- 仔猫の行方(2) -



「工藤」
エレベーターに向かう淳史の後方から掛けられた声に足を止める。
特に急ぎの仕事がなくとも腰を落ち着けることが出来ない淳史に、休憩を取らせるのは大抵、軽薄な風貌の同僚だった。
「タバコ行かない?」
今通ってきたばかりの入り口の方へと視線を向ける紫は、淳史を喫煙室ではなく外へ誘っているらしい。
「何か話でもあるのか?」
「そういうこと。冬湖さんの所行く?」
「いや……のんびり休憩できる状態じゃないしな」
時間より場所の方に難があり、人払いしなければ話せないような内容でないなら、外に出ずに済ませたいというのが本音だった。
「他の奴がいないといいけどなあ」
不満そうにぼやきながらも、紫はさっさとロビーの奥に向かって歩き始めた。
「人に聞かれて困るような話なのか?」
「だと思うけど?」
含みのある言い方で、紫は言葉を切る。
幸い、喫煙室は空いていた。先に入った紫が、薄い皮張りの長椅子の座面に勢いよく腰を下ろす。すぐに煙草を取り出して火を点けるのは、紫のストレス解消法のひとつらしい。
淳史はカップのコーヒーを買ってから、紫の向かいへと腰掛けた。
「工藤、吸わないの?」
「ああ」
何で、と言いたげな顔を淳史に向けながら、紫はさも美味そうに煙草をふかす。淳史も、少し前まではそれでストレスを軽減させることが出来ていた。
探るような視線の居心地の悪さに、淳史は熱いコーヒーに口をつけた。


「工藤、このごろ冬湖さんの所に全然顔出してないんだって?」
「そうだな」
冬湖の店へ行くことを優生が快く思っていないようだと気付いてから、自然と足が向かなくなった。
未だに優生に別れを決意させた事由が何なのかわからず、その可能性のありそうな人物には近付かないようにしている。だから、紫と一緒の時には寛いでいたようだと聞いても、淳史が通うことで優生の気を沈ませてしまうかもしれないと思うと、敢えて行く気にはならなかった。
母親や美波子のことにしても、優生は淳史の思いもよらない方向に受け止めていたようだった。納得がいかなかったのなら率直に話してくれていればと思うが、気付かなかった淳史の方に非があることは否めない。そんな風に折り合いをつけられる方がきついと、優生には理解できなかったのだろう。
もう何日も吸っていないのに、ふと煙草の苦さが甦ってくるような気がした。
「さっき……ゆいちゃんが電話くれたんだけど……」
「何でおまえに連絡してくるんだ」
ふいに湧き上がった怒りを抑えられず、身を乗り出して紫の胸元を掴んだ。スーツの中の淡いオレンジのカッターシャツと一緒にネクタイを絞め上げてしまい、紫が大げさに咽せる。
「俺に心を許してるからじゃないの?」
それでも減らず口を叩く余裕に、緩めかけた手に力を籠め直した。もしもそれが真実なら、このまま絞め殺したって構わない。
「大人げないなあ……そんなんじゃ何の話したか教えてやらないからな?」
軽薄な言葉を聞かされるくらいなら、用件しか言えないようにした方がマシだろうかと、本気で考えた。
「話したい気分にさせてやってもいいが」
「何でそんなに気が短いんだよ、工藤を心配して電話してきたに決まってるだろ? 仕事を休んだり遅れたりしてないかって聞かれたから、真面目に頑張ってるって答えといた」
「それだけか?」
一瞬迷ったような表情を見せた紫が、不似合いなほど真面目な顔になる。


「……言ったら、工藤のこの後の予定が全部キャンセルになるかも」
勿体ぶった口ぶりが癇に障る。
どうして、優生は淳史には言わないことをいつもこの男には簡単に話すのか。何もかもが腹立たしく、好戦的な感情を抑えるのが難しい。
連日のように、知りうる限りの優生の交友範囲に連絡を入れていたが、優生はまだ誰ともコンタクトを取っていないようだった。まさか、よりによって紫に一番に連絡してくるとは思ってもみなかった。
「言いたくないなら、おまえの予定をキャンセルさせるか?」
「工藤、気が短過ぎ。先に断っとくけど、何を聞いても俺に当たるなよな?」
しつこく念を押す紫に頷くと、漸く喋る気になったようだ。
「ゆいちゃん、次の相手が見つかって、一緒に住んでるんだって」
もう一度、今度は思い切り紫の襟元を締め上げた。冗談にしても、質(たち)が悪過ぎる。
「……だから、俺に当たるなって言っただろ!」
「ふざけるな。言っていい冗談と悪いことくらいわからないのか」
「俺だって、冗談ならいいのにって思ってるよ?」
同情するような目を向けられると、それが事実だと認めないわけにはいかなくなった。
「……相手は聞いたのか?」
「なんか、出逢った時にはお互い相手がいたけど、フリーになるタイミングが合ったからつき合えることになったって言ってたから、前からの知り合いじゃないかな?」
淳史の思い付く相手には全て当たっていたが、優生はどこにもいなかったはずだった。紫の言うことが本当なら、おそらくは淳史の知らない誰かということで、優生を追う手段を第三者に委ねることを考えざるを得なくなってしまう。興信所の類を使ったと知れれば優生の機嫌を損ねることはわかっていたが、時間が経つほど取り戻すのが困難になってしまう。
黙り込んだ淳史に、紫は慰めにもならない言葉を続けた。
「ゆいちゃん、条件が合うだけの相手と一緒にいるらしいから、まだ間に合うかもよ?」
もし間に合わないと言われたとしても、反故にするべきなのは他の相手の方で、淳史は優生が受け入れた最後の言葉をどんなことをしてでも実行するつもりだった。


「条件って何だ?」
優生が本心ではどんなことを望んでいたのか、淳史には想像もつかない。ただ、淳史の腕の中にいる時の優生はいつも幸せそうに見えたから、満足しているのだと信じて疑いもしなかった。
「生活の面倒を見てくれて、ゆいちゃんを離さないで一緒にいてくれる人だって」
ますます、相手が思い当たらない。一番可能性が高そうに思えた俊明の所にも依然連絡はないようだった。二度の失踪を責められる言葉以上に、優生が見つからない現実の方が痛かった。居場所さえわかれば、どんな手を使ってでも連れ戻しようもあるというのに。
「俺はその条件から外れているのか?」
「ゆいちゃんが言うには、工藤は麻疹にかかっているみたいなものだから、もっと合う相手がいることに気付くはずだって。工藤には、どういう意味か心当たりがあるんだろ?」
「思い当たることがないってこともないが……まさか、そんな理由なのか?」
目の前の紫に問うでもなく、疑問が口をついた。
優生は、美波子を部屋へ通すことも、淳史と二人きりにさせることさえ気にしてはいないように見えた。それでも、余計な気を回されたくないという思いから、優生を傍に置いたままで美波子と話した。淳史にとって美波子とのことは疾うに過去になっていて、何を言われても優生にきちんと説明できる気でいた。
美波子に結婚しないかと言われた時も、優生は居合わせたことを申し訳ないと思っているような素振りで、むしろ妬く気配もないことに淳史の方が苛ついたくらいだった。
それが全て淳史の思い違いで、優生は身を引く気だったのだと思うと遣り切れない。
「そんなって、どんな?」
「おまえには関係のない話だ」
「ふうん……そういや、工藤、昔の女に結婚セマられたんだろう? ゆいちゃんの目の前で」
もしもやり直せるなら、なかったことにしてしまいたいエピソードにまた打ちのめされる。


「……優生がそう言ったのか?」
「キスされたくらいで拗ねるなって叱られたとも言ってたよ? 工藤って、独占欲は強いくせに全然優しくないのな?」
別れ間際の美波子のささやかな嫌がらせを、予測することも回避することも出来ず、きまりの悪さについきついことを言ってしまった。
その後で、素直に頭を下げた優生がやけにしおらしく感じたことを思い出す。あれは落ち込んでいたわけではなく、淳史を諦めたサインだったのだろうか。
「……その話をおまえにした時、優生はどんな感じだった?」
「なんか他人事みたいにクールだったし、ゆいちゃんは大人だなって言ったら、工藤は友達の恋人っていうシチュに弱いだけだから、そういうのじゃないって。ゆいちゃん、意外と割り切ってたのかもな?」
それを、淳史ではなく他の男に話していたことが腹立たしい。淳史には反論ひとつ返さず、紫には本心を語っていたのかと思うと遣り切れなかった。
「な……離せよ」
緩んだ襟元を絞め上げると、紫は短く声を上げて、淳史の手を振り解こうともがいた。今にも殴りかかってしまいそうな衝動を、強気な声が止める。
「……もし、また連絡くれても教えないからな?」
「連絡がくることになってるのか?」
「来るかもしれないだろう?」
「その時は絶対に俺を呼べよ?」
「近くにいたらな」
「どこにいても呼べ」
「ムチャ言うなよ。おまえにも連絡するように言ってみるけど、たぶん、話したくないから連絡してないんだろうし」
それが真実に違いなかったからこそ、我慢ならなかった。
「てっ」
眼下の薄茶の頭に拳を落とす。淳史を差し置いて優生の信用を勝ち取った紫に、そのくらいの反撃をする権利はあるはずだった。



- 仔猫の行方(2) - Fin

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口止め料をもらったくせに、全部喋っちゃってますねー。
まあ、喋ってくれないことには話が進んでいかないし、優生のためにならないので、
紫の口が軽いと思わないでやってください。