- Not Still Over -



「腹へってないか?」
「うん」
ほぼ、淳史から振られる差障りのない会話が間をつなぐ。
淳史が本題を避けているのがただの先延ばしに過ぎないと、忘れてしまいそうなほど穏やかな時間を過ごすうちに、優生の緊張も解けかけていた。
半時間ほどのドライブで、淳史の気も落ち着いたように見える。優生も、なるべく素直に話し合いに応じられるよう、心の準備をしておこうと思っていた。

地下の駐車場に車が停まると、淳史を追うように狭い空間から出る。
なぜか、密室で二人きりだった時間より、外へ一歩踏み出した今の方が居心地が悪いような気がした。
淳史が近付いてくるほど、解けかけていた緊張にまた支配されてしまいそうになる。足を進めることの出来ない優生の、背を促す掌に体が固まってゆく。
「行くぞ?」
訝しげに声をかけてくる淳史に小さく頷いて、慣れた通路を通って部屋へと向う。もう二度とここへ来ることはないと思っていたぶん、懐かしいというより落ち着かないような気分だった。
「セキュリティは大事だが、これだけ防犯カメラに囲まれるとキスひとつできないな」
冗談とも本気ともつかない口調に、曖昧な相槌を返して慣れた通路を行く。
5分とかからず着いた部屋の、ドアを開けた淳史の無言の圧力に背中を押されるように、中へと足を踏み入れた。
「優生」
囁きと同時に、堪りかねたように背後から抱きしめられると息が止まるかと思った。
短くはないブランクが、淳史に触れられることだけでなく、傍にいるだけで激しい緊張を伴わせている。
髪へ鼻先を埋めるように近付かれると、抑えようもなく体が震えた。
まるで、他の男と同棲紛いの関係にあったことなど知らないかのように振舞う淳史と違って、優生は昨日の続きを始めるように元に戻ることは出来そうにない。
「……本物だな」
噛み締めるような言葉の意味もわからず、優生はただ抱きしめられた腕の中で身を竦ませた。


夢見心地から覚めて、淳史が傍にいることが現実だと認識するにつれて、優生の緊張は増していった。
抱擁から伝わってくる、愛おしいという感情に胸が潰れそうな気がする。優生が黒田の所にいたことも、ただならぬ関係にあったことも、淳史の耳に届いているはずなのに。
会えて嬉しいと思うことを阻む罪悪感が、優生を頑なにさせる。ずっと、会いたいとか触れたいとか思わないようにしてきたのは、もう戻れないと自分に言い聞かせるためだった。
立ち尽くす優生を促す腕に連れられるまま、ソファへ辿り着く。淳史と向かい合うように膝に乗せられる体勢は今の優生には心苦しく、顔を上げることが出来なかった。見つめ合う資格がないことなど、最初からわかっている。
そっと頬を撫でる大きな手は優し過ぎて、いっそう優生を居た堪れなくさせると、淳史は思ってもいないようだった。
覗き込んでくる淳史と目を合わせられず、かといって振り切るわけにもいかずに瞼を伏せる。
「優生?」
答える言葉が浮かばず、小さく首を振った。覚悟をしていたつもりでも、いざとなると話し合う勇気はどこかに消えていってしまう。
頬を包んでいた手が後頭部に回され、淳史の胸元へと抱きしめられると、暴走する自分の心臓の音が聞こえてきそうだった。どうすれば、ずっと閉じ込められていたいと思っていた腕を拒むことが出来るのか。
「怒っているとでも思ってるのか?」
ため息のような淳史の言葉は、優生の怯えた態度を思い違えているようだった。もちろん、それを否定するつもりはない。
「まあ、怒っていないと言えば嘘になるが」
穏やかな口調でも、優生を震わせるには充分だった。淳史に心労をかけた罰を受ける時が来たのだと、わかっているのに。
「一方的な別れ話で行方をくらませるのはルール違反だろう?」
遂に始まった審判に、優生は殊勝な気持ちで臨まなくてはいけないと思った。

「おまえは必要なことも言わないからな。自己完結する前に、俺に話せよ?」
それが何を指すのかわからず、優生は項垂れたまま、淳史に返す言葉を探した。
「……俺はそんなに信用がないのか?」
かろうじて首を振って否定しながらも、答えることの出来ない優生に、淳史は抑え切れない何かを滲ませながら続けた。
「俺は既婚だという自覚があるからな、誰に口説かれようが縁談を持ってこられようが、即答で断ってきたんだ。指輪を外したこともなければ、他の誰かに揺れたこともない。こんな一途な旦那を捨てようなんて酷い嫁はおまえくらいだろうな」
「……ごめんなさい」
「少しは否定してくれないか?」
「ごめんなさい」
決して捨てたわけではなく、逃げ出してしまったのだったが、そう言ったところで淳史を納得させられるとは思えなかった。
優生の髪に触れる手は、無理に顔を上げさせようとはせず、殊更やさしく撫でるばかりだ。
「電話で俺に言ったのは本心か?」
「え……と」
「本当は学校に行きたかったのか? そんなに窮屈だと思ってたのか?」
尤もらしいと思ったから選んだ言い訳だったが、今更ながらその効果に驚いた。優生の意図に反して、淳史の気を病ませる結果になっていたようだ。
「そうじゃないけど……俺、このままじゃニートだよ? もし淳史さんが事故や事件で突然いなくなったりしたら、どうやって生きていけばいい?」
「そのために養子縁組したんだろうが。遺言も書いてあるし、生命保険の受取人もおまえにしてあるから心配するな」
「……経済的な話をしてるわけじゃないんだけど」
育ての親だった祖父が亡くなった時に相続は放棄したが、優生は他の親戚には内緒で生前贈与を受けていた。通帳は産みの親に預けているが、キャッシュカードは優生が持っている。淳史には話していないから知らないのだろうが、本当は経済的な心配は無用なのだった。

「俺には、おまえの方が長生きするようには思えないが」
確かに、一見しただけで貧弱そうだとわかる華奢な優生が、淳史より長生きするとは考え難い。
「でも……学校に行かないなら就職するとか、せめてバイトくらいはしないといけないでしょう?」
まだ十代の優生が、学校に行くわけでもないのに、働きもせず庇護されているというのは、世間体も悪いだろう。だから、黒田の所にいる間も夫婦を装っていたのだから。
「それも、俺の母親に言われたのか?」
「え……」
思いもかけない言葉に、一瞬我を忘れて淳史を見つめてしまった。
久しぶりにまともに見る厳つい顔立ちは幾分痩せて、穏やかさを失くしてしまったような気がする。それほども殺伐とした雰囲気を纏わせてしまったのは他ならぬ優生で、改めて罪悪感に胸が詰まった。
「俺の母親が今にも死にそうだと思って別れようとしたんだろう? おまえに何を言ったのかは聞いた」
「そういうわけじゃ……ただ、俺には淳史さんのお嫁さん役は務まらないと思っただけで」
この期に及んで庇う意味があるとは思えなかったが、決して淳史に親と仲違いしてもらいたかったわけではなかった。優生より親を取ると言われるのは当然のことで、自分を選んで欲しいと思ったこともない。ただ、祝福してもらえなくても、淳史の傍にいることを黙認してもらえたら、それ以上を望むつもりはなかった。
「そういうプレッシャーをかけられたんだろう? すぐに気付いてやれなくて悪かった」
また伏せてしまう優生の頭を、そっと後ろから抱き寄せられる。近付くほどに、止め処なく胸を溢れてくるものに抗いきれず、淳史の首へ腕を回して抱きついた。
高鳴る鼓動は、淳史の腕の中にいると実感させてくれる。抱き返してくる腕から伝わる愛おしさに、体中が甘く痺れてくるようだった。
どうして離れていられたのかわからない。こみあげてくる思いは優生の中に留めておくことができず、淳史の肩を濡らした。

あやすように、大きな手が優生の髪を撫でる。似たような優しい仕草でも、優生が感じるものは異なっていた。
「……俺の親のことなら気にしなくていい。ガンといっても初期だったからな。わかったばかりで動揺して、おまえにきついことを言ったんだろうと思う」
淳史の母親のことを思い出すと、また劣等感と自責の念に囚われてしまいそうになる。気に入られなかったことも、淳史が本当は上手くやって欲しいと思っていただろうということも、忘れてはいけなかった。
「ごめんなさい……上手く、つき合えなくて」
「無理してつき合わなくていいんだ。母親が再婚した時に俺は相手の籍に入ってないし、姓も亡くなった父親のものだからな」
「でも」
「俺が心底惚れた相手を否定して別れさせようとするような親なら、つき合う必要はない」
優生が行方をくらましたせいで、淳史に二者択一を迫ることになってしまったようだった。決して、淳史を試したわけではなかったのに。
「……病気で先が短いかもしれないから、早く結婚して孫の顔を見せてほしいって思うのは当たり前のことだってわかってるから」
「当たり前じゃない。誰にも、明日も生きていられるという保障はないんだからな。俺かおまえが事件や事故に巻き込まれて、先に死なないと言い切れるか? 余命が短ければ何でも通るのか? 大体、普通に結婚してもらいたいとか孫の顔が見たいというのは親の身勝手だろうが」
理屈は合っているのかもしれないが、普通に考えれば淳史の言い分の方が身勝手に聞こえる。
「……やっぱ、横暴だ」
「何だって?」
「ううん……淳史さんは揺るぎなくて、羨ましいよ」
「おまえが人に惑わされ過ぎるんだろう? 親だからといって思い通りにしようとする方に問題があるんだ」
だから淳史に惹かれるのかもしれないと、今更のように思った。いつも迷ってばかりの優生を、強い腕で引き寄せる。その強引な抱擁が、優生の一番欲しかったものだと知っているかのように。
それに依存してしまったら、もし淳史を失うような事態に陥った時、優生に耐えられるのだろうか。


「……あの人は?」
むしろ、もう一人の手強い相手の方が優生を遠ざけさせる原因になっていたと思う。淳史のことを思い出すたびに一緒に現れて、優生の劣等感を煽った、淳史の好みを具現化したような女性。まだ淳史と続いているとしたら、優生はまた逃げ出したくなってしまいそうな気がする。
「嫌な思いをさせて悪かったな。もう二度と会うことはないから忘れてくれ」
「え……」
驚く優生に、淳史は事も無げに返した。
「おまえの代わりにはなれないと納得していたからな。もう関わることもないはずだ」
「……ごめんなさい」
その人が淳史と話すのも、触れるのも我慢できないと思っていたことは、とっくに見抜かれていたようだ。けれども、淳史に気を遣わせて、ただのつき合いさえも断ち切らせてしまったのだとを思うと、素直に喜ぶことは出来なかった。
落ち込む優生の心情は正しく伝わっていないのか、淳史の口調が少しきつくなる。
「俺は、おまえと籍を入れる前から、他の誰とも結婚する気はないと言っておいただろうが。もしおまえに振られたら、俺はその後一生独身で過ごさなけりゃならないんだからな?」
だから置いていくなと、目で語る。その瞬間に、全てが優生の疑心暗鬼だったことに気が付いた。
知っていたはずなのに。淳史が他の誰かを代わりにしないことも、優生を切り捨てたりしないことも。どうして他の人の言葉に流されて、淳史を信じられなくなっていたのだろう。
「何か反論があるなら今のうちに言え」
切羽詰ったような雰囲気が怖い。心なしか、優生を抱く腕に力が籠められたような気がする。
「ううん……」
「そうか」
淳史が話を終えるのと、立ち上がるのはほぼ同時で、その腕に包まれた優生の体がふわりと宙に浮いた。


大事そうに腕に抱かれたまま、懐かしいベッドへ辿り着く。もっと見つめていたいと思うのに、淳史の吐息が唇に触れるのを感じると自然に瞼は閉じてしまった。
軽く重ねられた唇は優しく、もどかしいくらいにそっと優生に触れてくる。淳史の首へ回した腕にギュッと力をこめると、背に回された腕に、そっとベッドへ倒されてゆく。
開いた唇を舐める舌に早く触れたくて。
伸ばした舌に絡む淳史の舌に吸われ、擦られるうちにすぐに体は熱く火照ってゆく。どこもかしこも、早く淳史を感じたくて焦れったい。
執拗なまでにキスをくり返しながら、大きな手が優生の体中を確かめるように触れる。
胸の先を摘んで、指の腹で弄って、甘く爪先を立て、淳史は優生の体が跳ねるのを見つめている。色づいて膨らんだ突起を唇と舌で包み、緩く強く吸っては優しく歯を当て、優生の反応を窺いながら、愛撫が強いものに変えられていく。
「ああ……っん……ん、ん」
感じて濡れる優生の前へと伸びた掌に包まれて緩く擦られただけで、体の奥が疼いて身悶えた。請うように開いてしまう内腿を這う指が、奥へと忍んでくる。
「あっ、あん……あんっ」
差し入れた指を馴染ませながら、何度も出入りをくり返して優生の弱い所を突く。背を仰け反らせて感じ入る優生の耳元を噛むように、熱い息が触れた。
「優生……」
「ん、はっ、あんっ……あ……ぁん」
圧倒的な質量で優生を開いてゆく淳史のものは、体が覚えている感覚を凌いでいるようだ。
ゆっくりと優生の中を擦っては引き、感じる所を掠めて奥を貫く。時間をかけた繋がりに焦れて腰を振る優生を押え込むと、淳史は容赦なく突き上げ始めた。
「ひぁっ……あ、あん、んっ……っく」
きつく腰を打ちつけられるたび、確かに淳史が優生の中にいると実感する。それは淳史も同じらしく、荒い息遣いが耳をつく。
「優生……」
切羽詰ったような声に、淳史の方へと腕を伸ばす。
その腕を取った淳史は、優生の体を抱き起こすと、一旦動きを止めて強い力で抱きしめた。しがみつく優生をゆっくりと揺すって、繋がったままの体を更に深めようとする。
「ん……ああっ……ん」
満足する理由など、知っていたはずなのに。
優生は体だけではない充足感に、ただ酔いしれた。






「……っ」
体に走る痛みに上げようとした声が上手く出なかったことに驚き、少し遅れて喉の痛みに気が付いた。
瞼が腫れぼったく、ずいぶん泣いてしまったらしかった。腰はだるく、体の奥に残された痛みと熱っぽさで、まともに座るのはムリそうな気がする。
淳史の気が済むまで優生が誰のものなのか確かめ合ったあとの、泥のような眠りから覚めても、依然として解放する気にはならないらしい。
「……優生」
やや張りのない声は、淳史も疲れているのだろう。それでも、力強い腕で優生の体を抱き直した。離れていた時間を一気に埋められるはずがないのに、淳史は取り戻そうとしているかのように優生を腕に閉じ込める。
少し緩めて欲しいと言いたくなるほど強く抱きしめられた腕の中で、そっと淳史を窺った。
「っあ……」
僅かに掠めただけで、剥き出しの胸の先が痛む。さんざん弄られて吸われた名残は、生々しい赤を伴ってその激しさを物語っていた。
何度抱かれたのかわからない。途中で意識を飛ばしては引き戻され、何度も優生の中を濡らされて、泣きながら許しを請ったことがぼんやりと思い出された。熱にうかされたように口走った言葉が過ると、恥ずかしさで顔が上げられなくなってしまう。
「優生」
焦れたような声が唇に触れる。思わず抗う素振りを見せた優生を、奪うようなキスが襲った。
身じろぐことも許さないというように、淳史の手が頬を固定する。深く舌を絡められて、貪るように熱心に吸われると、頭の芯がクラクラと揺れた。
「ぁっ……はぁ、ん」
また抱かれるのかと本気で怯えたころ、漸く唇が離れて、優生の頭を包むように胸に引き寄せられた。
「本物、だよな」
一瞬、言われた意味がわからず、少し遅れて頷いた。そういえば、戻った時にも言われたような気がする。
実感するかのように、淳史はもう一度腕にギュッと抱きしめて髪を撫でた。
「ずっとこうしていたいところだが、さすがに何か食わないといけないな。起きられるか?」
「……たぶん」
自信はなかったが、一応起きる努力をしてみる。もちろん、腕にも腰にも力が入らず、体は起こせそうになかった。
「悪かった、無理しすぎたな」
言葉ほど反省しているようには感じられなかったが、淳史は優生の体を抱き起こして、膝に乗せた。
そのまま立ち上がるかに思えて、慌てて止める。
「待って、俺、何も着てないんだけど」
「どうせ風呂に入らないといけないだろう? 拭いたくらいじゃ取れないぞ」
赤くなる優生を腕に抱いて、淳史が立ち上がる。もう、引き止める言葉を言う方が恥ずかしくて、黙って身を預けた。




風呂を上がって場所をソファに移しても、状況は何ら変わっていないようだった。
淳史の膝の上に乗せられて、胸元に抱き寄せられるのに任せて身を預ける。 できれば、この気持ちの良い胸の中で、ただ微睡んでいたい。
「ひとつだけ約束してくれないか」
優生を睡魔に取られてしまいそうだと気付いているのか、少し掠れた声が頭の上から降ってくる。
「これから先どんな事情が出来たとしても、連絡がつかないような状態にはならないでくれ」
「うん」
まだ約束をさせようとする淳史にホッとしながら、確りと頷いた。

「もう少し後なら、出られるか?」
「え……」
自分ひとりでは座っていることさえ辛いほどなのに、できるなら出歩いたりしたくなかった。
「外で食うにしろ、買ってくるにしろ、一度出かけないといけないだろうが」
優生のいない間の淳史の食生活は、おそらく一緒に住む前の状態に戻ってしまっていたのだろう。食材がないなら買いに行かなければならないとわかってはいても、正直体が辛かった。
「……留守番してるのはダメ?」
「おまえを一人にしたくないんだ」
それが疑われているからなのだと察して、淳史を納得させられる言葉を探す。
「自分で歩く元気も出そうにないんだけど」
事実だと知っているはずなのに、渋面をつくる淳史の了承は得られそうになかった。
少し考えて、黒田からもらった睡眠導入剤のことを思い出した。強制的に起きられない状況になっていれば、淳史も落ち着いて出掛けられるかもしれない。
「心配だったら、眠剤を飲んでおくから」
「そんなものを使ってたのか?」
ますます表情を険しくさせる淳史に、逆効果だったかもしれないことに気付いた。淳史が、優生よりよっぽどまともな神経をしていることを、知っていたはずなのに。
「そうじゃないけど、眠れない時にもらって……」
また、淳史の腕が伸びてきて、優生の息を止めそうに抱きしめる。
「薬なんか飲まなくても眠らせてやるから、もう飲むな」
「……うん」
服用したことはなかったと、言うタイミングを逸してしまったまま、訂正することは出来なかった。




結局、優生を残したままでは家を出られないと言う淳史は、優生が戻ったという報告がてら、義之に差し入れを頼んでしまった。
優生の家出中にも迷惑をかけたに違いないのに、帰ってからも手間をかけさせてしまうことに気が引ける。ましてや、引っ越して間もないという義之と里桜が忙しくないはずがないのに、電話をかけて一時間足らずで二人は揃って訪れた。
覚えのある気配が近付いてくると、ソファに凭れかけさせた背が自然と伸びる。
淳史から絶対安静を命じられている優生は、毛布にくるまった病人然とした格好のまま、先に姿を見せた義之に頭を下げた。
ともすれば息が詰まりそうな空気が、続いて現れた里桜を認めた途端に和む気がする。
「ゆいさん、久しぶり」
屈託なく優生を見つめてくる里桜の、変わらぬ子供っぽさが清潔に見えて、つい目を逸らしてしまう。優生が里桜を苦手だと思う一番の理由がそれだと、本当はずっと前からわかっていた。幼さゆえの一途さで、ただ一人を思い、他の誰にも誘惑されない。叶うことなら、優生もそうありたかったと思うのに。
「……ごめん、わざわざ来てもらって」
何とか言葉を返した優生に、里桜は嬉しそうに笑いながら傍にやってきた。
「ううん。ゆいさん、ちょっと見ない間にますますキレイになった気がするねー」
その理由を確かめるように、優生の顔を覗き込んでくる。
「あ、ゆいさん、細眉……」
優生の頬へと伸ばされる指が、今にも触れそうなところで不意に遠ざかった。不思議に思って見上げると、不穏なオーラを撒き散らす淳史と目が合う。優生に触れさせないために掴んだらしい里桜の腕を、淳史は少し強めに後ろにいる義之の方へと押しやった。
「優生に触るな」
淳史が低く一言発しただけで空気が凍るような気がする。神経質なほど、淳史は優生が誰かと接触するのを警戒しているようだった。

「……ごめんなさい」
小柄な体を縮めて項垂れる里桜に、申し訳なさでいっぱいになる。
義之は不満げな表情を隠さず、庇うように里桜を腕に包んだ。無理を言って来てもらっている相手に不快な思いをさせている現実に、また優生の胃が痛くなってくる。
「俺、ごはんの用意してこようか?」
誰にともなく尋ねる里桜の言葉に、淳史は短く息を吐いて首を振った。
「いや、悪い、優生についててやってくれないか」
「うん……?」
わけがわからない、といった風に見つめ返す里桜を置いて、淳史は義之を連れてキッチンの方へ行ってしまった。聞かれたくない話があるのだろうと、わかっているから何も言えなかった。
不自然なほどの距離を取って優生の隣へと腰かける里桜に、声を抑えて話しかける。
「ごめん、ちょっとピリピリしてるみたいで」
「ううん……びっくりしただけだから」
首を振ってみせても、里桜の表情はまだ強張っている。体格の大きな相手や怒声に酷く怯えるという里桜に、怖い思いをさせてしまった。そうと知っている淳史に、鋭い声を出させてしまう自分の存在自体がもどかしい。
「他人事どころじゃない時期なんだろうけど……無理言ってごめん」
「そんなことないから気にしないで? 俺はテストも終わって、冬休みに入るのを待ってるだけみたいな感じだし」
「でも、緒方さんは12月は特に忙しいんだろ?」
「忙しいっていうか、毎日のように忘年会だとかクリスマスパーティーだとかっていって遅くまで帰らないけど、すごーく楽しそうだから気にしないで?」
義之に対する嫌味にしか聞こえない里桜の言葉は、引っ越し早々家を空けてばかりいるということなのだろう。年末が近付くと、つき合いだけでなく、挨拶回りなどの余分な仕事も増えるのだろうが、まだ高校生の里桜にはピンとこない世界なのかもしれない。
「里桜一人で待ってるの?」
「そういうことが多いかも」
「ごめん、せっかく早く帰ってる日に来てもらって」
「ううん。あっくんが電話くれたから早く帰って来たんだと思うから……俺の方が感謝しないといけないくらい」
義之は里桜をベタベタと甘やかしている印象しかなかっただけに驚いた。
里桜の顔は笑っているのに淋しげな気がして、ふと思いつくまま口にしてみる。

「里桜も一人で留守番してるんなら、こっちに来てもらうのはムリ?」
「えっ……?」
「俺、ほんと信用なくて……淳史さん、また仕事に行かなくなりそうな気がして心配なんだ。里桜が冬休みに入ったら、都合が良い時だけでいいから、こっちに来てくれないかな?」
「俺はいいけど……あっくんがダメって言いそう」
さっきの様子では、里桜が浮かない顔をするのも頷ける。けれども、だからこそ誰かと一緒にいた方が少しは淳史を安心させられるのではないかとも思った。
「あとで聞いてみるから……緒方さんがダメって言わないとも限らないし」
「義くんは大丈夫だよ。今は俺にとやかく言えるような立場じゃないもん」
それも、里桜を一人にしているからなのだろうか。
尋ねる前に、土鍋を持った義之がこちらへ来るのに気付いた。優生と里桜の話を聞いていた様子はなく、キルトの鍋敷を器用に敷いて、テーブルに小さな土鍋を置く。
「ゆいは調子が悪いときには固形物が食べられなくなるって聞いたから」
義之が蓋を取ると、やさしい匂いが鼻腔をくすぐった。細かく切った野菜と卵の浮いたリゾットは、食べてみたい気にさせる。
「すみません、気を遣わせてしまって」
「そんなことはないよ、少しは淳史に料理を仕込んでおかないといけないと思ってね」
ということは、これを作ったのは淳史だということなのかもしれない。
「味見はしたから安心して?」
優生の戸惑いは義之にしっかり伝わってしまったらしく、可笑しそうに返されてしまった。
またキッチンに戻る義之を見て、今更のように気付く。
「緒方さんと里桜もまだなんだよな?」
「ううん、俺は帰りに実家に寄って食べてきた」
「そうなんだ?」
「うん。やっと義くんと二人になったんだし、あんまり実家に入り浸りにならないようにしようと思ってるんだけど……一人になると、つい、くーちゃんの顔が見たくなっちゃって」
殆ど話題に登ることもなく優生には馴染みがないが、里桜には年の離れた弟がいる。
「そういえば、里桜には小さな弟がいるんだったよな」
「うん。もうすぐ7ヶ月。すっごく可愛いよー」
里桜の弟なのだから、相当に可愛いのだろうという想像はつく。


手狭なテーブルで食事を済ませると、後片付けまで義之に甘えることになってしまった。今度は里桜も一緒にキッチンに向かい、代わりに淳史が優生に付き添うことになったようだ。
口数の少ない淳史に話を切り出すのは勇気が要る。その胸元に預けていた頭を、そっと上げて表情を窺った。
「……里桜が冬休みに入ったら、遊びに来てもらってもいい?」
「構わないが……どうかしたのか?」
「緒方さんも留守がちだって言うし、俺も……閉じこもってるんなら、誰かと一緒の方がいいし」
「……合わないんじゃなかったのか?」
声を潜める淳史に、小さく首を振る。合わないというより、合わせようとしたことがなかったのだと思う。それに、他に淳史の同意を得られる人物が思いつかなかった。
「いろいろ迷惑かけたし、お隣さんになるんだし」
「もう里桜とはそういう話になってるのか?」
「淳史さんと緒方さんがいいって言ってくれたら、だけど」
「義之は反対しないだろう? それなら少しでも早く引越した方がいいか……落ち着いてからと思っていたんだが」
改めて、義之と里桜がもう引っ越しを済ませている意味を考えさせられる。
「ごめんなさい、とっくに引渡しも終わってるんだよね」
「おまえを連れていかなけりゃ意味がないからな」
先に引越しを済ませなかった理由を、淳史は事も無げに答えるが、とてもダウンしている場合ではないのだった。
「ごめんなさい……明日は頑張って起きるから」
また淳史に会社を休ませないためには、明日の日曜のうちになるべく用事を済ませなくてはいけない。
「無理しなくていいからな? 当面必要なものだけを先に揃えて、残りは追々にすればいい」
「でも、急がないと年末に掛かったら、いろいろ大変でしょう?」
淳史の仕事が年末年始はどれほど忙しいのか知らないが、急に欠勤したり気安く有給を取ったり出来るとは思えない。

「そういや、そうだな。カーテンはオーダーになるから年末にかからない方がいいだろうな。ベッドもソファも、もし在庫がない場合のことを考えたら少しでも早い方がいいか」
「えっと……淳史さんの仕事の話をしてるんだけど……?」
「引越しの時くらい融通がきくだろう? そのために、おまえがいない間も真面目にやってたんだからな」
「それは当日の話でしょ? ……っていうか、土日のうちに引越しすれば休む必要もないんだし」
「目処が立たないことには日も決められないだろう?」
今に始まったことではないが、私的な事情を優先させようとする淳史に、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「……とりあえず、急ぎの用は明日中に済ませておこうよ?」
「そうだな、他のものは我慢できても、ベッドとソファくらいはないと困るからな」
「買い変えるの?」
「ああ、全部な」
「全部って……全部?」
間の抜けた問いを返してしまったのは、純粋に驚いたからだ。
「そうだ。ラグもテレビもダイニングの……いや、おまえが揃えたものは好きにして構わないが」
「それって、キッチンの中のもの? 炊飯器とかレンジとか……フライパンとかも?」
「そうだ。おまえの使い勝手が悪くならないように考えて決めればいい」
「じゃ、全部持ってく」
揃える時には、淳史が勤務中に抜けてきていたという事情があって、急いで決めてしまったものが殆どだが、優生には深い愛着があった。料金を払った淳史が処分するというなら仕方がないが、優生が決めていいのなら勿論持っていきたいに決まっている。
「引越しの荷造りは業者に任せても構わないか? 全部が嫌なら、荷解きだけ自分でするとかいうのもあるらしいが」
「よくわからないけど、置く場所とかって使う本人が決めないと不便じゃないのかな?」
「だろうな。結局やり直さなけりゃならなくなるくらいなら、荷解きはこっちでした方がいいか?」
「うん、その方がいいと思う」
「あとは色だな。おまえ、何色が好きなんだ?」
何色が好きというより、現状で充分に満足していた優生としては、できるだけ印象が変わらないようにしたいと思った。

「今もメインは白系だし、俺は同じ感じの方がいいけど……でも、緒方さんの所は? こっちが後になるんだし、被らない方がいいでしょう?」
といっても、もし里桜のイメージで合わせているとしたら、同じように白を基調としていたとしても、オレンジかピンクを利かせていそうな気がする。ましてや、義之の執着ぶりから察するに、新婚家庭をイメージしたコーディネイトをしているに違いない。
「うちはねー、アンティークホワイトにベビーピンクだよ。カーテンは淡いグリーン系」
唐突に話に入ってきたのは里桜で、後片付けを終えたらしく、義之と一緒にキッチンから出てきた。ソファに近いカウンターに置かれたダイニングチェアーに、並んで腰を掛ける。
「それは里桜の趣味?」
「俺もだけど、お母さんと義くんが特にねー。くーちゃんが産まれてから、みんなそっち系統に走っちゃってるんだ」
「やっぱり、赤ちゃんの影響って大きい?」
「うん。義くんなんて可愛がりすぎちゃって、いつ誘拐犯になるか気が気じゃないよ」
「そういうけど、もしかして里桜が産んだんじゃないかって思うくらいソックリなんだよ?」
見るからに子煩悩になりそうな義之は、籍を入れれば義弟になるはずの赤ん坊に、すっかり参っているらしい。
「また始まっちゃったよ……だから、くーちゃんの話は振らないようにしてたのに……」
「真面目な話、僕たちにくれないかなって思ってるんだけど、お義母さんがどうしてもダメって言うんだよ」
「当たり前だろうが」
横暴さでは勝っているに違いない淳史でさえ、それが無理な望みだとわかっているというのに、一番常識のありそうな義之が納得がいかないという顔をしているのが可笑しかった。
「でも、僕たちには子供は持てないんだから、里桜のミニチュアのような赤ちゃんが目の前にいたら、欲しくなってしまうのも仕方ないと思わないか?」
「勝手な理屈だ。俺が里桜の親なら、おまえを出禁にするぞ」
「淳史だって、ゆいに瓜二つの赤ちゃんを目の前にしたら気が変わると思うよ?」
まるで、その姿を思い描くような表情を見せる淳史に、鼓動が上がる。欲しいと言われても、優生に叶えることは出来ないのに。
「……確かに、誘拐犯になってしまいたい衝動に駆られそうだな」
「あっくんも、赤ちゃん欲しいの?」
会話に入りたくないと思ってしまう優生よりも、小さく呟く里桜の方がよほど切実に見えてドキリとする。

「僕は子供が欲しいわけじゃないよ? 里桜と血の繋がった来望(くるみ)だから欲しくなってしまうだけで」
問いかけられた淳史を遮って、先に答える義之の言葉は正しく里桜に伝わっているようだった。そっと里桜を抱きよせる義之の仕草にも、僅かも嘘は感じられない。
「俺も、子供が欲しいとは思ってないからな? ただ、おまえのミニチュアなら他の誰かの手元に置いておきたくないと思っただけだ」
同じように優生にフォローをする淳史の言葉も、嘘だとは思わなかった。ただ、その言葉のもっと深い意味には気付かないまま。
気恥ずかしさを隠すために、少し強引に話を元に戻す。
「……緒方さんのところがピンクなら、絶対に被ることはないよね」
「そうだな、さすがに俺にはきついな。無難に茶系か、淡いトーンにしてもらいたいところだが」
「俺も、派手じゃない方がいいかも」
「好みが近いと、こういう時に便利だな」
淳史の好みの色など聞いたことはなかったが、漠然とダークな色の方が好きなのだと思い込んでいた。それが間違っていることは、身近にある色がそうではないことで気付くべきだったのに。
「そういえば、淳史さんて車以外に黒ってないんだよね? スーツは濃い色が多いけど、他はそんなことないし。初めてここに来た時に、ちょっと意外な感じがしたんだけど」
「車は他に合うと思う色がなかったんだ。黒自体は嫌いじゃないんだが、いかにもという感じが気に入らなくてな。それに、部屋は暗くならない方がいいからな」
いかにも、というのは頷ける。殆ど黒を纏うことがないのに、なぜか淳史には黒の印象が強かった。
「……良かったら、引越しの手伝いにも来るから、遠慮しないで呼んで?」
二人だけの世界に入ってしまいそうな淳史と優生に気を遣ってか、近々隣人になる二人は世が更ける前に帰って行った。






知らぬ間に眠っていたようだと、目が覚めたことで気付く。
無意識に淳史を探す優生は、その腕の中にいることを知ってホッと息を吐いた。
ソファに深く腰掛ける淳史の膝に乗って、その胸に全身を預けるように凭れかかっている体勢は、まるで幼い子供になってしまったかのようだ。
夢だったのかもしれないと、まだ疑ってしまう優生の不安に気付いているかのように、淳史はそっと唇を寄せてくる。優しいキスを止めないで欲しいと言う代わりに、その首へギュッと抱きついた。
少し落ち着いてくると、義之と里桜が帰ってから、新しい部屋をどういう風にするのかイメージを膨らませながら話し合っていたことを思い出す。大体の予想図が描けたことで、張り詰めていた気が抜けたのか、優生の記憶はそこで途切れていた。
何度ここで抱き合ったかしれないのに、こんなにも愛着のあるソファを買い換えると言う淳史に、本当は同意することは出来ない。けれども、今の優生は淳史に意見できるような立場ではなく、何を言われても頷くしかなかったのだった。
「……何時?」
「11時過ぎだ。起こしたくなかったんだが、薬を塗らないといけないからな」
何を言われたのか理解できないうちに、優生の背を抱く手がすべり下りて、上着の裾を引き上げる。
「薬……?」
疑問形で呟いたつもりだったが、淳史は答えてくれそうもなく、あっという間に優生の下半身からスウェットも下着も抜いてしまった。
「うつ伏せの方がいいか」
独り言のような淳史の言葉に抗ってみても、その強い腕だけで、苦もなく優生の上体をソファに倒してしまう。淳史の膝に腰を残したまま、後ろから脚が開かれてゆく。
意識すれば相当に恥ずかしい格好だと、淳史は思いやってくれそうになく、まだ熱く充血している場所に視線を感じて、優生は為す術もなく顔を伏せた。
紙の擦れるような微かな音が、部屋が静か過ぎるせいで耳につく。腿に触れる手に、体中が震えた。
「いや……入れないで」
腫れぼったい入り口を指先で撫でられるだけで緊張が走り、とてもではないが中を触れられることには耐えられそうになかった。
「あっ……」
強い手が、閉ざそうとする体を開かせる。
「薬を塗るだけだから少し我慢しろ」
「いや、何……の?」
「炎症を抑える薬を出してもらったんだ。往診してもらうのは嫌なんだろう?」
ということは、義貴に知られたということだろうか。あの見透かしたような眼差しを思い出しただけで熱が上がってきそうになる。きっと、また優生のことを淫乱だと思ったに違いない。それが事実だったからこそ、余計に恥ずかしくなった。
「や、いや」
いくら薬で滑りやすくなっていても、淳史の指を挿れられるのは辛く、我慢できずに腰を引いた。
「自分で塗るか? おまえの指の方が細いからな」
淳史の口調が些かも色気を含んでいないことに気付き、漸く、処置をするだけなのだと理解した。
指先に薬を落とされて、いざ自分で触れようとしたとき、不意に黒田にされたことが甦った。
淳史にそんな下心はないとわかっていても、灼け付くような羞恥に指を進めることが出来なくなる。優生の指ごと中をかき回していたのが淳史だったらと、想像しただけでぞくりと甘い痺れが背を走った。
「優生?」
震える指先を熱い襞の中へ埋めてゆく。思っていた以上に腫れているのは、昼間いやというほど淳史を受け入れたからで、思い出すとまた体中の熱が一ヶ所に集まってくるようだった。痛みと不安に緊張していた粘膜が、何かを待つように緩んでくる。
「いや……淳史さん、手伝って……?」
「大丈夫か?」
心配げな声は、優生が痛みに耐えられなくなったと思っているのだろう。耐えられないのは痛みではなく、甘い疼きだった。
「お願い、淳史さんの指も入れて」
優生の指に添うように中を探ってくる確かな質量感に、体は次第に甘く蕩けてくる。すぐに痛みを忘れて、また乱されたくなってしまう。
「ん……ぁん」
薬を塗布するために中で回される指を追うように腰を揺らして、更に奥へと誘った。自分の指を抜いて、淳史の指に擦りつけるようにしているうちに、どうしようもなく体は昂ぶってゆく。
「優生……?」
訝しげな声に、被せるように囁く。
「……指で、して」
ゆっくりと沈んでくる指が優しく撫ぜるのがもどかしく、感じる所へ当たるように腰を動かす。
「あぁっ……ん」
それに合わせて強く擦られると、痺れるような快感が体中に広がってゆく。背を仰け反らせて喘ぐ優生を、一気に追い上げようとするように指の動きが早まり、前を握る手に激しく扱かれる。もう、出すものはないと思っていたのに、銜え込んだ指を、襞が痙攣するように締め付けた。
「ん……あ、ぁんっ……」
張り詰めた糸がふっと途切れ、急速に波が引くように高揚感が治まってゆく。
淳史の腕に抱き起こされるまま、その胸先へぐったりと凭れかかった。
「……やっぱり、サイズの問題か」
「え……?」
聞き漏らしてしまいそうに小さく呟かれた言葉の意味を問い返す。
「俺が抱くと傷付けるだけのようだからな・・・指でこれだけ感じるんなら、その方がいいのかもしれないな」
「そんな……指も、気持ちいいけど……ちゃんと抱いて……?」
優生が淫乱なのだと、淳史のせいではないと言いたかったのだったが、随分驚かせてしまったようだった。
「治ってからな?」
困ったように笑われて、今すぐして欲しいと言ったように受け取られたことを知る。余裕の顔を向けられると、淳史の状態が知りたくて、そっと指を伸ばした。
「……驚かすなよ」
「だって……ごめんなさい、俺ばっか」
苦笑する淳史の、思ったほど余裕はなさそうな固く張り詰め始めたものを思い切って引き出す。
「優生」
咎めるような声を無視して頭を屈める。離れようとする淳史の腿へと手を置いて、唇を近付ける。
「そんなことはしなくていい」
寧ろ迷惑そうに見えたが、ただ、優生がそうしたかった。他の男のものの感触を消せるくらい、全て淳史の記憶に塗り変えたかったのかもしれない。
止められるのにも構わず、指で包んだ淳史のものへと口付けた。舌先を伸ばすと、淳史に触れた悦びで止まらなくなった衝動に任せて唇を被せる。舌で刺激しながら手を使い、高めることに夢中になった。なるべく深く迎え入れたり浅く出したりしながら舌を動かす。
声も洩らさない淳史の反応が不安で、上目遣いに表情を窺う。すぐには感情が読み取れず、ついじっと見つめてしまった。
「……優生、それは反則だ」
囁くような言葉と同時に口の中で一気に体積を増してゆくものへ、必死に舌を絡める。唇と舌で扱きながら、時折強めに吸う。喉の奥まで迎え入れようと思うが、全部を収めることは出来なかった。
「もう、いいから離せ」
優生の髪へ埋められた指が、膨らみきった欲望から唇を外させようとする。小さく首を振って、添えた手の動きを早めながら舌で擦る。
低く呻いた淳史が動きを止めると、熱いものが優生の口の中へ迸った。懸命に喉を上下させて、後から湧いてくるものを零さないように飲み下す。
受け止めきれたことにホッとして肩で息をついた。きっと、これから思い出すのは淳史の記憶に変えられる。
大きな掌に頬を撫でられて、両脇の下へと回された腕に淳史の胸元へと引き上げられる。優生の後頭部を抱き寄せた手が、あやすように髪を梳く。押し付けた頬へ伝わる少し早い鼓動と、微かに感じる機嫌の悪さに、淳史の気に入るようには出来なかったのかもしれないとわかった。
淳史が胸に留めていたものは、優生の思いもよらないものだったらしい。
「……ずいぶん慣れてるんだな」
低められた声は聞き洩らしてしまいそうに小さいのに、はっきりと優生の耳に届いてしまった。
聞こえなかったような顔をしていればいいと思うのに、嘘のつけない体質は聞き流すことも出来ない。首の後ろに回された淳史の腕に力が籠められるのを感じながら、雄弁に語る空気と裏腹に押し黙った。






「なんていうか……もったいない感じ」
肩を越えるほど長く伸びていた髪を、首筋が露になるほど短く切ってしまった優生に、里桜は掛ける言葉に迷ってしまったようだ。
あまり短くすると似合わないとわかっていても、女っぽく見せてしまう髪を何とかしたくて、つい切り過ぎてしまったかもしれない。
「すぐ伸びるし」
尤も、髪を切ったからといって、すぐに切り換えられるわけではないことは優生が一番わかっているつもりだったが。
まるで、痛々しいと言いたげな里桜の視線を振り切るように先を行く。淳史が帰るまでにはまだ時間はあるが、無駄に外出していたとは思われたくなかった。いつ、どこで誰の目に触れないとも限らず、いつまでも外にいるのは怖かった。
「ゆいさん、すぐに帰るの?」
「ごめん、つまらないことにつき合わせて……でも、早く帰っておきたいから」
髪を切るためだけに里桜を呼び出したことは悪いと思っている。それでも、一人で出掛けることを自粛している優生が、今頼れる相手は里桜しかいないのだった。
「そんなのは構わないよ、でも、ゆいさんも少しは息抜きした方がいいよ?」
「……もしかして、俺、切羽詰ってるみたいに見える?」
「ていうか、なんか、見てて辛い感じがして……ゆいさん、俺じゃ役者不足だろうけど、愚痴でも何でも言って?」
里桜にまで心配されてしまうほど、優生は脆くなってしまったのかもしれない。けれども、その申し出は今の優生にはかなり有難いものだった。
「じゃ、帰ったら聞いて欲しいことあるんだけど、いい?」
「うん。俺でよかったら何でも話して?」
気負うように力強く頷く里桜に、優生は迷っていたことを話してみる気になった。


ほんの1時間ほど出掛けていただけで、優生はひどく消耗してしまっていた。
黒田の所にいる時にはそうでもなかったのに、淳史の許に戻った途端にダウンしてしまうというのは皮肉だと思う。
「ゆいさん、大丈夫? 俺のことは気にしないで休んでて?」
寝室へ行くように勧める里桜の、腕を引っ張って、ソファに座るように促す。
「ごめん……大丈夫だから、ちょっと肩貸して?」
返事を待たずに、里桜の肩口へ頭を乗せるようにして凭れかかった。里桜が困ったような顔をするのは、優生に触らないよう、淳史にきつく言われているからなのだろう。
「……ゆいさん、どうかしたの?」
一度は話すと決めたものの、いざとなると言っていいものかどうか迷ってしまう。里桜の肩に顔を伏せたまま、優生は小さな声で尋ねた。
「……里桜は……緒方さんの、したことある?」
「え? 何? どういうこと?」
「だから……里桜は緒方さんの、口でしたことある?」
「口でって……エッチの話? やだ、ゆいさんてば、どうしちゃったの?」
みるみるうちに顔を赤くする里桜に、優生は尋ねてはいけないことを聞いてしまったような気にさせられる。見た目ほど純情ではないと思っていたのに。
「……里桜だって、そういう話、俺に振るだろ」
自分でも逆ギレだとわかっているのに、つい強気な態度を取ってしまう。勢いでもつけなければ、とても話を進められそうになかった。
「だって、ゆいさんは、そういう話は嫌いなんじゃなかったの?」
「それは、里桜が淳史さんや緒方さんの前で話すから……里桜だって、他に話せる人がいないって言ってただろ?」
「でも、俺、ゆいさんが嫌がるような話は禁止って言われてるんだけど……」
「こっちから振ってるのに、嫌なわけないだろ」
今は優生の方が話したい気分なのだとわかってもらいたくて、知らずに口調がきつくなる。


「それならいいのかな……えっと、ないってこともないっていうか」
煮え切らない返事を、“ある”と受け取って、その先を尋ねる。
「それって、里桜からするの? 緒方さんがして欲しいからなの?」
朱に染まった頬を両手で覆って、里桜が俯く。なまじ恥らうから、いやらしさが増してしまうのだとは気が付かないようだ。
「……なんか、セクハラされてるみたいな気分になっちゃうんだけど……?」
「ひどいな、俺、本気で悩んでるから聞いてるのに」
「え、悩んでって……ゆいさん、何でか聞いていい?」
途端に、里桜の表情が心配げに変わる。優生にとっては、真剣に話す方がよっぽど恥ずかしいというのに。
「俺、淳史さんには口でしたことなくて……この間、初めてしたんだけど、何か機嫌を損ねたみたいだったから……ヘタだったのかと思って」
「……ヘタかどうかはわからないけど……でも、あっくんがそんなことで機嫌を悪くするとは思えないよ?」
「やっぱ、そうかな……」
優生も、漠然とそういう風に思っていた。けれども、淳史の不機嫌さに何某かの理由が欲しくて、尋ねてみたくなったのだった。
「それより、ゆいさん、したことなかったって、つき合ってからずっと? 1年近く?」
「うん。でも、間が2ヶ月近く抜けてるから正味8ヶ月くらいかな?」
黒田の所にいた期間を含んでも、つき合い始めて10ヶ月に満たないくらいだ。
「えっと……したことなかったっていうのは、ゆいさんがしたくなかったからなの?」
「俺がしたくなかったわけじゃなくて……そういう感じにならなかったんだ」
「うーん……フェラが嫌いな男はいないって聞いたことあるんだけど、あっくんは違うのかなあ?」
いつの間にやら気恥ずかしさは忘れたらしく、普段の里桜に戻ったようでホッとする。やはり、こんな話は気負わずサラッと進めたかった。

「……で、里桜のとこはどうなの?」
「え、と……どっちかっていうと、俺からっていうか……義くんは気にしなくていいよって言ってくれるんだけど、俺が入れられるの困る時は、口で我慢してってお願いしてる感じかなあ」
また頬を赤く染めながらも懸命に話す里桜に、悪いと思いつつ、更に突っ込んだ問いをしてしまう。
「緒方さんは満足してると思う?」
「うん。最初の時は、俺がムリしてるんじゃないかって心配してくれてたみたいだったけど、一生懸命頑張ったら、すごい感動してくれて……ヘタとか、関係ないと思うけど」
おそらく里桜の言う通り、義之は幼げな恋人の精一杯に充分満足しているのだろう。
「そういえば、前の人がそうだったかも……褒め上手っていうのかな。料理とかもその人が教えてくれたんだけど、何でも上手いって言って褒めてくれるから、出来てるんだって思い込んでて……」
「義くんもそういう感じかなあ。でも、嘘吐いてるわけじゃなくて、本当にそう思ってくれてて、少し大げさ目に褒めてくれてるんだと思うけど」
「……里桜って、ちゃんとわかってるんだ」
自分より相当に幼いと思っていた里桜の方が、よほど確り把握できていることに少しショックを受けた。きちんと恋愛をしてこなかった優生と違って、いろいろなことにまともに向き合ってきたのだろう。
里桜の肩に凭れかけさせていた体をずらして、前から抱きつくような体勢に変える。抗うような素振りを見せた里桜を刺激しないよう、身を預けるだけに留めた。
「……里桜?」
「うん?」
「俺がヘタなのかどうか判断してくれないかな?」
「そんなこと言われても……見たこともされたこともないのに、わかんないよ」
「だから、試さして?」
優生の意図がわからないのか、里桜はきょとんとした表情で首を傾げた。

「え……っ」
里桜のデニムの前へと触れると、この期に及んで、まさかというような顔で優生を見る。
「だめ……ゆいさん、そういうの、叱られるよ?」
「叱られなかったら、いい?」
「そうじゃなくて……あっ、ん」
本気で抵抗するのは悪いとでも思っているのか、里桜を押し倒すのも、脱がせるのも、あっけないほど簡単だった。
「もう……ゆいさん、どうしちゃったの……?」
外見と同じく未成熟な、肌の色とほぼ同じ可愛らしいものは、優生が触れるとぴくんと反応を返した。人に言えた義理ではないが、これなら苦もなく全て含んでしまえそうだ。
「やだ、ふざけるのはやめて」
何とか隠そうと体を折る里桜はひどく扇情的で、当初の目的とは別の好奇心を誘う。
「俺、真面目にお願いしてるんだけど?」
少し強引に膝を割って、まだ何の反応も見せてはいないものの下の膨らみへと指を伸ばす。軽く撫で上げただけで里桜の体が跳ねた。
「や」
いやいやをするように頭を振る里桜の、こめかみの辺りへキスをする。泣き出しそうに優生を見る里桜に、もう一度“お願い”した。
「暴れないで? 俺の“感想”、後で聞かして?」
困り果てた表情をしながらも、否と言い切れない里桜の躊躇いにつけ込んで、体を開かせる。
立ち上がりかけた根元から掌で優しく包んで上下させると、里桜の体から力が抜けてゆく。乱れてゆく吐息がひどく甘くて、優生をおかしな気分にさせる。
「やっぱ、だめ……っ」
優生の手を止めようと伸ばされる手が届く前に、身を屈めて、里桜のものに唇を近付けた。

「いや」
優生の髪に絡んだ里桜の指が、何とか離させようと力を籠める。優生が思うより、里桜は頑固らしかった。
「里桜……」
「義くん以外の人はヤだ」
半泣きになりながらも、優生を睨む瞳の強さと声の頑なさに驚く。優生には稀薄な、意思の固さが羨ましい。
「何で、そんなに嫌なの?」
「何でって……何で? 好きな人にしか触られたくないでしょ? ゆいさんは違うの?」
優生の問いの方が不思議だと、素直に思える里桜は純粋で、それこそが優生に足りないものなのだろう。そうとわかっているからこそ、少し意地悪く尋ねた。
「だって、好きな相手じゃなくても感じるだろ?」
「敏感なトコだもん、誰が触ったって感じるのは当たりまえでしょ。でも、俺は義くんが一番気持ちいいの」
割り切っているかのような言葉が里桜から出て来るのが意外だった。もしかしたら、優生の方がよっぽど子供じみているのだろうか。
「それって、緒方さんが上手だからだろ?」
「そういうんじゃなくて……義くんだって、意地悪なときも、強引なときもあるし。でも、やっぱ好きだから流されちゃう。キスするのも抱き合うのも、一緒にいるだけでも、義くんだから気持ちいいんだよ? ゆいさんはそうじゃないの?」
里桜の言葉に目が覚めた気がした。淳史の家に連れ帰られて、互いの体の境界もわからなくなるほど深く繋がり合って、満たされる理由を実感したのに。愛おしげにくり返されるキスや腕枕がくれる充足感の中で幸せな眠りに落ちていったのに。

もう一度、里桜の肩に抱きつくように顔を伏せる。
里桜の鼓動は音が聞こえてきそうなほど荒れているのに、やはり優生を突き飛ばすようなことはしなかった。
「……俺だって淳史さんがいいけど……でも、淳史さんは俺じゃ満足してないみたいだから」
「そんなわけないでしょ? ゆいさんは、あっくんにどれだけ愛されてるのか知らないの?」
「そういうわけでもないんだけど……」
疑ってばかりいた頃と違って、今は愛されていると思うことができる。けれども、愛されているのと許されているのとは別物だということがわかってしまった。
「本当は、淳史さんが機嫌悪いのは、俺が慣れてたからだと思う」
「えっ……」
「そもそも、他の男の所に行ってた俺を許せないのは当然だし」
ずっとポジティブな答えをくれていた里桜も、さすがにすぐには庇う言葉が出て来ないようだ。
躊躇いがちに優生の髪に触れた指が、そっと頭を撫でた。優しい指に、その胸元へと抱きよせられる。
「……ゆいさん、もう少し待ってあげたら? あっくん、頭ではわかってても、気持ちがついてきてないのかもしれないし……」
「うん。なるべく逆撫でしないように、おとなしくしておこうと思ってる」
「……ところで、ゆいさん? 俺、そろそろ服着てもいいかな?」
まだ里桜の下半身が剥き出しになっていたことに、言われるまで気付きもしなかった。
「ごめん、早く着て? 風邪ひかせちゃったら大変だし」
「うん。もし義くんが来たら、ゆいさんも俺も大変なことになっちゃうよ」
その可能性を今まで考慮しなかったことも冷や汗ものだった。もし義之が突然訪れたら、どんな仕返しをされるかわかったものではない。以前にも、里桜に手を出したら何をするかわからないと釘を刺されていたというのに。


「里桜も晩ご飯食べてってもらって大丈夫なんだよな?」
「いいの?」
「うん。たいしたものは出来ないけど」
優生の都合に合わせて、学校帰りにそのまま来てもらった里桜に、これ以上負担をかけたくなかった。
「俺も手伝うね。何作るの?」
「まだ決めてないんだけど、何か食べたいものある? ……って言っても、冷蔵庫にあるもので考えてもらいたいんだけど」
「グラタンとかは? 具は何でもいいし、いつ帰ってきても焼くだけでいいし。あっくんがご飯の方がいいんならドリアにしてもいいし」
「じゃ、そうしよう。里桜は好き嫌いはないんだっけ?」
「うん。でも、いっぱい食べるから、たくさん作ろうね?」
「そういえば、緒方さんは食事どうするの?」
「なるべく早く帰るって言ってたから要るのかな……この頃いつも遅くて食べて帰るから、聞くの忘れてた」
「とりあえず用意だけしとこうか? 別に残ってもいいし」
「ありがと。じゃ、めっちゃいっぱい作らないといけないね」
並んでキッチンに立ってほどなく、里桜の携帯電話が鳴った。パタパタと走ってゆく後姿が心なしか嬉しそうで、見ているだけで微笑ましくなる。
けれども、通話を終えた里桜は複雑な表情で戻ってきた。
「義くん、もうすぐ来るって」
「どうかした?」
「……義くん、ずっと遅かったのに、あっくんとかゆいさんのことになったら早く帰れるんだなって思ったらちょっと」
「ごめん、また時間もらってしまって」
「ううん。ゆいさんの所に来るんじゃなかったら、どうせ今日も遅く帰るつもりだったんだよ。12月は特に忙しいらしいから」
どうやら、里桜も少し不安定になっているらしい。この間、赤ちゃんの話になった時にも浮かない顔をしていた。傍から見ていれば平和そうに見えても、当人たちにはいろいろあるのかもしれない。






「ずいぶん思い切ったね」
優生に目を止めた義之の感想も、あまり芳しいものではなさそうだった。やはり、優生には短髪は似合わないということらしい。
「前のは気に入ってなかったので……」
言い訳を探す優生に向ける、義之の視線が同情的な気がするのは、被害妄想ではないと思う。
「……痛々しいな」
やや抑えた声は、責めるような響きを伴っているように聞こえる。
「短めにしたかったんですけど、ちょっと切り過ぎたみたいで」
「淳史の機嫌を損ねるだろうから、今のうちに対策を考えておいた方がいいよ?」
「やっぱり、そうかな……」
前に髪を短く切った時に、長い方がいいと言われたことがあった。その時以上に短くしてしまった優生は、また淳史の言いつけを破ったことになるのだろうか。
結局、どうやっても淳史の気を悪くさせてしまうだけなのかもしれない。優生が気を回すほど、事態は悪化の一途を辿ってしまうようだった。
「義くん、そんなに脅かさないで。ゆいさんには、ゆいさんの考えがあるんだから。それより、ご飯は? 義くんの分も用意してくれてるけど?」
「ご馳走になって構わないのかな?」
迷うような顔をする理由がわからず、里桜の言葉を後押しする。
「よかったら食べていってください。里桜と一緒に作ったので」
「ありがとう。それなら大丈夫かな……。とりあえず淳史が戻るのを待ってからだね」
里桜が来ることは事前に淳史に伝えてあり、義之が迎えに来ることは必然だった。その流れで食事を一緒することも、ごく自然なことに思える。義之がそれほど気を遣う理由が、優生にはまだわからなかった。

「でも、淳史さんは9時回ると思うから……緒方さんと里桜は明日に差し支えるといけないし、先に用意しましょうか?」
里桜が夜弱いことや、いつもは帰りが遅いという義之が仕事を持ち帰っているかもしれないことを思うと、あまり先延ばしにするのは気が引ける。
「あっくんと一緒でいいよね? 義くん」
「僕は急がないよ、里桜が大丈夫なら」
ソファに並んで腰掛ける仲睦まじい二人を見ていると、そもそも夕飯に誘わなかった方が良かったかもしれないことに気が付いた。この頃ずっと帰りが遅いという義之と二人になれる時間は貴重なはずで、引き止めずにいた方が里桜のためだったかもしれない。
「義くん、今日は鮭とほうれん草のグラタンにオニオンスープだよ。晩ご飯食べずに帰ってきて良かったねー」
「ほんと、早く帰って来られて良かったよ。里桜にも淋しい思いをさせてるけど、仕事納めまでもう少し我慢して?」
そんな会話を聞いてしまうと、優生のことは気にせず帰るようにと言うわけにもいかなくなってしまった。せめて、淳史が少しでも早く帰るよう祈るしかなさそうだ。
「緒方さん、コーヒーでも淹れましょうか?」
「そうしてもらおうかな」
「あ、俺が用意してくるね」
言葉と同時に立ち上がる里桜に任せて、優生は少し離れたダイニングチェアーに座った。自然と、義之の視線が優生の方へと移る。
「引越しの準備は進んでる?」
「はい、日曜のうちに何とか。淳史さん、どうしても年内に引越しを終わらせたいみたいで、何もかも強引に決めてしまいました」
カーテンの仕上がりに合わせて引っ越す日も決めてしまった淳史は、以前の独裁者に戻ったかのようでいて、行動の端々に余裕のなさを覗かせていた。それが、余計に優生を不安にさせている。
「ほんと、早く越しておいで。そうしたら僕も少し気が楽になるしね」
「すみません、迷惑かけてばっかりで……緒方さんにも里桜にも」
淳史の元に戻ると決めた以上、この二人とつき合うのは必須で、もう子供じみた我儘を言うつもりはなかった。それどころか、勝手に出て行っていた優生を責めることもなく親身になって心配してくれている二人と親しくなることが、淳史との関係を良好にする一番の近道なのかもしれない。

「ゆいはいつまで経っても他人行儀だね」
「え……と?」
「もし僕が里桜の家へ養子に行ったら、“鈴木さん”とでも呼ぶつもりなのかな?」
回りくどい表現ながら、名前で呼ぶように催促されているらしいことがわかった。どうも、優生の周りの大人の男たちは皆、揃いも揃って名前で呼ばれたがる奴ばかりのような気がする。
「……義之さん、と呼んだらいいですか?」
「少し硬いような気もするけど、現状よりはいいかな」
「ゆいさんも、義くんとか、よっくんとか呼べばいいのにー」
カウンターから顔を覗かせる里桜は単純で明快だ。
だからといって、優生が“義くん”と呼ぶわけにはいかなかった。いくら気にしなさそうに見えていても、それは里桜だけの特別な呼び方なのだと思う。
それに、最初に呼び捨てでいいと言われている淳史のことさえ、いまだに“さん”付けだというのに、他所の“ご主人”を親しげに呼べるはずがなかった。
「年上の人をそういう風に呼ぶのは苦手だから……」
「でも、もう少し打ち解けてくれてもいいんじゃないかな? 君の手に余ることがあるなら、話してくれれば力になれると思うよ?」
「そうそう。ゆいさんは遠慮しないで、俺や義くんに、あっくんの悪口でも何でも言っちゃえばいいんだよー」
冗談めかした里桜の口調に、気負う思いが和らぐ。
今まで、義之に相談してみることなど考えもしなかったが、言われてみれば確かに、淳史のことなら義之に頼るのが一番なのかもしれない。淳史が不機嫌な理由も、優生がどうするべきなのかも、義之なら答えを持っているような気がする。
けれども、優生が何と言って切り出そうかと迷っているうちに、一触即発状態の主はもう戻ってきたらしかった。


「何だ、その頭は」
優生を見た瞬間、淳史は眉を顰めて忌々しげに声を低めた。義之の想像通り、相当に機嫌を損ねたようだ。
「ごめんなさい、長過ぎると思って……」
出迎えた玄関で淳史に見据えられると、優生は顔を上げられなくなってしまった。“ただいま”の一言もなければハグもなく、客人が来ていることを知っているはずなのに、それを気にする風もない。
「俺が長い方がいいとわかっていて切ったのか?」
詰問口調に、用意しておいたはずの言い訳が飛んでしまった。唯一長い、目を覆うほどに残した前髪を、かき上げるようにして瞳を覗き込まれると、見つめ返すことが出来ずに視線を落とす。
他の男の所で過ごした時間や印象を戻したいと思ったことが、そんなにも淳史を怒らせることになるとは想像もしなかった。
「優生」
淳史が不満げなのは、今の優生の容姿が淳史の好みに合わないということなのだろう。淳史の母親に初めて会った日に、“いかにも男を襲っているみたいだ”と言われたことを思い出す。また、同じような気分にさせてしまっているのだろうか。
「……ごめんなさい、その話は後にしてもらっていい? 二人とも、ご飯食べないで待ってくれて……っ」
優生が問いに答えられないことも気に入らなかったのか、言いかけた言葉は途中で遮られた。頭の後ろから引き寄せられて塞がれた唇を、拒むことは許されそうにない。
せめて、逆らうつもりはないと伝えるために、背伸びをして淳史の首へと腕を回す。せいいっぱい反らした優生の腰が痛いほどに抱かれて、キスは深まるばかりだった。
後で、と言いたいのに言葉にならない。リビングで待たせている二人のことを思うと、ゆっくり再会に浸っている場合ではなかったが、淳史は気にも留めていないらしかった。

「や」
カットソーをたくし上げるようにして入ってきた掌が、肌を這い上がる。
まさか、来客中に、しかも玄関でこれ以上の事態になるとは思わなかったが、今の淳史は予想外のことをしそうで怖い。
「あ、ん……」
淳史の許へ戻ってからというもの、すっかり過敏になってしまった胸の尖りは撫でられただけでも体中が痺れそうになる。
崩れるように、淳史の腕へと身を預けると、きつく抱きしめられた。
「……ジャマ者はさっさと帰すとするか」
辛抱が足りないのはどちらなのか定かではなかったが、扉を一枚隔てただけの行為は一先中断することにしたようだ。
淳史は優生の肩を抱いてリビングに移ると、ソファで待つ二人に、にべもなく言い放った。
「世話になったな。悪いが奥に行くから飯を食うなり帰るなり好きにしてくれ」
「つくづく自分勝手な男だね。好きにしろというなら、寝室の見学にでも行こうかな?」
さすがの義之も、淳史のあまりの失礼さに腹を立てたらしかった。にもかかわらず、勝手にしろ、と言わんばかりの淳史の態度には優生の方がハラハラしてしまう。
「ねえ、義くん? 俺も一緒に行っていいんだよね?」
ただ一人緊張感のない里桜が、不謹慎なくらいに期待に満ちた瞳を義之に向ける。
「里桜はダメだよ。大体、本当に見に行くわけがないだろう? ただの嫌味だよ?」
「えー」
不満げな声を上げる里桜に、義之が脅かすような顔を作る。
「明日、学校に行けないような事態になっても知らないよ?」
「どうして? あ、見てたら、したくなっちゃうってこと?」
「そういうことだよ。この頃ちっとも里桜と時間が合わないからね、触発されて自制が効かなくなってもいいの?」
「義くん、ズルイ。平日は一回だけって約束でしょ? 日付けが変わるような時間になるのもダメだからね?」
どうやら、緒方家ではそういった細かな取り決めがなされているらしい。義之は僅かに眉を潜めたが、里桜は自分がとんでもないことを暴露してしまったとは気が付いていないようだった。
「じゃ、変な気を起こさないうちに引き上げるとしようか?」
「うん」
帰ることが決まるや否や席を立つ二人に、慌てて頭を下げる。
「勝手ばかり言ってごめんなさい。よかったら、グラタン持って帰って? 里桜も何回も用意するの大変だろうし、時間も勿体無いし」
「ありがとう。じゃ、遠慮なくお皿ごと貰って帰るね。ゆいさん、またいつでも呼んで?」
優生が思うほど気にした風もなく、二人は手を繋いで帰っていった。




淳史の言うところの“ジャマ者”がいなくなると、すぐにその胸元へと抱きよせられた。
何かを堪えるように、短くなった優生の髪の中へと鼻先を埋めて、抱きしめる腕に力を籠める。何がそれほどに淳史の気を逸らせるのか、優生は腕の中に閉じ込められているのに、なおも捕らえようとするかのように力は増すばかりだった。
「優生」
焦れたような声とほぼ同時に、抱きしめられた体がふっと浮くような感覚を覚える。
「あ」
ソファへと倒された優生にかかる、淳史の重さに身が竦む。切迫したような雰囲気が怖くて、目を閉じた。
顎を掴むように指をかけられて、噛みつかれそうに始まったキスはすぐに深まり、優生の吐息まで貪るように執拗に舌を追う。気を取られているうちに、乱れたカットソーの裾から肌を辿る掌が胸元まで露にさせた。
「……っん、う……」
息苦しさに、小さく首を振って息を継いだ。衿を抜くために一旦離れた唇は首筋を這い、あからさまな跡を残しながら胸元に移ってゆく。どこもかしこも、全てが淳史のものだと強調するかのような、ともすれば子供じみた行為も、所有を主張されているようで、嬉しいと思わずにはいられなかった。
「……っは……ん……ぁん」
赤く熟れた胸の先を吸われて、背が撓った。舐められて転がされるうちに、体の奥がどうしようもなく疼き出す。連日抱かれ続けている体はだるく、回復する間もないのに、淳史に触れられるとまた欲しくなってしまう。
デニムのボタンが外されて、下着をずらすように差し入れられた手が、すっかり上向いた優生のものを握る。先端を露出させた指先になぞられて、昂ぶる体は熱く、溶けてしまいそうだった。
「あっ、あ、あっ……んっ……」
淳史の状態を確かめて、すぐにも同じ所まで高めてしまいたい衝動に懸命に逆らう。触れたがっていると知れると嫌われそうで、淳史が我慢できなくなるのをただ待ちわびた。


「は……ん、ん……」
あてがわれた硬い切っ先を受け入れようと吐く息が、期待に震えて甘く掠れた。
中を満たしてゆくものが滾るように熱いのは、淳史がまだ優生に欲情している証だと思うとホッとする。
浅く出入りをくり返しながら馴染ませられてゆくのに焦れて、もっと奥まで銜え込もうと動きを追った。慎ましくしていようとしていたはずなのに、せっつく体が止められない。
「っあ、んっ……ああ……っ」
蕩けるような快楽に溺れそうな優生には、淳史が苦しげに眉を顰めたままだったことに気付くことが出来なかった。
「……ぁんっ」
少しでも深く淳史を感じていたいと絡み付く優生の体が、不意にソファへと押し付けられる。腰が浮くほど強く膝を押し上げられて、激しく奥を突かれると、淳史が言葉にしない苛立ちや、独占欲のようなものが伝わってくるようだった。
「は、あっ……あっ、ああ」
閉じた瞼の端へ溜まる涙が、揺さぶられて流れ落ちる。体の中から湧き出す情欲に連動しているかのように後から後から零れて止まらない。
「……も……いって、も、いい……?」
解放を請う優生の喉元を、大きな掌が覆う。圧迫するように力を籠められて、息苦しさと同時に突き抜けるような感覚に襲われた。
「あ……っん」
堰を切って溢れ出すものを受け止めようと伸ばした手は間に合わず、淳史の腹を汚した。少し遅れて、優生の中でも、熱いものが迸る。
この頃の淳史は、外で出すとかゴムを使うとかいう気は毛頭ないらしく、いつも優生の中を濡らした。それが必ずしも愛情ゆえではなさそうだということは、何となくわかっていた。


優生に覆い被さったまま、何も言わない淳史の機嫌はまだ直っていないようだった。そうとわかっていても、掛ける言葉が見つけられずに唇を噛む。
おそらく、理由は優生の危惧していた通りなのだろう。いくら淳史が何度も優生の不義に目をつぶってきたといっても、これまでとは訳が違っていた。同じ相手と回数を重ねて淫らさを増した優生を許せないのは当然のことで、どんな結論を突き付けられることになっても、甘んじて受け入れなければならないのだと思う。
優生の耳の後ろへと伸ばされた指先が、髪の中へと埋められる。絡めるように動く指に、短い髪はかからず滑り落ちてゆく。
「……大分かかりそうだな」
それが髪が伸びるまでのことだと咄嗟にはわからず、答えることは出来なかった。
それでも、髪を梳く指は優しくて、気持ち良さに瞼が閉じたがる。疲労が溜まってゆくばかりの体は、睡眠を要求しているようだった。
「優生?」
「……うん」
眠らせてやると言った淳史の言葉は真実で、確かにその腕は睡眠導入剤で安定剤だった。
「おまえも飯食ってないんじゃないのか?」
曖昧に首を振りながら、起きて食事の用意をしなくてはいけないと思うのに、なぜか体はいうことをきかなかった。
「あ……ん……」
さっきまで淳史に穿たれていた場所はまだ熱く息づいていて、不意に探ってくる指を締め付ける。そのまま眠ってしまうと、淳史の手を煩わせるとわかっているのに、どうしても睡魔に勝てそうになかった。






「ゆいさん、大丈夫なの?」
沈み込むようにソファに座り込んだ優生の、隣へと腰掛けた里桜が、気遣わしげに声をかけてくる。
里桜が今日も学校帰りに直行してきているのは、淳史の不興を買いつつも、お目付け役に任命されたからだった。優生の買い物に付き添ったり、家に籠もっている時の退屈しのぎになれば、ということらしい。
「……見ての通りだよ」
「なんか、日増しにやつれてくみたいな気がするんだけど」
自分でもそう思うと言うわけにもいかず、曖昧に笑う。とはいえ、優生の身に起きていることが淳史の許へ戻った代償だとしたら、喜んで受け入れたいと思っていた。
「だらけてばっかりでごめん」
「ううん。疲れてるんでしょ? しょうがないよ」
「疲れてるっていうか、だるくて」
その理由も知られているのだと思うと、少し恥ずかしい。
「でも、どっちかっていうと、あっくんの方が傍にいるだけで満足してるみたいな感じがしてたんだけどなあ」
おそらく里桜の推察通りで、今の淳史はまるで強迫観念に駆られているかのように、優生の体に執着するようになっている。以前、傍にいるだけでは満足できないと、頻繁に抱かれていたいと言ったのは優生の方だった。そう欲求の強くなかったらしい淳史に、もっと求められたいとごねて無理をさせておいて、今更メンタリティの方が重要かもしれないなんて言えるはずがない。
「淳史さんはそうだったみたいなんだけど、俺の方が我慢できなくて……欲しがられたかったっていうか」
「そうしたら愛されてるって思えるの?」
「うん……淳史さんはずっと男はダメって言ってたから、俺に感じてるってわかるとホッとして……でも、次の日にはまた不安になって、何度でもして欲しくなってしまって……」
安心したままでいることは出来なくて、何度でも証を欲しがっていたのだと思う。
里桜が、優生の頭をそっと撫でる。本当に未熟で子供なのは、優生の方だったのかもしれない。

「それって、あっくんも愛されてるってことだよね?」
「うん……? そう思ってるんだけど」
「よかった。俺はねえ、長いこと、好きなのは俺ばっかりって思ってたから……本当言うと、今もちょっと思ってるんだけど……だから、どっちか片方ばっかりが思ってるっていうのはイヤなんだ」
「うん……俺も、ちゃんと好きだから」
思えば、好きなのも不安になるのも自分だけのような錯覚を起こしてしまっていて、淳史もそうかもしれないとは考えたこともなかったような気がする。
「ゆいさん? 眠るんならベッドの方がいいんじゃない?」
知らぬ間に目を閉じていた優生に、里桜の声はひどく心地良く響いた。
「ううん。寝入っちゃって淳史さんが帰っても気が付かないと困るし……里桜、肩貸してもらっていい?」
「いいよー」
少し頼りない里桜の肩へと寄りかかる。その華奢な肩は、思いがけず安眠できそうだった。
「……あっくんも、もう少しゆいさんの体のこと考えてくれたらいいのにねえ」
「ううん……俺、気持ち良すぎて蕩けちゃうから……俺が煽ってるのかも」
「……ねえ、ゆいさん? 首のトコ、指の跡みたいに見えるんだけど……?」
タートルネックのシャツを着ていても、ゆったりとした衿の隙間から跡が覗いてしまったらしい。問いに答えるのは面倒過ぎて、口元だけで笑みを返した。
「ゆいさん?」
「……記憶が曖昧っていうか……覚えてないんだ。ごめん、そろそろ寝さして?」
里桜の疑問は、優生が考えないようにしていたことだった。首を絞められて落ちかけたように感じたのは、気のせいだと思おうとしていたのに。






突然、痛みを伴うほどの力強さで腕を引かれて、穏やかな眠りが妨げられた。
心地良い場所から離させるその手の強引さは身に覚えがあり過ぎて、急速に覚醒してゆく。
「や……ん」
緊迫した空気には気付かないのか、里桜の声は寝言のようだった。優生を追うように、伸ばされた里桜の手が軽く払われる。
「他の男の腕で寝るな」
「……ごめんなさい……でも、里桜なのに」
淳史が気分を害するのは“男”相手に限定されていたはずで、里桜のことはずっと、“男のうちには入らない”と言っていたのに。
「誰でも同じだ、他の誰にも触らせるな」
苛立たしげな言葉と共に、淳史の腕に抱き直される。この数日で制限は更に狭まってしまったらしい。
「里桜にまで警戒しなくても」
呆れたような声に驚いて振り向くと、淳史と一緒に来たのか、すぐ後ろに義之が佇んでいた。
「こいつにも、優生に触るなと言ってあっただろうが」
「そこまで言うなら、もっと大事にしてあげたらいいんでしょ」
まだ眠っていると思い込んでいた里桜が、キレたような高い声を上げる。もしかしたら、里桜も寝起きが悪い方なのかもしれない。
「どういう意味だ」
「あっくんは、自分が日本人離れした大きさだっていう自覚がないの? そうでなくても、ゆいさんは華奢なのに、サイズが合ってないでしょ?」
何が、と尋ねるまでもなく、何もかもを知っているかのような里桜の言い方に、優生の方が赤くなってしまった。

「……おまえに見せた覚えはないが」
淳史も同様のことを思ったのか、怪訝な顔を里桜に向ける。
「だって、義くんがいつも言ってるもん」
「何て?」
「あっくんみたいな規格外のでガンガンやったら、ゆいさん壊されちゃう……っ」
「里桜、言い過ぎ」
急いで駆け寄ってきた義之の手は間に合わず、何気なさげでいて随分な里桜の言葉は殆ど発せられてしまった。
「こいつじゃなくて、おまえが言ってるんだろうが」
「まあ、否定はしないけどね。でも、こんな首の詰まった服しか着られなくなるようなことをしなくても、ゆいが淳史のだっていうことはわかってるよ? 里桜も僕も、もちろんゆいも」
優生が隠したいと思ったものがキスマークではないことを、義之が知っているはずがないのに、タートルネックの中を見透かされているようでドキリとする。
「拘束も監禁も出来ないとなると、手段が限られてくるからな」
「それで足腰立たなくなるほど責めてるのか?」
「やだ、義くん、やらしー言い方しないで」
「里桜ほどじゃないと思うけど」
「何とでも言え。これでも随分我慢してるんだ」
連夜、気を失いそうになるほどしつこく抱いておいて、まだ我慢していると言う淳史がそら恐ろしい。
「……淳史は少し頭を冷やした方がいいんじゃないかな? そんなに追い詰めたら、また逃げ出したくなってしまうよ?」
「あ……っ」
まことしやかな忠告を真に受けて動揺したのか、淳史は一層きつく優生を抱いた。息が上手くできないくらい、腕に絞め付けられる。
「やっぱり繋いでおくか?」
囁く声はひどく優しくて、まるで睦言のように響く。本当は優生がそれを望んでいるのかもしれないと思ってしまうほどに。
「淳史がそこまで重症だとは思わなかったよ。道理で、ゆいの線が細くなる一方なわけだね。そうとわかった以上、今日は食事させるまで帰らないよ?」
義之はいつになく強引に、その言葉を実行した。




「ゆいは元から小食なの?」
早々に箸を置いた優生に、義之は少し不満げな顔を向けた。里桜の大食漢ぶりを見慣れている義之からすれば、優生の食事量の少なさが際立ってしまうのだろう。
「俺、人より胃が小さいみたいで……すみません、せっかく緒方さん残ってくれたのに」
優生に向けられている、咎めるような視線の意味がわからず、暫く義之と見つめ合うことになってしまった。
「あ、ごめんなさい。義之さんって呼ぶことにしたの、すっかり忘れてて……」
顔色を変えた淳史に、胸倉を掴まんばかりの勢いで義之から隠すように脇へとやられる。こんなことさえ、淳史の気に障ってしまうらしい。
「何で名前で呼んでやる必要があるんだ?」
「淳史だって、里桜に“あっくん”なんて呼ばれて、満更でもない顔をしてるくせに」
「そうだよー。義くんだけ“緒方さん”なんて呼ばれてるの、ヘンでしょ」
里桜が、優生とは全く違った所を気にしていたと知って驚いた。ほんの少し、里桜が“あっくん”と呼ぶことに対して蟠りを抱いていた自分が恥ずかしくなる。
「それなら俺のことも名字で呼べばいいだろうが」
「えー」
「でも、ゆいも“工藤”なんじゃないのか?」
「あ、そういえば籍入ってるんだもんね。やっぱ、あっくんが慣れるしかないよ」
渋い顔をしている淳史を軽く無視して、義之は話を戻した。
「そんなことより、ゆいをこれ以上痩せさせないようにしないといけないね。もし、ゆいがどうしても食べられないんなら、輸液で栄養補給するとか、何か考えないといけないんじゃないかな」
「義くん、輸液って何?」
「血管から栄養剤や薬剤を入れることだよ、点滴って言ったらわかるかな?」
「ああ、風邪こじらせた時とかにするやつだよね」
こういう話になると、食べられないなら鼻からチューブを入れると言われたことを思い出す。今更ながら、脅迫まがいのその言葉のおかげで、黒田の所にいる間は体調が安定していたのかもしれないと思った。

「俺、一遍にたくさん食べられないだけだから……そんなに心配してもらわなくても大丈夫です」
「目に見えて痩せてきているのに見過ごせないよ。今の淳史は自分のことでいっぱいいっぱいのようだしね?」
確かに、淳史の許へ戻った途端に優生はまた痩せてきている。それは優生が食欲がないからだけではなく、怒りに任せた淳史に求められるまま食事も摂らずに抱き合って、そのまま寝入ってしまうことが度々あったからだった。
目が覚める頃には大抵朝になっていて、朝食の用意をするために疲労の抜けない体を起こす。どういうわけか、優生が戻って以来、淳史は家で食事を摂ってから出勤するようになっていた。淳史が家を出る時間は少し遅くなったが、優生は用意をするぶん早く起きなければならなくなっている。
淳史を送り出してから、残りの家事をこなしつつ、だらだらと過ごすうちに直に夕方になり、里桜が来る。里桜につき合って軽く何かをつまむ程度で胃は満足してしまい、食欲は日増しに減退してしまっていた。
「……そんな暇ないんじゃないのか?」
義之の言い分はいちいち尤もで、淳史にしては珍しく、まともに反論する気にはならないようだ。
「もうすぐ引っ越して来るんだし、これからも里桜と行き来するんだろう? 余分に時間がかかるとは思わないよ。それとも、僕じゃ不満だということなら父に往診するように言おうか?」
「俺は緒方さんの方がいいです」
淳史が答える前に急いで言い切る優生に、義之は複雑な笑いを返しながらも、訂正させることを忘れていなかった。
「まだ“緒方さん”なの? 一応、淳史の了承は貰ったと思うけど?」
「ごめんなさい、義之さんの方がいいです。でも、点滴はともかく、鼻腔(経管栄養)はイヤなんですけど」
「するわけがないだろう? ゆいは嚥下障害もないのに。それに、なるべく食事で栄養を摂ってもらいたいと思ってるしね」
どうやら黒田の脅し文句は大げさなものだったらしいと知ってホッとした。それでも、周囲にこれ以上の負担をかけないためにも、食事を摂る努力はしなければならなかった。




義之と里桜の言葉が効いたのか、淳史はベッドに入っても優生を腕に抱いているだけだった。
何か言いたげでいて核心には触れないのはいつも通りで、体は睡眠を要求しているのに、気になって眠ってしまうことはできない。
髪や頬を撫でていた手が唇に移り、開かせるように触れてきた。淳史の気が変わったのかと思ったが、視線からはそんな甘いものは感じられない。
気まずさに目を逸らすと、指は優生の唇を割って中まで入ってきた。
「……銜えるのが好きなのか?」
聞き取れないほど低められた声は、尋ねることを躊躇しているからなのだろう。決して蔑むような表情ではなかったが、優生が口にも入れて欲しがっていると思っているようだった。そうしたいのは紛れもない事実だったが、おそらく、淳史の考えているような意味ではないだろうと思う。
「そういうわけでもないんだけど……」
「悪いと言っているわけじゃない」
元から優生の恋愛の対象が男だったからといって、それが好きというわけではない。ただ、無性に知っておきたいと思っただけだったのに。
「おまえがしたいんなら」
「ううん」
言いかけた淳史の言葉を遮って、肩を抱く腕から抜け出す。
また淳史に嫌な思いをさせるくらいなら、もう二度と触れなくても構わない。
「優生」
苛立たしげな声と強い腕が、優生の体を引き戻す。淳史の体の下へと敷き込まれて、強い目で見据えられると、何を求められているのかわからず戸惑ってしまう。
「おまえは、どうしたいんだ?」
「どう、って……?」
「足りてるのか、過ぎるのか、俺のやり方が気に入らないんなら正直に言え」
「えっ……?」
一瞬、自分の耳を疑った。まさか、優生が淳史を気に入らないと思うことなど、あり得ない。
「おまえは何も言わないからな。負担になっているのはわかってるんだが、“適量”がわかりにくいんだ」
決して、足りないとは思わない。ただ、与えられるものなら、いくらでも愛して欲しいと望んでしまうだけで。
それが負担になっているのはお互いさまのはずで、淳史には仕事もあることを思えば、なるべくセーブするべきなのだろう。
「……ちょっと多いかな」
「そうか」
優生の返事を信用したのか、淳史は体勢を入れ替えて、いつものように優生を腕に包んで眠りについた。






引越しを終えても、優生の生活は殆ど変わらなかった。
強いて言えば、距離が近くなったぶん里桜と過ごす時間が長くなったことと、淳史が優生の体を気遣うようになったことくらいだ。
このまま平穏な日々を続けられるよう細心の注意を払っていたのに、突然、一人で訪れた義之に戸惑ってしまった。
里桜にさえ腹を立てる淳史が、義之と二人きりになるような状況を快く思うはずがなく、かといって門前払いというわけにもいかず、迷いながらドアを開ける。
「あの、どうかしたんですか? こんな時間に」
「きみの体調が気になっていたからね、ちょっと仕事の合間を見て寄ったんだけど」
わざわざ仕事を調整して優生の健康管理に寄ってくれたことに感謝するべきなのだろうが、血圧計や聴診器の入った袋を見せられると、つい不謹慎な気分になってしまう。
「……“お医者さんごっこ”ですか?」
「ゆいが医者の方がいいなら、往診に出向くようすぐに手配しておくよ?」
表情を崩さない義之が本当にその言葉を実行してしまいそうに思えて、慌てて引き止めた。相手が本物の医者では“ごっこ”にならない。
「ごめんなさい、俺、義之さんの方がいいです」
「本当に?」
「ほんとです」
ヘタに口答えするから追い詰められるとわかっているのに、何故かおとなしく従うことが出来ず、結局は義之を部屋へ通すことになってしまう。
「じゃ、先に体温を測って」
ソファへと促され、これではどちらが家人かわからないなと思いながらも黙って体温計を腋下へ挟んだ。並んで腰掛ける義之に別な腕を預けて、脈と血圧を診てもらう。
白衣を着せればさぞかし似合いそうな、父親に似た整い過ぎなほどに綺麗な顔を盗み見ながら、もしかしたら話を切り出す絶好の機会なのかもしれないと思った。


「え……」
視界を覆うように近付いてきた義之に、気付いた時には抱きしめられていた。わけがわからず固まる体を軽く抱き上げられて、頭の中が真っ白になってしまう。
「やっぱり、痩せ過ぎかな」
難しげな顔で呟くと、義之はすぐに優生をソファに戻した。少し距離を置いて隣へ腰掛けると、優生の動揺など素知らぬふりで、手早く血圧計や聴診器を片付けてゆく。
おかしな意味ではなかったとわかって気が抜けた。それならこんな紛らわしい量り方をしなくても、体重計を使ってくれれば良かったのにと思う。
「ゆいに聞きたいことがあるんだけど構わないかな?」
「あ、はい」
話したいと思っていたのは優生も同じだったが、義之に先を越されてしまったようだ。
「どうして家出したの?」
直球過ぎる問いに、すぐには言葉が出てこない。凡その経緯は淳史から聞いて知っているはずだった。
「……淳史さんのお母さんがガンだって知ってますよね?」
「ゆいは、余命が短い人の言うことは何でも聞かないといけないとでも思ってるの?」
辛辣な口調に驚かされる。優生にはとても耐えられなかった重大な事由にも、義之は微塵も同調する気はなさそうだった。もっと穏やかで優しい人だと思っていたのに。
「……聞いてあげたいと思うのが普通でしょう?」
「じゃ、もし僕があと半年しか生きられないから里桜と別れてきみと暮らしたいと言ったら叶えてくれる?」
「な……そんなこと、義之さんが言うわけないし、里桜だって黙ってないでしょ」
義之がターミナル期を里桜以外の誰かと過ごしたいと思うはずがなく、里桜もその役を誰かに譲るはずがなかった。
「そうだろうね。淳史がきみを手放すわけがないし、きみが黙って身を引く必要もないんじゃないかな?」
それは義之と里桜だから当て嵌まるのであって、優生に置き換えられるものではないと思う。
「でも、俺は子供を産んであげられないし、淳史さんのお母さんにも反対されてるし……とてもじゃないけど、淳史さんの人生に責任もてないから……」
「子供に恵まれない人もいれば、敢えて作らない人もいるだろう?」
「でも、ちゃんと結婚してもらいたいし、孫の顔も見たいって……」
「ゆいは淳史よりお母さんの方が大事なの?」
「え……そういう、つもりじゃ……」
どちらが大事とか考えたことはなく、ただ、一番優先するべき人だと思っていた。
義之がわざとらしいほど大きなため息を吐く。
「ゆいは意外と楽観的なんだね。平均寿命が78歳として、あと40年近く淳史が健康で生き続けているという保証があるとでも思ってるの? もしかしたら、今日の帰りに事故に遭うかもしれないし、それこそガンに罹ってない保証なんてないんだよ?」
そんな事態を想像しただけで体が震えてくる。いつか淳史に言われた時には漠然と聞き流してしまっていたが、優生が離れている間に、もう二度と会えなくなってしまう可能性だってあったのだった。
「それが淳史と別れようと思った理由?」
「それだけじゃないですけど……俺のことが気に入らなくて、他に望まれてる人がいるってわかったら居た堪れなくなって……」
「ゆいを気に入らなかったわけじゃないと思うよ。ゆいの性別は気に入らなかったんだろうけどね」
「同じことでしょう? 結婚を断られた相手にやり直したいって言われてて、それを焚き付けたのはお母さんで。俺がいなかったら、みんな上手くいくのに」
「それを決めるのは淳史で、きみじゃないとは気が付かなかったの?」
「でも……いつか冷めて、普通に結婚して子供が欲しくなった時に、後悔されたくないんだ」
「冷めるとは限らないし、子供が欲しくなるとも限らないし、もっと言えば、その人に子供が出来るという保障もないんだよ?」
義之の言葉が必ずしも仮定とは限らないことに、初めて気が付いた。女性だというだけで、普通の幸せが必ず手に入るものだと思い込んでいたかもしれない。
「もし、ゆいに仕向けられたまま、淳史がその人と結婚して不幸になったら、責任取れるの?」
そんなことを考えたこともなかった。優生にはムリな全てを、美波子は叶えることが出来るのだと思い込んでいた。

「淳史はそんなに信用できないかな?」
「え……いえ」
「あれだけ愛されてて、まだ信じられない?」
「淳史さんを疑ったわけじゃなくて……」
自分に存在価値を見出せなかった、とでも言えばいいのだろうか。
「愛されているとわかっていて逃げ出したの?」
逃げ出したというのは的確過ぎて、何も返せなくなってしまう。あの時は、もう要らないと言われるのが怖くて、その前に消えてしまいたかった。
「……ゆいは僕の母に似てるよ」
いつの間にか伸びてきた手が、優生の頬に触れる。驚いて見上げると、優しげな指はすぐに離れていった。
「そういう儚げな雰囲気とか、何も言わずに自己完結してしまうところはそっくりかもしれないな。といっても、母はゆいと違って相当に強かだったけれどね」
義之の言いたいことがわからず、先を促すように見つめる。叱咤されているのか、ひょっとしたら激励されているのか。
「実は、父があんな風になってしまった原因は母なんだよ」
“あんな風”というのが、見境のなさそうな恋愛体質を指すのか、軽薄そうな性格のことなのか、或いはもっと別なことなのかわからないが、褒めてはいないのだろう。
「父は研修医だった時に勤めていた病院で母と出逢って、結婚の約束をした矢先に、そこの院長の一人娘に見初められてね。立場を弁えて身を引こうとした母は、引き止める父に、“一介の勤務医より院長の方がいい”と言ったそうだよ。父はその言葉を真に受けて、俊明の母親と結婚したんだよ」
「え……他の人と結婚しちゃったら、義之さんのお母さんとつき合えないでしょう?」
「その頃の父は、今からは想像も出来ないくらい純朴だったらしくてね。母の言葉を、院長にならなければ別れるという風に受け取ったようだよ。実際、結婚してからも付き合いが続いたんだから、母の本心には気付いてなかったんだろうね。でも、母は僕を授かった途端に父の前から姿を消して、余命僅かになるまで一切連絡も取らなかったよ。もし病気になったのが僕が成人したあとだったら、父に僕のことは話さず、会うこともなかったんじゃないかな」
似ていると言われたが、優生にはとてもそんな長い時間を耐えることは出来そうになかった。それが、子供を持つがゆえの強みなのだろうか。

「……義之さんのお母さんは子供が欲しかったの?」
「子供というか、父の代わりが欲しかったんだと思うよ。だから、妊娠していることがわかったとき、父の元を去る決心がついたんだろうね」
その気になれば相手の未来まで縛れると思うのに、引き換えにしてしまえる潔さは、優生には理解できそうにない。
「何も言わないで離れていっちゃったの?」
「言えば拗れるだろう? その時の母には、父を思いやるような余裕はなかったんだよ。まさか、残された方が人格が変わるほどダメージを受けるとは思わなかったらしくてね」
ということは、あの破綻した性格は後天的なものだったということらしい。
「先生は、義之さんのお母さんが黙っていなくなったから人間不信になってしまったとか、そういうこと?」
「そのようだね。好きでもない人と結婚させておいて逃げたんだから、裏切られたと取って荒れても仕方ないと思うよ。もう誰かと真面目に向き合う気にはなれなくなってしまうくらいにね」
傍から見れば愚かに見えても、好きな相手の望みだと信じて結婚したのだとしたら。
「……先生は、本当は義之さんのお母さんと結婚するつもりだったんだよね?」
「母が余計な気を回さなければね。でも、母には母の理由があったんだよ。身よりも、何の後ろ盾もない自分が足枷になるのは我慢ならなかったらしくてね。父の気持ちよりも自分のプライドを通してしまったとでもいうのかな」
「ジャマになりたくないっていうのは、わかるような気がするけど」
自分には与えることの出来ない好機が向こうから来ているのに、みすみす逃すようなことはさせたくないに決まっている。
「無理をすれば、その後も歪(いびつ)になってしまうっていうことを言ってるんだよ? もし、ゆいのせいで淳史が父みたいになったらどうする?」
「まさか」
「ただの例え話じゃないよ? もし淳史が自棄になって元カノと結婚したとしても、上手くいくとは思えないからね。別れることになったら財産分与しないといけないし、慰謝料も発生するだろうし、子供ができていたら一生責任を負わないといけないんだよ? そんなに淳史を不幸にしたい?」
「……そんな風には思わなくて……それに、一度は結婚してもいいと思った人なのに」
「それは何年も前の話だよ。今の淳史が他の人と上手くやっていけるわけがないだろう? あれだけきみに執着してたのに、まさか、そんな温い愛情だと思ってた?」

「……ううん」
不安と不信に溺れそうになる前に、誰かに話すべきだったのだろう。あの時は自分の気持ちに手一杯で、離れることが迷惑をかけることになるとは思いもしなかった。
俯く優生の項へと触れてくる指に、引き寄せられそうな錯覚を覚える。義之の手はいつも優し過ぎて、優生を落ち着かなくさせた。
「わかってるんなら、淳史を犯罪者にしないうちに何とかした方がいいよ?」
「犯罪って……?」
「このままだと、きみが一緒にいた相手を殺しに行きかねないからね」
「どうして?」
戻ってからも、特に黒田のことを気にしているような言葉も態度も感じられなかった。ただ、優生の何かが淳史の気に障っているようだということは、薄々わかっていたが。
「ゆいが何も話さないから、淳史の頭の中では凄いことになってるみたいだよ?」
「どういう意味ですか?」
「その男とどういう風に過ごしていたのか聞けないぶん、あらぬ想像をしてしまうんじゃないのかな?」
意味深な表情にも、思い当たることはなかった。おそらく一度として、黒田の名前さえ話題に上らなかったはずだ。
「あらぬ想像って……?」
「ゆいは、その男のところで何をしてたの?」
「何って……食事の用意をしたり、掃除や洗濯をしたり……家事っていうのかな?」
「主婦業をしていたということ? まさか、一緒のベッドで眠って、腕枕をしてもらって? “いってらっしゃい”のキスも?」
羅列されてゆく問いは全て事実なのに、言葉だけを捉えるとまるで同棲か結婚でもしていたと言われているようで、肯定することは出来なかった。
「ゆいの顔を見ていると、蜜月を過ごしていたんだろうと思ってしまうけど?」
「そうじゃなくて……名目だけっていうか」
愛人にして欲しいと言ったから、そういった扱いをしてくれていただけで、愛のある生活をしていたわけではない。
「2ヶ月近くもいれば、情が移ってしまうのも無理ないかな」
「そういうんじゃなくて」
ただ、その場所を失くしたくないと思っていたことも事実だったが。

「淳史が迎えに行かなかったら、戻る気はなかったの?」
優生が本当に淳史と別れたがっていたのかという意味なら、違うに決まっている。ただ、戻る気でいたはずもなかった。
「……戻れるとは思ってなかったから」
「その男を淳史の代わりにしてたの?」
「そんなつもりじゃなかったけど……無意識にそうしてたのかも。その人なら、俺を離さないでいてくれると思ってたし」
最初に望んだ通り、黒田は優生を満たしてくれていた。あの生活がずっと続けば、いつか愛していたのが誰だったのかも忘れてしまいそうなほどに。
「淳史のように独占したがるようなタイプだったの?」
「ううん、俺が匿って欲しいって頼んだから……結局は、その人が淳史さんに連絡してくれたんだけど」
そもそも好みではない優生を、ずっと隠し続ける気はなかったのだろうが、終わりは突然過ぎた。もう少し惜しんでくれるかと思い込んでいた自分の甘さが、思い出しても恥ずかしい。
優生の髪に戯れていた手が、不意に力を籠めた。油断していた体が、容易く義之の胸元に抱きよせられる。
「……どうやら、ゆいは依存症のようだね」
なんとなく、その言葉は自分にしっくりくるような気がした。自立したいと思うのに、一人になることも出来ず、こうして義之と密着していても、万が一にも何かが起こるはずがないと高をくくっている。
「淳史が他の男を近付けたがらないのも無理ないな。ゆいは簡単に気を許し過ぎるよ」
それが、“他の男”に懐柔されかかっていたことを指しているのか、優生の髪を撫でている優しい指を払わないことを言っているのか、わからない。
「淳史さんは、俺のそういうところが気に入らないのかな……」
「気に入らないというより心配なんだろうね。里桜にまで妬くくらい余裕がないようだから」
「それって、俺が見境ないと思われてるからだよね」
「ゆいは疑り深いなあ」
苦笑混じりに義之が呟く。優生にとっては切実なのに、義之を呆れさせてしまったらしかった。
「そんな風に卑下してないで、少しは淳史を安心させてやってくれないかな? ゆいが気に病む気持ちもわからないでもないけど、二度も家出されたら警戒して当然だよ?」
淳史の傍を離れたせいで迷惑をかけてしまったが、戻ってもなお煩わせてばかりいる。どうすれば淳史の気に入るようにできるのかわからない。
「安心させるって、どうしたらいいの?」
「少し大げさなくらいに、もう離れないとか愛してるとか言ってあげればいいんだよ。ゆいがどこにも行かないってわかれば、淳史も落ち着くはずだからね」
その系統の言葉は、戻った日にベッドの中で何度も言わされていた。情事の合間の約束事では信用できないというのでなければ、伝わっていたと思う。ただ、それ以降は尋ねられることもなく、口にする機会はないままだったが。
「もうどこにも行かないっていう約束は戻ってすぐにしたんだけど……それだけじゃダメなのかな?」
「そうだね。ちゃんと愛されてるって、淳史にも実感させてやってくれないかな?」
「そう言うってこと?」
「できれば頻繁にね」
義之には言い慣れた簡単なことなのかもしれないが、優生には、どのタイミングで何と言えばいいのか、考えているだけで心拍数が上がってきそうだ。
「そんなに難しく考え込まなくても、そう思ったときに素直に言葉にすればいいだけだよ? ゆいは甘いことを言いそうにないから、効果覿面(てきめん)だろうね」
「でも、俺には簡単じゃないんだけど」
「言うのが苦手なら、ゆいの方からキスするとか、甘えかかってみるとか、少し頑張ってみてくれないかな?」
「……うん」
勢いに負けて頷いてしまったが、それで淳史に引かれてしまったら、今度こそ立ち直れなくなってしまうだろう。そうでなくても、淳史は積極的なのは好まないようだと思い知らされたばかりなのに。もうこれ以上、淳史の気に障ることはしたくなかった。
「話が長くなり過ぎたかな?」
義之は、優生が黙りこんでしまったのを疲れたせいだと思ったようだった。今のうちに、義之にもっといろいろと尋ねたりアドバイスをもらったりしておけばいいのだろうが、なんとなく億劫だった。
「少し休む?」
「……いいの?」
この体勢のままでは拙いのではないかと思いながら、腕から抜け出す気にはならなかった。優生から離れなくても、寝入ってしまえば下ろされるだろう。
ソファに常備している毛布を肩から掛けられて、緩く抱かれた背を優しく撫でられるうちに本当に眠ってしまいたくなる。そっと髪に絡んでくる指の繊細さは、淳史とは全然違っていたが、ずっと撫でていて欲しいと思うくらい優しかった。きっと、義之は里桜の弟のことも、こんな風に寝かしつけているのだろう。






荒げた声が、浅い眠りを妨げる。
強い力に攫われた体が宙に浮くような不安定さに、咄嗟にしがみつく。覚束ない意識でも、それが淳史のものだと認識していた。
「優生」
声は近く、瞬いた目のすぐ前に怒りの形相を見つけて固まった。思わず退こうとした優生の体がきつく抱きしめられる。
「ん」
押し付けられた唇は容赦なく、噛みつかれそうな勢いに身が竦む。
「や……っ」
起き抜けの働かない頭では状況が把握できず、貪られるに任せたキスについてゆけずに、必死に淳史の腕に縋りついた。
「……多過ぎると言いながら、どうして他の男の腕にいる?」
低い声に滲む憤りに、今は淳史の腕に捕らわれた体が震える。当事者の一人のはずの義之はいつの間に消えたのか見当たらない。
「やっぱり足りないんじゃないのか?」
優生が気に病んでいることは的外れではなく、義之が言うほど淳史は寛容ではなさそうだった。義之の胸で微睡んだことが、また淳史を苛立たせている。
「……汚れてると思ってるんならムリしないで?」
口をついた本音に、縛める腕の力が増す。
「それでまた他の男に抱かせるのか?」
追い詰めるような声に、何も返せなかった。淳史の懸念は尤もで、優生はすぐに楽な方に転がってしまう。
苦しげに眉を顰める淳史が、優生の喉元へと掌を滑らせた。その片手だけで、軽く縊られてしまいそうな気がする。
「それぐらいなら殺してやる」
低く唸るような声が、どれほど甘く響くか知らないのだろう。
そっと目を開けて淳史を見上げる。不似合いなくらい穏やかな顔に、請うように囁く。
「そうして」
それが優生の一番の望みだと知っていても、淳史が叶えてくれることはなかった。

喉を覆っていた掌が顎を伝って頬を包み、思い詰めたような眼差しで優生を覗き込む。
「……俺から逃げたいのか?」
低い声の問いは唐突過ぎて、その真意を理解する前に、新たな問いが重ねられる。
「俺の母親のことも、美波のことも、別れるための言い訳だったのか?」
「ちが……」
ちゃんと伝えたいと思うのに、見つめ返す優生を否定するように、淳史は強い口調で遮った。
「本当はあの男の所に居たかったのか?」
「そんなことない」
「迎えに行った時に帰らないと言ってたな」
「帰りたくなかったわけじゃなくて、もう戻れないと思ってたから驚いて……」
まるで優生の返事など聞く気がないというように、後頭部へ回された手に、淳史の胸元へと押し付けられる。
「前に行方をくらませた時にも、もうどこにも行かないと約束したのにな」
責めるように呟く言葉が、優生を信じられない理由なのだろう。
淳史の背に腕を回して、そっと抱きしめる。淳史に出逢うまで執着されることに慣れていなかったせいか、愛されているということをすぐに忘れてしまう。我慢しているのは自分だけだと、いつの間にか思い込んでいる。
「だって、俺は淳史さんの所を出てすぐ他の人と住んでて……約束も破ってて、元に戻れるとは思わないでしょう?」
進んで他の男の所へ行き、体を許していたのは、もう戻れないと自分に言い聞かせるためだった。他の男に触れさせるのもキスをさせるのも、もちろん浮気をするのもダメだと言われていたのに、禁止事項の主だった項目を悉く破っていて、今更どんな顔をして愛していると言えばいいのか。

「おまえは別れたつもりでいたんだろう? その間のことまでは責められないからな」
「でも」
「構わないと言ってるだろうが」
強い口調に体が震えた。構わないと思っていないから、そんな剣幕になっているに違いないのに。それでも、無理矢理こじつけてくれた解釈に、もう逆らえそうになかった。
「自分でも器が小さいという自覚はあるんだ、これ以上無様にさせないでくれないか」
「ごめんなさい……勝手なことをして、約束を破って」
思えば、出て行ったことをきちんと謝るのは初めてのような気がする。
「悪かったと思ってるんなら、これからはずっと傍にいて俺のことだけ考えて待ってろ」
「うん」
素直に頷いた優生の思いは、少しは淳史を安心させられただろうか。
「もう他の男を見るな。触るな。口もきくな」
真面目な顔をして、また横暴な条件を並べたてる淳史が可笑しくて、なのに、笑うことが出来ずに目元が潤む。
ただ頷くだけの優生に、淳史はそれまでと同じトーンで続けた。
「愛してるって言え」
「え……」
「そうしたら、全部なかったことにする」
簡単に誘惑に負けてしまいそうで、唇を噛む。
そんなことを言う資格はないとわかっていても、胸の中では思っていた。
「淳史さん……」
少し首を傾けるようにして、淳史の顔を見つめる。もう、優生の中で留め切れない思いが、唇から零れた。
「……愛してる」
泣きそうな表情が見えたような気がしたのは一瞬で、気が付けば、折れそうに強く力を籠める腕に囚われていた。
「……もう、思い残すことはないな」
掠れた声に首を振る。
「やだ、置いていかないで?」
髪に触れる手が、優生の頭をそっと上向けさせる。
「もったいなくて死ねるか」
その言葉は、優生の唇に直に伝えられた。



- Not Still Over - Fin

【 Hide And Seek 】     Novel       【 Love or Lust 】  


2008.4.30.update

もうちょっと淳史がヒドイことを言ったりする予定だったのですが、
相変わらずヘタレで(ともかく優生に甘過ぎなので)果たせませんでした……。
書き洩らしたことは、13話に少し引っ張ることにします。