- Stay With Me -



そっと、ベッドを抜け出そうとした優生の体が抱き止められる。
振り向いて淳史の方を見ると、いつから起きていたのか、じっと優生の方を見ていた。
「まだ早いだろう」
「でも、お弁当」
戸惑う優生を腕に閉じ込めるように抱き直す。淳史の腕は少し窮屈過ぎる。
「今日はいいからゆっくりしてろ」
「うん……」
それから殆ど微睡みもせず、淳史の胸に凭れかかったままで過ごした。昨日の、或いは昨日までの絶望的な思いが嘘のようだ。
このまま、何事もなかったかのように幸せに過ごせそうな錯覚を起こさせるほど穏やかに時間が過ぎてゆく。
もしかしたら、淳史はなかったことにしたいのかもしれない。
そんなことを思う自分の甘さに笑いそうになった。優生は意外と懲りない性分なのかもしれない。何度、その思いに裏切られてきただろうか。
「優生?」
何気なく顔を上げると、真っ直ぐに自分を見つめている瞳に焦って目を伏せた。見つめ合うのは怖い。優生の決心を容易く鈍らせてしまう。
答えない優生の頬を大きな手の平が包んだ。探るように重ねられた唇が緩く吸われては離れてまた触れる。深く貪ることをためらうように、何度も軽いキスをくり返す。

短いアラームの音に、そっと淳史の胸元を押し返した。その腕ごと強く抱きしめられて、名残惜しげに髪を撫でられる。
大切そうに扱われると落ち着かなくなるのに。
「休んだ方がいいか?」
思いがけない淳史の問いに首を振る。そんな風に甘やかされたら、離れられなくなってしまいそうだ。
「昨日もサボったのにダメだよ」
「サボったわけじゃない、ちゃんと許可はもらった」
「忙しい時期なんでしょ。そんな我儘を言ったらダメだよ」
ちょっと強めた語気に、淳史が小さくため息を吐く。
「おまえの方が厳しいな」
ようやく起き上がった淳史が、いつものように洗面所に消えていく。
開いたままの扉を見つめていると知らずにため息がこぼれる。
昨夜、優生は淳史の胸の中でこのまま死んでしまおうかと考えていた。
淳史が仕事に出た後で、手首の内側に刃を立てて手前に引けば、あとは流水に漬けておくだけで向こう側に行ってしまえる。
その甘美な誘惑を断ち切らせたのは、一晩経って冷静になれたからだ。
ここで自殺をすれば淳史に迷惑がかかる。マンションを立ち退かなければならなくなったり、最悪の場合には殺人を疑われる可能性だってあるかもしれなかった。それくらいなら黙って消えてしまった方がどれだけ親切か知れない。
それに、どうせなら優生に絶望を突きつけた人物に一矢報いてからでもいいのではないかと思った。




それでも、黒田を捜すのは困難に思えた。なにしろ、黒田という名字しか知らないうえ、居場所を知っているかもしれない相手には聞きようがないからだ。
優生が他にその情報を持っているかもしれないと思い付いたのは一人だけだった。会えるかどうかはわからなかったが、以前出会った場所の近くで待つことにした。淳史の会社の近くの駅の側で、なるべく人目に付かないように植え込みのブロックに腰掛けた。そちらから待ち人が現れるような顔で淳史の会社の方向を窺いながら時間を費やす。
人待ち顔で何時間も過ごすのは思った以上に大変だった。間を持たせる携帯も淳史の所に置いたままで、煙草も吸わない優生はひどく手持ち無沙汰で、周囲から浮いてしまっていたかもしれない。

「今日は待ち合わせ? 約束の時間、まちがってない?」
少し軽薄そうな声には聞き覚えがあった。顔を上げてみると、相手はまさしく優生の待ち人だった。
「待ち合わせじゃなくて待ち伏せかな? ちょっと聞きたいことがあって」
「工藤は昼は家に戻ってるんじゃないかな? 連絡いってない?」
「いえ、あの、渡辺梨花さんのボディーガードをしていた人のこと、知りません?」
「え、俺? 工藤に聞いた方が詳しいと思うよ。ストーカー並にしょっちゅう指名されてたからね」
「連絡先とか、ご存知ないですよね」
「もしかして雇いたいの? でも、専属だって言ってたから難しいんじゃないかなあ」
「いえ、会って話がしたいだけなんですけど」
少し考え込むような顔をした後で、優生を見つめて笑いかけた。思わず下心を疑ってしまうような意味有りげな笑みだ。
「聞いてみてあげるよ。急ぐの?」
「できたら」
すぐに何ヶ所かに電話を掛けてくれる相手を観察してみる。
気後れしない程度に整った顔立ちに、喋るのが好きそうな口元、携帯を持つ指は長く器用そうだった。
じっと見つめてしまっていた優生に気付くと、電話の会話を続けたまま、優生の方に視線を向けて人懐っこい笑みを浮かべる。さっき猜疑心を抱いてしまったことが恥ずかしくなってしまいそうなくらい優しげな笑みだった。
対応に困って思わず視線を逸らす優生に気を悪くした風でもない。携帯を閉じると、優生の顔を覗き込んできた。どうやら、じっと覗き込むように目を見て話すのがクセらしい。
「つい最近やめたそうだよ。連絡先は教えてもらえなかったけど、別口でよくジムで見かけるって聞いたから、時間があるんなら行ってみる?」
「ありがとうございます。場所を教えてもらっていいですか?」
「もう食事は済んだの? 良かったらつき合わないかな?」
ちょっと迷ったが、手間をかけさせてしまったことを考えると断るのは気が引けた。それに、場所だけを教えてくれとも言い難い。
「……黙っててくれます?」
「工藤に?」
深い意味があるような言い方をしてしまったことを後悔した。単に、居場所をすぐには見つけられたくないという思いが、考えるよりも先に口に出てしまっただけのことだったのだが。
「意外と心配性なんです、前に会った時にあまりいい顔をしてなかったでしょう?」
「そういえば声かけるなとか言われたなあ。食事に誘ったなんて知れたら殺されるかな」
そうだと言うわけにもいかず、曖昧に首を傾げた。
「失礼なことを聞くけど男の子だよね?」
「はい」
「確かゆいちゃんだったよね?」
「はい」
このまま質問が続いて、もしつき合っているのかと尋ねられたら何と答えたらいいのだろうと一瞬身構えてしまった。
「ゆいちゃん、何食べたい?」
「別に何でも……できたら軽いのがいいですけど」
「じゃ和食の方がいいのかな」
「でもいいです」
とりあえず歩き始めた男について行く。あまり時間を取られて、淳史に見つかってしまうような事態は避けたかった。
10分ほど歩いた所にある和洋折衷風な店に決めて、ランチメニューを選んだ。
「そうそう、この間は名乗る間もなかったから」
徐に差し出された名刺を、受け取らないと失礼になるような気がして手を伸ばす。
中央に印刷された後藤 紫という名前に驚いてよく見るとローマ字表記は“Yukari”となっていた。
「かわいい名前でしょ。ユカリちゃんって呼んで?」
呼べと言われても、1、2度会っただけの10歳以上も年上の相手を気安くそんな風には呼べない。
「自分だって可愛い名前なのに、そんなに引くかな?」
気を悪くさせたのだと思って慌てた。
「すみません、年上の人をそういう風に呼ぶのには慣れてなくて」
「俺はそういうの寛大だから気にしないでいいよ。ところで“ゆい”ってどういう字を書くの?」
「ゆいじゃなくて、ゆいきって言うんですけど、優しいに生きるって書きます」
「ああ、優生(ゆうせい)思想とかいうやつ?」
一番言われたくない言葉を返されて、動揺が面に出てしまいそうになる。大人相手に自分の名前の話をすると稀にこういうことがあったが、軽そうに見える紫に言われるとは思いもしなかった。
「俺、生まれてすぐ養子に出されてるので、そういう意味じゃないと思ってるんですけど」
自分の境遇を恨まず嘆かず、優しく生きるようにという意味で名付けられたのだと思う。それはそれで受け入れ難いものだったが、優良な遺伝子だけを残し、そうでないものは排除しようという考えよりはずっといいと思っていた。
「でも、君も選ばれた方って感じがするよね」
それが必ずしも褒め言葉ではないとは、思いもしないようだ。
「紫さんは自分の名前を気に入ってるんですか?」
「まあ、それなりには。こういう仕事をしてると、外見でも名前でもインパクトの強い方が印象に残るから得だしね」
とりとめのない話は途切れることなく、紫と別れるまでの1時間ほどで随分自分のことも話してしまったようだった。淳史とのことには一切触れられなかったが、それが余計に二人の関係を知っているからのような気がした。




ジムまで案内するという紫の言葉はさすがに辞退して、優生は一人でそこへ向かった。
けれども、いるかどうかもわからない相手を捜して中まで入るほどの勇気はなく、駐車場で待つことにした。
壁に背を凭れさせて、上着のポケットに手を入れる。
今日は待ってばかりだ。待つのは苦手ではないが、ともかく間が持たない。もし、ここが小学校か中学校なら不審者扱いされてしまいそうだ。

時計を持たない優生は、携帯電話がないと時間が全くわからなくなってしまう。
時間がわからないと余計に長く待っているような気にさせられた。時計がないと、自由というより不安な気がするのは束縛されることに慣れてしまっているからだろうか。

自分の方へと近付いてくる気配に顔を上げた。見なくても、纏う気配で待ち人だとわかっていたが。
なぜか、待っていたくせに本当に出会えるとは思っていなかった。それとも、こういうのを必然というのだろうか。
いざ会えても、咄嗟にかける言葉が見つからない。何かを言いたげな優生に気付いてか、黒田の方から声をかけてきた。
「奇遇ですね。こちらにいらしてるとは知りませんでしたよ」
悪びれた風でも気まずそうな風でもなく、黒田は優生の視線を受け止めていた。僅かも、優生に悪いことをしたとか申し訳なかったとかいう風には感じていないらしい。
「……辞めたと伺ったので」
話を長引かせるきっかけを探す。このまま立ち去らせてしまうのなら、最初から居場所を捜したりしなかった。
「解雇されたんですよ、当然でしょう」
「え」
優生を襲ったことが理由なら、指示をしたのは雇用主の梨花の方だったのだから、黒田が解雇されるのはおかしいような気がする。
「もちろん、退職金は呆れるほどいただきましたが」
晴れがましいほどの表情でそんな風に割り切ってしまえる黒田が、憎いというより羨ましい。
「……俺も、契約がキャンセルになったんで責任取ってくれませんか?」
優生が決死の思いで告げた言葉にも、黒田はさして驚いた風もない。
「まさか。工藤さんはあなたにずいぶんご執心のようでしたから、そんなことはないでしょう」
「俺、本当は専属でスポンサー契約してもらってたんです。だから他の男の手垢がついた時点で契約違反なんです」
「そんな風には見えませんでしたが?」
そんな風、というのがどこに掛かるのかわからず、無難な言葉を探して返事を返す。
「よっぽどあなたのマスターが嫌だったんじゃないですか?」
「あのお嬢さんはかなりの筋肉フェチらしいですよ。何度もボディーガードを誘惑した挙句、私のような女性には全く興味のない者を雇う破目になったそうですから」
それで、淳史にも執着していたのだろうか。全く相容れない相手だが、好みのタイプだけは優生と合うかもしれない。
「俺、住む所が無くなってしまったんですよね」
「……私にスポンサーになれとでも?」
黒田は優生の要求を察したらしかった。軽く頷いて交渉に入る。
「とりあえず、住む所だけでも提供してくれませんか?俺、未成年だし身よりもないから部屋を借りられないんですよね」
「体を資本にするということですか?」
「他にあると思います?」
「あなたのことは調査済みですから、他の利用価値もありそうだと思いますが?」
それが何を指しているのか見当もつかないだけに強気な返事はできない。放棄してきたとはいえ、優生の里親を脅迫すればそれなりの額になるだろう。なんとか、優生が決別してきた過去から離れた所で交渉したかった。
「俺個人を買ってくれませんか?」
「……まあ、しばらくは暇ですからおつき合いしましょうか」
思っていたよりはあっさりと、黒田の自宅に連れて行かせることに成功したようだった。




玄関を入ってすぐに、肘を引かれてドキリとした。
額に触れた手の平が首筋へと滑る。そのつもりでついてきたのに、身が引けてしまったのが我ながら情けない。
「顔色が悪いと思っていたんですが、少し熱があるようですね」
「すぐに熱が出る体質なんです。ショックなことがあったばかりなので」
「さっそくお勤めというわけにはいかないようですね」
嫌味に返す言葉も、黒田の琴線に僅かも触れることは適わなかった。
「いえ、大丈夫です」
「そんなに飢えてませんから、体調を戻すのを先にしてください。すぐに休みますか?」
ホッとしていいのか、目的を達せられないとガッカリするべきなのか優生にもわからない。
「先に風呂を借りてもいいですか?」
「どうぞ。真っ直ぐに行って、左手のドアですよ」
「俺、パジャマとか持ってないんですけど、裸でウロウロされると気になります?」
「そういえば家出してきたにしては荷物がずいぶん少ないですね。まさかそれだけということはないでしょう?」
優生は最初からリュックに納まる程度の着替えしか持って出ていなかった。いかにも家出っぽく見えないように気を付けたからだ。必要になれば買い足せばすむことだった。
「とりあえず着替えが何枚かあればいいですから」
「思ったほど神経質じゃないんですね」
「調べたんならご存知なんじゃないんですか?住む所が何度も変わったから、多く持たないようにしてるんです」
「そうですか。私はあなたの格好は気になりませんが、風邪をひかれるといけませんからお貸ししましょう」
「いえ、気にしないんならいいです。じゃ、お先に」
「入っている間に用意しておきますよ。少し大きめだと思いますが、小さいよりはいいでしょう」
「じゃ、お借りします」
黒田のものを貸してくれるのなら少し大きめどころではないと思ったが、これ以上話すのは面倒でやめた。どうせ、すぐに脱いでしまう予定だ。

洗面所に入ると、すぐ正面に大きな鏡があった。そこに写る優生は、いつもの気を張っている自分とは違い、ある意味リラックスしているようにさえ見える。
初めて同然の相手に、こんな風に建て前以上の気を遣わずに過ごしていることが自分でも信じられない。失くすものがないとこんなにも強くいられるものだとは知らなかった。
このまま風呂場で自殺を図ってしまえば本懐が遂げられるようなものだが、もう少し、相手を油断させてからでなければ完遂することはできないだろう。

熱めの湯を頭から浴びると、上から順に手早く洗っていく。どのみち済ませるのなら早い方がいい。さっさと黒田の痕跡を体に残して、気が変わらないうちに予定通りに済ませてしまおうと思った。
クビになったのは気の毒だと思わないでもないが、このくらいの迷惑をかけないと気が済まない。
体を流し終わると、すぐに風呂を上がった。
頭から被ったバスタオルでざっと拭いて、肩に羽織る。少し面倒だが、ドライヤーを借りて髪を乾かすことにした。
伸ばしたままの長めの髪は、肩に届きそうなほどになっている。緩く流れた前髪も、水気を含むと目を覆うほどだ。指で後ろへかき上げるように風を当てた。
ドライヤーを戻して、長い息を吐いて覚悟を決める。その意味を考えると、黒田の用意したパジャマに袖を通すのは勇気がいった。
最初から、その覚悟を決めて来たはずなのに。
思ったほど、そのパジャマは大きくなかった。洗濯はされていたが、新しいそれは、他の誰かのためのものだったのかもしれない。

風呂を上がって黒田を捜すと、キッチンの方から顔を出した。
「そろそろ夕食にしますか? たいしたものはできませんが、一応、希望は聞いておきますよ」
「いえ、俺は熱とかあると食べられないので」
もしかしたら優生がしなくてはいけないのかもしれなかったが、特に求められないのをいいことに、こちらから振るのはやめた。
「食事も取れないほどなら早めに休んでください。でも、水分だけはちゃんと取った方がいいですよ」
スポーツドリンクを手渡されて、寝室へと案内された。
優生が部屋に入ると、そのまま踵を返した黒田の背中へ、思い切って声を掛けてみる。
「食欲はなくても、できますけど?」
「病人を襲ったりしませんから、ゆっくり休んでください」
「……あの時も、熱出してたと思うんですけど」
ようやく、黒田が振り向いた。ずっと穏やかだった顔が、少し意地悪そうな表情になる。
「そういえば気怠そうにしていましたね。でも、あれは私の意思でしたことではありませんから」
「だから、大丈夫です」
優生の言葉に、黒田が微かに笑う。
「病人を襲う趣味はないんですよ」
断定的な拒否を感じて、それ以上引き止めることはできなかった。扉が閉まるのをぼんやりと見つめてからベッドに向かう。眠れそうな気はしなかったが、とりあえず横になることにした。




昨夜早く寝過ぎたせいか、夜中に何度も目が覚めた。
いつ目覚めても黒田の姿はなく、寝室は病人に譲ってくれていたらしい。もう一度ベッドへ誘うのは億劫で、そのまま朝を迎えてしまっていた。

食事の用意でもしようかと思いキッチンの方へ向かうと、ソファで横になっていた黒田に声を掛けられた。
「少しは元気になりましたか?」
「すみません、ベッドを占領してしまって。食事の用意でもと思ったんですけど?」
「お願いしたいところですが、その前に買い出しに行った方がいいかもしれません」
「冷蔵庫を覗いてきてもいいですか?」
「どうぞ」
それほど大きくはない冷蔵庫の中は空いていたが、朝食には間に合いそうに思えた。おそらく、黒田は普段から自炊しているのだろう。
一旦、黒田の方に戻り、尋ねてみる。
「朝はご飯の人ですか?」
「できれば」
「とりあえずご飯を炊きますね。朝の分だけでいいですか?」
「ええ、お願いできますか?」
「家事労働も資本のうちですから」
ベーコンエッグにツナサラダを添えて、ありあわせで味噌汁を作った。淳史なら乾物か野菜の煮物でも作らなければと思うところだが、冷蔵庫を見て察するに黒田は特に和食党というわけではなさそうだった。
「本当に主婦みたいなんですね」
「まあ、それが条件のひとつですから」
黒田の感想にちょっとテレる。何ヶ月かの努力の甲斐あって、少しはそれらしく見えるようになっているようだった。

食事を済ませると、黒田は身支度を整えて戻ってきた。いつも通り、ダークスーツに身を包んでいる。まるで仕事にでも行くようだった。
「もう少ししたら出掛けますけど、どうしますか?」
一緒に来いということかと思ったが、黒田はスペアキーを優生に手渡した。
「留守番してればいいんですか?」
「いえ、自由にしていただいて構いませんよ。ずっと籠っているのは退屈でしょう? 私は夜まで戻りませんから」
「お仕事……じゃないですよね?」
解雇されたと言っていたが、もう次の仕事を入れているのだろうか。
「余計な詮索はしないものですよ?」
「……すみません」
詮索するつもりではなかったが、不快にさせてしまったらしい。
ほんの数日の腰掛け程度にしか考えていなかったから気遣いを忘れてしまっていた。もっと控えめでいなければ、すぐに解約されてしまいそうだ。
「食事はどうしますか?」
「え、と……どうっていうのは?」
「遅くなりますから、済ませてきた方がいいですか?」
それこそ、マスターが決めることではないのだろうか。
「でも、料理とか掃除とかするのが俺の仕事なんじゃないんですか?」
「……家事労働だけだということですか?」
「そうじゃなくて……昨夜だって断ったのはそっちでしょう?」
「風邪をうつされても困りますしね。私を口説くのは体調を戻してからにしてください」
焦る気持ちを見透かされているのかもしれない。決して、口説きたいわけではないのに、優生の口調はまるで拗ねた恋人のそれに似ていた。
仕方なく、今はハウスキーパーに徹することにした。
「帰って食事をされるなら用意しておきます。何か食べたいものがありますか?」
「そうですね……筍ご飯とか?」
「あ、大事なことを忘れてました。パソコン、借りていいですか?」
「いいですけど……何に使うんです?」
正直に答えるか迷ったが、咄嗟に言い訳が思いつかなかった。
「……レシピ検索と退屈しのぎです」
「言うまでもないと思いますけど、いたずらは禁止ですよ?」
「わざと壊すほど子供じゃないですから、心配しないでください」
「じゃ、そろそろ出ます。いい子にしていてくださいね?」
「はい、いってらっしゃい」
使用人らしく、玄関まで見送りに行った。少し淳史に似ている広い背中を見送りながら、淋しい唇に指をあてた。




「……する?」
食事を終え、少し眠ると言って寝室に行った黒田についてきた。先に横たわった黒田を上から覗き込むように声を掛ける。
晩酌につき合い、片付けを済ませると、優生にはもうすることがなくなってしまったからだ。
もう体調が悪いとは思わなかったが、黒田の反応は昨日と変わらない。
「残念ながら、私はもうちょっと育った方が好みなんですよ。自分で育てるのは面倒ですしね」
「スポンサーになってくれるんじゃなかったんですか?」
「5年くらい経って私好みに育っていれば考えましょう」
あっさりと断られて、ムダと思いつつ黒田の体に乗り上げる。
「俺、行く所がないんだけどな」
「だから、しばらくは置いてあげますよ、責任を感じないでもないですからね」
腕を掴まれて、黒田の体の上から下ろされる。優生をベッドに寝かせて、代わりに黒田が体を起こした。今日もベッドを優生に譲るつもりのようだ。立ち上がろうとする黒田を引き止める。
「俺、おやすみのキスをしてもらわないと寝つかないんですよね」
そんな幼稚な手に乗ってくるとは思わなかったが、黒田は優生に屈み込んできた。少し淳史に似た動作に鼓動が逸る。
唇が触れると、離される前に黒田の首へと腕を回して引き止めた。触れているだけの唇を舌先で開かせる。
この間はあんなにやさしくキスをしてきたくせに、今日はちっとも気が乗らないようだ。優生が好みではないというのは本当らしかった。

反応のない相手にキスをするのは少しせつない。
一方的なキスをしているだけなのに、体の奥から熱くなってくる。もうそんなことで傷付いたりはしないが、やはり優生は相手に拘らず気持ち良くなれるようだった。
不意に体を押え込まれて、黒田が上から優生を見据えた。
「少しくらい好みから外れていても流されることもありますからね。紳士的でいられなくなっても知りませんよ?」
それこそが優生の望みなのに、まるで優生の方が逃れたがっているような言い方が気に障る。答える代わりに抱きしめる腕に力を籠めた。
「俺、添い寝もしてくれないと眠れないんです」
「とんだ“世間知らず”ですね。どうやって工藤さんを騙したんですか?」
そういえば、梨花と初めて会った夜に、淳史がそんなことを言っていた。もちろん、そんなものはあの場の方便で、本当に淳史の好みだというわけではなかっただろうが。
「騙したりしてないです。誤解はされてるかもしれませんけど」
「思ったほど、いい子じゃないんですね」
「いい子過ぎるとはよく言われますけど?」
幼い頃から、何度そんな言葉を言われ続けてきただろうか。その評価を望んでいたくせに、それが優生を幸せにしてくれないことに気付くまでに随分かかってしまった。
「勿体無いと思うんですが」
少し強引に体を離した黒田に、優生は目で理由を尋ねた。
「私にも唯一だと決めた相手がいるんですよ。うっかり誘惑されてしまったら合わせる顔がありませんからね」
そんなことを聞くとますます完遂したくなったが、優生では黒田の気を引けないことはわかっていた。
「あの時にそう言ってくれれば良かったのに」
そうすれば、もう少し長く淳史の傍にいられたのに。

すっかり体を起こしてしまった黒田を、恨みがましく見上げる。
「どうして、こんなことをしようと思ったんです?」
「なんで、好きでもない相手にいいようにされて気持ち良かったのかなと思って……」
ただ体を自由にされただけなら、被害者面をして淳史の傍にいられたかもしれなかったのに。
「もしかして、好きな相手じゃないと感じないとか思ってましたか?」
「俺、相手が誰でも感じるみたいなんですよね」
「普通じゃないですか? たったひとりとしか気持ち良くなれないなんて幻想ですよ」
まさか、という顔を向けた優生を黒田が笑う。
「耐えられないほど空腹な状態なら少々不味そうなものでも食べるでしょう? まして、相手が好きなタイプで、たまたま相性が良かったりしたら仕方ないんじゃないですか?」
淳史もそういう風に割り切ってくれるだろうか。優生が慎ましくないと知っても、傍に置いておきたいと思ってくれるだろうか。
「若い恋人を放ったらかしにしておく方が悪いんですよ。まあ、時間的にも体力的にも余裕がなかったんでしょうけど」
どうして、黒田は何もかもを見透かしたようなことを言うのだろうか。
「おや、ご存知なかったんですか? 工藤さんとあなたの邪魔をするようにあのお嬢さんが画策していたんですよ。思っていた以上に工藤さんがタフなので、どんどん無理を言うようになっていたでしょう?」
それで、休憩が取れなくなり、だんだん家に帰る時間が遅くなって、あんなにも疲れた顔をするようになっていたのだろうか。
「あのお嬢さんの思惑通りになってていいんですか?」
そんなことを言われても、今の優生にはどうすればいいのかわからなかった。
「……どうして、あの人の言うことを聞いていたんですか?」
契約内容は知らないが、ボディーガードがそんなことまで請け負う必要はないはずだ。
「目の前に美味しそうな獲物が転がっていたら、味見くらいしてみたくなるのが人情ってものでしょう」
「なんか、日本語間違ってるような気がするんですけど……っていうか、俺は好みじゃないんじゃなかったんですか?」
「全く外れているというわけでもないですよ、内角低めって所でしょうか。恋人と冷戦中だったものですから、ちょうど良かったといいますか」
「とばっちりですか」
「まあ、そういう感もありましたが」
そんなくだらないことで、死ぬほど悩まされたのかと思うと笑えてきた。そんなことのために、優生のささやかな平穏が壊されてしまったのなら。

「……5年も待てないな」
自嘲気味な笑いがこみあげる。
それまで生きているかどうかもわからないのに、恨み続けるエネルギーなどあるわけがなかった。

不意に屈み込んでくる黒田に驚いて、上げた目が合う。表情の読めないまま顔が近付いて、唇が塞がれた。
軽く吸いつく唇に合わせて開くと、すぐに舌が触れ合った。ついさっき、しないと言った舌が優生の歯列を舐めてキスを誘う。
黒田の意図が読めず、さっき自分から誘ったはずなのに戸惑ってしまう。
逃げようと思うと、捕えられる。意図せず駆け引きになってしまったらしく、黒田の体が優生に覆い被さってきた。
「んっ」
前回のような優しいキスではなく、奪うような激しさで貪ってくる。
顔を振って逃れようとする優生の顎が大きな手に掴まれて、喉を反らさせるようにやや上へ向かせた。まるで口の中を犯されているような錯覚に、なんとか黒田の肩を引き離そうと指先に力を籠めた。少し長めの爪が黒田の皮膚に食い込んでいく。
ようやく緩んだ唇が、名残を惜しむように何度も短いキスをくり返した。
「あなたにハマるのがわかりますよ。子供だと思っていると、不意におそろしく憂いのある顔を見せる。もう余所見はしないと思っていたんですが、ね」
ということは、優生は黒田の気を引いたのだろうか。
耳元へ滑ってきた唇が耳朶を噛む。気持ちと裏腹に、すっかり熱を帯びた優生の体が小さく跳ねた。
「私の恋人は入れさせてくれないんですよ」
意味を計りかねて目で問うと、優生の背中を辿ってパジャマの中へと入ってきた黒田の指がそこへと触れた。
「ここは誰にも許さないって言うんです」
「……誰にも、ですか?」
緩いパジャマと下着が容易く下ろされる。抗うように黒田の腕にかけた手が、優生の内側へと侵入してきた別の指の動きに止められた。
「生理的に受け付けないんだそうですよ。本来こういうことに使う器官ではありませんからね。無理強いはできませんから、時々我慢できなくなって他で処理したりしていたんですが」
無理強いはできないと言いながら、最初から優生には何の躊躇いもなく触れてきたのではなかっただろうか。いくら優生が黒田の思い人ではないとはいえ、こんな風に勝手に中を弄り、抵抗する気を奪ってしまったのではなかったか。
「……浮気、ですか?」
短く言葉を切りながら、なんとか話を続けようと思ったが、黒田は意地悪く笑って優生を高みへと誘った。
「私としてはそういうつもりではなかったんですが。体だけのことですからね。でも、たまに勘付かれて怒らせてしまうんです」
「ん、んっ……」
眩暈にも似た感覚に腰が揺れる。たった一度、ただ指を許してしまっただけなのに、黒田は優生の弱いところを知り過ぎているようだ。それとも、あまり個人差のないことなのだろうか。
「愛人にでもなりますか?」
「い、や……あ、ああ、だめ」
体の深い所を突き上げられて、自分が何を言っているのかわからなくなる。
「だめじゃないでしょう?」
必死に首を振りながら、黒田の指の動きに合わせて腰を揺する。
「本当にかわいい人ですね」
黒田の吐息が首筋にかかると、箍が外れたように、触れられもしないのに弱い自身が弾けた。察した黒田が寸での所で手の平で包んで受け止める。濡れた手に脈に合わせるように扱かれて全部を吐き出す。
確かめるように黒田を見上げた。入れさせない恋人の代わりに、優生を抱くつもりなのだろうか。
「……まだ誘いますか?」
問われて、優生は慌てて首を横に振った。
このまま黒田に抱かれることを想像しただけで体が震えてくる。意気込んできたのが嘘のように、容易く優生を意のままに扱ってしまう黒田が怖かった。
「添い寝はしませんよ?」
拍子抜けするほどあっさりと黒田の体が離れていく。受け入れることはできなくても、せめて協力くらいはするべきだったのだろうが、その勇気を奮うこともできなかった。
「おやすみなさい」
黒田の言葉に小さく頷いて、部屋を出ていくのを見送った。ドアが閉まるとホッと して、ふとんにくるまって丸くなる。
自分の不甲斐なさに呆れながら、明日からの身の振り方を考えた。もう、黒田にリベンジするのが無理なことは明白だった。




優生が寝過ごしたせいで、少し遅めの朝食になってしまった。
食事の後片付けを済ませた優生が、身支度を整えた黒田に今日の予定を尋ねようとした時、玄関の方でドアの開く音がした。チャイムも鳴っていないのに、来客は勝手に上がってきたようだ。
「タイミングが悪いですね」
顔色を変えた黒田が慌ててダッシュしていく。心当たりがあるのだろう。万が一の場合を考えて、優生は入り口の近くで待った。
「少しは反省したのかと思ったら、また連れ込んでるのか」
近付いてくる声に視線を上げると、きつい双眸とまともに目が合った。20代半ばくらいのリーマン風の男が、優生のすぐ傍まで来て止まる。
「あんた、こんなのがよかったのか」
怒っていなければ爽やか系なのかもしれないが、特筆するべき所もない、ごく普通の男だった。そんな平凡な男に“こんなの”呼ばわりされても腹は立たなかったが、二人の関係が優生のせいで悪化したらしいことを知っても、敢えて誤解を解いてやる気にはならなかった。優生が今こんな場所にいるのは、目の前にいる男の恋人らしい黒田のせいで、合意もなく優生の体を自由にしたのは紛れもない事実だ。
「誤解ですよ」
半ば諦め顔で反論する黒田の言葉を聞いた途端に、その男はいきなり優生に拳で殴りかかってきた。
いかにも喧嘩し慣れてなさそうな脇の甘いパンチを手首で落とし、その手で二の腕を掴んで手首を返す。下方へ引くのと同時に、相手の軸足の踝の辺りを払う。油断をしていたらしい相手は、あっけないくらい簡単に床へと倒れ込んでいった。
気が荒いだけで、喧嘩も武道も全く経験していないらしく、受身も取れなかったようだ。
「ひどいことをしますね」
優生を非難するように見る黒田に、ちょっと肩をすくめてみせた。突然殴りかかってきたのは相手の方で、優生の行為は単なる正当防衛に過ぎないはずだ。
「稲葉さん、気が短いのも大概にしないと大怪我をしますよ。この人はかよわく見えますけど、空手の経験者ですからね」
「うるさい」
側頭部を押えながら、稲葉と呼ばれた男が立ち上がる。手を貸そうとした黒田の頬を平手で打った。
もう一度、優生と黒田を睨み付けて部屋を出て行く。黒田は追いかける気配もなく、小さくため息をついた。
わざと避けなかったのだろうが、見事に赤く腫れていく頬を見ていると少しかわいそうな気になる。
「ああいうのが好みなんですか?」
「ええ。あまり幼いのは趣味じゃありませんから」
「大人には見えませんけど」
「私も稲葉さんは可愛い方だと思うんですが」
どう贔屓目に見ても、可愛いというような形容が似合うようには見えなかったが。主観の違いなのだろう。
「追いかけた方がいいんじゃないですか?」
「ああいう風になると何を言っても聞いてくれないんです。ほとぼりが冷めるまでおとなしくしてますよ」
「俺がいると困るんでしょう?」
「心配しなくても、もうすぐ帰ってもらいますよ」
「え」
「私も誘拐罪や監禁罪に問われたら困りますから」
「俺の意思でいるのに?」
「あんなことがあった後ですからね。訴えられたら私に勝ち目はないでしょう?」
もちろん、そこまで考えてこんな行動を取ったのだったが。
「迷い猫の連絡はしてありますから、もうじき迎えが来られますよ。まだ気は治まりませんか?」
優生の思惑はお見通しだったのかもしれない。恋人らしき人に誤解させたことで、おあいこだと言いたいのだろうか。
「治まったっていうより気が殺がれた感じかな」
「余計なお世話ですけど、おとなしく帰った方がいいですよ。あなたが戻らないと、工藤さんは仕事を辞めなければならなくなりそうですから。休暇届けは出しておられるそうですが、認められていないようですし」
それを鵜呑みにしていいものかどうかはわからなかったが、淳史に迷惑をかけてしまったのは間違いない。置手紙の一つも用意してくるべきだったことに、今更ながら気が付いた。
綺麗に消えてしまいたいというのは優生の勝手な都合だった。
「離れようと思ってたんですけど」
「まさか、別れたいなんてことはないでしょう?」
優生ではなく、淳史にそう思われるのが怖くて逃げてきたのに。
「依存し過ぎてたみたいなんです。一人で生きていけるようになろうと思ってたのに」
「工藤さんと離れても、他の人に依存するなら同じじゃないんですか?」
便宜上とはいえ、スポンサーになってくれと言った優生には返す言葉もない。
「荷物をまとめておいた方がいいですよ。飛ばしてくるでしょうからね」
黒田の思い通りになるのは癪だったが、仕方なく寝室に向かった。
たいした荷物はないが、着替えをリュックに詰め込んで黒田の元に戻る。
「忘れ物はないでしょうね」
「はい」
それきり落ちた沈黙に、つい弱音が口をついた。
「……怖いな」
「覚悟しておいた方がいいですよ、ずいぶんキレてましたからね」
いろんな意味で、淳史に会うのは怖かった。
時間をかけたからといって心の準備ができるものでもないのだろうが、それでも想像以上にインターフォンが鳴るのが早過ぎた。
「思ったより早かったですね」
思わず身震いした優生を置いて、黒田が迎えに出てゆく。
隠れるとか逃げるとか考えなかったわけではないが、それが何の意味もないことくらい、優生にもわかっていた。
優生の好きな低い声が、離れていても響いてくる。だんだん近付く甘さの欠片もない声が鼓膜を震わせる。
「解雇されたくらいじゃ懲りないようだな」
優生を認めた途端、淳史の双眸が細められた。目を合わせる勇気がなくて睫毛を伏せる。見えていなくても、淳史の視線が痛いほどに優生を捉えているのを感じた。
「優生」
名前を呼ばれただけで背筋が寒くなってくる。伸ばされる手に体を引くことさえできない。今更のように、どれほど淳史を怒らせていたのかを知った。
「そんなに大事なら、首に縄でも付けておけば如何ですか?」
さっき優生に言ったのとは真逆なことを言っている黒田の挑発に、あっさり乗ってしまう淳史を止めようと顔を上げた。
「近付いたのは俺の方なんだ」
咄嗟に庇ってしまったのは、黒田に申し訳ないという思いが少しはあったからかもしれない。
「あっ」
その大きな手で襟元を締め上げるように引き寄せられる。
「その男の言う通り、監禁でもしておかないといけないようだな」
息が触れそうに詰め寄られると眩暈がした。低い声で恐ろしいことを言われているはずなのに、なぜ甘く感じるのだろう。
「さっさと連れて帰らないと、気が変わっても知りませんよ」
それが、ただ淳史を挑発しているだけなのだと優生は知っている。けれども、まともな判断力を失くした淳史は、優生から手を離して黒田の方へ歩み寄った。
優生にもわかっていたのだから、当然、黒田にわかっていないはずはなかったが。
黒田の側面へ片足を踏み込んで、両手が上着の衿を引き寄せるのと同時に膝が鳩尾へ沈む。淳史に掴まれたまま前のめりに崩れた上体を引き上げようとするのを見て慌てた。淳史はまだ続けるつもりらしい。
「やめて、構えてない相手を殴っちゃダメだよ」
「試合でもやってるつもりか?」
「だって、黒田さんは避けてもないのに……」
最後まで言い切ることはできず、向けられた視線の強さに怯えて目を逸らしてしまう。だから、自分は弱いのだとわかっているのに。
「その男にも、他の誰にもおまえを渡す気はないからな」
それが愛にしろ執着にしろ契約にしろ、逃れることはできないのだと今ならわかる。いつも囚われていたことに、なぜ気付かなかったのだろう。
「帰るぞ」
有無を言わせない一言に観念した。
まるで連行されるように淳史に腕を取られて、かろうじてリュックを拾う。急かされるようにドアの方へと向かいながら、黒田の方を振り向いた。
目が合わないのは、黒田が故意に視線を外しているのだろう。言葉を掛けられないまま、黙って部屋を後にした。

無言の淳史に引っ張られるように先を急ぐ。
エレベーターに乗っている間も、エントランスを抜ける間も、ずっと腕は掴まれたままだった。その強い力に、指の下で皮膚が痺れ始めていた。きっと、淳史は自分の握力を知らないのだろう。
路駐させていた車の助手席のドアを開けて、少し乱暴にシートに押し込まれる。まるで逃がさないためのようにシートベルトを掛けられて、ドアが閉じられた。
すぐに走り出した車は淳史の家の方へと向かっているようだった。
「……お仕事、どうしてるの?」
黒田から淳史が休暇願いを出しているようなことを聞いていたが、こんな時間に迎えに現れるということは本当だったのかもしれない。
「おまえを見つけるまで行かないつもりだったからな」
「ごめんなさい、迷惑をかけて」
黒田の言葉通りだったことに、素直に謝った。
「逃げられると思ったのか?」
「そういうんじゃないんだ」
確かに逃げ出したいと思ったが、それは淳史の元からではなく、いつか淳史から突きつけられるかもしれない決別の言葉を聞きたくなかっただけだ。
「あの男になら、守ってもらえると思ったのか?」
本気で、優生が淳史から逃れる気だったと思っているかのような口ぶりに、反論するのはやめて、謝罪の言葉をくり返す。
「ごめんなさい」
淳史は答えず、それきり黙ってしまった。優生も話題を振ることができず、淳史の家に着くまで長い沈黙に耐えることになった。


たった2日足を踏み入れなかっただけで、ずいぶんと敷居が高く感じた。
また淳史に掴まれていた腕が、玄関に入ったところで離された。背中を押されるようにリビングへ進む。ソファへと促されて腰を下ろす。すぐに淳史も隣へ腰掛けた。自分のテリトリーに戻った淳史は少し余裕を取り戻したように見える。
「あの男には未遂だったと言われたぞ。別に、そうじゃなかったからといっておまえへの気持ちが変わるわけじゃないが」
いきなり核心に触れられて、優生は言葉を選ぶこともできなくなった。
「……未遂って、どこまで? 体中弄られて気が遠くなるようなキスをして今にもイキそうな所で淳史さんが帰ってきたんだ。それに、この2日一緒にいて、何もなかったわけないでしょう?」
「優生」
聞きたくないと言いたげな淳史に、反抗的に返す。
「あの女の人が言ってたでしょ、俺は淳史さんが思ってるほど純粋じゃないんだ。されるのが好きで、襲われてても気持ち良くて抵抗できなかったし、入れて欲しくて変になりそうだった」
わざと、挑発的な言い方をした。
握り締められた淳史の拳が震えて見えるのはあの日と同じことに気付く。取引先ではない優生なら殴っても構わないのに、感情を抑えるように握った拳に力を籠めているようだった。
「……あいつに惹かれたとでも言うつもりか?」
苦しげな淳史を見ているのが辛くて目を逸らす。
「発情してたのかな、したかっただけだよ」
「悪かった」
謝る淳史の心理がわからない。詰られるのならともかく、淳史が詫びる必要はなかった。
「ずいぶん放ったらかしにしてしまっていたからな」
一瞬で体温が上がる。罵られるより恥ずかしい気がして離れようとするのを察したように、淳史が腕を掴む。抗う優生の体がソファへと沈められて、真上から瞳を見据えられると動きが封じられてしまう。
怯えて庇うように上げる腕を押え込まれると、初めての時のように体が震えた。淳史が向ける思いの深さが怖いのだと本能的にわかっているのに、唇は違う言葉を言う。
「今度は俺を好きな人がいいんだ」
「惚れていると何度言えばわかるんだ」
「淳史さんのは違うよ、もしそう思ってるんなら錯覚だ」
言葉を遮るように唇が塞がれる。抵抗しない優生の唇が開かされて、厚い舌が内側へと入ってきた。優生の反応を窺うようにゆっくりと口内を探る。触れ合った舌を優しく擦られて緩く吸われる。いつもの奪うようなキスではなく、じれったいくらいに優しい。知らぬ間に誘い出された舌を甘噛みされると、体の芯を痺れるような感覚が走った。
「ああ……」
トレーナーの中に感じる淳史の手に身を捩る。思わず淳史の胸を押し返そうとした腕が取られて頭上へ固定された。もどかしげに絡んだ舌に少し乱暴に吸われる。
「ん、ぁん……だめ」
鼻から抜けてゆく声には説得力など欠片もない。前を緩めていく淳史の指先に協力するように腰を浮かせた。
重ねられたままの唇の狭間で吐息が縺れ合う。どうして何もかもがこんなにも気持ち良いのだろう。
「……まだ疑うのか?」
ぼんやりと開けた優生の瞳を覗き込む淳史の言葉がすぐには理解できなかった。
「俺は惚れてもいない男にこんなことはできないんだ」
やさしい声にも、優生は同意できなかった。気持ち良いのと好きなのは別物だと、昨夜聞いたばかりだ。
「好きかどうかは関係ないでしょ」
「ないわけがないだろう、俺はおまえ以外の男には一度も感じたことがないんだからな」
「食わず嫌いだよ」
出会った頃は、優生にさんざん色気のないガキだとか男相手にはムリだとか言い続けてきたのだから。
「……おまえほど鈍い奴は見たことがないな」
「そんなこと、初めて言われたよ?」
反抗的な言葉しか紡げない口をまた塞がれる。優生の言葉より、キスの方がよっぽど素直だった。
おとなしく淳史に預けた体がゆっくりと抱き上げられる。歩き出した淳史が寝室へ向かっていることは尋ねるまでもなかった。
この後のことを思うと怖くて、淳史の首へギュッとしがみついた。一度立ち止まった淳史がそっと髪へとキスを落とす。それだけで泣きそうになる理由を、自分でもわかっているのに。
もう意地を張るのは諦めて抱きしめる腕に力を籠めた。




「もうおまえが何と言おうが籍を入れるからな。おまえの親にもすぐに会いに行くぞ」
「結婚なんてできないんだよ、わかってるでしょ。俺は戸籍上も男なの」
体を繋いだからといって、必ずしも関係が全て好転するというものではないことを実感した。ピロートークを交わすのが真っ昼間のせいか、睦言にしてはずいぶんと色気がない。
「俺の兄弟になりたいのか子供になりたいのかだけは選ばせてやるから、好きな方にしろ」
「それは養子縁組っていうんだよ、結婚じゃないんだからね」
必死に反抗する優生の肩が不意に掴まれて、押しやられる。見つめ合うための距離を取られて、瞳を覗き込まれると目が逸らせなくなる。
「同性婚として受理させろって言うんなら裁判でも起こすか?」
「俺を社会的に抹殺する気なの?」
「いっそオランダかベルギーかデンマークへでも移住するか?」
ただの勢いかと思っていたが、淳史は本当に本気らしい。
「淳史さん、落ち着いて? 俺は海外になんて行きたくないし、本当に結婚したいわけでもないんだ」
「結婚してもいいって言ったのは嘘だったのか?」
「事実婚って言ってたでしょ、籍入れるなんて聞いてないよ」
「そうやって、また俺から逃げ出すつもりなんだろう?」
たとえ逃げ出したところで、たった2日で連れ戻されるくらい優生は不甲斐ないのに。
「先のことなんて誰にもわからないんだよ。俺にそんな約束させないで」
「約束なんてしなくていい。おまえの口先だけの約束ならしない方がマシだ。戸籍に縛られるのが嫌なら、おまえを縛って繋いでおくからな」
淳史の勢いから、とても比喩だとは思えなかった。まさかそんな非常識なことをするはずがないとわかっていても、嫌な汗が背中を伝う。
「縛るとか繋ぐとか物騒なことを言わないで、犯罪だよ」
「おまえを逃がさないためなら、監禁も止むを得ないだろう?」
「俺の意思は無視なの?」
「反故にしたのはおまえの方だろう? もう待つのはごめんだ」
たかだか2日でキレてしまうなんて、淳史は自分で言うほど気が長いわけではないようだ。自分が優生をどれほど待たせたかわかっていないらしい。

答えない優生を、反抗的だと思ったのかもしれない。
「外から鍵をかけても、逃げようと思えば逃げられるからな。拘束しておかないと安心できないだろう?」
「拘束って何、手錠でもかけるつもりなの?」
怯えた目を向けてしまった優生に、淳史はひどく優しげな声を出す。
「医療用のベッドを入れて、四肢拘束でもするか? それなら怪我をさせることもないからな」
「……何なの、それ?」
「医療措置入院とか聞いたことないか?」
精神症状の悪化などで、本人の同意に拘わらず、人や自分を傷つけるおそれがある場合に入院させられることなら知っている。
「俺にも部屋にも鍵をかけるってこと?」
「おまえがおとなしくできないんなら、そうするしかないな」
「俺が暴れるとか思ってるの?」
「暴れるんならいいが、自分に傷でも付けられたらかなわないからな。一服盛られるくらいの覚悟をしとけよ?」
「そこまでしなくても逃げられないでしょ」
「逃げるどころか、自殺でもしかねないんじゃないのか?」
もう、そんな気は失せてしまっていたが。
「じゃ、そんな風に脅かさないで」
「ただの脅しだと思ってるのか?」
淳史の口調が不自然なほど穏やかなのは、本気だからなのかもしれない。
優生はようやく、自分の言うべき言葉に気が付いた。
「……ごめんなさい」
淳史の目を見上げる。
「もうどこにも行かないから、そんなことしないで?」
低姿勢の“お願い”にも、淳史はなかなか答えなかった。
急に殊勝になった優生を信用できないのは仕方ないのかもしれない。でも、優生が素直になれないことに気が付かない淳史にも問題があると思うのだったが。
瞳の深い所を見つめたまま、淳史がようやく口を開く。
「……信じていいんだな?」
「うん」
両腕を上げて淳史の首に抱きついた。項を撫でる吐息が熱い。背中に回された腕に痛いほど抱きしめられて、首筋へと唇が滑ってくる。
「ずっと傍にいろ」
まるで脅かすように低めた声で囁かれているのに、優生の鼓膜には不思議なくらいに甘く響いた。
小さく頷いて顔を上げる。約束だとでもいうように唇が重ねられた。束縛されることを了承するように応える。それこそが優生の望みだったのだと、淳史は知らなかったのかもしれない。
折れそうに抱きしめられて、優生は小さく“ただいま”と呟いた。



- Stay With Me - Fin

【 After A Storm 】     Novel       【 Love And Chain 】  


2006.11.29.update

風味堂の同タイトルの曲のイメージで。(ファンのみなさん、ごめんなさい)。

優生が稲葉にやったのは護身の一種です。
本当は掌底で顎を突き上げるのと同時に、膝裏を合わせるようにして払って倒すのですが。
表現がクドクなりそうだったので踝に省略しました。
優生はちゃんと脇を絞めていたから問題ないでしょう。

それから、同性婚。
ちゃんと調べたつもりなんですが、もし誤りがあったらごめんなさい。