- Hide And Seek -

【 CAUTION! 】
優生が淳史以外の相手と過ごすのは許せないという方はこの11話は飛ばしてくださいー。



「突然すみません、番号、変わってなかったんですね」
切羽詰っているはずなのに、妙に暢気な口調になってしまう。何と名乗れば良いかわからず名前は告げなかったが、相手には通じたようだった。
『……どうかされましたか?』
相変わらずの穏やかな声にホッとするのは、優生が投げ遣りになっているからなのかもしれない。
「愛人の席って、もう埋まってしまいました?」
『どうしたんです? 急に』
「空いてたら立候補したいと思って」
『……工藤さんと喧嘩でもされたんですか?』
急に不機嫌そうな声になるのは、二度と関わりたくないと思っていたからなのだろうか。それでも、短時間でとはいえ、さんざん迷って白羽の矢を立てた相手を諦める気にはなれなかった。
「別れて欲しいと言われたんです」
『まさか』
「本当です。それでスポンサーを探してるんですけど、黒田さん、なってくれませんか?」
そんないい加減な口説き文句にも拘らず、黒田はとりあえず会うことを提案してきた。
連絡がついたことと、すんなりと応じてくれたことで、優生はそういう運命だったのだと錯覚してしまった。ただ単にタイミングが良かったからに過ぎないと考えられれば、遠回りしなくてもすんだかもしれなかったのに。



あまり人目に付くのは避けたいことを告げて、黒田の指定する駅で落ち会うことになった。
既に黒田の家の側まで行っていた優生は来た方向に三駅戻ることになり、淳史と出会いかねない路線に緊張しながら約束の場所へ向かう。
黒田が会うことに応じたのは優生の申し出を受ける気があるからかもしれないと期待してしまいそうになるが、自惚れるのは早過ぎるのかもしれない。気が変わっていなければ、黒田には心に決めた相手がいるはずなのだから。
改札を抜けると、背の高い黒田の姿はすぐに視界に飛び込んできた。
けれども、生成りのシャツにデニムという、おおよそ優生の持っていたイメージとかけ離れた格好に一瞬別人かと疑ってしまった。殆ど黒いスーツ姿しか見たことがなかったせいで、白っぽい色が意外と似合うことにも驚かされた。いつも晒されていた額も、今日は少し長い前髪が柔らかくかかっている。もしかしたら、黒田は優生が思っていたよりも若いのかもしれないと思った。

「すみません、待ちました?」
「いいえ。電話を終えて30分ほどですから、そんな余裕はありませんでした」
「あの……?」
進むべき方向を迷い、黒田を窺う。わざわざ黒田の部屋から遠ざかってきたような状態では、どこか話せる場所を探さなくてはならなかった。
「うちへ来ますか?」
「え、でも」
「引っ越したんですよ、前の所は不便になりましたので」
「そうだったんですか」
優生の知らない半年ほどの間に、黒田の生活にも変化があったのだろう。新しい就職先のせいか、恋人のためか、気にはなったが、何となく問うのは躊躇われた。
「断っておきますが、工藤さんの所のように高級ではありませんし、広くもないですよ?」
淳史の部屋がムダに広いのだと思うが、そう言うわけにもいかない。
「住む所があるだけでも羨ましいですけど……俺は今日のベッドもまだ確保できてないのに」
「好きで出てきたんでしょう? あなたには帰る場所がたくさんあるはずですよ?」
優生の素性を調査済みの相手の同情を引くには、分が悪過ぎるようだった。
緊張感のない会話をゆったりと交わしながら、10分ほどで、まだ新しそうなマンションに着いた。
建物に入るだけで暗証番号がいるような構造ではなかったが、決して卑屈になるような粗末な物件でもない。
「2階に上がってすぐ左です。表札は掛けていませんので、覚えておいてください」
それは置いてくれるという意味なのだろうか。
黒田が玄関のドアを開けたまま待ったのを、先に入るように促されたのだと思い、軽く頭を下げて足を踏み出した。
「先に言っておきますが、中に入ったらただでは帰しませんよ?」
「そうなったら一晩くらい泊めてくれますか?」
「……全く、あなたという人は進歩がありませんね」
やれやれと言いたそうな表情からは、黒田の思惑は読めないままだ。でも、このまま帰るくらいなら、最初から電話をかけたりしなかった。
軽く肩をすくめて、思い切って玄関を上がる。廊下の向こうの、リビングダイニングに続くドアを開けると、意外なくらい生活感に溢れた部屋に驚いた。
「黒田さんて……もっと几帳面な感じかと思ってました」
「散らかってますが、と言うのを忘れていましたね。これでも、男の独り住まいにしては片付いている方だと思ってるんですが」
「ごめんなさい。散らかってるとかいうんじゃなくて、黒田さんは神経質そうだと思ってたので」
「本当にあなたは人を見る目がありませんね。とりあえず適当に座っててください。コーヒーでも淹れますから」
「あの、できたら先に話したいんですけど……黒田さんに断られたら次に行かないといけないので」
当てがあるような言い方は嘘になるかもしれないが、少なくとも今夜の宿泊先くらいは確保しておかないといけないという切実な事情がある。遅くなるほど、当たるのが困難になってしまうことはわかっていた。
促されるまま、壁際のソファに腰を下ろす。少し距離を置いて黒田が隣に腰掛けた。
「そちらの条件は?」
「寝食のお世話になりたいっていうのと、匿って欲しいんですけど」
「匿うというのは、工藤さんからですか?」
「あ、いえ……もしもの話なんですけど、誰かに尋ねられても俺のことは内緒にして欲しいんです」
捜してくれると思い込んでいるかのような自分の言葉に泣けてきそうだ。諦めたつもりでも、やっぱり淳史に追われたいと思ってしまう。
「期間は?」
「黒田さんが、俺に飽きるまで……って言っても、最初から俺には興味ないのかもしれませんけど」
以前、あと五年ほど経って黒田の好みに育っていれば考えてもいいと言われた言葉からすると、今の優生には何の価値もないのかもしれないが。
「一生飽きなかったらどうするんです?」
「え……そんなことには、ならないと思いますけど……」
わざと優生が返答に困るようなことを選んで言っているのだろうが、一瞬本気に取って戸惑ってしまった。そんな先のことではなく、今夜の、或いは暫くの居場所が欲しいだけだ。
「では、終わりは私が決めても構わないということですね?」
「……はい」
念を押す口調の強さにたじろぐ。引き返せるはずもないのに、つい戻ることを想定してしまう自分の往生際の悪さに唇を噛んだ。
「自殺は考えてないでしょうね?」
「もう黒田さんに迷惑をかけるつもりはないので……早くラクになりたいとは思いますけど」
「死に場所を探してるんでしたら、私は辞退しますよ?」
「そういうんじゃないですけど……もう時効だったらハッキリ断ってください。でも、受け入れてくれる気があってもなくても、淳史さんには知らせないで欲しいんですけど」
「わかりました。他の男を思って泣くあなたは嫌いじゃないですから」
身勝手な申し出を受け入れたもらえたことに、ホッと息を吐いた。
「解約はさせませんよ?」
鋭い眼差しで念を押す黒田に、深く考えずに頷く。
もう、優生には引き返す道もなければ他の未来を描く気力もなかった。今はただ、安易な方に引き擦られそうな優生を止めてくれる腕が必要なだけだった。




「黒田さん?」
確かめる声が震える。自分から言い出した愛人の意味をわかっていなかったわけでもないのに、鼓動はバクバクとあり得ないほどのスピードで走り出す。
「あなたが思っているほど、私は気が長い方ではないんですよ」
唇を拒むように背けた顔が、大きな掌に戻される。その気になれば、簡単に優生を縊り殺せそうな強さを秘めた鍛えられた手だ。
「や……」
唇へのキスは、もう他の誰にもさせないと決めていたのに。
重ねられた唇を振り解くどころか、簡単に開かされて滑り込んでくる舌を押し出すこともできない。絡めるように捕らわれて優しく吸われると、ぞくりと痺れるような感覚が腰の辺りを襲った。
まるで恋人にするような優しいキスに戸惑って、黒田の胸元へ預けた手に力が籠もる。生理的な気持ちよさに反して、他の男からのキスは苦かった。
優生を引き寄せる腕の強引さに背が震える。似ているようでいて、まるっきり違うことなど知っていたのに。
「もっと従順になれないと愛人にはできませんよ?」
あまり感情を面に出すタイプではないと思っていたが、黒田はあからさまに不機嫌そうに優生を見下ろした。
「……すみません」
せめて口先だけでも黒田に合わせなくては、すぐにも契約は破棄されてしまうかもしれない。自分で望んでここへ来たのに、頼りない覚悟は今にも挫けそうで、油断したら黒田を突き飛ばしてしまいそうだった。
「ベッドへ行きましょうか?」
みっともないくらいに怖気づいているのに、優生には頷く以外の選択肢はなかった。
腕を引かれるように立ち上がり、奥の部屋へとついてゆく。
寝室も、黒田に抱いていたイメージとはおおよそ逆の、白が基調の優しげな色合いで纏められていた。もしかしたら、恋人の好みなのかもしれない。ふいに、以前鉢合わせた気の短い男を思い出して、新たな罪悪感が胸に湧いた。
先にベッドへ腰掛けた優生の傍へ膝をついた大きな体が、ゆっくりと覆い被さってくる。背を抱くようにして倒されてゆく体にかかる重さを、今の優生には跳ね除ける力はなかった。
諦めに目を伏せた優生に近付く黒田の声は冷たい。
「そろそろ覚悟はできましたか?」
まだだと言うわけにはいかず、小さく頷く。
唇を塞がれて、触れ合いたくはない舌を絡め取られると、思わず黒田の胸を押し返してしまった。
そのまま突っ張ろうとした手を取られてシーツへと押し付けられる。たいして力を籠められていないようでも、優生が黒田に敵うはずがなかった。
重ね着をしたシャツを器用に脱がせた指先が、優生の弱いところばかりを辿ってゆく。目を閉じていると、慣れた風に肌を這ってゆく厚みのある掌に勘違いしてしまいたくなる。
そうでなくても、優生の体は刺激に弱く、重ねられた唇を外すようにして息を吐いた。すぐに追いかけてくる唇に捕らわれて、貪るように舌を吸われる。その強引さは優生の好きな男に似て、思い出しただけで目元が潤んできた。
「あっ……いや」
いつの間にか緩められたデニムの前から入ってきた手が下着の中まで伸ばされる。思わず腰を引いたが、黒田の指は優生を包み込んでそのまま外へ引き出してしまった。
「や、あっ……ん、ぁん」
掌で何度か擦られただけで熱が一ヶ所に集まってゆく。露にされた先端へ優しく爪を立てられると、欲望に流されてしまいたくなる。
堪え切れずに腰を揺すると、別な手が後ろへと触れてきた。
太い指は何かを纏っているようで、狭い入り口をたいした抵抗もなく進んでくる。中を濡らすように蠢く指に触れられた所から、焼けるような熱が生まれてゆく。
「ん、ふ……ぁん」
知らずに唇から零れる吐息に情欲の色が滲む。もう少し拒むかと思っていた体が簡単に開いてゆくのが自分でも信じ難く情けなかった。
「あっ……んっ」
緩くかき回されているだけなのに、体は勝手に熱を上げ、もっと奥へ誘おうと腰をくねらせた。喘ぐように洩れる声も、染まってゆく肌も、簡単に優生を裏切る。抗おうとするほどに、容易く落ちてしまう。
熱くて、どうにかなってしまいそうな体が黒田の指を銜え込んで、もっと強い刺激を欲しがる。長い指に擦りつけるように腰を揺らすと、もう止まらなくなった。
「はっ、あ……だめ、おねが、い……ああっ……んっ」
満たされるほどに湧き出す浅ましい欲望に、逆らうことが出来ずに涙が溢れた。どうして、優生の体はいつも流されてしまうのだろう。淳史にだけ感じていればいいのに、相手が誰でも楽しみたがる。
「だめじゃないでしょう?」
「いや、あ……なん、で……」
「どうせなら楽しんだ方がいいでしょう? お互いに」
漸く、何か怪しげな薬でも使われたのではないかと気が付いた。
「……いや、ヘン、な……薬か、なんかっ……」
「ごくごく軽い媚薬ですよ? 今のあなたなら、工藤さん以外には感じないとか言いそうな気がしましたので」
言葉にされると、それが優生の願望だったのだと気付く。ただ体を好きにされるだけなら救われたのに。
「や……いや」
この期に及んで、罪悪感とか拒否感を覚える自分が哀れだった。あの頃は知らずにいたのに。そんな余計なことを教えられたおかげで、今の優生は胸の痛みに苛まれてしまっている。快楽に溺れてしまえれば、束の間であっても何もかもを忘れられたかもしれないのに。
涙が伝うこめかみに、驚くほど優しいキスが降ってくる。
「ちゃんと愛してあげますよ」
膝を押し上げられて我に返った。
「え……あ、いや」
指で蕩かされた場所へと触れる固い感触に腰が引ける。逃がれさせないように腰を掴む手の強さに怯えた。
「ん、ぁんっ……」
優生の思いより快楽に素直な体は、待ち焦がれていたように受け入れてしまう。全てが納まり切らないうちにきつく力を籠めてしまうのは、締め出そうとしているというより離すまいとしているからだった。
「まさか、挿れないと思っていたわけではないでしょう?」
意地の悪い問いに、小さく首を振る。
思っていなかったと言えば嘘になるかもしれない。黒田が相手なら、ギリギリの一線を越えないかもしれないという気持ちが確かにあった。
「あっ……ん、んっ……」
優生の浅はかさを戒めるように深く穿たれる。抗おうにも、充分に馴染ませられて熱を帯びた襞は疼くような感覚に逆らえなかった。荒々しいほどに擦られるたびに体が蕩けてゆく。
「や……んっ……」
一番感じる所を抉られると、堪えようと思う間もなく優生の前が弾けた。微かな吐息を洩らした黒田が、優生の奥を突き上げる。
「……あっ……いや……何で、ナマで」
身に覚えのある感触に背が震えた。てっきりコンドームを使っていると思っていたのに。体の奥に浴びせられる熱い飛沫が我慢できず、黒田の体を離そうともがいた。
「病気は持っていないと思っていたんですが……まさかキャリアでしたか? それとも、私の心配をしているんでしたら、定期的に検査を受けていますから大丈夫ですよ」
「そうじゃなくて……」
せめて薄いゴムに隔てられていたかった。それに何の意味もなかったとしても。
「まさか妊娠するとでも思ってるんですか?」
揶揄するような口ぶりにも、軽く否定することなど出来なかった。優生にとっては、それくらいショックだった。
まだ繋がったままでいることを忘れているような黒田の体を、解こうとした優生を制する腕は、信じられないほどに強かった。
優生の中から出てゆく気配がないばかりか、心なしか体積を増したような不安に身を捩る。
「あの……始末、してきたいんですけど?」
「まだダメですよ」
優生の腰をグッと引きよせる黒田に、必死で首を振った。
「いや、ナマは嫌……中で出すのも」
「一度が百度でも同じことですよ。まだ操立てしたいとでも思っているんですか?」
優生の本音をあっさり見抜いて、黒田が止めを刺す。
わかっているのに。優生の意思で裏切ったことも、許されるはずがないことも。
「あ……ん」
快楽に弱い体は感傷さえ無視して熱を上げてゆく。形ばかりの抵抗を鼻で笑うように黒田が囁いた。
「そろそろ素直になりませんか?」
いっそ、行為に没頭してしまえれば楽になれるのだろうか。
何事においても抵抗し続けるということが苦手な優生は、追い上げるように突かれるたびに流されてしまいそうになる。
「何があったんです?」
「だから……別れて、くれって……言われたって……ん、あっ」
喋らせるためか、黒田の動きは殊更ゆっくりになる。もどかしさに揺らめく腰がはしたないと、思っても止められなかった。
「誰に、です?」
「淳史さん、の……お母さんと……」
「他にもいるんですか?」
「……昔の、恋人に」
あっさりと白状してしまう優生に、黒田は呆れ顔で動きを止めた。情事の最中とは思えないくらい、真面目な顔つきになる。
「工藤さんに言われたわけではないんですね?」
「でも、淳史さん、その人と結婚の約束をしてたらしくて……俺、人のものを取ってたみたいで」
「きちんと終わっていなかったとしても、そちらを切ってあなたを選ぶんじゃないんですか?」
「だめなんです……俺には、子供は作れないから」
「子供を欲しがるようなタイプには見えませんでしたが……まあ、案外ああいう人が子煩悩になったりするのかもしれませんが」
里桜との関わりを見ていても、きっと黒田の想像は外れていないだろう。優生がジャマをしなければ、淳史がそうなるのはそれほど先のことではないはずだ。
「それで尻尾を巻いて逃げてきたんですか? 相変わらず馬鹿なことをしていますね。だからといって、今度は逃がすつもりはありませんでしたが」
「え……あ、んっ」
優生にそれ以上考えさせまいとするように深く埋められると、早く擦って欲しくて襞が震える。
知っていたのに。愛情がなくても体は満足するのだと。
「一度は情けを掛けてあげたんですから。もう、わざわざ飛び込んできた迷い猫を飼い主の元に戻してやるほど親切ではありませんよ?」
「やっ……あっ、あんっ……」
大きく割られた膝を、押え込む手に力が籠められる。より深く、強くグラインドされるとどうしようもなく昂ぶってゆく。
好みから外れていても、少しは黒田の気を引いていたのだろうか。だとしたら、今日だけでなく、もう少し長く黒田の許に置いてもらえるかもしれない。
「種付けしておきましょうか」
からかうような囁きに本気で怯えてしまった。そもそも、優生が孕むはずがないのに。
力では敵うはずがなく、掴まれた脚を外すことも、繋がりを解くことも出来なかった。潤む目で必死に訴えかける。
「いや、お願い、中には出さないで」
不意に引き出されたのは聞き入れてくれたからだと思った。
「あっ、やっ……」
気が緩んだ瞬間、仰け反らせた喉から頬の辺りへ熱い飛沫を感じて咄嗟に目を閉じた。
「中で出さなくても妊娠することがあるのと同じで、あまり意味のないことだと思いますが?」
冷ややかな声が、優生のささやかな拘りは無意味だと言った。そうでなくても先に一度出されているのに、顔にかけられる方がマシだとは思えない、ということなのだろう。
黒田は汚れたシーツを引き寄せて、優生の体を覆うように羽織らせた。
「バスルームは出て左ですよ」
「あ……はい」
体を洗ってくるように言われたのだと気付いて立ち上がる。シーツの端で頬を拭いながら、バスルームへと向かった。




着替えを持たずに風呂へ行っていた優生は、とりあえずバスタオルを腰に巻いて寝室へ急いだ。
「お先でした……って、いないし」
黒田は新しいシーツに張り変えられたベッドの上にはいなかった。
自分の格好に不安を覚えつつ、リビングの方を覗いてみる。ソファに浅く腰掛けた黒田は、すっかり身支度を整えていた。
「いつまでもそんな格好をしていたら風邪をひきますよ? 着替えは持ってますね?」
「ごめんなさい、かばんをこっちに置いたままで行ってしまったので……」
無造作に床に放り出したままのディパックを拾って、寝室へ行くつもりが引き止められる。
「もう少ししたら出掛けますから、鍵を預けておきます」
「え」
差し出された鍵を受け取ってもいいものかどうか迷った。まだ留守を任されるほど親しいわけではないのに、もしかしたら優生に悪意があるかもしれないとは思わないのだろうか。
それに、今日くらいは優生の傍にいてくれるのだと思い込んでいた。
「仕事ですよ、平日の昼間から自由な時間があったからといって失業中とは限らないでしょう」
言いきかせるような口調は、優生の疑問に気が付いているからなのだろう。今度はどういった相手の元で働いているのかは想像もつかないが、連絡がついたのは幸運だったのかもしれない。
ただ、留守を任されるのには一抹の不安があった。
「俺、ここにいても大丈夫なんですか?」
「構いませんよ。稲葉さんは海外へ赴任しましたし、あなたを置いていると知れて困る相手はいませんから」
「海外って……出張か何かですか? やっぱり稲葉さんが帰ってくるまでっていうことなんですよね?」
「そんなに心配しなくても、会いにも来ませんよ。帰るのは最短でも半年だそうですから」
それは、半年は大丈夫だという意味だろうか。
「今はゆっくり話している時間はないので、また帰ってからにしてもらえますか? 何もなければ明日の朝、10時には戻りますから」
夜通しの仕事というのに違和感を感じたが、追及するような立場ではなく、興味もない。
「あの、食事の用意とか、しておいた方がいいですか?」
「していただけると有難いですが、出歩いても大丈夫ですか?」
優生の体を気遣ってくれたわけではなく、ここにいることを黙っていて欲しいと言ったことを指しているのだろう。
「少しは近所に何があるのか見ておかないと困るし……それより、夜勤のあとって、朝ごはんみたいなものでいいんですか? それとも晩ご飯になるのかな?」
「難しいところですが……その後で眠るつもりなので軽いものにしていただけますか?」
「じゃ、朝ごはんに近い感じなのかな……好き嫌いはなかったんですよね?」
「よっぽど変わったものを出されない限り、食べられないものはないですよ」
今度こそ寝室へ行こうとした優生の腕が引き止められる。
「見送りはしてくれないんですか?」
「え……あ、ごめんなさい」
黒田について玄関へ向かう。
お見送りには“ごあいさつ”も含まれるのだろうか。
口に出さなかった問いに答えるように、黒田は優生の唇へとキスを残して出掛けて行った。






チャイムの音に、出るべきか待つべきか迷ってしまった。
10時までに戻るといった黒田だろうと思いつつ、もし他の誰かだったら、どういう対応をすればいいのかわからない。
玄関の内側で迷っている間に、黒田は自分で鍵を開けて入ってきた。
「開けてくれないんですね」
責めるような口調に、用意していた言い訳を返す。
「ごめんなさい、もし黒田さんじゃなかったらどうしようと思って」
「そんなに困るほどのことでもないでしょう? 小学生でも留守番くらいできますよ。迂闊に開けないように躾けられていたんですか?」
その通りだと言えば、また呆れられると思って答えに迷う。
「工藤さんは過保護ですね。まあ、起きたことを思えばわからないでもないですが」
張本人の言葉とは思えない、ふてぶてしい言葉にカッとなった。少し乱暴に、黒田の服を引く。
「……お出迎え、しないといけないですよね」
優生が届くくらいに屈ませて唇を狙うつもりが、軽く払われた。
「仕事から戻るとすぐ入浴することにしていますので、ハグもキスも身綺麗にしてからにしてください」
不要だと言われると、押し売りしてしまったようで少し恥ずかしい。
「別に、ムリにしてもらわなくてもいいです」
「愛人になったんじゃなかったんですか?」
正しい愛人のあり方など知らない優生には、自分のためではなく相手のためにそうするのだということがすぐには理解できなかった。
「俺は、汗をかいてるくらい気にしませんけど」
もし、そのまま行為になだれ込む気だったとしても、優生は一向に構わない。
「そういうレベルの問題ではないんですよ。話は後にしてください」
そんなにも浴室へ急ごうとする理由がわからなかった。警護だか警備だかの仕事は、そんなにも不衛生なのだろうか。
「あの、俺はどうしてたらいいですか?」
背中を流すとか、バスタオルを広げて待っているとか、ビールを用意しておくとか、何か愛人らしいことをしなければならないのかと思った。
「今日は結構です。好きにしていてください」
「あの、お風呂上がったら、すぐごはんにします?」
「そうですね、お願いします」
前に泊まった時には朝食は米飯の方がいいと言っていたから、焼き魚に出し巻き卵に味噌汁というオーソドックスな和食のメニューで様子を見るつもりだった。おいおい好みがわかってくれば、少しずつ変えていけばいい。
一通りよそってテーブルに用意してから、お茶を淹れるためにキッチンへ戻る。
湯が沸くのを待っている間に、風呂を上がったらしい黒田がキッチンへ向かってくるのがわかった。優生の傍まで近付いてきた気配に、振り向きもせずに声をかける。
「黒田さん、緑茶でいいですか?」
「あなたと同じで構いませんよ」
「もう少し待っ……」
背後から伸ばされた腕が、少し乱暴に優生の肩を振り向かせた。覆い被さるように優生を腕に閉じ込めると、せっかちな唇で言葉を塞ぐ。反射的に逸らせようとした頬を、強い指が押えた。身を離そうと黒田の胸元を叩く手が、手狭なキッチンの壁に押し付けられる。
「……や、んっ」
一度離れた唇がゆっくりと重ねられてゆく。さっき断られたと思い込んでいただけに、黒田の意図がわからず戸惑った。後で、という言葉通りの意味だったのだろうか。
首筋から衿の内側へ、撫でるように辿る掌が止まった。
「熱がありますよ。どうも、あなたは私の所に来ると熱が出るようですね」
いろんなことが短期間に起きて、優生の精神がついていかなくなり、それが体に出てしまったようだった。優生はいつも、体の疲れも精神の疲れも、熱や胃痛になって表れてしまう。
「食事は済ませましたか?」
「いえ、俺は」
「食べられそうにないんですか?」
「はい」
「では水分だけでも入れておきましょう。後のことは構いませんから休んでいてください」
「でも」
少し強めに背を押されて、仕方なく寝室に向かう。ついてくるかと思ったが、黒田はキッチンから出てこなかった。
少し遅れて、黒田はスポーツドリンクのペットボトルを持って優生の傍に来た。ベッドに腰掛けた優生にペットボトルを差し出す。
「なるべく水分を入れて、ゆっくり休んでください。私も食事をいただいたら眠りますので」
「……ごめんなさい、お先です」
軽く頭を下げると、黒田は優生の唇へと短いキスを落とした。


「眠れないんですか?」
ベッドに横になっていても一向に睡魔の訪れる気配はなく、黒田が寝室に入ってきた時にも眠ったフリをする気にはならなかった。
「俺のことは気にしないで休んでください」
「そういえば、あなたは添い寝が要るんでしたね。それで昨夜は寝付きが悪かったんですか?」
冗談とは思えないほど真面目な顔で尋ねられると、そうなのかもしれないと思った。強い腕に包まれて眠るクセがついてしまったせいで、一人では落ち着けなくなってしまっている。
「本当に、中身は幼い子供のようですね」
呆れたような口ぶりだったが、差し出された腕はひどく優しかった。
「腕枕がいりますか?」
他の男の腕でも、抱きしめられていれば安眠できるだろうか。
「甘えん坊なんですね。抱き枕もないと眠れないんですか?」
もしも淳史も同じなら、すぐに別の枕を探すだろう。自ら放棄してきたその場所に、他の誰かがいるかもしれないと思うと胸が苦しくて、黒田の胸元へそっと顔を伏せた。
「今日はおとなしいんですね」
撫でるように頬を包む手の、意外な優しさに泣きそうになる。“おやすみ”の代わりのように、軽く唇が触れた。
厚い胸板に身を預けて目を閉じていれば、眠りが訪れそうな気がする。黒田の思惑は知れなかったが、錯覚してしまいたくなるほど、優生の好きな腕に似ていた。
薄れかけた意識が沈んでしまう前に、黒田の声に戻される。
「本当に見つかりたくないんでしたら、あまり外に出ない方がいいかもしれませんね。私には前科がありますから、工藤さんも警戒しているかもしれませんし」
「……籠もってるのには慣れてます」
もし黒田が優生の行動に制限をかけたいのだとしても、取り立てて不便は感じなかった。特にしたいことも、他に会いたい人も、もういなかった。




視線に気付いて目を開いた。随分と長く眠っていたような気がする。
軽く唇を啄むと、黒田は優生の額に手を当てた。もしかしたら、今だけは看護者の目線で優生を見ているのかもしれない。
「少しは楽になりましたか?随分よく眠っていましたが」
「ごめんなさい……何時くらいですか?」
「四時過ぎですよ。寝汗をかいたようですし、熱で消耗していますから水分を摂っておいてください」
「すみません」
渡されたペットボトルを受け取って、黒田の指示に従った。少し甘い電解質は、思っていたよりもスムーズに喉を通ってゆく。
「起きられますか? 食欲がなくても、少しでも食べた方がいいですが」
「ごはん、作らないといけないですよね」
「私の心配は回復してからにしてください。胃が弱いそうですが、お粥くらいなら食べられるでしょう?」
返事をすりかえた優生の思惑はバレているらしく、黒田は少し怖い顔を見せた。
「……欲しくないんです」
「そうやって拒食症にでもなるつもりですか? どうしても食べないんなら、鼻からチューブを通して栄養剤を入れますよ?」
「鼻からって……」
「点滴では痛くも苦しくもないから食べる気にならないでしょう? 鼻からチューブを通して、直接胃に入れてあげましょうか?」
まだ黒田の言葉の意味がよく掴めないまま、剣幕に負けて食事を摂ることにした。

パジャマのままリビングに移動して、言われるままに席につく。
すぐに、黒田は小さな土鍋に入った卵粥を優生の前に置いた。
「黒田さん、普段から料理するんですか?」
「一人暮らしですから基本は自炊ですよ。あなたほど上手ではありませんが」
「そんなことないです。お粥、おいしそうだし」
「それなら残さず食べてください。食事をしないで元気にはなりませんから」
「はい」
黒田はまるで監視でもするように、優生をじっと見つめた。食べることがそれほど大事だとは知らなかったが、素直にレンゲを取る。
黙々と粥を減らす努力をしながら、ふと、黒田が昨日はとうに家を出ていたことに気付いた。
「そういえば、お仕事は大丈夫なんですか?」
「昨日の夕方から今朝まで働いていたというのに、まだ仕事に行かせるつもりですか? 今日は既に出勤扱いですよ」
「はい……?」
「仮眠を取っているといっても約16時間勤務ですから、二勤務分をこなしたのと同じようなものです。もちろん明日は休みですよ。シフト表を渡しておきましょうか?」
「はい」
渡されたA4サイズほどの用紙に印刷された表は、アルファベットでシフトを表しているらしい。暗号のようなその表の見方を尋ねるより先に、欄外に書かれた“病院”という文字や師長という言葉の方が気になった。
「あの、黒田さん、警護やってたんじゃなかったんですか……?」
「あれは求職中にしつこく誘われたので繋ぎに引き受けただけですよ。今は看護師に戻っています」
「戻ってって……黒田さん、看護師さんなんですか?」
「まあ、最も白衣の天使にほど遠い人種だろうという自覚はありますが」
イメージが違うにもほどがある。まだ医師だと言われた方が真実味があるような気がした。きっと、患者をびびらせる怖い看護師なのだろう。
「あ……だから、鼻からチューブって言ったんですか?」
「そうですよ。食べない患者さんに言う常套句です」
絶対に、黒田の勤務する病院の世話になりたくないと思わずにはいられない。
「帰ってすぐにお風呂に入るのは、消毒の臭いが気になるとか、そういうのですか?」
「いいえ、あなたが想像も出来ないような患者さんと接していますから、病気に対して神経質になっているんですよ。検査して初めて結核や肝炎だとわかる場合もありますから」
「病院って怖いんですね」
「そうですよ。私が菌を持ち込めば、あなたに感染してしまうかもしれませんしね」
そこまで気遣っているのなら、どうしてコンドームを使わないのだろうかと、ふと思った。優生が病気を持っていない保証もないのに。
自分でも驚いたことに、話している間に粥はすっかり片付いてしまっていた。軽く両手を合わせて頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「まだ何か食べられそうですか?」
「いえ、もうムリです。急に食べると胃がびっくりするし」
「そうですね。思っていたより入りましたし、いいでしょう」
どうやら優生はすっかり患者になっているようだった。そのうち、聴診器でも持ってきてナントカごっこを始められるのではないかと少し不安になる。
「あの、黒田さんは看護師さんを長くやってたんですか?」
「奨学金を頂いたので、三年勤めました。いわゆるお礼奉公というやつですね。晴れて自由の身になってから、あなたもご存知の方の所で一年近く勤めて、解雇されたのでまた病院勤務をしているんですよ」
「え、え? 黒田さんて……いくつなんですか?」
「25歳ですよ」
「ウソ……そんな若かったんですか?」
「工藤さんより年上だと思っていたんでしょう?」
「そんなことは……でも、そんなに若いとは思ってませんでした」
「たいてい年齢より上に見られますので」
知れば知るほど、黒田は優生の思っていた人物像からかけ離れてゆくようだ。
「あの、そしたら、警護の方は本職じゃなかったんですよね? なんか、そっちの方が全然本当っぽい感じがするんですけど……」
「全くの素人ですよ。かなり強引に頼まれましたので、断り切れなかったという感じでしたから。給与が破格でしたから怪しいとは思っていたんですが、やっぱりひどいオーナーでしたよ。日常的にセクハラされましたし」
「梨花さんて人にですか?」
性格はともかく、グラマーで美人だったが。おそらく、普通の男なら喜んで受け入れてしまいそうに見えた。
「生憎、私は女性には全く感じませんので。いろいろやられましたけど、反応しないだけでなく全身総毛立った時に漸く無理だとわかっていただいたようで、ターゲットを別な方に移されました」
それが淳史だったのかどうか聞くことは出来なかった。意味ありげな顔をしていても、黒田の方から教えてくれることはなかった。




「抱いても大丈夫ですか?」
並んで腰掛けたベッドで、尋ねられるまでもなく求められることはわかっていたのに。それが優生の存在意義だということも。
俯く優生の首筋へと指先が触れた。胸元へと肌をたどられると熱が灯ってゆく。
耳に軽く立てられる歯が背をぞくりと震わせた。その感覚から逃れようと前のめりに倒れてゆく体が、うつ伏せにベッドの方に倒されてゆく。
「あっ……」
シャツの裾を上げさせるようにして胸へ辿りついた手が、固く尖った小さな粒を撫でる。
「や」
身を引いても背後の黒田に密着するだけで、逃れることは出来ない。
「……は、ん」
うなじに口付けられると体の力が抜ける。緩く触れた唇と、産毛をなぞるように舐める舌が優生の抵抗を苦もなく解いてしまう。
愛撫を請うように熟れた突起を弄られているだけで、血液が下半身へ集まってゆく。熱を逃がしたくて捩る腰を黒田に押し付けるような格好になり、更なる刺激を催促してしまう。
「あぁっ……あ、ぁんっ……」
下着の中で窮屈に生地を押し上げるものへと指が絡む。裏側を指の腹でさすられると腰が跳ねた。
「……敏感過ぎますね」
囁くような声とともに、下着とパジャマのズボンをまとめて抜かれる。優生の背中に黒田の体重がかけられて、うなじから顎へと滑った手が唇を撫でる。
「っん……」
開かせるように入ってきた長い指が舌を探った。表面を撫で、裏へ潜り、指に絡ませようとする。
「舐めてください」
囁くような声に、おずおずと舌を動かした。太い指にキスをするように舐めたり絡んだりしているうちにひどく淫らな気分になってくる。
「あっ……」
唐突に指を引き出されて、思わず背後を振り返った。優生がよほどもの欲しげな顔をしていたのか、黒田は苦笑まじりに唇へキスをくれた。
「ん……ぁん」
優生が濡らした指が、まだ固い入り口を撫でる。
「もう少し腰を上げてくれませんか」
口調は丁寧なのに、優生には逆らうことが出来なかった。膝を立てて腰を浮かすと、馴染ませるように中で指が回されて、敏感なところを優しく押す。
「あっ、ぁんっ……ああっ」
背骨を走る快感に仰け反るように体を揺らした。複数の指は奥まで埋められて、優生を高みへと追い上げる。
いきたいと伝えようとした時、痛いほどに立ち上がった根元を、大きな手が止めた。指の抜け切れないうちに、熱い切っ先が優生の体を裂くように押し入ってくる。
「……いっ……」
性急さに息を飲んだ。いつも、馴染ませるようにゆっくりと優生の体に入ってくる淳史に慣れ過ぎていたせいで、体が油断してしまっていたのかもしれなかった。締め出そうとするように、全身に力が籠る。
「そんな、初めてみたいな反応をしないでくれませんか……それとも、そんなにも我慢できないんですか?」
感じ入ったわけではなく、傷付けられることを恐れた体が反射的に身を硬くしたのだったが、黒田は気にも留めずに強引に押し入ってきた。
「……っく……や、あ」
「少し、緩めてくれませんか? そんなにがっつかなくても、いくらでもおつき合いしますよ」
「ちが……急、だったから、びっくりして……」
「こんなになってるくせに、まだ急だと言うんですか?」
「……痛いの、ダメなんです」
「そんな初心者でもないでしょう? 工藤さんはそんなに焦らすんですか?」
「違います、淳史さんのは凄く大きくて……入ってくる時が辛くて、いつも時間をかけてくれて……んあ、あっ」
更に奥を突かれて息が止まる。身に覚えのあるオーラは怒りの色をしていた。
「私では物足りないですか?」
「そういう、意味じゃ、ああっ……っく」
淳史ほどではないにしても、大人の男の充分過ぎる質量を持った黒田のものが優生の敏感なところを擦りながら捻じ込まれる。折り曲げられた体が容赦なく揺さぶられて、その存在感を主張する。
「いっ……あっ、ああ」
そんな嫌がらせをするほど瑣末なものではないくせに。
毒づこうと思ったが言葉にならず、ただ喘ぐことしかできなかった。挿入されたまま中で回されて突き上げられると怖いほどの快感が体を巡る。
「はんっ、や、やぁっ……」
抑えようと思う間もなく、優生の前が弾けて、銜え込んだ黒田のものを締めつけた。短く呻いた黒田が、優生の中で身を震わせる。
「やっ……いやっ」
中で出されるのは嫌だと、あれほど言ったのに。
黒田の体を押し返そうとする優生をきつく抱いて、そこにも意思があるかのように激しく脈打つものが、全てを中へ吐き出した。
「……っく」
自分でも驚くくらいに感情は納まらず、しゃくり上げるように嗚咽が洩れる。
「……そんなに、イヤですか」
黒田の声は少し掠れて、心なしか傷付いているかのように響いた。






「優生さん?」
翌朝、なかなか起きてこない優生の様子を見に来た黒田は、何度か名前を呼びかけながら、体温計を腋に挟ませた。片手で手首を取ると、別の手で髪の毛をかきあげるようにして、状態を観察するように覗き込む。昨夜しつこく挑んできたことが嘘のように表情はストイックだ。
熱が下がっていることを確認すると、まだ体がだるいのは病み上がりのせいばかりではなさそうだというのに、その張本人は看護師の顔をして優生を朝食に追い立てた。
鼻をくすぐるコーヒーの香りに、だんだんと目が覚めてくる。図らずも、淳史の好みと同じサントスの香りに、ちくりと胸が痛む。
既に用意されたトーストにベーコンエッグは、優生を起こしに来る前に黒田が作ったものなのだろう。
「そういえば、黒田さんは自炊してたんでしたっけ?」
「たいしたものは出来ませんが、一応は」
それでも、ディリーメニューは手慣れているらしく、ふわっと焼いたベーコンに黄色が鮮やかなサニーサイドは、優生の食欲も引き出すようだった。
「あ、でも、黒田さんて朝はご飯の人じゃなかったんですか?」
「仕事の日でなければ、どちらでも構いません。ただ、和食は用意するのが面倒なので」
それは、優生が用意する時は和食にするように、ということなのだろうか。
「ごめんなさい、俺が起きるのが遅かったから……」
「体調が戻ったら、またお願いします。それより、早く朝食を片付けてしまいましょう。コーヒーで構わないんでしたね?」
「はい、いただきます」
少し大きめのマグにコーヒーを注ぎ分けてテーブルにつくと、遅い朝食が始まった。きちんと手を合わせて挨拶をするところを見ると、黒田は意外とお行儀が良いらしい。観察するのはほどほどにして、ブランチになってしまわないうちに、なるべく急ぐことにした。

緊張感の中で、低いテーブルに向かい合って食事を摂るのは少し照れくさい。
優生の育った環境では畳に座布団といったスタイルは慣れていたが、相手を意識して会話もままならない現状は、いかにも同棲しているといわんばかりの雰囲気を連想させた。
「そういえば昨日カードを渡すのを忘れていました。あなたに預けておこうと思いますので、立て替えていただいた分と当面必要な額を下ろしておいてください」
「え、と」
それが食費などのいわゆる生活費のことを指しているとわかっていたが、何と答えたらいいのか迷ってしまった。
居候になることを了承してもらった以上、生活全般の面倒を見てもらっても構わないのだろうが、抵抗感がないと言えば嘘になる。もしかして、愛人というよりウリになっていないだろうか。
「俺、そういうの苦手なんですけど……どのくらい使ったらいいのかわからないし、失くしても困るし」
「そんなに気にしなくても、あの時の退職金ですから、全部使ったところで文句は言いませんよ? 寧ろあなたが使うべきなのかもしれません」
今更そんなことを言われても、その件はもう終わったことだった。今、黒田の所にいるのは、全然別の事情だ。
「あの……買い物とか、一緒に来てもらうのはムリですか?」
「無理ということはないですが、毎回ですか?」
「……できれば」
「一人で外に出るのは怖いですか?」
「そういうわけじゃないですけど……」
言葉を濁してしまうのは認めたも同然なのかもしれない。でも、もし知り合いの誰かの目に止まったらと思うと、一人で出歩くのは不安だった。
「それだと、私の勤務に合わせていただくことになりますが?」
「黒田さんの都合のいい時だけでいいです。毎日行くのは不経済だし」
「わかりました。それでは、片付けたら出掛けましょう」
「ごめんなさい、せっかくのお休みなのに」
「構いませんよ。どちらにしても、今日は出掛けるつもりでいましたので」
「じゃ、俺にカードも現金も預けないでください。困らない程度には持ってるし」
「そういえば跡取りだったんでしたね。私の所へなど来なくても、自活するくらいの経済力はあったんでしょう?」
優生が疾うに生前贈与を受けていたことを、黒田が知っているように聞こえた。もちろん、かつての雇用主が調べて黒田の耳にも入れたのだろうが、ごく一部の身内しか知らないはずの情報を手に入れていること自体がそら恐ろしい。
それとも、もしかしたら身内にも知られていないと思っていたのは優生だけで、相続を放棄したことで追及を逃れただけだったのだろうか。
「……俺には添い寝をしてくれる人が要るの、知ってるでしょう?」
「そんな理由で工藤さんを裏切る気になったんですか?」
「裏切るも何も、もう別れてるのに」
「素直じゃないんですね」
さも可笑しそうに目元を細められると、まるで褒められているようで落ち着かない。そんな可愛らしい理由ではなかった。
ただ、こうでもしなければ思い切れそうになかっただけだ。もう淳史とは別れたのだと、優生の体を慰めてくれる相手は他にいるのだと自分自身に言い聞かせるために。
「あまり遅くならないうちに出掛けましょうか?」
優生が黙り込んでしまったせいか、黒田はそれ以上からかおうとはしなかった。




優生が食材以外に買い足したいものがあることに気付いていたのか、黒田は一ヶ所で済ませられるよう、大型店舗を選んでいた。
店内に溢れる音がひどく耳障りで、平日の昼間にも拘らず混雑するほどの人波が、今の優生を戸惑わせる。元から出歩くのがあまり好きではない優生にとって、ムダに大きなフロアも華やか過ぎるディスプレイも気後れさせるだけで、早々から帰りたくなってしまうほどだった。
以外にも黒田はこういった場所が苦ではないのか、目的地を告げもせず、ゆったりとした歩調で優生を伴って歩いてゆく。油断するとはぐれてしまいそうに思えて、知らずに黒田の上着の裾を掴んだ。
「もしかして、方向音痴だったりしますか?」
「そんなことはないですけど……」
「では、はぐれたら駐車場で落ち合うことにしておきましょう」
そう言われても不安は僅かも拭えず、けれども、拒まれたらしい手をそっと解いた。
「やっぱり、先に携帯を見に行きましょうか」
ぐい、と引かれた肘は確かな強さで黒田に掴まれたまま、携帯電話を扱う階へと連れられてゆく。
「あの……携帯って、黒田さんのですか?」
「あなたに持っていていただくんですよ。うちには固定電話は引いていませんし、緊急の時に困りますから。もし私が事故にでも巻き込まれたら、どうするつもりです?」
それが優生に携帯電話を持たせるための方便だとわかっていても、必ずしも本当にならないという保障はなく、受け取る理由が出来てしまった。
「あなただって、今まで持っていたものがないと不便でしょう?」
「特には……ネットはパソコン借りてたし、強いて言えば目覚まし時計がなくなったっていうくらいで」
「ああ、それで朝起きてこないんですね」
「それは、黒田さんが……」
病み上がりの優生に、起きれなくなるようなことをするせいだと言いかけて、決して疎らとはいえないほど人がいることを思い出して堪えた。そうでなくても、長身の黒田と一緒にいると目立ちかねないのだから。
口論でも黒田には勝てないまま、あくまで緊急連絡用という名目で、優生はなるべく負担になりにくそうな機種とプランを選んだ。

淳史と養子縁組をして変わった名字はそのままに、別れてしまっている現状で名前を記入するのにはひどく抵抗がある。かといって偽名を使うわけにもいかなかった。籍のことなど考える余裕もなく出て来てしまったが、抜いて欲しいというために連絡する勇気はまだ持てずにいる。
優生の微妙な心情を察しているのか、黒田はそれに関しては一言もなく自分の名義で契約を済ませた。
どちらに対しても扶養されている立場だということを考えれば、一刻も早く対応するべきことなのだとわかってはいたが。
「ゆい?」
「あ、はい」
咄嗟に返事はしたものの、黒田に呼び捨てにされるのは違和感があり、一瞬聞き間違いかと思った。
優生の戸惑いに気付かないような素振りで、黒田は軽く肩を促す。
「着替えも必要なんじゃないですか? 食材は最後にして、先に見ておきましょう」
「はい」
優生から言い出さなくても、黒田は次々と先回りして言葉をかけてくる。
有難い反面、買ってもらうことを前提にしているような状態では、やはり気が引ける。自分で払えば済むことなのだろうが、買い与えられることに慣れてしまった優生には、上手く自分で支払いを済ませることは出来そうになかった。

適当に選んだ細身のデニムとTシャツやレイヤードシャツ、下着を持ってレジへ急ぐ。
「服の好みまで控えめなんですね」
「派手なのは苦手なんです」
外見的には優生よりずっと年上に見える黒田が財布を出せば、固辞するのも却って悪いような気がして結局甘えてしまう。
ひとまず短い言葉で礼を言って、表面上は素直に受け取ることにした。

あまり悩まず、悪く言えば適当に決めてしまった優生が早く帰りたがっていることに気付いてもらえたらしく、黒田はもう余計な場所へは誘わず、食品売り場へと向かった。
「いつも献立を決めてから買い物をするんですか?」
「まあ、大体は。寒くなってきたし、シチューとかどうかなと思ってるんですけど?」
「そうですね。私は食に拘りはありませんから、適当に決めていただいて構いませんよ?」
「わかりました。それで、黒田さんはシチューにはパンとご飯、どっちの人ですか?」
「ご飯の人というのはあまり聞いたことがありませんが……工藤さんはそうなんですか?」
「……ていうか、メニューに拘らずご飯が要る人みたいですけど」
「そうですか。私はどちらでも構いませんよ。あなたの用意しやすい方にしてください」
「じゃ、晩ご飯がパンでも構わない人ですか?」
「構いませんが?」
よく意味がわからないといった顔の黒田に、それ以上の質問を投げるのはやめた。






いつものことながら、当たり前のように優生をベッドへ連れ込む手際の良さには感心させられてしまう。
明日は早出らしい黒田は、10時前には優生を連れて寝室にいた。
キスが長いのも、知らぬ間に優生の身ぐるみを剥いでしまうのも、あっという間に体を蕩けさせてしまうのも、黒田が手慣れているせいだとわかっている。以前にも感じた、この人には敵わないという思いは日増しに強くなるばかりだった。
「あ……んっ」
意思を持った指に辿られる肌が上気して、愛撫を受けるほどに体温が上がってゆくような気がする。すぐに欲しくなってしまうのは優生が淫らだからというだけではなかったが、満たされないのは体ではないことにはまだ気付くことが出来なかった。
濡れた睫毛を持ち上げて、焦点の上手く合わない瞳を黒田に向ける。早く入れて欲しいと訴える優生の唇を、黒田の指先が撫でる。
「工藤さんのはそんなに大きいんですか?」
「……失言でした、忘れてください」
「そんな顔をされるとますます聞きたくなりますね。満足させられないと困りますし」
からかわれているだけだとわかっていても、上手く躱すことは出来そうになかった。
「……俺、黒田さんに満足し過ぎくらいだと思いますけど」
「そうですか?工藤さんの仕様になっているような気がするんですが?」
「そんなわけがないでしょう」
もし本当にそうだったとしたら、黒田にこんなに反応するはずがない。優生の体は好きな相手でなくても、悦びを感じて満足することくらい、とっくに知っている。
「そんなに思い詰めなくても、ゆっくり染め直してあげますよ」
怖い、と言ってしまいそうになる唇を噛んだ。体が染まれば、気持ちも引き摺られるのだろうか。
優生を意味深に見つめる黒田の瞳に、あからさまな欲情が浮かぶ。ぞくりと背が震えるのは不安なのか、それとも期待なのか、自分の深層心理など知りたくなかった。
「あなたの口じゃ辛いでしょうね」
赤くなる優生を挑発するように、指先が唇を開かせるように辿ってゆく。
「したこと、ないんです」
「まさか」
「あ、いえ……淳史さんには、っていうことですけど」
それは単に求められたことがなかったからで、優生がしたくなかったわけではなく、かといって自分からするような機会もなかっただけだった。
「それを聞いて遠慮するとでも思っていましたか?」
「……いえ」
今更、口を使われたからといって、汚されるとは思わない。もうとっくに裏切ってしまっているのに、気にする方がおかしいのだろう。
催促をするように頬を撫でる手をそっと外して、ゆっくりと身を起こす。組み敷かれた体勢を入れ替えるより、ベッドから下りる方が抵抗感が少なかった。
「座ってもらってもいいですか?」
ベッドの縁へ腰掛けた黒田の両膝の間に座り込む。
できれば着ているものは自分で脱いでもらいたかったが、そう言えば却って優生にさせようとするような気がしてやめた。余計なプレッシャーをかけられるくらいなら、少々の苦手は我慢した方が得策だろう。何事も思い切りが肝心だと自分に言い聞かせて、パジャマのウェストに手をかけた。
なるべく平静を保ちながら、まだ殆ど形を変えていないものを引き出す。行為そのものより、観察するようにじっと見られていることの方が耐え難かった。
指を添えて、キスをするように唇を近付ける。舌を伸ばして大きな動作で舐めながら、黒田の反応を窺うように視線を上げた。小さく笑った黒田の掌が、優生の髪を梳くようにして頭を包む。
括れに添って舌を這わせると、優生の髪に埋められた指先に力が籠められる。そのまま唇を被せるように含んで舌を動かしているうちに、優生の体はどうしようもなく昂ぶってくる。唇と舌で扱くようにしながら、口の中で跳ねるものが優生の中で猛っているところを思うと、また体の奥が熱く疼いてくるようだった。
「ゆい……」
囁くような声に目だけを向ける。発情しているのは優生だけではなかった。
「……ぅん」
大きな掌が頬を包んで、上向かせようとする。喉の奥まで使われるのは苦手で、黒田の腕に手をかけた。
「あなたに溺れて毎日のように抱いていたのなら、工藤さんはもて余しているかもしれませんね」
確かに、ハイペースに慣れた淳史にも捌け口が必要に思えた。優生が体を満たしてくれる相手を選んだように、淳史も今頃は腕に美波子を抱いているのかもしれない。
そう思っただけで、優生の胸は裂けてバラバラにちぎれてしまいそうな気がする。自分も、他の男に満たされようとしているのに。
少し強めに腕を払って唇を外し、上目遣いに黒田を窺う。
「……入れて」
そっと、優生の前髪をかき上げた黒田に、背を引きよせられて膝立ちになった。
「んっ……」
確かめるように探ってくる指に身を任せて目を閉じる。初めての日から優生を悶えさせた指はすぐに官能に落としてくれるだろう。
「は……ん、んっ」
促されるまま、黒田の膝に跨るように腰を落とす。優生の中へ埋められてゆく、麻薬のように体を苛む快楽に身を投げれば、余計なことを思う余裕などすぐに飛ぶはずだった。優生の腰が立たなくなるほども激しく何度も抱いた男が、今は他の誰かにそうしているかもしれないことなど。
「あぁっ……ぁんっ、は、ぁん」
浮かびそうになったビジョンを振り切るように、黒田との繋がりをより深いものに変えてゆく。
思うことを放棄するために強い刺激を求めて自分から腰を揺する。快楽に沈められてしまえば、何も考えずにすむ。
「……そんな風にねだられたら、工藤さんも抑えがきかなくなるでしょうね」
それが優生のことだとは思いもせず、淳史にしなだれかかる姿を連想した。優生のような貧相な体ではなく、柔らかく豊満な体をしたその人が相手なら、誘惑に負けてしまうのも仕方のないことなのだろう。最初から、淳史の好みを満たしている人が相手なら。
「や……もっと……きつく、して」
涙まじりに囁けば、下からの突き上げが激しくなる。好みにはほど遠いと言われている優生が黒田の気を引ける意味など、今は理解できなかった。
「……ひ、ぁあっ、ん、ぁん」
両手で腰を掴まれて大きく前後に揺さぶられる度に目尻から涙の粒が散る。泣いている自覚もないのに、雫は後から後から溢れて止まず、頬を濡らし続けた。






「いってらっしゃい」
玄関先で黒田を仕事に送り出す優生に、何か言いたげな瞳が覗き込んでくる。
「……あの?」
優生から見送りのキスをするようにということかと思ったが、先日の仕返し代わりにわからないフリをしてみた。
「出勤前には、ハグもキスもしていただきたいんですが?」
いざ明確に言葉にされてしまうと、立場上、嫌だとは言いにくい。形だけでもと開き直り、そっと身を寄せて、唇を合わせた。
「あ……っ」
離れようとした腰を抱きよせられて、重ねたままの唇を割られる。すぐに舌が触れ合って、緩く吸われたり軽く擦られたりしているうちに力が抜けてゆく。その気持ちの良さに出勤前だということを忘れて流されてしまいたくなる。
錯覚しそうなほどの優しさに胸が騒いだ。
情愛を交わすような甘いキスはしたくない。クセも、息遣いも違うのに、目の前にいる男ではない相手を思い出してしまいそうになる。
唇を離してはまた啄むようなキスを何度かくり返して長いキスが終わり、優生を抱く腕が解かれる。
「仕事に行くのがイヤになりそうですよ」
冗談ともつかない笑いを残して、黒田の背がドアの向こうへ消えてゆくのを呆然と見送った。


体調が良くなってきたせいか、一人で待っている時間が少し退屈に思えてくる。
同時に、淳史以外の誰にも何も告げないまま音信不通になってしまったことがひどく気にかかった。
連絡がつかないことに気付けば、また勇士は怒り心頭に発して淳史に当たることになるのだろう。或いは、今度こそ呆れられてしまったかもしれないが。
なるべく早く連絡を取りたいと思いつつ、もう少しほとぼりが冷めるまではおとなしくしているべきだろうかと考えたり、気持ちは一定しない。後になるほど連絡しづらくなるとわかっているのに、いろいろな意味で勇気が足りなかった。
気を紛らわせるために、手間のかかる料理を作ってみたり、勝手に大掃除を始めてみたりと時間を潰す。
なるべく、淳史のことは考えたくなかった。淳史を思うたび、美波子と一緒の姿が浮かんでしまう。緩く波を打つ胸元まで伸ばした髪も、豊かで柔らかそうな白い肌も、淳史の好みに叶っているのだろうとわかる。少し濃い目の化粧は爪の先に至るまで隙がなく、やや派手めな印象からも容姿に対する自信が窺える。
出逢った頃、さんざん子供っぽいと言われた理由が、彩華だけでなく美波子に会ったことで、いやというほど身に沁みてわかった。
本来、淳史が恋愛相手に望む何もかもが、優生にはないものだった。
なぜ淳史が優生と恋愛する気になったのかは今もって謎のままだが、根本的な好みが変わるということはまずあり得ないことで、冷めるのは時間の問題なのだと思う。手を伸ばすまでもなく、既に美味いと知っている獲物の方から近付いてくるものを、断る道理などあるわけがない。
捜し出すと言われた言葉に怯えているのは、見つけられることではなく諦められてしまうことだと、疾うに知っている事実から目を逸らしながら日々を費やしてゆく。いつか、手を離したのは自分の方で、淳史が他の誰かを選んだのは当たり前のことだったと諦められるまで。




「あの、俺、一人で出掛けたらいけないとか、ないですよね?」
いつものように黒田を玄関先まで送り出しながら、優生はずっと気に掛かっていたことを尋ねてみた。といっても、了承をもらうのが目的ではなく、自分を励ますためだ。
「あなたが一緒に来てくれと言ったんですよ。私が止めた覚えはありませんが?」
「じゃ、構わないんですよね?」
「工藤さんには制限されていたんですか?」
黒田の推測はいつも的確で、優生をうろたえさせる。敵わない相手だからこそ選んだはずなのに、優生の想定を超える返答には戸惑ってばかりだった。
「だって、愛人って、いろいろ制限があるのかと思ったんです」
「縛られたいんですか?」
「いえ!」
慌てて首を横に振ったのは、淳史の時に感じたのとは比べ物にならないくらい、本来の意味での危機を感じたからだった。
「人目が気になるのなら、女性にでもなりますか?」
「……え?」
「家から一歩でも出る時には、女性を装えば、あなただとわからなくなりますよ。いっそ、私の連れ合いだということにしておきましょう」
「もしかして、それって追加条件だったりします?」
「いいえ。でも、工藤さんやあなたの親しい人以外なら、欺けるかと思いますが」
女嫌いのくせに優生に女装を勧めてみる心理はどうにも理解できない。
「女装はイヤです……変装くらいじゃダメですか?」
「私は構いませんよ。一目であなただと気付かれない程度に出来ればいいでしょう。次の休みにでも対策を講じましょうか」
出勤前の黒田をそれ以上留めることはできず、優生は短いキスで、広い背中を送り出した。


翌々日、優生は黒田の知り合いがいるという美容院へ来ていた。
優生を迎えてくれた相手は至って普通の、勘繰るなら、だからこそ黒田の好みなのかもしれないと思わずにはいられない20代半ばくらいの細身の男だ。短めの髪に少し彫りの深い顔立ちは女性的な面は全くといっていいほどなかったが、笑うと急に子供っぽくなる表情が印象的だった。
黒田とどういう関係なのかは敢えて尋ねなかったが、職業柄か人当たりが良く優しげな口調は、少なくとも優生の苦手なタイプではなさそうだった。
「性別がわからないような感じに、というお話でしたけど、このままでも充分悩みますね」
元から優生は中性的な容姿をしていたかもしれないが、高校時代は性別を迷われたという記憶はあまりなかった。淳史が長い方が好きだと言ったから伸ばしていた髪のせいもあって、そんな印象がついてしまったのかもしれない。
「細くて柔らかい髪ですね。少しウェーブがかかってるのは天パですか?」
優生はいわゆるネコ毛という髪質で、短くカットしている時はそうでもないが、伸ばすと緩くクセが出て微妙にウェーブがかかったようになってしまうのだった。寝グセはつきやすいが直しやすいという、どちらかといえば扱いやすい髪だと思う。
「短いとそれほどでもないんですけど、伸ばすとクセが出るみたいで」
「もしかして、この色も染めてないんですか?」
「なんか、色素が薄いみたいで」
「いいですね。こんな淡い色、なかなか出ないですよ」
「そうですか」
褒められるということが苦手な優生には上手く受け流すことが出来ない。そうでなくても、中学の頃から染めているのではないかと度々疑われた髪色は、優生にとってはあまり良い思い出がないものだった。
「もう少しボリュームが出るようにカットして、少し女らしい感じにしましょうか」
“女らしい”という言葉にひどく抵抗を覚えたが、女装よりはマシかと思い直して頷いた。当面の不安さえ回避できれば、おそらく次にカットする頃にはほとぼりも冷めて元に戻せるだろう。
鏡の中の自分から目を逸らしながら、器用な指が鋏を操るのに任せる。少し離れた所で待つ黒田の反応を見たくなくて、興味のない雑誌に手を伸ばす。時折かけられる言葉に軽い相槌を打ちながら、カットが終わるのを待った。

「こんな感じでいいですか?」
それは優生にかけられた言葉ではなく、黒田に確認するものだった。
「美人は何をしても似合いますね」
微妙に棘を含んでいるような気がしたが、鏡の中の優生は黒田の好みからますます遠ざかっているに違いなかった。
「化粧映えしそうですね。軽く試してみましょうか?」
冗談ともつかない口調は、事前に黒田がそれらしいことを言っていたのかもしれない。優生は慌てて断った。
「ごめんなさい、俺、アレルギーがあるからダメなんです」
「そうなんですか? じゃ、描くのは諦めて眉を整えておきましょう」
答える代わりに目を閉じる。一瞬の痛みを何度か耐えて目を開けると、意外なほど印象が変わっていることに驚いた。
元からそう濃くはない眉を細く、緩いアーチを描くように形を変えただけなのに、髪型と相まって優生の性別を混乱させるようだった。
「これで口紅を塗れば完璧ですよ」
賞賛の言葉に、優生はため息で答えた。人目を欺こうとしているのは事実だが、決して女性になりたかったわけではないのに。何とも複雑な気分で黒田を振り向いた。
「綺麗ですよ、今のあなたには欲情しませんから」
黒田も優生の心情に近いらしく、嘘を含んでいるようではないのに、とても褒め言葉には聞こえなかった。
「あと、洋服ですけど、一応合わせてみてください」
広げられた洋服の山は、黒田が頼んであったものらしい。主にカーディガンや重ね着用のセーターなどの、上から着るものばかりなのは、出掛ける時には女性を装えばいいと言っていたからなのだろう。
合わせが左上になっていることから、明らかに女性ものというわけではなさそうだったが、今まであまり選ばなかったような少し派手めの色合いの、中性的なデザインのものばかりだった。これでレースかリボンでもついていれば撥ね付けるところだが、明確に断り切れないものを選んでいるところが余計に腹が立つ。
げんなりとして黒田を睨んでみても、軽く肩を竦められただけで試着を免れることは出来そうになかった。
仕方なく、差し出された一枚を羽織る。認めたくはなかったが、ざっくり編まれたフードつきのカーディガンは、細身の優生によく似合っていた。
「そんなに嫌そうな顔をしなくても、自分で言い出したも同然のことでしょう?」
「俺、女装はイヤだって言ったと思いますけど」
「ですから、女性ものではないでしょう? しかも、あなたみたいな細身のサイズは探すのが大変だっただろうと思いますが?」
その労力を思うと、強く反論することは躊躇われた。優生が頼んだわけではなくても揃えてくれたのは事実で、そう思うとつき返すことは出来なかった。
女性の姿に擬態することには馴染めなかったが、良く取れば、自分ではないような気分になれないこともない。優生と親しい相手でなければ、すぐにはわからないだろうと思うくらいに印象が違って見える。そう思えば、一人で外出する勇気が少しだけ沸いた。






求められることが望みで、最初は優生の方からねだっていたはずなのに、日を追うごとに黒田のことが怖くなってゆく。
好きな男の面影に上書きしようとするかのような強さを持った相手に、いつか優生の記憶をすっかり塗り替えられてしまいそうな不安は日増しに大きくなっていった。
先に快楽に溺れたのは優生の方だったかもしれないが、それ以上に、黒田は優生を執拗に抱いているような気がする。やや荒っぽく、時には恋人のように優しく扱われるうちに、優生の気持ちは乱れてどうすれば良いのかわからなくなってしまう。
硬く、熱いものが今にも優生の体を開こうと押し当てられているのに、ムダと知りつつ腰を引いた。驚いたように、黒田が優生の顔を覗き込む。瞳を逸らしたまま、勝手な理屈を口にする。
「……稲葉さんとは、してなかったんですよね? 俺も、口でするだけじゃダメですか?」
「それでは、あなたを置いている意味がないでしょう? 第一、あなたの方が我慢できるんですか?」
「あっ……ん」
意地悪く笑いながら、長い指が中途半端に中をかき回す。欲しくないと言えば、もちろん嘘になる。
「……俺、は……黒田さんの指も、好きですけど」
「今更、条件を変更したいと言われてもきけませんよ。私は稲葉さんを抱けない代わりに、あなたに愛人にならないか尋ねたはずです」
もちろん、それはあの時の言葉遊びのようなもので、優生が本気に取って押しかけてくるなど想像もしなかっただろう。それでも優生を置いてくれた黒田に甘えて、自分から抜き差しならぬ関係を築いてしまった。
「あぁっ」
強引に押し入れられると息が止まりそうになる。無理な挿入は黒田にとっても辛いはずで、僅かに顰めた表情は苦しげだった。
「や……ん、んっ」
大きな掌が優生の前をやわらかく包んで扱く。息が抜けるたびに黒田は優生の中へ身を進めて、やがて全てを納めてしまう。
殊更ゆっくりと出し入れをくり返しながら、優生の中を満たしてゆくそれが、いつも容易く裏切らせる。小刻みに揺すられて、焦らすような緩慢な動きに耐えられずに首を振る。
「いい加減、工藤さんと別れたと認めたらどうですか?」
「……そんなの……最初から、わかってます」
「本当に、あなたは嘘を吐くのが下手ですね」
むしろ嬉しそうな声が、優生の耳元で囁く。腿の裏側を掴む手が、膝が肩につくほどに押し上げた。高い位置から突き入れられ、強く腰を打ちつけられると堪らずに泣き声を上げてしまう。激しい圧迫感と無理矢理引き摺り出される快感に涙が溢れた。
さんざん奥を穿って欲望を放つと、黒田は漸く優生を押え込む手を離して、苦しい体勢から解放した。
「……俺には、手加減しないくせに」
口をついた恨み言に、黒田は涼しい顔をして優生を見た。涙に濡れた頬にかかる髪を、うらはらに優しい指が払う。
「好きでもない相手に遠慮なんかしませんよ。それに、あなたは嗜虐心をそそるというか、泣かせたくなりますから」
まるで恋人のように扱うことがあっても、優生はただの囲われ者に過ぎないと、言い切る言葉を胸に留める。勘違いしたくなるのは優生の悪い癖で、察した黒田が釘を刺すのは、親切だと思うべきなのだろう。
「……そんなに大事にしてたのに伝わらなかったんですね」
「いえ。実は半年以上も離れているのは心配で、少し強引に迫ったのが逆効果になってしまったんですよ。確証が欲しいと言うのは私の身勝手だったようで、ひどい言葉で罵倒されました。やっぱり、愛していれば我慢しなくてはいけないものでしょうか?」
思いがけない言葉に戸惑いながら、優生は率直な答えを返す。
「どうなのかな……俺はしてくれない方が嫌ですけど」
「そのくらい思わせたかったのでクスリを使ったんですが。あなたには良く効いたのに、稲葉さんには効果がなかったようでした」
「え、あの、最初の時の……? でも、入れさせてくれなかったんじゃ?」
「指だけですよ。泣かれてしまったのは初めてで、うろたえてしまっているうちに飛び出されてしまいました。それきり稲葉さんとは音信不通ですから、あの後、どうしたのか凄く気になっているんですが」
「……黒田さんて、愛してるとか言いながら、結構ヒドイことするんですね」
「利己的なもので、どうしても見返りを求めてしまうんですよ。一緒にいられるだけで満足できるほど人間が出来ていませんので」
どこかで聞いたようなフレーズだと思った。稲葉も、黒田の腕の中にいるだけで充足していたのだろうか。即物的に求めてばかりの優生とは違って。
「俺も黒田さんと同じかも……腕枕も要るんですけど、その前にして欲しいと思ってしまいます」
「そのようですね。だから私の所には来たんでしょうから。稲葉さんもあなたのようだと楽だったんですが。あまり潔癖過ぎるのも難しいですね」
ふと、疑惑が胸に湧いた。たぶん、ずっと以前から腑に落ちないと思っていたことだ。
「……それを信じてるんですか?」
「どういう意味です?」
「いえ……もしかしたら、知ってるからこそ、したくなかったのかもと思ったので」
「……そういえば、そうかもしれませんね。その可能性を考えもしませんでしたよ」
「あっ……」
ふいに、優生の体が黒田の上へ抱き上げられる。大きく膝を割られて、硬く立ち上がったものが入り口を探ってくる。ついさっきまで抱かれていた名残を留めたままの優生の中を、一気に穿った。
「や、あっ……ん、は……っん」
下から激しく突き上げながら、優生の腰を大きく揺すって、中を力強く擦りつける。いきなりの行為に体も気持ちもついていけず、離したいはずの黒田の体にしがみついてしまう。
怒らせてしまったことにすぐには気が付かなかった。黒田が僅かも表情を変えなかったせいで、何気なく言った優生の言葉が逆鱗に触れたかもしれないとは思いもしなかった。
「……ぁん、は……あ、あっ……ん」
優生を前後に揺すりながら黒田の昂ぶりへと擦りつけられる度に、痛みよりも強い快楽に塗り変えられてゆく。
優生が黒田の相手なら、悩ませる間もなく簡単に落ちてしまうに違いない。或いは、そういう所が選ばれない理由なのかもしれなかったが。
我慢の利かない優生が達った少し後に、黒田も優生の中へ放った。何度か飛沫を打ち付けてから、ゆっくりと引き出される。
ホッと息をついたのも束の間、黒田はとんでもないことを言い出した。
「これからは、名前で呼んでいただくことにしましょうか」
「……え、でも」
今更のように、未だに黒田のファーストネームを知らない事実を思い出した。
「名前を知らないんでしたか? 聖人というんですよ」
「まさと……さん?」
「そうですよ。聖人君子の聖人と書いて“まさと”です」
「……ウソ」
「本当ですよ。どうやら名前負けしてしまったようですが」
優生の心の中を見透かしたように、先に本人に言われてしまう。
「でも」
優生が名前で呼ぶ理由などないと思ったのに。
「夫婦を装うのに名字で呼ぶのは変でしょう?」
「あ……」
尤もらしい言い訳に返す言葉もない。そういえば、一緒に買い物に出た日から、黒田は優生を“ゆい”と呼ぶようになっていた。
口の中で慣らすように何度か音にせずに呟いてみる。しっくりくるまでには随分かかりそうに思えたが、とりあえず呼んでみた。
「聖人さん」
「はい」
「あの……ごめんなさい、余計なことを言ってしまって」
もう充分な報復は受けたような気がしていたが、それでも謝っておかないといけないと思った。
「いえ、私も大人げないことをしましたので」
「今更ですけど、俺も知り合いにプラトニックしかダメっていう人がいるんです。何度か口説くようなことを言われたんですけど、その人もメンタルな恋愛しかしないんだって言ってました。だから、きっとそういう人もいるんだと思います」
取ってつけたような優生のフォローを、黒田は聞き入れる気はなさそうだった。
「口説かれるような相手を、よく工藤さんが許していましたね」
「だって、淳史さんの会社の人だし……それに、そういう意味では危ない感じは全然しないんです」
もし紫にそんな下心があったのだとしたら、隙だらけらしい優生に指一本触れていないはずがなかった。
「あなたの評価は信用できませんけどね」
「その人、見た目がちょっとチャラいから誤解されるかもしれないんですけど、触られたこともないし、ほんと優しい人なんです」
「工藤さんの会社の人ということは、もしかして後藤さんですか?」
「そうです、黒田さんも面識があるんですか?」
「よく工藤さんと一緒におられましたから、顔と名前くらいは覚えていますよ。直接話したことはないですが。遊んでそうに見えましたけど、よく無事でしたね」
「無事も何も、求められてもないんですけど……紫さんは、あ、後藤さんのことですけど、プラトニックっていうよりストイックなのかもしれません」
黒田と共通の知り合いがいて、論議を交わしているのは何だか不思議な感じがする。
「意外ですね。稲葉さんでもキスくらいはさせてくれますよ。それ以上は難しいですけど」
「あの、入れさせてくれないだけじゃなかったんですか?」
「それが、なかなか手強いんですよ。いい感じになればなるほど機嫌を損ねてしまいますので。あなたの想像通りなのかもしれませんね」
「性急だったとか……ただ怖がっていただけなのかも」
もはや何の意味もなさそうなフォローを、ムリを承知でくり返す。できれば、優生の言葉で海外に行った恋人を諦めさせるような結果にはしたくなかった。
「一度、後藤さんの言い分も聞いてみたいですね」
「紫さんは自分の考えを押し付ける人じゃないし、稲葉さんとは違うかもしれないですけど」
どうあっても黒田に合わせてくれなかったという稲葉とは、おそらく違うタイプだろうと思った。優生のためならポリシーくらい、いつでも変えてもいいと言ってくれた紫とは。






「俺、年下だし、もうちょっとくだけた感じで喋ってもらいたいんですけど、ダメですか?」
時間の経過と共に親密な関係が築かれてゆくものだと思っていたが、黒田の口調はいつまで経っても他人行儀な距離を保ったままのようだった。油断すると、優生の方はつい崩してしまいそうになっているというのに。
「相手や年齢に関係なく、こういう感じなんですが」
「疲れないんですか?」
「くだけて、という方が難しいんです。私は九州から来ているので、こちらの言葉に上手く馴染めていないので」
「そうなんですか? 全然、そんな感じしないですよね」
「もう7年目ですからね、さすがに抜けたんでしょう。もしあなたが疲れるようでしたら、普通に喋っていただいて構いませんよ?」
「でも……」
7つも年上の相手が優生に敬語を使っているのに、自分の方だけがタメ口をきくというのも抵抗がある。
「そういう所は固いんですね。そんなに気にしないでください。私も気にしませんので」
「じゃ、そうします」
少しずつ気を許していければ、いつかは自然なもの言いが出来るようになるのだろうか。いつかというほどの時間があるとは思えないのに。

黒田に、優生のことを好きではないと言い切られた時に、いつまでも此処にいられるわけではないことを再認識させられた。ともすれば、ぬるま湯のように楽なこの場所にずっと居られると勘違いしてしまいそうになっていた優生を戒めるような言葉だった。
始める前から、終わりは黒田が決めていいと約束していたが、それはおそらく稲葉が戻るまでということで、リミットはそれほど長くないのだろう。
その頃にはほとぼりも冷めているはずで、優生は身の振り方を考えなければならなくなる。
一人で生きてゆく自信は未だなく、依存し過ぎる自分を変えられるとも思えない。要らないと言われたら、もう次の相手を探す気力もない優生はどうすればいいのだろう。愛してくれなくても、気まぐれに優しさをくれる男の腕を解かれてしまうのは怖かった。




「ゆい?」
軽い睡眠から先に起き出していたらしい黒田の声に、ぼんやりと焦点の合わない瞳を向ける。
優生が血圧が低く寝起きが苦手なことを知らない相手は、まだ頭が上手く働いていないことには気が付いていないようだった。
「……ごめんなさい……もう、時間?」
億劫な体をベッドに横たえたまま、気持ちだけは起きなければと思うのに、すぐには血液が体に回っていってくれない。
「いいえ、まだ2時過ぎですよ。今日は夜勤ですから、一人で留守番できるか心配になりましたので」
「え……と、あの?」
何を言おうとしているのか皆目わからず、黒田を見上げた。片膝をベッドについて優生を覗き込む相手は、いたずらっ子のように笑う。
「一人寝は淋しいんでしょう? おもちゃでも買ってあげましょうか?」
言葉の意味を全て把握できなくても、何となく黒田の意図は伝わってくる。
「いりません」
よからぬ気配に怯えて首を振る優生に、黒田は満面の笑みを浮かべた。
「では、自分で慰めますか?」
「いや」
Tシャツの裾から入ってきた大きな掌が素肌を伝う。正確に突起へ辿り着く指先に擦られて、背を仰け反らせた。
「……ぁんっ」
キュッと摘まれて爪先を立てられると、どうしようもなく甘い痺れに全身を支配されてしまう。力の入らない体から、容易くハーフパンツと一緒に下着を抜かれ、膝を立てた姿勢で腿が開かれてゆく。
「え」
掴まれた手首を引き寄せられて、指先へと冷たい液体が落とされる。わけもわからず振り仰ぐと、黒田の目元が細められた。
「自分で、と言ったでしょう?」
「いや」
振り解こうとする腕は思い通りにならず、晒された腿の奥へと押し付けられるのを止めることが出来ない。
「やめて、お願い」
本気で怯える優生に、黒田は意外そうな顔になった。
「自分でしたことはないんですか?」
「……どうして、こんなこと」
「私の夜勤のたびに、あなたが眠れずにいるかもしれないと思うと気にかかりますから。対処法を考えないといけないでしょう?」
「別に眠れなくても……聖人さんが帰ったら一緒に寝ます」
「可愛いことを言いますね。でも、私もあなたがどういう風に慰めるのか見てみたいんですよ」
あからさまな言葉に、一層不安が募る。どう言えば回避できるのか、考えても考えても頭はパニックに陥ったように何も思い浮かばない。
「ほら、いつまでも初心そうな顔をしてないで」
手首を引かれて促されると、観念するしかなさそうだった。そっと、濡れた指を近付ける。入れるどころか、触れることさえ指が震えてままならない。
「あなたは最初だけは慎ましいですから、一本ずつゆっくり慣らした方がいいですよ」
何とか言われた通りにしようと思っても、拒むように閉じたままのそこへ指を入れるのは思った以上に困難だった。潤滑剤の力を借りて少しずつ、指先で探ってみても、誰かがしてくれる時のように、上手く緩めることは出来そうになかった。
何も考えずに流されてしまうことも、逆らうこともできず、閉じた瞼の端から涙が滲む。
「見られて興奮するタイプじゃないとは意外ですね」
内腿を舐めるように近付く吐息が、不意に体の奥に火を灯す。自分の指ではなく、この唇に触れられたらすぐに高められるのにと思うと、それは瞬くうちに全身に広がっていった。
軽く肌に触れた唇が、日に当たることのない生白い腿に薄っすらと跡を残して這い上ってゆく。
「少しはその気になってきましたか?」
微かな兆しに触れられて腰が跳ねた。して欲しいと言ってしまいそうな唇を噛む。
「そんな細い指じゃ物足りないんでしょう?」
優しい声が、いっそう意地悪く響いた。腕を伝う手が、優生の指先へと伸びてゆく。
「あぁっ……ぁんっ」
優生の指ごと押し込まれて、自分のではない黒田の感覚に悦ぶようにビクビクと震えた。欲しいと言ったも同然の反応に真っ赤になる優生を、意地悪な声が煽る。
「ここがいいんでしょう? どうして自分でしないんです?」
「あぁっ……」
敏感なところを指の腹で擦られて、揃えた指で激しく突き上げられる。それに合わせるように腰を揺すって高みへ駆け上がろうとするたびに、躱すように動きを緩められてしまう。はしたなく開いてゆく脚の間で涼しげな顔をしている黒田に、止めを刺されるのを待ち詫びた。
「……いや……意地悪、しないで」
「自分で出来るようにならないと困るでしょう?」
「いや……あっ……ぁんっ」
「いいんですか、このままで?」
そんな悪人面でもないくせに、優生に意地悪を言う黒田はまるで鬼畜のように見える。
「いや、お願い……も、いかせて……」
指を追って腰を揺すりながら、涙声で訴える。確かな刺激が欲しくて縋るように見上げた。
「……反則ですよ、私は見るだけのつもりだったんですが」
黒田が声を掠れさせた理由はすぐにわかった。
ベッドへ仰向けに横たわったままの優生の頬を撫でる掌と、熱を帯びた眼差しが、欲情を露にする。素早く服を脱ぐ黒田から目が離せない。
顔を跨ぐように膝を付かれて、半ば立ち上がったものを鼻先へ付きつけられても、抵抗感はなかった。軽く頭を上向かせて、唇を薄く開く。片手を伸ばして指で掴み、先端から根元へと上下させながら、先だけを唇に収める。わざと音を立てて舌を絡めて吸いながら、育ってゆくそれが優生の後ろへ入ってくることを思って一層体を熱くした。
黒田の呼吸が荒くなり、太い血管を浮かせて膨らんだものが優生の呼吸を妨げる。
唇を外そうとしたのを見越したように、黒田の掌が頬を包んだ。
「自分で口でと言ったんですから、ちゃんと銜えてください。喉を開いて、もっと奥まで」
黒田の手が、髪をかきあげるようにして優生の顔を上向かせた。首の後ろを引き寄せられながら奥を突かれると、苦しさで涙が滲んでくる。
「ん……っう」
逃れようと首を振ろうにも、黒田の両手が許さず、口の中で弾けるものが頬の内側を打つ。息苦しさに離そうとするほどに押し込まれて、生理的な涙が滲む。
「ダメですよ、最後まで面倒を見てください」
「……っは……う、っく」
喉を打つ白濁に咽せながら、何度となく注がれるものを嚥下した。
優生の唇の端から零れたものを拭う黒田の指へと舌を伸ばす。口の中へ含んで、舌を絡めて丹念に舐めた。早く止めを刺して欲しいという一心でその長い指を濡らす。
「指でいいんですか?」
ぞっとするほど優しい声に、魅入られたように頷く。知らぬ間に思い通りに操られているとわかっていても、誘惑に逆らうことは出来なかった。
「ん、ぁん、あ……ん」
また焦らされると思っていたが、黒田の指は優生の弱い所を執拗に擦り、激しく突いて追い上げ、燻っていた熱を解放させた。
浅く早い呼吸で胸を上下させながら、優生は抱かれた後のような疲労感に、体を起こすことが出来ずにいた。気だるさに横たわったまま、大きな手が髪を撫でるのに任せて目を閉じる。
「眠れないようなら眠剤をあげましょうか?」
「……睡眠薬?」
どうも、黒田の勧めるものには裏があるような気がして、つい疑うような口調になってしまう。
「睡眠導入剤といった方が正しいかもしれませんが」
「眠れるようになるんですか?」
「寝付けるということですよ。朝まで眠れるわけではありませんが。クセになりますし、使い続けると効かなくなりますから、私の夜勤の日だけ飲んでみますか?」
「じゃ、一応」
おそらく使うことはないだろうと思いつつ、もらっておくことにした。






「ゆい」
声に籠められた誘いに応えるように、優生の体の奥が疼き始める。求められることを望んでしまうのは黒田といても変わらず、いっそ貪り尽くされて壊れてしまえばいいのにと思う。
それを知っているかのような優しい唇が返事を塞ぐ。深く差し込まれ、口の中を撫でる舌が優生を惑わせる。好きではないと言いながら、まるで恋人にするように甘く執拗に優生にキスをくり返し、深い所に火種を撒き散らす。
「男だと知らなければ、今のあなたの顔を見ながらでは抱けませんね」
ため息のような囁きは、流されるばかりの優生の女々しさを皮肉っているのかもしれない。
優生の衣服を緩めてゆく手が、確かめるように前を探る。激しく扱きながら、別な手が後ろを探る。無遠慮な太い指が中をかき回し、弱い場所を擦り、奥へと沈んでゆく。
「んっ……は、ぁん、んん……」
慣れた指が突く的確なスポットから生まれる官能が体中に広がる。狂おしいほどの衝動に身を捩りながら、逃れ切れずに捕らわれてしまう。
本当に欲しいのは好きな男のものなのか、結局は誰のものでも良いのかわからなくなってくる。今はただ、愛して欲しいと乱れる体を満たしてくれる身近な相手に縋らずにはいられなかった。
「あ、あ、ぁんっ……おねがい、も、う」
「やっぱり、入れられないと満足できないんでしょう?」
意地悪な問いが事実なだけに、答えることができなかった。強い刺激に慣れた体はすぐに蕩け出して、アイデンティティなど根こそぎ奪われてしまう。
ふいに指が抜かれ、掴まれた足を黒田の肩へと掛けさせるように高く抱き上げられる。
「あっ……ああ……あんっ」
欲しくてたまらないものを埋められて悦ぶ体は、数度擦られただけで満足しそうになった。
高みを極めて吐き出しかけた息が、強い指に縛められたせいで止まる。
「いや、なんで」
「あなたがいくとつられそうですから」
「え……?」
「自覚はないんでしょうけど、凄い締め付けなんです。もう少し我慢を覚えてください」
「や、いや、あ……んっ」
必死に首を振る優生の中を、きつく抉ってはかき混ぜ、突き上げる。嗚咽と涙が絶え間なく零れ、それでも体は快楽に悶えていた。
「や、あ……お願い、も、放して……」
「たまには、愛人らしく……私を満足させてからにしてください」
「ん、ああっ……あ、ん……」
どれほど哀願しても、黒田は優生を先に解放してくれる気にはならないようだった。
中で出されたくないという優生の願いはいつも聞き入れられず、黒田は深く貫いたまま熱い飛沫を吐き出した。優生の腰を引き寄せては二度三度と突き上げ、全てを受け止めさせる。
少し遅れて指を解かれると、堰止められていた血流が出口に向かって迸った。包むように回された指に擦られ、全てを絞り出す。
肩に担がれていた脚が下ろされても、まだ優生の中から出てゆこうとしない黒田に、つい泣き言が口をついた。
「……俺みたいなの、好きじゃないって言ってたくせに……」
優生が望む以上に、黒田の欲求は強かった。むしろ、日を追うごとに濃厚になっているような気がする。
「好きじゃないというわけではありませんよ。ただ、あなたのように中性的で綺麗なタイプより、ごく普通の男の方がより好みだというだけで」
だから、優生にも黒田を欲情させることが出来るのだろうか。優生と同じように、体の合う相手なら誰でもいいのかもしれない。
「それに、私は女難の相があるようですから、なるべく女性的な部分のない人を選んでいたんですよ。元々女性は苦手だったんですが、高校の時に女性教師に襲われそうになって以来、どうしても受け付けなくなってしまいましたので」
「襲われそうにって……学校でですか?」
「ええ、教材を運ぶのを手伝って資料室の床に荷物を下ろした所で抱きつかれました。女性を強く跳ね除けるわけにもいきませんし、参りました」
「聖人さんにセマるなんて、すごい人ですね」
茶化したつもりではなく純粋な驚嘆だったのだが、黒田は本気で忌々しげな目を優生に向けた。
「幸いというか不幸にもというか、すぐに人が来たので難は逃れたんですが、大騒ぎになったんですよ。弁明しようにも私は見てくれがこんなですから、被害者はこちらだと周りがなかなか納得してくれなくて困りました。結局、私は自分の性癖をカミングアウトする破目になって、以来、理解のない両親とは絶縁状態なんですよ。それが、こちらに出てくるきっかけにもなりましたし、私にとって女性は鬼門なんです」
「聖人さんて、苦労してるんですね……」
「まあ、それなりには。あなたほどではありませんが」
「俺は苦労なんてほどのことは……ちょっと不運かなとは思うけど」
生まれた順番も、性別も、好きになる相手も、優生が選んだわけではなく、逆らいようがなく定められたものだ。その何れかひとつでも違っていたら、今ここに優生はいなかっただろう。
「もう死ぬのは諦めましたか?」
「別に、死にたかったわけじゃないし……」
否定してみせても、黒田にはとっくに気付かれていたようだった。やはり、優生の選択は間違っていなかったのだと思う。
一人では死への誘惑に逆らい切れる自信もなく、迷惑をかけても構わないと思えるほど依存できる相手は黒田の他にはいなかった。もし淳史に見つかっても優生の意思に拘らず手放さずにいてくれる人物は、黒田の他には思いつかない。たとえ、それが恋人が戻るまでの繋ぎでも、単なる口約束を守るためだけだったとしても。

心地の良い沈黙に浸っていたのは優生だけだったようだった。黒田の体の両側に投げ出していた膝の、裏側から強い力で押し上げられる。
「ぁあっ……い、や」
体の奥で熱く息衝いたものが動き出すと、声を上げずにはいられなかった。逃げようとする腰を掴む手の強引さは誰かに似て、ますます優生を混乱させる。
「あなたのおかげで女性とでもできそうな気がしますよ」
嫌味のような言葉に首を振りながら、抗い切れない自分の弱さに涙が零れた。
このまま黒田に全てを委ね、蕩かされてしまいたいと思わせられて、やがて情欲に塗れた体が沈められてゆく。
深い情交に犯されているのは体だけではなくなっているような気がした。




「血が滲んでますよ」
洗い物の後で、そっと手の雫を拭っていた優生の腕が、いつの間にか背後に立っていた黒田に取られる。
観察するように見つめられて、誤魔化すのは諦めた。きっと、隠したところですぐにバレてしまうに違いない。
何日か前から、手首や指の間が裂けてきて、薄く血が滲んだり、肩の付け根や肘や手首の関節も少しカサついてきていた。乾燥と痒みは、時として我慢出来ないほどで、症状は悪化の一途を辿っている。
「たいしたことはないんだけど……元々アトピー体質だったんです。でも、もう何年も前に治ってて、最近は殆ど出てなかったんだけど」
「環境が変わったせいでしょうか。化粧させないための方便ではなかったんですね」
黒田は、あの時の優生の返事を化粧を断る口実だと思っていたようだ。もちろん、アレルギーがなくても断っていたに決まっているが。
「肌が弱いのは本当です」
「アレルゲンは特定されているんですか?」
「乾燥肌なのと、合成洗剤が合わないみたいで」
「わかってるんなら、どうして言っておかないんですか? 症状が出てからでは遅過ぎます」
「ごめんなさい」
以前、淳史にも同じことを言われたことを思い出す。けれども、押しかけてきたような立場では、最初からある洗剤を変えてくれとは言い出しにくい。
「石鹸素地なら大丈夫ですか?」
「無添加のものなら、たぶん何でも大丈夫だと思うけど……ラウリル硫酸ナトリウムとかエデト塩酸とかプロピレングレコールとかいうのが入ってるヤツがダメなんです」
「そこまでわかってて使っていたんですか。自虐的にもほどがありますね。すぐに変えましょう」
「ごめんなさい」
「一度診察も受けておいた方がいいでしょうね」
「でも」
受付で何と名前を書けばいいのか。しかも、今の優生には保険証もなかった。
「保険証を使うのが嫌なら、10割払えば済むことですよ?」
「それは、そうですけど……」
少し大げさに、黒田がため息を吐く。すっかり呆れられてしまったようだった。
「……自分に合う薬の名前がわかりますか? とりあえず貰ってくることは出来ますが」
「えっと……昔はリンデロンとか出てたけど……もう長いこと薬は使ってないから」
「強い薬ですね。本当に最近は良くなっていたんですか?」
「もう何年も薬を使ってないし。一番ひどい時は飲み薬も出てたくらいだから。たぶん、洗剤変えたら自然に治ると思うから気にしないで?」
年齢を重ねるうちに、或いは合成洗剤を使わなくなってから、アレルギーは出なくなっていた。
「それじゃ、暫く様子を見た方がいいですか?」
「はい、その方がいいです」
そのまま、黒田は優生を連れて最寄りの薬局へ行き、台所洗剤も洗濯洗剤も、入浴用のものも全て買い変えた。




夜勤明けで帰った黒田は、いつものように風呂場に直行した。
ほどなく入浴を済ませてダイニングへ戻ってきた黒田の、Tシャツにデニムという姿は珍しく、この後眠るつもりではないのかもしれないと思った。
「ゆい」
まだ朝食の用意を終えていない優生は、少し迷いながらも、キッチンを離れて黒田の傍へ急いだ。
「あっ……」
待ち切れないように優生の手首を掴んで引き寄せると、きつく腕の中に抱き込んだ。まだ湿っぽい髪をうなじへ埋めてくる。
“おかえり”のハグもキスもまだだったが、我慢できないと言わんばかりの黒田の態度に胸が騒いだ。
探るように優生の唇に辿り着くと、性急に舌を中へ滑り込ませてくる。優生の舌に絡ませ、優しく吸い、擦らせては舐める。気持ち良さに体中の力を抜いて黒田に身を任せると、痛いほど強く抱きしめられた。
もしかしたら、職場で何か気に入らないことでもあったのかと思った。淳史のように、優生でストレスを解消しているのかもしれない。
黒田の気が納まるまでキスにつき合ったあと、少し冷めてしまった朝食を済ませた。
優生が後片付けを終えるのを待っていた黒田に、眠るのか出掛けるのか尋ねる前に、唐突な言葉を突き付けられる。
「もう女性を装うのはやめましょう」
「え……」
「もう必要ありませんよ」
確かに、充分にほとぼりは冷めた頃かもしれなかった。
絶妙のタイミングで鳴るインターフォンの音に黒田が立ち上がる。嫁を装っている優生が出てもおかしくはないが、大抵は黒田が応対してくれることが多かった。
「ゆい?」
自分を呼ぶ声にハッとして、リビングの入り口辺りにいる黒田の方へ近付く。優生に用のある事態というのがすぐに思いつかなかった。
「なに?」
今にも手が届く距離まで近付いたとき、黒田が意地悪く笑った。
「優生……」
唸るような声にビクリと体が引けた。まるでわかっていたかのように腕を掴む黒田の手に、玄関の方へと押しやられる。
見覚えのある懐かしい大きな影が、数歩の距離を一気に詰めて優生を抱きよせようと腕を伸ばした。あまりの恐怖に後ずさろうとした体が黒田に阻まれる。
「いや」
咄嗟に口を付く言葉は、淳史の胸に消えてゆく。驚きが過ぎると、固まってしまうものだとは知らなかった。
「やっと、会えたな」
噛みしめるような言葉に胸が痛む。忘れたいと思っていた相手が、一瞬で優生の努力をなかったことにしてしまった。
「優生」
優生を腕に閉じ込めたまま、淳史が何度も名前を呼ぶ。その度に首を振る優生の体が苦しいほどに抱きすくめられる。
「……どう、して」
責めるような優生の言葉に、淳史は漸く少しだけ腕の力を緩めて、顔を覗きこんできた。
「不甲斐ない話だが、自力では見つけられなくてな。こんなに長くおまえに会えないとは思いもしなかった」
「や……」
優生が身を捩るほどに淳史の腕は力を籠めるばかりで、息もできないほどに胸がしめ付けられる。
「感動の再会はそのくらいにして、さっさと引き上げていただけませんか?」
憮然とした声に、優生を抱く腕にまた力が籠り、淳史の表情が厳しくなる。改めて見上げると、優生の知る精悍な顔つきは幾分翳りを見せて、淳史は少し痩せたようだった。
「連れて帰っていいんだな?」
「駄目だと言えば諦めてくれますか?」
「ふざけるな」
「それなら止めても無駄でしょう? 気の変わらないうちに早く行ってください」
「どういうつもりだ?」
「詮索はしないという約束ですよ? このまま一生隠しておくことも出来たんですから、むしろ感謝していただきたいくらいですね」
挑発的な黒田の言葉に、淳史が天を仰ぐ。バクバクと心臓が走り出すのは、淳史がまた物騒なことをするのではないかと思ったからだ。
「……世話になったな」
「いいえ。こちらこそ楽しませていただきました」
抱かれた体が軋むほどに強く力を籠められて、痛いほどに淳史が堪えているのが伝わってくる。
「もう、ここにいたらダメなんですか?」
今更のように状況を窺うと、黒田はいつもの意地悪な笑みを浮かべた。
「居所はバレてしまいましたから、もう逃げられませんよ?」
「でも……」
「私は他の男を思って泣く人と恋愛する趣味はありませんから」
「聖人さん……」
「あなたは工藤さんから逃げるために匿われたがっていたわけではないでしょう? あなたが工藤さんの元へ戻ってしまわないように囲ってくれる相手が必要で、私に白羽の矢を立てたんじゃないですか?」
「どうして……」
そんなことまでバレていたとは思いもしなかった。
「あなたは嘘を吐くのが下手ですからね」
「優生」
抑え切れない苛立ちを滲ませた声は、一秒たりとも見つめ合うことは許さないと言わんばかりだった。
そのままの勢いで優生を連れ出そうとする淳史に、自分でも驚くほどの激しい感情がこみあげてくる。
「……帰らない」
「優生」
「別れるって言ったでしょ」
「おまえを見つけたら、監禁でも拘束でもしていいんじゃなかったのか?」
確かに、そう言ったのは優生の方だ。けれども、もしかしたら今頃は優生を諦めて、結婚の話を進めているかもしれないと思っていた。
「……淳史さんは横暴だよ」
「おまえの方がよっぽど横暴だと思うが」
おそらく、優生以外の誰も反論しないと、自分でもわかっているのに。
「痴話喧嘩は帰ってからにしてください。目障りです」
本気で迷惑そうに黒田が口を挟む。
結局、今回も淳史に知らせたのは黒田だった。淳史に知らせないという約束を破ったから、契約も終わりなのだと言って笑う真意は優生にはわからないままだ。
「……お世話になりました」
「いつでも家出して来ていただいて構いませんが、もう匿うのは無理ですよ?」
「はい」
こみあげてくるものを抑えることも忘れて見つめてしまった。黒田が簡単に優生を手放そうとしているのだとしても、後ろ髪を引かれる思いに視界が潤む。
余韻を遮って腕に抱き直す淳史が、帰るように促す。こんな風に淳史の許へ連れ戻されてゆくのは、まるで夢の続きのようだ。
「帰るぞ」
「……うん」
部屋を後にしてからも、淳史は優生の腰へ回した腕を解く気はないらしく、窮屈に抱かれたままで階下へと向かった。
「言いたいことは山ほどあるんだが、帰ってからゆっくりな」
現実感が薄いからか、もう優生を抱く腕から逃げ出さなければとは思わなかった。懐かしい匂いのするジャケットの胸元へ、そっと鼻先をくっつける。
夢ではない証のように、優生を抱く淳史の腕が痛いほどに力を籠めた。



- Hide And Seek - Fin

【 Nowhere To Go 】     Novel       【 Not Still Over 】  


2007.12.25.update

まさかと思いますが、黒田×優生派とか、いないですよね……。
本当はもう少し蜜月を続けたかったのですが、
このまま黒田と幸せになってしまいそうで、慌ててお迎えに来てもらいました。
あ、黒田にも新しいハニーがいるので心配しないでくださいねvv