- ドメスティック.V -



「え、正月休みもないの?」
何気に年末年始の過ごし方を尋ねた紫は、当然のように仕事だと返されて驚いた。てっきり、黒田の方が紫と過ごす気でいるものと思い込んでいたのに。
「入院患者さんがいますから、職員が一斉に長期休暇を取るというわけにはいかないでしょう?」
「それは、そうかもしれないけど……」
未だに黒田がどこの病院に勤務しているのかすら聞かされていないような状態では、勤務形態を把握していろという方が無理な話だと思う。
立ち入ったことは紫から尋ねてもいいものかどうか判断がつかず、黒田から語られることも殆どなく、つき合っていると言いながら、知らないことが多過ぎた。
「そんなに心配しなくても、31日は一緒にいられますよ? 上手い具合に夜勤明けですから、年越しは一緒にしましょう」
さも紫が一緒にいたがっているかのような言い方には腹が立つが、また急な呼び出しでもあったらと思うと、キープしておきたい気持ちの方が勝ってしまった。




黒田の夜勤明けに会う日には、紫も夜明かしして待つことが多い。
黒田の部屋でDVDを見たり、ネットサーフィンに没頭したり、たまには持ち帰った仕事を片付けたりと眠ることはまずなかった。そうして、仕事から帰った黒田が風呂に入ったあと、一緒に朝食を摂って抱き合って眠るパターンが出来上がってしまっている。
今日もそうやって過ごすのだとばかり思っていたのに、突然の来客が、ささやかな日常を壊してしまった。
応対に出た黒田よりも先にリビングへ飛び込んできた男は、紫を見つけるなり全身に殺気を纏った。
「また連れ込んでやがる」
今にも殴りかかってきそうに近付いてくる相手に、どう対応したものか迷う。その肩越しに黒田を窺ってみても、ため息を吐く心情は読み取れなかった。
「稲葉さん、誰彼構わず喧嘩を売るのはやめてください」
「何で、俺のために引越した部屋に他の男を連れ込んでるんだよ? 少しは反省してるかと思ってたのに」
薄々感じ取ってはいたが、この男が黒田と喧嘩したまま海外に行ってしまったという恋人なのだろう。優生に忠告された時にはただの杞憂だと気にも留めなかったが、こうして目の当たりにして初めて自分の間違いに気付かされた。黒田の態度がどこか遠慮がちに見えるのも、それなら頷ける。
「稲葉さんが終わりにすると言ったんですよ」
「あんた、そんな諦めのいい性格だったか?」
紫を無視して始まった痴話喧嘩の、火の粉が飛んでこないうちに一先ず退散しようと思った。コートと携帯を手に、そっと部屋を抜け出す。
「待てよ」
紫のことなど眼中にないと思っていたが、見咎められて已む無く足を止める。
「人の恋人に手を出しておいて、挨拶もなしか?」
はっきりと、自分こそが黒田の恋人だと言い切られて、何を言えばいいのだろう。本命が戻ったのなら紫はお払い箱ということで、わざわざ修羅場に参加する必要性は感じられなかった。
とはいえ、それはあくまで紫の都合で、見た目以上に血の気の多そうな相手は、返答次第では殴り合いも辞さないと言わんばかりの顔をしている。
幸い、紫は今日もカッターシャツにスラックスという格好で、ビジネスを装えなくもなさそうだった。
「……勝手に決め付けないでください。こちらから手を出した覚えもありませんし、その人とは無関係ですから」
「じゃ、何でこんな朝っぱらから部屋に上がり込んでるんだ?」
「単なる保険の営業です。夜勤の後でお会いすることになっていましたので」
値踏みするように眺められるのはひどく不快だったが、それもほんの数秒で、納得したのか視線が外される。
「体張ってるんだな。ごくろうさん。こいつの趣味じゃなさそうだし、見逃してやる」
つまみ食いの、しかも未遂だと思ったらしい稲葉は、少し気持ちを落ち着かせたらしかった。対照的に、黒田の態度に険が混じる。
「そんなに怒るくらいなら、どうしてすぐに連絡してくれなかったんです?」
「すぐ連絡してやったら罰にならないだろ」
その間に、可愛い愛人とセフレ紛いの相手を次々と作ってしまった黒田が、僅かも反省していたとは考えられなかったが。
「だからといって、いきなり現れて関係のない人にまで絡むのはやめてください」
関係のない人とまで言われてしまう自分が情けなくて、ふっと何もかもをぶちまけてしまいたくなる。手を出されたのはこっちの方だと、それどころか黒田は本命のいない間にこの部屋で愛欲に塗れた生活を送っていたというのに。
軽く息を吐いて、湧き上がった衝動をやり過ごす。そんなことをしても、自分が哀れになるだけだ。
声はかけずに、軽く頭を下げて背を向ける。もうこれ以上、一秒だって居合わせたくなかった。
「稲葉さん、少しだけ待っていてください。下まで送ってきますから」
「……しょうがないな。そいつには悪いことしたみたいだし、特別に許す」
一体何様なんだ、と言いたくなる思いを押し留めながら、玄関へ急いだ。
黒田を置いて先に外へ出ると、ホッと大きな息が口を吐く。すぐに後を追ってきた黒田に促され、並んで通路を歩き始めた。言いたいことは山ほどあるような気もしたが、今は話しかける気にはなれず、重苦しい空気に包まれてしまう。
部屋から離れ、階段を降り始めると、黒田が低めた声で切り出した。
「すみません、突然のことで正直私も戸惑っています。少し時間をいただいても構いませんか?」
「俺に気を遣う必要ないだろ? 遠慮しないで思うようにすれば?」
「あなたという人は……本当にすげない人ですね。わかっていても落ち込んでしまいそうですよ」
落ち込むのはこっちだろ、と思いながらも口にはしなかった。最初から好奇心と性欲だけで紫を試し、キープしておこうとしたような男に、良心も情も期待していない。
「……今なら、本懐遂げられるんじゃない?」
余計な一言だと思ったが、抑えられなかった。
「かもしれませんね」
あっさりと肯定する黒田にかける言葉は、もう思いつかない。階段を降り切ってしまった紫には、足を止めておく理由がなかった。
そのまま車道へと一歩を踏み出しかけた紫の肘が掴まれて引き止められる。
「それにしても、無関係だなんて、よくまあ厚かましいことが言えましたね」
「あんただって“関係ない人”って言っただろ」
「それは、あなたがそういう風に持っていったからですよ。修羅場にしたくなかったんでしょう?」
「おかげで助かっただろ?」
「言っておきますが、助かったのはあなたの方ですよ? 稲葉さんは本当に気が短いんです。腕が立つということはないんですが、とにかく向こう意気が強くて」
そういう所が可愛いと、言外に伝わる黒田の感情に目を背けて、後ろ手に腕を払う。
「じゃ、な」
「紫さん」
まだ引き止めようとする黒田に、向き合うことは出来そうになかった。
「あんまり遅くなると、また怒らせるんじゃないの?」
「そうですね……きちんと話し合ってきますので、少し時間をください」
つき合い始めて日が浅いとはいえ、こんな風に真面目な雰囲気にはなったことがなかったから戸惑ってしまった。紫に対して、黒田はいつもからかうような態度を取ってばかりだったのに。
「わかったから……もう戻った方がいいんじゃない? 待たされたぶん、やっぱり殴っとくなんてことになるのはご免だし」
不意に背後から抱きしめられたのは一瞬で、すぐに腕は緩んだ。離れ際に何か言われたような気がしたが、聞き返す間もなく、黒田は本来の恋人の所へ戻っていった。




家に帰り、ベッドに入っても睡魔はやってこなかった。丸一日以上眠っていないというのに、気が昂ぶっているのか、少しも眠い気がしない。
無意味な寝返りを何度もくり返しながら、気が付けば黒田と一緒にいる相手のことを考えている。
あの口ぶりでは、別れているとは露ほども思っていないはずで、遠距離恋愛中の恋人に長期休暇を利用して会いに戻ってきたというところだろう。
黒田が相当に思い入れていたという相手が、あまりにも普通だったことも紫にダメージを与えていた。十人並みの容姿に中肉中背、二十代半ばくらいの男を目にして漸く、前に黒田の言っていた言葉が事実だったことを知った。
特別なのは優生だけだと思っていたのに。
“その人が戻ってきたら”と言った優生の心配が取り越し苦労ではなかったおかげで、少しは状況を把握することができている。この先があまり楽観できそうにないことも。


結局、その後ずっとベッドの上でだらだらと過ごした紫の携帯に、黒田から連絡があったのは午後を随分回って、そろそろ夕方になろうかという頃だった。
『すみません、時間がかかってしまって』
いつもと微妙に違う、少し早口な黒田の声音から、事の顛末を推測するのは難しい。
「……で、和解できた?」
無駄話でもしてからと思っていたのに、逸る思いは前置きをすっ飛ばして、いきなり本題に入ってしまった。
『和解というか、納得していただいたとは思います。そういう話は会ってからにしたいんですが、これから出られますか?』
「いいけど……」
『迎えに行きましょうか?』
「え……いい、自力で行く」
今までに一度として、深夜になっていた時でも、送ってもらったことも迎えに来てもらったこともないのに、急にそんな風に気を遣われることの意味はあまり考えたくなかった。
『食事を用意しておきましょうか?』
「俺はいい」
場合によっては、顔を突き合わせて食事をするような気分にはなれないだろう。
別のカッターシャツに着替えて、今度はネクタイを締めて上着を羽織る。 まだ稲葉がいるのかどうかは確かめなかったが、スーツの方が無難に思えた。本音では、黒田がスーツを好むようだと知っているからだったが。




「……何?」
玄関に入るや否やのきつい抱擁に、出鼻が挫かれてしまった。
「来ていただけないんじゃないかと思っていましたので」
いつになく弱気な声に顔を上げると、痛々しいほど赤く腫れた頬が間近に見えた。やはり、紫が早々に戦線離脱しておいたのは正解だったようだ。
そっと、熱を帯びた頬へと指を伸ばす。
「腕っぷしも強いみたいだけど?」
「まともに貰っただけですよ。私にも罪悪感くらいありますから」
「ふうん」
促されるように玄関を上がると、紫を抱く腕に更に力が増した。
「すみません、我慢出来そうにないんですが」
紫の肩の辺りへと額を押し当ててくる黒田に、仔細を尋ねたいと思うのに、口をつくのは違う言葉だった。
「……少しは眠れた?」
「まさか。そんな余裕はありませんよ」
強引に始めた男が、わざわざ別れの挨拶をするためだけに紫を呼び出すとは思えない。大人だからというのも紫に白羽の矢が立った理由だったはずで、それに添うよう接してきたつもりだった。
けれども、本命と別れていなかったことがわかった以上、関係を続けていくのは紫には耐えられないだろうと思った。休暇が終われば遠く離れてしまう恋人の代わりを求められるのはあまりにも不毛すぎる。
そこまでわかっていても、今は別れを切り出す気力はなかったが。
「ちょっと寝る? 俺も眠いし」
寝室へ誘うような言い方はどうかと思いつつ、場所を移すことを提案する。
「ちょっとでは済まないと思いますが」
もしかしたら、それが睡眠のことではないかもしれないと思いながら寝室へついてゆく。
「紫さん」
「……うん」
先にベッドの縁へ腰掛けた紫の頭を抱くように、前へ立つ黒田が距離を詰めてくる。紫の傍に膝をついて、正確に唇を狙って近付く。
抗うつもりで上げた腕は、固い胸板を押し返すことが出来なかった。流されたがっていると、認めたくはないのに。
強引なようでいて、いつもは緩やかに深まってゆくキスも、今日はひどく急いているようだった。黒田のキスは優しいと、いつの間にか思い込んでしまっていたことは間違いだと、思い知らせるかのように荒々しい。
一方的なキスはイヤだと伝えたくても、後頭部に回された腕に阻まれて、顔を背けることもできなかった。上手く息を継げずに、交じり合った唾液が口の端を伝う。
上着を落とされて、少し乱雑に開かれてゆく胸元へ滑ってゆく唇も、舐めるように体を辿る手も、ひどく生々しく感じて困惑した。そんな欲情に満ちた目で見られたことなど、今まで一度もなかったのに。
「……ヤ、だ。あんた、サカリ過ぎ」
器用にベルトとボタンを外した指先が、ジッパーを下ろして脱がせにかかる。あまりの早業に、紫の抵抗感など軽くいなされてしまう。
「据え膳を我慢して帰したんですよ?早く“ご褒美”をくれませんか?」
俄かには信じられず、見上げた視線が絡んだ瞬間、紫の負けが確定してしまった。もしも黒田が真摯な顔のままで嘘が吐けるとしたら、騙されるのも仕方がないと思ってしまう。
下着まで抜かれて黒田の膝へと乗せられる頃には、反発する思いはどこかに消え失せていた。もう抵抗することが出来ない紫の、膝を開かせる手が内腿を伝い上がる。
「……っあ」
受け入れることに慣れ始めた体は、苦もなく長い指の侵入を許し、かき乱されることを望んでいるようだった。慣らされたのか、絆されたのか、その気になっている自分が信じられない。
「たまには自分から欲しがってくれませんか? 私ばかりが焦れているのは狡いでしょう?」
勝手なことばかりほざくなと、言い返したいのに、くり返されるキスに思考が飛ぶ。いつもいつも、黒田が何を考えているのかわからなくて焦れているのは紫の方だと思うのに。
「あ……っ」
急かすように、硬く勃ち上がったものが擦りつけられる。下から押し開こうとする熱い感触に、無意識に体が強張った。
「ん、う」
「息を詰めないで、ゆっくり吐いてください」
「は……っん……ん、や……」
ラクになりたくて息を吐いているのに、突き上げてくる黒田のものの圧迫感がきつくて、縋るように肩へと爪を立てた。
「もう少し……力を抜いてくれませんか?」
「や……っん、ん」
紫のものを包む手にやんわりと擦られて、少しずつ体が緩んでゆく。漸く体に馴染んできたと思ったのも束の間、とんでもないことを求められた。
「そろそろ自分で動いて欲しいんですが?」
「な……そんなの、できるわけないだろ」
「イヤなら、めちゃくちゃに突き上げてもいいですか?」
「それもイヤだ。あんた、ズルイ」
引けそうになる腰を掴まれて、紫の中で熱く息づいているものへと擦りつけるように揺らされる。
「いつまでそんな子供みたいなことを言ってるつもりですか? あなたの気持ちいい所を、私に擦りつければいいだけですよ?」
「やっ、あ、あっ……ん、ん」
せめて、そうやって紫の腰を動かしてくれていればいいのに、と思わずにはいられない。
「もう少し素直になって欲しいと思うのは贅沢ですか?」
素直も何も、とっくに紫の限界を超えて黒田に振り回されているというのに、まだ追い詰めようとする相手が憎らしいほど。
それでも、何とか黒田の望む通りにしようと、懸命にその感覚を追いかけた。




「……あいつとヤったんじゃなかったのか?」
聞かないつもりでいたはずが、ぼんやりと黒田の頬を眺めているうちに、問いは知らぬ間に口をついてしまっていた。もっと、直後の気だるい余韻に浸っていたいと思っていたのに。
「しませんよ。そうじゃなかったら、こんなにサカってるわけがないでしょう?」
「だってヤんのが普通だろ? 向こうだって覚悟して戻って来てるんだろうし」
「しょうがないでしょう、あなたの方が可愛くなってしまったんですから」
「可愛い? 俺が? ありえないし」
少しはわかった気でいたのに、黒田の“可愛い”の基準はやっぱり理解できない。
「可愛いですよ。素直に感情を面に出さないところも、意地でも問い詰めようとしないところも、ベッドに入ると極端に弱気になるところも、とても5つも年上だとは思えないほど可愛いらしいと思いますが?」
そんな言い方をされると、紫に義理立てしてくれたらしいことを褒められなくなってしまう。
「……あんた、趣味がマニアックすぎ」
「あなたこそ、どうして私につき合ってるんです? 本気でやめようと思えばやめられたはずでしょう?」
理由なら、紫の方が聞きたいくらいだった。どうして、このレイプ犯ともいうべき男を、憎むどころか気にかけてしまうのか。
「珍しかったのかな。今まで俺の周りにいなかったタイプっていうか」
「では、せいぜい“珍獣”らしく接することにしましょう」
それでも、何もかもが片付いたかのような錯覚を起こしたまま、うやむやにされてしまうのはイヤだった。
「……あんた、本命の方はどうするつもりなんだ?」
「本命って、まさか稲葉さんのことじゃないでしょうね?」
「他にもいるのかよ?」
呆れたように見つめられる理由を、少しは自惚れてもいいのだろうか。
「……すげないというより相当に鈍いようですね。私はこう見えて意外と一途なんですよ? あなたは私に“お預け”なんてさせませんし」
「俺、こんな大型犬に言うことをきかせられるような器じゃないから」
たとえ体が目的なのだとしても、“一途”でいてくれるのなら、それでもいいかと思った。
決して小さくはないはずの紫を、すっぽりと包む腕の中で目を閉じる。
話さなくてはいけないことはまだまだあるような気がしたが、一旦安心してしまった体は睡魔に逆らうことができそうになかった。



- ドメスティック.V - Fin

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書く機会を逸してしまったので、ここで……。
黒田は前に住んでいた所に男(優生)を連れ込んだことが稲葉にバレて、
贖罪代わりに引っ越すことになりました。
(結局新しい部屋にも優生を匿っていたわけですがー。)