- Nowhere To Go(2) -



嫌な予感というのは外れた例(ためし)がない。
優生は呼び出されたホテルのロビーで淳史の母親の姿を見つけた時、直感的にそう思った。
濃紺のタイトなスーツに髪を纏めた少し固い装いが、きつい顔立ちを一層近寄り難いものに見せてしまう。そうでなくても気後れしている優生は、このまま踵を返して帰ってしまいたくなる気持ちを抑えるのに苦労した。
優生に気付いて軽く頭を下げる人は、ヒールの高さ分ほど目線が上にある。近付くほどに圧倒されてしまいそうで、思わず拳をギュッと握った。
「ごめんなさい、急にお呼びたてして」
「いえ」
「学校にも行ってないと言っていたから、昼間の方がいいと思って」
優生の勝手で行っていないわけではなく、淳史との約束を守っているからなのだったが。それは優生の行動に起因しているとはいえ、淳史の横暴ゆえに交わしたものだ。
「呼ばれれば、いつでも来ます」
「あなたのように若い人が、働くわけでもなく学校にも行かないで、ずっと家にいるというのは退屈でしょうね」
「俺は別に……」
嫌味なのかもしれないと気付いて、否定しかけた言葉を止める。だからといって、淳史が優生に制限をかけているのだとは言えなかった。
「こんな場所では落ち着かないし、コーヒーでも飲みながらゆっくり話しましょうか?」
面と向かって話したい相手ではなかったが、優生の想像が当たっていれば立ち話で済ませられるような内容ではない。外れていることを祈りつつ、カフェへとついて行くことになった。


「就職することは考えていないの?」
一息ついてから切り出された話は優生が思っていた類の内容ではなかったが、答えに窮することに違いはなかった。
「それは、淳史さんに相談しないと何とも言えないんですけど……」
「淳史がどう言おうと、自分のことでしょう? いくら未成年だといっても、甘え過ぎだとは思わないの?」
「……就職するように勧めていただいているということですか?」
「若気の至りで結婚の真似事のようなことをしても、後々困るのはあなたの方だと思うのよ」
それは、直に別れるに違いないのだから、自活できるようになっておいた方がいいということなのだろうか。
「考えておきます」
「悪いけど、あまり時間がないの。率直に言うと、淳史には普通に結婚して、孫の顔も見せてもらいたいと思っているのよ。結婚したい相手がいると聞いた時には嬉しくて、やっと親孝行する気になってくれたのかと思ったのに、まさか相手が男の子だなんて……」
感情を抑えるように言葉を切る相手に絆されて、喉元まで出掛かった謝罪の言葉をグッと飲み込む。謝ったら負けてしまうような気がした。
傍にいて欲しいと望んだのは優生かもしれないが、誑かしたわけでもなければ、泣き落としたわけでもない。籍を入れることにしたのも、そもそも優生を強引に手に入れたのも淳史の方だったのだから。
「淳史は昔から一度決めたことは曲げない性格だから、あなたの方から別れるように仕向けてもらえないかと思っていたんだけれど」
「……お約束しかねます」
もし優生から別れたいと言ったら、かねてから警告されている通り監禁や拘束という手段に出かねないだろう。或いは黙って消えるにしても、前に家出した時のことを思えば、無闇に迷惑をかけることにしかならないとわかっている。
「そう言われるのは仕方のないことだけれど……こちらに歓迎する気持ちがないことだけは知っておいて」
優生が思っていたような冷たい態度ではなく、諦めたように息を吐く姿に複雑な思いで頭を下げる。
先に席を立つ相手を見送ってから、優生も立ち上がった。
別れの気配はいつも、当人達以外の場所から漂い始める。けれども、長年離れて暮らした息子の機嫌を損ねるようなことは言いたくないという母親の気持ちも理解できる気がした。






「下見?」
テーブルの上に広げられたパンフレットは少し前に完成した分譲マンションのもので、今住んでいる場所にほど近い。むしろ駅から少し離れてしまうことを思えば、敢えて引っ越す意義は見出せなかった。
「前に義之が近くに住まないかと言っていただろう? とりあえず下見に行って、おまえが気に入れば決めようと思ってるんだが」
「引っ越さないといけないの?」
「いや、いけないってことはないんだが……そこは気に入らないか?」
「っていうより、ここは充分広くて駅にも近いのに、引っ越す必要があるとは思えないんだけど?」
見るともなくパラパラとページをめくってみても、高級そうな外観も最新の設備も、居心地の良いこの部屋以上に魅力を感じられなかった。まして、義之や里桜が近くに住むのなら、二人の時間は更に短くなってしまうような気がする。
肩が触れるほど近くにいるのに、淳史は優生の方を見もせずに低い声で呟いた。
「ここには、あまりいい思い出がないだろうが」
「え……」
淳史が何を気にしているのか、すぐにはわからなかった。
穏やかとは言い難いその表情に、優生がここで過ごした相手が淳史だけではなかったことに気付く。そういえば、引越しを持ち掛けた義之も同じようなことを言っていたことを思い出した。
「……ごめんなさい」
何度許されても、過去が消えるわけではないことを痛感する。いつもその後の態度を変えない淳史に、何も起こらなかったかのような都合の良い錯覚を起こしてしまっていたのかもしれない。

「それに、結婚したら新居を構えるのが普通だからな」
結婚を機に新居を構えるのは珍しいことではないのだろうが、何年か経って家族が増えたり、安定した未来図が描けてから実行に移す場合の方が多いだろう。優生に見せない内心で、淳史は苦いものを引き摺っていたのかもしれなかった。
初めて淳史と過ごしたのもここで、幸せな思い出も詰まっているはずなのに。
「……まだ、早いような気がするけど……」
「またこの辺りに新しく分譲が建つとは限らないからな。それに、義之と隣接して買うならタイミングを合わせないと無理だろう?」
「え、緒方さんの所とお隣になるの?」
「まあ、お互い近い方が何かと心強いしな。帰りが遅くなることも多いし、出張で留守にすることもあるからな」
それはつまり、緒方家の世話になったり、逆に里桜の面倒を見たりしないといけないということだろうか。近くと聞いただけでもいい気はしなかったのに、まさか隣だとは思いもしなかった。
自分でも意識しないうちに、優生は嫌な顔をしてしまっていたらしい。短く息を吐く淳史は、子供じみた態度を取ってしまう優生に呆れているに違いない。
「小さい子供じゃないんだからな、預けたり預かったりするわけじゃない。ただ、すぐ傍に誰かいると思えば心強いだろうが。まあ、体調が悪いとか特別な事情があれば頼むこともあるかもしれないが」
「……緒方さんも、こっちに来る方が便利なの?」
「今の所からだと学校が遠いんだろう」
「じゃ、里桜の家から出るためなの?」
「そのようだな」
つくづく、義之は里桜のことになると見境がなくなると思う。淳史も優生を甘やかせてくれていると思うが、義之のような直球ではないぶん、時としてわかり辛いことがある。
「それじゃ、待たせると悪いよね」
「そういうことだ」
優生はどこでも構わなかったが、どうしても下見に連れて行きたいらしい淳史につき合って現地に赴くことにした。






「……もしかして、緒方さんの所と同居することになってるとか?」
下見に訪れたマンションで、優生は冗談ともなく淳史に尋ねてみた。
家族が増える予定もないはずなのに、3LDKのマンションを買おうしている淳史が(もちろん義之も)理解できない。
「何で義之と同居なんかするんだ? 別々に決まってるだろうが」
「じゃ、親と同居する予定だったりする?」
「今の所、そういった予定はないが」
「……下宿でもするつもりだとか?」
「さっきから何なんだ? おまえと二人きりでしか住む気はないぞ?」
淳史は辛抱強く優生の問いに答え続けている。きっと、住む前から嫌な思い出を作るまいと思っているのだろう。
「淳史さんが買うものに俺が意見するのはどうかと思うけど……不必要に大き過ぎない? 二人で住む広さじゃないでしょ」
「そう何度も買い替えるようなものじゃないからな、後からもっと広い所の方が良かったと思っても遅いだろう?」
「それにしたって……広過ぎだよ」
二人なら、20帖を越えるリビングダイニングだけでも生活出来そうなほどの広さだというのに、寝室はともかく和室にゲストルームまで必要だとは思えなかった。
「掃除は大変かもしれないが。退屈する暇がなくていいだろう?」
冗談とも本気ともつかない口調に、わざとらしいため息を返す。
別に、手入れが嫌だというわけではない。ただ、まるでこれから家族が増えることを想定したかのような間取りが気にかかった。もしかしたら、優生と別れて新しい誰かとやり直すことを暗示しているのかもしれないと、思う自分は猜疑心が強過ぎるのだろうか。

「せめて小さな方にするとか……払っていくのも大変でしょう?」
部屋数は同じでもタイプはいくつかあり、もっと規模の小さな所でも充分だと思った。
「このくらいはないと、ピアノを置いたら寛げないぞ?」
「あ……ピアノ、置いてもいいの?」
「いつまでも俊明の所に預けっぱなしというわけにもいかないからな」
「ありがとう」
「納得したか?」
「でも……淳史さんて、そんなに高級取りなの?」
尋ねてもいいものかどうかずっと迷っていたことを、思い切って口にしてみた。
主婦業のようなことをしているとはいえ、優生は家計を任されているわけではなく、給料明細を見たこともなければ預金通帳を預けられてもいない。それは優生の希望で免れてきたことだったが、台所事情に興味がないといえば嘘になる。
「給料も安くはないと思うが、独立した時に遺産を相続してるからな。たぶん、おまえが思っているよりは持ってると思うが」
「それで金銭感覚がおかしいんだ……」
長い間の疑問が漸く解消して、思うだけに留まらず声に出して言ってしまった。
「おかしいか?」
「だって……」
普通、友人の恋人に新品のグランドピアノを贈ってくれたりはしないだろう。他にも、スポンサーになってくれると言ったり、家庭用品を一気に買い揃えたり、普通の30才にはそうそう出来ないことだと思う。
「別に無駄遣いしてるわけじゃないと思ってるんだが」
「ごめんなさい、余計なことを言って。ムリするわけじゃないんなら、俺がとやかく言うことじゃないし、淳史さんの思うようにして?」
「じゃ、ここでいいんだな?」
念を押されて頷いたが、なぜか優生がここに住む日を思い描くことはできなかった。



- Nowhere To Go(2) - Fin

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とことん不幸の匂いが漂う10話です……。
ハッピーまでは随分遠そうです。