- Nowhere To Go(5) -



きっと、こんな日が来ることもわかっていたような気がする。
何の連絡もなく、突然マンションの前に現れた美波子を見た瞬間、リミットはすぐそこまで迫っていたことを知った。
「淳史さんは仕事ですけど」
それを承知で美波子がここにいるのだと、わかっているのに優生の方からそう言ったのは、少しでも先に延ばしたかったからかもしれない。
「今日はあなたに話があって来たのよ」
優生の想像に違わない答えに、予感は確信に変わった。淳史の母親に会ってからずっと感じていた不安に、とうとう追いつかれてしまった。
「……部屋で話します?」
少し迷いながら尋ねた優生に、美波子はひどく驚いたような視線を向けた。優生からすれば、この状況で場所を変えることを提案する方が不自然に思えたのだったが。
「いいの?」
「だと思いますけど」
つい先日、他人が家に入ることをあまり歓迎しないはずの淳史が部屋へ通したのだから、美波子が入るのは構わないのだろう。優生は家主の決定に意義異論を唱えられるような立場でもない。
並んで歩き出す相手の目線は少し見上げなければならないくらいの高さで、ヒールの分を考えれば身長はそう変わらないはずだった。特別威圧的な態度を取られているわけでもないのに圧倒されてしまうのは、敵わないと思い知らされるからだろうか。
「淳史とは、いつから?」
沈黙の気まずさを感じていたのはお互いさまだったのか、単に早く用件に入りたいと思っていたのか、美波子が先に口を開いた。
「半年ちょっとです」
「じゃ、半年かそこらで籍を入れたってこと? ずいぶんせっかちなのね」
淳史のことを言っているのなら同意するが、優生のことを指しているのなら大きな間違いだ。強引に養子縁組したのは淳史で、優生は押し切られたに過ぎないのだから。

答えようのない優生に、美波子は問いを変えることにしたようだった。部屋までの距離をこんなに遠く感じたのは初めてのような気がする。
「接点があるように思えないんだけど、きっかけを聞いても構わない?」
「それは俺じゃなくて淳史さんに聞いてもらえますか? 話すと叱られるかもしれないので」
「人に知られたくないような出逢いだったということね」
聞こえるくらいの声ながら、美波子の呟きは独り言のように返事を求めてはいないようだった。
漸く辿り着いた部屋のロックを解除して、先に美波子を通す。
ひらりと揺れるスカートの裾から伸びた柔らかそうな脚のラインと、脱いだパンプスを揃える仕草が女らしいと思った。
優生がいくら華奢で骨細だといっても、女性の体とは全く別物だ。脂肪の薄い、柔らかいとは言えない体も、厳しく躾けられた立ち居振る舞いも、決して女性的ではなかった。
そうあって欲しいと言われたわけでもないのに、淳史の好みから逸脱している自分に強い引け目を感じてしまう。自分の性別や外見と内面に違和感を感じたことなど一度もないのに、初めて、別の性に生まれていれば良かったと思った。

美波子をリビングに通してから、キッチンの方へと向かいかけた優生を足止めするように、背中から声がかけられる。
「どうしたら別れてもらえるの?」
あまりにも突然に切り出された本題に、足元が凍りつく。その場に立ちすくんだまま、美波子を振り向いた。
気丈そうだと思っていた相手が今にも泣き出しそうに見えて、まるで優生が悪いことをしているような気にさせられる。淳史との将来を夢見る相手にとって、優生は邪魔者でしかなかった。
「何年も会っていなかったようですけど、急にそんなことを言うのは、何か事情でも出来たんですか?」
余計なことは言わないつもりでいたのに、自分でも思いがけずきつい口調になってしまった。
「淳史のお母さん、ガンなんですって。初期で悪性ではないらしいけど、転移の可能性がないわけじゃないでしょう? 五年生存率って聞いたことある? 五年経っても再発しなければ90%以上再発の心配はないということだけど、逆に再発すれば覚悟しないといけないということだから……万が一のことを考えて、少しでも早く淳史に普通の結婚をして子供を作って欲しいという気持ち、わかってあげられない?」
だから、あの時も悲しそうな顔をしていたのだろうか。まさか、そんな事情があったとは思いもしなかった。
「……どうして、それを淳史さんに言わないんですか?」
「淳史を追い詰めるようなことはしたくなかったんだと思うわ。もしも一時の気の迷いなら、お互い嫌な思いをしたくないでしょう?」
優生とのことを一時の気の迷いだと思い込んでいるのなら、そう考えるのは当たり前なのだろう。
「どうして、俺には話すんですか?」
「あなたが聞いたからでしょう?」
それが真実かどうかは別にしても、尋ねてしまったのは優生の落ち度に違いなかった。
「もし俺が淳史さんと別れたら結婚するんですよね?」
「それは淳史次第でしょう? もちろん、そうなれるように努力するつもりだけど……無理なら子供だけでも欲しいと思っているの。私ももう若くないし」
おそらく初産だろうから、少しでも若いうちに、ということなのだろう。淳史の母親も、せめて孫の顔だけでも見たいと言ったのだろうか。二人の望みが一致したのなら、それを妨げるのは優生だけということになる。
「……そうですか」
明確に了解したわけではないのに、まるで優生が聞き入れることを確信したような表情を見せる美波子に、勝てるはずがなかった。


「淳史さんを待ちます?」
「え、ええ」
曖昧な問いに戸惑う美波子に、何の説明もしないくらいの意地悪は許されるはずだ。
「すみません、ちょっと外します」
首を傾げる相手を置いて寝室へ向かう。優生がここへ持ち込んだものは僅かで、殆どは借り物か買い与えられたものだ。当面の着替えとシステム手帳と財布をディパックに収めてしまえば、持ち出さなければいけないものはなくなってしまう。
携帯の電源を落として、指輪と鍵と共にベッドサイドに置けば、もう優生を縛るものは何もない。
もちろん、洗濯物を干したままだとか、さっき食材を買ってきたばかりだとか、淳史には不要な優生の荷物を残してしまうことだとか、完璧にはほど遠かったけれども。
左肩にディパックを掛けてリビングに戻る。努めてさりげなく、美波子に頭を下げた。
「じゃ、後はお願いします」
「えっ」
何か言いたげな、もしくは尋ねたそうな相手を振り返らず、真っ直ぐに玄関へ向かった。少し古びた一足を選んで外へ出る。
ドアを閉めると、こみ上げてくるものに一旦足を止めた。振り向いて、慣れ親しんだ場所を心に留める。
淳史は気に入っていないような言い方をしていたが、優生には大切な場所だった。
感慨に浸っていると揺らいでしまいそうで、振り切るように離れる。足早に目的地に向かうことにした。
なぜいつも、優生のものになったと思った途端に手からすり抜けていってしまうのだろう。失くすものなら、最初から手に入らない方が良かった。閉じ込めるように強く抱く腕も、壊すことを恐れるみたいに優しく触れる指先も、もう失くしては生きていけないと思っていたのに。
あれほど思い入れていた彩華のことも、多少の時間はかかったのかもしれないが諦めてしまった淳史は、優生のこともすぐに過去にしてしまうだろう。ましてや、一度は結婚しても良いとまで思った相手が傍にいれば。


時計は正午を回ったところで、最近まともに昼休みを取れたことがないと言っていた淳史の予定はさっぱりわからなかったが、何故だか今しかないような気がした。
優生からは殆どかけたことのない番号に電話をする。2度のコールで答える声が妙に懐かしく響く。
「ごめんなさい、仕事中に。優生です」
『どうかしたのか?』
勤務中に電話を掛けたことなど一度もなく、まして持たされている携帯ではなく公衆電話を使う優生に、淳史はひどく心配げな声を出す。話していても構わないのかどうかを確認して決心が鈍るのが怖くて本題に入ることにした。
「俺、一人で生きていくことにしたから……今までお世話になりました」
『優生? 何の話だ?』
わずかに声を荒げる淳史に、意味は正しく伝わっているはずだった。
「淳史さんの所に置いてきたものは、面倒だと思うけど処分して?」
『優生、まさかと思うが、別れ話でもしてるつもりか?』
「……うん」
『何かあったのか? すぐに戻るから少し待ってろ』
「ううん、家からじゃないから……淳史さんもお仕事サボっちゃダメだよ」
『そんなことを言ってる場合か。何があったんだ?』
聞かれるとわかっていた問いなのに、答えるのは難しい。尤もらしい理由はいくつもあるのに、口にすると嘘だとバレてしまいそうで。
「……疲れたのかな。学校にも行かせてくれないし、禁止事項ばっかりだし」
『優生』
明らかな動揺が電話越しに伝わってくる。手放すことを惜しんでくれるだけでも、報われる気がした。

「俺がいなくても、淳史さんは困らないでしょう?」
もっと淳史の好みにあった人が待っているんだから、と胸の中で続ける。
『困るに決まってるだろうが。今どこなんだ? 電話でするような話じゃないだろう、すぐに行くから場所を言え』
面と向かっていたらわからなかっただろう淳史の焦燥が、不思議と電話を通すと伝わってきた。
「……最後のお願いだから聞いて? 俺を捜さないで。仕事を休んだり辞めたりしないで。俺にこれ以上責任感じさせないで」
『何を勝手なことばかり言ってるんだ』
「ごめんなさい。でも、もう俺を自由にして』
『今更放せると思うか?』
怒りを通り越したような、いっそ静かな声に絆されないよう、強気を装う。
「携帯も指輪もキーも置いてきたから……俺はもう帰らない」
『失踪でもするつもりか?』
「淳史さんが捜すんなら、隠れないといけないかも」
『どんなことをしてでも捜して連れ戻すからな』
それを嬉しいと思ってしまう気持ちを悟られないよう、わざと冷たい言葉を返す。
「見つからないよ、絶対」
『見つけたら覚悟は出来てるんだろうな?』
「……いいよ。監禁でも拘束でも、好きにして」
『優生』
何か言い掛けている途中だと承知で受話器を戻す。これ以上話していたら、絶対に負けてしまう。
新しい場所へ連れて行くべき相手は優生ではなく、淳史の家族まで幸せに出来る人だ。冷静になれば、ごく普通の未来図を描ける相手が誰か気付くだろう。
もう、失くすものは何もなくなった。
潤みかけた目元を拭って、優生は目的地へ急ぐことにした。当てがあるわけではないが、当面の隠れ家を提供してくれそうな相手の元へ。



- Nowhere To Go(5) - Fin

【 Nowhere To Go(4) 】     Novel     【 Hide And Seek(1) 】  


元鞘に戻ってハッピーになるまで暫く(?)お待ちください……。
優生が淳史以外の相手と蜜月を過ごすのが許せない方は、
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