- 仔猫の行方 -


〔お断り〕優生不在の間のお話を淳史の視点で書いています。
時系列は11話に当たりますので、
淳史贔屓の方はこちら(だけ)を見ていただいた方がいいかもしれません。



「え、あっくん、振られちゃったの!?」
驚きのあまりだったのだろうが、里桜の上げた高い声がひどく神経に障った。
一方的な別れの言葉を残して優生が姿を消してから数日。誰からも居場所に繋がる情報を得られていない現状を打破するために、或いはただ焦るばかりでやり場のない感情の矛先として義之に連絡を取ったのだったが、思いがけず里桜を伴って現れたことにストレスが増したような気がする。
「……振られたというか、いなくなった」
「ゆいさん、また黙っていなくなっちゃったの?」
「いや、もう戻らないと言われた」
「やっぱ振られちゃったんだ……」
痛々しげな顔をされると、認めたくない事実を突き付けられたようで腹が立つ。隣で困惑顔を見せる義之に、嫌味のひとつも言わずにはいられなかった。
「……義之、こいつを置いてくるくらいの気遣いは出来なかったのか?」
「無理を言うなよ、里桜に黙って来れるわけないだろう?」
他の何よりも里桜を優先している義之には、行き先や理由を告げずに時間を取ることは出来ないとわかっていても、苛々を抑えずにはいられなかった。
いつもは甘過ぎる二人を微笑ましいとさえ思っていたのに、ただ淳史の傍に優生がいないというだけで、ひどく狭量になってしまうものらしい。
「あっくん、ゆいさんがどこにいるかわからないの?」
「そういうことだ」
もちろん親元には帰っておらず、一番仲の良い勇士にも連絡ひとつ入れてはいなかった。
優生の行方を捜して尋ねる相手の反応は悉く同じで、最初に驚き、二言めには淳史を責める。事情を詳らかにする前から、悪いのは淳史の方だと決め付けているようなところがあった。
他の誰でもなく、優生は淳史のものだったはずなのに、そんなことさえ曖昧になってしまうようだった。


「知り合いの所にいないとなると、捜し出すのは難しいね」
小さな子供のお守りでもするように、義之は膝に里桜を乗せて話を続けた。里桜は義之の胸へ背を預けるようにして、淳史の答えるのを待っている。
「正直なところ、見当もつかないんだ。不動産屋にも当たってるんだが、ともかく数が多くてな」
周辺の市だけでも賃貸の部屋はウンザリするほどあった。捜索範囲を広げるほどに、細かく調べるのは困難になってゆく。
「住む所を確保してから出て行くほど計画的だったのかな?」
「いや、そんなに思い詰めているようには見えなかったんだが」
単に、淳史が鈍かっただけなのかもしれなかったが、別れの準備をしているような素振りは感じなかった。殆ど全ての荷物を置いて行ったことからも、突然思い立ったことが窺える。
「それなら、友達とか親戚とか、淳史の知らない誰かの所にいるんじゃないのかな? ほとぼりが冷めてから、住む所を探すとか就職するとか、身の振り方を考えるつもりかもしれないよ?」
淳史の知らない相手と言っても、交友関係は前回の失踪騒ぎの時に粗方調べてあり、ほぼ把握できているはずだった。行動を制限していたような状態で、新たに親睦を深めた誰かがいるとも思えない。
「……おまえなら何処を捜す?」
「僕には、ゆいが一人で生きていけるようには思えないけど?」
義之の言葉の、深い意味は考えたくなかった。
「それなら実家に戻ってくれれば良いんだが」
たとえ優生の両親や弟に顰蹙を買うことになっても、所在が明らかなら手の施しようがあるだろう。
「ゆいさんて、ずっと我慢してて、突然キレるタイプなのかな?」
「そうかもしれないね。里桜が淳史にベタベタしてる時にも、そういう感じだったから」
そう言われてみれば、そうなのかもしれない。普段から、優生は感情をあまり素直に話す方ではなかった。少なくとも、淳史に対しては。
「……何を我慢してたんだ?」
「それはこっちが聞きたいよ、淳史には心当たりがないのか?」
ないと言えば嘘になるかもしれないが、一方的に別れを告げられるほどの重大事だったとは思っていなかった。


「なくもないんだが……短期間にいろいろあったからな。でも、少し神経質になっていただけだと思っていたんだ」
「いろいろっていうのは?」
里桜の前で細かく話すことに迷いはあったが、黙っていては話が進んでいかない。おそらく、事の発端は淳史の親に会わせたことだった。
「優生を親に会わせないままだったからな、嫌がっていたのはわかってたんだが食事につき合わせたんだ。一時間ほど一緒に過ごしただけなんだが、優生はひどく緊張して、ちっとも食わないし、殆ど喋りもしなかった。当然、心象も悪くてな。まあ、元から賛成は出来ないと言われていたし、滅多に会うこともないから構わないようなものなんだが、もう少し上手くやってくれるだろうと思っていたんだ」
優等生タイプで人当たりの良い優生なら、特に身構えなくても、差し障りなく引き合わせられると踏んでいた。よもや、あんな風に固まってしまうとは思いもしなかったのだった。
それでも、淳史の母親のやや厳しい評価については優生には話さなかった。無理に会わせたような状態では、もう少し上手く対応できなかったのかとは言えなかった。
「ゆいは得手不得手がハッキリしているようだからね。僕の父にもそうだったようだし」
あの時は義貴だけが特別なのだと思っていたが、義之の言う通り、苦手なタイプがあるらしかった。淳史の母親も義貴も、優生にとっては天敵のようなものなのかもしれない。
「でも、先生はともかく、俺の親に気に入られようとは思わないのか?」
「そう思うほど、プレッシャーを感じて上手く出来なかったのかもしれないよ?」
「その場をやり過ごすだけだぞ? あとは滅多に会うこともないと言ってあったんだからな」
「淳史が思うより、ゆいは繊細なんだと思うよ。それからずっと元気がなかったのか?」
「いや、それだけじゃないんだが……後藤がちょっかいかけたり、美波が来たり、平穏とは言えなかったからな」
「後藤って淳史と同期のチャラい感じの奴だろう? よく放っておけるね」
呆れているというより、義之の表情は怒っているように見える。
「後藤が何かするとは思ってないからな。ただ気に障るというだけだ」
けれども、その母親と仲良くなったと聞かされた時、抑えていたものが噴き出してしまった。淳史の親とは歩み寄ろうとはしないのに、なぜ他の男の親と親しくするのかと納得がいかなかったのだった。


「じゃ、ゆいの家出の原因は元カノということになるのかな?」
「……やっぱりそう思うか?」
「やっぱり、と思うようなことがあったんなら、そうなんじゃないのか? 来たっていうのは、この部屋に?」
「ああ。下で待ってたんだが、優生が構わないと言ったからな、ここへ通して少し話した」
「まさか、ゆいも一緒に?」
眉を顰めて、ますます不機嫌そうになる義之に、あの日思ったことを話す。
「二人きりで話せば、優生はいろいろ考え過ぎるだろう? 隠す必要はない相手だというつもりだったんだ」
「彼女の方はどうだった?」
「どうもこうも、会うのも久しぶりだというのに、いきなり結婚しないかと言われて、正直うろたえたな」
よもや、そんな言葉が出るとは夢にも思わず、動揺を面に出さないようにするのに苦労した。できれば、17歳も年下の若い優生の前で恥をかかせるようなことはしたくなかった。
「それをゆいに聞かれたのか?」
「近くにいたから聞こえていただろうな。でも、美波にはすぐに断ったし、俺が結婚したことも、相手が優生だということも言ったからな」
決して優柔不断な対応をした覚えはなく、大事な方を明確に優先したつもりだった。
黙って聞いていた里桜が、義之と同じように呆れ顔を向ける。
「あっくんて、デリカシーのカケラもないよね」
「おまえにだけは言われたくないが」
さんざん優生の気を悪くさせてきた里桜にそんなことを言われるということは、本当に淳史の態度か言葉に問題があったということなのだろうか。
「俺なら、そんな話は知らないところでしてて欲しいけど……義くんが誰かに結婚セマられてるところなんて見たくないし、いくら断ってたって、やっぱヘコむよ」
「……そうなのか?」
「たぶん、里桜の感覚の方がゆいに近いんじゃないかな?」
優生の肩を持つような二人の言葉に、淳史は自分に非があったようだと認めないわけにはいかなかった。


「あっくん、その戻らないっていう話の後どうしたの? お仕事行ってる間に、ゆいさんいなくなっちゃったの?」
「いや、電話だったからな」
「え、そんな大事な話が電話なの?」
「面と向かって言ったら、監禁されかねないとでも思ったんじゃないかな?」
「……そうかもしれないな」
改めて、最後の電話を思い返す。妙に淡々とした、まるで他人事のように感情の籠もらない声だった。
「勤務中に公衆電話からかけてきたから何かあったんだろうとは思ったんだが」
優生の方から電話をかけてくること自体殆どなく、ましてや勤務中になど以ての外で、些細な用でないことはすぐに察しが付いた。だから、優生の口調が穏やかでも油断はしていなかったはずだった。
「不意打ちだった?」
「そうだな、まさか別れ話をされるとは想像もしなかったからな」
「ゆいの言い分は? 少しは話したんだろう?」
話したというほどの時間を引き伸ばすことは出来なかったが、上っ面の言い訳のどこかに本音を潜ませていたのだろうか。
「疲れたとか、学校に行かせてくれないとか言われたが」
「まさか、そんな理由で?」
「たぶん尤もらしい理由を言ってみただけだろうと思うが」
「説得しなかったのか?」
「ヘタに説得すれば切られそうだったんだ。公衆電話じゃかけ直すことも出来ないからな」
「他には? ゆいは素直じゃないから、本音をストレートに言うとは思えないけど」
「捜すなとか、仕事を休んだり辞めたりするなとか、責任を感じさせるなとか、出来そうもないことばかり言われたが」
「責任っていうのは何の?」
「俺が仕事を二の次にすることだろう? 前の時には休暇願いが通らないと言われて辞表も書いたからな」
周囲に迷惑をかけて評価を落としたものの退職するには至らなかったが、優生はひどく責任を感じていたようだった。
「ゆいはそれを気にしてたのか?」
「仕事をサボるなっていうのが口癖になるくらいにな」
性格の真面目さのせいか、優生は人に迷惑がかかることを嫌う。そのくせ、淳史の都合など軽く無視して勝手に姿を消してしまった。


「……あっくん、ゆいさんて本当にあっくんのことを好きだと思う?」
核心をついた問いに、答えに詰まってしまう。優生は、淳史の言葉に同意したり、“好きかも”と言ったことはあっても、明言したことはなかった。
「俺は、ゆいさんはあっくんのこと、すごく好きなんだと思う。俺に腹立てるのも、義くんにあてつけるみたいなことするのも、あっくんのことが好きだからだよ?」
「だと思っていたんだが」
それなら、こんなに簡単に淳史を切り捨ててしまえる心理をどう説明すればいいのか。
「俺は義くんの一生に責任は持てないかもしれないけど、誰にも取られたくないし譲りたくない。もし周りにいろいろ言われても、俺から手を離すのは絶対やだ。でも、ゆいさんは違うんだよね。あっくんに迷惑かけたくないとか、お母さんに気に入られてないとか、いろいろ気を遣い過ぎちゃったんだよ」
「……おまえは、わかりやすくていいな」
きっと、里桜が相手なら多少の難問も軽く越えてしまえるのだろう。
「だって、俺は究極の選択を迫られたら、義くんの他は全部捨てられるもん」
「えらく極端な話だな」
「俺は義くんの評価以外は気にしないって話だよ? 周りがみんな俺を子供過ぎるって言っても、義くんがそれでいいって言ってくれたら、傍にいてもいいって思えるから。でも、ゆいさんは、あっくんの周りの人にもすごく気を遣うでしょ? あっくんが悪く言われないように、全部我慢しなきゃいけないみたいに思ってるんじゃないのかな」
「……俺はそんなに優生に無理をさせていたのか?」
「させてたわけじゃなくて、ゆいさんはそういうの全部我慢できちゃうくらい、あっくんのこと好きなんじゃないのって俺は言ってるんだけど?」
“よくできました”といわんばかりに、義之が里桜の頭を撫でた。まるで喉を鳴らしそうな表情で、里桜は義之に身を擦り寄せる。
人目も憚らず甘い雰囲気に浸ってしまう二人を、時として目を覆いたくなるほど呆れるというのに、今はひどく羨ましく感じた。






「工藤」
エレベーターに向かう淳史の後方から掛けられた声に足を止める。
特に急ぎの仕事がなくとも腰を落ち着けることが出来ない淳史に、休憩を取らせるのは大抵、軽薄な風貌の同僚だった。
「タバコ行かない?」
今通ってきたばかりの入り口の方へと視線を向ける紫は、淳史を喫煙室ではなく外へ誘っているらしい。
「何か話でもあるのか?」
「そういうこと。冬湖さんの所行く?」
「いや……のんびり休憩できる状態じゃないしな」
時間より場所の方に難があり、人払いしなければ話せないような内容でないなら、外に出ずに済ませたいというのが本音だった。
「他の奴がいないといいけどなあ」
不満そうにぼやきながらも、紫はさっさとロビーの奥に向かって歩き始めた。
「人に聞かれて困るような話なのか?」
「だと思うけど?」
含みのある言い方で、紫は言葉を切る。
幸い、喫煙室は空いていた。先に入った紫が、薄い皮張りの長椅子の座面に勢いよく腰を下ろす。すぐに煙草を取り出して火を点けるのは、紫のストレス解消法のひとつらしい。
淳史はカップのコーヒーを買ってから、紫の向かいへと腰掛けた。
「工藤、吸わないの?」
「ああ」
何で、と言いたげな顔を淳史に向けながら、紫はさも美味そうに煙草をふかす。淳史も、少し前まではそれでストレスを軽減させることが出来ていた。
探るような視線の居心地の悪さに、淳史は熱いコーヒーに口をつけた。


「工藤、このごろ冬湖さんの所に全然顔出してないんだって?」
「そうだな」
冬湖の店へ行くことを優生が快く思っていないようだと気付いてから、自然と足が向かなくなった。
未だに優生に別れを決意させた事由が何なのかわからず、その可能性のありそうな人物には近付かないようにしている。だから、紫と一緒の時には寛いでいたようだと聞いても、淳史が通うことで優生の気を沈ませてしまうかもしれないと思うと、敢えて行く気にはならなかった。
母親や美波子のことにしても、優生は淳史の思いもよらない方向に受け止めていたようだった。納得がいかなかったのなら率直に話してくれていればと思うが、気付かなかった淳史の方に非があることは否めない。そんな風に折り合いをつけられる方がきついと、優生には理解できなかったのだろう。
もう何日も吸っていないのに、ふと煙草の苦さが甦ってくるような気がした。
「さっき……ゆいちゃんが電話くれたんだけど……」
「何でおまえに連絡してくるんだ」
ふいに湧き上がった怒りを抑えられず、身を乗り出して紫の胸元を掴んだ。スーツの中の淡いオレンジのカッターシャツと一緒にネクタイを絞め上げてしまい、紫が大げさに咽せる。
「俺に心を許してるからじゃないの?」
それでも減らず口を叩く余裕に、緩めかけた手に力を籠め直した。もしもそれが真実なら、このまま絞め殺したって構わない。
「大人げないなあ……そんなんじゃ何の話したか教えてやらないからな?」
軽薄な言葉を聞かされるくらいなら、用件しか言えないようにした方がマシだろうかと、本気で考えた。
「話したい気分にさせてやってもいいが」
「何でそんなに気が短いんだよ、工藤を心配して電話してきたに決まってるだろ? 仕事を休んだり遅れたりしてないかって聞かれたから、真面目に頑張ってるって答えといた」
「それだけか?」
一瞬迷ったような表情を見せた紫が、不似合いなほど真面目な顔になる。


「……言ったら、工藤のこの後の予定が全部キャンセルになるかも」
勿体ぶった口ぶりが癇に障る。
どうして、優生は淳史には言わないことをいつもこの男には簡単に話すのか。何もかもが腹立たしく、好戦的な感情を抑えるのが難しい。
連日のように、知りうる限りの優生の交友範囲に連絡を入れていたが、優生はまだ誰ともコンタクトを取っていないようだった。まさか、よりによって紫に一番に連絡してくるとは思ってもみなかった。
「言いたくないなら、おまえの予定をキャンセルさせるか?」
「工藤、気が短過ぎ。先に断っとくけど、何を聞いても俺に当たるなよな?」
しつこく念を押す紫に頷くと、漸く喋る気になったようだ。
「ゆいちゃん、次の相手が見つかって、一緒に住んでるんだって」
もう一度、今度は思い切り紫の襟元を締め上げた。冗談にしても、質(たち)が悪過ぎる。
「……だから、俺に当たるなって言っただろ!」
「ふざけるな。言っていい冗談と悪いことくらいわからないのか」
「俺だって、冗談ならいいのにって思ってるよ?」
同情するような目を向けられると、それが事実だと認めないわけにはいかなくなった。
「……相手は聞いたのか?」
「なんか、出逢った時にはお互い相手がいたけど、フリーになるタイミングが合ったからつき合えることになったって言ってたから、前からの知り合いじゃないかな?」
淳史の思い付く相手には全て当たっていたが、優生はどこにもいなかったはずだった。紫の言うことが本当なら、おそらくは淳史の知らない誰かということで、優生を追う手段を第三者に委ねることを考えざるを得なくなってしまう。興信所の類を使ったと知れれば優生の機嫌を損ねることはわかっていたが、時間が経つほど取り戻すのが困難になってしまう。
黙り込んだ淳史に、紫は慰めにもならない言葉を続けた。
「ゆいちゃん、条件が合うだけの相手と一緒にいるらしいから、まだ間に合うかもよ?」
もし間に合わないと言われたとしても、反故にするべきなのは他の相手の方で、淳史は優生が受け入れた最後の言葉をどんなことをしてでも実行するつもりだった。


「条件って何だ?」
優生が本心ではどんなことを望んでいたのか、淳史には想像もつかない。ただ、淳史の腕の中にいる時の優生はいつも幸せそうに見えたから、満足しているのだと信じて疑いもしなかった。
「生活の面倒を見てくれて、ゆいちゃんを離さないで一緒にいてくれる人だって」
ますます、相手が思い当たらない。一番可能性が高そうに思えた俊明の所にも依然連絡はないようだった。二度の失踪を責められる言葉以上に、優生が見つからない現実の方が痛かった。居場所さえわかれば、どんな手を使ってでも連れ戻しようもあるというのに。
「俺はその条件から外れているのか?」
「ゆいちゃんが言うには、工藤は麻疹にかかっているみたいなものだから、もっと合う相手がいることに気付くはずだって。工藤には、どういう意味か心当たりがあるんだろ?」
「思い当たることがないってこともないが……まさか、そんな理由なのか?」
目の前の紫に問うでもなく、疑問が口をついた。
優生は、美波子を部屋へ通すことも、淳史と二人きりにさせることさえ気にしてはいないように見えた。それでも、余計な気を回されたくないという思いから、優生を傍に置いたままで美波子と話した。淳史にとって美波子とのことは疾うに過去になっていて、何を言われても優生にきちんと説明できる気でいた。
美波子に結婚しないかと言われた時も、優生は居合わせたことを申し訳ないと思っているような素振りで、むしろ妬く気配もないことに淳史の方が苛ついたくらいだった。
それが全て淳史の思い違いで、優生は身を引く気だったのだと思うと遣り切れない。
「そんなって、どんな?」
「おまえには関係のない話だ」
「ふうん……そういや、工藤、昔の女に結婚セマられたんだろう? ゆいちゃんの目の前で」
もしもやり直せるなら、なかったことにしてしまいたいエピソードにまた打ちのめされる。


「……優生がそう言ったのか?」
「キスされたくらいで拗ねるなって叱られたとも言ってたよ? 工藤って、独占欲は強いくせに全然優しくないのな?」
別れ間際の美波子のささやかな嫌がらせを、予測することも回避することも出来ず、きまりの悪さについきついことを言ってしまった。
その後で、素直に頭を下げた優生がやけにしおらしく感じたことを思い出す。あれは落ち込んでいたわけではなく、淳史を諦めたサインだったのだろうか。
「……その話をおまえにした時、優生はどんな感じだった?」
「なんか他人事みたいにクールだったし、ゆいちゃんは大人だなって言ったら、工藤は友達の恋人っていうシチュに弱いだけだから、そういうのじゃないって。ゆいちゃん、意外と割り切ってたのかもな?」
それを、淳史ではなく他の男に話していたことが腹立たしい。淳史には反論ひとつ返さず、紫には本心を語っていたのかと思うと遣り切れなかった。
「な……離せよ」
緩んだ襟元を絞め上げると、紫は短く声を上げて、淳史の手を振り解こうともがいた。今にも殴りかかってしまいそうな衝動を、強気な声が止める。
「……もし、また連絡くれても教えないからな?」
「連絡がくることになってるのか?」
「来るかもしれないだろう?」
「その時は絶対に俺を呼べよ?」
「近くにいたらな」
「どこにいても呼べ」
「ムチャ言うなよ。おまえにも連絡するように言ってみるけど、たぶん、話したくないから連絡してないんだろうし」
それが真実に違いなかったからこそ、我慢ならなかった。
「てっ」
眼下の薄茶の頭に拳を落とす。淳史を差し置いて優生の信用を勝ち取った紫に、そのくらいの反撃をする権利はあるはずだった。




西尾勇士は、淳史が最も苦手とする人物だった。
以前、優生が淳史に黙って家出した時に厳しく詰問されて以来、淳史の立場は微妙になってしまったように思う。
まるで保護者のように優生を全ての災難から庇護したいと考えているような勇士も、それに依存しきっているような優生も、内心では気に食わなかった。いくら恋愛の対象にはならないと双方から言われていても、優生が無条件に甘えかかっているということ自体が許し難い。
出来ることなら一生関わるなと言いたいくらいだったが、そんなことを言えば切り捨てられるのは相手の方ではないように思えて強く出られずにいた。
それほど信頼しているはずの勇士にも、優生は音信不通のままだった。よもや紫に先に連絡するとは思いもよらず、淳史はほぼ毎日、勇士に電話を入れていた。
いつものように、帰宅してすぐ連絡を入れようと思った矢先に勇士の方から電話がかかってきた。
『今日、ゆいから電話がありました』
待望の連絡を告げる勇士の声は硬く、あまり良い知らせではないことを匂わせる。
「……元気にしているようだったか?」
『思ってたよりは元気そうでした』
「ゆっくり話せたのか?」
『あまり時間がないって言うから、そんなには。新しい環境に慣れるのに忙しそうな感じでしたけど』
そんなものに慣れるより、早く戻って来いと言いたいのに、言うべき相手は未だに淳史には連絡してこない。
「どこにいるのかは聞いたか?」
答えるまでの僅かな間が、肯定しているようで問い詰めたくなってしまう。知っていたとしても、優生に口止めされたら、勇士は絶対に淳史には教えないとわかっているのに。
『……ゆいは、もう新しい相手と暮らしてるそうです』
既に紫から聞かされて知っていても、言われるたびに胸が焼け付くような痛みに襲われる。


「知っている奴なのか?」
『俺は知りませんけど……ゆいは前に申し込まれた時、工藤さんとつき合ってたから断ったっていうようなことを言ってました』
優生が誰かに口説かれていたことなど、淳史は気付かなかった。優生は疚しいことはすぐ表情や態度に表れるというのに、見過ごしていたのかと思うと自分に腹が立つ。
「俺の所へ来てから知り合ったということか?そいつは優生が一人になるのを待ってたのか?」
あれだけ行動を制限していても、まだ優生に付け入れられる隙があったということも解せなかった。束縛し過ぎだと周りからも呆れられるほどだったのに、それでも優生を揺らがせた相手など想像もつかない。
『そういうことは何も。ただ、今度の相手は不倫の心配はないって言ってましたけど?』
勇士の言葉尻に潜む棘に気付いて、淳史も語気を荒げた。
「俺が二股かけていたとでも思ってるのか?」
『工藤さんは、ゆいに拘る必要はないでしょう?』
おそらく、優生は勇士にも美波子の話をしたのだろう。紫にさえ、あれほど話しているのだから、勇士に隠しているはずがなかった。
「……昔の女の話か?」
『昔じゃないでしょう? きちんと別れてないんじゃないですか?』
「確かに別れ話をしたことはなかったが、とっくに終わってる相手だ。つき合ってたのは七年も前で、相手はそのあと殆ど海外にいて、もう1年以上ロクに連絡も取ってなかったんだからな。誰が見ても、続いているというような状態じゃないだろう?」
『ゆいにもその話をしたんですか?』
「もちろんだ。相手には結婚したことも、やり直す気がないことも話したし、その時も優生は傍にいたからな」
『でも、ゆいは工藤さんの親も公認の仲だって言ってましたけど?』
思わぬところで糸が繋がっていたことに驚いた。それなら、優生を遠ざける原因になっても不思議ではないかもしれない。優生は、淳史の母親の話が出ただけで顔を強張らせるほど、ひどくナーバスになっていた。


「相手を親に会わせたのは10年も前に一度きりだ。それも結婚相手として紹介したわけじゃない。でも、優生のことは結婚したのと同じ気持ちだと話して引き合わせたんだ」
母親が再婚する時に、淳史が一緒に住まない理由のひとつとして、大学に通うのが不便になることを上げた。知らない土地で一人暮らしを始める淳史を心配する母親に、当時は近くに住んでいた美波子の存在を明かしたのだった。その時は親元から離れることしか考えておらず、頼りになりそうな大人が傍にいると言えば少しは安心するだろうというくらいにしか思っていなかった。まだ十代だった淳史が、そうリアルに結婚のことを考えているはずもなかった。
『でも、工藤さんの親は、ゆいのことを気に入らなかったんじゃないんですか?』
「そうだな……気に入っていたとは言えないな」
そうとわかっていても、優生のことを話した時の驚愕と落胆を思えば、無理に説得する気にはならなかった。淳史も、母親の再婚時に余計な口を挟んだ覚えはなく、とうに独立している現状では伴侶を選ぶのに親の了承が不可欠だとも思わなかった。
『責められるのは我慢ならないって言ってましたけど、そういうようなことがあったんですか?』
「責められたって、俺の親にか?」
『工藤さんの元カノの方かもしれませんけど』
あの日以外に優生が淳史の親と会ったとは聞いておらず、もしそれが事実だったとしたら、最後の電話をかけてきた日に淳史の家で待たせていた美波子の方なのだろう。
「優生の連絡先を知っているなら教えてくれないか」
『俺が知りたいくらいです』
「西尾」
つい、声に険がこもってしまうのは、気が急くからだ。淳史の知らない所で、優生を失くさなければならないほどの何が起きたのか確かめたかった。
『工藤さんがそんなだから、ゆいは俺にも教えてくれないんです。揉めるたびに、ゆいは一人で悩んで俺にも黙って行方をくらませて……いい加減、ゆいを諦めてくれませんか』
それが出来るなら、友人の恋人だった優生を掠め取るようなことをしているわけがない。
「悪いが、俺は優生を放す気はないんだ」
『……工藤さん、前に俺が言ったことを覚えてますか? ゆいは気を付けて見ててやらないと無理ばっかするし、何も言ってくれないってやつ。ちゃんと見てくれていたら、こんな結果にはなってないんじゃないですか?』
穏やかな声だったが、勇士の言葉は胸に堪えた。
淳史は自分の言葉や態度を過信してしまっていたかもしれない。優生を安心させるために言った言葉が正しく伝わったと思い込んで、けれどもそれは淳史を油断させる結果にしかならなかったことに気が付かなかった。


勇士の言う通り、もっと注意深く見ていれば、優生の態度の殊勝さは淳史の言葉に納得したからではなく、諦めによるものだったとわかってやることが出来たかもしれない。
優生は誰かの悪意に耐えられるほど強くなれず、執着するタイプでもなかったのだろうが、だからといって淳史が見限られるかもしれないとは考えたこともなかった。それを自惚れだとも思わなかった。優生に愛されているかどうかはともかく、淳史がベタ惚れだということを、優生は身を持って知っていたはずだった。
「まだ終わったわけじゃない。俺は優生と別れる気はないからな」
『戻ってくると思いますか?』
「優生は今度の相手を条件だけで決めたらしいからな」
『そうなんですか?』
「優生がそう言ったらしい。だから一刻も早く迎えに行きたいんだが」
だから連絡先を教えてくれと言う前に、勇士がため息を吐く。
『……俺も、ゆいは工藤さんの方が好きなんだろうと思います。ゆいが誤解してるだけなら、連絡があれば解くよう協力しますけど……他に、ゆいが戻るのに支障はないですか?』
「何か気になるようなことを言っていたのか?」
『俺の思い過ごしかもしれませんけど、ゆいには工藤さんの所に戻れない事情があるような感じがしたから』
母親には優生がいなくなったことは伝えていない。そんなことを言えば、まさしく思うつぼで、喜んで縁談のひとつも持ってきかねないような気がしたからだ。けれども、優生が淳史の傍に居辛くなるようなことを言ったかもしれないとなると、尋ねてみないわけにはいかなくなった。
「一応、親には優生に何か言ったのかどうか尋ねておくが……誰に何と言われようと、俺は優生を取るからな。優生から連絡があったら、放してやる気はないと伝えておいてくれ」
今なら、里桜の言っていた、他の誰の評価も気にしないとか他は全て捨てられるとかいう意味が理解できるような気がした。



勇士との電話を終えると、改めてあの日を振り返った。
優生に電話で一方的な別れを告げられた夜、淳史を出迎えた美波子に驚き、ろくに話も聞かずに追い返してしまっていた。
その時は事態を把握することより、ともかく優生の行方を追うことしか頭になく、少しでも早く心当たりを尋ねることを優先したかったからだ。淳史にとって美波子の件は完了してしまっていて、優生に誤解されているかもしれないとは疑いもしなかった。
優生が美波子を部屋へ入れたと聞いても、淳史の気を逆撫ではしたが、深い意味があっての行動だったとは考えなかった。美波子を通したものの間が持たず、置いて出ていったのだろうという程度にしか思わなかった。
その後も頻繁に連絡してくる美波子をおざなりにあしらっていたのは、優生のいない間に会ったり話したりすることを避けるためだった。美波子が優生が家を出るきっかけを作ったようだと知って初めて、話を聞くくらいのことはしておくべきだったと悔やんだ。
まだ少し迷いながら、美波子に電話をかける。少し長めのコールで出る相手に、前置きをする余裕はなかった。
「優生に何を言った?」
『淳史? いきなり何なの?』
「優生が居られなくなるようなことを言ったのか?」
電話の向こうで、美波子が息を飲む気配がする。
『……もしかして、あれから帰ってきていないの?』
「帰れなくなるようなことを言ったのか?」
『淳史と別れて欲しいとは言ったけど……結婚が無理なら子供だけでも欲しいとも』
「優生は何て答えた?」
『はっきりとした答えはなかったわ。それから、淳史を待つか聞かれて、頷いたら、後はお願いしますって言って出て行ったのよ』
まさか、本気で美波子に後を引き継ぐという意味ではなかったと思いたいが、優生のその後の行動から察するに、違うとは言い難かった。
ただ、優生がそんな風に卑屈になる理由がわからない。


「それだけか?」
『……あれは淳史をお願いします、という意味だったのね』
淳史の心情など気付かない素振りで、美波子は声音に力を籠める。
たとえ、美波子の言う通りだったとしても、淳史には聞き入れる気は毛頭なかった。
「悪いが、俺は自分の面倒は自分で見られるからな」
『私にも家庭的なことくらい出来るわよ? 淳史が専業主婦の方がいいなら、仕事も辞めてもいいと思ってるから』
「そういうことじゃない。俺に必要なのは優生だけだ」
いくら話しても、美波子には理解できないらしい。優生が淳史の家に住んでいたから美波子を選ばなかったのではなく、優生は淳史の胸の中に住んでいるのだと。
『私が一度断ったからなの?』
「あれは美波が仕事のことで悩んでいたから、結婚でもしてみるか、と言ったんだ。俺が結婚したかったというのとは少し違う」
もちろん、美波子が頷けばそうしても構わないと思っていたことに嘘はなかったのだったが。
『そうね……それがわかっていたから断ったんだもの。でも、もし私が受けていたら、今頃は結婚していたのよね?』
「だろうな」
『私は淳史の言葉を支えに頑張ってきたのに』
「断られた時点で無効だろう? 俺は優生と出逢うまでにも、結婚してもいいと思うような相手とつき合ったことがあるからな」
『でも、結局は結婚するには至らなかったんでしょう? 私と一緒になる運命だったということじゃないの?』
根気強く説得するのが面倒に思えてくるのは、かつて世話になった相手に対してあまりにも恩知らずだとわかっているが、つい語気や態度に表れてしまう。


「だから、俺は優生と結婚したと言っているだろう」
『出て行ったまま帰らないのは、別れたのと同じことじゃないの?』
「俺は了承していない。出て行ったと言っても、籍を抜いたわけじゃないしな」
『大体、そういうのは結婚とは言わないでしょう? ただの養子縁組じゃないの』
「しょうがないだろう、優生と籍を入れるにはそれしか方法がなかったんだ」
『……いい加減、つまらない意地を張るのはやめて早く目を覚まして? 淳史に必要なのは、誰にでも胸を張って紹介できる相手よ? ちゃんと籍を入れて子供を作って、普通に幸せになれるのに』
「それ以外は幸せじゃないと言ってるのか?」
『そうじゃないでしょうけど……今の淳史はどうかしてるわ。一回りも年下の子供に血迷うなんて、昔の淳史から想像もつかないわ』
確かに、昔の淳史は存在感のある派手めの女性が好みで、家庭的な安らぎなど求めてはいなかったと思う。惹かれるのはいつも、仕事が出来て、自分に自信を持っていて、男に依存する気など皆目ない、一生結婚などしたくないと考えているような自立した大人の女性ばかりだった。
けれども、いくつかの恋愛を経て、淳史の好むタイプの女性は気性が激しく奔放で、長くつき合うには不向きだと思うようになった。束縛されるのも、我が物顔で踏み込んでこられるのも我慢ならず、深くつき合うことを避けてしまう。
そもそも、自分のテリトリーに他人が入ってくることを嫌う淳史が、そういうタイプの人間と生活を共にすることが出来るはずがなかったのだった。
だから、無駄に喋らず詮索もしない、一緒に居ても余計な神経を遣う必要のない優生が傍にいるのは心地良かった。“奔放な人には懲りた”というニュアンスの言葉に共感を覚え、理想に添った恋人を手に入れた友人をひどく羨ましく感じた。
細過ぎるラインは壊してしまいそうに見えて頼りなかったが、思いのほか柔軟性としなやかさを持っていた。顔立ちも、人目を引くような派手さはないが、パーツのひとつひとつが繊細で整っていて絶妙なバランスで配置されている。美人は三日で飽きるというが、派手過ぎないからか、いつまでも眺めていたいくらい綺麗なのに飽きのこない顔だと思う。恋愛の先まで考えた時、淳史の好みや考えが変わっていったのは当然のことだった。
そう思うに至った経緯を知らない美波子には、淳史が優生を必要としていることがどうしても理解できないのだろう。


「俺が惚れて一緒にいたいと思っている相手を、どうして美波や母親にとやかく言われなければいけないんだ? 年の開いたカップルも、子供のいない夫婦も珍しくないだろう?誰を選ぼうが俺の自由なんじゃないのか?」
『……そこまで言わせるなんて、あの子は一体どうやって淳史を口説いたの?』
「優生が俺を口説いたんじゃない。友達の恋人だった優生を、俺が奪ったんだ」
半ば騙すように自分のものにしたせいで、優生にどれだけ辛い思いをさせてきたかしれない。どうしても手に入れたかったのは淳史の身勝手で、もし見ているだけにしておけば、今頃は俊明と幸せに過ごしていたはずだった。そうとわかっていても、傍に置いておきたいと思う気持ちは変えられない。
『淳史がそんなことをするなんて信じられないわ。若気の至りは淳史の方だったの?』
「若気の至りじゃない、本気で惚れてるんだ」
『でも、淳史がどう思っていようと、あの子とはもう終わったんでしょう?』
それに続く言葉を思っただけで抑え難い怒りが湧き上がってくる。優生を離れさせたことで、淳史が美波子と結婚する気になると考えているのなら短絡的過ぎる。
「何と言われようと、美波とやり直すつもりはない。優生が戻らなければこの先もずっと一人のままでいい」
『淳史……すぐにとは言わないから、落ち着いたら私のことも考えて?』
「何度同じことを言わせれば気が済むんだ? 俺は生半可な気持ちで優生に結婚してくれと言ったわけじゃない。もしこのまま優生が戻らなくても、もう他の誰ともやり直す気はないんだ」
『今はそうかもしれないけど……淳史だって、子供ができれば気が変わるかもしれないわ』
引き下がる気配のない美波子に、ふと投げ遣りな気持ちに捕らわれそうになる。今なら優生の嫌う医者の気持ちがわかるような気がした。解放されるためなら、何を犠牲にしても構わないような錯覚を起こしてしまうのは、いい加減だからとは限らないのかもしれない。


「美波に子供が出来れば納得するのか?」
『子供は欲しいけど、ちゃんと結婚したいと思ってるわよ?』
淳史の言いたいことがわかっているのか、美波子は先回りの答えを返してくる。もちろん、肯定されたところで実行するなどあり得ないことだったが。そんなことをすれば、責任と義務が生じて、淳史をがんじがらめにしてしまうだろう。
「俺は既婚だと言ってるだろう? 優生と別れるつもりはないんだ」
『私にシングルマザーになれとでも言うつもりなの?』
「そういうことじゃないのか?」
『ふざけないで。あの子の籍を抜かないとしても、淳史は結婚できるじゃないの』
「俺の意思は無視して、か?」
何度も言ってきたはずなのに、美波子は信じられないと言いたげに声を震わせた。
『そんなに、私と結婚するのは嫌なの?』
「最初から、そう言ってるだろう」
もう言葉を選ぶ余裕はなかった。なるべく傷付けずに済ませられるよう努力してきたつもりだったが、それが優生を失くすきっかけになり、美波子を増長させることになってしまった。
『……信じられない』
「俺も、なぜ美波が突然現れて、こんなことを言い出したのか不思議だったんだが? ずいぶん長く連絡も途絶えていたのにな?」
『そうね……淳史とよりを戻すきっかけを待っていたのかも』
「俺の母親に何か言われたのか?」
『……私からは、何とも言えないわ』
それは肯定に違いなかった。おそらく、美波よりも淳史の母親の方が優生を遠ざける原因を作ったのだろう。
「もし、美波を焚きつけるようなことを言ったんなら悪かったと思う」
『もういいわ、淳史はわざと距離を置いていたのね。私はずっと、タイミングが合わないだけだって思っていたんだけれど……やっと諦めがついたわ』
それが強がりだったとしても、もう引き止めることは出来なかった。
今の淳史には、優生を捜し出すことと、見つけた時に潔白でいることしか考えられなかった。




当初の予定通りに新居の引渡しは完了し、あとは越すばかりになったというのに、まだ優生の居場所は掴めていなかった。
焦燥は日増しに強くなり、もう二度と会えないような脅迫観念めいた予感ばかりが脳裏を過る。
思い出すのが優生の泣き顔ばかりなのは、淳史といても幸せではなかったからだとしたら、捜すのはただのエゴなのかもしれない。
仕事に追われている間は紛れていても、一人になると思考は同じ所をぐるぐると回り、後悔に苛まれてばかりだった。本当に優生を連れ戻すことが出来るのか、自信は日増しに失われていくような気がする。
転居の話をした時、優生があまり乗り気ではなさそうに見えたのは、こんな事態を察知していたからなのだろうか。
一息吐こうと、無意識に手がテーブルの上に煙草を探してしまうのが情けない。優生がいなくなってからずっと断っているというのに、習慣というのはそう簡単には抜けてくれないものらしい。優生がいない現実に慣れることが出来ないのと同様に。
ため息に被せるように鳴ったチャイムの音に立ち上がる。前もって連絡を寄越していた義之だとわかっていた。
「何か手伝おうかと思って来たんだけど?」
珍しく一人で現れた義之が、全くと言っていいほど変わり映えのしない部屋に視線を巡らせる。優生が戻らないうちに引っ越すことに躊躇いがあり、未だに日を決めることさえ出来かねているような状態では、荷造りはおろか仕分けさえも殆ど手付かずだった。もちろん、優生と相談して決めるつもりでいた、入れ替える予定の家具類の下見にも行っていない。
「いや、まだ日も決めてないし、引っ越す時は業者に任せるつもりだからな。おまえこそ、人の心配をしてる場合じゃないだろう?」
どう考えても、一足先に新居への引越しを済ませてしまった義之の方が忙しく、淳史の手伝いどころではないはずだった。


「とりあえず生活できる程度には片付いたからね。細かな荷解きは追々里桜がしてくれるようだし、僕の方は心配ないよ。淳史も、業者に任せるにしたって少しは整理しておいた方がいいと思うけど?」
「そう言われても、元から余計なものが殆どないんだ。優生も、どうしても必要なもの以外は実家に置いているらしいからな」
短期間に何度も住む場所と相手を変えた優生は、淳史の所へ来る時にあまり荷物を持ち込まなかった。それが淳史の部屋も終(つい)の棲家だとは考えていないという証明のようで、やたらと身の回りのものを買い足させてみたりしていたが、その殆どは残されたままだった。
「生活感がないにもほどがあるよ。縁起が悪いとでも言うのかな? 感心しないよ」
「そうだな……俺もそう思っていたんだが」
淳史に対してもそうだったように、優生の中には執着というものが存在しないのかもしれない。人にしろ物にしろ、あればあるように、なければそれなりに日々を過ごしているのだろう。半身を持っていかれたような淳史とは違って。
知らぬ間にネガティブな方に思考が向いてしまうのを、軽く首を振って払った。まだまだ、諦めるのは早過ぎる。
「ゆいが戻るまで、ここにいるつもりなのか?」
「向こうに入れるものも決まってないしな。優生と相談して決めるはずだったんだが、まだ下見の途中だったんだ」
「僕の所も家財道具は殆ど全部入れ替えたけど、淳史もここのものは処分するんだろう?」
「そのつもりだが」
義之も前の結婚を思い出させるようなものは全て処分して、新しく里桜と選んだものに入れ替えたらしかった。前妻のことを、里桜は全くといっていいほど気にしていないようだったが、義之の方はどうしても納得がいかなかったらしい。
もしも優生がいたら、きっと同じように、淳史が揃え直すと言い張るのを無駄だと呆れるのだろう。そうとわかっていても、やはり淳史も全て入れ替えるつもりだった。他の男との気配が僅かでも残るものは何ひとつ持ち出したくない。淳史と優生以外の存在を連想させるようなものは全てここに残していきたいと思っていた。


「……もし、おまえの母親が生きていたとしたら、里桜とのことは話すのか?」
「そうだね、すぐに話して紹介してただろうね」
「どういうリアクションか想像がつくか?」
「たぶん、可愛い人ね、くらいじゃないかな? たとえ里桜と僕の年齢が逆でも、僕が良ければ余計な口出しはしないだろうと思うよ」
淳史が義之と知り合った時にはもう病床に臥せっていたその人とは殆ど面識はないが、おそらく義之の言う通りなのだろう。良くも悪くも自立した親子関係で、犯罪にでも関わっていない限り、お互いに細かく口出しするようなことはなさそうだった。
「……俺の母親は、優生に別れるよう迫ったそうだ。もう先が長くないかもしれないから、俺に普通に結婚して子供を作るよう仕向けてくれとまで言ったらしい」
「それで家出したのか……それなら、わからないでもないね」
「優生は、俺より俺の親の方が大事なのか?」
きつい視線を向けてしまったのは、義之もそれが当然だと考えているのかと思ったからだ。
「里桜が言っていただろう? ゆいは淳史の親にそんなことを言われて、傍に居続けられるほど強くないだろうと思うよ」
「だからって、電話一本で終わりに出来るか?」
「それは仕方ないと思うよ? 面と向かって話したら却下されるに決まってるし、しかも、その後は監禁生活が待っているときたら話し合いする気になんてなれないだろうね」
確かに、もし淳史が帰るのを待って別れ話を切り出されていたとしたら、今度こそ本気で拘束するとか、中からは開けられない鍵をつけるとか、思い付く限りの対策を講じたに違いない。
「説得ぐらいさせろよ、仮にも婚姻関係を結んでいるんだからな」
「淳史に説得される勇気があるなら、最初から離れようとはしていないよ、たぶん。割り切っているように見えても、本当は思い詰めていたんだろうね」
今なら、優生が別れの電話を掛けてきたのは突発的なものではなかったことがわかる。少しずつ優生の中で嵩を増していった別れる理由は、あの日とうとう飽和量を超えて、零れるしかなくなったのだろう。


「それより、先が長くないかもしれないっていうのは? 何か病気にでもなったのか?」
「ああ、検診でガンが見つかったそうだ。初期で命に係わるようなレベルじゃないんだが、急なことで動揺したんだろうな。万が一のことを考えると、孫の顔も見ないうちには死ねないと思ったらしいな」
「誰しも、いつ死なないとも限らないのに」
同情の余地なし、と言いたげな冷たい面差しは、なまじ顔立ちが端正なだけに酷薄に感じる。
その時の母親の気持ちを察することは難くなかったが、淳史に一言もなく優生に別れを迫ったことは、どうしても許すことが出来なかった。
「そうだな、このまま一生会えない可能性だってあるんだからな。俺も、母親に優生とのことを認めたくないなら縁を切ってもらって構わないと言っておいた」
「気の毒だけど、仕方ないね。僕が淳史でも同じようなことを言うと思うよ」
優生を悩ませていたらしいことは、淳史からすれば些かの躊躇もなく片をつけられることだった。思い余って別れを選ぶくらいなら素直に話してくれていれば、簡単に解決していたはずだ。
「あとは優生を見つけるだけなんだが」
今の淳史にとっては、それが一番困難だった。
「まだ連絡はないままなのか?」
「ああ、どうしても俺に連絡を入れるのは嫌なようだな」
勇士や紫は、優生から連絡があるたび淳史にも連絡を入れるよう説得しているようだが、そんなところだけは頑固で譲らず、連絡はないままだ。
「里桜にも、電話をくれたそうだよ」
「本当か?」
「よっぽど淳史のことが心配なんだろうと思うよ? 里桜に、淳史を元気にしてあげて欲しいとまで言ったそうだからね」
あれほど付き合いにくそうにしていた里桜にまで連絡を入れていたことに驚いた。それと同時に、淳史にだけ声も聞かせない理由を思うと、柄にもなく挫けそうになる。心配などしてもらわなくていい。ただ、会いたいと思ってくれさえすれば。




目が覚めるたび、優生のいない現実を突きつけられるような気がする。
あれほどきつく腕の中に閉じ込めていたはずなのに、優生はするりと抜け出してしまった。
抱き枕を失くした腕は手持ちぶさたで落ち着かず、浅い眠りの中でも、いつも優生を捜しているような気がする。
特に休日は時間を持て余してしまうようになった。気が付くと、知らずに優生のことを考えている。優生と一緒に住むまでは好きに過ごしていたはずなのに、何に対しても意欲は湧かなかった。
ただ、優生がいないというだけで。

ふいにテーブルの上で震え出した携帯に手を伸ばす。ディスプレイに表示された見慣れない携帯番号に気が逸った。誰に対しても公衆電話からだったという優生が、淳史にだけ携帯から連絡してくるとは思えなかったが、可能性を否定することがどうしてもできない。
『工藤さん?』
出来れば一生耳にしたくないと思っていた男の声が、淳史の気を逆撫でした。
一言たりとも話などしたくなかったが、嫌な予感に鼓動がありえない速さで打ち始める。もう二度と会わないはずだった相手がわざわざ電話をよこす理由は、今はひとつしか思いつかなかった。
「……まさか、優生と一緒なのか?」
居場所が知りたいと思う以上に、この男の所にだけは優生を置いておきたくなかった。
『ええ、工藤さんのところを出られてから、ずっと一緒です。もしも捜しておられるといけないと思いましたので、ご連絡させていただいたんですが』
あっさりと肯定されて、やり場のない怒りに拳を握る。慇懃なもの言いは淳史を苛立たせるだけだった。
「……優生がいるなら代わってくれないか」
『生憎、今は傍にいないんです。私は出先から掛けていますので』
「優生はどこにいるんだ?」
『家で留守番しています。そんなことより、工藤さんには他に結婚の約束をした相手がいると聞きましたが?』
相変わらずの人を食ったような言い方がいちいち気に障る。優生の消息を握られていなければ、絶対に関わりたくない相手だと改めて痛感した。
「優生以外とそんな約束をしたことはない」
『では、他の女性と結婚したとか、するとかいうお話はないんですね?』
「あるわけがないだろう。俺は優生を放す気はないんだ。どういうつもりで一緒にいるのか知らないが、すぐに迎えに行くからな?」
『一応断っておきますが、ただお預かりしていたわけではありませんので』
「だからどうだと言うんだ?」
挑発されているとわかっているからこそ、それぐらい何とも思っていないという態度を装いたかった。もし優生が気に病んで戻れないでいるのなら、無用な心配だと伝えてやりたい。それが必ずしも本心ではなかったとしても。


「優生は家にいるんだな?」
上着と車のキーを掴むと、足はもう玄関へ向かっていた。頭の中では、以前一度だけ行った場所への記憶を辿りながら。
『そう簡単に返すと思っているんですか?』
不敵に響く声が、淳史の鼓動を上げさせる。それでは、何のためにわざわざ連絡をよこしたのか。
「……どういうつもりだ?」
『ゆいを家出させることになった事情は解決しましたか?』
親しげに優生を呼ぶ口調が、親密さを誇示しているようで気に入らない。優生が淳史に言わなかったことを、この男には話したのだと思うと目の前が真っ赤に染まった。
「最初から何の問題もないことだ。俺が優生より優先することなど何もないんだからな」
『そうですか。それなら、ゆいと私の間に何があっても問題ありませんね?』
「当然だ」
念を押す言葉を肯定したのは、ただ優生を取り戻したい一心からで、後のことなど深く考えていなかった。よもや、その言葉に縛られることになると思う余裕もない。
『では、ゆいを問い詰めたり責めたりしないでいただけますね?』
所有権を主張するような物言いは許し難かったが、今は淳史の分が悪過ぎた。
「……わかった」
『ゆいには、私とのことを一切聞かないと約束してくれますか?』
「くどい」
『そこまで仰るのなら、二言はないでしょうね。前の所は引っ越しましたので、住所を言っておきます。わかりやすい場所ですので探して来てください』
勿体を付ける理由はわからなかったが、告げられる住所のメモを取りながら最短ルートを頭に描く。アパートだかマンションだかの名称を言わない辺りがとことんいけ好かない奴だと思うが、番地で検索を入れればほぼ特定できるだろう。
渋滞にかからず手間取らなければ、もうすぐ優生に会える。逸る思いは抑え切れず、まずは駐車場へ急いだ。



- 仔猫の行方 - Fin

Novel


サブタイトルを淳史の苦悩編とでも言えばいいのでしょうか。
相当ヘコんだようなのですが、優生が戻ってからも、暫く憂鬱は続きそうです。

ちなみに、このお話を読んでくださった訪問者さまから、
淳史は“ヘタレ”という評価をいただいてしまうようになりました……。