- ドメスティック.W -



「ゆうちゃん?」
背後からかけられた覚えのある声に、足を止めて振り向く。
まだ可愛いという形容が似合う学生服姿の高校生は、半年ほど前まで紫がつき合っていた雛瀬(ひなせ)だった。
「ヒナ……」
「やっぱ、ゆうちゃんだー。久しぶり。元気だった?」
隣に黒田がいることを瞬間的に忘れてしまうくらい、抑え切れない懐かしさがこみあげる。
「変わり無いよ、ヒナは少し背が伸びた?」
「うん、どうにか170に届いたよ。ゆうちゃんに追いつくまであと5センチだよね?」
「ヒナは成長期だから、すぐに抜かれてしまうかもしれないね」
「うん。もうちょっと待っててね」
深く気に留めず頷いたが、取りようによっては思わせぶりな言葉だったかもしれない。
“じゃ、また”と、言うのだと思っていた唇が、会話を引き伸ばそうとする。
「ゆうちゃん、なんか雰囲気変わったよね?」
雰囲気が違うのは紫ではなく、一緒にいる黒田のせいだろうと思ったが、余計なことを言って突っ込んで聞かれるような事態は避けたかった。
「年相応に見えるようになったかな?」
「ううん、それはないけど。ねえ、全然誘ってくれないけど、忙しかったの?」
振られたのは紫の方のはずだったが、雛瀬の口調は責めるような響きを伴っている。
「ヒナこそ相変わらず忙しいんでしょ。そういえば一人って珍しくない?」
「うん、ちょっと思うところあって、みんな切っちゃった。あとは本命だけ」
意味有りげな瞳と含みをもたせた言葉で、雛瀬は誘いかけるように見上げてくる。子供っぽい容姿をしていながら、ふとした瞬間に色っぽい表情を見せられるのは以前と変わらず、紫は動じていない振りを装うのに苦労した。
「ごめん、ヒナ。このあと予定があって、ゆっくり話してられないんだ。ヒナも、もう遅いんだから早く帰らないとダメだよ?」
「俺、もうパチンコもアダルトもオッケーな年齢だよ? ゆうちゃん、俺を子供扱いし過ぎ」
つき合っている頃から何度も口にされた不満は、そのまま別れる理由になってしまったことを思い出す。それでも、危険な目に遭って欲しくないと心配するあまり、つい保護者のようなことを言ってしまう。
「でも、ヒナは可愛いから心配だよ、寄り道しないで真っ直ぐ帰らないとダメだからね」
「じゃ、また遊んでくれる?」
駆け引きめいた視線に戸惑いながら、曖昧な言葉で返事を濁す。
「また連絡するよ。携帯変えてない?」
「うん。しょうがないし、今日はその怖そうなおじさんに譲ったげるね」
挑発的な態度に冷や汗が伝ってきそうな紫の焦燥など、雛瀬には全く伝わっていないようだった。
よもや紫の隣にいる男とただならぬ仲になっているとは思ってもいないだろうが、本当のことを知られるのは恐ろしくて、笑いかける顔も引き攣ってしまいそうになる。
紫の心情を察したのか、黒田は雛瀬が遠ざかるのを待ってから口を開いた。
「昔の恋人、というところですか」
「まあ、そんな感じ?」
歯切れが悪くなってしまうのは、恋人だったというにはあまりにも幼い関係だったからだ。なにしろ、黒田と深い仲になるまで紫には生々しいつき合いをした相手は殆どいなかったのだから、黒田は様々な意味で初体験の相手と言えるかもしれない。
「恋人というより兄弟みたいに見えますが……紫さんはああいうのが好みなんでしたね」
言葉の端々から伺える、小馬鹿にされているような響きに、つい過剰に反応してしまう。
「何回も言ってるだろ、俺はキレイ可愛い系が好きなの」
「また“遊んで”あげるんですか?」
からかうような口調に、深い意味を勘繰られたのかと思った。
「あの子の言ってる“遊ぶ”は、カラオケとかゲーセンとかのことだからな?」
ムキになって言い訳するほど怪しまれるのではないかと、紫が焦るほど黒田は何も感じていないようだ。呆れるのを通り越して蔑まれているのではと不安になってしまうほど、黒田の視線は冷たい。
「それで、今時の中学生でもしないような幼いおつき合いで満足していたんですか?」
「……俺はね」
紫が可愛い恋人と別れる原因は大抵それだったのだから、疑われるのも、揶揄されるのも仕方のないことなのかもしれなかったが。




遅番の黒田に合わせて待ち合わせたのが夜9時で、食事が終わる頃には10時近くなっていた。
食後の一服を、なるべく外に向いてさっさと済ませるのは、見た目にそぐわず煙草を吸わない黒田に気を遣ってのことだ。
紫もそれほど多く吸う方ではないせいか、よく禁煙するよう勧められるが、ささやかなストレス解消を止める気は毛頭なかった。何しろ、紫は健康を害するより、ストレスで体を壊す方が心配な営業職なのだから。
そういえば工藤が煙草を止めたから風当たりが強くなったんだよなあ、と気付いたとき、ふいに頭上から降ってきた声に思考が中断させられた。
「あの……」
今日はよく声をかけられる日だと思いながら顔を上げる。
まるで紫がいることに気付いていないかのように黒田を窺う年齢不詳の男を目にしたとき、危うく煙草を取り落としそうになるほどの衝撃を覚えた。
何か事情があってのことなのかもしれないが、自分で鋏を入れたかのような髪はボサボサで、くたびれたTシャツにジャージ、足元は汚れたぞうり履きという格好は、紫の許容範囲を軽く逸脱している。
黒田の方を見ているということは知り合いなのだろうが、いくら悪食といってもちょっと酷いのではないかと思ってしまう。それとも、これは差別的思考だろうか。
瞬時に思いを巡らす紫のことなど、気弱そうな男の視界には入っていないかのように、黒田だけを縋るように見つめている。
「外から黒田さんが見えたから……」
舗道からガラス張りの店内に黒田を見かけたからといって、わざわざ中へ入ってくる男の心理を思うと、あまりいい気はしなかった。
「一人で出て来たんですか?」
「あ、あの……たばこを買おうと思って……」
黒田の事務的な冷たい口調に、男は途方に暮れたようにおどおどと口ごもる。とても大人の男らしからぬ態度に、黒田が小さく息を吐いた。面倒なことになったとでも言いたげな雰囲気に、紫の方が気を遣ってしまう。
「俺は構わないから座ってもらえば?」
つき合いの短い紫の知識で判断するなら、優生のように美人でもなく、稲葉のように気の強そうでもない、やや病的なその容姿や雰囲気は、黒田のタイプのようには思えなかった。
「いえ、そういうわけにもいきませんので……ちょっと外しても構いませんか?」
紫の気遣いを断ったことより、二人になりたがったことの方に驚かされる。
「……わかった。ここ済ませとくから先出て?」
「すみません、なるべく手短に済ませてきますので、少し待っていただいても?」
「いいよ、別に急いでないし。コーヒーでも飲んでゆっくりしてるな?」
漸く紫を認識したみたいに、男は軽く頭を下げて黒田と連れ立ってゆく。安心しきったような男と、その隣を歩く、自分のものだと錯覚していた男の後ろ姿を見送りながら、ため息混じりにぼやいてしまう。
「ちょっとくらいは気にしろよな」
どう考えても、黒田の言うところの“可愛い”にも“大人”にも当て嵌まるとは思えなかったが、だからといって“対象外”とも限らないのだろう。好みではないという紫とつき合っているくらいなのだから、口で言う以上に黒田の守備範囲は広いのかもしれない。
「ていうか、言い訳くらいしていけっての」
普段は続けて吸うことはあまりないのに、気付いたときには二本目の煙草に火を点けていた。



気分を落ち着かせてくれるはずの煙草も、半時間も待たされていれば効果が薄れてくる。ましてや、手持ちが切れてしまえば、気安く煙草を買えないご時勢では余計に苛立ちが増す。
そんなにかかるんなら待たせるなよ、と胸で毒づきながら、場所を変えようかと迷っているとき、音を消した携帯がテーブルの上で震えた。
気を落ち着かせるために一度深呼吸をしてから通話ボタンを押す。
「遅いー」
意識して軽めのトーンで応える紫に、黒田の声はいつも以上に生真面目だった。
『すみません、思っていたより時間がかかっていて、そちらに戻れそうにないんです。すみませんが、今日はもう帰っていただけますか?』
「俺は遅くなってもいいけど? まだ一緒?」
『いえ、一緒というわけではないんですが……すみません、あまり時間がないんです、戻れないと伝えたかっただけですので』
すぐにも電話を切りたがる黒田に、抑え込んだつもりの疑惑が頭を擡げる。自分では沸点はそう低くない方だと思っていたが、湧き上がる衝動は殺意にさえ似ていた。
「あんたがそんな世話を焼かなきゃならないような関係?」
そんな妬いているような言い方はしたくないのに、どう言葉を選んでもその事実を隠すことは出来ない。
『そうですね……面倒を見るのが仕事のようなものですから』
「連れを放っていくほどの重大事?」
暗に深い仲だと認められたようで、つい嫌味な言い方になってしまった。
『すみません、非常事態でしたので』
「それなら電話もしてくるなよな」
自分では制御できないくらい、頭に血が上ってしまっていた。言い訳する気がないのなら、何のフォローにもならない。待っているように言った手前、連絡してきたのだろうが、その律儀さがますます紫を苛立たせた。
『すみません。遅くなるかもしれませんが、一段落したらもう一度連絡しますので』
「いい、寝入ってから起こされても困るし。じゃあな」
まだ何か言いたそうな気配を感じながら、一方的に通話を終わらせる。どんなにバレバレだったとしても、曲がりなりにも5つも年上の自分が、みっともなく問い詰めたり喚き散らしたりするような事態にだけはなりたくなかった。






珍しく土曜に休みが合うとわかっていたのに、自ら進んで休日出勤を買って出たのは、ただ黒田に会いたくなかったからだ。わざわざ連絡を取らなくても、休みが合えば黒田の所に行くのが習慣のようになっていて、会わないためには仕事に行くしかなかったのだった。
さすがに痺れを切らしたのか、11時を回ったところで黒田の方から電話がかかってきた。出勤になったことを伝えていなかったから、朝が弱い紫を気遣ってのタイミングだということまでわかっているのに、素っ気無い態度しか取れそうに無かった。
「悪い、急に出勤になって会社にいるから。今は話してる時間ないし、また後で……」
即行電話を切ろうとする紫の思いに気付いてか、黒田はいつもより早い間で言葉を継いだ。
『声が掠れているようですが、風邪でもひきましたか?』
「喉が痛いだけ。たいしたことないし、今日は休めないから」
一昨日、黒田にフラれて家に帰って深酒をしてフテ寝をしたせいだと、思い出すとまた沸々と怒りが湧き上がってきそうだ。
『早めに切り上げられないんですか?』
「ムリ。新規で大きいの取れそうだから。見積もり作る前の調査とか結構大変なの。今日は丸一日かかりそう」
『……帰りは来られますか?』
「今日はやめとく。あんた、明日は早出なんだろ?」
『顔を見せるくらい、構わないでしょう?』
「でも、終わったら軽く飲んで晩飯つき合うから遅くなるし、また今度な」
『それも仕事ですか?』
普段は穏やかな黒田の、電話越しに伝わる怒気のようなものに怯んでしまう。明日は休みで、飲んで帰るのは暗黙の了解のようなものになっていて、けれども、それを仕事かと問われると咄嗟に肯定することは出来なかった。
「そういうわけじゃ、ないけど……」
『それなら迎えに行きます。何時頃になる予定ですか?』
「何時っていう約束はムリっぽい。なるべく早く切り上げてそっち行くから、迎えはいい」
『言えないような場所じゃないでしょうね?』
有無を言わせない口調に、あっさり降参してしまう。情けないと思いながら、つい場所と時間の目安を白状してしまっていた。






「だから、そんなヘンな意味じゃないって言ってるだろ。ふらついたから支えてもらっただけだし」
酔って男を誘うほど発情しているんでしょう、などと言われたにも拘らず、なぜか紫は怒りもせずに言い訳をくり返していた。
路上に停めた車へと連れ込まれながら、何事かと訝る連れ達に何でもないからと手を振って別れる。
紫の辞退を無視して迎えに現れた黒田に、折り悪く他の男にしがみついているところを目撃されたのは間が悪いとしか言いようがなかった。そもそも、店の前まで来ているという黒田からのメールに焦って躓いたようなものだったのだから、責任はむしろ黒田の方にあると思うのだったが。
ただでさえ悪目立ちする黒田を、以前得意先の警護として社内に出入りしていた男と同一人物だと気付かれる可能性は高く、紫が動揺するのは当然のことだった。もし、それが紫の親しい同僚の耳に入ればどんな不興を買うか、最悪の場合には紫まで絶縁される可能性も無くはない。
そんな風に気を回したのだとは欠片も伝わっていないらしく、黒田は低いエンジン音を響かせて車を発進させた。少し飲み過ぎの紫が、荒い運転に別の意味でも酔うかもしれないとは思いやってくれないらしい。
「また風邪薬を飲んでるんですか?」
「え、何でわかんの?」
「懲りない人ですね」
「……何が?」
わけのわからない紫に、黒田はちらりと蔑むような視線を向けた。
「ピリン系の風邪薬とアルコールを一緒に取ると、どちらの効き目も鈍るんですよ。特にあなたはその傾向が強いようですし。回りが遅いからと飲み過ぎて、また誰かに“お持ち帰り”されたいんですか?」
よもや自分が仔猫になり得るとは微塵も思いもしなかった紫を、テイクアウトして飼い慣らした張本人に言われることだけは我慢ならない。
けれども、そう言い返すのは余計に悔しくて、何も言えずにサイドガラスの方へ顔を背ける。囚われの身の紫が今できることは、なるべく逆撫でしないようおとなしくしていることだけだった。



黒田の家に着くや否や、紫は寝室へと連れ込まれていた。
ドアを入った所で、背後から抱きしめられた体は熱く、遅れて回り始めたアルコールが紫の動作を鈍らせる。
抗う間もなくシャツのボタンが外されて、荒い手付きで肩が剥き出しにされてゆく。露になった項から首筋へと辿ってゆくキスと、胸元を這う手が紫の息を乱す。
反らせた喉のやや低いところに、きつく、跡が残るほどに口付けられて、堪らず黒田の短い髪を掴んだ。酔って感覚は鈍っているはずなのに、唇はやけに生々しく、疼くような感覚を全身にばら撒いてゆく。
「……も、やめろって」
止めようにも体に力が入らないばかりか、油断すると勝手に甘い声が洩れそうになる。
「声、聞かせてください」
「何の話を、聞きたい……っ」
堪えようと思うほどに体がいうことをきかなくなるようで、耳の後ろを擽るように囁かれると頭がぼんやりと霞んで、なのに感覚だけは敏感になってゆくような気がする。
「今は話すより可愛い声で、いっそ泣いて欲しいんですが」
「だから、俺は可愛くなんてない、て……あ、ああっ」
いつの間にかベルトが外されて緩められた前立てから忍んだ手が、紫のものに絡んで優しく扱く。
身を捩った反動でスラックスが足元へと滑り落ち、うろたえる紫を更に追いつめるように下着が下げられ、抜き取るために膝を掴まれる。
「ヤだ、って……」
抗う素振りを見せたせいか、黒田の手は一層深く紫を捕らえ、敏感な先端を指先でなぞった。
「ん、あっ」
あくまで優しく扱おうとする手が、いっそもどかしい。
悪態を吐く余裕はもう無く、黒田に預けた背を撓わせて、浅く喘いだ。
「ひ、うっ……」
いきなり紫の中へと入ってきた指に、腰が砕けそうになる。唐突さに驚きはしたものの、不快ではなかったことが自分でも信じ難い。
「あっ……ああ……っ」
前のめりに倒れ込んでしまいそうな紫の腹に回された腕が黒田から逃れることを許さず、中に埋められた指がさんざん奥までかき回す。熱を帯びた体は抗う振りさえ出来ず、痙攣するように何度も跳ね上がった。
「嫌がっているようには思えないんですが」
「なっ……」
反論しようにも、初めの頃のような抵抗がなくなってきたのは事実で、自分が思っていた以上にスムーズに指を受け入れてしまっている。あともう少し、時間をかけて解されれば、紫の腰に押し付けられた黒田の硬く猛ったものも苦もなく迎え入れてしまえることは明らかだった。
「だめ、待って……」
「まだ焦らされたいんですか?」
意地の悪い声が、紫の首筋を舐めるように囁く。
強い腕に、密着したままの体を壁の方へ向くよう押し付けられて、紫の腰が強く引き寄せられる。
「ああっ……」
苦もなく紫を思い通りにする黒田の手管の前では、紫の反抗など仔猫の爪ほどの威力もないのかもしれない。
まるで思い知らせようとするかのように、黒田は紫の体を容易く奥まで開き、熱く滾ったものを埋めた。
緩く引いては深く突き入れ、紫の反応を確かめながらピッチを上げてゆく。
「は、ぁっ……あ、ぁん……」
快楽に支配された思考は飛んで、掠れた声を洩らしながら、ただ黒田の動きを追う。痛みなどどこにも見つけられず、突き上げられるたびに体は離したくないと言わんばかりにきつく、深々と埋められたものに絡みついた。
激しい揺さぶりにふっと意識を飛ばしそうになりながら、震える指で壁へ縋る。
いいように抱かれて有耶無耶にされてしまうことを望んでいるのは紫の方なのかもしれなかった。



「……少しは気が晴れましたか?」
紫の項に、少し荒い吐息がかかる。
年下のくせに、紫を立ててやろうなどという気は微塵もない、見た目通りのふてぶてしい男は、優位を確信して益々余裕をかましているようだった。
まだ自立する元気のない紫は、背後から腹へ回された黒田の腕に支えられるまま、ぐったりと凭れかかる。
「……それは、あんただろ?」
「そうかもしれませんね。まさか、あなたが私にお預けを食らわせておいて、他の男を誘うとは思ってもみませんでしたから、理性の箍が吹っ飛んでしまいました」
「だから、誘ってないから。それに、今日は急ぎの仕事が入ったんだから、しょうがないだろ。大体、先にキャンセルしたの、そっちだし」
「その件については謝ったでしょう? まさか、“あれ”に妬くとは思いもしませんでしたから」
「別に妬いたわけじゃ……ていうか、あんた、自分の知り合いにそんな言い方、失礼だろ?」
自分も初対面で失礼なことを思ったことは、この際棚上げだ。
「こんな嫌味なことをしなくても、素直に妬いたと言えないんですか?」
よもや開き直られるとは思わず、他の男とのことを隠そうともしない黒田に、怒りを通り越して悲しくさえなってくる。
「……あんたが、ヤりたい時にヤれなきゃ他で済ますってのはわかってる」
「我慢の限界を超えたら、他で処理するのは仕方のないことだと思いますが。あなただって、一月も放っておかれれば他に目を向けるようになりますよ」
要するに、浮気はするのもされるのも気にしないということなのだろう。フォローどころか、浮気を容認するよう念押しするための行為だったということらしい。そうとも知らず、簡単に流されてしまった自分の愚かさに腹が立つ。
「一ヶ月も放っておかれたら、振られたって思うのが普通だろ」
「ですから、あなたとはこうしてマメに機会を作っているでしょう?」
「俺じゃなくて自分のためだろ?」
「否定はしませんが、単に寝るためだけじゃありませんよ? それなら元から不自由していませんし、割り切れる相手も知っていますから」
紫のこともそういう人種だと思って手を出したのだろうが、黒田の方針を許容するつもりはなかった。仮に浮気相手はそうだとしても、肝心な本命の方が黒田の言う“大人”にはなれないことに何故気付かないのだろう。
「あんたの言い分はわかったよ。でも、それが誰にでも通じると思うなよな」
「やらせないなら、そこには目を瞑るべきでしょう?」
“チャラい”などという形容をよくされてしまう紫だが、見た目よりはよっぽどモラルがある方だと思う。少なくとも、紫の好む可愛い未成年とは、プラトニックな恋愛しか出来ない程度には。
かけ引きのような言葉で、いつも比喩ばかりの黒田の真意を測るのは難しい。だから、“足りないと思わせない程度にやらせておけ”なのか、“足りないと思ったら浮気するのは当然だ”なのか、それとも、全ては大義名分に過ぎず、結局は浮気するということなのか。
黒田の胸に預けていた頭を起こし、腹に回された腕を外す。自分の足で確り立って、表情の読めない黒田を振り返った。
「……あんた、俺のこと何だと思ってるんだ? ヤリたい時に簡単に呼び出せて、何でも思い通りにできる相手? 煩いことを言わない割り切ってつき合える大人?」
「すべて満たしてくれる人だと思ってますよ」
てらいもなく言い切るあたりが本気ではない証のようで、その言葉を受け止めるのに少し時間がかかった。
今のところ、紫は黒田の興味を一番引いているのかもしれないが、目新しい相手が見つかれば、足が遠のいてゆくのだろう。ただ便利の良い、後腐れのない相手だと思われているのなら。やらせなくても執着していた前の恋人のように好みの容姿でもなく、今それなりの愛着を抱いているだけなのだとしたら。

三十路に入ってから、時として考え込んでしまうことがある。
結婚するという可能性が皆無だからこそ、特定のパートナーを見つけるべきなのかもしれない、ということだ。今はまだこうやってフラフラと自由に遊んでいられても、ずっと先のことを思うと、やはり一抹の不安と物悲しさを感じずにはいられなかった。
不毛なつき合いを続けるより、どこかできっぱりとした態度を取るべきなのかもしれないと思い始めている。
「いい加減、大人になってくれませんか?」
黙って考えごとに耽っていた紫を煩わしく思ったのか、黒田は小さく息を吐いた。
くり返し紫を大人ではないと言う黒田に、抑えていたものが溢れてきそうになる。ずっと黒田の望むように接してきたつもりなのに、まだ不満があると言われてしまう自分は本当に黒田の興味を引いているのか。
「……俺、そんな子供っぽい?」
「聞きたいことがあるなら素直に聞けばいいでしょう? 自分に都合の悪い答えが返ってくるかもしれないことがそんなに怖いんですか?」
「俺に都合の悪い答えって何だよ? あんたに他にも相手がいるとか? そっちが本命とか? そんなの聞きたがる奴がいんのかよ?」
「そういうことを言ってるのではありませんよ、そういう風に感情的になって貰いたいわけではないんですが」
「あんたこそ、こんなまどろっこしい言い方しなくても、俺に飽きたとか面倒くさくなったんならそう言えばいいだろ」
冷静に返したいと思うのに、上擦る声がますます紫を不利にさせる。
「意外と面倒な人だと思っているのは事実ですが、飽きたりしませんよ」
いちいち余裕をかます相手が、心底憎らしく思えてくる。なのに、どうして振り切ってしまうことが出来ないのか、思い切れない自分が一番歯がゆい。
「……一途だって言ったくせに」
「事実ですよ、自分でも驚くくらい一途だと思ってるんですが」
「あんたの定義と俺のとじゃ、意味が違ってるんだろうな」
それを責めたところで、考え方を変えることは出来ない。紫が黒田に合わせることが出来ないのと同じで。
体に籠もる熱が引いてゆくにつれて、頭の中も冷めてゆく。許すか許さないかではなく、その貞操観念を受け入れられるかどうかを考えれば、答えは最初から決まっていた。
たとえ紫が本命でも、一人では満足できないというのなら切り捨ててもらった方がいい。惜しむ程度には執着されているのだろうが、何人かのうちの一番になるより、軽いつき合いでもただ一人でいたい。
突き詰めれば平行線になるとわかっているのに、これ以上、水掛け論に無駄な労力を費やしたくはなかった。



「紫さん?」
問うように名前を呼ばれても、別れの言葉を言う気にはならなかった。
身支度を整え終えた紫が黒田を振り向くより先に、背後から肘を引かれて、支え切れない体が黒田の胸元へと倒れ込む。
まだ話すことがあるのかと、言葉にする代わりに黒田の顔を見上げる。なぜだか動揺して見えたのが不思議で、じっと見つめてしまった。
「……泣いているのかと思いました」
「何で?」
「すみません、こう見えて心配性なんですよ」
腕に閉じ込めるように抱きしめられて、つい邪険なもの言いになってしまう。
「離せよ、もう遅いだろ」
「帰しません。こんな状態で別れられるわけがないでしょう」
不穏な空気を黒田も感じているらしく、抱き止める腕は振り払えないほどに力強い。
「……あんたが思ってるほど子供じゃないから。心配しなくていい」
最初から、ただの好奇心だったことなど知っている。予定外に深入りし過ぎて少し距離を取りたいと思われているのなら、ヘタに気を遣わなくても、いつでも離れるのに。
「大人の方が面倒なこともあるようですね」
こんなにも譲歩しているのに、まだ面倒だと言われてしまう紫には、いつまで経っても黒田の恋人役はこなせないだろう。そもそも、黒田に望まれているものが体の他にないなら、こんな風なつき合いをする必要もないはずだった。
抱きしめてくる腕に逆らうことを諦めて、黒田の胸元へと身を預ける。首筋へと落ちてくる唇に喉を晒すと、黒田の腕が緩まり、確かめるように掌が体を辿ってゆく。
振り向かせて口付けようとする黒田に、従う振りで両手を伸ばす。体ごと向きを変えて、黒田の首へと回した手を強く引き寄せながら、膝で蹴り上げた。
僅かに怯んだ隙に、黒田の腕から抜け出して、一目散に玄関を目指す。最初から、そうしていれば良かったのだろう。紫のタイプとはかけ離れたこんな男に囚われてしまう前に。
「紫さん」
そんな切羽詰ったような声を聞くのは初めてだと思う。引き止められる理由など、今は知らなくても構わない。ともかく逃げなくてはいけないと、黒田のダメージなど顧みずに走った。
もう少し、と思った矢先に、強烈なタックルを受けて倒れ込んだ。
「……って」
細身の紫からすれば、黒田の巨体に体重をかけて押え込まれるのは危うく圧死させられるのではないかと心配になるほどの事態だ。
「よりによって膝なんて入れて、私が不能になったらどうするつもりですか?」
「入ってないだろ、俺、こういうの苦手だし。それに、あんたは少し弱くなったくらいが丁度いいんじゃないのか」
「まさか、私が不能になったら逃げられるなんて思ってるんじゃないでしょうね?」
「あっ……」
羽織っただけの上着を抜かれ、ついさっき着たばかりのシャツが引き出される。器用にベルトを緩め、ボタンを外しジッパーを下げる指の、あまりの手際の良さは呆気に取られてしまうほどだった。
「いい加減、機嫌を直してくれませんか? 私だって手荒なことをしたいわけじゃないんです。おとなしく、私の腕の中でいてください」
「嫌だ……って」
言い終えないうちに背骨が軋むほどに抱きしめられて、噛みつかれそうに首の後ろから口付けられる。痛いほどに吸われて、いくら紫の髪が長めでも、すいた襟足から覗いてしまう位置に跡を残すような濃いキスだ。
「あ、跡……つけんな」
「マーキングされるのが嫌なら、他の誰にも流されないと信じさせてくれませんか? あなたは晩成だったぶん、子供以上に始末に負えませんから」
所有の印など付けたがるタイプだとは思っていなかっただけに、そんな決まり事があったわけではないのに、まるでルール違反をされたような気にさせられた。
「いい加減にしろよな、俺にとやかく言えた筋合いじゃないだろ? あんた、俺にヤリたい放題ヤってるくせに、他のヤツも食ってんだろ?」
こんな風に責める自分は、みっともなくてウザいとわかっているのに、どうしても気が治まらない。
「あなたの他には誰とも寝ていませんよ、だから3日と空けずお誘いしているでしょう?」
「ついこの間、俺を放っぽって他の男を連れていっておいて、そんな白々しい嘘が通るとでも思ってんのかよ?」
背中越しに伝わる黒田の強気が不意に翳る。それが正論だから言葉に詰まったのだろうと確信したのに、黒田が僅かに身を震わせたのは、笑いを堪えようとしていたかららしかった。
「……この間会ったのは、私の勤務する病棟の患者さんです。離院して戻れなくなっていたところで、偶々私を見つけて頼ってきたんですよ」
「リインって何?」
「入院患者さんが許可なく病院を離れることです。閉鎖の患者さんでしたから放っておくわけにもいかず、已む無く保護しただけで、あなたをないがしろにしたつもりではなかったんですが」
張り詰めていた気が一度に抜けてしまったようで、紫は自分の体を支えることも面倒になって床へと突っ伏した。
「だって、あんた、そんなこと一言も……」
初めにそう言ってくれていれば、こんな情けない姿を晒すこともなかったのに。
「守秘義務があるんですよ、そのくらい察してくれませんか? これだけ個人情報保護と言われているご時勢ですから、本当はたとえ身内にでも、こういうことは話してはいけないんです」
「え……そんな、ご大層なもんなの?」
まだ意味がわからず、紫は肩越しに振り向いて黒田を見た。
「精神科に通っているとか入院しているとかいうのは人に知られたくないものですから、外で会ってもこちらからは挨拶もしません。ですが、一昨日は一人で外に出るはずがない閉鎖の患者さんでしたから放っておくわけにはいかなかったんです」
「あんた、精神科に勤めてんの?」
「そうですよ。引きましたか?」
「そんなことはないけど……ちょっとビックリした」
「私は特に気にならないんですが、偏見のある方もおられますから、話すのに少し躊躇ってしまいました」
紫にもそういう偏見があるかもしれないと思われたのだろうか。
「俺、そういう差別しそうに見えた?」
「いいえ、そうではありません。あなたがどうというのではなく、私が柄にもなく怖気づいてしまっただけです」
「何で?」
「ですから、もしあなたに引かれたら、と思ってしまったんですよ」
「やっぱ、俺って信用ないんだな」
「違うと言っているでしょう? 疑り深い恋人を持つと本当に苦労しますね」
さらりと黒田が言ったフレーズに、耳を疑うような言葉が含まれていたことに驚かされる。
「……恋人って、まさか俺のこと?」
「まさかってことはないでしょう? 本命だと何度も言ったはずですが、まだ認めないつもりですか?」
認めるも何も、黒田がそういうつもりで紫とつき合っているとは思っていなかった。
「俺で妥協する気になった?」
「妥協なんてしていませんよ? あなたの、流されやすいようでいて一筋縄でいかないところなんて、たまらなくタイプですし」
囁くような静かな声が耳を擽り、肌を滑ってゆく指が紫の鼓動を荒れさせる。
「……あんたって、変わった趣味してるよな」
「そんなことはありませんよ。多少マイナーかもしれませんが、趣味はいい方だと自負しています」
「あんたの基準、おかしいから」
身に纏うものと一緒に、ささやかな反抗心まで落とされてゆくような気がする。褒め言葉だと素直に喜べるような性格をしていたら、黒田のタイプではないと言われているのに。
「私には勿体無い人だと思っていますが、逃がしてあげるつもりはありません」
誤解が解けたところで心置きなく二回戦に突入しようとする黒田を、手遅れになる前に引き止める。さっきは壁際で立ったまま、今度は玄関先の床でなんて、まだまだ初心者の紫には耐えられない。
「……とりあえず、ベッドに行かない?」
免れることが無理なら、せめてベッドの上がいいと、紫は黒田を寝室に誘った。明日は早出のはずの黒田が、羽目を外さないよう祈りながら。



- ドメスティック.W - Fin

【 V 】     Novel      【 X , -前編 】  


精神化には、解放(病棟)と閉鎖(病棟)があります。
解放/患者の意思で病院内を自由に行動できる。許可があれば外出もできる。持ち物の制限が少ない。
閉鎖/患者だけで病棟内から出ることは出来ない。所持品にもいろいろ制限がある。

あと、長くなってしまったので、雛瀬との件はもうちょっと次回以降で触れることにしますー。