- 仔猫の行方(4) -



当初の予定通りに新居の引渡しは完了し、あとは越すばかりになったというのに、まだ優生の居場所は掴めていなかった。
焦燥は日増しに強くなり、もう二度と会えないような脅迫観念めいた予感ばかりが脳裏を過る。
思い出すのが優生の泣き顔ばかりなのは、淳史といても幸せではなかったからだとしたら、捜すのはただのエゴなのかもしれない。
仕事に追われている間は紛れていても、一人になると思考は同じ所をぐるぐると回り、後悔に苛まれてばかりだった。本当に優生を連れ戻すことが出来るのか、自信は日増しに失われていくような気がする。
転居の話をした時、優生があまり乗り気ではなさそうに見えたのは、こんな事態を察知していたからなのだろうか。
一息吐こうと、無意識に手がテーブルの上に煙草を探してしまうのが情けない。優生がいなくなってからずっと断っているというのに、習慣というのはそう簡単には抜けてくれないものらしい。優生がいない現実に慣れることが出来ないのと同様に。
ため息に被せるように鳴ったチャイムの音に立ち上がる。前もって連絡を寄越していた義之だとわかっていた。
「何か手伝おうかと思って来たんだけど?」
珍しく一人で現れた義之が、全くと言っていいほど変わり映えのしない部屋に視線を巡らせる。優生が戻らないうちに引っ越すことに躊躇いがあり、未だに日を決めることさえ出来かねているような状態では、荷造りはおろか仕分けさえも殆ど手付かずだった。もちろん、優生と相談して決めるつもりでいた、入れ替える予定の家具類の下見にも行っていない。
「いや、まだ日も決めてないし、引っ越す時は業者に任せるつもりだからな。おまえこそ、人の心配をしてる場合じゃないだろう?」
どう考えても、一足先に新居への引越しを済ませてしまった義之の方が忙しく、淳史の手伝いどころではないはずだった。


「とりあえず生活できる程度には片付いたからね。細かな荷解きは追々里桜がしてくれるようだし、僕の方は心配ないよ。淳史も、業者に任せるにしたって少しは整理しておいた方がいいと思うけど?」
「そう言われても、元から余計なものが殆どないんだ。優生も、どうしても必要なもの以外は実家に置いているらしいからな」
短期間に何度も住む場所と相手を変えた優生は、淳史の所へ来る時にあまり荷物を持ち込まなかった。それが淳史の部屋も終(つい)の棲家だとは考えていないという証明のようで、やたらと身の回りのものを買い足させてみたりしていたが、その殆どは残されたままだった。
「生活感がないにもほどがあるよ。縁起が悪いとでも言うのかな? 感心しないよ」
「そうだな……俺もそう思っていたんだが」
淳史に対してもそうだったように、優生の中には執着というものが存在しないのかもしれない。人にしろ物にしろ、あればあるように、なければそれなりに日々を過ごしているのだろう。半身を持っていかれたような淳史とは違って。
知らぬ間にネガティブな方に思考が向いてしまうのを、軽く首を振って払った。まだまだ、諦めるのは早過ぎる。
「ゆいが戻るまで、ここにいるつもりなのか?」
「向こうに入れるものも決まってないしな。優生と相談して決めるはずだったんだが、まだ下見の途中だったんだ」
「僕の所も家財道具は殆ど全部入れ替えたけど、淳史もここのものは処分するんだろう?」
「そのつもりだが」
義之も前の結婚を思い出させるようなものは全て処分して、新しく里桜と選んだものに入れ替えたらしかった。前妻のことを、里桜は全くといっていいほど気にしていないようだったが、義之の方はどうしても納得がいかなかったらしい。
もしも優生がいたら、きっと同じように、淳史が揃え直すと言い張るのを無駄だと呆れるのだろう。そうとわかっていても、やはり淳史も全て入れ替えるつもりだった。他の男との気配が僅かでも残るものは何ひとつ持ち出したくない。淳史と優生以外の存在を連想させるようなものは全てここに残していきたいと思っていた。


「……もし、おまえの母親が生きていたとしたら、里桜とのことは話すのか?」
「そうだね、すぐに話して紹介してただろうね」
「どういうリアクションか想像がつくか?」
「たぶん、可愛い人ね、くらいじゃないかな? たとえ里桜と僕の年齢が逆でも、僕が良ければ余計な口出しはしないだろうと思うよ」
淳史が義之と知り合った時にはもう病床に臥せっていたその人とは殆ど面識はないが、おそらく義之の言う通りなのだろう。良くも悪くも自立した親子関係で、犯罪にでも関わっていない限り、お互いに細かく口出しするようなことはなさそうだった。
「……俺の母親は、優生に別れるよう迫ったそうだ。もう先が長くないかもしれないから、俺に普通に結婚して子供を作るよう仕向けてくれとまで言ったらしい」
「それで家出したのか……それなら、わからないでもないね」
「優生は、俺より俺の親の方が大事なのか?」
きつい視線を向けてしまったのは、義之もそれが当然だと考えているのかと思ったからだ。
「里桜が言っていただろう? ゆいは淳史の親にそんなことを言われて、傍に居続けられるほど強くないだろうと思うよ」
「だからって、電話一本で終わりに出来るか?」
「それは仕方ないと思うよ? 面と向かって話したら却下されるに決まってるし、しかも、その後は監禁生活が待っているときたら話し合いする気になんてなれないだろうね」
確かに、もし淳史が帰るのを待って別れ話を切り出されていたとしたら、今度こそ本気で拘束するとか、中からは開けられない鍵をつけるとか、思い付く限りの対策を講じたに違いない。
「説得ぐらいさせろよ、仮にも婚姻関係を結んでいるんだからな」
「淳史に説得される勇気があるなら、最初から離れようとはしていないよ、たぶん。割り切っているように見えても、本当は思い詰めていたんだろうね」
今なら、優生が別れの電話を掛けてきたのは突発的なものではなかったことがわかる。少しずつ優生の中で嵩を増していった別れる理由は、あの日とうとう飽和量を超えて、零れるしかなくなったのだろう。


「それより、先が長くないかもしれないっていうのは? 何か病気にでもなったのか?」
「ああ、検診でガンが見つかったそうだ。初期で命に係わるようなレベルじゃないんだが、急なことで動揺したんだろうな。万が一のことを考えると、孫の顔も見ないうちには死ねないと思ったらしいな」
「誰しも、いつ死なないとも限らないのに」
同情の余地なし、と言いたげな冷たい面差しは、なまじ顔立ちが端正なだけに酷薄に感じる。
その時の母親の気持ちを察することは難くなかったが、淳史に一言もなく優生に別れを迫ったことは、どうしても許すことが出来なかった。
「そうだな、このまま一生会えない可能性だってあるんだからな。俺も、母親に優生とのことを認めたくないなら縁を切ってもらって構わないと言っておいた」
「気の毒だけど、仕方ないね。僕が淳史でも同じようなことを言うと思うよ」
優生を悩ませていたらしいことは、淳史からすれば些かの躊躇もなく片をつけられることだった。思い余って別れを選ぶくらいなら素直に話してくれていれば、簡単に解決していたはずだ。
「あとは優生を見つけるだけなんだが」
今の淳史にとっては、それが一番困難だった。
「まだ連絡はないままなのか?」
「ああ、どうしても俺に連絡を入れるのは嫌なようだな」
勇士や紫は、優生から連絡があるたび淳史にも連絡を入れるよう説得しているようだが、そんなところだけは頑固で譲らず、連絡はないままだ。
「里桜にも、電話をくれたそうだよ」
「本当か?」
「よっぽど淳史のことが心配なんだろうと思うよ? 里桜に、淳史を元気にしてあげて欲しいとまで言ったそうだからね」
あれほど付き合いにくそうにしていた里桜にまで連絡を入れていたことに驚いた。それと同時に、淳史にだけ声も聞かせない理由を思うと、柄にもなく挫けそうになる。心配などしてもらわなくていい。ただ、会いたいと思ってくれさえすれば。




目が覚めるたび、優生のいない現実を突きつけられるような気がする。
あれほどきつく腕の中に閉じ込めていたはずなのに、優生はするりと抜け出してしまった。
抱き枕を失くした腕は手持ちぶさたで落ち着かず、浅い眠りの中でも、いつも優生を捜しているような気がする。
特に休日は時間を持て余してしまうようになった。気が付くと、知らずに優生のことを考えている。優生と一緒に住むまでは好きに過ごしていたはずなのに、何に対しても意欲は湧かなかった。
ただ、優生がいないというだけで。

ふいにテーブルの上で震え出した携帯に手を伸ばす。ディスプレイに表示された見慣れない携帯番号に気が逸った。誰に対しても公衆電話からだったという優生が、淳史にだけ携帯から連絡してくるとは思えなかったが、可能性を否定することがどうしてもできない。
『工藤さん?』
出来れば一生耳にしたくないと思っていた男の声が、淳史の気を逆撫でした。
一言たりとも話などしたくなかったが、嫌な予感に鼓動がありえない速さで打ち始める。もう二度と会わないはずだった相手がわざわざ電話をよこす理由は、今はひとつしか思いつかなかった。
「……まさか、優生と一緒なのか?」
居場所が知りたいと思う以上に、この男の所にだけは優生を置いておきたくなかった。
『ええ、工藤さんのところを出られてから、ずっと一緒です。もしも捜しておられるといけないと思いましたので、ご連絡させていただいたんですが』
あっさりと肯定されて、やり場のない怒りに拳を握る。慇懃なもの言いは淳史を苛立たせるだけだった。
「……優生がいるなら代わってくれないか」
『生憎、今は傍にいないんです。私は出先から掛けていますので』
「優生はどこにいるんだ?」
『家で留守番しています。そんなことより、工藤さんには他に結婚の約束をした相手がいると聞きましたが?』
相変わらずの人を食ったような言い方がいちいち気に障る。優生の消息を握られていなければ、絶対に関わりたくない相手だと改めて痛感した。
「優生以外とそんな約束をしたことはない」
『では、他の女性と結婚したとか、するとかいうお話はないんですね?』
「あるわけがないだろう。俺は優生を放す気はないんだ。どういうつもりで一緒にいるのか知らないが、すぐに迎えに行くからな?」
『一応断っておきますが、ただお預かりしていたわけではありませんので』
「だからどうだと言うんだ?」
挑発されているとわかっているからこそ、それぐらい何とも思っていないという態度を装いたかった。もし優生が気に病んで戻れないでいるのなら、無用な心配だと伝えてやりたい。それが必ずしも本心ではなかったとしても。


「優生は家にいるんだな?」
上着と車のキーを掴むと、足はもう玄関へ向かっていた。頭の中では、以前一度だけ行った場所への記憶を辿りながら。
『そう簡単に返すと思っているんですか?』
不敵に響く声が、淳史の鼓動を上げさせる。それでは、何のためにわざわざ連絡をよこしたのか。
「……どういうつもりだ?」
『ゆいを家出させることになった事情は解決しましたか?』
親しげに優生を呼ぶ口調が、親密さを誇示しているようで気に入らない。優生が淳史に言わなかったことを、この男には話したのだと思うと目の前が真っ赤に染まった。
「最初から何の問題もないことだ。俺が優生より優先することなど何もないんだからな」
『そうですか。それなら、ゆいと私の間に何があっても問題ありませんね?』
「当然だ」
念を押す言葉を肯定したのは、ただ優生を取り戻したい一心からで、後のことなど深く考えていなかった。よもや、その言葉に縛られることになると思う余裕もない。
『では、ゆいを問い詰めたり責めたりしないでいただけますね?』
所有権を主張するような物言いは許し難かったが、今は淳史の分が悪過ぎた。
「……わかった」
『ゆいには、私とのことを一切聞かないと約束してくれますか?』
「くどい」
『そこまで仰るのなら、二言はないでしょうね。前の所は引っ越しましたので、住所を言っておきます。わかりやすい場所ですので探して来てください』
勿体を付ける理由はわからなかったが、告げられる住所のメモを取りながら最短ルートを頭に描く。アパートだかマンションだかの名称を言わない辺りがとことんいけ好かない奴だと思うが、番地で検索を入れればほぼ特定できるだろう。
渋滞にかからず手間取らなければ、もうすぐ優生に会える。逸る思いは抑え切れず、まずは駐車場へ急いだ。



- 仔猫の行方(4) - Fin

【 仔猫の行方(3) 】     Novel  


不要と思いつつ、一応、名前は出さないようにしておきました。
相手が誰にしろ、優生が淳史以外と過ごすのは許せないという方、重ね重ねごめんなさい。
この後、即行で奪還しに行きますので、安心してくださいvv