- Nowhere To Go(4) -



「工藤が荒れてるような気がするんだけど、やっぱ、ゆいちゃんのせい?」
久しぶりに紫の呼び出しに応じたのは、淳史の様子がおかしいとメールされたからだ。
淳史の機嫌を損ねてしまっているという自覚は充分にあり、紫から何がしかの解決法の糸口を貰えるかもしれないと思うと、ついいつもの店に出向いてきてしまっていた。
冬湖の店で会うのは疚しいところがないからだと自分に言い訳しながら、その実はただ単に居心地が良いからなのかもしれない。美味しいランチと、食後のコーヒーを飲みながらゆったり過ごすひとときは穏やかで、ささくれ立った気持ちを和ませてくれる。
「俺、ずっとおとなしくしてるんだけど」
「何か心当たりはないの?」
「なくもないんですけど」
淳史の昔の女性のことを話すかどうか迷っていたのは優生だけでなく、紫も同様の気遣いをしていたらしかった。
「ゆいちゃん……工藤の昔のこととか、聞いたことある?」
「女性関係のことなら、多少は。この間も元カノが家まで来たし」
「え、ゆいちゃんのいる時に?」
「うん。結婚セマられてた」
「サラッと言うなあ……よっぽど信用してるんだ?」
そんなわけないでしょ、と言うわけにもいかず、曖昧に肩をすくめるに留めた。
「なんか恩のある人なんだって? ゆいちゃんと籍入れといて良かったって言ってたけど?」
「そうなんですか? だから淳史さん、控えめだったのかな」
そう考えると、少し横暴なところのある淳史にしては珍しく、無下な扱いをしなかったことに合点がいく。
「思うんだけど、ゆいちゃんがヤキモチを焼いてあげなかったから拗ねてるんじゃないの?」
「俺、キスされたくらいで拗ねるなって叱られましたけど?」
優生が思っていた以上に、淳史が紫に深い話をしていたことを知って気が緩んでしまっていた。それとも、本当は誰かに吐露したかっただけなのかもしれない。投げ遣りに口にしてしまったエピソードは、気安く他人に話すようなものではなかったのに。

「え、キスシーンまで見ちゃったの?」
「不本意ながら」
おそらく、相手の方は意図して見せたのだろうが。
「ゆいちゃんてさあ、若いのに落ち着いてるっていうか、クールだよね。工藤の方がオロオロしちゃってるんじゃないの?」
「まさか。その人にはともかく、俺には強引だったし。そうだ、紫さん、冬湖さんが淳史さんのお姉さんだって知ってました?」
正しくは姉みたいなものだと、言っていたのだったが。
「え、そうなの? でも、工藤にお姉さんなんていたかなあ?」
「お母さんの再婚相手の方の、って言ってたから薄いみたいですけど」
「ふうん……じゃ、元カノじゃなかったんだ?」
「みたいですね、今度の人は本当だそうですけど」
事実だけを淡々と告げる優生に、紫は意味有りげな視線を向けた。
「ゆいちゃんは大人だなあ。工藤の相手がゆいちゃんだって知った時は驚いたけど、なんか、納得しちゃったかも」
「そういうんじゃないです。俺が友達の恋人だったから興味を引かれただけだし」
「なになに? どういうこと?」
またもや口を滑らせてしまったのかもしれないと思ったが、半ば自棄のようになっていて、撤回する気にはならなかった。
「淳史さん、友達の恋人っていうシチュに弱いらしいんです。俺のことも、最初は色気が無いとか子供過ぎるとか言ってたし」
「そうなの? 何か、いいこと聞いちゃったかも」
「あの、淳史さんには言わないでくださいね?」
いつになく不穏な表情を見せる紫に、慌てて口止めを試みた。

「じゃ、口止め料くれる?」
「え……」
ひどく不謹慎な想像をしてしまった優生に、紫は葉書ほどのサイズの、トールペイントの展示会の案内を差し出した。会場は一駅向こうの文芸会館で、そう大きな規模ではないようだ。
「来いって言われてたんだけど、ひとりでは行きにくかったんだよね。ああいうのに来るのは女の人ばっかだし」
「トールペイントって何ですか?」
「ヨーロッパの伝統的な技法を使って描いた絵のことらしいよ? 雑貨とかボードに、花とか風景とかアンティックっぽい絵を描いてるのを見たことない? カントリーの雑貨とかに多いんだけど」
「わかるような気もするんだけど、俺が思ってるので合ってるかな……。それで、その展示会に一緒に行ったらいいんですか?」
「そうそう。まあ、代表の人に俺との関係を突っ込んで聞かれたりするかもしれないけど、気にしないで」
「もしかして、昔の相手とか言うんじゃないですよね? 俺、勘違いされて恨まれたりなんて事態は遠慮したいんですけど」
「ないない、母親だから」
母親という単語に、自分でも驚くくらい体が拒否反応を示してしまった。
一瞬で固まった優生に驚く紫は、淳史の母親と会ったことを知らないのだろう。
「心配しないでいいよ? 俺の性癖はもう諦めてるから。ただ、こんな可愛い人を連れて行ったら勘違いされるかもしれないけどねー」
おそらく紫に下心はなかったはずで、優生も、つき合っているわけでもない男の親に会うことに深い意味は感じなかった。
その気楽さもあってか、結果的にその人を交えて過ごした時間は、落ち込んでいた優生を癒してくれるほど優しいひとときになった。
まさか、それが淳史の逆鱗に触れるかもしれないとは想像もしなかった。






出迎えるのを放棄したくなるくらい、淳史は不機嫌極まりない表情を露に戻ってきた。
“ただいま”の儀式もそこそこに優生をリビングに引っ張っていくと、苛立たしげにソファへ座り込んだ。腕を掴まれたままの優生の体が、その膝へと引き寄せられる。
「後藤には会うなと言ってなかったか?」
「言われてないと思ってたけど……?」
止められた覚えはないと思っていたが。
それには答えず、淳史は態とらしいほど盛大なため息を吐いて問いを重ねてきた。
「いつから後藤と親ぐるみのつき合いになったんだ?」
「……え?」
口止めしたのは会っていたことではなく、だから紫が淳史に話したのかと思った。
「後藤が電話でおまえの話をしているのが耳に入ったからな、問い詰めたら白状したんだ」
「……何を?」
「おまえ、後藤の母親にずいぶん気に入られたらしいな? 一体、何でそんなことになったんだ?」
「トールペイントの展示会に行っただけだよ? お母さんが講師をしてて、休憩に一緒にお茶しただけなんだけど」
確かに、展示会で会った紫の母親に気に入られて紅茶とチーズケーキをご馳走になったのは事実だ。
けれども、優生が紫の相手だと思われているような言葉をかけられた時に、つき合っている人は別にいて、一緒に住んでいることも話してあり、決して淳史が勘繰るような意味合いではなかった。
紫の性癖を受容しているからか、優生の告白にもごく自然な反応が返ってきた。それどころか、息子の恋人ではなかったことを残念がってみせるくらい、とても親しみやすい人だった。
やや饒舌に優生と話したがるところは紫に似ていて、なかなか帰らせてもらえなかったのには参ったが、決して不快な感じはしなかった。朗らかで、威圧的な面は一切なく、淳史の母親がその人ならきっと上手くつき合えたのではないかと思ってしまうほど、優生に優しく接してくれた。
「……他所の親より、俺の親に気に入られようとは思わないのか?」
我慢ならないと言いたげな表情は、淳史の親には優生が気に入られなかったことを雄弁に語っているようだった。
だから会いたくなかったのだとか、別に気に入られたいとも思わないとか、口に出してはいけない言葉が不意に飛び出してしまいそうになる。

「何とか言えよ?」
「……別に、紫さんのお母さんに気に入られようと思ってたわけじゃないし、淳史さんのお母さんとつき合いたくないわけでもないよ」
ただ、相性か性格か、優生が意図してスタンスを変えて接したわけではない以上、相手の方の都合なのだろうと思った。
「おまえ、甘いものは嫌いなんじゃなかったのか?」
「どっちかといえば苦手だけど……」
「おまえがケーキを食って嬉しそうにしてる所なんて俺には想像もできないんだが」
「あ、チーズケーキだったから……」
甘いものは苦手だが、チーズケーキやアイスは自ら進んで食べたいくらい好きだ。
「チーズケーキなら好きなのか?」
「うん」
何気なく頷いた優生に、淳史の不機嫌はピークを迎えてしまったらしかった。
「どうして、そういうことは俺に言わないんだ?」
「どうしてって……特に言っておかないといけないようなことじゃないと思うけど」
淳史が、実は貢ぐのが嫌いではないらしいということを忘れていた優生には、その怒りの理由は理解出来なかったのだった。
「それに、よりによって、こんなタイミングで他の男の親に会わなくてもいいだろうが」
「俺が会いたいって言ったわけじゃないよ。たまたま手が空いてたらしくて、外に出る時間が取れただけだし」
「後藤とつき合ってると思われたから、わざわざ時間を取ったんじゃないのか?」
「それはないよ。紫さんも、“人のもの”だって言ってたし」
「人のものだと言いながらも、しつこく誘うのは付け入る隙があると思われてるからじゃないのか?」
低い声で詰め寄られても、なぜか優生は素直に謝る気にはなれなかった。
「……でも、淳史さんは人のものがいいんでしょう?」
優生が淳史のものになったから興味が半減してしまったのではないかと尋ねたつもりだった。こんなにも憤っているのは、自分のものだと安心していたのに、誰かに脅かされそうになったからではないのか。
「人のものを取った覚えはないぞ?おまえのことも、俊明が手放すまでずっと待ってただろうが。まあ、ちょっと狡かったかもしれないが」
「俺じゃなくて……」
彩華のことだと、名指しで言うのは躊躇われたが、淳史にはすぐにわかってしまったらしかった。
「彩華のことを言ってるのか?」
悪びれもせずに問い返されると、優生の方が戸惑ってしまう。
「俊明に何か言われたのか? おまえに話す必要はないと思ってたんだが、先に彩華とつき合ってたのは俺の方だからな? それから彩華は義貴先生に出逢って一目惚れして、口説いて口説いて落とせなかったから俊明に矛先を変えたんだ。俺が横恋慕したわけじゃないし、先生が取ったわけでもない」
「え……義貴先生って、俊明さんの奥さんを取ったんじゃなかったの?」
淳史の方が先だったことより、義貴が簡単には彩華に靡かなかったと言われたことの方に驚いた。
「取ったわけじゃない。義貴先生は、彩華が俺とつき合っていたことを知っていたから断り続けていたくらいだからな。まさか、そのせいで彩華が俊明を口説くことになったとは思いもしなかったはずだ」
「先生が断ったから俊明さんを口説いたって、どういうこと?」
「義之のことも口説いたらしいからな。義貴先生が無理なら、せめて息子の方でもと思ったんじゃないのか?」
それで別れる破目になったはずなのに、淳史の口調は妙に淡々としていた。優生には些細なことですぐに腹を立てるのに、彩華に対しては随分と寛容なようだ。いつまで経っても、何もかもが、あの艶やかで美しい人には敵わない。
「でも……結局は俊明さんとも先生ともつき合ってたんだよね?」
「義貴先生は、俺が彩華と別れたから断り続ける理由が無くなったと思ったんだろうな。もちろん、彩華と俊明がつき合うことになったとは知らなかったはずだからな」
「先生も、淳史さんには気を遣ってたんだ?」
「まあ、知らないわけじゃなかったからな」
おそらく、淳史が省略したのは、どれほど彩華に思い入れていたのかを、という言葉だったに違いない。

「でも……本当は先生の方が好きだったんなら、どうして俊明さんと結婚したのかな?」
義貴が振り向いてくれたのなら、とっくに俊明は必要なくなっていたのではないのだろうか。
「俊明とつき合っていることが義貴先生に知れて、別れ話をされたんだそうだ。それで、彩華が開き直って脅しを掛けたらしいな」
「脅しって……誰に? どういうこと?」
普通に考えれば、二股をかけていた方が立場が弱いものではないのだろうか。
「義貴先生が別れるつもりなら、俊明に全部話すと言ったんだ。いくら知らなかったといっても、息子の恋人と関係を持ったなんてバラされたくないだろう? 先生が別れ話を撤回すれば、彩華も俊明に余計なことは言わないという約束で、続けることになったんだ。だから、俊明とつき合ううちに結婚の話が出ても、彩華は断れなかったんだろうな」
義貴を繋ぎ止めておくために息子と結婚するという思考が、そもそも優生には理解できない。優生には想像もつかないほど、彩華は恐ろしい人物だったようだ。
「でも、義貴先生も彩華さんのことを好きなんだよね?」
前に義貴に攫われた時、彩華に泣きつかれて優生に酷いことをしようとした、というような言い方をしていた。
「どうだろうな……情はあるだろうが、できれば解放されたいと思ってたんじゃないのか?」
「そうかな?」
「義貴先生があんな風に女に節操がなくなった一因は彩華にあるようだしな」
「そうなの?」
彩華の話は聞けば聞くほど優生を女性不信に陥れてしまいそうなエピソードばかりだと思うが、義貴に限ってそんなことはないだろう。ルックスにしろ職業にしろ、相手に事欠く要素はひとつもないが、それに加えて来る者拒まずな性格なのだから。

「先生は元から貞操観念は緩い方だと思うが、輪をかけてひどくなったからな」
「どうして?」
「彩華を複数の中の一人だと強調したかったんじゃないか? 彩華が特別だと思われないようにしていたようだったからな」
「遊んでいるように装って、本気じゃないってアピールしてたってこと?」
遊ばれかけた当事者としては、フリではなく好きで遊んでいたようにしか思えなかったのだったが。
「おまえが思ってるほど悪い人じゃないと思うが……割り切ってる相手としかつき合ってないしな」
「でも……」
では、優生も割り切れる相手だと思われたのだろうか。淳史とつき合っていることは知っていたはずなのに。
「おまえのことは誤解していたと言ってたんだろう? 義之からそう聞いたんだが、違うのか?」
「あ……そういえば、淳史さんも大変なのに捕まったんだろうと思ってた、って言ってたかも」
「一概に間違いとは言えないかもしれないな。俺も、おまえがこんな一筋縄ではいかないような面倒なタイプだったとは思いもしなかったからな」
まるで、優生が義貴に襲われる寸前だったことなど忘れてしまっているかのような、そろどころか相手に同調するような口調に、また釈然としない思いが湧き上がってきた。
結果的に大事には至らなかったが、優生がどれほど怖い思いをしたのか淳史は知らないのだろう。何かが起きたかもしれないと誤解されるのが嫌で、優生が平気ぶったせいで、淳史の義貴を信頼する気持ちは変わっていないのかもしれない。
そもそもの口論の発端をはぐらかされてしまったのは淳史の方だったのか、実は優生なのかはわからなかったが、いつの間にか、気を殺がれたように険悪なムードは去っていった。



- Nowhere To Go(4) - Fin

【 Nowhere To Go(3) 】     Novel     【 Nowhere To Go(5) 】  


紫ママも登場させたかったのですが、長くなってしまうので断念しました。
それにしても、紫とおつき合いした方が幸せになれそうな感じがするのは気のせいでしょうか……。
というか、どうしたら淳史と幸せになれるのか見失ってしまいそうな今日この頃です。