- ドメスティック.X -



ほんの数週間で、雛瀬は急に大人びたような気がする。
近付いてくる雛瀬の、紫に気付いて嬉しそうに笑う顔は相変わらずの可愛らしさなのに、全体のフォルムは一回り大きくなったように見えて戸惑った。
「ごめんね、ゆうちゃん。待った?」
つき合っていた頃にはわりと下にあったはずの目線も今はさほど変わらず、心なしか男っぽさを感じさせるようになった気さえする。
「そうでもないよ。ヒナ、お腹すいてるでしょ、先に食事に行こうか?」
“先”と言ってから、その続きまであるような言い方をしてしまったことに気付く。それほども、今の紫は余裕を失くしてしまっているのかもしれない。

背を促す雛瀬の手の力強さが紫を落ち着かなくさせる。催促するような甘えた仕草ではなく、まるで主導権を取られたように感じるのは、ただの被害妄想だろうか。

前回、雛瀬と偶然会ったときに次を匂わせる言葉で別れた手前、一度は会って話をしないといけないと気に掛かってはいた。雛瀬が意味有りげな言い方をしていた真意はわからなくても、今の紫がフリーではないらしいことは伝えておかなければ、と思う。
だから、昼休みに届いた雛瀬からの“お誘い”メールに、迷いながらも了承の答えを返した。先延ばしするほどに話し難くなりそうなのと、今日なら黒田は夜勤で、心置きなく会うことができるというタイミングの良さがあったからだ。
それからずっと、なるべくさりげなく伝える言葉をいろいろ考え続けている。


まだ雛瀬とつき合っている頃によく行っていた居酒屋は今日も賑わっていたが、テーブルごとにロールスクリーンで仕切られた造りになっているため、声を抑えめにしておけば周囲を気にしないでいいという利点がある。
とりとめのない会話をしながら、注文したものが半ば片付いた時点で、育ち盛り真っ只中らしい雛瀬に追加を尋ねようかと思っていた矢先に、先に切り出された。
「ねえ、ゆうちゃん? ずっと気になってたんだけど……俺とつき合ってるときに、何にもしようとしなかったのって、俺のこと好きじゃなかったから?」
若さゆえの直球か、雛瀬の問いには遊びがない。
「そんなことないよ、ヒナのこと可愛いと思ってたし、すごく好きだったよ」
それは紛れもない真実で、紫が可愛い男子に惹かれ、その幼さゆえに衝動的になることがないというややこしい性癖でさえなければ、モラル面はともかく当の二人は幸せな恋人づき合いができていたのではないかと思う。
とはいえ、これまで黒田に強引に迫られるとき以外に相手が誰であれ欲情したことのない紫が、いつか雛瀬と深いつき合いに至ったかどうかは今となっては甚だ怪しいのだったが。
「ゆうちゃん、まさかと思うけど、この間の人とつき合ってるなんてこと、ないよね? ちょっと会わない間に、ますます可愛くなっちゃってるみたいだけど」
責めるような視線はお門違いで、振られたのは紫の方だったはずなのに、居心地の悪さと的確に言い当てられた気恥ずかしさで、すぐには言葉が継げなかった。
それを肯定と取られるとわかっていたのに。
「ひどいよ、ゆうちゃん。俺、ゆうちゃんを口説くために修行してたのに」
「なに、修行って……」
「ゆうちゃん、いつまで経っても何もしそうにないし、あの頃はどうセマったらいいのかもわからなかったから、経験積んでから口説き直すつもりだったんだ。ねえ、ゆうちゃん、俺がさっさと襲っちゃえば良かったの?」
ある意味、的を射た言葉に冷や汗をかきながら、どう言えば雛瀬を傷付けず納得させられるかを考える。
紫の気遣いなど気付きもしない風に、雛瀬は一人で結論に向かっていってしまう。
「今の俺じゃ、ゆうちゃんを取るのは無理なんだろうけど……絶対カッコよく育つから、もうちょっと待ってて」
いつの間にかテーブル越しに雛瀬に手を握られていて、その骨細の手の意外な大きさに戸惑い、やんわりと解くこともできずに呆然としてしまった。






「何かありましたか?」
心配げ、というよりは胡散臭げな眼差しで紫を見下ろしているのは、相手曰く恋人関係にあるはずの黒田。
とはいえ、そんなものは名ばかりで、来て数分でフローリングに押し倒されているような現状は、実質セフレに過ぎないのかもしれない。
「……何で?」
「紫さんが全く抵抗されないのは珍しいですから……もちろん、素直になってくださったのなら喜ばしい限りですが」
言われてみれば確かにその通りで、普段の紫はどのみち食われると知っていても一度は抗わずにいられないのに、今日はこの体勢より重大な思考に捕われている。

昨日からずっと、雛瀬の告白が後を引いて、未だ動揺は治まっていない。

至近距離から注意深く観察するように見つめる眼差しに負けて、心に引っ掛かったままの疑問を口にする。
「なあ、俺って“可愛い”と思う?」
「そうですね、誰より可愛いと思っていますよ」
「それって、あんたの“特殊な嗜好”からすれば、だろ? そうじゃなくて、俺が聞いてんのは一般論」
「たぶん、あなたを可愛いと思わない人の方が少ないんじゃないかと思いますよ。このところ、日増しに可愛らしくなっているようですし」
「冗談だろ?」
黒田だけの思い込みなら“奇特な趣味”で納得がいくが、世間一般の評価まで“可愛い”なんて有り得ない。
「誰かに可愛いと言われましたか?」
「べ、別に……」
口ごもる紫の焦燥など、黒田には容易く見抜かれてしまうようだ。
「この間の学生さんですか? さすがに、あの人が紫さんを可愛いと言うのは10年早いと思いますが」
一言たりとも雛瀬に繋がるようなことを言ってはいないはずなのに、黒田の洞察力は鋭過ぎる。もしかして、紫の顔には黒田にだけわかる字幕でもついているのだろうか。
「で、“遊んで”あげたんですか?」
追及する声音は穏やかなのに、笑っていない目元が紫に嘘を吐かせなくさせる。話せばまた鼻先で笑われるだけだとわかっているのに。
「ご飯一緒しただけ。相手は子供だし、あんたの言う“遊び”は俺にはできないから」
「あなたほど子供じゃないような気がしますが……子供のフリをして油断させているだけかもしれませんよ?」
さんざん言われ続けた言葉をもう気にしないでいようと思っていたのに、ひと回りも年下の雛瀬より子供だとまで言われて軽くキレた。
「未成年のヒナより俺の方が幼いと思ってるんなら、金輪際やらしいことはするなよな」
ことある毎に紫を子供だと言いながら、三日と空けずに体の関係を強要するような黒田の行動は矛盾していると思う。
「中身が子供だからといって、疾うに成人している人が相手なら法には触れませんよ」
いけしゃあしゃあと言い切る黒田に、腕力では勿論、口論でも勝てないことなど知っていたのに。

乱され、はだけられた衣服を直す無意味さはとっくに学習済みだ。少しは抵抗しなければ張り合いがないのかもしれないが、生憎、今の紫はそんなマニアックな趣味につき合ってやるほど寛大な気持ちにはなれなかった。
「たとえ俺が未成年だったところで、あんたが気にするとは思えないけどな?」
「そうですね。今となっては、たとえ紫さんの実年齢が半分だったとしても見逃せませんね。私は人格者ではありませんから、良心の呵責を感じるということもないですし」
元より黒田に良心も常識も期待していない。責任や約束を求められる危険性もなく、手軽にヤれる紫は、いくら黒田が相手に困っていなかったといっても、まるっきり興味が失せてしまうまでは手放すには惜しいのだろう。
顎を覆うように伸ばされた手が唇へかかる。すっかり諦めの境地で目を閉じた。
まがりなりにも紫のことを“恋人”だと言うだけあって、黒田のくれるキスは気持ちがいい。実際には恋人扱いされているとは言い難いとしても、あやふやだった二人の関係を定義する言葉に異論を唱える気はなかった。
年齢のわりに疎かったその先のことも、ずいぶん慣らされたように思う。“三日と空けず”という相手の要求を、素直にとは言えないまでも受け入れ続けたおかげで。


キスの余韻を長引かせようとするみたいに、黒田の指が紫の唇を弄る。軽く閉じた唇を何度も撫で、緩んだ隙間を往復し、口腔内へと滑り込む。
舐めろということだと思っていたが、長い指は舌を躱し、また紫の唇を弄り出した。
わけのわからぬ行為の意味を、よくよく考えもせず尋ねてしまう。
「……なに?」
「ここに入れていいですか?」
「なっ……」
再び唇を割るそのいやらしげな指の動きと意味深げな視線で、黒田が何を望んでいるのか気付いてしまった。
期待に満ちた眼差しに晒されていると、ささやかながら存在しなかったわけでもない好奇心が萎んでゆく。殆ど経験のない紫が黒田から合格点を貰えるとは到底思えず、想像するまでもなく小馬鹿にされる光景が目に浮かぶようだった。
「だめですか?」
答えられない紫の唇の中へ入ってくる指が、上顎を撫で、舌に触れる。
催促するように蠢く指に耐え切れず、顔を逸らして指を拒んだ。
「……舐めるくらいなら」
それでも、紫にしてみれば随分な譲歩だったというのに。
紫の返事は、ますます黒田の評価を落とすことになってしまったらしかった。
「今時、中学生でもそんなに躊躇しないでしょうね」
呆れたようなため息に気は重くなるばかりで、悩むほどにハードルは高くなっていくような気がする。
でも、何と言われようとも、年相応の経験を積んでこなかった紫には荷が重く、惨憺たる結果を恐れて二の足を踏むばかりだ。
「……しょうがないだろ、俺は初心者なの。あんまり高度なことを求めるなよな」
「それなら早く経験を積んでください。いつまでも、そんな言葉が通用するような年ではないでしょう?」
またその話かと、うんざりしながら黒田を睨み上げる。
経験豊富な相手がいいなら、紫を恋人に仕立てたのが間違いだったと気が付かないのだろうか。
気安く経験を積めと言われても、そう簡単に相手を見つけられるはずもないのに。いくら紫が殆どの相手に対して性癖をカミングアウト済みといっても、黒田のように条件を満たす相手なら誰でもいいとは思えなかった。
否、特定の相手がいるのに、それ以外の相手と深い仲になるということ自体が紫のポリシーから外れている。いくら軽そうに見えても恋愛には晩熟で、今更それを変えることはできない。
「誰も、今すぐ上手にやって欲しいとは言ってませんよ? ただ、そんな嫌そうな顔をしないくらいには慣れていただきたいと思っていますが」
心なしか傷付いたような顔をする黒田に、意地を通すことはできず、結局は紫から折れることになる。
それでも、“イヤ”なのは黒田に口まで自由にされることではなく、がっかりさせてしまうことだと弁解するのはやめておいた。






「参ったなあ……」
通話を終えて受話器を戻し、紫は盛大にため息を吐いた。

近頃、やけに男に絡まれるようになったと思う。
紫がオープンにしている性癖は、プライベートだけでなく仕事関係や顧客相手にも広く知れていて、からかい混じりの声をかけられることには慣れている。
それでも、大抵の相手は真に受けないか自分には無縁のことだと気にも留めないかで、真偽のほどを追及されるようなことは今まではなかった。

だから、暗に“男を試してみたいという好奇心につきあえ”というような言い方をする相手に困惑して、紫の独断では答えられないと返事を引き延ばしている。
なにしろ、相手の指定はホテルで食事というあからさまな誘いで、きつい冗談だと笑って流すこともできなかった。応じれば了承したと受け取られるだろうし、断る理由も思いつかない。

――仕事を通じて知り合ったが、食事に誘ったのは私的なもので、その延長線上で深い関係になった。

おそらく、相手の筋書きではそういうことになっているのだろう。
もちろん、今時そんな風に体を張って接待するような必要はないはずで、上司に相談すればきちんと対策を講じて貰えるだろうが、揉め事が苦手で事勿れ主義の紫には、そんな手順を踏むことさえ面倒だった。

もし、断り切れずに流されてしまったら、黒田は何と言うだろうか。転びそうになって他の男の腕に掴まっただけで嫌味を言うような男が。

でも、ほんの数日前には早く経験を積むようにと言われたくらいだ。
いちいち子供じみた反応を見せる紫が面倒くさくなり、恋人扱いするのはもう少し成長してからでいいと思い直した可能性も無くはない。
そう考えると、好奇心を満たしたいだけの相手と、経験値をあげたい紫との需要と供給のバランスは絶妙に合致していると言える。そして、その打算的な関係は、黒田にとっても都合の良い事態のようにも思えた。
「一石二鳥と割り切って頑張ってくるかなあ……」
これが交渉中の相手でなければもっと簡単に割り切れるのかもしれないが、 関連会社の契約にも繋がっているとなれば、尚更おざなりにはできなかった。
いくら表向きはプライベートと言われても、不興を買えばビジネスに直結するのは必至で、考えれば考えるほど身の振り方を迷ってしまう。
かつての同僚のストーカー騒動以降、顧客とのトラブルは絶対ご法度という通達が回ってくるくらい、上層部はナーバスになっている。応じるにしろ断るにしろ、慎重な対応を心がけなければならなかった。






「どうかしたんですか? こんな時間に」
“こんな時間”と言うにはまだ早いと思うが、明日は早出の黒田にとっては、来客を煩わしく思うような時間なのだろう。

“今晩泊めて”と短いメールを打ってほどなく、紫は黒田の部屋を訪ねていた。
呆れたようにドアを開けた、日頃あまり見ることのないパジャマ姿の黒田に、足元が覚束ない振りで抱きつく。
「紫さん?」
驚きながらも、よろめきもせず受け止める黒田に苛立って、尚も理由を聞きたがる口元を塞いだ。
自分では持て余してしまうほど熱く昂ぶった体を、黒田に預けて何とかして欲しいと訴えたつもりが、軽く躱され、呆れたような目で見下ろされる。
「酔っ払いですか……もう少し早い時間なら歓迎しないでもないんですが」
やんわりと抱擁を解く黒田の、今夜は紫につき合う気がないという答えに、わざわざ来た甲斐がなかったことを知る。飲み過ぎているのは事実だったが、酔狂でこんなことをしているわけではないのに。

過ぎるほどに酒を呷り、意を決してついていったホテルの一室で、土壇場になってやっぱりムリだと泣きを入れて見逃してもらった紫が、他の誰ともしたくなかった行為の続きを黒田に求めても、今は与えられないことを知る。
羞恥と、放出できそうにない熱を抱えたまま黒田の傍に居ることは耐え難く、ここからも逃げ出すしかなさそうだった。

適当な別れの言葉が見つからず、無言のままで背を向ける。ドアに近付こうとする紫の、後ろ手が取られて黒田の方へと引き戻された。
「泊まるんじゃなかったんですか?」
引き止められはしても、黒田の表情はどこか困ったように見えて、内心では切羽詰っていた紫を失望させる。
「やっぱ、家に帰る」
実家住まいの紫は、暗く淋しい部屋に帰るのがイヤだというような感傷もなければ、タクシー代が惜しいような生活もしていない。求めるものが得られないなら、傍に居ても虚しくなるだけだろう。
「せっかく来てくださったんですから泊まっていってください。早出前でゆっくり構ってあげる余裕はありませんが」
言い募る黒田を遮って、掴まれた腕を振り解く。
「余裕ないのは俺も一緒なの。帰って頭冷やす」
「何かあったんですか? 聞くくらいしますよ?」
「別に。帰ったら親も妹もいるし、無理にあんたに聞いて貰わなくていい」
「こんな夜中にですか?」
「俺、愛されてるから」
その嫌味は上手く伝わらなかったらしく、黒田は珍しく不機嫌な感情を露骨に面に出した。
「そうですか。では気を付けて」
あっさりと離された腕は、黒田にとっての紫の価値そのもののようで、あんなにも思い悩んだ自分が馬鹿らしく思えてくる。
沈みそうな気分とうらはらに、酔いの回った紫の体はふわふわと感覚がないくらいに頼り無かった。






不完全燃焼、という厄介な状態に寝不足が加わって、今日の紫は気だるさと欲求不満で、とてもではないが仕事する気にはなれずにいた。
午前だけで既に3度目の喫煙室で、濃いコーヒーを飲みながら煙草をふかしている。

手に余る肉欲など、紫には無縁のものだと思っていたのに。
こんなことなら、昨夜のホテルで泣き落としたりしないで、“気にせずヤっちゃってください”とでも言っておけば良かった。
あんな薄情な男のことを、思い出したりさえしなければ。

煙と一緒にため息を吐き出す。
とりあえずのフォローは今朝のうちに入れておいたが、先方の反応は有り得ないほどに友好的だった。相当の覚悟をしていただけに肩透かしを食らったような気がしたが、心配事がひとつ減ったと思うことにしておく。
難題は、プライベートの方なのかもしれない。他の男に体を許せそうにない紫が、どうやって“練習相手”を確保し、“経験値”を上げればいいのか。


堂々巡りの思考を断ち切るように、喫煙室のドアが開き、同僚の笹原が姿を現した。
「後藤、えらく疲れた顔してるけど、ファイシステムの安土(あづち)さんって、そんなに絶倫だったのか?」
紫の憔悴ぶりを見るなり、笹原は満更冗談とも思えないセクハラ発言をする。
「逆。してくれなくて欲求不満なの」
正確には、してくれなかったのは接待相手ではなく、暫定恋人の方だったが。
「そうだったのか? じゃ、丁度良いかな……志乃家の若さまがお前も同席させろって煩いんだけど、都合つけてくれないか?」
「また“接待”? なんか俺、最近モテモテみたいなんだけど?」
「そりゃ後藤はカムアウトしてるし、ほどよく遊んでそうだから面倒なことにはならなさそうだし、ダメ元で“お願い”してみたくなるんじゃないか?」
「俺、前からオープンじゃなかった?」
「でも、後藤って単なるゲイキャラっぽかっただろ? 仲間うちでも、フカシてるだけなんじゃないかって噂だったからな。それが最近はキスマーク付けて出勤してくるし、気だるい顔してフェロモン垂れ流してるし、皆、今更ながら本当だったのかって驚いてるよ。だから、おまえに興味がある奴は挙って“今のうちに行っとけ”って気になってるんじゃないか?」
自分ではわからないが、黒田とつき合うようになって印象が変わってしまったということだろうか。

「……なあ、俺って可愛いと思う?」
唐突な問いかけに面食らったのか、笹原は息を飲み、やや引き攣った笑いで答える。
「可愛いっていうのは俺にはちょっとわからないな……ただ、色気が出てきたような気はしないでもないというか」
「ふうん……」
やはり、紫を“可愛い”と思うのは一部のコアな趣味を持つ人種だけのようだ。

「で、今晩どうなんだ?」
「今晩って急だなあ……それに、老舗旅館なんて縁起悪そうだし……」
かつて同僚をストーキングしていた相手は老舗ホテルのご令嬢で、その一部始終を間近で見ていた紫には、そういう系統の相手に対するアレルギーと警戒心が植え付けられてしまっている。
それに、もし断り切れずに連れ帰られて、いざという段になってまた怖気づいてしまったりすればシャレにならない。ヘタに期待を持たせて失敗すれば、却って迷惑をかけることになってしまう。
「もう予定が入ってるのか?」
「まだだけど……」
昨夜は結局何もせずに帰ったから、これで中二日、黒田の相手をしていないことになる。明日は日勤のはずだから、おそらく今夜は呼び出す気でいるだろうと想像がつく。
そう考え、返事を渋る心理が我ながら情けなかった。昨日、据え膳を食わないと言ったのは黒田の方なのだから今日の心配をしてやる必要はないはずで、紫がこんなだから一層相手をつけ上がらせてしまうことになるとわかっているのに。

――いっそ、昨夜の腹いせに黒田の誘いを断ってみるのもアリだろうか。
ささやかな反抗をするくらいの権利は、紫にだってあっていいはずだ。

「……同行するだけだからな?」
「悪いな、恩に着るよ。若さまには頑張って口説いてみてくださいって言っとくから、後のことは“当人同士”の交渉で頼むな?」
「それが面倒だってのに……」
紫の反論には耳も貸さず、“嫌悪感を持たない代わりに自分には無関係な世界”だと思っている同僚は、すぐにも連絡を入れるつもりらしく、嬉々として休憩室を出て行った。

また、喫煙室が貸し切り状態になる。
いつまでもサボっているわけにもいかないのだったが、どうにも今日はやる気が起きなかった。
そのうえ新たな火種まで撒かれて、楽観的なはずの紫の気分も沈みがちになっている。
ともあれ、“練習相手”が見つかった以上、腹を括るしかないのだろう。また黒田に煩わしげな顔をされるくらいなら、きっちり経験でも何でも積んできた方がお互いのためだ。

「……最初から、挿れんのはダメって言っときゃいいのかな?」
たぶん、紫の抵抗感を回避する唯一の方法はそれだと思う。
昨夜も臨戦体勢に入った相手のものをそのまま放っておくわけにもいかず、手と口で勘弁してもらったのだから、今日の相手には最初にそう断っておけばいいのかもしれない。
初心者の紫がそんな条件を出すのはおこがましいかもしれないが、経験を積みたいのはその部分なのだし、相手も所詮は好奇心を満たしたいだけなのだから、交渉の余地はありそうに思えた。



昼休みに黒田からメールが届いた時には夜の予定はすっかり決まってしまっていて、紫は躊躇なく“今夜はムリ”と打ち込んだ。
そのあとに、“仕事で遅くなりそうだから明日か明後日なら”と続ける。
昨日の今日で断れば、また紫が拘っていると思われるのではないかという予想に違わず、返ってきた文面は、“まだ拗ねているんですか?”だった。

深く息を吐き、挑発に乗らないよう気を落ち着ける。
いちいち紫が過剰に反応するから、相手に主導権を握られてしまうのだとわかっている。

“接待に指名されたから”“先方の都合だから変更もキャンセルもできない”と、事実だけを書いて返す。
折り返し届いたメールで、場所や終了時間や相手に至るまで、こと細かく追及される。
「あーもう……何なの、この尋問口調。何でそんな逐一報告しなきゃなんないんだっての」
ぼやきながら、黒田の問いのひとつひとつに詳細な予定を打ち込んでゆく。
いつも紫のことを面倒だと言うが、黒田の方がよっぽどウザいのではないかとふと思った。






店を出たときには、腰に手を回されていた。
会食中にも折りに触れて口説くようなことを言う“若さま”をさりげなく牽制していたつもりだったが、それが却って寇になり、紫を捕獲しておかなければと思わせてしまったのかもしれない。

“若さま”こと志乃家の専務の志摩一成は、他所の旅館で五年ほど修行し、今春家業を継ぐべく実家に戻ったばかりの、紫より3歳年下の一見好青年だ。
背は紫よりいくらか高く、人当たりの良さそうな印象を与える柔和な顔立ちをしているが、意外と押しは強いようで、生半可な言い逃れは悉く受け流されてしまい、どうにも帰して貰えそうな気配ではなくなっていた。
この期に及んでさえ身の振り方をはっきりと決められず、ぐだぐだと迷うばかりの紫の優柔不断さが相手に付け込む隙を与えているのだとわかっているのに。

今すぐにも、この後どうするか決定しなければならないような状況に、笹原は態々気を利かせて“二人”にしようとする。まるで、後は任せたと言わんばかりの態度が解せない。ただのヘルプの紫に丸投げするようなやり方は腑に落ちず、何とか引き止めようと笹原の上着の裾を掴んだ。
「あとは個人交渉でって言っただろ?」
耳打ちされる言葉は突き放すような冷たさを孕んでいるようで、縋る指から力が抜けてゆく。
寧ろ炊き付けるような発言をしていた笹原が、紫を助けてくれるわけがないことはわかっていたのに。
このまま志摩に押し切られてしまえば、紫も経験を積むためだと割り切れるのだろうか。


「紫さん」
現実逃避をしたがる意識が聞かせた幻聴かと思ったのは一瞬で、実体を伴っていると視界が認めた途端に酔いが醒めていくようだった。
モノトーンのスーツに身を包み、前髪を上げ厳つい顔立ちを晒した黒田が、他の男に腰を抱かれたまま固まる紫の方へと近付いてくる。
そんな格好をしていたら、会社の者は一目で誰だったか思い出してしまうのに。
「遅いので迎えに来ました」
取り込み中だと見て取れるだろうに、黒田は優先権は自分にあると言いたげな態度で、志摩の腕から紫を奪い取った。
「あ、あの。申し訳ないんですけど、門限なので失礼します。あとは笹原に……」
取って付けた言い訳を最後まで言わせず、黒田は紫の腕を掴んで引き摺ってゆく。
二人が呆気に取られている間に、黒田は待たせていたらしいタクシーに紫を押し込み、自分も乗り込むとすぐに発進させた。
密室に閉じ込めてもなお、黒田は紫の手を確りと握り、精神的にも追い詰めようとしているかのようだ。
「……俺、仕事中だったんだけど?」
内心では安堵しているくせに、余計なことだったかのように抗議する紫に、黒田の冷たい声が返される。
「男に寄り添うのが仕事ですか?」
「あれは場所を変えて飲み直そうかっていう話になってただけで……」
「飲み足りないなら、私が付き合います」
「そうじゃなくて」
紫の言い分は一切聞く気がないみたいに、黒田の表情には取り付く島もない。
まるで浮気現場を押さえられた後みたいに(実際それに等しい状況だったが)、何を言っても紫の不利は確定的だったが、おとなしく従う気にはなれなかった。



「こんな格好までさせてるんですから、少しは私の言うことも聞いてください」
黒田は行きつけらしいバーに紫を連れて来ると、意思を確認するまでもなくカウンターに座らせ、勝手にオーダーまでしてしまった。つまりは、黒田の行動はその言葉に要約されている、ということらしい。
「……あんた、自分勝手過ぎだろ? ちょっとは俺の都合とか気持ちとか、考えようと思わないわけ?」
「紫さんこそ、人の話をちゃんと聞いていますか? 飲みに行く度に酔って他所の男に抱きついて……隙だらけのあなたを連れ帰るのは仔猫を誘き寄せるより簡単でしょうね。外で飲むのは一切禁止にしたいくらい不愉快です」
怒っているだけでなく、ひどく真面目に説教をする黒田に、紫は毒づく言葉を失くして黙り込んだ。
思えば最初に食われた時にも紫は酔っていて、その後も二度ほど他の男の腕にいるところを見られているのだから、黒田の言い分には反論する余地がなかった。

ほどなく紫の前に置かれたのは冷酒の緑茶割りで、あまり日本酒が好きではない紫にも意外と飲みやすく、間がもたなかったことも手伝って、すぐに空にしてしまったほどだった。
殆ど会話のない中で何度もグラスを変えられ、さすがに許容量を超えていると思いながらも、半ば強引に勧められるままにグラスを空けてゆく。
「なあ」
気まずさに先に折れたのは紫で、黒田を見上げようとした頭がぐらりと揺れたとき、すっかり酔いが回ってしまっていることに気付いた。
「……こんな、酔い潰させるようなこと、しなくても」
どうやら呂律も怪しくなっているようだと思ったが、もう手遅れだった。
「そう強くもないくせに、下心全開の男の前で無防備に飲んだ罰です。私より、他の男を警戒しようとは思わないんですか?」
「別に……下心、大歓迎だし」
酒の力でも借りなければ、どうにも他の男と経験を積んでもいいなんて気にはなれない。酔い潰れてしまえば、少しは拒否感も鈍るのではないかと浅はかな期待を抱くくらいしか、紫には逃げ道がないのに。
「あなたを持ち帰ってもいいのは私だけです」
不意に、おそろしい力で二の腕が掴まれ、無理矢理席を立たされる。真っ直ぐに立てない紫を引っ立てるようにして、黒田は店を後にした。
「支払い、してないだろ?」
「構いません。知り合いの店ですから、状況は察しているでしょう」
店に入ったときの雰囲気からもそんなような気はしていた。どうあっても黒田は自分のテリトリーに紫を引き込まなければ気が済まなかったのかもしれない。
酔いに支配された体は紫の思い通りにはならず、黒田に抱きかかえられるようにしてタクシーに乗せられる。
今日は黒田の部屋には行かないとメールのやり取りの中で伝えてあったはずなのに、結局、今夜も何ひとつ紫の言い分は聞き入れられそうになかった。



「あっ……て」
靴を脱ごうとした足が縺れて、玄関先で転びそうになった紫に体勢を立て直させる間も与えず、大きな体が覆い被さってくる。
「やめろって」
動きを封じ込むように抱きしめてくる腕から逃れようと、窮屈に身を捩った。
「いや、だって……ん」
拒む言葉は最後まで言わせてもらえず、煩げに唇を塞がれる。後頭部に回された手は強く、首を振ることも許されない。
上向かされ、食われそうな勢いで絡み吸いつく舌が、頭の芯まで痺れさせる。
クラクラするのは酔いのせいなのか、うまく対応できない紫を好き勝手に弄る濃いキスのせいなのか、わからないままに黒田に身を預けた。
「っは……ん」
背が軋むほどに抱かれ、唇の中も外も舐められ吸い尽くされ、酸欠を起こしそうなキスから解放されたときには紫の思考は蕩けきっていて、潤んだ瞳がぼんやりと開く。
「……私はあなたを満足させていませんか?」
やけに張り詰めた声のする方へと顔を向け、黒田の表情を追う。
満足どころか、悩まされてばかりだと思うのに。
とはいえ、満足させていないのは紫も同じなのだから、黒田を責められた義理ではないのかもしれないが。
「何が足りないんです? 回数? 頻度? まさか、サイズなんて言わないでしょうね?」
そこまで言われて漸く、黒田の懸念する“足りないもの”の正体に思い当たって顔を赤らめた。
確かに、昨夜黒田を訪ねたのは身も心も満足させて欲しいと思ったからだ。他の男と経験値を上げようとして失敗して、紫にこんなことをしてもいいのは黒田だけだと思ってしまった可哀そうな自分を何とかして貰いたくて、突き離されるかもしれないとは思いもせずに直行して来てしまった。
「何、バカなこと……何で、俺がそんなこと」
もしかしたら、昨夜何もせずに紫を帰したことを、黒田も少しは気にしているのだろうか。
「仕事だと言っていましたが、まさか今までもこんなことをしていたんじゃないでしょうね?」
「こんなって何だよ? 俺が酔うたび男と絡んでいたとでも言いたいのか?」
「身近なところで言えば、工藤さんあたりがタイプなんじゃないですか?」
あまりに突拍子もない言いがかりに、懐柔されかかっていた意識がまた反乱を起こす。冗談にしたって、性質が悪過ぎる。
「何で、あんなゴツいのが俺のタイプなんだよ? あんなの相手にしたらマジ死ぬって」
「私とつき合っているのに、工藤さんが無理ということはないでしょう?」
「いや、それ以前に工藤が俺を相手にするわけがないだろ? ていうか、俺に限らず、ゆいちゃん以外の男は全滅だから」
「紫さんくらい美人なら有りかもしれませんよ?」
「俺、性別間違われたり疑われたりしたこと、一回もないから。それに、俺も一応男なんだし、そう簡単に襲われるわけないだろ」
治まりかけたかに思えた黒田の機嫌が、一気に降下してゆくのが目に見えてわかる。
「ああ見えて、ゆいは格闘系ですよ。あなたを組み敷く方がよほど容易いと思いますが」
蔑むような視線と言葉に、黒田の本音が垣間見えた気がする。暗に紫を軽んじられただけでなく、全て否定されたような気がした。
“誰か”と比べて劣るなら、端から手出ししなければ良かったのだし、そう思った時点で、それこそ今すぐにでも手放してしまえばいいのに。
誰とも衝突せずに上手く立ち回りたいと思うから軽さを装い生きてきたのに、黒田に対してだけはそれを貫き通すことができず、つまらない意地ばかりが自己主張する。
「俺は力ずくでヤられんのとか、イヤなの。それくらいなら諦めてヤらせてやる方がいいから」
「そうでしたね。私の時にも、本気で抵抗しているようには思えませんでした。あの時は都合のいい解釈をしてしまいましたが、あなたは誰が相手でも許すんでしょうね」
棘のように刺さった言葉に、言うつもりのなかった思いがせり上がってくる。こんな告白めいたことを、教えてやるつもりはなかったのに。
「俺もそう思ってたけど、残念ながら他の奴にヤられんのはイヤだったんだよな」
「……紫さん? そんな言い方をされると、まるでそういう状況に陥ったことがあるみたいに聞こえるんですが?」
投げやりな気分の紫には、その声の緊迫感に気付くこともできず、ただ事実を伝えるだけの言葉に深い意味を感じることもなかった。
「そうだよ? “体を張った接待”しろって言われて、断るの面倒だったし、ものは試しと思って行ったけど、いざとなったらどうしてもイヤで、泣き入れちゃったけど?」
一瞬で切れそうに張り詰めた空気を醸し出した黒田に、反射的に目を瞑ってしまう。
拳は飛んで来なかったが、紫の肩口へと顔を伏せてくる黒田が、ひどく低い声を絞るように言葉を継ぐ。
「……それは、いつのことですか?」
「昨夜、ここに来る前」
ゆっくりと紫の腕へと移動してきた手のひらが力を籠め、痛みに肩を揺らした瞬間、体が壁に押し付けられた。
「って……」
「まさか、あなたにそんな度胸があるとは思いませんでしたよ」
「え……っ」
紫の襟元へかけられた指が乱暴にネクタイを緩め、おざなりに解く。抗う間もないほどの手際よさで、シャツの襟元が左右へ引き裂かれた。
「な、何……」
確かめるように肌を滑る手に、体が震える。
ベルトを外し、ジッパーを下ろす手が、淀みなく紫の身ぐるみを剥がしてゆく。
「……なあ?」
何が黒田の逆鱗に触れたのかわからず、おそるおそる核心を問う。
「他の男も試してみたくなりましたか?」
「俺が試したいわけないだろ? 接待だったんだ」
「今時、そんな接待をする必要があるとは思えませんが」
「だから、断るのが面倒だっただけで」
また二人を包む空気が密度を増したようで、息の詰まりそうな緊迫感に身じろぐことも躊躇われる。
体だけのつき合いは浮気とは言わないと定義していたはずの男が、こんな風に激昂するとは思いもしなかった。
「今まで身持ちが固かった反動ですか? そんな無防備に誰にでもついていけば、痛い目に遭うに決まっているでしょう? 私みたいに優しい男はそういませんから」
「ふざけんな、あんたのどこが優しいんだ」
「初めての時から喘がせてあげたでしょう? 時間をかけて、傷を付けないよう細心の注意を払いましたし、その後も今までの私には考えられないくらい大切に扱っていますから」
「言うな、そういうの。大体、経験積めって言ったの、あんたじゃないか」
「まさか、それで他の男と試そうと思ったなんて言うんじゃないでしょうね?」
ふっと、紫にかかる黒田の力が緩んだ。
自分でスキルを上げろと言っておいて、まさかという気が知れない。それがどれほど紫の負担になっているのか、この無神経な男にはわからないのだろうか。
「それしかないだろ?」
「……そこまで馬鹿だとは思いませんでしたよ」
盛大にため息を吐いた黒田が、紫の肩で脱力する。
「紫さん、“経験を積む”のは、“私と”に決まっているでしょう?」
「へ……?」
もはや小ばかにしたようではなく、憐れむように紫を見る黒田の、言葉はすぐには理解できなかった。
まさか、“経験を積んで出直せ”的に受け止めていたのは紫の思い違いで、黒田が手ずからレクチャーする気でいたということだったとは。
「ともかく、こちらも誠実におつき合いさせていただいてるんですから、あなたも相応の覚悟と態度で臨んでください。この際はっきり言っておきますが、私は浮気も本気も許しませんので」
何の権利があってそこまで、と言い返したかったが、そう言えないくらい紫が黒田に染められていることなど見抜かれているに決まっている。


「その男にされたことを、正直に話してください」
片がついたと思ったのは気のせいだったようで、黒田は真剣な顔で“泣きを入れた”過程を追及し始めた。
「……そういうこと、聞くなよな」
「浮気しようとしたんですから、このくらいのペナルティは当然です。それとも、無理矢理喋りたい気持ちにさせてあげた方がいいですか?」
それが既に“無理矢理喋らせようとしている”と思うのだが、突っ込むには紫に不利過ぎる。
「別に、特別なことは何もないからな? 先にシャワー使ったから服は自分で脱いでたし、何かいろいろ触られたけど……俺、結構飲んでたし、あんま覚えてないから」
うやむやにしようとする紫の心情は黒田には伝わらず、厳しい視線で先を促される。
「だから……いきなり突っ込むような奴じゃなかったから……俺、誰かさんのおかげで不感症じゃないみたいだし」
ふと気付けば、黒田は憤懣やるかたないといった風情で、つられて紫も口を噤んだ。
そんな顔をするくらいなら話させなければいいと思うのだが。
「……よく我慢しましたね?」
どう“我慢”なのか深く考えもせず、紫はその時の感情を思い出して口にした。
「も、先っぽが入っただけで限界で……契約がどうとか考えるような余裕なくて」
「挿れられたんですか?」
俄かに怒りのオーラが増し、紫にかかる圧力がきつくなる。地雷を踏んでしまったと気付いて言い直してみても、何の意味もないことだった。
「先っぽがちょっとだけ、だけど」
「先だけだろうが全部だろうが、挿れられたことに変わりはないでしょう?」
一度は冷静さを取り戻したかに見えた黒田が、紫の抵抗を封じ、有無を言わせぬ語調で続けた。
「……今日は、気がすむまでつき合って貰いますので」
当然の報いだと言わんばかりに紫を見下ろす目はおそろしいほどに据わっている。
「でも、あんただって、明日仕事だろ?」
仕事を理由に、昨夜は紫につき合えないと言ったくせに。
紫の都合など一切考慮する気のない身勝手な男は、明日も出勤だと知っていながら、朝まで一睡もさせてくれなかった。






「後藤の彼氏、ヤ系みたいに怖いな」
「……まあ」
人に言われるまでもなく、黒田が怖いことなど昨夜一晩で嫌と言うほど身に沁みて思い知らされていた。
よく今日仕事に来られたと自分を褒めてあげたいくらい、体中はギシギシと軋みそうなくらい疲労を極めている。煙草に手が伸びないくらい喉はひりひりするし、立て続けに濃いコーヒーときついミントガムに頼っていなければ目を開けていられないくらい激しい睡魔が引っ切り無しに襲ってくるし、何より腰やら尻やらが痛だるくて座っているのも辛いほどだった。
それでも、今すぐ横になりたいくらい疲弊し消耗しきった紫に追い討ちをかける、笹原の一言に眠気が飛ぶ思いがする。
「……あいつって、あの時の奴だよな?」
バレているかもしれないと覚悟していたつもりだったのに、情けないくらい体が硬直してゆく。笹原に知れれば工藤の耳に入るのは時間の問題で、それが紫の最も恐れている事態だった。
別に、紫が誰とつき合おうと口出しされるような関係ではないが、相手が工藤の最愛の人を一度ならず奪ったことのある人物となると話が違ってくる。ただならぬ因縁のある相手が、ただの同僚とはいえ紫とつき合っていると知れば、激昂するのは間違いないだろう。
始業までに、昨夜の志乃家の件を笹原と話し合わなくてはいけないのだったが、今の紫には尋問に耐えうる体力と対策を練る気力はなさそうだった。

扉の開く音に、ふっと緊張感が解ける。
とうに禁煙に成功した、喫煙室に入ってくる必要はないはずの、紫が今一番会いたくないと思っていた男が姿を現した。
「後藤? 志乃家の志摩さんから電話だ。クレームっぽい雰囲気だったんだが、何かやらかしたのか?」
いわば“鳶に油揚げ”状態の昨夜を思い出せばクレームをつけられるのは当然で、誠心誠意謝罪するしかないのだろう。
「ちょっと昨日な……後で謝罪の電話を入れるつもりだったんだけど、気が早い人だなあ」
「何だ、その声? 風邪でもひいたのか?」
「まあ……そんな感じ?」
重い腰を上げる紫の代わりに、笹原が工藤を引き止める。
「工藤は、後藤の彼氏が誰か知ってたのか?」
「いや。また新しいのを引っ掛けたのか?」
クレームの対処はまず第一に迅速な対応だとわかっていながら、どうしても一言話しておかなくてはいけないと思い、工藤を振り向いた。
「引っ掛けられたの、俺の方だから。不可抗力の事故だし、俺のせいじゃないから」
後々面倒にならないよう、きっちり間違いを訂正してから喫煙室を後にしようとした紫の足を、笹原の決定打が止めさせる。
「前に工藤にストーカーしてた令嬢のボディーガードしてた奴、覚えてるだろ? あれ、後藤の彼氏らしいぜ」
「ばっ……」
聞こえなかったフリで立ち去るべきところを、紫は思わず笹原を黙らせようと引き返してしまった。
「……“可愛い年下の男”がいいんじゃなかったのか?」
まさか、そんなことはあり得ないだろう? と問う工藤の言葉を打ち消すように、笹原が畳み掛ける。
「可愛いの、後藤の方だったぜ? 昨夜、志摩さんと一緒のトコに彼氏が来て拉致られてったんだけど、しおらしいっていうか可愛いらしいっていうか」
笹原の話は面白おかしく続いていきそうだったが、からかわれることより工藤の反応を見るのが恐ろしくて、 とりあえず目下の問題、礼を欠いてしまった昨夜の相手に謝罪することを優先させるという大義名分のもと、紫は休憩室から逃避することにした。



- ドメスティック.X - Fin

【 W 】     Novel       【 Y 】


というわけで、6話に引っ張ります。
笑えない展開になりそうなので、ひとまずエンドマークをつけておきました。

雛瀬は可愛い攻めを目指してます……。
いつかカッコ可愛い彼(受け)とくっつけてあげたいと思っています。