- Nowhere To Go -



時間の折り合いがついたのか、単に浮気疑惑を払うためか定かではなかったが、淳史は先延ばしにしてきた両親に会うという話を遂に実現させてしまった。
渋る優生を半ば脅かしながら設けた席は、表面上は和やかに過ぎていった。
そこはかとなく漂う不穏な空気に気が付いていないのか、この場限りを収めればいいと思っているのか、淳史は辛抱強く会話を繋いでいく。おそらく、これが優生を引き離すきっかけになるとは想像もしないのだろう。
反対はしないが歓迎は出来ないと聞いていた通り、淳史の母親は優生に好意的ではなかった。
あからさまに態度に表すようなことはなかったが、悪意にそう鈍くなれない優生は、受け入れることは出来ないという頑なな意思を痛いほどに感じていた。淳史と血の繋がりがないからか、連れ合いの方がよほど友好的に思えるほど。
「具合が悪いんじゃないの?」
「いえ、大丈夫です」
そう聞かずにはいられないほど、優生は頭のてっぺんから爪先まで緊張でガチガチになっていたのだろう。尋ねられることに失礼のないようにと思うだけで神経をすり減らしてしまい、元から食の細い優生の箸は一向に進んでいなかった。
「やっぱり、若い方に和食なんて良くなかったかしら」
「そんなことないです」
言葉を返しながらも、その人に視線を向けられただけで体中が硬直してしまいそうになる。
「でも、殆どお箸を付けていないようだし」
「優生は元から少食なんだ。あまり丈夫な方じゃないしな」
「そのようね」
不満げな態度を見せないよう気遣われていることはわかっていたが、同時に相手の失望が痛いほどに伝わってくる。今すぐ逃げ出したい思いを必死に抑えて、ただ時間が過ぎるのを待った。
「また近いうちに訪ねます」
短い会食を終えて、別れ間際に優生にだけ聞こえるように掛けられた一言に更に心拍数が上がる。優生とほぼ同じ高さにある相手の、強い意思を孕んだ視線をまともに見つめ返すことは遂に出来なかった。
いつまで経っても強くなれない自分の弱さを思い知る。視線を逸らした方の負けだと知っているのに。
でも、言いたいことがあるのなら、先延ばしにしないで淳史の前で言ってもらいたかった。もしも、それが優生を貶めるような言葉であったとしても。


「悪かったな、気を遣わせて」
「ううん」
淳史の両親を見送って二人きりになると、漸く優生の緊張が解けた。
普段の優生なら、いくら暗い駐車場であったとしても寄り添ったりできないのに、今日は自分から凭れかかってしまっていた。
軽く頭を抱きよせられるまま、鼓動が落ち着くのを待つ。くっついている間だけは優生のものだと錯覚することが出来る。
「滅多に会うこともないだろうから、そう固く考えるなよ?」
「うん」
車に乗るためだとわかっていても、今は離れたくなかった。咄嗟に上着を掴んで引き止めてしまう優生の髪を、気遣わしげな指が撫でる。
「優生?」
「……うん」
「疲れたのか?」
「そうかも」
「それなら急いで帰らないとな?」
振り解くべきではないとわかっているらしく、淳史は助手席まで付き添って、先に優生を車に乗せた。
すぐに淳史も車に乗り込むと、先の言葉通り帰路を急ぐ。優生がしょっちゅう体調を崩すせいで、また熱を出しそうなのかと危惧したのかもしれない。
「あまり似てなかっただろう?俺は父親似だからな」
「そうなんだ……」
ついさっきのことなのに、淳史の母親の容姿を鮮明に思い出すことは出来なかった。極度の緊張の中で印象に残っているのは、何か言いたげな眼差しだけだ。
「おまえは母親似だな」
「うん」
といっても、優生の父親もどちらかといえば細身で顔立ちも優しい方だった。おそらく、どちらに似ていても優生の外見に大差はなかっただろう。

口数の減った優生に、頻りに淳史の方から話を振ってくるのにも、つい生返事を返してしまう。淳史の言葉は耳を滑り、ほかに気を取られたままの優生の脳には伝わらない。
漠然と、というにはあまりにも確信めいた嫌な予感に、優生は足元が脆くなるのを感じていた。相手の胸先三寸に身の振り方を委ねてきたこれまでの不安とは違う、いわゆる婚姻は当人同士だけの問題ではないという意味を、痛いほどの実感を伴って理解した。
きっと、淳史の傍にはいられなくなる。それは被害妄想などではなく差し迫った現実だと、直感的にわかっていた。
「優生?」
「え……あ、ごめんなさい」
声をかけられて初めて、車が停められていることに気が付いた。
シートベルトを外してロックを解除しようとした時、ふいに後ろから伸びてきた腕に引き寄せられる。
「……淳史さん?」
「何か気に障るようなことを言われたか?」
「え……?」
低い声で尋ねられた言葉の意味を頭の中で反芻する。形ばかりの引き合わせを終えてからも、ずっと動揺し続けている優生を、淳史が放っておくはずがないのだった。
「ごめんなさい、すごく緊張してたから気が抜けちゃっただけなんだ」
「本当か?」
疑り深い声色を、素直に嬉しいと思った。
「うん。最初から、できれば会いたくないって言ってたでしょ? ほんと、緊張しちゃって何話したか全然覚えてないよ」
それは満更言い訳でもなく、この時はまだ、淳史の母親は単に優生を気に入らなかっただけなのだと思い込んでいた。




疲れているだろうからと寝室に直行する淳史は、だからといって、優生をそのまま休ませてやろうという気ではないらしかった。
着替えないままベッドへと倒されると、着ているものが気になってしまう。シャツはともかく、スラックスに皺が寄るのは避けたかった。
「嫌か?」
抗うような素振りを見せた優生に、気遣わしげな声がかけられる。
「ううん……服が気になって」
「先に脱ぐか」
言いながら、優生のベルトへと手をかける淳史が少し躊躇う。
「いかにも男を襲ってるって感じがするな……」
優生と出逢うまで、男相手に恋愛など出来るわけがないと思っていたような淳史には、認識したくない事実だったのかもしれない。
淳史の両親に会うことが決まった時、スーツを着て行った方がいいか尋ねた優生に、淳史は少し迷ったようだった。そんなに堅苦しく考えなくてもいいと言いつつ、淳史は優生がスーツなど持っていないと思っていたのだろう。
聞かれたこともないので話したことはなかったが、優生は祖父の意向で子供の頃から冠婚葬祭などの改まった席にしょっちゅう連れて行かれていた。それは身内に限ったことではなく会社関連の場合もあり、数だけを比べるなら、おそらく淳史より多く結婚式や葬式に出席しているだろう。制服がフォーマルの代わりだったのは幼い頃だけで、高校生になってからは大人と同等の扱いを受けてスーツも誂えられていた。似合うとは言い難いかもしれないが、着慣れていないわけではない。
そんなことを知らない淳史は、ジャケットもネクタイもいらないと言っていた。肩幅も厚みもない優生には似合わないという意味だろうと思ったが、日頃Tシャツにデニムといったような格好ばかりをしているせいか、ドレスシャツにスラックスだけでも随分と改まった雰囲気になったようだ。
「いや、男装の麗人とでも言った方がいいのかもしれないな」
用法を間違えていると言いたかったが、どうやらそれが褒め言葉らしいと気付いてやめておいた。
優生の着ていたものをサイドテーブルに放ると、淳史は自分の服も脱いだ。いつもはキスの合間に愛撫されながら着ているものを落とされて、淳史もその流れの中で知らぬ間に脱いでいるような感じであまり気にしたことはなかったが、こういう風に待つのは何となく間が持たない。
見つめているのもテレくさく、つい手近なフェザーケットにくるまって、頭を伏せるようにして視線を外した。
「優生?」
低い声に、慌てて顔を上げる。決して拒否のつもりではなかったが、淳史は少し乱暴に、優生の身を隠すものを剥ぎ取ってしまう。
「あ、んっ」
晒された胸へと伸びてきた手に喘いだ。指先に潰される小さな突起から湧き起こる官能が体中に広がってゆく。
薄く開いた唇を覆われて、舌で優しくなぞられると早く触れ合いたくて優生も舌をのばす。自然と絡む相手の舌と吸い合いながら、次第に貪られるようなキスに変わってゆく。
溺れるように淳史の項へ腕を回してしがみついた。キスだけでこんなにも優生を蕩かせる人はきっと他にはいない。それが引き返せない所までいってしまっているせいだと、優生はまだ知らなかった。
「……ん」
感じるままに腰を押し付けてしまうのを、優生が切羽詰っているせいだとわかっているのか、淳史は下着をずらして濡れたものに指を絡めてきた。露にされた先端に指の先が触れると反射的に腰が引ける。逃がさないように包む掌に軽く上下されただけで堪らなくなって嗚咽を洩らした。
いつも淳史に触れられる度に体は甘く溶けてしまいそうになるが、今日は輪をかけて感じ過ぎてしまう。
「も……入れて」
小さく囁く優生の、片膝が抱き上げられて、腿の裏を伝った指が後ろの入り口を撫でた。ゆっくりと、湿った指先を埋めて中を探るように少しずつ進んでゆく。
「ん、ぁんっ……」
優生がどこが感じるのか知っている指は優しく、そうかと思えば強く、擦りつけるように沈められる度に泣きそうな声が洩れる。馴染ませながら奥へ進んでゆく指だけで優生を高みへ押し上げられてしまいそうで焦った。
「や……お願い、淳史さんの……」
堪え切れずに伸ばした指に、あからさまなほど熱く滾った塊が触れる。充分に硬く反り返ったものに手を添えようとしたが叶わず、膝を押し上げられた。
「今日はやけにせっかちだな」
笑いを含んだ声が少し掠れて響く。余裕がないのは優生だけではなさそうだった。
「あぁっ……ん」
まるで焦らしているかのように慎重に優生の中を満たしてゆく、ともすれば凶器になりかねない物騒なものが早く全部欲しくて腰を浮かす。馴染ませるように擦りつけながら奥へ進んでくるのが待てなくて、自分から迎えにいってしまう。
欲しくてたまらないものが、本当は体ではないと薄々わかっていた。ただ、その最もわかりやすい手段が体を繋げることで、それが手に入ったかのように錯覚できる行為なのだと思う。深く迎え入れるほどに、強く突き上げられるほどに優生を安心させてくれることだけは間違いなかった。
「いや」
その時を察して、淳史の腰へと脚を絡ませた。離されないように強く力を籠めて、今にも弾けそうに熱く膨らんだものを引き止める。それを全て優生の奥に浴びるまで、離したくなかった。
「……おまえな」
苦笑する淳史が何を思ったのか、この時の優生には想像もつかなかった。まるで妊娠を狙う女のようだと、そんなことをしなくても婚姻関係はとうに成就されているのにと、必死な優生をいっそ微笑ましく思われていたとは知らなかった。
「孕ませてしまったのかと錯覚しそうだな」
妙に真剣な顔をした淳史が、子供を欲しがっているのかと思ってしまった。一度として、子供好きだとか跡取りが必要だとか言っているのを聞いたこともなかったのに。
「……ごめん、なさい」
謝ったのは驚かせたことではなく、それを叶えることが出来ない自分に引け目を感じずにはいられなかったからだった。もしも淳史の家族を増やすことが優生に出来たら、少しは自分に自信が持てたのかもしれない。






嫌な予感というのは外れた例(ためし)がない。
優生は呼び出されたホテルのロビーで淳史の母親の姿を見つけた時、直感的にそう思った。
濃紺のタイトなスーツに髪を纏めた少し固い装いが、きつい顔立ちを一層近寄り難いものに見せてしまう。そうでなくても気後れしている優生は、このまま踵を返して帰ってしまいたくなる気持ちを抑えるのに苦労した。
優生に気付いて軽く頭を下げる人は、ヒールの高さ分ほど目線が上にある。近付くほどに圧倒されてしまいそうで、思わず拳をギュッと握った。
「ごめんなさい、急にお呼びたてして」
「いえ」
「学校にも行ってないと言っていたから、昼間の方がいいと思って」
優生の勝手で行っていないわけではなく、淳史との約束を守っているからなのだったが。それは優生の行動に起因しているとはいえ、淳史の横暴ゆえに交わしたものだ。
「呼ばれれば、いつでも来ます」
「あなたのように若い人が、働くわけでもなく学校にも行かないで、ずっと家にいるというのは退屈でしょうね」
「俺は別に……」
嫌味なのかもしれないと気付いて、否定しかけた言葉を止める。だからといって、淳史が優生に制限をかけているのだとは言えなかった。
「こんな場所では落ち着かないし、コーヒーでも飲みながらゆっくり話しましょうか?」
面と向かって話したい相手ではなかったが、優生の想像が当たっていれば立ち話で済ませられるような内容ではない。外れていることを祈りつつ、カフェへとついて行くことになった。


「就職することは考えていないの?」
一息ついてから切り出された話は優生が思っていた類の内容ではなかったが、答えに窮することに違いはなかった。
「それは、淳史さんに相談しないと何とも言えないんですけど……」
「淳史がどう言おうと、自分のことでしょう? いくら未成年だといっても、甘え過ぎだとは思わないの?」
「……就職するように勧めていただいているということですか?」
「若気の至りで結婚の真似事のようなことをしても、後々困るのはあなたの方だと思うのよ」
それは、直に別れるに違いないのだから、自活できるようになっておいた方がいいということなのだろうか。
「考えておきます」
「悪いけど、あまり時間がないの。率直に言うと、淳史には普通に結婚して、孫の顔も見せてもらいたいと思っているのよ。結婚したい相手がいると聞いた時には嬉しくて、やっと親孝行する気になってくれたのかと思ったのに、まさか相手が男の子だなんて……」
感情を抑えるように言葉を切る相手に絆されて、喉元まで出掛かった謝罪の言葉をグッと飲み込む。謝ったら負けてしまうような気がした。
傍にいて欲しいと望んだのは優生かもしれないが、誑かしたわけでもなければ、泣き落としたわけでもない。籍を入れることにしたのも、そもそも優生を強引に手に入れたのも淳史の方だったのだから。
「淳史は昔から一度決めたことは曲げない性格だから、あなたの方から別れるように仕向けてもらえないかと思っていたんだけれど」
「……お約束しかねます」
もし優生から別れたいと言ったら、かねてから警告されている通り監禁や拘束という手段に出かねないだろう。或いは黙って消えるにしても、前に家出した時のことを思えば、無闇に迷惑をかけることにしかならないとわかっている。
「そう言われるのは仕方のないことだけれど……こちらに歓迎する気持ちがないことだけは知っておいて」
優生が思っていたような冷たい態度ではなく、諦めたように息を吐く姿に複雑な思いで頭を下げる。
先に席を立つ相手を見送ってから、優生も立ち上がった。
別れの気配はいつも、当人達以外の場所から漂い始める。けれども、長年離れて暮らした息子の機嫌を損ねるようなことは言いたくないという母親の気持ちも理解できる気がした。






「下見?」
テーブルの上に広げられたパンフレットは少し前に完成した分譲マンションのもので、今住んでいる場所にほど近い。むしろ駅から少し離れてしまうことを思えば、敢えて引っ越す意義は見出せなかった。
「前に義之が近くに住まないかと言っていただろう? とりあえず下見に行って、おまえが気に入れば決めようと思ってるんだが」
「引っ越さないといけないの?」
「いや、いけないってことはないんだが……そこは気に入らないか?」
「っていうより、ここは充分広くて駅にも近いのに、引っ越す必要があるとは思えないんだけど?」
見るともなくパラパラとページをめくってみても、高級そうな外観も最新の設備も、居心地の良いこの部屋以上に魅力を感じられなかった。まして、義之や里桜が近くに住むのなら、二人の時間は更に短くなってしまうような気がする。
肩が触れるほど近くにいるのに、淳史は優生の方を見もせずに低い声で呟いた。
「ここには、あまりいい思い出がないだろうが」
「え……」
淳史が何を気にしているのか、すぐにはわからなかった。
穏やかとは言い難いその表情に、優生がここで過ごした相手が淳史だけではなかったことに気付く。そういえば、引越しを持ち掛けた義之も同じようなことを言っていたことを思い出した。
「……ごめんなさい」
何度許されても、過去が消えるわけではないことを痛感する。いつもその後の態度を変えない淳史に、何も起こらなかったかのような都合の良い錯覚を起こしてしまっていたのかもしれない。

「それに、結婚したら新居を構えるのが普通だからな」
結婚を機に新居を構えるのは珍しいことではないのだろうが、何年か経って家族が増えたり、安定した未来図が描けてから実行に移す場合の方が多いだろう。優生に見せない内心で、淳史は苦いものを引き摺っていたのかもしれなかった。
初めて淳史と過ごしたのもここで、幸せな思い出も詰まっているはずなのに。
「……まだ、早いような気がするけど……」
「またこの辺りに新しく分譲が建つとは限らないからな。それに、義之と隣接して買うならタイミングを合わせないと無理だろう?」
「え、緒方さんの所とお隣になるの?」
「まあ、お互い近い方が何かと心強いしな。帰りが遅くなることも多いし、出張で留守にすることもあるからな」
それはつまり、緒方家の世話になったり、逆に里桜の面倒を見たりしないといけないということだろうか。近くと聞いただけでもいい気はしなかったのに、まさか隣だとは思いもしなかった。
自分でも意識しないうちに、優生は嫌な顔をしてしまっていたらしい。短く息を吐く淳史は、子供じみた態度を取ってしまう優生に呆れているに違いない。
「小さい子供じゃないんだからな、預けたり預かったりするわけじゃない。ただ、すぐ傍に誰かいると思えば心強いだろうが。まあ、体調が悪いとか特別な事情があれば頼むこともあるかもしれないが」
「……緒方さんも、こっちに来る方が便利なの?」
「今の所からだと学校が遠いんだろう」
「じゃ、里桜の家から出るためなの?」
「そのようだな」
つくづく、義之は里桜のことになると見境がなくなると思う。淳史も優生を甘やかせてくれていると思うが、義之のような直球ではないぶん、時としてわかり辛いことがある。
「それじゃ、待たせると悪いよね」
「そういうことだ」
優生はどこでも構わなかったが、どうしても下見に連れて行きたいらしい淳史につき合って現地に赴くことにした。






「……もしかして、緒方さんの所と同居することになってるとか?」
下見に訪れたマンションで、優生は冗談ともなく淳史に尋ねてみた。
家族が増える予定もないはずなのに、3LDKのマンションを買おうしている淳史が(もちろん義之も)理解できない。
「何で義之と同居なんかするんだ? 別々に決まってるだろうが」
「じゃ、親と同居する予定だったりする?」
「今の所、そういった予定はないが」
「……下宿でもするつもりだとか?」
「さっきから何なんだ? おまえと二人きりでしか住む気はないぞ?」
淳史は辛抱強く優生の問いに答え続けている。きっと、住む前から嫌な思い出を作るまいと思っているのだろう。
「淳史さんが買うものに俺が意見するのはどうかと思うけど……不必要に大き過ぎない? 二人で住む広さじゃないでしょ」
「そう何度も買い替えるようなものじゃないからな、後からもっと広い所の方が良かったと思っても遅いだろう?」
「それにしたって……広過ぎだよ」
二人なら、20帖を越えるリビングダイニングだけでも生活出来そうなほどの広さだというのに、寝室はともかく和室にゲストルームまで必要だとは思えなかった。
「掃除は大変かもしれないが。退屈する暇がなくていいだろう?」
冗談とも本気ともつかない口調に、わざとらしいため息を返す。
別に、手入れが嫌だというわけではない。ただ、まるでこれから家族が増えることを想定したかのような間取りが気にかかった。もしかしたら、優生と別れて新しい誰かとやり直すことを暗示しているのかもしれないと、思う自分は猜疑心が強過ぎるのだろうか。

「せめて小さな方にするとか……払っていくのも大変でしょう?」
部屋数は同じでもタイプはいくつかあり、もっと規模の小さな所でも充分だと思った。
「このくらいはないと、ピアノを置いたら寛げないぞ?」
「あ……ピアノ、置いてもいいの?」
「いつまでも俊明の所に預けっぱなしというわけにもいかないからな」
「ありがとう」
「納得したか?」
「でも……淳史さんて、そんなに高給取りなの?」
尋ねてもいいものかどうかずっと迷っていたことを、思い切って口にしてみた。
主婦業のようなことをしているとはいえ、優生は家計を任されているわけではなく、給料明細を見たこともなければ預金通帳を預けられてもいない。それは優生の希望で免れてきたことだったが、台所事情に興味がないといえば嘘になる。
「給料も安くはないと思うが、独立した時に遺産を相続してるからな。たぶん、おまえが思っているよりは持ってると思うが」
「それで金銭感覚がおかしいんだ……」
長い間の疑問が漸く解消して、思うだけに留まらず声に出して言ってしまった。
「おかしいか?」
「だって……」
普通、友人の恋人に新品のグランドピアノを贈ってくれたりはしないだろう。他にも、スポンサーになってくれると言ったり、家庭用品を一気に買い揃えたり、普通の30才にはそうそう出来ないことだと思う。
「別に無駄遣いしてるわけじゃないと思ってるんだが」
「ごめんなさい、余計なことを言って。ムリするわけじゃないんなら、俺がとやかく言うことじゃないし、淳史さんの思うようにして?」
「じゃ、ここでいいんだな?」
念を押されて頷いたが、なぜか優生がここに住む日を思い描くことはできなかった。






「美波(みな)……」
咄嗟に呼んでしまったのだろう、淳史の声の響きに含まれる慣れのようなものを感じて足を止める。
見たくはなくても、マンションの前に立つ背の高い女性の姿が嫌でも目に入ってしまう。一目で、淳史と関わりのある人だとわかった。そうでなければ、こんなにも鼓動がむちゃくちゃに走り出したりするはずがない。
窮屈そうな胸元を惜しげもなく晒しているのに、その白く柔らかそうな肌を正視することが優生には出来なかった。
くびれた腰から続く豊かなラインが淳史の好みを具現化しているようだ。淳史の言うところの色気があるというのは、こういう容姿を指すのだと思い知らされたような気がした。確かに、優生とは似ても似つかない。圧倒されて、身を隠してしまいたくなるほど。
「久しぶりね。全然声がかからないから出向いてきたわよ」
責めるような口調の中に、歓迎されることがわかっているかのような自信が窺えた。ハッキリとした目元や口角の上がったルビーレッドの唇には些かの気後れもない。
「俺は終わった相手は誘わないんだ」
素っ気無く返す淳史の言葉に、胸を押えずにはいられないほど鼓動が逸る。
つき合っていたことを認められたというより、もう終わっていることを強調されたのだと思えればいいのに。どうして自分はこんなにもネガティブなのだろう。
「固いこと言ってないで、早く部屋に案内しなさいよ。どれだけ待ったと思ってるの?」
「部屋には入れない約束だったはずだが?」
高飛車な物言いにも、淳史は気を悪くした風もなく静かに返す。それをどう取ればいいのか、優生には判断できなかった。

「じゃ、場所を変える?」
挑発的な言葉にすぐには答えず、淳史は優生を振り向いた。
窺うような眼差しに、決定権を振られたことに気付く。出来ることなら優生を除いて外で話してもらいたいと思ったが、正直にそう言うのは躊躇われた。
淳史の後ろから、急かすように向けられた視線に、優生は一番楽な方法を選んでしまう。
「……俺が外そうか?」
本心からの言葉に、淳史が過剰に反応する。瞬時に肘の辺りを掴んだ手の強さは、まるで優生が失踪するつもりなのだとでも思ったかのようだ。
「おまえが遠慮する必要はないからな」
その場に居たくないというのが本音だったが、そうと察してくれない淳史の気遣いが却って痛い。
腕を取られているせいで、二人から数歩下がるというわけにもいかず、淳史を挟んで反対側を歩く相手と、ほぼ三列で部屋へと向かうことになった。
「男の一人住まいにしては随分セキュリティがしっかりしてるわね」
「今は一人じゃないんだが」
先の淳史の言葉の通り、ここへ訪れるのは初めてらしく、興味深げにあちこちへと視線を向けている。値踏みしているようにも見えるのは、終わっているという淳史の言葉を認めていないからなのかもしれない。
初めて訪れた時には戸惑うばかりだった優生と違って、自分が過ごすことを視野に入れて観察しているのだろう。マンションの下見にも、ただついて行っただけの優生とは大違いだ。
玄関のドアを開ける前に、淳史は確認するように優生を見た。すぐには意味がわからず、軽く首を傾げる。小さく息を吐く淳史の心情など、優生には理解できなかった。
淳史は他人を自分のテリトリーに入れることを嫌うが、優生は誰が部屋に入っても殆ど気にはならない。それよりも、同じ空間に自分がいることの方がよっぽど我慢し難いと思った。


「奥に行ってるね」
小声で淳史に告げたのは、いつかのように優生に余計な疑惑や興味を持たれたくなかったからだ。
「おまえに聞かれて困るようなことは何もないから気にするな」
暗に席を外すことを認めないという強い口調に、寝室に控えることも出来なくなってしまった。
「じゃ、コーヒーでも淹れてくるね」
その場しのぎでもいいと、キッチンへ逃れる。コーヒーメーカーをセットして、少しでも時間を稼ぐために豆を挽くことから始めた。
コーヒーが入るまで、カップを用意してカウンターの内側のシンクに凭れかかるようにして待つ。ほど近い二人の、声を潜めているわけでもない会話は、聞かないように意識しているつもりの優生の耳にも届いてくる。
「淳史、そろそろ結婚しない?」
「そういや報告してなかったな、俺は4月にしたんだ」
「まさか、そこの色気のない人と?」
ちらりと優生に投げられた視線は、信じられないと言いたげだった。
淳史のつき合う相手はいつも、見た目だけでなく性格もきついタイプばかりだと思う。優生が知る他の相手のことを考えてみても、淳史は気の強い女が好みだということなのかもしれない。
「意外と色っぽかったりするんだが」
「淳史が若い子が好きだとは知らなかったわ。しかもオウトツのない平坦なボディに色気を感じるなんてね?」
「宗旨変えしたんだ」
「それで、ずっと声がかからなかったのかしら?」
「戻ってることも知らなかったからな」
「辞めたのよ、結婚しようと思って」
「それでわざわざ報告に来たのか?」
「いやね、淳史とに決まってるじゃないの」
何気なさそうでいて核心を突いたその一言に、優生の体中の血が引いていく。
足元が揺らぐほどの優生の動揺など知らない淳史の、至って平然と返された答えには心臓が止められるかと思った。

「断られた覚えがあるが」
「本気じゃなかったくせに」
「返事次第では本当にしてたと思うが」
軽く受け答えする淳史も、優生の存在を承知でそんなことを言う相手も、何もかもが理解の範疇を超えている。
あまりの衝撃に崩れそうな体を、シンクに寄り掛かるようにして堪えた。何かが溢れそうな口元を、掌で覆って俯く。
それに気付いているのか、淳史は一旦話を止めて、カウンター越しに優生の様子を覗きに来た。
「優生? いつまで隠れてる気だ? そんなに心配しなくても取って食いはしないと思うが」
「……ごめんなさい、ジャマになりそうだから」
「心配しなくても眼中にも入ってないわよ?」
どちらかと言えば小声で言ったつもりの言葉も、しっかり聞き取ってしまっている相手が怖い。しかも、優生の存在を全く気にも留めていないと言われて、自分の遠慮がただの自意識過剰だったことを思い知らされた。
「気にしなくていいからな、昔から自分勝手な女なんだ」
「淳史には言われたくないと言いたいところだけど……ちょっと会わない間に随分変わったようね? 前はそんな温い顔はしなかったもの」
「年がいくと丸くなるものだろう」
「淳史がそんな風に気を遣うところなんて見たくなかったわね。やっぱり、若い子とつき合うと疲れるでしょう?」
「いや、そうでもない。優生の方が気を遣うタイプだからな」
「気を遣ってばかりだと続かないわよ?」
それがただの嫌味ではなく、事実だということくらい、優生にもわかっている。

「美波(みな)はもう少し気を遣った方がいいと思うが」
「しおらしい女の方が良くなったとは知らなかったわ。淳史は本当に変わってしまったのね」
泣き出しそうに見えたのは一瞬で、ソファを立ち上がって淳史の傍に来る間に艶やかな笑みを作った。年齢のせいか、元からなのか、優生の持たない強さを湛えた相手が羨ましい。
「淳史の目が覚めるのを待ってるわ。今まで待ったんだもの」
ドアの方へ向かうように見えた体を、淳史はカウンターに肘をついて凭れかかった体勢のまま目で追った。
足を止めた相手は、淳史の肩に素早く手をかけて覗き込むように顔を近付けた。不意を突かれた淳史には、その別れの挨拶が避けられなかったらしい。
咄嗟に、見てはいけないと思って視線を逸らした。突き飛ばすわけでなければ引き離すわけでもない、相手の為すがままに受け止める淳史など見たくない。
「コーヒーはまた今度いただくわね」
別れの言葉は明らかに優生に向けられたもので、何と答えたらいいのかわからなかった。
淳史はともかく、優生にはもう会う必要はないはずなのに。
送り出すために出てゆく淳史の背を目で追いながら、その二人の違和感のなさに打ちのめされた。綺麗な人なのに、淳史と並んでも“美女と野獣”という感じはしない。今頃になって、その言葉が決して褒め言葉ではなかったことに気付いた。淳史と優生では、それほども差があるという意味だったのだろう。
なんとなく、リビングへ行く気にはなれなくて、シンクに凭れたままで淳史が戻るのを待つ。
ふいに、絶妙のタイミングで現れた理由に思い当たった。もしかしたら、淳史の母親に頼まれたのかもしれない。胸に湧いた疑惑は、すぐに確信に変わった。


「優生?」
「……え……あ、なに?」
重ねた手のひらの上に伏せていた顔を上げる。名前を呼ばれたことに気付くのが少し遅れた。優生は自分の考えに没頭していて、淳史が近くにいることさえ失念してしまっていたようだ。
目が合うと、淳史がひどく不機嫌そうに見えて戸惑った。ただ、この場合、怒るのは優生の役ではなかったのだろうか。
とりあえずキッチンから出て、カウンターの前に立つ淳史の傍に近付いた。大きな掌が額へと伸びてきて、前髪をくしゃりと撫でる。
「キスされたくらいで拗ねるなよ」
「そういうわけじゃ……」
拗ねていたわけではなく、先日のとはまた違った手強そうな問題に憂えていたのだったが。
それが反抗的に見えたのか、ますます淳史を苛立たせることになってしまったらしかった。
「俺は随分我慢してきたと思うが」
優生が落ち込んでいる理由をはき違えたらしい淳史の言葉が胸に刺さる。
「……そう、だよね。ごめんなさい」
それでも、淳史の言い分は尤もで。泣きそうな自分を叱咤しながら、優生はきちんと頭を下げた。
感情を抑えるようにひとつ息を吐く淳史に、胸の奥が軋む。抱きよせようとする腕に逆らう権利は、優生にはなかったことを思い出す。
「話すから、ちゃんと聞けよ?」
小さく頷いて、淳史の胸元へ顔を伏せる。この先、もし淳史が浮気したとしても、優生には拗ねることはおろか、責められるような立場ではないのだった。いつも、何度も、淳史に許されてきたのに。
低く、思いのほか落ち着いた声が優生の耳元で響く。その声に呼ばれる名前が自分以外の人のものだということも、優生の胸を締め付けるようだった。

「さっきの……坂本 美波子(さかもと みなこ)って言うんだが、俺より五つ年上で、ツアコンをしてるせいか一ヶ所に落ち着いたことがないような多忙な女でな、二年くらいつき合ってたんだが、いつの間にか仕事に取られたような感じで終わってたんだ。それでも時々、忘れた頃に連絡が入って近況報告をしてるような感じだな」
「そう……」
終わったと思っているのは淳史だけで、相手の方はそうではないようだと、優生にもわかるのに。
おそらく、紫の言うところの淳史がつき合っていた5歳年上の女性というのは冬湖ではなく、美波子のことだったのだろう。だから、目の当たりにした時、冬湖の時とは比べ物にならないほど優生の鼓動は激しく乱れたのだと思う。
「何か言いたいことはないのか?」
「うん」
「聞きたいことは?」
「ううん」
淳史の過去より重要な問題に直面している優生には、気遣われているのだということが理解できなかった。
「おまえのことは話したし、美波とやり直す気がないことも伝えたからな。何も心配しなくていいからな?」
ふと、淳史が“みな”と呼ぶことに違和感を覚えた。優生のことは“ゆい”とは呼ばないのに、その人のことは親しみを籠めて愛称で呼んでいたのだろうか。今まで、呼び難い名前を省略されずに呼ばれることを嬉しく感じていたことを忘れてしまうくらい、それは衝撃的なことだった。
「優生?」
「うん」
覗き込んでくる淳史と吐息が触れそうで、思わず離そうとした体が一層強く腕に捕らわれる。ついさっき、自分には拒否権はないと言い聞かせたはずだったのに、その胸から逃れたくなってしまう。
これ以上反抗的に映らないよう、優生は目の前にある事実から逃避するように目を閉じた。


寝室へと促されたのは、ソファに残る気配に気を遣ったからなのかもしれない。
少し乱暴に倒された無防備な体がベッドに沈む。逆らう気はなかったが、淳史は肩にかけた手に軽く体重を乗せてきた。
覗き込むように見つめられて瞳を上げる。諦めのせいか、自分でも不思議なくらい穏やかになれた。
塞がれた唇はすぐに貪るように深く重ねられてゆく。目を閉ざして、淳史に求められるまま従順に全てを委ねていても、胸の芯は静かに冷えていて、淳史の掌の温度では温まることはなかった。
「ん……」
煽ろうとする手にも素直に声を上げた。こんなにも薄い胸でも、淳史の興味を引くのだろうか。あんなにグラマラスな体を見た後でも。
淳史の唇や指が体を滑る間中、あまりにも今更なことをただぼんやりと考えていた。
「優生」
苛立たしげな声に、伏せた瞼を上げる。ショックが大き過ぎると何も感じなくなるのかもしれない。
視線は合っているはずなのに、淳史の目に宿る感情を読み取ることは出来なかった。根深い人間不信は淳史さえ例外ではなく、薄い帳の向こう側にいるように不確かな輪郭しか認められない。
「あっ……ん」
それでも、どこか冷めた気持ちとはうらはらに、体は熱く蕩かされていたらしかった。体に馴染んだ愛撫は優生を容易く高みへと誘い、欲しくて堪らないかのように背が撓う。
「……優生」
訝しげな声に、焦点の合わない瞳を向けた。優生の胸の奥を覗こうとしているのだと気付いて、また目を伏せる。
「あっ……ぁんっ」
指の代わりに宛がわれたものが、いつものようにゆっくりと潜りこんでくる。掴まれた膝裏を押し上げられて、馴染ませるように中をかきまわされると否応なしに現実に引き戻されてしまう。
「何を、考えてる?」
「……ううん」
「嘘を吐くな」
「ほん、とに……何も、ん……や、んっ……」
焦れたように激しく奥まで突き上げられると何も考えられなくなってしまう。けれども、どんなに熱く求められても、今は優生の胸の温度を上げることは出来そうになかった。






「工藤が荒れてるような気がするんだけど、やっぱ、ゆいちゃんのせい?」
久しぶりに紫の呼び出しに応じたのは、淳史の様子がおかしいとメールされたからだ。
淳史の機嫌を損ねてしまっているという自覚は充分にあり、紫から何がしかの解決法の糸口を貰えるかもしれないと思うと、ついいつもの店に出向いてきてしまっていた。
冬湖の店で会うのは疚しいところがないからだと自分に言い訳しながら、その実はただ単に居心地が良いからなのかもしれない。美味しいランチと、食後のコーヒーを飲みながらゆったり過ごすひとときは穏やかで、ささくれ立った気持ちを和ませてくれる。
「俺、ずっとおとなしくしてるんだけど」
「何か心当たりはないの?」
「なくもないんですけど」
淳史の昔の女性のことを話すかどうか迷っていたのは優生だけでなく、紫も同様の気遣いをしていたらしかった。
「ゆいちゃん……工藤の昔のこととか、聞いたことある?」
「女性関係のことなら、多少は。この間も元カノが家まで来たし」
「え、ゆいちゃんのいる時に?」
「うん。結婚セマられてた」
「サラッと言うなあ……よっぽど信用してるんだ?」
そんなわけないでしょ、と言うわけにもいかず、曖昧に肩をすくめるに留めた。
「なんか恩のある人なんだって? ゆいちゃんと籍入れといて良かったって言ってたけど?」
「そうなんですか? だから淳史さん、控えめだったのかな」
そう考えると、少し横暴なところのある淳史にしては珍しく、無下な扱いをしなかったことに合点がいく。
「思うんだけど、ゆいちゃんがヤキモチを焼いてあげなかったから拗ねてるんじゃないの?」
「俺、キスされたくらいで拗ねるなって叱られましたけど?」
優生が思っていた以上に、淳史が紫に深い話をしていたことを知って気が緩んでしまっていた。それとも、本当は誰かに吐露したかっただけなのかもしれない。投げ遣りに口にしてしまったエピソードは、気安く他人に話すようなものではなかったのに。

「え、キスシーンまで見ちゃったの?」
「不本意ながら」
おそらく、相手の方は意図して見せたのだろうが。
「ゆいちゃんてさあ、若いのに落ち着いてるっていうか、クールだよね。工藤の方がオロオロしちゃってるんじゃないの?」
「まさか。その人にはともかく、俺には強引だったし。そうだ、紫さん、冬湖さんが淳史さんのお姉さんだって知ってました?」
正しくは姉みたいなものだと、言っていたのだったが。
「え、そうなの? でも、工藤にお姉さんなんていたかなあ?」
「お母さんの再婚相手の方の、って言ってたから薄いみたいですけど」
「ふうん……じゃ、元カノじゃなかったんだ?」
「みたいですね、今度の人は本当だそうですけど」
事実だけを淡々と告げる優生に、紫は意味有りげな視線を向けた。
「ゆいちゃんは大人だなあ。工藤の相手がゆいちゃんだって知った時は驚いたけど、なんか、納得しちゃったかも」
「そういうんじゃないです。俺が友達の恋人だったから興味を引かれただけだし」
「なになに? どういうこと?」
またもや口を滑らせてしまったのかもしれないと思ったが、半ば自棄のようになっていて、撤回する気にはならなかった。
「淳史さん、友達の恋人っていうシチュに弱いらしいんです。俺のことも、最初は色気が無いとか子供過ぎるとか言ってたし」
「そうなの? 何か、いいこと聞いちゃったかも」
「あの、淳史さんには言わないでくださいね?」
いつになく不穏な表情を見せる紫に、慌てて口止めを試みた。

「じゃ、口止め料くれる?」
「え……」
ひどく不謹慎な想像をしてしまった優生に、紫は葉書ほどのサイズの、トールペイントの展示会の案内を差し出した。会場は一駅向こうの文芸会館で、そう大きな規模ではないようだ。
「来いって言われてたんだけど、ひとりでは行きにくかったんだよね。ああいうのに来るのは女の人ばっかだし」
「トールペイントって何ですか?」
「ヨーロッパの伝統的な技法を使って描いた絵のことらしいよ? 雑貨とかボードに、花とか風景とかアンティックっぽい絵を描いてるのを見たことない? カントリーの雑貨とかに多いんだけど」
「わかるような気もするんだけど、俺が思ってるので合ってるかな……。それで、その展示会に一緒に行ったらいいんですか?」
「そうそう。まあ、代表の人に俺との関係を突っ込んで聞かれたりするかもしれないけど、気にしないで」
「もしかして、昔の相手とか言うんじゃないですよね? 俺、勘違いされて恨まれたりなんて事態は遠慮したいんですけど」
「ないない、母親だから」
母親という単語に、自分でも驚くくらい体が拒否反応を示してしまった。
一瞬で固まった優生に驚く紫は、淳史の母親と会ったことを知らないのだろう。
「心配しないでいいよ? 俺の性癖はもう諦めてるから。ただ、こんな可愛い人を連れて行ったら勘違いされるかもしれないけどねー」
おそらく紫に下心はなかったはずで、優生も、つき合っているわけでもない男の親に会うことに深い意味は感じなかった。
その気楽さもあってか、結果的にその人を交えて過ごした時間は、落ち込んでいた優生を癒してくれるほど優しいひとときになった。
まさか、それが淳史の逆鱗に触れるかもしれないとは想像もしなかった。






出迎えるのを放棄したくなるくらい、淳史は不機嫌極まりない表情を露に戻ってきた。
“ただいま”の儀式もそこそこに優生をリビングに引っ張っていくと、苛立たしげにソファへ座り込んだ。腕を掴まれたままの優生の体が、その膝へと引き寄せられる。
「後藤には会うなと言ってなかったか?」
「言われてないと思ってたけど……?」
止められた覚えはないと思っていたが。
それには答えず、淳史は態とらしいほど盛大なため息を吐いて問いを重ねてきた。
「いつから後藤と親ぐるみのつき合いになったんだ?」
「……え?」
口止めしたのは会っていたことではなく、だから紫が淳史に話したのかと思った。
「後藤が電話でおまえの話をしているのが耳に入ったからな、問い詰めたら白状したんだ」
「……何を?」
「おまえ、後藤の母親にずいぶん気に入られたらしいな? 一体、何でそんなことになったんだ?」
「トールペイントの展示会に行っただけだよ? お母さんが講師をしてて、休憩に一緒にお茶しただけなんだけど」
確かに、展示会で会った紫の母親に気に入られて紅茶とチーズケーキをご馳走になったのは事実だ。
けれども、優生が紫の相手だと思われているような言葉をかけられた時に、つき合っている人は別にいて、一緒に住んでいることも話してあり、決して淳史が勘繰るような意味合いではなかった。
紫の性癖を受容しているからか、優生の告白にもごく自然な反応が返ってきた。それどころか、息子の恋人ではなかったことを残念がってみせるくらい、とても親しみやすい人だった。
やや饒舌に優生と話したがるところは紫に似ていて、なかなか帰らせてもらえなかったのには参ったが、決して不快な感じはしなかった。朗らかで、威圧的な面は一切なく、淳史の母親がその人ならきっと上手くつき合えたのではないかと思ってしまうほど、優生に優しく接してくれた。
「……他所の親より、俺の親に気に入られようとは思わないのか?」
我慢ならないと言いたげな表情は、淳史の親には優生が気に入られなかったことを雄弁に語っているようだった。
だから会いたくなかったのだとか、別に気に入られたいとも思わないとか、口に出してはいけない言葉が不意に飛び出してしまいそうになる。

「何とか言えよ?」
「……別に、紫さんのお母さんに気に入られようと思ってたわけじゃないし、淳史さんのお母さんとつき合いたくないわけでもないよ」
ただ、相性か性格か、優生が意図してスタンスを変えて接したわけではない以上、相手の方の都合なのだろうと思った。
「おまえ、甘いものは嫌いなんじゃなかったのか?」
「どっちかといえば苦手だけど……」
「おまえがケーキを食って嬉しそうにしてる所なんて俺には想像もできないんだが」
「あ、チーズケーキだったから……」
甘いものは苦手だが、チーズケーキやアイスは自ら進んで食べたいくらい好きだ。
「チーズケーキなら好きなのか?」
「うん」
何気なく頷いた優生に、淳史の不機嫌はピークを迎えてしまったらしかった。
「どうして、そういうことは俺に言わないんだ?」
「どうしてって……特に言っておかないといけないようなことじゃないと思うけど」
淳史が、実は貢ぐのが嫌いではないらしいということを忘れていた優生には、その怒りの理由は理解出来なかったのだった。
「それに、よりによって、こんなタイミングで他の男の親に会わなくてもいいだろうが」
「俺が会いたいって言ったわけじゃないよ。たまたま手が空いてたらしくて、外に出る時間が取れただけだし」
「後藤とつき合ってると思われたから、わざわざ時間を取ったんじゃないのか?」
「それはないよ。紫さんも、“人のもの”だって言ってたし」
「人のものだと言いながらも、しつこく誘うのは付け入る隙があると思われてるからじゃないのか?」
低い声で詰め寄られても、なぜか優生は素直に謝る気にはなれなかった。
「……でも、淳史さんは人のものがいいんでしょう?」
優生が淳史のものになったから興味が半減してしまったのではないかと尋ねたつもりだった。こんなにも憤っているのは、自分のものだと安心していたのに、誰かに脅かされそうになったからではないのか。
「人のものを取った覚えはないぞ?おまえのことも、俊明が手放すまでずっと待ってただろうが。まあ、ちょっと狡かったかもしれないが」
「俺じゃなくて……」
彩華のことだと、名指しで言うのは躊躇われたが、淳史にはすぐにわかってしまったらしかった。
「彩華のことを言ってるのか?」
悪びれもせずに問い返されると、優生の方が戸惑ってしまう。
「俊明に何か言われたのか? おまえに話す必要はないと思ってたんだが、先に彩華とつき合ってたのは俺の方だからな? それから彩華は義貴先生に出逢って一目惚れして、口説いて口説いて落とせなかったから俊明に矛先を変えたんだ。俺が横恋慕したわけじゃないし、先生が取ったわけでもない」
「え……義貴先生って、俊明さんの奥さんを取ったんじゃなかったの?」
淳史の方が先だったことより、義貴が簡単には彩華に靡かなかったと言われたことの方に驚いた。
「取ったわけじゃない。義貴先生は、彩華が俺とつき合っていたことを知っていたから断り続けていたくらいだからな。まさか、そのせいで彩華が俊明を口説くことになったとは思いもしなかったはずだ」
「先生が断ったから俊明さんを口説いたって、どういうこと?」
「義之のことも口説いたらしいからな。義貴先生が無理なら、せめて息子の方でもと思ったんじゃないのか?」
それで別れる破目になったはずなのに、淳史の口調は妙に淡々としていた。優生には些細なことですぐに腹を立てるのに、彩華に対しては随分と寛容なようだ。いつまで経っても、何もかもが、あの艶やかで美しい人には敵わない。
「でも……結局は俊明さんとも先生ともつき合ってたんだよね?」
「義貴先生は、俺が彩華と別れたから断り続ける理由が無くなったと思ったんだろうな。もちろん、彩華と俊明がつき合うことになったとは知らなかったはずだからな」
「先生も、淳史さんには気を遣ってたんだ?」
「まあ、知らないわけじゃなかったからな」
おそらく、淳史が省略したのは、どれほど彩華に思い入れていたのかを、という言葉だったに違いない。

「でも……本当は先生の方が好きだったんなら、どうして俊明さんと結婚したのかな?」
義貴が振り向いてくれたのなら、とっくに俊明は必要なくなっていたのではないのだろうか。
「俊明とつき合っていることが義貴先生に知れて、別れ話をされたんだそうだ。それで、彩華が開き直って脅しを掛けたらしいな」
「脅しって……誰に? どういうこと?」
普通に考えれば、二股をかけていた方が立場が弱いものではないのだろうか。
「義貴先生が別れるつもりなら、俊明に全部話すと言ったんだ。いくら知らなかったといっても、息子の恋人と関係を持ったなんてバラされたくないだろう? 先生が別れ話を撤回すれば、彩華も俊明に余計なことは言わないという約束で、続けることになったんだ。だから、俊明とつき合ううちに結婚の話が出ても、彩華は断れなかったんだろうな」
義貴を繋ぎ止めておくために息子と結婚するという思考が、そもそも優生には理解できない。優生には想像もつかないほど、彩華は恐ろしい人物だったようだ。
「でも、義貴先生も彩華さんのことを好きなんだよね?」
前に義貴に攫われた時、彩華に泣きつかれて優生に酷いことをしようとした、というような言い方をしていた。
「どうだろうな……情はあるだろうが、できれば解放されたいと思ってたんじゃないのか?」
「そうかな?」
「義貴先生があんな風に女に節操がなくなった一因は彩華にあるようだしな」
「そうなの?」
彩華の話は聞けば聞くほど優生を女性不信に陥れてしまいそうなエピソードばかりだと思うが、義貴に限ってそんなことはないだろう。ルックスにしろ職業にしろ、相手に事欠く要素はひとつもないが、それに加えて来る者拒まずな性格なのだから。

「先生は元から貞操観念は緩い方だと思うが、輪をかけてひどくなったからな」
「どうして?」
「彩華を複数の中の一人だと強調したかったんじゃないか? 彩華が特別だと思われないようにしていたようだったからな」
「遊んでいるように装って、本気じゃないってアピールしてたってこと?」
遊ばれかけた当事者としては、フリではなく好きで遊んでいたようにしか思えなかったのだったが。
「おまえが思ってるほど悪い人じゃないと思うが……割り切ってる相手としかつき合ってないしな」
「でも……」
では、優生も割り切れる相手だと思われたのだろうか。淳史とつき合っていることは知っていたはずなのに。
「おまえのことは誤解していたと言ってたんだろう? 義之からそう聞いたんだが、違うのか?」
「あ……そういえば、淳史さんも大変なのに捕まったんだろうと思ってた、って言ってたかも」
「一概に間違いとは言えないかもしれないな。俺も、おまえがこんな一筋縄ではいかないような面倒なタイプだったとは思いもしなかったからな」
まるで、優生が義貴に襲われる寸前だったことなど忘れてしまっているかのような、そろどころか相手に同調するような口調に、また釈然としない思いが湧き上がってきた。
結果的に大事には至らなかったが、優生がどれほど怖い思いをしたのか淳史は知らないのだろう。何かが起きたかもしれないと誤解されるのが嫌で、優生が平気ぶったせいで、淳史の義貴を信頼する気持ちは変わっていないのかもしれない。
そもそもの口論の発端をはぐらかされてしまったのは淳史の方だったのか、実は優生なのかはわからなかったが、いつの間にか、気を殺がれたように険悪なムードは去っていった。







きっと、こんな日が来ることもわかっていたような気がする。
何の連絡もなく、突然マンションの前に現れた美波子を見た瞬間、リミットはすぐそこまで迫っていたことを知った。
「淳史さんは仕事ですけど」
それを承知で美波子がここにいるのだと、わかっているのに優生の方からそう言ったのは、少しでも先に延ばしたかったからかもしれない。
「今日はあなたに話があって来たのよ」
優生の想像に違わない答えに、予感は確信に変わった。淳史の母親に会ってからずっと感じていた不安に、とうとう追いつかれてしまった。
「……部屋で話します?」
少し迷いながら尋ねた優生に、美波子はひどく驚いたような視線を向けた。優生からすれば、この状況で場所を変えることを提案する方が不自然に思えたのだったが。
「いいの?」
「だと思いますけど」
つい先日、他人が家に入ることをあまり歓迎しないはずの淳史が部屋へ通したのだから、美波子が入るのは構わないのだろう。優生は家主の決定に意義異論を唱えられるような立場でもない。
並んで歩き出す相手の目線は少し見上げなければならないくらいの高さで、ヒールの分を考えれば身長はそう変わらないはずだった。特別威圧的な態度を取られているわけでもないのに圧倒されてしまうのは、敵わないと思い知らされるからだろうか。
「淳史とは、いつから?」
沈黙の気まずさを感じていたのはお互いさまだったのか、単に早く用件に入りたいと思っていたのか、美波子が先に口を開いた。
「初めて会ったのは去年の暮れくらいですけど」
「じゃ、半年かそこらで籍を入れたってこと? ずいぶんせっかちなのね」
淳史のことを言っているのなら同意するが、優生のことを指しているのなら大きな間違いだ。強引に養子縁組したのは淳史で、優生は押し切られたに過ぎないのだから。

答えようのない優生に、美波子は問いを変えることにしたようだった。部屋までの距離をこんなに遠く感じたのは初めてのような気がする。
「接点があるように思えないんだけど、きっかけを聞いても構わない?」
「それは俺じゃなくて淳史さんに聞いてもらえますか? 話すと叱られるかもしれないので」
「人に知られたくないような出逢いだったということね」
聞こえるくらいの声ながら、美波子の呟きは独り言のように返事を求めてはいないようだった。
漸く辿り着いた部屋のロックを解除して、先に美波子を通す。
ひらりと揺れるスカートの裾から伸びた柔らかそうな脚のラインと、脱いだパンプスを揃える仕草が女らしいと思った。
優生がいくら華奢で骨細だといっても、女性の体とは全く別物だ。脂肪の薄い、柔らかいとは言えない体も、厳しく躾けられた立ち居振る舞いも、決して女性的ではなかった。
そうあって欲しいと言われたわけでもないのに、淳史の好みから逸脱している自分に強い引け目を感じてしまう。自分の性別や外見と内面に違和感を感じたことなど一度もないのに、初めて、別の性に生まれていれば良かったと思った。

美波子をリビングに通してから、キッチンの方へと向かいかけた優生を足止めするように、背中から声がかけられる。
「どうしたら別れてもらえるの?」
あまりにも突然に切り出された本題に、足元が凍りつく。その場に立ちすくんだまま、美波子を振り向いた。
気丈そうだと思っていた相手が今にも泣き出しそうに見えて、まるで優生が悪いことをしているような気にさせられる。淳史との将来を夢見る相手にとって、優生は邪魔者でしかなかった。
「何年も会っていなかったようですけど、急にそんなことを言うのは、何か事情でも出来たんですか?」
余計なことは言わないつもりでいたのに、自分でも思いがけずきつい口調になってしまった。
「淳史のお母さん、ガンなんですって。初期で悪性ではないらしいけど、転移の可能性がないわけじゃないでしょう? 五年生存率って聞いたことある? 五年経っても再発しなければ90%以上再発の心配はないということだけど、逆に再発すれば覚悟しないといけないということだから……万が一のことを考えて、少しでも早く淳史に普通の結婚をして子供を作って欲しいという気持ち、わかってあげられない?」
だから、あの時も悲しそうな顔をしていたのだろうか。まさか、そんな事情があったとは思いもしなかった。
「……どうして、それを淳史さんに言わないんですか?」
「淳史を追い詰めるようなことはしたくなかったんだと思うわ。もしも一時の気の迷いなら、お互い嫌な思いをしたくないでしょう?」
優生とのことを一時の気の迷いだと思い込んでいるのなら、そう考えるのは当たり前なのだろう。
「どうして、俺には話すんですか?」
「あなたが聞いたからでしょう?」
それが真実かどうかは別にしても、尋ねてしまったのは優生の落ち度に違いなかった。
「もし俺が淳史さんと別れたら結婚するんですよね?」
「それは淳史次第でしょう? もちろん、そうなれるように努力するつもりだけど……無理なら子供だけでも欲しいと思っているの。私ももう若くないし」
おそらく初産だろうから、少しでも若いうちに、ということなのだろう。淳史の母親も、せめて孫の顔だけでも見たいと言ったのだろうか。二人の望みが一致したのなら、それを妨げるのは優生だけということになる。
「……そうですか」
明確に了解したわけではないのに、まるで優生が聞き入れることを確信したような表情を見せる美波子に、勝てるはずがなかった。


「淳史さんを待ちます?」
「え、ええ」
曖昧な問いに戸惑う美波子に、何の説明もしないくらいの意地悪は許されるはずだ。
「すみません、ちょっと外します」
首を傾げる相手を置いて寝室へ向かう。優生がここへ持ち込んだものは僅かで、殆どは借り物か買い与えられたものだ。当面の着替えとシステム手帳と財布をディパックに収めてしまえば、持ち出さなければいけないものはなくなってしまう。
携帯の電源を落として、指輪と鍵と共にベッドサイドに置けば、もう優生を縛るものは何もない。
もちろん、洗濯物を干したままだとか、さっき食材を買ってきたばかりだとか、淳史には不要な優生の荷物を残してしまうことだとか、完璧にはほど遠かったけれども。
左肩にディパックを掛けてリビングに戻る。努めてさりげなく、美波子に頭を下げた。
「じゃ、後はお願いします」
「えっ」
何か言いたげな、もしくは尋ねたそうな相手を振り返らず、真っ直ぐに玄関へ向かった。少し古びた一足を選んで外へ出る。
ドアを閉めると、こみ上げてくるものに一旦足を止めた。振り向いて、慣れ親しんだ場所を心に留める。
淳史は気に入っていないような言い方をしていたが、優生には大切な場所だった。
感慨に浸っていると揺らいでしまいそうで、振り切るように離れる。足早に目的地に向かうことにした。
なぜいつも、優生のものになったと思った途端に手からすり抜けていってしまうのだろう。失くすものなら、最初から手に入らない方が良かった。閉じ込めるように強く抱く腕も、壊すことを恐れるみたいに優しく触れる指先も、もう失くしては生きていけないと思っていたのに。
あれほど思い入れていた彩華のことも、多少の時間はかかったのかもしれないが諦めてしまった淳史は、優生のこともすぐに過去にしてしまうだろう。ましてや、一度は結婚しても良いとまで思った相手が傍にいれば。


時計は正午を回ったところで、最近まともに昼休みを取れたことがないと言っていた淳史の予定はさっぱりわからなかったが、何故だか今しかないような気がした。
優生からは殆どかけたことのない番号に電話をする。2度のコールで答える声が妙に懐かしく響く。
「ごめんなさい、仕事中に。優生です」
『どうかしたのか?』
勤務中に電話を掛けたことなど一度もなく、まして持たされている携帯ではなく公衆電話を使う優生に、淳史はひどく心配げな声を出す。話していても構わないのかどうかを確認して決心が鈍るのが怖くて本題に入ることにした。
「俺、一人で生きていくことにしたから……今までお世話になりました」
『優生? 何の話だ?』
わずかに声を荒げる淳史に、意味は正しく伝わっているはずだった。
「淳史さんの所に置いてきたものは、面倒だと思うけど処分して?」
『優生、まさかと思うが、別れ話でもしてるつもりか?』
「……うん」
『何かあったのか? すぐに戻るから少し待ってろ』
「ううん、家からじゃないから……淳史さんもお仕事サボっちゃダメだよ」
『そんなことを言ってる場合か。何があったんだ?』
聞かれるとわかっていた問いなのに、答えるのは難しい。尤もらしい理由はいくつもあるのに、口にすると嘘だとバレてしまいそうで。
「……疲れたのかな。学校にも行かせてくれないし、禁止事項ばっかりだし」
『優生』
明らかな動揺が電話越しに伝わってくる。手放すことを惜しんでくれるだけでも、報われる気がした。

「俺がいなくても、淳史さんは困らないでしょう?」
もっと淳史の好みにあった人が待っているんだから、と胸の中で続ける。
『困るに決まってるだろうが。今どこなんだ? 電話でするような話じゃないだろう、すぐに行くから場所を言え』
面と向かっていたらわからなかっただろう淳史の焦燥が、不思議と電話を通すと伝わってきた。
「……最後のお願いだから聞いて? 俺を捜さないで。仕事を休んだり辞めたりしないで。俺にこれ以上責任感じさせないで」
『何を勝手なことばかり言ってるんだ』
「ごめんなさい。でも、もう俺を自由にして』
『今更放せると思うか?』
怒りを通り越したような、いっそ静かな声に絆されないよう、強気を装う。
「携帯も指輪もキーも置いてきたから……俺はもう帰らない」
『失踪でもするつもりか?』
「淳史さんが捜すんなら、隠れないといけないかも」
『どんなことをしてでも捜して連れ戻すからな』
それを嬉しいと思ってしまう気持ちを悟られないよう、わざと冷たい言葉を返す。
「見つからないよ、絶対」
『見つけたら覚悟は出来てるんだろうな?』
「……いいよ。監禁でも拘束でも、好きにして」
『優生』
何か言い掛けている途中だと承知で受話器を戻す。これ以上話していたら、絶対に負けてしまう。
新しい場所へ連れて行くべき相手は優生ではなく、淳史の家族まで幸せに出来る人だ。冷静になれば、ごく普通の未来図を描ける相手が誰か気付くだろう。
もう、失くすものは何もなくなった。
潤みかけた目元を拭って、優生は目的地へ急ぐことにした。当てがあるわけではないが、当面の隠れ家を提供してくれそうな相手の元へ。



- Nowhere To Go - Fin

【 Whatever You Say 】     Novel     【 Hide And Seek 】


2007.10.15.update

タイトルはバックストリートボーイズの『Nowhere To Go』からお借りしています。

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