- Just Can't Wait -



居心地の良い枕がするりと抜けていく気配に、思わずしがみついた。
「優生」
囁くような低い声に、小さく首を振る。
枕がなくなるのは淋しい。不安と孤独で安眠できなくなってしまう。
自己主張をする枕を両腕で抱きしめて押え込む。なぜ、枕が勝手に優生の体から逃げていこうとするのだろう。
「優生?」
引き止める腕を掴まれてハッとした。
「今日は早く出ると言ってあっただろう?」
「え……あ、ごめんなさい、俺、寝惚けて……」
苦笑を洩らす淳史の腕を慌てて離す。覚醒してようやく、淳史の腕枕で眠っていたことを思い出した。
しかも、今日は日帰りの出張で、いつもより1時間ほど早く出ると聞いていたのに。
「まだ早いから起きなくていい」
優しい口調で言われても、それに甘えて寝直すというわけにはいかなかった。使用人らしく、主人の見送りに行かなければならない。
いつも、淳史はあっという間に身支度を済ませてしまうから、優生も急いで着替えて玄関へダッシュした。
「遅くなると思うから先に寝てていいぞ? 食事もすませてくるからな」
「うん。いってらっしゃい」
短いキスを交わして、慌しく出勤していく背を見送る。最近ずいぶん仕事が忙しそうだったが、淳史は少しも疲れた素振りを見せることはなかった。ただ、あまり優生を構ってくれなくなったような気はするが。
「やっぱり基礎体力が違うのかなあ。俺ももうちょっと鍛えなきゃ」
最近サボり気味の筋トレを強化しようかと考える。それに、体が疲れれば余計なことを考えずに眠れるだろう。
一緒に住み始めた頃は、淳史は夕食はもちろん昼食も摂りに帰って来ることがあったくらいなのに、この頃は帰宅が遅く、食事を外で済ませてくることが多くなった。食事の用意をしなくていいと言われると、優生の家事労働は極端に減ってしまう。ずいぶん慣れたとはいえ、料理は家事の中で一番時間がかかることで、楽といえばそうなのかもしれないが、とりたてて他に何かしたいことのない優生には、暇を持て余すことになっている。
とりあえず、朝食を摂って洗濯と掃除にかかることにした。淳史がいなくても食事を摂ることも契約条件のひとつらしいと知っている。
それから、洗濯をして、特別汚れているわけでもない部屋を念入りに掃除したら半日くらいは持つだろう。その後の時間をどう潰すかはまたその後で考えることにした。




予定していた家事が殆ど終わった頃、携帯がソファの上で震え出した。
番変したことを誰にも知らせていなかったから、てっきり淳史だと思っていたが、ディスプレイに表示された名前にドキリとした。
「はい」
動揺を抑えて電話に出た。すぐに、懐かしい声が耳に届く。
『ゆいか?』
「うん。勇士(ゆうじ)、番号よくわかったなあ」
『おまえの親に聞いたんだ。携帯変えたんなら何で俺に知らせないんだ?』
「ごめん、バタバタしてて。ゆっくり話してる時間ある?」
『おまえは?時間が取れるんなら、会って話したい』
まだ、声を聞いているだけで胸が熱くなっているのに。
「うん、でも、俺ちょっと遠くにいるんだ」
『じいさんが死んだら本当に独り立ちしたんだな』
「そういうわけじゃないんだけど……会うんならその時話すよ?」
『どこまで行けばいいんだ?』
「ううん、こっちから行くよ。1時間くらいかかってもいいかな?」
『電車か?』
「うん」
『じゃ、駅まで行くよ』
「いいよ、わざわざ迎えに来てもらわなくても」
『昼くらいになるよな? ついでに飯食おう』
「そうだな。じゃ、着いたら電話するな」
『わかった』
電話を終えると、急いで洗面所に向かう。
鏡の中の優生は、至って健康そうに見えてホッとした。緩いクセのかかった髪を整えて、襟元を直す。たぶん、今の優生なら勇士を心配させることはないだろう。
上着を羽織って財布と携帯をポケットに突っ込みながら部屋を出た。




本当は勇士に会うのは怖かった。
会うと、好きだったことを思い出してしまうような気がして落ち着かない。ちゃんと吹っ切れているのかどうか、自分でもわからない。
待っている間はうだうだと悩んでいたのに、少し離れた所に勇士(ゆうじ)の姿を認めた途端、会いたい気持ちの方が勝ってしまった。

「思ってたより元気そうだな」
勇士の一言目には嫌味が含まれているようだった。やはり、長い間連絡もしないままだったことを怒っているのかもしれない。
「いつも元気だろ?」
「じいさんが死ぬちょっと前から元気なかったぞ」
その頃のことを思い出すと、また胸が痛くなる。ずっと友達としてつき合ってきた勇士に憧れ以上の感情を持っていると自覚した直後に、彼女ができたことを聞かされた。報われるかもしれないと思ったことも、告白するつもりも無かったが、ショックはとてつもなく大きかった。
激しく落ち込んでいたその夜、従兄から強引に関係を迫られても毅然と拒否することはできなかった。投げやりになっていたというわけではないが、誰かに求められることに飢えていたのかもしれない。
その翌日、貧血で倒れそうになった優生を保健室に運んでくれた勇士にずいぶん心配をかけてしまったことはわかっていた。それでも、自分の身に起きたことは、話せるわけがなかった。

「遺産相続がどうとかって、俺が苦手な話ばっかだったしね」
「倒れるほど悩んでたとは知らなかったぞ?」
「たまたまだよ、俺があんまり体力ないの、知ってるだろ?」
思いがけなく経験することになった行為だけでなく、いろんなことが一度に起きてしまい、心身ともに消耗してしまっていたのだと思う。

特に相談したわけではなくても、よく通っていた定食屋に自然と足が向いていた。
同級生の親がやっているこじんまりとした家庭的な店には、週刊少年誌が全種類置いてあり、当時は食事よりそちらの方が目当てだったかもしれない。
「勇士は彼女とはどう?」
ようやく、こんなことを聞けるようになっている自分にちょっと安心した。きっと、明日にも結婚するつもりだと言われても、おめでとうと言えると思う。
「しばらく会ってないんだ」
「何で……」
思わず理由を尋ねてしまった優生に、勇士は少し考えるような素振りをする。
「ごめん、聞かない方がよかった?」
「いや。何ていうか、あんな面倒な女だと思わなかったからな、はっきり別れたわけじゃないんだが」
歯切れの悪い言葉は勇士らしくなかった。それに、勇士は見た目はおっかなそうかもしれないが、優生にもあれこれ世話を焼いてくれていたと思う。けして、面倒臭がりなタイプではないはずだった。
「我儘だったとか?かわいい感じだったもんな」
「……我儘というわけじゃないんだ。ただ、何で相手の100%を把握しようとしたり独占しようとしたりするんだろうな」
「それは、勇士のこと、それだけ好きってことだろ?」
「だからって、人の携帯勝手に見たりするもんか?」
「そういうものじゃないのかな?テレビとかでよくそういう風に言ってる女の子を見るし」
「……やっぱ、女って面倒だな」
勇士とは中学からのつき合いだから、何度となく同級生や下級生や、時として大人の女性とつき合っているのを見てきていた。でも、こんな言い方をするのは初めて聞いたように思う。
「今までの彼女はそういう子はいなかった?」
「いたけどな……あの子はそういうタイプじゃないと思ってたんだ」
「確か、ああいうのが好みだって言ってたよな」
正しくは、厳つい顔立ちにゴツイ体格をしている勇士が、幼げで可愛い女の子が好みだなんて言い難いだろう、と言ったのだったが。テレる勇士が彼女に本気なのだと知って、優生の失恋が確定したのだから。
「見た目は、な」
「わからないでもないけど」
「おまえは? おまえが女の話をしてるの、聞いたことないよな」
突然、自分に振られて、すぐには答える言葉が出てこなかった。淳史とのことを何と告げるのかも、具体的に考えていなかったのに。
「まあ、おまえは女がどうとかいう以前に、人間そのものに興味がないみたいだからな」
答えない優生に、勇士は勝手に結論に至ってしまう。
確かにそれは的を射ていたが、だからといって誰もいらないというわけではなかった。大切な人がほんの少しいてくれれば 満足で、その他にはいなくてもいいという意味だ。
「興味がないってことはないよ。ただ、俺が人付き合いは苦手なの、知ってるだろ?」
「そうだな、こっちから連絡しなけりゃメールひとつよこさないんだからな」
「ごめん、ちょっとバタバタしてたから……家に電話したんなら聞いたかな? 俺、家を出て他人の所で住まわせてもらってるんだ」
「え」
優生の性格を知っているだけに驚く勇士に、真実を話すのは勇気がいる。
「恋人とかじゃないよ。何ていうか、趣味と実益を兼ねて、住み込みとでもいうのかな」
「……女、だよな?」
よもや、最初に疑問に思う所がそこだとは思わなかった。
「ううん。男の人。学校にも行かせてもらえることになってる」
「そいつとつき合ってるなんてこと、ないよな?」
「ううん。ただのスポンサーだよ。俺と恋愛してるわけじゃない」
「スポンサーって何だ? まさか、そいつに体売ってるとか言うんじゃないだろうな?」
「……鋭いなあ」
「嘘だろ……?」
自分で言っておいて、肯定されると衝撃を受けたような顔をする勇士が何を考えているのかわからない。
「勇士だってそう思ったから言ったんだろ?」
「そういう噂があったから……まさかと思ったからわざと言ったんだ」
「俺、体売ってるなんて噂あったんだ?」
「そうじゃない、前におまえが倒れた時に……男にやられたんじゃないかって誰かが言い出したんだ」
事実なだけに驚いた。見る奴が見ればわかるものなのだろうか。
「まあ、否定はしないけど」
「それが一緒に住んでる奴なのか?」
違うと言えば、相手を追及されるのだろう。それを上手くはぐらかす自信はなく、かといって淳史に濡れ衣を着せるわけにもいかず、答えに迷った。
「悪い、答えたくないんならいいんだ。ただ、その時、真っ先に俺が疑われたからな」
そんなことがあったのではないかと邪推している奴らの前で、心配げに優生を抱き上げて保健室に連れていけば、疑われるのは仕方のないことだったかもしれない。
「ごめん、勇士にそんな疑いがかかってたなんて知らなかったから……」
「そんなことはいいんだ。詮索されたって疚しいことはないからな。でも、何かあったんなら俺に話してくれてもいいんじゃないかとは思ったけどな」
好きな相手に他の男と寝たと告白したい奴などいるわけがない。ましてや、もし優生の気持ちに気付かれて勇士に距離を置かれたらと思うと恐ろしくて、言葉にも態度にも慎重になっていた頃に起きたことだったのに。
「……ごめん。でも、その時は俺も人にそういうことを言える状態じゃなかったんだ。今日だって、おまえに言うかどうかすごく悩んだんだ」
「俺はそんなに理解がなさそうに見えるのか?」
「そういうわけじゃないけど……友達がそういうんだと嫌だろ?」
「個人の自由だろ? 俺と恋愛したいって言うんならともかく、おまえが男とつき合ってるっていうだけで嫌いになったりしないよ」
その言葉の棘に、勇士は気付かないらしい。軽蔑すると言われた方がマシなのではないかと思うほど、優生にダメージを与えたというのに。
「もう一回聞くけど、おまえ、本当に体売ってるわけじゃないんだよな?」
「相手の名誉のために否定しとくよ。住まわせてもらう代わりに俺がやってんのはハウスキーパーみたいなことなんだ」
ホッとした顔を見せる勇士に、どうしても一矢報いたくなってしまう。
「でも、その人、めっちゃタイプなんだ」
「ゆい?」
「趣味と実益を兼ねてって言っただろ?」
「さっき、つき合ってるわけじゃないって言ってなかったか?」
「そうだよ。俺のタイプってだけで、ただの契約関係でしかないし」
ややあって、勇士は諦め顔で優生を見た。
「ゆいは、そいつのことが好きなんだな?」
「え」
言われてみれば、優生はその、あまりにも今更な問いかけを自身にしたことがなかったのだった。相手の望む条件の中に感情は含まれていないと思い知らされるのがイヤで、考えないようにしていたのかもしれない。
「需要と供給のバランスがたまたま合っただけだよ、恋愛してるわけじゃないから」
「でも、おまえはそいつが好きなんだろ?」
「……かな」
咄嗟に口先だけでも否定しようと思ったが、好きじゃないと言うことはできなかった。見返りがないというだけの理由で、淳史を好きだと思わないようにしていたことに気付く。
「一緒に住んでるってことは、少しは期待してもいいんじゃないのか?」
「ううん、もっと大人の色っぽい女の人が好みだって言ってた」
「じゃ、何でおまえと……」
勇士が言いかけた言葉を切った理由は安易に想像できる。表現に気を遣うような品のいい男でもなかったはずなのに、と思うと笑えてくる。
「興味が湧いたみたいだよ。俺が前につき合ってた人にいろいろ言われて」
「なんか……俺はおまえのことを何も知らなかったんだな」
急に声のトーンを落とす勇士に申し訳ないような気持ちになる。きっと、見た目や内向的な優生の性格で、もっと清潔なイメージを持っていたのだろう。
「早く親の所から出たかったから、ちょっと焦ってたんだ。相手が大人なら反対されにくいと思って」
「家を出るだけなら、遠くの学校に行くとかすればよかったんじゃないか?」
「なるべく親の世話になりたくなかったんだ」
「他人の世話になるのは構わないのか?」
「親よりはね」
長いつきあいの勇士にはその心理をわかってもらえると思った。どんなに暖かく迎え入れてくれても、優生にとっては他人以上に気を遣う相手だ。反発するような年齢でもなく、受け入れられるほど大人にもなっていない。今の優生には距離を置く以外に上手くつき合う方法が思いつかなかった。
「俺も一人暮らしを始めたから、いつでも泊めてやるよ」
「え、いつの間に?勇士、家から通うんじゃなかったのか?」
「先月、姉貴が結婚することになって追い出されたんだ」
「お姉さん、帰ってきてるんだ?」
確か、勇士の姉は県外で就職していたはずだった。
「フライングしたからな、俺も夏には叔父さんだぜ?」
「そうなんだ……ビックリしただろ?」
「まあ、相手がいるのは知ってたしな。おかげで俺も家を出られることになったし、有難く思ってるよ」
「じゃ、何かあったら勇士の所に相談に行くからよろしくな」
「時間があるんなら寄るか?」
「うん」
この後の予定が明確になったことで、また駅の方に戻ることになった。あてもなく外で過ごすより、時間的にも気分的にも落ち着くことができそうだ。
「車を買ったら迎えに行ってやれるんだけど、大分先の話になりそうだな」
「勇士は夏休みに免許取ったんだよな」
「ああ。でも時々親の車借りて運転してたから運転の心配はしなくていいぜ?」
「俺はまだ教習所にも行ってないよ」
「今のうちに取った方が便利だぞ? せっかく長い休みなんだからな」
「わかってるんだけど、つい億劫で」
本来の目的はとうに果たしていたが、久しぶりに会ったせいか話は尽きず、勇士の部屋に長居をしてしまうことになった。自分の中だけに持っておくのが重かった話をいろいろと聞いてもらえたことも、思いがけず避難所ができたことも嬉しくて、なかなか帰る気になれなかった。またいつでも会えるはずなのに、無性に離れ難く感じて。
会うまでは躊躇いの方が大きかったのに、別れる頃には優生の気持ちはずいぶん軽くなっていた。






淳史を待ちながら、ソファの上で膝を抱える。そこに頬を乗せて、ささやかな幸せに浸っていた。
勇士に会いに行くまでは、知られることが怖いと思っていたのに、いざ話してみると味方ができたような気分になっていた。
理解を示してくれた友人には本当に感謝している。もし、今まで一人で悩んできたことも、勇士に相談していたらもっと違った結果があったのかもしれないと思う。
でも、そうしていたら、淳史に出逢うことも、こうして傍にいられるようにもならなかったのだろう。都合の良い結果論になるが、辛い思いをしたのが淳史に会うためだったとしたら、そう高くない代償なのかもしれなかった。
今の優生の望みは淳史の傍にいることだけだ。この先、恋愛の対象に昇格するのは無理でも、他の誰かを匂わせない淳史と一緒にいられるのは幸せなことだと思う。
考えれば考えるほど、無性に淳史に会いたくなった。勇士と話しているうちに、やっぱり自分は淳史を好きなのだと自覚したせいかもしれない。
こんな状態で淳史に会ったら、きっと優生の思いなど見抜かれてしまうだろう。それとも、もうとっくに知られていただろうか。

ふと、淳史の所に来る時に、無害だから一緒に暮らせると言われたことを思い出した。それは、優生がこんな気持ちを持ったら迷惑だということだろうか。
それに、淳史の好奇心が満たされれば、すぐに不要になってしまう存在でしかないのかもしれないのに。
胸を過った不安に、自分の身を抱くように小さく丸くなる。まだ始まったばかりなのだから、別れにはもう少し猶予があるはずだった。

「……優生?」
考え事をしていた優生は、突然肩に手をかけられて飛び上がりそうになった。まだ、大人の男の気配に怯えてしまう癖が抜けないのに。
だから、それが淳史だと理解するのに少しかかってしまった。
「あ、おかえりなさい」
慌てて笑顔を取り繕う優生に、訝しげな表情の淳史が顔を近付けてくる。
「ただいま」
言葉と共に、軽く唇が触れる。
「どうかしたのか?」
「ううん、ごめんなさい。ごはん、すぐに食べるの?」
「今日は済ませてくるって言ってなかったか?」
「……そうだった」
用意もしていないのに、そんなことを言ってしまった自分が可笑しかった。もちろん、怪訝な顔をする淳史が何を思ったのかなど、優生には知る由もない。
「え」
突然、ソファに押し倒されて、驚いて淳史を見上げる。なぜか、ひどく不機嫌そうに見えた。
「淳史さん?」
優生の肩口へ、淳史が顔を近付ける。
「煙草の匂いがするな?」
「あ、勇士の……」
言いかけて、今まで淳史に話したことのない友人のことを名前で呼ぶべきではないことに気がついた。
「学校の友達の所に行ってたから、そいつ煙草吸ってたし、その匂いがついたんじゃないかな」
「こんな所にか?」
「うん? 並んで座ってたし」
時々、肩に凭れたり凭れられたりしながら話し込んだからだと思う。
「他の男に触らせるなよ?」
淳史のきつい眼差しに怯みながら頷いた。淳史が気にするのが性的な意味合いなら、心配はない。優生よりも勇士の方にまるっきりその気がないのだから。
「まだ暫くは忙しいと思うが、俺が構ってやれないからって浮気するなよ?」
「え?」
その言葉の意味を尋ねたいのに、どういう風に聞いたらいいのかわからない。
「嫌な奴に目を付けられててな、とことん人の恋路を邪魔する気らしいんだ。頼むからそいつの思うつぼに嵌らないでくれよ?」
「え、と……言ってることが全然わからないんだけど」
恋路、というのが淳史と他の誰かのことでないことを祈った。
「俺を婿養子にしたがるようなもの好きがいるってことだ。取引先だから無下に断れないのをわかってて無理ばかり言ってきてるからな。もし誰かに俺の婚約者だとか言われても本気に取るなよ?」
「もしかして、前に社長令嬢がどうとかって言ってた話……?」
「よく覚えてるな。そいつが彩華みたいに執念深い女なんだ。もう決めた相手がいるって言ったのが逆効果だったらしくてな、結婚してるわけじゃないんだから関係ないって言って退かないんだ」
決めた相手というのは言い逃れるための方便だろうか。
「おまえのことだぞ?」
まるで、優生の思いが聞こえたかのようなタイミングで答えられて焦った。
「え?」
「男が相手の場合は何て言うのか知らないが……他に言いようがないよな? 優生、俺と結婚してくれ」
「……は?」
いつになく回りくどい言い方をした理由を量りかねて、とりあえず疑問符を投げかける。もしかしたら、偽装結婚をしてくれと言われたのだろうか。
「急にこんなことを言われても返事に困るのはわかるが、時間がないんだ。本来ならもっと時間をかけて一生を託せる相手かどうか見極めてからの話なんだろうが、そんなことをしてるうちに俺を他の女に取られてもいいのか?」
「淳史さん、言ってることが支離滅裂だよ? 俺、ほんと意味わかんない」
「おまえは俺が他の女と結婚してもいいのか?」
「淳史さん、それじゃ脅迫だよ」
愕然としたように見えたのは気のせいだろうか。
「強引だったのは認めるが、同棲してるのはおまえの合意があったからだろう?」
「同棲って……俺のは単なる住み込みでしょ」
「俺はおまえを雇った覚えはないぞ?」
どう思い返してみたところで、そんな甘い話はなかったはずだった。むしろ、契約のような話ばかりだったと記憶している。
「だって、スポンサーになってくれるって言ってたよね?」
「最初から同棲してくれって言っていたら、おまえは俊明に遠慮して、いい返事をしなかっただろう?」
確かにそうかもしれない。だからといって、いきなり恋愛をすっ飛ばして結婚という話になるのはどうにも納得がいかない。
「……俺のこと、少しくらいは好きなの?」
「少しって何だ? 俺はここへ連れて来た時にちゃんと言ったぞ」
「うそ……」
「嘘じゃない。おまえ、人の話をちゃんと聞いてるのか?」
思い返してみても、そんな甘い言葉を一度として聞いた覚えはなかった。そんなことを言われていれば、きっと舞い上がって一生忘れられないだろうと思う。
「……いつ?」
「初めておまえを抱く時に」
「それっぽいことも言われた覚えがないんだけど」
「惚れてもいない相手の所へ通い続けたりしないって言ったと思うんだが」
「あ……」
そう言われてみれば、そんなようなことを言われたかもしれないと思う。とはいえ、それは売り言葉に買い言葉のような、その場凌ぎの一言に過ぎなかったのではなかったのだろうか。
「それまでにも何度もそれらしいことは言ってただろう? 俊明にだって、はっきり俺のものだって宣言しただろうが」
「そういう意味だとは思わなかったんだ……」
初対面の時に淳史が優生をとことん否定したせいで、自分が恋愛の対象になり得るかもしれないとは思いもしなかった。
「何て言ったらわかるんだ? 愛してるって言えばいいのか?」
淳史の態度は、口説いているというよりまるで喧嘩腰だということに気付いていないのだろうか。
「ごめんなさい。まさか、俺のことをそんな風に思ってくれるとは思わなかったから……」
「もうわかったか?」
「うん」
「じゃ、返事は?」
「返事?」
「だから、結婚してくれって言っただろうが」
苛ついたような口調の淳史は、どうしても甘い雰囲気にしてくれる気はないらしい。
「俺が男だって知ってるよね?」
「断ってるのか?」
「断るも何も、結婚なんてできないでしょ」
「籍はともかく事実婚ならできないこともないだろう?」
それは現状でいいと言うことだろうか。とりあえず、これ以上淳史を苛付かせないうちに、そう深く考えないまま肯定しておくことにした。
「それなら」
「じゃ、近いうちにおまえの親に挨拶に行くからな」
「え」
「親の了承ももらわずに結婚できないだろうが。それに、おまえは未成年だからな」
そうでなくても、淳史は俊明の件がきちんとしたら親に挨拶に行くと言っていたが、いざ現実になると引いてしまう。
「都合、聞いておいてくれ」
「うん……」
今更、嫌だと言うわけにもいかず、仕方なく頷いた。二人の問題なのに、二人だけで決めてはいけないのだろうか。
「そういえば、聞いてかったな」
「何を?」
聞かなければよかったと後悔しても、もう遅い。
「おまえが俺をどう思ってるのか」
「……わかってて言ってるんでしょ」
何とか躱そうと思う優生を見つめる目は誤魔化されてくれそうになかった。
「まだ、俊明が好きなのか?」
「ううん」
「じゃ、俺は?」
どうやら、こういう言葉は後になるほど言いにくくなるものらしい。
「……好きに決まってるでしょ」
どうしても素直に告げることはできなくて、つい自棄気味に言ってしまったが、淳史はむしろ嬉しそうだった。
「まあ、あの女のおかげで素直になったと思えば感謝してもいいかもしれないな」
素直になったなどと言われるのは心外だったが、その人のおかげで淳史が優生を思ってくれていたことがわかったのだから、感謝しなくてはいけないのだろう。
「順序が逆かもしれないが、明日にでも指輪を見に行くからな」
「やっぱり、そういうのはしないとダメなのかな?」
「事実婚って言っただろう? 式を挙げてくれとは言わないが、指輪くらいは嵌めといてくれ」
「うん」
今まで一度として指輪などしたことがないが、その意味は何となくわかる。きっと、喜ぶべきことなのだろう。
「といっても、死ぬほど忙しいからな。いつ抜けれるとか帰れるとかは言えないんだ。いつでも出られるようにしててくれるか?」
「わかった」
「じゃ、明日に差し支えないように早めに寝るとするか」
「うん?」
立ち上がる淳史の背が風呂場へ向かうのを見ながら、一抹の不安が胸をよぎった。
あれほどタフに見えた淳史が、明日に差し支えるなどと言うのは違和感があった。それほども疲れているということだろうか。
優生はまだ、淳史を狙っているという社長令嬢がどれほど恐ろしい人物なのか知らなかった。



- Just Can't Wait - Fin

【 Never Say No 】     novel         【 After A Storm 】


2006.9.12.update

なんだか、中途半端な感じで終わってしまってごめんなさい。
次はめちゃめちゃせつないお話になりそうなんです。
幸せな所で区切ってあげたくて。これも親心と察してやってください。

毎度おなじみのネタバレですが、
今後、勇士と優生が友達以上になることはないです〜