「じゃ、少しだけだよ? コーヒーでいい?」
やんわりと断りながらキッチンへ行こうとした所で、淳史に止められた。いつの間にか、コーヒーを淹れるのは淳史の担当になってしまったらしい。
「ゆいさん、甘いの苦手だって言ってたから、フローズンヨーグルトも買ってもらったよ?」
「ありがとう。でも、そんな気を遣わないで? 俺、甘いものに限らずあまり食べないんだ」
「だから、ゆいさん、そんなに細いんだ」
「あまり胃が丈夫じゃなくて。気にしないで食べてて」
「じゃ、いただきます」
両手を合わせて頭を下げる里桜は、真剣にプリンに向き合っているようで微笑ましい。
淳史が淹れたコーヒーを受け取って、テーブルに並べる。大人二人も里桜につき合う気はないらしかった。
「3人とも甘党じゃないなんてつまんないな」
「酒を飲むようになったら、いくらでもつき合ってやるぞ」
「俺、チューハイしか飲めないもん。それにすぐ酔っちゃうし。ゆいさんもお酒は飲むの?」
「飲めないってことはないけど」
祖父が亡くなって以来、飲む機会は殆どなくなってしまっていた。特にアルコールが好きというほどでもない優生は、おそらくこれからも付き合い以外で飲みたいと思うことはないような気がする。
「じゃ、俺も大人になるまでに飲めるようになってないと困るよね」
「大人になってからでいいんだよ、里桜はまだアルコールは禁止」
すかさず義之が牽制した。どうやら里桜の保護者は甘いだけではないらしい。
「なんか、俺だけのけ者みたいな気がするんだけど」
「そんなことないよ、俺も未成年だし飲まないよ?」
思わず里桜の味方をするような言い方をしてしまったのは、その言葉に共感するものがあったからだ。
「ありがとう、やっぱ年が近いといいよね。若いもの同士仲良くしてね」
先日、誕生日を迎えたばかりの淳史は年齢に敏感になっているのか、あからさまに眉を顰めた。
「今、聞き捨てならないことを言わなかったか?」
「一回り以上違うんだもん、仕方ないでしょ。悔しかったらあっくんもケーキ食べれるように努力すれば?」
「おまえも一人前に扱って欲しいんなら、いい加減その子供っぽい喋り方を何とかしろ」
「俺は可愛いからいいの。言葉遣いが悪いと義くんがヤな顔するし」
いくら事実とはいえ、自ら可愛いと言う男子高校生を初めて目の当たりにして驚いた。可愛いと言われたら普通は怒るような気がしたが。
放っておくと延々と続きそうな小競り合いに、義之が水を差す。
「里桜、寝てしまうといけないから、先に歯磨きしておいで」
「はーい。あっくん、洗面所借りるねー」
迷わず洗面所に向かう背中を見ていると、このまま泊まってしまう気なのではないかとさえ思えた。
その間にコーヒーカップを片付けて、テーブルをソファから少し離しておいた。なるべく、大人たちの干渉を受けたくない。
戻った里桜は、テーブルの上に置かれた英語のテキストに露骨に嫌そうな顔を見せた。本当に、何をしに来ているつもりなのか理解不能だ。
里桜と向かい合ってラグに腰を下ろすと、まず挨拶だけはしておこうと思った。
「……この間はごめん。もうあんなことないようにするから、里桜もケジメは付けて欲しいんだけど」
保護者たちに聞かせたくないから小さく言ったつもりだったのに、里桜には通じなかったようだ。むしろ、藪をつついて蛇を出す、とはこういうことなのだと実感することになりそうだった。
「ううん、俺の方こそ、いきなりいっぱい聞いてごめんなさい。あれって、見学に行っても良かったの?」
“あれ”と“見学”の組み合わせに、優生は瞬時にフリーズしてしまった。
「義くんが、実践して見せてくれる気かな、って言ってたんだけど」
「そ、そんなわけ、ないだろ……聞こえてたんなら止めてくれたら良かったのに」
もし、踏み込まれたりしていたら、優生の繊細な神経が切れて気を失ってしまっていたかもしれない。
「やっぱ、あっくんにムリヤリ襲われてたの? 俺、AVも見たことないのに、刺激強過ぎだよ。義くんがヘンな気分になったら困るから、さっさと帰ったけど」
「だから、そういうのは俺じゃなくて淳史さんに言って?」
その場しのぎの一言が、ますます優生をいたたまれなくさせることに気付かなかった。
「無理に襲うわけないだろうが。優生は最初は必ず嫌だと言うんだ」
「なっ……淳史さんまで、何言ってるの」
声を荒げる優生に、淳史は涼しげな顔を向ける。
「おまえが俺に答えろって言ったんだろうが」
「違うから、そうじゃなくて、そういう話しないでって……」
「いつそんなことを言ったんだ? おまえに振るなとしか聞いてないぞ」
泣きそうになる優生を助けてくれたのは、ずっと静観を決め込んでいた義之だった。
「里桜、あまり下品なことばかり言ってると出入り禁止になっても知らないよ? それに、早くしないと今度は睡魔に負けてしまうんじゃないのかな?」
「はーい。じゃ、ゆいさん、今度二人だけの時に教えてね」
おそらく、二人きりになどなることはないだろうと思い、曖昧に頷いて急場を逃れることにした。
やっと平穏になったと思ったが、今度は大人たちが物騒な話を始めてしまった。
「僕が口出しすることじゃないんだろうけど、いつまで閉じ込めておくつもりなんだ?」
「そうだな、このままというわけにはいかないんだろうな」
「家の中に置いておけば安全だとは限らないよ? ここに来られる相手が全て無害だとは思えないしね」
「それはわかっているんだが」
結果論から言えば、優生が外で被害に遭ったことはなかった。黒田の所には優生が自分から行ったのだから、むしろ家の中の方が危険度が高いといえるかもしれない。
「……引っ越すか」
短絡的な思考に突っ込む間もなく、義之が同意する。
「どうせなら一緒の所に越さないかな? 知り合いが近くにいた方が安心だし」
「え、義くん、引っ越すの?」
「前々から考えていたんだよ。里桜が気にしていないようだったから言わずにいたけど、いわくつきの場所だからね」
表情を無くしてゆく里桜は、急に借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった。里桜の傍へ移って来た義之に引きよせられるまま、身を任せて胸元へと顔を伏せる。
「この近くにマンションが建っただろう? ファミリー向きだからゆったりしてるし、セキュリティもしっかりしててペットも飼えるんだよ。どうかな?」
「あそこは分譲だろう? 何かあっても気軽に引っ越せなくなるんじゃないのか?」
「一戸建てほどじゃないよ。自治会のような面倒な役もないらしいしね」
「よく調べてるな」
「真剣に考えてたからね。淳史も本気で考えてくれないかな?」
「そうだな、いつまでも閉じ込めておくわけにはいかないしな」
淳史の言葉に、拍子抜けしている自分に驚いた。もしかしたら、優生は不自由だと感じていなかったような気がする。
義之の膝に乗ったままの里桜に声を掛ける。
「里桜? 引越しの話は任せておいて、少しでも勉強にかかろうか?」
「うん」
里桜は意外なほど素直に答えて、義之の膝から滑り降りた。
「じゃ、お互いジャマしないってことで?」
更にテーブルを奥へやって、保護者たちから距離を取る。不満げな顔の淳史を軽く無視して、優生は英語の教科書をめくった。
今度こそ勉強にかかろうと思ったとき、里桜が声を潜めて優生を見た。
「ごめんなさい、俺があっくんにベタベタすると気分悪いよね。わかってないわけじゃなかったんだけど……時々確かめないと不安になるんだ」
そんな風に真面目な顔をした里桜を見るのは初めてかもしれない。視線だけで理由を尋ねる優生に、里桜はためらいがちに話し始めた。
「俺、あっくんみたいな体格の人が苦手で……あっくんにくっついて大丈夫だって確認しないと安心できなくて」
「大丈夫って……」
突っ込んで聞いていいのかどうかを躊躇う。知ってしまうと妬くことさえ出来なくなってしまいそうな気がした。
「……俺、あっくんみたいな体格のいい奴に襲われたことがあって……後遺症っていうのかな、精神的に参っちゃって、義くん以外の男の人に触られるのダメになってて。それで、あっくんにリハビリに協力してもらって治ったんだけど、時々思い出しそうになることがあって……そしたら、あっくんに触らないと落ち着かなくて」
「……ごめん、したくない話をさせて」
「ううん、いつまでもあっくんに甘えてちゃダメだってわかってるし、もう少し待って?」
里桜の顔を見ているとそれが切実な事実だとわかる。少なくとも優生が心配するような意味ではなかったのだと思った。
「なんか、ホッとしたら眠くなってきた」
口元を覆う掌から洩れる欠伸が途切れるのとほぼ同時に、里桜の頭がテーブルに落ちた。
「里桜?」
まさか、と思いながら肩を揺すってみたが反応は鈍い。疲れていたのかもしれないが、こんな瞬間的に眠りに落ちてしまう人間は見たことがなかった。里桜にはいろいろと驚かされてばかりだ。
結局、今日も里桜は勉強を始める前に、睡魔に負けて寝てしまった。この少し頭の弱い仔猫を勉強する気にさせるのはかなり困難そうだ。
気持ち良さそうに寝息を立てる里桜を、苦笑まじりに背負って帰る義之を見送ってから、今更な言葉で淳史の表情を窺う。
「泊まるように言ってあげれば良かったのに?」
「明日も仕事だからな。あいつは朝も弱そうだし、出勤前にイライラしたくないからな」
「冷たいんじゃない?」
「ペースを乱されるのは我慢できないからな」
そういえば、出逢った頃の淳史はよくそういうようなことを言っていたと思い出した。
他人が踏み込んでくるのを嫌い、テリトリーの中には誰も入れないと言って憚らなかった。ずいぶんと甘やかされているうちに、淳史の本来の性質がどうだったかなどすっかり忘れてしまっていたようだ。
優生がその中にいる意味に、もう少し自惚れてもいいのかもしれないと、窮屈なほどに抱きしめてくれる腕の中で思った。






「ゆい」
耳に馴染んだ呼び方に、何かを思うより先に体が条件反射で振り向いてしまった。穏やかに響く声の甘さに、警戒するのが遅れたことを後悔してももう遅い。
「……義貴、先生」
他に呼びようもなく、忘れてはいない名前を呼んだ。目元を細める長身の紳士から距離を取ろうと思ったが、察したように素早く肘の辺りを掴まれる。
「相変わらず顔色が悪いようだね? 具合が悪いなら、言ってくれれば往診に行ったのに」
特に具合の悪いところなどなかった。もし顔色が悪いのだとしたら、思いがけず義貴に会ってしまったせいに違いない。軟禁が解除されて初めての外出だというのに、早速アクシデントに見舞われそうな気配に、軽く眩暈を覚えてしまったせいだろう。
「すみません、どこも悪くありませんので失礼します」
やんわりと腕を解こうとしたが、義貴は放してくれそうになかった。
「大抵の場合、自覚症状が出てからだと手遅れなんだよ? いいから一緒に来なさい」
口調は柔らかいのに、なぜか振り払ってしまえない雰囲気があった。腕を掴まれたまま、通りへ連れて行かれてタクシーに乗せられる。行き先を告げる声に、急激に心拍数が上がっていくのが自分でもわかった。
「あ、あの、どうして……?」
「病院は嫌いだと聞いているからね。落ち着いて診れる所の方がいいだろう?」
尤もらしい言葉を鵜呑みにしていいものかわからず、優生は対応に困ってしまった。淳史も世話になっていて、俊明の父親だという男をそうそう無下に扱うわけにもいかないような気がして。
「すみません、でも、淳史さんに聞いてからでないと……」
優生が家を出る前に外出すると打ったメールに、淳史からの返事は、早めに帰ることと帰ったら連絡することという内容だった。今日は勇士と連絡が付かなかったから、誰かと一緒だとは言っていない。予てからの約束で、他の誰かと会う場合は淳史の了承を得なければいけないことになっていた。
「工藤くんは会議中だよ」
「え……」
驚いて見上げると、吐息が触れ合いそうなほど間近に義貴の瞳があって焦った。いくら車内といえ、なぜこんなにも近いのだろう。
「君に会う少し前に、用があって会社にかけたらそう言われたからね」
帰る口実を見つけられないまま、タクシーは高層マンションの前で停まった。逃げるなら今しかないと思うのに、その方法が見つけられない。
「あ、あの、俺、本当にどこも悪くないんです」
「それは診察してから私が判断することだよ?」
とんでもなく強引な医師に、優生はもう言い逃れる言葉が思い付かなかった。
また腕を取られて、促されるままにロビーを横切り、エレベーターに乗せられて、義貴の所有するらしい部屋へ連れていかれてしまう。
あまり生活感のない玄関からは、全くといっていいほど女性の気配も感じられず、少なくともここで他の誰かと生活しているようには見えなかった。花も装飾品もなく殺風景なのは、おそらく、自宅とは別に持っている部屋なのだろう。
一時的に過ごすには不要なほどに広いリビングに通されると、非常用の場所というわけでもないことが窺えた。ソファの肘掛には毛布とカーディガンが掛けられていて、テーブルの上には新聞や雑誌や、大小さまざまな封筒や書類の用紙が所狭しと積み上げられている。雑多なようでいて、散らかっているというわけではなく、むしろ几帳面なのかもしれないと思わせる程度には整理されていた。埃をかぶっているわけでもなく、近付いて見ると日付も新しい。
もしかしたら仕事に使っている場所なのだろうかとか、もう夕方近いというのに今日は診察はないのだろうかとか、次々に疑問は湧いてくるのに、優生の方から問う気にはなれなかった。
「いつまでも立ってないで掛けなさい」
ベッドとして使っても差し支えなさそうなゆったりとしたソファへと促されても、腰を下ろすのは躊躇われた。
所在無く立ち尽くす優生を追い詰めるように、義貴が長身を屈ませて顔を覗き込む。
「傷はもう治ったのかな?」
「え……」
“傷”という言葉には心当たりがなかった。往診に来てくれたのは、優生が熱を出していたからではなかっただろうか。
「この間往診に出向いたのは、工藤くんからパートナーに対してレイプ紛いのことをしてしまったから診て欲しいと相談されたからだよ。話を聞いた限りではたいしたことはなさそうだったし、君があまりに嫌がるから断念してしまったけれどね」
いくら相手が医者とはいえ、まさか淳史が他人にそんな話をするとは思ってもみなかった。だから、義貴は意味有りげな言葉を使ったのかもしれない。
真っ赤になる優生の腰へと伸ばされる手にビクリと震えた。慌てて引こうとしたが間に合わず、義貴の両手に掴まれてしまう。
「本当に細いね。工藤くんが壊してしまいそうだと心配するのも頷けるよ」
「いや、触らないで」
ベルトにかけられた手に、腰を捩って抗う。もう優生の自意識過剰とは思えず、純粋に診察が目的だと信じることはできなかった。
「本当に、見た目に似合わない強情な子だね」
優しげな双眸がスッと細められたかと思うと、二の腕辺りを捕まれるのとほぼ同時に足元が払われて、体がふわりと宙に浮く。軽く投げ技をかけられた体がソファへ落とされた。上体を起こす間もなく、乗り上げてきた義貴に体重をかけられる。まだ何が起ころうとしているのか認めたがらない思考が、強く抗うのをためらわせた。
「どうして、こんなこと……」
「私の息子を誘惑しただろう? おかげでお嫁さんが参ってしまってね。そうでなくても妊婦はナーバスになりやすいのに」
俊明とのことを知っているかのような口ぶりに、思わずまともに見つめ返してしまった。
「工藤くんのことも騙してるのかと思ったら穏やかじゃいられなくてね」
「騙してるなんて……」
義貴はどこまで知っているのだろう。その口ぶりでは、優生が俊明とつき合っていたとは思っていないのだろうが、淳史とはパートナーと言うくらいなのだから、認識しているはずだった。
にも係わらず、まるで優生を襲いそうな素振りを見せる理由が理解できない。もしかしたら、こんな所へ連れ込んだのは大げさなデモンストレーションに過ぎないのだろうかと、おめでたいことさえ考えた。
不意に、デニムの後ろポケットで携帯が微かに震え出した。音を消してバイブを最小に設定している優生の電話が鳴っていることに義貴は気付かないようだ。それを告げるべきか迷っているうちに振動は途切れ、自動応答に変わったようだった。
「工藤くんは鈍いのかな」
それが、優生と俊明とのことを気付いていないという意味なら大きな間違いだ。優生の演技力にも問題があったのだろうが、ものの何分と経たないうちに見抜かれてしまったのだから。
「聞いたところによると、君はずいぶん遊んでいるようだけど」
誰に何を聞いたら、そんな結論になるのかわからない。黒田に襲われかけた時にも、他にも相手がいるようなことを言われたが、それが誰を指すのかさえわからないというのに。
答えられない優生の、背けたままの顔を覗き込んでくる顔は冷たかった。
「そんなに男が好きなら相手してあげようかと思ってね」
「いやっ……」
顔を庇うように上げた手を、見掛け以上に強い力で捕らえられる。優男に見えても、義貴は捕食者の側なのだと改めて思い知らされた。
「本当にいい声だね、泣かせたくなるよ」
優生が抗うたびに同じようなことを言われるのは何故なのだろう。初対面の時の淳史の反応も同じだった。思えば、淳史が優生に構うようになったのは、それからではなかっただろうか。
「やめてください」
長い指が優生のシャツのボタンを器用に外してゆくのを、手首を掴んだくらいでは止められなかった。それほど頑丈そうには見えないのに、優生の力では跳ね除けることさえ叶わない。
「俺、俊明さんとはもう終わってるし、誰のことも騙したりなん、か……」
ふいに首筋へ触れてきた唇に、肌がびくんと震えた。今にも泣きそうな思いで睨み上げると、義貴は酷薄な笑みを浮かべた。
「そういう顔をすると効果的だとわかっててやってるのかな。君くらいの年で大人の男を手玉に取ろうなんて感心しないな」
「そんなこと……っあ、いや……」
確かめるように優しく指先が掠める。まるで、優生が胸が弱いと知っているかのように確信めいた手付きだ。
「純情そうなフリをして、ずいぶん色っぽい顔をするね。大抵の男はそれで落ちるのかな」
「っく……」
手慰みのように指先で転がされる先端が感じ過ぎるのが嫌で、優生は固く拳を握った。義貴の片手にさえ敵わない非力さを、口元へ上げた手の甲を噛む痛みで少しでも紛らわすことが出来たらと思った。
「手を離しなさい」
すぐに気付かれて、義貴の手が頬を掴んで甲を噛むのを止めさせる。そのまま頭上へと捻り上げられて、もう片方の手と一纏めにして押え付けられた。
「いや」
「参ったな、物凄く苛めたい気分になってきたよ。君は本当に性質が悪いな」
まるで優生のせいだと言わんばかりの言い草にカッとなったが、押え込まれた腕も乗り上げられた体も優生の自由にはならなかった。
義貴の片手の下で重ねられた両手首に、細い皮のような感触のものが巻き付けられる。縛られるという未知の不安に体中が震えた。
「いや、ほどいて」
「ダメだよ、どうやら君は自虐的なようだからね」
つい先日、淳史にM体質だと言われたことが頭を過った。これほど苦手とする義貴に弄られても快楽しか感じないかもしれないと思うと、情けなくて死んでしまいたくなる。
首を振りながら、覆い被さってくる体を止めようと闇雲に暴れた。至近距離から出した膝蹴りには大した威力はなかったはずだったが、義貴の気に障ったらしい。
「意外とお行儀が悪いね。足も縛って欲しいのかな」
義貴の膝に下肢の抵抗を封じられて、デニムからベルトが引き抜かれた。片方の足を曲げた状態で、今抜かれたベルトで絞められる。
拘束し終えると、義貴はゆっくりと優生の上へと体を倒してきた。
「いや」
近付く吐息に捕まりそうで、思わず顔を背けた。それを追うように、義貴の長い指が顎にかけられる。
「放してください」
「嗜虐心をそそるいい顔をするね、早く泣き顔も見たいな」
泣けば放されるのなら、泣き顔くらいいくらでも見せても構わない。ただ、義貴の好奇心と、優生の覚悟の間にはとてつもない隔たりがあるらしかった。
幸か不幸か、拘束されているせいでデニムのジッパーを外しても、脱がせてしまうことは出来ない。
「これじゃ脱がせられないね」
むしろ嬉しそうな口ぶりで、義貴が一旦身を離す。
ギリギリまでずらされたデニムから覗いた足の付け根に当てられた、冷たく固い感触にビクリと腰が引けた。
「暴れると手元が狂っても知らないよ」
それが鋭い刃だと本能的にわかっている。
「どう、するつもりなんですか」
「切るしかないだろうね」
「なっ……何を」
肌を掠めて、切っ先に力が籠るのを感じた。
「や、あっ……」
瞬間、思わず両目を固く瞑ってしまっていた。感じるはずの痛みがないことに、おそるおそる瞳を開く。優生の反応に満足げな義貴と目が合うと、また伏せるしかなかった。
「まさか、肌を切られるとでも思ったのかな?」
些かのためらいもない義貴が、厚いデニムを切り裂くつもりでいたとは思い至らなかった。
「怯えた顔も可愛いね」
楽しげな義貴と対称的に、優生の神経は疲れ切ってしまい、反論したり抵抗したりする気力が衰えていく。
目を閉じて、心を閉ざしていれば、やがて嵐は過ぎていくのだろうという諦めが心を過った。どんなに抗ったところで、優生には自分の身を守ることが出来ない。それなら、おとなしく体を自由にさせた方が痛い思いをせずに済むと、これまでの経験からわかっていた。
それでも、顎を捉える手に体が震える。どうしても、この紳士然としたアクマに身を任せるのはイヤだった。
「離して」
首を振ったとき、少し離れたテーブルで義貴の携帯が鳴った。
不意に、優生の体にかけられていた全ての力が抜ける。即座に携帯の方へ向かう義貴に驚いた。夢中で遊んでいた玩具を、新しい玩具を見せられた途端にあっさりと放り出してしまう幼い子供のように、優生への興味は一瞬で失せてしまったようだ。
恋人と接する時のような甘い声で応対する義貴の態度から察するに、よほど大切な相手なのだろう。それが彩華かもしれないと思うと複雑だったが、少しでも優生に対する執着を殺ぐことが出来るなら、感謝さえしていい気がした。あるいは、いくらでも取替えのきく玩具など、最初から気まぐれに手に取ってみようとしただけだったのかもしれないが。
穏やかで優しい表情のまま話し続ける義貴は、電話の相手に居場所を告げていた。手放しで歓迎するような口調に、このまま解放されるかもしれないことを期待せずにはいられない。
名残り惜しげに通話を終えた義貴が、少し離れた位置から優生を振り向いた。
「残念だけど、君と遊べなくなってしまったよ。大切なお客さまが来ることになったからね」
言葉ほど残念そうには見えなかったが、ひとまず難を逃れられそうなことにホッとした。
「こちらから招いておいて悪いけど、君とはまた日を改めて」
もう二度と会うこともないと思ったが、無事に逃げ果せるまでは余計な口ごたえはしないでおく。
やっと、義貴が優生の腕を解きかけたところでチャイムが鳴った。義貴が携帯を閉じてからまだ5分と経っていないというのに、客人は随分と気の早い人物のようだ。
こんな状況で客人を通されるのは我慢ならなかったが、義貴はその長い足であっという間に出迎えに行ってしまった。
帰すと言われた以上、義貴の気を逆撫でするようなことはしたくなかったが、この体勢はかなり耐え難い。せめて、露になった胸元と顔を隠そうと、身を起こしてソファの背凭れに寄りかかった。
「ずいぶん早かったね、さっき電話をくれたばかりなのに」
「ええ、一刻も早くと思ってましたので」
急かすように部屋へ入って来る人の話し声には聞き覚えがあった。
いつも耳に柔らかく穏やかなトーンで話す、淳史の友人のものだ。人好きのする笑みとは裏腹に、得体の知れない印象が拭いきれないのも、恐ろしく整った顔立ちも、義貴と血が繋がっていることを納得せずにはいられなかった。
近付いてくる二人を、肩越しに振り向いて窺う。親子だと知ってはいても、絵になり過ぎて、恋人のようにさえ見えかねなかった。まるで、女王様の機嫌を損ねないように付き従う義貴は、優生に対する時とは別人のようだ。
「ゆい……」
優生を認めた途端に、驚いたように柳眉を顰める、麗しいと言っても差し支えない人が駆け寄ってくる。
「こ、こんにちは」
暢気に挨拶をするような状況ではなかったが、咄嗟に他の言葉は思いつかなかった。
義貴は、驚いたように義之と優生を見比べている。
「義之とも知り合いだったのか」
「ゆいは僕の恋人の家庭教師なんですよ。それにしても、淳史から連絡を受けた時にはまさかと思いましたけど、本当に節操のない人ですね」
ぞっとするような目で義貴を睨みながら、義之は上着を脱いで優生の上体に掛けた。先に足を留めたベルトを外してから、胸元へ抱きよせるようにして縛られた手を解く。少しでも視界に入れないように気遣ってくれたのだろうが、触れられた所から自然と震えてきてしまう。
「どういう意味かな?」
優生の姿を目の当たりにされているというのに、涼しい顔で問いを返す義貴の厚顔さが腹立たしい。
「淳史は、ゆいと連絡が付かなくなると居場所を探すんですよ。ここだとわかった時点で、僕に連絡があったんです。ここのことは淳史も知ってますからね」
「どうしてここだとわかったのかな?」
「ゆいの携帯はGPS対応なんですよ。往診に行ったと聞きましたけど、その時から目を付けていたんですか?」
「目を付けていたわけではないよ、確かに綺麗な子だとは思ったけれどね。その綺麗な子と俊明が浮気をしていると彩華に泣きつかれたんだよ。ずいぶん我儘な子で工藤くんも手をやいているようだったし、調教してあげようと思ってね」
悪びれる様子もなく開き直る義貴に、義之はやれやれとでも言いたげに首を振る。
「会ったんならわからなかったんですか? 淳史がこの子のことをどれほど大切にしてるのか」
「凄く我儘を言っていたしね、大変なのに捕まってしまったんだろうと思っていたんだよ」
「我儘? 淳史にですか?」
「そうだよ、私にもだけどね。早朝からわざわざ往診に行ったっていうのに、子供みたいにダダをこねて私に触られるのもイヤだって」
「ゆいは敏感だから、あなたの下心に気が付いたんじゃないんですか?」
「その時はまだ何も知らなかったし、純粋に診察してあげようと思っていたんだよ」
では、優生が普段通り真面目を装っておとなしく診察を受けていれば、この事態を回避できたかもしれないということだろうか。
「すぐに淳史も来ますからね。言い訳は淳史にしてください」
冷ややかに言い捨てたあと、義之は優生の方に向き直った。
「バスルームを借りる?」
「……いえ」
できれば、一分でも早くここから抜け出して、淳史の所へ帰りたかった。
「着替えた方がいいかな?」
「このままでいいです」
切られた部分はデニムの内側だけで、乱れたシャツを整えれば、そう気にならないだろうと安易に思っていた。
服を直す優生を背後に庇うようにして、義之は義貴に視線を向ける。
「お義姉さんに何を吹き込まれたのか知りませんけど」
「義之は彩華のことになると厳しいな」
犯罪を犯したなどとは露ほども思っていないらしく、義貴の態度はふてぶてしい。
「俊明は離婚してから、ゆいとつき合ってたんですよ。子供ができたと言って俊明を取り上げたのはお義姉さんとあなたの身勝手でしょう? 子供の父親のことで悩んだ俊明がゆいに気持ちを戻したとしても、責められるべきなのはこの子じゃない」
「……どうして」
義之が何もかも知っているのかが不思議で。
「もうすぐ淳史が来ると思うからちょっと待っててくれないかな?今はこの怖いおじさんを叱っておかないといけないからね」
「義之、怖いおじさんはないだろう」
「エロオヤジの方が良かったですか?」
「ひどいな……エロいのは私じゃなくてこの子の方なのに」
「こんなに怯えさせておいて何言ってるんですか。淳史が来たら、2、3発殴られるくらいの覚悟はしておいた方がいいですよ?」
「まだ何もしてないのに」
「何言ってるんですか。縛って脱がせておいて、何もはないでしょう。こんなにして、どうやって帰すつもりだったんです?」
「暴れるから先に縛ったんだよ、縛ったら脱がせようがないだろう?」
「救急搬送されてきた患者じゃないんですからね、着てるものを切っちゃダメですよ」
「拙かったかな」
「レイプしようとしたようにしか見えませんよ? 僕にも淳史にも」
「ちょっとお仕置きしてあげようと思っただけだよ」
緊迫感のないかけあいを遮るように、チャイムが鳴った。
「真打ち登場ですよ、お父さん」
しっかりと止めを刺してから、義之は出迎えに走って行った。間もなく現れた大きな人影を、縋るような思いで見つめる。それが待ち人だと確認しても、すぐには声にならなかった。
「優生」
淳史の声に思わず立ち上がった。優生が足を踏み出すより先に、駆けてきた淳史に抱きしめられる。やっと、震えが納まったことに気付かないまま、淳史の腕に縋った。
「何があったんだ? 急に連絡がつかなくなったから驚いただろうが」
「ごめんなさい……なんか、俺にもよくわからないうちに」
「顔色も悪いな、もしかして倒れたのか?」
「ううん、そうじゃなくて……」
答えに迷う優生の代わりに、義之が簡潔な事実を告げる。
「父が拉致したようだよ」
「拉致なんて人聞きの悪い言い方をしなくてもいいじゃないか」
「相手の了承を得ずに連れ去ることを拉致と言うんですよ、しかも縛って服を脱がせておいて」
「……本当ですか?」
義貴を見据える淳史の声が低められる。優生に向けられたものでなくても、また震えてしまいそうなほど怖かった。
「お義姉さんに余計なことを吹き込まれたらしくてね。ゆいが俊明を誘惑したと誤解したそうだよ」
「それと優生を脱がせることに何の関係があるんです? 優生は俺のですから、思う所があるんなら俺を通していただけませんか」
「工藤くんも、裏切られたんじゃないのか?」
言い募る義貴に、身を竦ませる優生の背を抱く腕に力が籠められる。
「それは俊明と俺の問題で、先生が優生に危害を加える理由にはならないでしょう」
「ずいぶん、その子を甘やかしているようだけど」
「俊明が迷っている時に、不安がっていた優生を掠め取ったようなものですから、恨まれるのは覚悟の上です。だからといって返す気はありませんが」
「その子の方にも未練があるようだと聞いているけどね」
「何と言われても返しませんよ。もちろん、先生にだって渡しません」
どちらにも欲しいと言われてもいないのに、一方的に啖呵を切られてしまうと、嬉しいというより少し恥ずかしい。
肩をすくめる義貴に、義之が追い討ちをかける。
「もし、ゆいが俊明の所へ戻ったら、またお義姉さんに付き纏われますよ? それとも、別れてしまうと惜しくなりましたか?」
「参ったな、義之もこの子の味方なんだね」
「お父さんがゆいに危害を加えようとするからですよ。少しは罪悪感があるんなら、淳史に殴られておきますか?」
「優生? どうする?」
優生に振られても、ぜひ殴ってくれとも、殴らせてくれとも言い難い。そうでなくても、結果的に淳史の仕事の邪魔ばかりしているというのに、これ以上の迷惑はかけたくなかった。
「ううん」
「そうか。じゃ、帰るか」
頷く優生に、麗しい親子の方が驚いたようだった。
「この人を殴れる機会なんてそうそうないと思うけど、いいのかな?」
義之に念を押されても、そんな気にはならなかった。大事に至る前に助けられて、淳史が気を悪くしていないのなら、優生が腹を立てる理由はない。
「……先生、無用な心配だと思いますが、今後一切、優生には関わらないでいただけますね?」
口調は穏やかなのに、義貴を見据える淳史の双眸は険しかった。
「わかってるよ、工藤くんを困らせる気はないからね」
ため息混じりに吐き出される言葉に、優生は心底ホッとした。
「じゃ、失礼します」
軽く頭を下げると、淳史は徐に優生を引き寄せた。
「あっ……」
慣れた動作で優生を抱き上げると、淳史はさっさと玄関に向かう。
「あ、淳史さん、俺、自分で歩けるから……」
「ダメだ」
義貴にはあんなに低姿勢だったくせに、優生に対しては命令口調だ。
姫抱っこをされたままで外に出るのは死ぬほど恥ずかしかったが、デニムの切られた場所を考えると、肩に担がれることも背負ってもらうことも出来なかった。
幸い、通路でもエレベーターでも誰にも会わずに外に出られた。マンションの前に止まっているタクシーは、どうやら淳史が待たせていたものらしい。
優生を抱いたままでタクシーに乗り込むと、淳史は自宅の住所を告げた。仕事を抜けて来たに違いないのに、これ以上時間を取らせるのは気が引けた。
「ごめんなさい、先に会社に戻ってもらって大丈夫だから」
「いや、あまり時間は取れないが、おまえを一人で帰すわけにはいかないからな」
肩を抱いたままの淳史が、言い難そうに声を低めた。
「……いつも、仕事のジャマをしてごめんなさい」
決して、優生が望んだことではなかったが、淳史の仕事に差し支えるような結果にばかりなっていることは気になっていた。
「そんなことより、手荒なことはされなかったか?」
「うん……大丈夫」
優生の基準では手荒な方に分類されると思ったが、余計な心配はかけたくなかった。怖い思いはしたが、実質的な被害は殆どないと言えなくもない。
そっと、胸元へと引き寄せられるまま、頭を預けて目を閉じる。義之のことも苦手だと思っていたせいか、助けられた礼さえ言わずに来てしまったことに漸く気が付いた。
「どうしよう、緒方さんにお礼言うの忘れてた」
「また会った時でいいんじゃないのか? どうせ毎回付き添ってくるだろうしな」
マンションに着いてタクシーを降りる時には、淳史を煩わせないように先に外に出た。これ以上恥ずかしい思いをしたくないというのが本音だったかもしれなかったが。
淳史が優生を庇うように斜め後方を歩くのは、その辺りにデニムの裂け目があるということなのかもしれない。余計なことは言わずに早足にエレベーターに乗り、二人とも無言で部屋へと急いだ。
玄関に入った途端に息を吐く淳史に、すぐに風呂に入りたいとは言い出せずにリビングについて行く。先にソファへと腰掛けた淳史の膝へ引き寄せられるまま、身を預けた。
「自由にさせた途端にこんなことがあると、一人にしておくこともできない気がするな」
苦々しく呟かれると、優生の方が罪悪感に苛まれてしまう。あの身勝手な医師のせいだと開き直ることは出来そうになかった。
「ごめんなさい、本当に、もう大丈夫だから」
「俺の方が大丈夫じゃないんだ。おまえに何かあるんじゃないかと思うと仕事にも身が入らないしな」
項垂れる優生を、強い腕が抱きしめる。
「……何も、されてないから」
思わずそう言ってしまったのは、淳史に誤解されているかもしれないと思ったからだ。
「おまえを拉致して襲おうとした男まで庇うのか?」
「ちが……本当に、俺……」
何も、と言うと嘘になってしまうが、決して淳史を裏切ったわけではないと言いたかっただけだった。
泣きそうになって俯く優生の頬を、淳史の手が包む。
「何もされなかったんだな」
「うん」
後頭部へと回された手に抱き寄せられる。やさしい抱擁に、怒ってはいないのだとわかってホッとした。
「お前が悪いわけじゃない、気にするな」
「……うん」
そっと、淳史の背を掴む。まだ仕事には戻らずに優生の傍に居て欲しいと言う勇気がなくて、その胸元へ顔を伏せた。言えば、きっと淳史に無理をさせてしまう。
「会社に戻りたくないな」
まるで優生の本音を見抜いたような言葉に焦った。
「ダメだよ、淳史さんはすぐに子供みたいなことを言って」
「おまえが聞き分けが良過ぎるんだ。こんな時くらい仕事に行くなと言えばいいだろうが」
優生にも我儘だという自覚があるのに、淳史はそうは思っていないのだろうか。甘やかし過ぎだという周りの評価は妥当かもしれないと、優生も思った。
「じゃ、早く帰ってきて? 今ムリを言って、またずっと仕事になったら、その方がやだ」
優生の顔を覗き込む瞳を見つめ返す。疚しい所のない今日は、瞳を反らすことも、淳史の胸を押し返す必要もなかった。
「……そうだな、却っておまえを一人にしてしまうことになりかねないな」
「うん。迎えに来てくれてありがとう。もう大丈夫だから仕事に戻って?」
さっきまでの不安が嘘のように、それは本心だった。淳史がちゃんと仕事を終えて帰って来るまで、体を綺麗にしたり、食事の用意をしたりしながら待てると思った。
優生の頬を包む手の理由に気付いて目を閉じる。ゆっくりと触れてくる唇に、深く唇を重ねながら、互いの舌を探り合う。緩く絡んで優しく吸われると頭の芯が霞んでくる。顎を伝って喉へ伸びた手の平が、愛撫するように肌を撫でて襟元を開いてゆく。今にも優生の理性を奪ってしまいそうな所へ届きそうな手をそっと押えた。
「ダメ、だよ……帰ってから」
触れられたら、きっと我慢できなくなってしまう。不思議なくらい、今は抱かれなくても大丈夫な気がしているというのに。
「優生」
少し強引に喉へ口付けられても、優生は淳史の胸を押し返した。あまり時間がないと言っていたのに、優生につき合わせるのは気が引ける。
「待ってるから、ちゃんとお仕事して来て?」
「……本当に待てるんだな?」
疑惑と心配を向けられる理由がわかっているだけに、しっかりと頷いた。
「本当に大丈夫だから、なるべく早く帰ってきて?」
少しの我儘を混ぜた言葉を、淳史は信用してくれたらしかった。
「しょうがないな。おまえがもうちょっと我儘を言えば、親を危篤にしてでも残るんだが」
「そういう嘘はバレるから吐いちゃダメだよ。それに、もし本当に何かあった時に困るでしょ」
「どちらか片方しか取れないんなら、俺はおまえを選ぶぞ」
急にそんなことを言い出した淳史の真意がわからず、湧き上がった疑問を口にした。
「……どうして俺なの? ずっと、俺みたいなのは好みじゃないって言ってたのに」
「おまえは? 誰でも良かったから俺について来たのか?」
逆に返されて、理由を探す。明確な答えなど、見つけようがないというのに。
「そんなこと、ないと思う。何度も助けてくれたし……」
孤独からも不安からも、救い出してくれたのは淳史だけだった。どこにもないと思っていた居場所をくれたのも、ないものねだりのような我儘な望みを叶えてくれたのも。
「助かったと思うか? 俺に捕まったとは思わないのか?」
「……そうかもしれないけど……俺は寧ろ捕まってたいし」
「やっぱりマゾだな」
決死の覚悟で告げた言葉を、淳史は意地悪く笑った。
「俺には心理学なんてわからないからな、惚れてしまったものは理屈じゃ説明できないんだ」
やや乱暴な言い分は、どんなロジカルな言葉より真実味を伴って響いた。同感だと言う代わりに、優生の方からキスを誘う。早く仕事に戻らせなければと思うのに、離れ難くてなかなか送り出せない。
「やっぱり戻るのはやめておくか?」
甘い甘い誘惑を、優生は筋金入りだと言われる強がりで否定することにした。少しは大人になったと証明するために。



- Jealousy In Love - Fin

【 Love And Chain 】     Novel       【 Whatever You Say 】


2007.5.5.update

(番外掌編) 【 Extra Episode1. 2. 3. 4 】

一応、シリーズも一区切りと思うと、つい力が入ってしまったのか、ずいぶん長くなってしまいました。
しかも、ものすごく趣味に走り過ぎてしまってごめんなさい。
思っていた以上に、義貴せんせが弾けてくれたので、書いててめっちゃ楽しかったですvv