- ドメスティック.U -



一夜限りだと思っていたのに、紫はなぜか翌日も黒田の部屋で過ごしてしまっていた。
その日の午後過ぎ、黒田が急な呼び出しで出勤することにならなければ、三連休中の紫はもう一日居座っていたような気がする。
黒田が仕事に向かったあと、紫も一度は自宅に戻ったものの、着替えと暇つぶしのDVDを用意するとすぐに黒田の部屋に戻ってきてしまった。家族のいる自宅ではなく、主のいない部屋で一人で待つことを選んでしまう自分の不可解さには、我ながら呆れてしまう。
相手からは、夜勤になったから朝まで戻らないと言われ、スペアキーまでもらったというのに。それを、出かけても構わないが黒田が帰るまでに部屋に戻っているようにという意味だと、頭の中で言い訳をしている。
元から休日は昼夜逆転生活を送っているような紫にとって、相手の勤務に合わせるくらい大したことではないと軽く考えていたが、一人で夜を明かし、いつ帰るともしれない家主を待つのは思いのほか淋しいものだった。


物音にハッとして、体を起こす。いつの間にか、ソファに横になって眠ってしまっていたらしい。
「……帰ってなかったんですか」
紫に声を掛けたというより、黒田の言葉は独り言のようだった。驚きの中に喜びのようなものは見出せず、自分の解釈は間違いだったようだと思いながら声をかける。
「おつかれさん」
「本当に今日は疲れました。客人を放っておくのは申し訳ないのですが、少し待っていただけますか」
「うん……?」
微妙な反応に迷う紫を残して、奥へと消えてゆく黒田を呆然と見送る。
黒田はそのまま風呂場に向かったらしかった。一晩中待っていた紫に感動することはおろか、“おかえり”のハグもキスも不要だと思っているようだ。先走って甘い歓迎などしなくて良かったと、危うく恥を重ねてしまうところだったと、ムリに自分を納得させる。
可愛い恋人と別れたばかりで淋しいのだろうと絆されてしまっていたが、黒田にはそんな感傷はないのかもしれない。
もう用済みなのだと、少なくとも今は不要なのだと察すると、いつまでも居座っていた自分が滑稽に思えて居た堪れなくなった。
迷いを払うように首を振り、大きく腕を上げて伸びをする。仕事をしていた黒田ほどではないにしても、徹夜で液晶画面を見ていた紫も疲れていた。
挨拶もしないで帰るのはどうかと思ったが、待っていても煩わせるだけだろうと思い直し、コートを羽織りながら玄関へ向かう。
片隅に置かれたままの、おそらくは優生の靴が、黒田の未練を表しているような気がして少しせつない。
玄関のドアをそっと開けようとした時、背後から声がかけられた。
「待っていてくださいと言ったでしょう」
微かな苛立ちを滲ませた黒田が、濡れた体にバスタオルを乱雑に巻いただけで近付いてくる。腕にも肩にも水滴が散っているのは、急いで出て来たということなのだろうか。
「疲れてんだろ? 気が利かなくて悪かったな」
ドアのレバーにかけた手に力を入れるより早く、黒田の腕が紫の体を引き止めた。
「風呂くらい、ゆっくり入らせてくれませんか」
「俺に気を遣わなくても、ゆっくりすれば?」
「ゆっくりしていたら、帰ってしまっていたでしょう?」
「だから……俺がいたら、ゆっくり出来ないんだろ?」
「それはまあ、そうなんですが」
自覚していても、肯定されてしまうのは辛い。
黙って振り解こうとした腕に力を籠められて、睨もうと上げた顔のすぐ間近に黒田が近付いてくる。
「なっ……ん……」
首の後ろから抱きよせられて、気が付いた時には黒田の唇に捕らわれていた。髪に埋められた指が逃れることを許さない。唇を甘く噛まれて、黒田の腕にかけた手から力が抜けてゆく。紫が抗えないとわかると、黒田はゆっくりと唇を割って中を探ってきた。舌先が上顎を撫で、深く押し入ってくると頭の芯がぼやけてくる。舌を絡められると、つまらない意地など飛んでしまった。その先まで求められていることを感じた体が僅かに震える。
「……せっかく待っていてくださったのに、みすみす帰すような勿体ないことはしませんよ」
羽織っただけのコートを落とされて、腹が露になるほどにセーターを上げてゆく手に、紫の肌が熱を孕む。
もう、酔っていないのに。
「そういう、つもりじゃないから」
「きけません」
晒された肌に移された唇が、少しきつめにキスを散らす。
「ここで構わないんですか?」
意地悪な問いに力なく首を振る。帰ると言ってしまえない紫の優柔不断さに、黒田は5つも年下とは思えない余裕の表情で笑った。




「んー」
窮屈さに伸ばそうとした体が思い通りにならず、ぼんやりと視線を巡らせる。
それが黒田の腕の中に包み込まれているせいだと知って焦った。黒田とこういうことになるまで、腕枕はしたことはあってもされたことはなく、気持ちが良いというより寧ろ落ち着かない。
「もう少しゆっくり眠らせてくれませんか? 本当にせっかちな人ですね」
縛めるように力を籠める腕に、紫は抜け出すことを諦めた。
「……腹、へらない?」
食事を摂らずに抱き合い、そのまま眠ってしまったせいで、紫は空腹感で目が覚めてしまったようなものだというのに。
「あなたが“待て”が出来ないからでしょう? 食事をしてからの方が、私も都合が良かったんですが」
さも紫が悪いというような言い方に腹が立つ。
「あんたがいきなり襲いかかってきたんだろ」
「まあ、猫に“待て”をさせようとする方が間違っていたのかもしれませんが」
紫の言い分など軽く無視して、一人で納得する黒田にそら恐ろしいものを覚えた。思えば、最初からずっと、黒田は紫の言うことなど聞いていないような気がする。
「……あんた、もしかして俺のこと“仔猫ちゃん”だとでも思ってる?」
「まさか」
さすがにそこまでは思われていなかったようだと気を抜いた瞬間、すかさずカウンターをくらった。
「箱入りのまま大人になった、深窓のご令嬢のようだと思っていますよ」
「だ、誰が、深窓の令嬢だよ? あんた、俺が女に見えるのか?」
「見えていたら、指一本触れていませんよ」
当然だという表情をされると、怒った方がいいのか、ホッとすればいいのかわからなくなる。
「ともかく、一度起きて食事をしましょうか。あなたが“待て”が出来ないということは身に沁みてわかりましたから」
黒田の表現には納得がいかなかったが、空腹に耐えられないことは事実で、それ以上の反論は一旦諦めた。


「少しくらい、手伝おうという気になりませんか?」
ソファに座ったままの紫を、黒田はキッチンから振り向いた。ほんの数時間前に睦み合っていたとは思えないほど、忌々しげな表情だ。
「でも、俺、料理とか全然出来ないし。ジャマになるだけだから」
「出来ないって……したことないんですか?」
「ないよ? 俺、“イエ男”だし」
紫が優生のように家事ができるのなら、黒田が戻るまでに食事の用意を整えていただろう。
それに、昨日は食事は外で済ませてしまい、お互いの生活感はまだわかり合えていないままだった。
「……やっぱり、深窓のご令嬢なんじゃないですか。今時、料理もしたことがないなんて」
黒田はわざとらしいほど盛大に、ため息を吐いた。何と言われても、ないものはないのだから仕方がない。
「食器を出すくらい、出来るでしょう?」
不承不承、立ち上がってキッチンへ向かう。
そう大きくはないカップボードを覗いて、普段使いと思しき食器が整然と並べられていることに軽くショックを受けた。いい加減そうな性格に反して、黒田は実はものすごく神経質だったりするのだろうか。それとも、これも優生の名残なのだとしたら、おかしくはないのもしれないが。
「……どれを出したらいい?」
「どれでも構いませんよ、これが入る程度のものなら」
黒田の手のフライパンで食欲をそそる匂いと音を立てているオムレツに、今度は純粋に驚いた。
「あんたって、料理上手なんだ?」
「上手というほどは出来ませんよ。それより、早く持ってきてください。焦げてしまいます」
慌てて、手近な皿を取って黒田の傍へ急ぐ。向こうのコンロに掛けられた小鍋では、ブロッコリーと人参とウィンナらしきものを茹でているのが見えた。
「他に要りそうなものを適当に揃えてください。フォークも箸も、その真ん中の引き出しですので。あと、コーヒーも注いでおいていただきたいんですが?」
「はいはい」
黒田の口調からは、紫が子供の手伝い程度のことしか出来ないだろうと思われていることが窺える。全くもってその通りなのだから、異論を唱える気にもならないが。
「他に何かすることある?」
「そうですね、食器棚の下に食パンが入っているので、焼いてもらえますか?」
「何枚?」
「とりあえず2枚でいいでしょう? あなたもあまり大食漢には見えませんし」
それが誰と比べているのかは、尋ねるまでもないことだった。
「悪いけど、俺、見た目より食べるらしいよ?」
「そうですか?」
あまり興味のなさそうな口ぶりに、それに答えるのはやめた。
適当な皿を選んで、オーブントースターの前で待つ。黒田がオムレツの横に野菜を添えるのを眺めていると、頭の中は早く食べたいということしか考えられなくなってしまった。
「あなたが餓死しないうちに食べましょうか」
いちいち嫌味を言う相手に毒づく元気は、今は出そうにない。
トーストを持ってテーブルにつき、マーガリンに伸ばしかけた手を止められる。
「私がしましょう。そんな死にそうな顔の人より先には食べられませんから」
「そう? じゃ、お先に、いただきます」
トーストは黒田に任せて、軽く両手を合わせて頭を下げた。
鼻腔をくすぐるほのかなバターの香りが食欲を刺激する。今は感傷に浸るより、待ちかねた食事に集中しようと思った。
ふわふわの黄色に箸を入れると、小さな賽の目に切り揃えられたポテトと挽肉が溢れてくる。具が入っているだけでなく、とろみのついていることにちょっとした感動を覚えつつ箸を進めた。
「あなたは嬉しそうに食べますね」
「……ゆいちゃんは、食べることに執着なさそうだもんな」
「あの人は何に対しても執着しなさそうですが」
「だから工藤も苦労してるんだろ?」
尤も、工藤一人で二人分以上に執着しているのだから、帳尻はあっているのかもしれないが。
「ゆいは素直じゃないですからね」
その素っ気無い言い方で、優生に聞いていたようなドライな関係ではなかったことが窺えた。少なくとも、黒田の方は。
「……あんたって、やっぱ、ゆいちゃんのこと好きだったんだよな……?」
「それがどうかしましたか?」
「どうっていうんじゃないけど……代わりなら、もっと可愛い奴にすればいいのにと思っただけ」
「あなたの方が可愛いですよ」
あまりの思いがけなさに、まじまじと見つめ返してしまった。
ふっと視線を外される理由もわからないまま、黒田の顔を見つめ続ける。
「強いて言えば、あなたの方が好みに近いですよ? 大人ですし、女性かと見紛うこともありませんし。ゆいは特別なんです……いえ、例外と言った方がいいでしょうか」
強いて、という辺りが黒田の言葉を否定している。それでも、紫を気遣って言い直された言葉に黙って頷いた。
優生が特別だというのは紫も同感だった。即物的な下心はなくとも、紫にとっても優生は特別な存在になっている。天地が引っくり返っても男と恋愛することなどあり得ないと思っていた同僚を骨抜きにして、関わる男をいつの間にか味方につけてしまう優生は、稀有な存在だと思う。
「大体、あんな酷い人は知りませんよ。自分から愛人にしてくれと言っておいて、他の男を思い出しては泣いてばかりで。自分から誘っているくせに被害者のような顔をして、他の男の代わりにするような身勝手な人ですから」
「そんな言い方しなくても」
「事実です」
きっぱりと言い切ってしまう心理を思うとせつなくなる。何だかんだと否定的な言葉を紡ぐのも、結局は優生に未練があるということなのだろう。
ただ、一時の戯れで終わらせず、黒田を慰める役が紫に回ってきた理由は今もって不可解なままだった。確かに紫は細身で顔立ちも優しい方かもしれないが、決して中性的なタイプではない。平均身長も超えているし、特に華奢でもないし、年齢だって黒田より5つも年上だ。到底、優生の身代わりが務まるはずがない。
「あんたってさ、えっと……如何物食い(いかものぐい)ってやつ?それとも雑食?」
「そんな、人をケダモノみたいに……まあ、どちらも否定はしませんが」
渋い顔をしつつも肯定されてしまうと、前に優生が言っていた言葉と、紫が黒田に言われた言葉を思い出す。黒田は、紫のことを体を自由にさせる相手だと思っているから妥協しているのだろうか。
それなのに、突き放してしまえない自分の心理も不可解だった。紫が好んでつき合ってきたような繊細な相手ではないのに、どうしてこんなにも気を遣ってしまうのか。
自分の行動に戸惑いながら、もしかしたらその理由を確かめるために、黒田の傍で過ごしてみる気になったのかもしれないと思った。
「そういや、あんた、俺の携帯、ゆいちゃんに聞いたって言ってただろ?」
まだ優生に理由を尋ねることは出来ていないが、それがずっと引っかかっている。優生が紫に何の断りもなく、第三者に個人情報を教えるとは考えられない。
「違いますよ、ゆいの住所録からの情報です」
「……それって、勝手に見たってこと?」
「そんなミもフタもない言い方はやめてください。どうぞご自由に、とばかりに置いてあったんですよ」
「置いてたら勝手に見るのかよ?」
「そういうわけではないんですが……でも、あなたも見られたくないなら無造作に置かないようにしてください」
置いてあれば見るのが当然、という堂々とした態度に、反論する言葉が出なくなってしまう。それは気を許すなという警告なのだろうか。
あの夜、黒田は紫のことをドライで良かったと言った。妥協とも。それを心に留めていないと、痛い思いをするのは紫だということなのかもしれない。
食事を終えると、後片付けの手伝いもさせられることになった。それが、紫が黒田の元で過ごす時間が長くなると見越してのことだとは思いもせず、ただ指示されるままに従う。そのうち作る方を担当させたいという下心から仕込まれていることにも気付かないまま。






休み明けに工藤を捕まえて事の顛末を確かめると、黒田の話が事実だったことがわかった。
疲れた表情をしていても、先日までの張り詰めたような雰囲気は和らいでいる。優生が戻ったことで少しは気持ちにゆとりが出来たのかもしれないと思ったが、紫と黒田とのことは恐ろしくて話せるはずもなかった。
工藤の動向を観察しつつ、隙を見て優生の携帯に電話を入れてみる。二ヶ月近く持ち主が応答することはなかったが、復活していることは確信していた。
『はい』
予想に違わず、けだるげな声が答える。
「ゆいちゃん? 無事に元の鞘に納まったみたいで良かったね」
『うん、なんとか。紫さんにはいろいろ迷惑かけちゃって、ごめんなさい』
「ほんと、大変なことになってるよー。ゆいちゃん、黒田に俺のこと何て言ったの?」
手短に済ませるためにも、テレを隠すためにも、さっさと本題に入ってしまいたかった。
『えっ……?』
「あいつ、俺のことメンタルな恋愛しかしないって聞いたから試してみたくなったって言ったんだけど」
なるべくさらっと尋ねたつもりだったが、電話の向こうで優生が息を飲む気配が伝わってきた。
『まさか……紫さん、試されちゃったなんてこと、ないよね?』
「あいつが見逃してくれると思う?」
『ウソ……やだ、ホントに?』
いつもの優生らしくない少し不謹慎な気配に、紫もつい恨みがましい口調になってしまう。
「笑いごとじゃないよ? ゆいちゃんがけしかけたんでしょ」
『ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんだけど……』
「おかげでネコ扱いされるし」
そう拘る方でもないが、ほぼ30年の思い込みが間違いだったと言われても、すぐには対応できないのだった。
「でも、ちょっと納得したかも。それで紫さん、俺にセマんなかったんだ?」
「そうじゃないよ、俺はそういう欲求はあまりなかったの」
少しの間を置いて、優生は慰めにもならないことを言った。
「聖人さんにかかったら、ひとたまりもないでしょ? 良かった、敵わないのが俺だけじゃなくて」
優生の言っていることを紫も体感しているだけに、自然と頬が熱くなってくる。それを認めたくなくて、もうひとつの驚きの方を口にしてみた。
「……あいつ、マサトって言うの?」
『聖人君子の聖人って書いて、まさと、って言ってたけど』
「ふざけんなって感じ……名前負けにしたって酷過ぎ」
『紫さん、そんな凄いことされちゃったの?』
「凄いことって……ゆいちゃんて、時々耳を疑うようなこと言うよね。ゆいちゃんこそ、そんなんで工藤の所に戻って大丈夫?」
『うん。淳史さんの方が気持ちいいし。やっぱ好きな人の方がいいみたい』
それなら最初から離れようとするなよ、と言いそうになるのを堪える。優生が心変わりをして別れようとしたわけではないことはわかっていた。
「でも、俺が聞いた感じだと、あいつから工藤に連絡したんだよね? ゆいちゃん、ほんとは帰りたくなかったの?」
『ううん……帰れると思ってなかったから』
黒田の言う通り、優生は本当は淳史の所に戻りたがっていたのに、やせ我慢していたということなのだろう。
「ゆいちゃん……あいつのこと、好きにならなかったの?」
『紫さん? 聖人さんは俺のことは好きじゃないってハッキリ言ってたし、勘繰らないで?』
まるで、紫が黒田に対して所有欲を主張していると言われたようで、ひどく癇に触った。
「もし俺があいつを好きだとしたら、工藤のことも許容範囲かも、って思わない?」
意地悪な問いに、優生は一瞬、言葉に詰まったようだった。
『……そういうことに、なるのかな……?』
思いがけず、納得したような言葉に慌てたのは紫の方だ。ささやかな仕返しなのに、優生はそれに気付いてもくれなかった。
「冗談に決まってるでしょ、俺が工藤となんて、この世に二人きりになったってあり得ないから」
自分から振っておいて、紫は心底ゾッとした。紫が好きなのは、たとえば優生のように中性的で、線の細い、綺麗なタイプだ。まかり間違っても、格闘家のような鋼の筋肉を纏った、甘さの欠片もないような強靭な男ではない。決して、黒田のような厳つい男らしい相手ではないはずだった。
『……紫さん、余計なことを言うようだけど』
躊躇うような優生の言葉の継ぎ目に割って入る。
「何? 俺はあんな男、好きでも何でもないよ? うちの母親だってね、ゆいちゃんみたいな可愛い子がいいって言ってるし」
『そうじゃなくて……聖人さん、すごく思い入れてる人がいたんだ。でも、喧嘩したまま相手の人が海外に赴任しちゃってて……聖人さんは諦めてるみたいだったけど、その人が戻ってきたら、もしかしたら……』
最初の夜に黒田が言っていた、“やらせない恋人”の話を思い出す。紫からすれば、知りもしない別れた恋人より、黒田の心に住みついている優生の方がよほど脅威に思えるのに。
「そしたら、俺は自由になれるってわけ?」
『ううん、その人とはもう終わってると思うけど……ちょっと気になったから、紫さんには言っといた方がいいような気がして。ごめんなさい、余計なこと』
「そんなことないよ? 鉢合わせちゃった時の心構えが出来るし」
『笑い事じゃないから……俺、ほんとに鉢合わせたことあるし。気の短い感じの人だったし、気を付けて?』
予言のような優生の言葉にも特に何も感じることはなく、軽く聞き流して通話を終えた。




前日の夜に別れたばかりだというのに、紫はまた黒田の部屋を訪れていた。
夕飯の誘いに二つ返事で応じたのは、自宅通勤の紫と違って、黒田が一人で食事をしたくないのかもしれないと思ったからだ。
会社を出る前に知らせていたからか、紫が着いた時には食事の用意はすっかり整えられていた。
まるで母親の作るようなメニューに、改めて驚かされる。
鶏ごぼうの炊き込みご飯に吸い物、それにほうれん草ときのこの白和えなど、20代半ばの男が作る献立には思えなかった。
「あんたって、いつもこんなちゃんとした料理してんの?」
「いつもということはありませんが、尽くすのは嫌いではありませんので。釣った魚に餌をやらないタイプではないと思っていますし」
「猫の次は魚かよ……」
「気に入らないのなら言い直しましょうか? 仔猫でなくても、拾った以上は責任を持って餌と寝床の面倒は見ますよ?」
「ああいうの、拾ったって言う?」
「でも、攫ったわけではありませんし」
「それに、俺、食うのも寝るところも困ってないんだけど?」
「まだ親離れ出来ていないだけでしょう?」
自分の非は認めないくせに、微妙なところを突いてくる黒田に、抗議する気力が萎えてくる。独り立ちする理由がないから親元にいるのだったが、自立していないと言われるとそうなのかもしれなかった。
「話すのはほどほどにして、冷めないうちに食事にしませんか?」
「……だよな、いただきます」
すぐには答えの出ないことを考えるより、目の前の食事に集中する方が有意義だった。腹が満たされれば、もう少し大らかな気持ちになれるかもしれない。
他人と食事を摂るのは不慣れではないのに、面と向かうのはテレくさかった。どんなにすげない態度を取って見せても、相手の部屋で向かい合って、振舞われたものにがっついている現実は、手懐けられていく過程でしかないのだろう。
食事を終えると、食器を重ねてキッチンへ向かった。後片付けが紫の担当だということは、この数日で理解している。
すぐに洗い物を始めた紫の傍に黒田が近付いて来ると、良からぬ気配に背中を緊張が走った。
「……ジャマすんな」
背後から抱きしめられると、手が震えて食器が鳴った。意識するまいと思っても、その先を知っている体が強張ってしまう。
「それだけ意識されたら、応えないわけにはいかないでしょう?」
「余計なお世話だし。茶碗を割られたくなかったら触るなよな」
「きけません」
耳元にかかる吐息が、紫の思考を鈍らせる。背にぴったりと添う黒田の体も熱いと知らされると、それ以上毒づくことは出来なくなってしまった。




「……あんたって、一人の時も自炊?」
ベッドに場所を移して一戦を終えると、緊張は解けていた。その強い腕にホールドされるまま身を預ける。もう、小競り合いする元気はなかった。
「大概そうですね。買うと分別の面倒なゴミが出ますし、不経済ですし」
「でも、面倒だろ?」
「疲れているとそういうこともありますが、もう慣れました。7年ほどになりますので」
「っていうことは、高校出てからずっと?」
「そうです。看護学校の寮に入ってからずっとですね」
「看護学校って……あんた、まさかナースとか言わないよな?」
「まさかじゃなく、看護師です。そういえば言ってなかったんですね」
「うわーありえない。っていうか、あんた、自分のこと何も俺に教えてないだろ」
「一番大事なことを一番最初に教えたと思いますが?」
きょとんとしてしまった紫は、意味深に笑いかけられて、その理由に気付いた。
「……そういうことじゃ、なくて。あんた、俺には名前も教えないし」
「名前を呼びたがっているとは気が付きませんでした」
「だから、そういうんじゃないって」
こんな初歩的なことさえ教える必要のない相手だと思われているのではないかと、卑屈な気持ちになってしまうのだとは、どうしても言いたくなかった。
「まさと、というんですが……」
「聖人君子の聖人と書いて、だろ? ゆいちゃんに聞いた」
「連絡出来たんですか? よく工藤さんが許しましたね」
「俺は工藤に黙認されてるの。あんたは一生ムリだろうけど」
「わかってますよ。関わるつもりもありませんし」
素っ気無い顔が、逆に気にかかる。無事に元の鞘に納まったことなど、言うまでもないことなのだろう。
「やっぱ、気になる?」
「気にならないでもないですが、所詮は人のものですから」
「あんた、そういうモラルはあるんだ?」
「モラルの問題ではなく、私の手には負えないからですよ。愛するほど壊してしまいそうな気がしましたので」
それほども優生のことを愛していると言う男に、情けをかけている自分がひどく愚かに思えてくる。
「あんたでも手に余ると思うことがあるんだ?」
「ですから、前の恋人とも上手くいかなかったと言ったでしょう?」
「……俺なら、思い通りに出来ると思ってんの?」
一瞬驚いた顔を見せた黒田が、さも可笑しげに笑った。
「いい加減に認めたらどうですか?」
「何を?」
イライラと返す紫に、とても5歳も年下とは思えないほど落ち着き払った黒田に苛立ちが増す。
「妬いているということを、ですよ」
それが図星だったから、反射的に手が出てしまった。予想していたのか、黒田は至近距離からの平手を、手首を掴むことで止めてしまう。
「あんたって、ほんとムカつく」
「あなたの方こそ、ゆいを口説いていたんでしょう? 脱プラトニックの勢い余って、ゆいを試してみようなんて思ってないでしょうね?」
少しきつい視線を向けられて、なぜか頬が熱くなる。
「思うわけないだろ、俺はゆいちゃんにそういうことをしたいと思ったことはないんだからな」
「では、おとなしく私で妥協しておいてください」
妥協ではないと、言えない紫が悪いのか、甘い言葉をくれない相手が悪いのか、二人の関係を明確にできないまま、紫はまた黒田の唇に捕まってしまった。



- ドメスティック.U - Fin

【 仔猫でもないのにドメスティック 】     Novel     【 V 】    


視点が紫なので、“工藤”と書いているのが、すごーく違和感です。
かといって紫に淳史と呼ばせるの抵抗あるし。
そのうち“聖人”に変わるのもイヤだなあ……ずっと“黒田”でいいですか?

この二人では甘くならないと思うのですが、なぜか自分的には書いててすごく楽しいです。