- Nowhere To Go(3) -



「美波(みな)……」
咄嗟に呼んでしまったのだろう、淳史の声の響きに含まれる慣れのようなものを感じて足を止める。
見たくはなくても、マンションの前に立つ背の高い女性の姿が嫌でも目に入ってしまう。一目で、淳史と関わりのある人だとわかった。そうでなければ、こんなにも鼓動がむちゃくちゃに走り出したりするはずがない。
窮屈そうな胸元を惜しげもなく晒しているのに、その白く柔らかそうな肌を正視することが優生には出来なかった。
くびれた腰から続く豊かなラインが淳史の好みを具現化しているようだ。淳史の言うところの色気があるというのは、こういう容姿を指すのだと思い知らされたような気がした。確かに、優生とは似ても似つかない。圧倒されて、身を隠してしまいたくなるほど。
「久しぶりね。全然声がかからないから出向いてきたわよ」
責めるような口調の中に、歓迎されることがわかっているかのような自信が窺えた。ハッキリとした目元や口角の上がったルビーレッドの唇には些かの気後れもない。
「俺は終わった相手は誘わないんだ」
素っ気無く返す淳史の言葉に、胸を押えずにはいられないほど鼓動が逸る。
つき合っていたことを認められたというより、もう終わっていることを強調されたのだと思えればいいのに。どうして自分はこんなにもネガティブなのだろう。
「固いこと言ってないで、早く部屋に案内しなさいよ。どれだけ待ったと思ってるの?」
「部屋には入れない約束だったはずだが?」
高飛車な物言いにも、淳史は気を悪くした風もなく静かに返す。それをどう取ればいいのか、優生には判断できなかった。

「じゃ、場所を変える?」
挑発的な言葉にすぐには答えず、淳史は優生を振り向いた。
窺うような眼差しに、決定権を振られたことに気付く。出来ることなら優生を除いて外で話してもらいたいと思ったが、正直にそう言うのは躊躇われた。
淳史の後ろから、急かすように向けられた視線に、優生は一番楽な方法を選んでしまう。
「……俺が外そうか?」
本心からの言葉に、淳史が過剰に反応する。瞬時に肘の辺りを掴んだ手の強さは、まるで優生が失踪するつもりなのだとでも思ったかのようだ。
「おまえが遠慮する必要はないからな」
その場に居たくないというのが本音だったが、そうと察してくれない淳史の気遣いが却って痛い。
腕を取られているせいで、二人から数歩下がるというわけにもいかず、淳史を挟んで反対側を歩く相手と、ほぼ三列で部屋へと向かうことになった。
「男の一人住まいにしては随分セキュリティがしっかりしてるわね」
「今は一人じゃないんだが」
先の淳史の言葉の通り、ここへ訪れるのは初めてらしく、興味深げにあちこちへと視線を向けている。値踏みしているようにも見えるのは、終わっているという淳史の言葉を認めていないからなのかもしれない。
初めて訪れた時には戸惑うばかりだった優生と違って、自分が過ごすことを視野に入れて観察しているのだろう。マンションの下見にも、ただついて行っただけの優生とは大違いだ。
玄関のドアを開ける前に、淳史は確認するように優生を見た。すぐには意味がわからず、軽く首を傾げる。小さく息を吐く淳史の心情など、優生には理解できなかった。
淳史は他人を自分のテリトリーに入れることを嫌うが、優生は誰が部屋に入っても殆ど気にはならない。それよりも、同じ空間に自分がいることの方がよっぽど我慢し難いと思った。


「奥に行ってるね」
小声で淳史に告げたのは、いつかのように優生に余計な疑惑や興味を持たれたくなかったからだ。
「おまえに聞かれて困るようなことは何もないから気にするな」
暗に席を外すことを認めないという強い口調に、寝室に控えることも出来なくなってしまった。
「じゃ、コーヒーでも淹れてくるね」
その場しのぎでもいいと、キッチンへ逃れる。コーヒーメーカーをセットして、少しでも時間を稼ぐために豆を挽くことから始めた。
コーヒーが入るまで、カップを用意してカウンターの内側のシンクに凭れかかるようにして待つ。ほど近い二人の、声を潜めているわけでもない会話は、聞かないように意識しているつもりの優生の耳にも届いてくる。
「淳史、そろそろ結婚しない?」
「そういや報告してなかったな、俺は4月にしたんだ」
「まさか、そこの色気のない人と?」
ちらりと優生に投げられた視線は、信じられないと言いたげだった。
淳史のつき合う相手はいつも、見た目だけでなく性格もきついタイプばかりだと思う。優生が知る他の相手のことを考えてみても、淳史は気の強い女が好みだということなのかもしれない。
「意外と色っぽかったりするんだが」
「淳史が若い子が好きだとは知らなかったわ。しかもオウトツのない平坦なボディに色気を感じるなんてね?」
「宗旨変えしたんだ」
「それで、ずっと声がかからなかったのかしら?」
「戻ってることも知らなかったからな」
「辞めたのよ、結婚しようと思って」
「それでわざわざ報告に来たのか?」
「いやね、淳史とに決まってるじゃないの」
何気なさそうでいて核心を突いたその一言に、優生の体中の血が引いていく。
足元が揺らぐほどの優生の動揺など知らない淳史の、至って平然と返された答えには心臓が止められるかと思った。

「断られた覚えがあるが」
「本気じゃなかったくせに」
「返事次第では本当にしてたと思うが」
軽く受け答えする淳史も、優生の存在を承知でそんなことを言う相手も、何もかもが理解の範疇を超えている。
あまりの衝撃に崩れそうな体を、シンクに寄り掛かるようにして堪えた。何かが溢れそうな口元を、掌で覆って俯く。
それに気付いているのか、淳史は一旦話を止めて、カウンター越しに優生の様子を覗きに来た。
「優生? いつまで隠れてる気だ? そんなに心配しなくても取って食いはしないと思うが」
「……ごめんなさい、ジャマになりそうだから」
「心配しなくても眼中にも入ってないわよ?」
どちらかと言えば小声で言ったつもりの言葉も、しっかり聞き取ってしまっている相手が怖い。しかも、優生の存在を全く気にも留めていないと言われて、自分の遠慮がただの自意識過剰だったことを思い知らされた。
「気にしなくていいからな、昔から自分勝手な女なんだ」
「淳史には言われたくないと言いたいところだけど……ちょっと会わない間に随分変わったようね? 前はそんな温い顔はしなかったもの」
「年がいくと丸くなるものだろう」
「淳史がそんな風に気を遣うところなんて見たくなかったわね。やっぱり、若い子とつき合うと疲れるでしょう?」
「いや、そうでもない。優生の方が気を遣うタイプだからな」
「気を遣ってばかりだと続かないわよ?」
それがただの嫌味ではなく、事実だということくらい、優生にもわかっている。

「美波(みな)はもう少し気を遣った方がいいと思うが」
「しおらしい女の方が良くなったとは知らなかったわ。淳史は本当に変わってしまったのね」
泣き出しそうに見えたのは一瞬で、ソファを立ち上がって淳史の傍に来る間に艶やかな笑みを作った。年齢のせいか、元からなのか、優生の持たない強さを湛えた相手が羨ましい。
「淳史の目が覚めるのを待ってるわ。今まで待ったんだもの」
ドアの方へ向かうように見えた体を、淳史はカウンターに肘をついて凭れかかった体勢のまま目で追った。
足を止めた相手は、淳史の肩に素早く手をかけて覗き込むように顔を近付けた。不意を突かれた淳史には、その別れの挨拶が避けられなかったらしい。
咄嗟に、見てはいけないと思って視線を逸らした。突き飛ばすわけでなければ引き離すわけでもない、相手の為すがままに受け止める淳史など見たくない。
「コーヒーはまた今度いただくわね」
別れの言葉は明らかに優生に向けられたもので、何と答えたらいいのかわからなかった。
淳史はともかく、優生にはもう会う必要はないはずなのに。
送り出すために出てゆく淳史の背を目で追いながら、その二人の違和感のなさに打ちのめされた。綺麗な人なのに、淳史と並んでも“美女と野獣”という感じはしない。今頃になって、その言葉が決して褒め言葉ではなかったことに気付いた。淳史と優生では、それほども差があるという意味だったのだろう。
なんとなく、リビングへ行く気にはなれなくて、シンクに凭れたままで淳史が戻るのを待つ。
ふいに、絶妙のタイミングで現れた理由に思い当たった。もしかしたら、淳史の母親に頼まれたのかもしれない。胸に湧いた疑惑は、すぐに確信に変わった。


「優生?」
「……え……あ、なに?」
重ねた手のひらの上に伏せていた顔を上げる。名前を呼ばれたことに気付くのが少し遅れた。優生は自分の考えに没頭していて、淳史が近くにいることさえ失念してしまっていたようだ。
目が合うと、淳史がひどく不機嫌そうに見えて戸惑った。ただ、この場合、怒るのは優生の役ではなかったのだろうか。
とりあえずキッチンから出て、カウンターの前に立つ淳史の傍に近付いた。大きな掌が額へと伸びてきて、前髪をくしゃりと撫でる。
「キスされたくらいで拗ねるなよ」
「そういうわけじゃ……」
拗ねていたわけではなく、先日のとはまた違った手強そうな問題に憂えていたのだったが。
それが反抗的に見えたのか、ますます淳史を苛立たせることになってしまったらしかった。
「俺は随分我慢してきたと思うが」
優生が落ち込んでいる理由をはき違えたらしい淳史の言葉が胸に刺さる。
「……そう、だよね。ごめんなさい」
それでも、淳史の言い分は尤もで。泣きそうな自分を叱咤しながら、優生はきちんと頭を下げた。
感情を抑えるようにひとつ息を吐く淳史に、胸の奥が軋む。抱きよせようとする腕に逆らう権利は、優生にはなかったことを思い出す。
「話すから、ちゃんと聞けよ?」
小さく頷いて、淳史の胸元へ顔を伏せる。この先、もし淳史が浮気したとしても、優生には拗ねることはおろか、責められるような立場ではないのだった。いつも、何度も、淳史に許されてきたのに。
低く、思いのほか落ち着いた声が優生の耳元で響く。その声に呼ばれる名前が自分以外の人のものだということも、優生の胸を締め付けるようだった。

「さっきの……坂本 美波子(さかもと みなこ)って言うんだが、俺より五つ年上で、ツアコンをしてるせいか一ヶ所に落ち着いたことがないような多忙な女でな、二年くらいつき合ってたんだが、いつの間にか仕事に取られたような感じで終わってたんだ。それでも時々、忘れた頃に連絡が入って近況報告をしてるような感じだな」
「そう……」
終わったと思っているのは淳史だけで、相手の方はそうではないようだと、優生にもわかるのに。
おそらく、紫の言うところの淳史がつき合っていた5歳年上の女性というのは冬湖ではなく、美波子のことだったのだろう。だから、目の当たりにした時、冬湖の時とは比べ物にならないほど優生の鼓動は激しく乱れたのだと思う。
「何か言いたいことはないのか?」
「うん」
「聞きたいことは?」
「ううん」
淳史の過去より重要な問題に直面している優生には、気遣われているのだということが理解できなかった。
「おまえのことは話したし、美波とやり直す気がないことも伝えたからな。何も心配しなくていいからな?」
ふと、淳史が“みな”と呼ぶことに違和感を覚えた。優生のことは“ゆい”とは呼ばないのに、その人のことは親しみを籠めて愛称で呼んでいたのだろうか。今まで、呼び難い名前を省略されずに呼ばれることを嬉しく感じていたことを忘れてしまうくらい、それは衝撃的なことだった。
「優生?」
「うん」
覗き込んでくる淳史と吐息が触れそうで、思わず離そうとした体が一層強く腕に捕らわれる。ついさっき、自分には拒否権はないと言い聞かせたはずだったのに、その胸から逃れたくなってしまう。
これ以上反抗的に映らないよう、優生は目の前にある事実から逃避するように目を閉じた。


寝室へと促されたのは、ソファに残る気配に気を遣ったからなのかもしれない。
少し乱暴に倒された無防備な体がベッドに沈む。逆らう気はなかったが、淳史は肩にかけた手に軽く体重を乗せてきた。
覗き込むように見つめられて瞳を上げる。諦めのせいか、自分でも不思議なくらい穏やかになれた。
塞がれた唇はすぐに貪るような激しさで深く重ねられてゆく。目を閉ざして、淳史に求められるまま従順に全てを委ねていても、胸の芯は静かに冷えていて、触れ合っている淳史の温度では温められなかった。
「ん……」
煽ろうとする手に素直に声を上げる。こんなに薄い胸でも、淳史の興味を引くのだろうか。あんなにグラマラスな体を見た後でも。
淳史の唇や指が体を滑る間中、あまりにも今更なことをただぼんやりと考えていた。
「優生」
苛立たしげな声に、伏せた瞼を上げる。ショックが大き過ぎると何も感じなくなるのかもしれない。
視線は合っているはずなのに、淳史の目に宿る感情を読み取ることは出来なかった。根深い人間不信は淳史さえ例外ではなく、薄い帳の向こう側にいるように不確かな輪郭しか認められない。
「あっ……ん」
それでも、どこか冷めた気持ちとはうらはらに、体は熱く蕩かされていたらしかった。体に馴染んだ愛撫は優生を容易く高みへと誘い、意識せずとも欲しくて堪らないかのように背が撓う。
「……優生」
訝しげな声に、焦点の合わない瞳を向けた。優生の胸の奥を覗こうとしているのだと気付いて、また目を伏せる。
「あっ……ぁんっ」
指の代わりに宛がわれたものが、いつものようにゆっくりと優生の中へ潜りこんでくる。掴まれた膝裏を押し上げられて、馴染ませるように中をかきまわされると否応なしに現実に引き戻されてしまう。
「何を、考えてる?」
「……ううん」
「嘘を吐くな」
「ほん、とに……何もっ……や、あぁっ……」
焦れたように強く、奥まで突き上げられて思考が飛ぶ。
けれども、どんなに熱く求められても、今は優生の胸の温度を上げることは出来そうになかった。



- Nowhere To Go(3) - Fin

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書いてて楽しくなかったというか、難産でした。
女の人が出張っているお話は苦手なのがもろバレですね。
たぶん、これが10話最後のHになると思います。