- 仔猫の行方(3) -



西尾勇士は、淳史が最も苦手とする人物だった。
以前、優生が淳史に黙って家出した時に厳しく詰問されて以来、淳史の立場は微妙になってしまったように思う。
まるで保護者のように優生を全ての災難から庇護したいと考えているような勇士も、それに依存しきっているような優生も、内心では気に食わなかった。いくら恋愛の対象にはならないと双方から言われていても、優生が無条件に甘えかかっているということ自体が許し難い。
出来ることなら一生関わるなと言いたいくらいだったが、そんなことを言えば切り捨てられるのは相手の方ではないように思えて強く出られずにいた。
それほど信頼しているはずの勇士にも、優生は音信不通のままだった。よもや紫に先に連絡するとは思いもよらず、淳史はほぼ毎日、勇士に電話を入れていた。
いつものように、帰宅してすぐ連絡を入れようと思った矢先に勇士の方から電話がかかってきた。
『今日、ゆいから電話がありました』
待望の連絡を告げる勇士の声は硬く、あまり良い知らせではないことを匂わせる。
「……元気にしているようだったか?」
『思ってたよりは元気そうでした』
「ゆっくり話せたのか?」
『あまり時間がないって言うから、そんなには。新しい環境に慣れるのに忙しそうな感じでしたけど』
そんなものに慣れるより、早く戻って来いと言いたいのに、言うべき相手は未だに淳史には連絡してこない。
「どこにいるのかは聞いたか?」
答えるまでの僅かな間が、肯定しているようで問い詰めたくなってしまう。知っていたとしても、優生に口止めされたら、勇士は絶対に淳史には教えないとわかっているのに。
『……ゆいは、もう新しい相手と暮らしてるそうです』
既に紫から聞かされて知っていても、言われるたびに胸が焼け付くような痛みに襲われる。


「知っている奴なのか?」
『俺は知りませんけど……ゆいは前に申し込まれた時、工藤さんとつき合ってたから断ったっていうようなことを言ってました』
優生が誰かに口説かれていたことなど、淳史は気付かなかった。優生は疚しいことはすぐ表情や態度に表れるというのに、見過ごしていたのかと思うと自分に腹が立つ。
「俺の所へ来てから知り合ったということか?そいつは優生が一人になるのを待ってたのか?」
あれだけ行動を制限していても、まだ優生に付け入れられる隙があったということも解せなかった。束縛し過ぎだと周りからも呆れられるほどだったのに、それでも優生を揺らがせた相手など想像もつかない。
『そういうことは何も。ただ、今度の相手は不倫の心配はないって言ってましたけど?』
勇士の言葉尻に潜む棘に気付いて、淳史も語気を荒げた。
「俺が二股かけていたとでも思ってるのか?」
『工藤さんは、ゆいに拘る必要はないでしょう?』
おそらく、優生は勇士にも美波子の話をしたのだろう。紫にさえ、あれほど話しているのだから、勇士に隠しているはずがなかった。
「……昔の女の話か?」
『昔じゃないでしょう? きちんと別れてないんじゃないですか?』
「確かに別れ話をしたことはなかったが、とっくに終わってる相手だ。つき合ってたのは七年も前で、相手はそのあと殆ど海外にいて、もう1年以上ロクに連絡も取ってなかったんだからな。誰が見ても、続いているというような状態じゃないだろう?」
『ゆいにもその話をしたんですか?』
「もちろんだ。相手には結婚したことも、やり直す気がないことも話したし、その時も優生は傍にいたからな」
『でも、ゆいは工藤さんの親も公認の仲だって言ってましたけど?』
思わぬところで糸が繋がっていたことに驚いた。それなら、優生を遠ざける原因になっても不思議ではないかもしれない。優生は、淳史の母親の話が出ただけで顔を強張らせるほど、ひどくナーバスになっていた。


「相手を親に会わせたのは10年も前に一度きりだ。それも結婚相手として紹介したわけじゃない。でも、優生のことは結婚したのと同じ気持ちだと話して引き合わせたんだ」
母親が再婚する時に、淳史が一緒に住まない理由のひとつとして、大学に通うのが不便になることを上げた。知らない土地で一人暮らしを始める淳史を心配する母親に、当時は近くに住んでいた美波子の存在を明かしたのだった。その時は親元から離れることしか考えておらず、頼りになりそうな大人が傍にいると言えば少しは安心するだろうというくらいにしか思っていなかった。まだ十代だった淳史が、そうリアルに結婚のことを考えているはずもなかった。
『でも、工藤さんの親は、ゆいのことを気に入らなかったんじゃないんですか?』
「そうだな……気に入っていたとは言えないな」
そうとわかっていても、優生のことを話した時の驚愕と落胆を思えば、無理に説得する気にはならなかった。淳史も、母親の再婚時に余計な口を挟んだ覚えはなく、とうに独立している現状では伴侶を選ぶのに親の了承が不可欠だとも思わなかった。
『責められるのは我慢ならないって言ってましたけど、そういうようなことがあったんですか?』
「責められたって、俺の親にか?」
『工藤さんの元カノの方かもしれませんけど』
あの日以外に優生が淳史の親と会ったとは聞いておらず、もしそれが事実だったとしたら、最後の電話をかけてきた日に淳史の家で待たせていた美波子の方なのだろう。
「優生の連絡先を知っているなら教えてくれないか」
『俺が知りたいくらいです』
「西尾」
つい、声に険がこもってしまうのは、気が急くからだ。淳史の知らない所で、優生を失くさなければならないほどの何が起きたのか確かめたかった。
『工藤さんがそんなだから、ゆいは俺にも教えてくれないんです。揉めるたびに、ゆいは一人で悩んで俺にも黙って行方をくらませて……いい加減、ゆいを諦めてくれませんか』
それが出来るなら、友人の恋人だった優生を掠め取るようなことをしているわけがない。
「悪いが、俺は優生を放す気はないんだ」
『……工藤さん、前に俺が言ったことを覚えてますか? ゆいは気を付けて見ててやらないと無理ばっかするし、何も言ってくれないってやつ。ちゃんと見てくれていたら、こんな結果にはなってないんじゃないですか?』
穏やかな声だったが、勇士の言葉は胸に堪えた。
淳史は自分の言葉や態度を過信してしまっていたかもしれない。優生を安心させるために言った言葉が正しく伝わったと思い込んで、けれどもそれは淳史を油断させる結果にしかならなかったことに気が付かなかった。


勇士の言う通り、もっと注意深く見ていれば、優生の態度の殊勝さは淳史の言葉に納得したからではなく、諦めによるものだったとわかってやることが出来たかもしれない。
優生は誰かの悪意に耐えられるほど強くなれず、執着するタイプでもなかったのだろうが、だからといって淳史が見限られるかもしれないとは考えたこともなかった。それを自惚れだとも思わなかった。優生に愛されているかどうかはともかく、淳史がベタ惚れだということを、優生は身を持って知っていたはずだった。
「まだ終わったわけじゃない。俺は優生と別れる気はないからな」
『戻ってくると思いますか?』
「優生は今度の相手を条件だけで決めたらしいからな」
『そうなんですか?』
「優生がそう言ったらしい。だから一刻も早く迎えに行きたいんだが」
だから連絡先を教えてくれと言う前に、勇士がため息を吐く。
『……俺も、ゆいは工藤さんの方が好きなんだろうと思います。ゆいが誤解してるだけなら、連絡があれば解くよう協力しますけど……他に、ゆいが戻るのに支障はないですか?』
「何か気になるようなことを言っていたのか?」
『俺の思い過ごしかもしれませんけど、ゆいには工藤さんの所に戻れない事情があるような感じがしたから』
母親には優生がいなくなったことは伝えていない。そんなことを言えば、まさしく思うつぼで、喜んで縁談のひとつも持ってきかねないような気がしたからだ。けれども、優生が淳史の傍に居辛くなるようなことを言ったかもしれないとなると、尋ねてみないわけにはいかなくなった。
「一応、親には優生に何か言ったのかどうか尋ねておくが……誰に何と言われようと、俺は優生を取るからな。優生から連絡があったら、放してやる気はないと伝えておいてくれ」
今なら、里桜の言っていた、他の誰の評価も気にしないとか他は全て捨てられるとかいう意味が理解できるような気がした。



勇士との電話を終えると、改めてあの日を振り返った。
優生に電話で一方的な別れを告げられた夜、淳史を出迎えた美波子に驚き、ろくに話も聞かずに追い返してしまっていた。
その時は事態を把握することより、ともかく優生の行方を追うことしか頭になく、少しでも早く心当たりを尋ねることを優先したかったからだ。淳史にとって美波子の件は完了してしまっていて、優生に誤解されているかもしれないとは疑いもしなかった。
優生が美波子を部屋へ入れたと聞いても、淳史の気を逆撫ではしたが、深い意味があっての行動だったとは考えなかった。美波子を通したものの間が持たず、置いて出ていったのだろうという程度にしか思わなかった。
その後も頻繁に連絡してくる美波子をおざなりにあしらっていたのは、優生のいない間に会ったり話したりすることを避けるためだった。美波子が優生が家を出るきっかけを作ったようだと知って初めて、話を聞くくらいのことはしておくべきだったと悔やんだ。
まだ少し迷いながら、美波子に電話をかける。少し長めのコールで出る相手に、前置きをする余裕はなかった。
「優生に何を言った?」
『淳史? いきなり何なの?』
「優生が居られなくなるようなことを言ったのか?」
電話の向こうで、美波子が息を飲む気配がする。
『……もしかして、あれから帰ってきていないの?』
「帰れなくなるようなことを言ったのか?」
『淳史と別れて欲しいとは言ったけど……結婚が無理なら子供だけでも欲しいとも』
「優生は何て答えた?」
『はっきりとした答えはなかったわ。それから、淳史を待つか聞かれて、頷いたら、後はお願いしますって言って出て行ったのよ』
まさか、本気で美波子に後を引き継ぐという意味ではなかったと思いたいが、優生のその後の行動から察するに、違うとは言い難かった。
ただ、優生がそんな風に卑屈になる理由がわからない。


「それだけか?」
『……あれは淳史をお願いします、という意味だったのね』
淳史の心情など気付かない素振りで、美波子は声音に力を籠める。
たとえ、美波子の言う通りだったとしても、淳史には聞き入れる気は毛頭なかった。
「悪いが、俺は自分の面倒は自分で見られるからな」
『私にも家庭的なことくらい出来るわよ? 淳史が専業主婦の方がいいなら、仕事も辞めてもいいと思ってるから』
「そういうことじゃない。俺に必要なのは優生だけだ」
いくら話しても、美波子には理解できないらしい。優生が淳史の家に住んでいたから美波子を選ばなかったのではなく、優生は淳史の胸の中に住んでいるのだと。
『私が一度断ったからなの?』
「あれは美波が仕事のことで悩んでいたから、結婚でもしてみるか、と言ったんだ。俺が結婚したかったというのとは少し違う」
もちろん、美波子が頷けばそうしても構わないと思っていたことに嘘はなかったのだったが。
『そうね……それがわかっていたから断ったんだもの。でも、もし私が受けていたら、今頃は結婚していたのよね?』
「だろうな」
『私は淳史の言葉を支えに頑張ってきたのに』
「断られた時点で無効だろう? 俺は優生と出逢うまでにも、結婚してもいいと思うような相手とつき合ったことがあるからな」
『でも、結局は結婚するには至らなかったんでしょう? 私と一緒になる運命だったということじゃないの?』
根気強く説得するのが面倒に思えてくるのは、かつて世話になった相手に対してあまりにも恩知らずだとわかっているが、つい語気や態度に表れてしまう。


「だから、俺は優生と結婚したと言っているだろう」
『出て行ったまま帰らないのは、別れたのと同じことじゃないの?』
「俺は了承していない。出て行ったと言っても、籍を抜いたわけじゃないしな」
『大体、そういうのは結婚とは言わないでしょう? ただの養子縁組じゃないの』
「しょうがないだろう、優生と籍を入れるにはそれしか方法がなかったんだ」
『……いい加減、つまらない意地を張るのはやめて早く目を覚まして? 淳史に必要なのは、誰にでも胸を張って紹介できる相手よ? ちゃんと籍を入れて子供を作って、普通に幸せになれるのに』
「それ以外は幸せじゃないと言ってるのか?」
『そうじゃないでしょうけど……今の淳史はどうかしてるわ。一回りも年下の子供に血迷うなんて、昔の淳史から想像もつかないわ』
確かに、昔の淳史は存在感のある派手めの女性が好みで、家庭的な安らぎなど求めてはいなかったと思う。惹かれるのはいつも、仕事が出来て、自分に自信を持っていて、男に依存する気など皆目ない、一生結婚などしたくないと考えているような自立した大人の女性ばかりだった。
けれども、いくつかの恋愛を経て、淳史の好むタイプの女性は気性が激しく奔放で、長くつき合うには不向きだと思うようになった。束縛されるのも、我が物顔で踏み込んでこられるのも我慢ならず、深くつき合うことを避けてしまう。
そもそも、自分のテリトリーに他人が入ってくることを嫌う淳史が、そういうタイプの人間と生活を共にすることが出来るはずがなかったのだった。
だから、無駄に喋らず詮索もしない、一緒に居ても余計な神経を遣う必要のない優生が傍にいるのは心地良かった。“奔放な人には懲りた”というニュアンスの言葉に共感を覚え、理想に添った恋人を手に入れた友人をひどく羨ましく感じた。
細過ぎるラインは壊してしまいそうに見えて頼りなかったが、思いのほか柔軟性としなやかさを持っていた。顔立ちも、人目を引くような派手さはないが、パーツのひとつひとつが繊細で整っていて絶妙なバランスで配置されている。美人は三日で飽きるというが、派手過ぎないからか、いつまでも眺めていたいくらい綺麗なのに飽きのこない顔だと思う。恋愛の先まで考えた時、淳史の好みや考えが変わっていったのは当然のことだった。
そう思うに至った経緯を知らない美波子には、淳史が優生を必要としていることがどうしても理解できないのだろう。


「俺が惚れて一緒にいたいと思っている相手を、どうして美波や母親にとやかく言われなければいけないんだ? 年の開いたカップルも、子供のいない夫婦も珍しくないだろう?誰を選ぼうが俺の自由なんじゃないのか?」
『……そこまで言わせるなんて、あの子は一体どうやって淳史を口説いたの?』
「優生が俺を口説いたんじゃない。友達の恋人だった優生を、俺が奪ったんだ」
半ば騙すように自分のものにしたせいで、優生にどれだけ辛い思いをさせてきたかしれない。どうしても手に入れたかったのは淳史の身勝手で、もし見ているだけにしておけば、今頃は俊明と幸せに過ごしていたはずだった。そうとわかっていても、傍に置いておきたいと思う気持ちは変えられない。
『淳史がそんなことをするなんて信じられないわ。若気の至りは淳史の方だったの?』
「若気の至りじゃない、本気で惚れてるんだ」
『でも、淳史がどう思っていようと、あの子とはもう終わったんでしょう?』
それに続く言葉を思っただけで抑え難い怒りが湧き上がってくる。優生を離れさせたことで、淳史が美波子と結婚する気になると考えているのなら短絡的過ぎる。
「何と言われようと、美波とやり直すつもりはない。優生が戻らなければこの先もずっと一人のままでいい」
『淳史……すぐにとは言わないから、落ち着いたら私のことも考えて?』
「何度同じことを言わせれば気が済むんだ? 俺は生半可な気持ちで優生に結婚してくれと言ったわけじゃない。もしこのまま優生が戻らなくても、もう他の誰ともやり直す気はないんだ」
『今はそうかもしれないけど……淳史だって、子供ができれば気が変わるかもしれないわ』
引き下がる気配のない美波子に、ふと投げ遣りな気持ちに捕らわれそうになる。今なら優生の嫌う医者の気持ちがわかるような気がした。解放されるためなら、何を犠牲にしても構わないような錯覚を起こしてしまうのは、いい加減だからとは限らないのかもしれない。


「美波に子供が出来れば納得するのか?」
『子供は欲しいけど、ちゃんと結婚したいと思ってるわよ?』
淳史の言いたいことがわかっているのか、美波子は先回りの答えを返してくる。もちろん、肯定されたところで実行するなどあり得ないことだったが。そんなことをすれば、責任と義務が生じて、淳史をがんじがらめにしてしまうだろう。
「俺は既婚だと言ってるだろう? 優生と別れるつもりはないんだ」
『私にシングルマザーになれとでも言うつもりなの?』
「そういうことじゃないのか?」
『ふざけないで。あの子の籍を抜かないとしても、淳史は結婚できるじゃないの』
「俺の意思は無視して、か?」
何度も言ってきたはずなのに、美波子は信じられないと言いたげに声を震わせた。
『そんなに、私と結婚するのは嫌なの?』
「最初から、そう言ってるだろう」
もう言葉を選ぶ余裕はなかった。なるべく傷付けずに済ませられるよう努力してきたつもりだったが、それが優生を失くすきっかけになり、美波子を増長させることになってしまった。
『……信じられない』
「俺も、なぜ美波が突然現れて、こんなことを言い出したのか不思議だったんだが? ずいぶん長く連絡も途絶えていたのにな?」
『そうね……淳史とよりを戻すきっかけを待っていたのかも』
「俺の母親に何か言われたのか?」
『……私からは、何とも言えないわ』
それは肯定に違いなかった。おそらく、美波よりも淳史の母親の方が優生を遠ざける原因を作ったのだろう。
「もし、美波を焚きつけるようなことを言ったんなら悪かったと思う」
『もういいわ、淳史はわざと距離を置いていたのね。私はずっと、タイミングが合わないだけだって思っていたんだけれど……やっと諦めがついたわ』
それが強がりだったとしても、もう引き止めることは出来なかった。
今の淳史には、優生を捜し出すことと、見つけた時に潔白でいることしか考えられなかった。



- 仔猫の行方(3) - Fin


【 仔猫の行方(2) 】     Novel       【 仔猫の行方(4) 】


勝手に惚気てなさい、と言いたくなるくらい書いてみました。
淳史は、もしかしたら義之よりバカかもしれません……vv

それにしても、今の淳史は向かうところ敵ばっかりというか
優生に関わる男はみんな優生の味方みたいで大変そうです。
関白失墜、もう暫くヘコんでてもらいましょうvv