- ドメスティック.X(前編) -



ほんの数週間で、雛瀬は急に大人びたような気がする。
近付いてくる雛瀬の、紫に気付いて嬉しそうに笑う顔は相変わらずの可愛らしさなのに、全体のフォルムは一回り大きくなったように見えて戸惑った。
「ごめんね、ゆうちゃん。待った?」
つき合っていた頃にはわりと下にあったはずの目線も今はさほど変わらず、心なしか男っぽさを感じさせるようになった気さえする。
「そうでもないよ。ヒナ、お腹すいてるでしょ、先に食事に行こうか?」
“先”と言ってから、その続きまであるような言い方をしてしまったことに気付く。それほども、今の紫は余裕を失くしてしまっているのかもしれない。

背を促す雛瀬の手の力強さが紫を落ち着かなくさせる。催促するような甘えた仕草ではなく、まるで主導権を取られたように感じるのは、ただの被害妄想だろうか。

前回、雛瀬と偶然会ったときに次を匂わせる言葉で別れた手前、一度は会って話をしないといけないと気に掛かってはいた。雛瀬が意味有りげな言い方をしていた真意はわからなくても、今の紫がフリーではないらしいことは伝えておかなければ、と思う。
だから、昼休みに届いた雛瀬からの“お誘い”メールに、迷いながらも了承の答えを返した。先延ばしするほどに話し難くなりそうなのと、今日なら黒田は夜勤で、心置きなく会うことができるというタイミングの良さがあったからだ。
それからずっと、なるべくさりげなく伝える言葉をいろいろ考え続けている。


まだ雛瀬とつき合っている頃によく行っていた居酒屋は今日も賑わっていたが、テーブルごとにロールスクリーンで仕切られた造りになっているため、声を抑えめにしておけば周囲を気にしないでいいという利点がある。
とりとめのない会話をしながら、注文したものが半ば片付いた時点で、育ち盛り真っ只中らしい雛瀬に追加を尋ねようかと思っていた矢先に、先に切り出された。
「ねえ、ゆうちゃん? ずっと気になってたんだけど……俺とつき合ってるときに、何にもしようとしなかったのって、俺のこと好きじゃなかったから?」
若さゆえの直球か、雛瀬の問いには遊びがない。
「そんなことないよ、ヒナのこと可愛いと思ってたし、すごく好きだったよ」
それは紛れもない真実で、紫が可愛い男子に惹かれ、その幼さゆえに衝動的になることがないというややこしい性癖でさえなければ、モラル面はともかく当の二人は幸せな恋人づき合いができていたのではないかと思う。
とはいえ、これまで黒田に強引に迫られるとき以外に相手が誰であれ欲情したことのない紫が、いつか雛瀬と深いつき合いに至ったかどうかは今となっては甚だ怪しいのだったが。
「ゆうちゃん、まさかと思うけど、この間の人とつき合ってるなんてこと、ないよね? ちょっと会わない間に、ますます可愛くなっちゃってるみたいだけど」
責めるような視線はお門違いで、振られたのは紫の方だったはずなのに、居心地の悪さと的確に言い当てられた気恥ずかしさで、すぐには言葉が継げなかった。
それを肯定と取られるとわかっていたのに。
「ひどいよ、ゆうちゃん。俺、ゆうちゃんを口説くために修行してたのに」
「なに、修行って……」
「ゆうちゃん、いつまで経っても何もしそうにないし、あの頃はどうセマったらいいのかもわからなかったから、経験積んでから口説き直すつもりだったんだ。ねえ、ゆうちゃん、俺がさっさと襲っちゃえば良かったの?」
ある意味、的を射た言葉に冷や汗をかきながら、どう言えば雛瀬を傷付けず納得させられるかを考える。
紫の気遣いなど気付きもしない風に、雛瀬は一人で結論に向かっていってしまう。
「今の俺じゃ、ゆうちゃんを取るのは無理なんだろうけど……絶対カッコよく育つから、もうちょっと待ってて」
いつの間にかテーブル越しに雛瀬に手を握られていて、その骨細の手の意外な大きさに戸惑い、やんわりと解くこともできずに呆然としてしまった。






「何かありましたか?」
心配げ、というよりは胡散臭げな眼差しで紫を見下ろしているのは、相手曰く恋人関係にあるはずの黒田。
とはいえ、そんなものは名ばかりで、来て数分でフローリングに押し倒されているような現状は、実質セフレに過ぎないのかもしれない。
「……何で?」
「紫さんが全く抵抗されないのは珍しいですから……もちろん、素直になってくださったのなら喜ばしい限りですが」
言われてみれば確かにその通りで、普段の紫はどのみち食われると知っていても一度は抗わずにいられないのに、今日はこの体勢より重大な思考に捕われている。

昨日からずっと、雛瀬の告白が後を引いて、未だ動揺は治まっていない。

至近距離から注意深く観察するように見つめる眼差しに負けて、心に引っ掛かったままの疑問を口にする。
「なあ、俺って“可愛い”と思う?」
「そうですね、誰より可愛いと思っていますよ」
「それって、あんたの“特殊な嗜好”からすれば、だろ? そうじゃなくて、俺が聞いてんのは一般論」
「たぶん、あなたを可愛いと思わない人の方が少ないんじゃないかと思いますよ。このところ、日増しに可愛らしくなっているようですし」
「冗談だろ?」
黒田だけの思い込みなら“奇特な趣味”で納得がいくが、世間一般の評価まで“可愛い”なんて有り得ない。
「誰かに可愛いと言われましたか?」
「べ、別に……」
口ごもる紫の焦燥など、黒田には容易く見抜かれてしまうようだ。
「この間の学生さんですか? さすがに、あの人が紫さんを可愛いと言うのは10年早いと思いますが」
一言たりとも雛瀬に繋がるようなことを言ってはいないはずなのに、黒田の洞察力は鋭過ぎる。もしかして、紫の顔には黒田にだけわかる字幕でもついているのだろうか。
「で、“遊んで”あげたんですか?」
追及する声音は穏やかなのに、笑っていない目元が紫に嘘を吐かせなくさせる。話せばまた鼻先で笑われるだけだとわかっているのに。
「ご飯一緒しただけ。相手は子供だし、あんたの言う“遊び”は俺にはできないから」
「あなたほど子供じゃないような気がしますが……子供のフリをして油断させているだけかもしれませんよ?」
さんざん言われ続けた言葉をもう気にしないでいようと思っていたのに、ひと回りも年下の雛瀬より子供だとまで言われて軽くキレた。
「未成年のヒナより俺の方が幼いと思ってるんなら、金輪際やらしいことはするなよな」
ことある毎に紫を子供だと言いながら、三日と空けずに体の関係を強要するような黒田の行動は矛盾していると思う。
「中身が子供だからといって、疾うに成人している人が相手なら法には触れませんよ」
いけしゃあしゃあと言い切る黒田に、腕力では勿論、口論でも勝てないことなど知っていたのに。

乱され、はだけられた衣服を直す無意味さはとっくに学習済みだ。少しは抵抗しなければ張り合いがないのかもしれないが、生憎、今の紫はそんなマニアックな趣味につき合ってやるほど寛大な気持ちにはなれなかった。
「たとえ俺が未成年だったところで、あんたが気にするとは思えないけどな?」
「そうですね。今となっては、たとえ紫さんの実年齢が半分だったとしても見逃せませんね。私は人格者ではありませんから、良心の呵責を感じるということもないですし」
元より黒田に良心も常識も期待していない。責任や約束を求められる危険性もなく、手軽にヤれる紫は、いくら黒田が相手に困っていなかったといっても、まるっきり興味が失せてしまうまでは手放すには惜しいのだろう。
顎を覆うように伸ばされた手が唇へかかる。すっかり諦めの境地で目を閉じた。
まがりなりにも紫のことを“恋人”だと言うだけあって、黒田のくれるキスは気持ちがいい。実際には恋人扱いされているとは言い難いとしても、あやふやだった二人の関係を定義する言葉に異論を唱える気はなかった。
年齢のわりに疎かったその先のことも、ずいぶん慣らされたように思う。“三日と空けず”という相手の要求を、素直にとは言えないまでも受け入れ続けたおかげで。


キスの余韻を長引かせようとするみたいに、黒田の指が紫の唇を弄る。軽く閉じた唇を何度も撫で、緩んだ隙間を往復し、口腔内へと滑り込む。
舐めろということだと思っていたが、長い指は舌を躱し、また紫の唇を弄り出した。
わけのわからぬ行為の意味を、よくよく考えもせず尋ねてしまう。
「……なに?」
「ここに入れていいですか?」
「なっ……」
再び唇を割るそのいやらしげな指の動きと意味深げな視線で、黒田が何を望んでいるのか気付いてしまった。
期待に満ちた眼差しに晒されていると、ささやかながら存在しなかったわけでもない好奇心が萎んでゆく。殆ど経験のない紫が黒田から合格点を貰えるとは到底思えず、想像するまでもなく小馬鹿にされる光景が目に浮かぶようだった。
「だめですか?」
答えられない紫の唇の中へ入ってくる指が、上顎を撫で、舌に触れる。
催促するように蠢く指に耐え切れず、顔を逸らして指を拒んだ。
「……舐めるくらいなら」
それでも、紫にしてみれば随分な譲歩だったというのに。
紫の返事は、ますます黒田の評価を落とすことになってしまったらしかった。
「今時、中学生でもそんなに躊躇しないでしょうね」
呆れたようなため息に気は重くなるばかりで、悩むほどにハードルは高くなっていくような気がする。
でも、何と言われようとも、年相応の経験を積んでこなかった紫には荷が重く、惨憺たる結果を恐れて二の足を踏むばかりだ。
「……しょうがないだろ、俺は初心者なの。あんまり高度なことを求めるなよな」
「それなら早く経験を積んでください。いつまでも、そんな言葉が通用するような年ではないでしょう?」
またその話かと、うんざりしながら黒田を睨み上げる。
経験豊富な相手がいいなら、紫を恋人に仕立てたのが間違いだったと気が付かないのだろうか。
気安く経験を積めと言われても、そう簡単に相手を見つけられるはずもないのに。いくら紫が殆どの相手に対して性癖をカミングアウト済みといっても、黒田のように条件を満たす相手なら誰でもいいとは思えなかった。
否、特定の相手がいるのに、それ以外の相手と深い仲になるということ自体が紫のポリシーから外れている。いくら軽そうに見えても恋愛には晩熟で、今更それを変えることはできない。
「誰も、今すぐ上手にやって欲しいとは言ってませんよ? ただ、そんな嫌そうな顔をしないくらいには慣れていただきたいと思っていますが」
心なしか傷付いたような顔をする黒田に、意地を通すことはできず、結局は紫から折れることになる。
それでも、“イヤ”なのは黒田に口まで自由にされることではなく、がっかりさせてしまうことだと弁解するのはやめておいた。






「参ったなあ……」
通話を終えて受話器を戻し、紫は盛大にため息を吐いた。

近頃、やけに男に絡まれるようになったと思う。
紫がオープンにしている性癖は、プライベートだけでなく仕事関係や顧客相手にも広く知れていて、からかい混じりの声をかけられることには慣れている。
それでも、大抵の相手は真に受けないか自分には無縁のことだと気にも留めないかで、真偽のほどを追及されるようなことは今まではなかった。

だから、暗に“男を試してみたいという好奇心につきあえ”というような言い方をする相手に困惑して、紫の独断では答えられないと返事を引き延ばしている。
なにしろ、相手の指定はホテルで食事というあからさまな誘いで、きつい冗談だと笑って流すこともできなかった。応じれば了承したと受け取られるだろうし、断る理由も思いつかない。

――仕事を通じて知り合ったが、食事に誘ったのは私的なもので、その延長線上で深い関係になった。

おそらく、相手の筋書きではそういうことになっているのだろう。
もちろん、今時そんな風に体を張って接待するような必要はないはずで、上司に相談すればきちんと対策を講じて貰えるだろうが、揉め事が苦手で事勿れ主義の紫には、そんな手順を踏むことさえ面倒だった。

もし、断り切れずに流されてしまったら、黒田は何と言うだろうか。転びそうになって他の男の腕に掴まっただけで嫌味を言うような男が。

でも、ほんの数日前には早く経験を積むようにと言われたくらいだ。
いちいち子供じみた反応を見せる紫が面倒くさくなり、恋人扱いするのはもう少し成長してからでいいと思い直した可能性も無くはない。
そう考えると、好奇心を満たしたいだけの相手と、経験値をあげたい紫との需要と供給のバランスは絶妙に合致していると言える。そして、その打算的な関係は、黒田にとっても都合の良い事態のようにも思えた。
「一石二鳥と割り切って頑張ってくるかなあ……」
これが交渉中の相手でなければもっと簡単に割り切れるのかもしれないが、 関連会社の契約にも繋がっているとなれば、尚更おざなりにはできなかった。
いくら表向きはプライベートと言われても、不興を買えばビジネスに直結するのは必至で、考えれば考えるほど身の振り方を迷ってしまう。
かつての同僚のストーカー騒動以降、顧客とのトラブルは絶対ご法度という通達が回ってくるくらい、上層部はナーバスになっている。応じるにしろ断るにしろ、慎重な対応を心がけなければならなかった。






「どうかしたんですか? こんな時間に」
“こんな時間”と言うにはまだ早いと思うが、明日は早出の黒田にとっては、来客を煩わしく思うような時間なのだろう。

“今晩泊めて”と短いメールを打ってほどなく、紫は黒田の部屋を訪ねていた。
呆れたようにドアを開けた、日頃あまり見ることのないパジャマ姿の黒田に、足元が覚束ない振りで抱きつく。
「紫さん?」
驚きながらも、よろめきもせず受け止める黒田に苛立って、尚も理由を聞きたがる口元を塞いだ。
自分では持て余してしまうほど熱く昂ぶった体を、黒田に預けて何とかして欲しいと訴えたつもりが、軽く躱され、呆れたような目で見下ろされる。
「酔っ払いですか……もう少し早い時間なら歓迎しないでもないんですが」
やんわりと抱擁を解く黒田の、今夜は紫につき合う気がないという答えに、わざわざ来た甲斐がなかったことを知る。飲み過ぎているのは事実だったが、酔狂でこんなことをしているわけではないのに。

過ぎるほどに酒を呷り、意を決してついていったホテルの一室で、土壇場になってやっぱりムリだと泣きを入れて見逃してもらった紫が、他の誰ともしたくなかった行為の続きを黒田に求めても、今は与えられないことを知る。
羞恥と、放出できそうにない熱を抱えたまま黒田の傍に居ることは耐え難く、ここからも逃げ出すしかなさそうだった。

適当な別れの言葉が見つからず、無言のままで背を向ける。ドアに近付こうとする紫の、後ろ手が取られて黒田の方へと引き戻された。
「泊まるんじゃなかったんですか?」
引き止められはしても、黒田の表情はどこか困ったように見えて、内心では切羽詰っていた紫を失望させる。
「やっぱ、家に帰る」
実家住まいの紫は、暗く淋しい部屋に帰るのがイヤだというような感傷もなければ、タクシー代が惜しいような生活もしていない。求めるものが得られないなら、傍に居ても虚しくなるだけだろう。
「せっかく来てくださったんですから泊まっていってください。早出前でゆっくり構ってあげる余裕はありませんが」
言い募る黒田を遮って、掴まれた腕を振り解く。
「余裕ないのは俺も一緒なの。帰って頭冷やす」
「何かあったんですか? 聞くくらいしますよ?」
「別に。帰ったら親も妹もいるし、無理にあんたに聞いて貰わなくていい」
「こんな夜中にですか?」
「俺、愛されてるから」
その嫌味は上手く伝わらなかったらしく、黒田は珍しく不機嫌な感情を露骨に面に出した。
「そうですか。では気を付けて」
あっさりと離された腕は、黒田にとっての紫の価値そのもののようで、あんなにも思い悩んだ自分が馬鹿らしく思えてくる。
沈みそうな気分とうらはらに、酔いの回った紫の体はふわふわと感覚がないくらいに頼り無かった。



- ドメスティック.X(前編) - Fin

【 W 】     Novel       【 X-後編 】


というわけで、今話と次話はシリアス気味になりそうな感じです。
紫争奪戦みたいになるといいのですが。
あ、ちなみにヒナは“可愛い攻め”を目指してますー。