- Never Say No -



「おじゃまします」
短い挨拶をしてからドアの中へと足を踏み入れた優生に、淳史はむしろ余計なことだとでも言いたげな返事をよこす。
「俊明のところでもそんなことを言ってたのか?」
「一応、立場は弁えてるつもりなんだけど」
「俺は客扱いしてやる気はないぞ?」
「お客なんてとんでもない。ハウスキーパーってとこでしょ?」
玄関を入って右手のドアを開けると広いリビングダイニングが広がる。ほぼ優生の想像通りの、男の一人暮らしにしては立派過ぎる部屋に見えた。ただ、自分では家のことは一切しないという淳史の言動とは一致しない、散らかってもいなければ汚れてもいない、生活感をあまり感じさせない住いだった。でもそれは、メンテナンスをプロに任せているからというよりは、あまり使っていないからのような気がする。
淳史はリビングに少し乱暴に荷物を置くと、大きなソファへと座り込んだ。
「優生?」
目で座るように促されて、優生は淳史から少し距離を取って腰掛けた。
「俺はスポンサーになってやるって言わなかったか?」
「でも俺には担保もないし、出世払いできる保障もないよ?」
出資してもらう価値があるとは思えない自分が、淳史と対等であるかのような態度を取るわけにはいかない。
「謙遜するなよ?」
「え?」
吐息が触れそうなほど距離を詰められると、甘い空気に包まれたような錯覚に陥る。まさか、あれだけ色気がないとか子供過ぎるとか言われていた自分が淳史の気を引くとは思えなかったが。
「そんなに気にするんなら先に払ってもらおうか」
何を? と問いかけた唇が塞がれても、まだ信じられなかった。
一度引きよせられた体が、淳史の腕に抱かれたままソファへと倒れされていく。思いがけないキスに、無防備な唇は緩んだまま。
舌先が触れ合った時、ようやく事態の深刻さに気付いた。逃れようと頭を振った時にはもう遅かった。後頭部から包むように抱きしめられていて顔を背けることもできなかった。どうやら、対価は家事労働ではなかったらしい。
絡んだ舌から伝わる熱っぽさに体が竦む。ずっと、淳史からはそういう対象で見られることはないのだと思っていた。
息苦しさに距離を取ろうとした腕を取られて、淳史の首へと回される。耳元へ移された唇が囁く。
「場所を変えるか?」
頷けば合意になるのではないか。
「ここの方がいいのか?」
重ねて問われて慌てて首を振る。淳史が満足気に笑うのを見て、どちらにしても了承にしかならなかったことに気付いた。
「しっかり捕まってろよ」
抱き上げられた体が宙へ浮く不安に、我知らずしがみついていた。淳史の背が高いせいで、床がずいぶん遠く感じる。
俊明のいない部屋に毎日通って来てくれていた時には、淳史からそんな気配は微塵も感じなかったのに、いつの間に宗旨替えしたのだろうか。それとも、単なる好奇心なのかもしれない。現実から逃避するように理由を思い巡らしてみても結論は出そうになかった。
「優生?」
呼ばれて我に返った。もの思いに浸っている場合ではなかったらしい。淳史に抱かれたまま乗り上げるベッドが沈む。
「いや」
反射的に逃れようと起こしかけた体がたやすくベッドへ戻される。完全に淳史の体の下に引きこまれると身動きもままならない。
「待って、工藤さん、冗談だよね?」
我ながら、なんとも情けない躱し方だと思ったが。
「俺が冗談でこんなことをすると思うのか?」
「だって、俺みたいな発育不良のガキには興味ないって」
「ずいぶん古い情報だな」
「それに、俺は女じゃないし」
「俺は惚れてもいない相手の所へ毎日通い続けるほど暇じゃない」
「それは俊明さんが俺のことを工藤さんに頼んだからでしょう?」
「淳史でいい」
「えっ」
言われた意味がわからなかった。見上げる優生に近付いてくる淳史から顔を庇うように手を上げる。その手首を軽く掴んで頭の上へと押え込む腕の強さが鼓動を逸らせた。
一方的な攻防に、切り札を早々に切る。
「俺はまだ俊明さんと別れたわけじゃないよね?」
瞬時に淳史の顔色が変わったように見えたが、それは優生が思っていたのとは違う理由だった。
「俺がおまえの面倒を見てやるって言った時、俊明が何て言ったか覚えてないのか?」
「え……」
巻き戻した記憶が、意味を変えて再生される。
戸惑ったように優生を窺った俊明は、優生も納得しているようだと言った。それが、淳史に譲られることを了承していると受け止められたのだとは思っていなかった。
淳史の瞳に同情の色が映る。今更ながら、自分だけが勘違いしていたことを知った。
では、淳史がスポンサーになってくれるというのは愛人契約という意味だったのだろうか。優生が俊明に振られていたのなら、とっくに契約は成立していたのかもしれない。
「もうおまえは俺のものだろう?」
優生の疑問に答えるように囁かれた言葉にドキリとした。性懲りもなく、そんな言葉に騙されたくなる自分は馬鹿だと思うのに。
もう、近付いてくる唇を拒むのはやめた。スポンサーになってもらうのなら、優生には拒否する権利などないのだろう。ここ以外の思い付く選択肢の中に、優生が行きたい場所はなかった。
強引に感じたのは最初だけで、淳史はひどく丁寧に優生を扱った。優生が早々に抵抗を諦めて従順を装ったせいかもしれない。
それでも、淳史の前で体を晒すのは抵抗があった。ふくらみを持たない性だという以前に、淳史にずっと言われ続けているように貧相な体だと思うからだ。
「優生?」
瞼を上げてみると、淳史が心配げな表情をしていたので驚いた。少しは気を遣ってくれているのだろうか。
「嫌か?」
遅すぎる問いに素直に答えた。
「ううん、ビックリしただけ」
淳史が何の抵抗もなさそうに優生に触れていることが意外で。まさか、あれだけ否定し続けていた優生を試してみようとするとは思いもしなかったから。
優生には、淳史が躊躇などしていないように見えた。一抹の不安さえ孕んだ予想を裏切って、淳史は優生に欲情しているようだ。
むしろ、戸惑っているのは優生の方だった。俄仕込みの覚悟しかない優生は、体を繋げられそうになると情けないくらい身構えてしまっていた。
「つけた方がいいのか?」
優生の戸惑いを違った意味に捉えて、淳史が身を引く。そんなことを尋ねられたところで答えようがないのに。
「どうなのかな……」
「中で出したらマズいんだろう?」
「そうかも」
確かに、後のことを考えたら遠慮してもらえたら有難いと思う。
「中で出さなけりゃいいのか?」
「そうなのかな」
そもそも、こんな会話をしていること自体が恥ずかし過ぎると思っているのは優生だけらしい。
「ずいぶん頼りないな」
優生が見た目ほど真面目でも純情でもないと知っているからこそ、呆れたように笑ったのかもしれない。でも、いつだって優生には選択権などなかった。最初の相手は優生の都合など一切気にも留めずに中に出したし、俊明はゴムを使わなかったことはなかった。
「途中でやっぱりつけてくれって言われても無理だからな?」
「うん」
これ以上、そんな会話を続けられることの方が耐えられなかった。淳史が思うほど、優生は慣れているわけではないと思う。
細く息を吐いて体の力を逃がす。意識して抜かなければ、すぐに身構えてしまいそうになる。
「大丈夫か?」
「うん」
淳史は、優生が抱いていたイメージと違ってひどく慎重だった。まるで、ちょっとでも手荒に扱ったら壊れるのではないかと思っているかのようだ。だからこそ、本当はつらいとは言えなかった。受け入れるのが久しぶりなせいか、いつもより負担が大きい気がする。
「本当にキツイんだな」
本当に、に籠められた意味を思うと羞恥で体が熱くなっていく。そういう話を俊明としていたようだったから、優生が装おうとしてもきっと知られてしまっているのだろう。本当は抱かれるのが好きなことも、女の子のように感じることも。
「優生」
呼ばれて見上げた目が合うと、恥ずかしくなって横を向いた。すぐに唇が追いかけてきてキスが始まる。唇も肌も、淳史に触れられたところが悉く熱を帯びていく。もう、やめたいのか引き止めたいのかもわからない。
「……ぁん」
優生の中をかき乱すのはキスだけではなかった。やはり穏やかな男ではなかったようだ。
「工藤さ、ん」
「淳史だ」
ようやく、さっきの言葉の意味がわかった。
「淳史さん……?」
「“さん”はなくていい」
そう言われたところで、推定愛人の立場では呼び捨てにするなんてとんでもないことだった。それに、もう言葉を紡ぐのは困難になっていた。
「ま、って……ぁんっ」
体の内側から食われていくような錯覚に負けそうで、縋るように淳史の肩を掴む。
「途中で止められないって言っただろう?」
もう少し抑えてほしいと告げることさえ難しくて、言葉にしようと思うのに、ただ喘ぐことしかできなかった。触れられてもいないのに、もう優生の方は限界がさしせまっている。ストイックな生活が続いていたせいで、ますます弱くなっているようだった。
「も、ダメ、みたい」
もう我慢できそうになくて、淳史の肩を押して切迫していることを伝える。
「この状態でやめられると思うか?」
優生の言いたいことは淳史に伝わっていないようで、深い所を抉られると、やわな防波堤が一息で崩れた。
淳史の胸元まで濡らした飛沫に、ようやく淳史は優生が何を訴えていたのかわかったようだ。動きを止めて、確認するように優生を見る。
「おまえの方につけておくべきだったか」
からかうような言い方に、ますます体が熱くなる。でも、自分でも抑えようがないのだから仕方がない。
「ごめんなさい」
「いや、気が付かなかった俺が悪い」
軽く拭って、優生の表情を窺う。
「久しぶりだったのか?」
頷けば、疾うに俊明から見放されていたことを告白することになってしまう。かといって、否定できるほど強いわけでもなかった。
短いインターバルを置いて、淳史がゆっくりと動き出す。
「こんなに待つ必要はなかったってことか」
まるで、前から機会を窺っていたかのような言い方だった。その言葉を追及してみたかったが、尋ねるような余裕はなかった。膝裏を押し上げられて、更に奥を穿たれると、一度引いた熱がまた駆け上がってくる。呼吸を整える間もなくピッチを上げられて、思考を保つことができなくなってしまう。
「まっ……て」
上ずる声ではペースを落としてほしいと伝えるのは難しくて、閉じた瞼の端から涙が滲む。また、鍛錬不足だと笑われてしまいそうだ。
「優生?」
問うように名前を呼ばれて、訳もわからず首を振った。
「しょうがないな」
言葉とは裏腹に、待ってくれる様子はなかった。
「ぁっ、あ、んっ」
何度か突き上げられたあと、一際深い所を穿たれて止まる。このまま達するのだと思った時、不意に腰が引かれた。
「やっ……」
いきなり体を離されて、思わず非難めいた声を上げてしまった。少し遠い淳史の腕を掴んで顔を見上げる。
「中で出されたくないんだろう?」
目が合うと、淳史が苦笑する。
確かにそう言ったのは優生だったが、相手が達ったことを実感できないのはひどく不安に感じた。
「そんなこと、ない」
「意外とわがままだな」
「だって」
泣きそうな優生の髪をくしゃりと撫でる。
「風呂、行くか」
「うん」
一緒に、という意味だとは思わなくて頷いた。あっという間にシーツにくるまれて、軽く抱き上げられる。
「……もしかして、一緒に入るの?」
「二人で入れないほど狭くないぞ?」
そういう意味ではなかったが、とても優生の心情を説明する気にはなれなかった。淳史の性格なら、わかっていてわざと言っているのかもしれない。
シーツに包まれたままバスルームに下ろされる。
「シーツ、どうしよう」
濡らさないようにするべきか迷った。
「どうせ洗わないといけないだろう」
汚した場所を確認して下洗いするべきだろうかと思いながら、シーツを肩から外す。体を隠すものがなくなることに抵抗があったが、この状況で後から入り直すと言っても聞き入れてもらえるとは思えなかった。せめて、淳史に背を向けるように壁の方を向いた。
「優生」
背後から抱きしめられて、立ち位置に失敗したことに気が付いた。ピッタリとくっついた体から伝わる熱っぽさに、まだ淳史が満足していないのだとわかった。できれば、ここで2ラウンドめに突入するのは避けたかったが、優生にはそんな我儘を言う権利はないのだろう。
それでも、首筋に唇を押し当てられて胸元を撫でられると、また体の奥に熱が灯るのを感じた。優生の背中に触れる淳史の体も熱くて、切羽詰ったような緊張感が伝わってくる。
「淳史さん?」
確かめるように振り向いた視界に捕らえたものに怖気づいた。反射的に退ける腰を引きよせられる。
「ダメ」
逃れようとムダに足掻く優生を抱く腕に力がこもる。
「優生?」
訝しげな淳史を何とか止めたくて、言葉を選ぶ余裕がなかった。
「ムリだよ、そんな凄いの入んない」
優生の焦りなど気にも留めてくれず、淳史は軽く却下した。
「さっきは大丈夫そうに見えたんだが?」
「サイズ、違ってない?」
「そんなにコロコロ変わるか」
「ひぁっ……」
言葉で説得するのが面倒になったのか、淳史が引きよせた腰を高く上げさせた。探るように先端が潜りこんでくると、もう口答えをしている余裕がなくなってしまった。壁に縋るように腕をついて体を支える。少しずつ息を吐きながら、少しでも衝撃を和らげようと淳史に協力する。
「優生?」
すっかり納まりきると、確かめるように名前を呼ばれた。小さく頷くと、掴まれた腰が前後に揺すられる。
「っん、あ、ぁん……」
グッと引きよせられると腹を突き破られそうな錯覚を覚えるほど深く穿たれる。あまりの重量感に一瞬息が止まり、侵入を阻むように内壁が締まる。
「優生……」
苦しげな声が耳を噛む。
「んっ……」
「ちょっと力を抜けよ」
耳の後ろをきつく吸った唇が首筋へと移ってゆく。
脆い膝が力を失くして、どうしても拒むことができない。淳史に支えられていなければ足元から崩れ落ちてしまいそうだ。
「は、ぁん」
たった一度抱かれただけで、体はもう淳史に馴染んできたらしい。中を探るようにかき回されると腰が甘く痺れて、無意識に官能を追う。
「優生?」
「いや」
ギリギリまで身を引かれると、思わず腰が追いかけてしまう。頭の片隅で、はしたないと思ったが止められなかった。
「ムリじゃなかっただろう?」
淳史の声音は意地悪で。答える代わりに、優生はバスルームに甘い声を響かせた。


腕が離されると立っていられなくて、床へ座り込んでしまった。
「優生?」
「……立てないみたい」
言うかどうか迷ったが、事実を簡潔に告げた。
「まさか腰が抜けたのか?」
経験がないのでわからないが、腰が抜けるというのはこういう状態を言うのだろうか。
「なのかな……力が入んない」
「本当に鍛えてるのか?やわ過ぎるぞ」
サイズと無茶な体勢のせいだと反論する気力もなくて、黙っておいた。
「しょうがないな」
壁に凭れるように座らされて、足元からシャワーの湯をかけられる。
「頭も流すぞ?」
「うん」
自分で出来ない以上、遠慮するわけにもいかなかった。
今日一日の間にずいぶんと意外なことが続いたが、淳史が髪と体を洗ってくれたことにも驚かされた。今まで淳史に抱いていたイメージとあまりにも違い過ぎる。
「ごめんなさい、なんだか全部してもらってしまって」
「そのうち返してもらうさ」
その手段を聞くのは恐ろしくてやめておいた。
むしろ楽しそうに優生の体を洗いあげてゆく。大事そうに扱われるくすぐったさは、優生を幸せな気分にさせた。
湯を張るかわりにシャワーを長めに浴びてから、淳史に抱かれるように浴室を出た。マットの上に座り込んだまま、頭からバスタオルを掛けられる。座ったままで体を拭いてから、着替えを用意していないことに気付いた。
「着替えるのか?」
「うん」
頷いたのは、優生は一度脱いだ服をもう一度着るのがあまり好きではなかったからだ。
新しいバスタオルを掛けられた体がまた抱き上げられる。自立できそうにない優生には反論のしようがなかった。
寝室は、廊下を挟んで浴室の反対側になっていた。漠然と黒系の寝具をイメージしていたが、実際には淡いブルー系のやわらかい印象の部屋だった。バスタオルにくるまれたままの優生の体がベッドに下ろされる。
「後でおまえの荷物を持ってくるからちょっと待ってろ」
淳史は寝室に続く部屋に入っていってしまった。どうやらウォークインクローゼットになっているらしい。
「仕事に戻らないといけないんだが、一人でも大丈夫か?」
「え、これから?」
会社に戻ると言った淳史に、驚いたというより呆れた。到底、仕事中の、もしくは仕事前の人間の取る行動には思えなかった。
「だから仕事を放ってきたって言っただろうが」
戻ってきた淳史は、さっきまで着ていたのとは違うクリーニングから返ったばかりの糊の効いたシャツに、少し派手めのネクタイを締めていた。
「ごめんなさい、俺が変なメール打ったせいだよね」
「いや、知らせてくれてよかったよ。連絡がなかったら今頃捜し回っていただろうからな。黙って消えられるのが一番怖かったんだ」
言葉のあやにしても、淳史にも怖いものがあるのだと思うと可笑しくなる。しかも、それが優生のことだなんて不思議だった。
「お仕事、大丈夫かな?」
「接待だから問題ない。遅くなると思うからおまえは先に寝てろ。晩飯食うのを忘れるなよ?」
「淳史さんは食べて帰るの?」
「そうだな。何時になるかわからないから待たないでいいからな。といっても、腰が立たなけりゃ買い出しにも行けないか?」
真面目に聞かれると一層恥ずかしさが増してしまう。
「少し休んでれば大丈夫だと思うから気にしないで。着替えも後で自分で取ってくるから」
「そうか? あと、俺はここで食事はしないから、酒とかコーヒーとかしか置いてないからな、元気になったら外で食うか買ってくるかしてくれ。おまえ、方向音痴ってことはないな?」
「ないと思ってるんだけど。あまりウロウロしないようにしておくね」
「鍵、渡しておかないとな。あと、エントランスの番号覚えてるか?」
「ううん」
淳史が解除した番号など知るわけがない。
「書いておいた方がいいな。それから、もしインターフォンや電話が鳴っても取らないでくれ」
「わかった」
「あと、パソコンを使うんならノートの方にしてくれ」
「使っていいの? ないと困るなあと思ってたからよかった」
「いるんなら買ってやるよ。とりあえず休みになるまで待ってろ」
「そんな」
そういうつもりで言ったわけではなかったが、淳史は軽く流してしまう。以前、冗談で欲しいと言ったピアノをすぐに買ってくれたくらいだから、淳史にとってはたいしたことではないのかもしれない。
「じゃ、行ってくる」
無警戒の優生を覆い被さるよう抱きしめて、唇に短いキスをされる。まさか、“行ってきます”のキスをしてくれるなんて思いもしなかった。
見送りに出ようとする優生を引き止める。
「そのままでいい、ロックして行くからな。今日はゆっくりしてろ」
「ありがとう、いってらっしゃい」
もう一度、唇にキスが降ってくる。優生のご主人はずいぶん甘いらしかった。




目が覚めると、夕方近くなっていた。
寝過ぎて頭がぼーっとしている。不眠が続いていた頃のことを思うと贅沢な症状だと思う。
何気なくベッドを出てから、立ち上がれるようになっていることに気付いた。まだ体の奥に何かがあるかのような違和感は残っていたが、とりあえずコーヒーを淹れるために部屋を出る。
キッチンに立ってみると、殆ど使っていないらしく、まるでショールームのようにスッキリとしていて、キレイだった。
自炊はおろか、家で食事など殆ど摂ったことがないというだけあって、淳史のキッチンには必要なものもないに等しかった。鍋もフライパンも調味料もなければ、食器も数えるほどしかない。
「これじゃ、“しなくてもいい”じゃなくて“できない”だよ」
シンクの下は空同然で、上の吊り戸棚には、開封した痕跡もない引き出物らしい食器のようなものが山積されていた。勝手に中を改めるのもためらわれて、触るのはやめておく。留守番気分の優生としては、一刻も早く部屋の主に帰ってきてほしい気分でいっぱいになってしまった。
とりあえず、ケトルで湯を沸かし、ドリップのコーヒーを淹れることにした。コーヒーは挽いたものと豆の両方が置いてあり、少し迷ったが、挽いてある方を使った。
唯一、といってもいいくらい普段使っていそうなのはチャコールグレーのマグカップで、側面に小さく猫のキャラクターが描かれている。色違いの白いものもあったが未使用のようで、誰かのためのものかもしれないと思い、少し大きめの湯飲みを借りることにした。
コーヒーを飲んで一息つくと荷物の整理を始めたが、すぐに、優生のものをどこに置いたらいいのか迷い、結局、片付けをするのもやめた。まずは、主人の了承を得てスペースをもらってからでないと進められそうになかった。
仕方がないので買い出しに行くことにした。できれば出掛けたくはなかったが、食事を抜かないように言われている以上、行かないわけにもいかなかった。
上着を引っ掛けて財布にメモを入れて、携帯と鍵と一緒にポケットに入れる。このマンションの何軒か向こうにコンビニがあったはずだった。
これから住むことになるだろうマンションと周囲を覚えるために、意識してゆっくり歩いた。
駅が近く、デパートやホームセンターも近い。渋滞を考えればむしろ車で行動しない方が便利な場所なのかもしれなかった。もっとも、優生が免許を取る頃までここにいるかどうかは甚だ疑問だったが。
あまり空腹を感じていなかったから、サンドウィッチと牛乳と求人雑誌を買って帰った。明日の朝食分も買っておくか迷ったが、家では食べないという淳史の言葉を思い出してやめた。マンションから10分弱のコンビニには、朝でも来れる。
淳史に伺いをたてないことには何ひとつ決められない以上、今夜は何もできそうになかった。見るともなくテレビをつけて、買ってきた求人雑誌をめくる。ここにもいつまでいられるかわからないのだから、働くことを考えなくてはならなかった。成り行きだったとはいえ、俊明と一緒に住むことになった時には、もう少し長く傍にいられるのだと思っていた。少なくとも、優生が一人立ちできるくらいまでは。
だから、淳史にも分不相応な望みを抱いてはいない。以前の俊明の話からも、淳史はいつも友人の恋人が気になるらしいとわかっている。まして、あれだけ否定していた優生になどすぐに飽きるだろうから。
その日のためにも、早く生活力をつけないといけないのだと思う。もう、誰かに頼って生きていくのではなく、自分の力で生活できるようになりたかった。
大学が始まるまではあと一月余りしかなく、できれば通いながら続けられる仕事が希望だった。とはいえ、 今までアルバイトなどしたことのない優生にもできそうな仕事で、土日や夕方以降の募集は飲食店に偏っていた。あまり人と接するのが得意ではない優生にも勤まるのか不安だったが、選り好みできる立場でもなく、距離や時間の合いそうな所にいくつか付箋を貼っておいた。
求人誌のチェックが終わると、もうすることがなくなってしまう。少し迷ったが、使ってもいいと言っていたパソコンを借りることにした。遅くなるらしい淳史が帰るまで、オンラインゲームで時間を潰そうと思った。






「ただいま」
11時を少し回った頃、淳史が帰ってきた。玄関まで迎えに出た優生に、出かけた時と同じように短いキスをする。
「おかえりなさい」
ちょっと照れる優生をからかうでもなく、リビングへと急ぐ。
「先に風呂にいく」
上着と鞄をソファに置こうとするのを慌てて受け取り、淳史が風呂場へ向かうのを追いかける。
「あの、着替えとか、どうしたらいいのかな?」
淳史のものがどこにあるのか、まだ何も知らない。何がどのタイミングに必要で、優生は何をしたらいいのか、早く把握してしまいたかった。
「自分で用意するから気にするな」
「うん……」
てっきり優生にさせる気だと思っていたから拍子抜けしてしまった。淳史の所に来てから意外なことが多すぎる。それとも、優生が淳史のこともこの部屋のことも何も理解していない今だけだろうか。
「お風呂出たらビール?」
「いや、今日はいいからゆっくりしてろ」
「うん」
優生のやる気はカラ周りしているようだった。なんとか、出資してもらうぶん働こうと思っているのに拍子抜けだ。
アルコールを飲まないのならコーヒーだろうと思い、淹れておくことにした。確か、家ではアルコールかコーヒーくらいしか飲まないと言っていたはずだった。一応、自分のためにミルクも温めておいた。
淳史の部屋は決して居心地は悪くないが、まだ自分の居場所を確保できていないせいか、何となく落ち着かない。
「ちゃんと飯食ったか?」
風呂から上がると、すぐに淳史はソファに座り込んだ。どうやら、かなりお疲れらしい。昼間から2度も励んだせいかもしれない。
「うん。コーヒー入ってるよ?」
「後でいい。とりあえず座れよ」
「うん」
キッチンへ行こうとする優生の腕を引いて、淳史の横に腰掛けさせる。すぐに、淳史の上体が優生の膝に倒れ込んできた。
「30分以上寝てたら起こせ」
「うん」
どうやら、膝枕を要求されたらしい。話を続けていいものかどうか迷ったが、一応尋ねてみる。
「淳史さん、朝ごはんはどうするの?」
「朝は職場で摂るからいい。おまえ、一人でも飯食えるか?」
「うん。家で食事しないってことは、ここでは料理しない方がいいのかな?」
「それじゃ、おまえが来た意味がないだろう?」
やはり、主契約はハウスキーパーの方だったようだ。
「じゃ、晩御飯だけここで食べるの?」
「そうだな、帰れる日は昼も食いたいな」
「じゃ、帰れる時は早めに知らせてくれる?俺、何を作るのにも時間がかかるから」
まだまだ不慣れな優生は、レシピ片手に悩みながら料理を作っているのだから。
「そんなに凄い期待はしてないから心配するな」
有難い言葉だが、精進しなければとも思わせられる。
「そういえば、ここのキッチン何もないんだけど、勝手に触っていいかな?いろいろ買い足したりしたいんだけど」
「好きに使えばいい。どうせおまえしか使わないんだからな。いろいろ揃えるんなら車を出した方がいいな。急ぐのか?」
「できれば早い方がいいけど、ムリでしょう?」
「2、3時間でいいなら明日の午後にでも抜けてられると思うが」
「いいの?」
「時間が限られてるから必要なものはリストアップしておけよ?」
「わかった」
淳史の掌が優生の頬へ伸びてきた。
「いろいろ言いたいこともあるだろうが、少し寝かせてくれ」
「うん」
優生の首の後ろへと回った手が、淳史の方へと引きよせる。唇が軽く触れて、そのまま目を閉じる。きつい双眸が伏せられると怖い雰囲気が和らぐが、厳つい輪郭や男っぽさは際立って見える。優生には欠片もないタフな容姿に惹かれてしまうのかもしれないと改めて思った。
淳史の疲れた顔を見るのは初めてだった。弱みを見せるタイプには思えなかったぶん、優生に寄りかかってくれるのを嬉しく感じる。少しでも、出資に見合ったことを返したいと思った。
淳史の寝顔を見つめるうちに、寝息に引きずられるように眠気が押し寄せてくる。今日は昼寝までしているというのに、どうにも睡魔の誘惑に勝てそうになかった。


寝返りを打とうとした体が、強い力で止められる。状況を把握できない体が、その不安定さに戸惑った。開いた目に捉えた光景に、既視感を覚えた。
「30分で起こせって言っただろうが」
「ごめんなさい……俺、いつの間に寝ちゃったのかな」
時計を見ると1時間半ほど経っていた。あまりに気持ちが良くて、すっかり寝入ってしまっていたらしい。
「まあ、眠れないよりはいいが」
「ごめんなさい」
「このまま寝るか?」
「淳史さんは?」
「少し仕事を片付けてからな」
「じゃ、コーヒー入れてくるね」
立ち上がりかけた優生の腕が引かれる。
「言うまでもないと思うが、副業は禁止だぞ?」
「え?」
淳史の視線の先に求人誌があった。
「4月からは学校にも行くんだろう? 俺に合わせられると思ってるのか?」
「家のことはちゃんとするつもりだけど……」
「ダメだ」
よもや専属契約だとは思わなかった。淳史の仕事に合わせるのが労働条件のひとつなら、他にもアルバイトをするのは難しい。
「金が要るんなら給料を払う」
「とんでもない! 置いてもらえるだけで有難いと思ってるから」
「元々業者に払ってたんだからな」
「それはプロの人でしょ、俺はそんなにきちんとはできないし、そんなこと言うんなら俺だって家賃払わないといけないでしょう?」
「おまえ、人の話を聞いてるのか?俺はスポンサーになってやるって言っただろうが?」
「でも、俺が就職して自分の面倒を見れるようになるまでは長いよ」
それまで淳史の気が変わらないと思えるほど優生は楽観的ではない。
「就職なんかしなくていい」
「就職しないで、どうやって生きてくんだよ?」
「ずっと俺の世話を焼いてればいい」
「何言ってんだよ、信じらんない」
淳史が横暴な男だということをすっかり忘れていた。売り言葉に買い言葉でそんな重要なことを決められては困る。
「ともかく、アルバイトは禁止だ」
「……うん」
それが出資の条件なら、飲まないわけにはいかない。
「寝るぞ」
「え」
さっき、仕事を片付けてからと言っていたはずだったが。
「抱いていくか?」
「ううん」
ぐずぐずしていたら強制連行されてしまいそうな剣幕に、余計なことを言うのはやめて、おとなしく従う。
寝室に移ると、今更だと思いながら、一応確認をしておくことにした。
「あの、一緒に寝るの?」
「ベッドは一つしかないんだ。買う予定もない」
どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。先にベッドに腰掛けた淳史に引きよせられて、膝の上に乗せられる。大きな掌が、頬から後頭部までを包むようにして上向かせた。焦れたように重ねられる唇は、おやすみのキスですませるつもりはなさそうだった。
唇を割って中へと入ってきた舌に絡めとられた舌が痛いほどに吸われる。その激しさが怒りを物語っているような気がして、おとなしく身を任せた。強い腕が優生の背中を抱いてベッドへと倒れてゆく。
性急な手がTシャツの中を探り、小さなしこりを弾くように触れた。
「あっ、ん」
複数の指の間で潰されるように弄られるうちに体の芯に火が灯されるような錯覚を覚える。触れられることを忘れかけていた体が、短いスパンでくり返される行為に過敏に反応していた。Tシャツが捲り上げられて露になる胸元を唇が滑ってゆく。舌先に舐められて包まれた尖りが痛いくらいに張り詰めて、吸われる度に体の奥に灯った火が煽られる。
「やっ……」
スウェットの中へと入ってくる手に、思わず腰が浮いた。求められると頭で考える前に体が許してしまうのは、最初の相手の時からそうだった。死ぬ気で抵抗しなければならないほど自分の貞操に執着はなかったし、相手が嫌いなわけでもなかった。むしろ、そのうち望まれなくなることの方が怖い。淳史の執着も、目新しい今だけのものだろうと思う。いつも、どんなに相手に合わせても、気を引けるのは短い期間でしかなかったから。
「優生?」
「うん」
呼ばれて、何気なく答えた。もしかしたら、考え事をしている間に何かを言われていたのかもしれなかったが、耳に入っていなかった。
久しぶりに酷使された体の芯に、沁みるような痛みが走る。なのに、その中にある快さに引きずられてしまう。意識せずに滲んだ涙を、淳史の唇が辿る。
「泣き顔も綺麗だな」
聞き間違いかと思ったが、続けられた言葉でそうではなかったことがわかった。
「俊明がハマったわけだ」
一瞬で体中の熱が引いていくような気がした。
やさしかった2番目の相手。体を繋げる気持ち良さを教えてくれたのも束の間、離婚した相手の妊娠が発覚して元の鞘に納まってしまった。もし俊明が優生にハマっていたと言ったのだしても、一時の物珍しさでしかなかった。きっと、淳史も同じようにすぐに優生に飽きてしまうのだろう。
「俊明の話をされるのは嫌か?」
黙って首を横に振る。淳史が気にしないのなら優生が気を遣う必要はないと思った。
ただ、救われたと思っていただけに、期待を裏切られたようなダメージの深さは隠しようもない。
「優生」
不機嫌を孕んだ声に名前を呼ばれて、体の奥深くを抉られると嫌でも意識を淳史に向けないわけにはいかなくなった。
「すぐに忘れろっていうのは無理だろうが、俺に抱かれている時くらい思い出すのはやめろ」
俊明の名前を出したのは淳史の方なのに。
淳史にスパートをかけられると、そんなつまらない意地もどこかへ消えてしまう。もう少しの間、素直に快楽に溺れることにした。
相手からの愛情は期待できなくても、快楽を伴うほど大切に扱われていることには感謝しなくてはいけないと思う。初めての相手には、遺産相続に纏わる権利を有する優生を他の候補者に手出しさせなくすることしか望まれていなかった。その証として体を押えられていたに過ぎない。だから、どちらかに恋愛感情の絡んだ関係ではなかったし、相手には婚約者までいた。おかげで、 相続問題から外れた途端に所有を解かれた。
ようやく本当の両親の元に戻れるとホッとしたのは帰るまでだった。一緒に住むことが叶わなかった17年余りを埋めるように、親しみ深く迎えてくれた両親と弟の傍にいることに何故だかひどく違和感を感じてしまった。幼い頃はあんなにも自分もその中に入りたいと切望したはずなのに、長い空白のせいか、自分だけが異質で不要な存在に思えて息が詰まった。
その頃、俊明と知り合った。淋しい者同士、つき合うようになるのに時間はかからなかった。離婚したばかりで理性の箍がやや外れ気味の俊明と体を重ねて初めて、その行為が気持ち良いのだと知った。それは優生を大事に扱ってくれたからだけでなく、俊明と相性が良かったからなのだと思っていた。
そのくせ、淳史とはそれ以上に合うような気がする。単にインターバルが長かったせいかもしれなかったが、もしかしたら優生は相手が誰でも良いのかもしれないとも思った。
「優生?」
淳史の腕に包まれた顔を上げる。目が合うと、軽く唇が触れて離れた。髪を撫でる手のやさしさが何故か不安を誘う。
まさか、淳史が腕枕なんてしてくれるとは思ってもいなかったせいもあって、嬉しいというより戸惑った。枕よりずっと高くて、慣れるまではむしろ眠りにくい気がする。ただ、寄り添う安心感は心地よくてやみつきになってしまいそうだった。こんなに甘やかされてしまったら、一人になったとき余計につらくなってしまうだろうと思うのに。
それでも、スポンサーの意向に逆らうわけにはいかず、今は蜜月のような甘い時間に浸ることにした。






「全部買うとすごい金額になりそうなんだけど」
フライパンに鍋にキッチンツール、ボールにバットに耐熱タイル。家庭用品売り場の後には、食料品売り場でも山ほど買わないといけないというのに、炊飯器ひとつない淳史のキッチンには、買わなければならないものが多過ぎた。
「好きなだけ買えよ。そういえば、カードを渡してなかったな」
淳史の財布から抜かれた1枚のクレジットカードに後ずさる。
「優生?」
「俺、そういうのは預かれないから」
俊明の所で食事を作っていた時に渡されていた現金も、まだかなりの金額が残っている。
「キャッシュカードの方がいいのか?」
「ほんと、そういうの困るから」
「……俺がいちいち下ろして渡すのか?」
いかにも面倒臭そうに言われても、優生は戸惑うばかりだった。
「前に預かったお金もまだあるし、足りなそうになったら言うから、俺にそんな責任負わせないで?」
「そういう面倒なことをおまえにやってもらいたいんだが」
それも優生の職務の一つなのだろうか。
「俺、そういうのやったことないんだけど……」
「別に家計をやりくりしろとか言ってるわけじゃない。給料はいくつかの口座に分けて振り込まれるからな、他の口座は触らなくていい。おまえが必要な分を自分で下ろしてくれって言ってるだけだ。入学金や授業料は親が払ってくれてるんだろうが、それ以外にも要るだろう?」
正直、かなり驚いた。そこまで気を回してくれていたとは思っていなかった。
「ありがとう。でも、学校にかかる費用と生活費は親に甘えようと思ってるから心配しないで」
「それじゃ、おまえに必要なのは住む所だけだったのか?」
「そういうわけでもないけど、俊明さんにお世話になるっていうことで親を説得してもらったから……一人で住むんなら帰って来いって言われそうだったんだ」
「それなら、おまえの親に挨拶に行かないといけないな」
俊明と一緒に住むと言った時にもずいぶん反対されたのに、こんなにすぐに別れて違う男と住むとは言いにくい。ましてや、両親を説き伏せた俊明とうまくいかなかったと知れば、余計に反対されることになるだろう。
答えられない優生の気持ちはわかってくれているらしい。
「俺がおまえの親でも帰って来いって言うだろうな。でも、隠し通せるものでもないだろう? 後でわかった方が怒らせることになるだろうしな、早めに挨拶に行ったほうがいい」
「うん……」
淳史の言うことはもっともだが、できれば触れずにいたかった。
「とりあえず都合を聞いておいてくれ。できたら日曜がいいんだが」
「でも、俊明さんはもう少し後にするように言ってなかった?」
「そういや、荷物をどうするかって話の時にそんなことを言っていたな。向こうが片付くまで待ってた方がいいか……?」
「うん。俺もその方がいいな」
「結果が出るのはもう直だろうしな、それからにするか」
まるで結果を知っているかのような言い方に、少し不安になった。
「淳史さんは何もかも知ってるみたいだね」
「何もかもってわけじゃない。知りたいんなら教えてやるが、今はゆっくり話してる時間はないんだ。もう必要なものは揃ったのか?」
「うん、でも、あと食料品売り場にも行きたいんだけど」
「先に行ってろ。俺は一度この荷物を車に運んでくる」
「ありがとう。じゃ、下に行ってるね」
淳史が仕事を抜けてきていたことを忘れそうになっていた。余計な話はまた淳史の時間のある時でないと無理そうだった。

メモを見ながら、リストにあるものを急いでカートに積み上げてゆく。俄仕込みとはいえ、家事のことはいろいろ頭に入れておいた。なにしろ何もなかったのだから、調味料や常備品だけでも相当な量になってしまうのは仕方なかった。
「優生」
心なしか眉根が寄って見えるのは、淳史が買い物の量にウンザリしているからかもしれない。
「ごめんなさい、ものすごい量になっちゃうんだけど」
「何もなかったんだから仕方がないな」
「ごめんなさい」
これでも、どうしても必要なもの以外は諦めていた。置き場所のわからないものや置いていないものもいくつかあったから、当初の予定通りの買い物をしていたらもう少し多いところだったのだが。


慌しく買い物を済ませ、荷物を部屋に運び終わった時には夕方になっていた。
コーヒーを一杯飲んだだけで上着を羽織る淳史に、優生も慌てて立ち上がる。
「もう会社に戻るの?」
「ああ。遅くなるようだったら連絡するからな」
「ごはん、帰って食べるよね?」
「そのために買い出しにつき合ったんだろうが」
「何か、食べたいものある?」
「今は特にないな。何でもいい」
「後で文句言わないでね?」
「言ってないだろうが」
「そうだっけ?」
今まで気にしたことはなかったが、そういえば俊明の所に来ている頃から一度もクレームを付けられたことはなかったような気がする。
「文句があったら、そうしょっちゅう飯を食いに通わないだろう?」
当初、俊明が優生とつき合うことに反対していた淳史が頻繁に現れるのは、てっきり嫌がらせのためだと思っていた。けれども、少し経った頃には、優生の作る食事目当てに現れているような言い方をしていたことを思い出した。
「何を作っておくよう言っておいた方がいいのか?」
「ううん、どっちでもいいけど」
「それなら、おまえが食いたいものにしとけ」
「うん」
「そろそろ戻らないと呼び出されそうだからな」
「うん、わざわざありがとう。いってらっしゃい」
見上げる優生に、淳史が屈み込んでキスをする。短い抱擁で淳史は再び出勤していった。

「とりあえず、片付けが先かな」
大量に買い出したものの封を解いて使えるように用意をして片付けないといけない。とはいえ、全てを一日でするのは無理に思えた。まずは今夜の食事に必要な物から始めることにした。
炊飯器とオーブンレンジを開けて、説明書に目を通して時刻を合わせる。それからフライパンや鍋や食器類を洗う。調理器具だけで水切り籠に置き切れないほどあり、拭いて収納しながら片付けようと思った。
「あ、フキン買うの忘れたかも」
一応、ボードに“ふきん”と書いておく。きっと、まだまだ買い忘れが出てくるだろう。
間に合わせに、新しいタオルを何枚か借りて洗って使うことにした。先に、殆ど使われていなさそうな作り付けの食器棚や吊戸棚を簡単に掃除して、洗って拭いたものを並べていく。乾いたタオルではないので完全に拭き取るのは無理だったが、しばらく戸を開けておけばそのうち乾くだろう。
一通りの片付けが終わると、今夜の食事の買い出しに行くことにした。キッチンのセッティングが終わるまでは、特にリクエストをされない限り手軽なメニューにしておきたい。
「って言っても、やっぱ和だよなあ」
淳史は和食党だ。何でもいいと言われていても、やはり疲れて帰って来た時には、肉じゃがとかきんぴらごぼうとか切り干し大根とかの方が喜ばれるとわかっている。それに味噌汁とご飯をつければ文句はないタイプだと思う。
あれこれ悩んでいても決まらないので、メニューは買い物に行った先で考えることにした。






初めて、淳史が昼休みに家に帰ってくることになった。といっても、休憩時間は固定ではないらしく、もう14時半になろうとしていた。
すごく空腹だというメールが届いてから30分足らずで帰るという淳史にすぐ出せるよう、急いで準備を始めた。昆布とかつおで出汁を取って、玉葱を切っているうちにもう玄関で音が聞こえてきた。
玄関は常に施錠しておくように言われているから、すぐに帰るとわかっていても鍵はかけたままにしている。だから、音に気付いて慌ててダッシュしたつもりでも、淳史はもうリビングのドアの所まで来ていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
いつものように、淳史は身を屈ませて優生に“ただいま”のキスをする。本当は気恥ずかしかったが、淳史が気を悪くするといけないと思い、なるべく平静を装って受け止めることにしていた。
「ごめんなさい、まだ作ってる途中なんだ。急いでる?」
「いや、呼び出されなければ2時間くらいはいるつもりだ」
営業というのは、ある意味自由業なのかもしれない。
「じゃ、もう少し待ってて」
キッチンに戻り、料理を続ける。鶏肉と玉葱に火を通して卵を流し入れる。優生は半熟卵は食べられないが、淳史の分は完全に火を通さないように気を付けた。
とりあえず、リビングの淳史の方へ丼と箸を運ぶ。
「先に食べてて、お茶淹れるから」
「そんな急がなくてもいいぞ?」
「うん」
急須と湯飲みを持って淳史の傍へと急ぐ。
「もういいのか?」
「うん、ごめんなさい、待ってもらって」
淳史はいつも、優生が席につくのを待っていてくれる。
「いただきます」
お互い軽く頭を下げて食事を始めるのもいつものことだ。
「これに吸い物つけろっていうのはムリか?」
「ごめんなさい、すぐに用意するね」
「いや、次からでいい」
「ごめんなさい」
やはり、基本は一汁二采の人種のようだ。
「おまえはほんとに食が細いな、普通おまえくらいの時はもっと食うもんだが」
優生の丼を見て呆れる淳史に、簡潔な事実を告げる。
「俺、高校入る前くらいで成長止まってるから」
「そうなのか?」
「うん。背も伸びてないし、体重も殆ど変わってない」
むしろ、体重はかなり減っている。
「確かに小さいし細いな」
「淳史さんと比べないで」
「165センチ50キロ弱ってところだろう?今時の女はもっと大きいぞ」
163センチ45キロなんて訂正したら、ますます顰蹙をかいそうでやめた。でも、自分の意思で身長を伸ばせるわけでなし、仕方のないことなのだと思う。
食事が終わると、淳史はいつもすぐに洗面所へ向かう。営業職だからか、歯磨きや身嗜みには神経質なくらい気を遣っているような気がする。いつ呼び出されてもいいよう、寛ぐのを後回しにしているのかもしれない。
「優生」
「うん?」
ソファの淳史の方へと近付くうちに気が付いた。
「膝?」
「ああ、4時に起こしてくれ。今日は寝るなよ?」
「携帯取ってくるから待って」
常習犯としては心許なくて、保険をかけておきたかった。
「アラームなら俺のをかけるからいい」
「ごめんなさい」
なぜか、淳史とくっついているとすぐに睡魔がやってきてしまう。淳史の傍は心地よくて、つい瞼が塞がってきてしまう。
「おまえはあまり寝ないような印象だったんだが」
「ごめんなさい」
「眠れないよりよっぽどいい」
淳史が目を閉じて、かすかに胸が上下するのを見ていると、そのリズムにつられそうになる。起きていようと思うのに、知らずに優生の瞼も落ちていく。
人の体温とくっついているのがこんなにも心地良いものだと、淳史にあって初めて知ったような気がしていた。優生はずっと待っていたのかもしれない。こんな風に寄りかからせてくれる相手を。


「優生」
耳に馴染んだ低い声が名前を呼ぶ。
ごく近いところに淳史の顔があった。
「仕事に戻る。寝ててもいいが、晩飯作るのを忘れるなよ?」
「ごめんなさい、起きるから」
いつアラームが鳴ったのか気付かなかった。かといって、それほど深く寝入っていたような感じはしない。もしかしたら、鳴る前に淳史が止めていたのかもしれない。
「帰りは少し遅くなると思う」
「うん、いってらっしゃい」
まだソファに凭れたままの優生に短いキスをして、淳史は仕事に戻ってゆく。
「なんか、新婚さんみたいだ」
思わず呟いた自分の言葉に赤面する。もちろん、ただのイメージでしかないが、きっと、新婚というのはこんな風に甘くて幸せなものなのだろうと思う。少なくとも、花嫁の方は。
「でも、俺はハウスキーパーなんだよな」
つい錯覚してしまいそうになる自分を戒めるように、敢えて声に出して言ってみた。
恋人ではない。同居人でもない。でも、今の優生は今までで一番幸せだと思う。俊明がそうだったように、また束の間に過ぎないのかもしれないが。






夜の食事は気合を入れて用意した。炒り鳥に出汁巻き卵にきのこのソテー、温野菜のサラダに味噌汁。余れば、優生の明日の朝ご飯になる予定だった。
「あんまりムリしないでいいぞ?」
リビングのそう大きくはないテーブルいっぱいの料理に、淳史は少し驚いたようだった。
「ちょこっと失敗してるかもしれないけど見逃して?」
少し照りの足りない鶏とか、巻くのが難しくて所々破れた卵とか。
「何も言ってないだろう?」
嫌味ではなく淳史が笑う。そういえば、俊明の所にいる時から、一度として失敗をからかわれたりしたことはなかった。
穏やかな食事が終わり、優生が後片付けをしている間に淳史はパソコンに向かっていた。今日も仕事を持ち帰っているらしい。
優生は自分の仕事が終わると手持ち無沙汰になってしまう。傍にいても仕事の邪魔になりそうな気がするが、かといって先に休んでいるわけにもいかない。一応、雑誌を片手にソファに向かいながら、淳史の都合を尋ねる。
「コーヒー、おかわりする?」
「いや、先に風呂に行ってくる。すぐに戻るからもう少し待ってろ」
「うん」
淳史の背中を見送ると、不意に眠気が襲ってきた。俊明の所にいる時にはあんなに眠れなかったはずなのに。
もう少し、淳史が戻るまでは起きていなければと思うのに、自然に瞼が落ちてくる。安心するということに慣れていない優生には、それがすごく不思議に感じた。
「優生?」
耳に心地よい低音に、ハッとして瞼を上げた。また眠ってしまっていたらしい。
「……俺、寝ちゃってた?」
「おまえは寝付きが良いな」
呆れたような口ぶりに、慌てて起こしかけた体が押し留められた。
「起きなくていい」
「ごめんなさい、起きてるつもりだったんだけど」
「環境が変わったし疲れているのかもしれないな」
この間まで不眠症だったのが嘘のように、なぜか淳史の傍はよく眠れてしまう。
「後で運んでやるからそのまま寝てろ」
「うん、おやすみなさい」
なぜか、先に寝室に行くことの方がいけない気がして淳史の言葉に甘えた。パソコンのキーを叩く小さな音さえも耳に心地よくて、優生はまたすぐに眠りに落ちていった。






「今日は遅くなるから先に飯食って寝てろ」
午後遅く家に帰って来た淳史が、出掛けに言った言葉に胸が痛んだ。
待っていろと言われた方が安心するのに。
俊明の家に一人でいた優生に毎日会いに来てくれていた頃の方が、淳史と長く一緒にいたような気がする。少なくとも、もっと話をする時間があったように思う。
「そんなに遅くなるの?」
「金曜だからみんな遅くまで飲むだろうしな。ヘタすりゃ朝まで帰れないかもな」
仕事というよりは付き合いらしかった。少し前まで毎日優生に会いに来てくれていたせいで気が付かなかったが、社会人の淳史にそういう付き合いがあるのは当たり前のことなのだろう。
「じゃ、先に寝てるね」
「ちゃんと飯食えよ?」
「うん」
玄関先で交わす短いキス。
ドアが閉まる音が優生を不安にさせる。なぜこんなにも心細くなってしまうのだろう。契約だけの関係の自分がこんな風に思うこと自体、おこがましいとわかっているのに。
軽く頭を振って家を磨くことにした。俊明の時にもそうだったように、動いていれば忘れられる。優生が淳史の恋人ではないことも、自分の存在意義の頼りなさも。
ここにピアノがあればもう少し紛れるのにと思う。ピアノを弾いている間は無心でいられるから。
「やっぱりピアノを持ってきたいなあ」
淳史の所に来たのが急だったことと、一時的なものだと思っていたからピアノのことには触れなかったが、本来は優生がもらったものなのだから。
とはいえ、ここに置いていいのかどうかと、俊明には不要なのかどうかを確認しなくてはいけかった。多忙そうな淳史にそれを切り出すタイミングも難しい。
結局、することがなくなってしまった夕方からオンラインゲームに没頭していた。余計なことを考えずにすむなら何でもいい。
淳史に食事をちゃんと摂るように言われていたが、一人では作る気にも食べる気にもならないということに改めて気付いた。淳史の分だから作りたいと思うし、一緒だから食べようと思うのだとは見抜いてくれないのだろうか。
日付が変わったことに気付いて、そろそろ寝室に行くべきか迷った。
考えないようにしようと思うのに、つい先に寝ているように言われた理由を思ってしまう。たとえば、口紅や移り香を付けて帰るかもしれないからとか、疲れて帰って優生の相手をするのが面倒くさいのかもしれないとか。
「やっぱり寝よう」
待つほどに、悪い方にばかり考えがいってしまうから。おこがましく、分不相応なことまで望んでしまいそうになるから。
玄関の電気だけを残して消灯と戸締りの確認をして寝室へ移った。
淳史の枕を抱いて毛布にくるまって、淳史の匂いに包まれているのに、なぜだか淋しさに押し潰されそうになる。
俊明の所にいる時には毎日会いに来てくれたのに。
自分でも驚くくらい、我儘な思いが胸を占める。
余計なことを考えないよう、早く寝てしまおうと思うのに、寝ようと思うほど寝付かなくなった。
何度も寝返りを打ってはため息を吐く。
いつの間に、一人で眠れないようになっていたのだろう。幼い時からずっと、一人きりだったはずなのに。
眠ることに集中しようとしていた優生の耳に、ドアの開閉する音が入ってきた。出迎えに行こうと体を起こしかけて迷う。先に休んでいるように言われていたのに、起きていてもいいのだろうか。
あっという間に、気配は寝室の傍まで来ていた。慌てて、寝ているふりをするために横になる。
「優生?」
起こさないように気遣っているような、低めた声を聞こえないふりはできなかった。
「……おかえりなさい」
「起こしたか?」
「ううん」
淳史が優生を見に来てくれたことが素直に嬉しかった。短いキスを交わしただけで先までのモヤモヤが消えてしまうほども。
「顔を見るだけのつもりだったんだが」
「起きようか?」
「そうだな」
起こそうとした優生の体がベッドへと押し戻される。言っていることとしていることが合っていないようだ。
「淳史さん?」
「そのままでいい。寝るのをもう少し待ってくれれば」
微かに、吐息に煙草とアルコールの匂いを感じた。日頃嗅ぎ慣れないぶん、優生はそういった匂いには敏感だと思う。触れた唇は苦く感じた。
優生の戸惑いが伝わってしまったのか唇はすぐに離れて、肩口に顔を埋めるように淳史の顔が伏せられた。見た目ではわからなかったが、もしかしたら淳史は酔っていて、そのまま眠ってしまうのかもしれない。
おそるおそる、淳史の髪に触れてみる。抱きしめたら怒られるだろうかと思った時、不意に淳史の頭が上がった。
「いや」
思わず引き止めようとした優生の腕が掴まれる。2人の体に距離を取るように手首をシーツへ縫い止められて我に返った。
「おまえがそんなに素直だとは知らなかったな」
目が合うと羞恥で死にたくなる。愛人の分際で厚かましかったかもしれない。
まともに見つめ返すことができなくて、伏せる目元に影が落ちる。
いつの間にか淳史の下に敷き込まれていた。逃れる気など更々なかったが、淳史は大きな掌で優生の頬を固定するように包んだ。絡む舌にきつく吸われて今度のキスは深くなった。
「ぁん」
パジャマの裾から忍び込んできた掌に触れられて体が跳ねる。
「今のお前に必要なのは体だけか?」
淳史の声が苦しげで、思わず瞳を上げた。“体だけ”の意味を問うつもりが、目が合うと何も言えなくなる。
「どうすれば、おまえを全部手に入れられるんだ?」
問いが意味不明過ぎて答えられない。少なくとも今は、優生は淳史に所有されているのだと思っていたが。
何と言えばいいのかわからなくて、淳史の首へと腕を回してそっと抱きしめた。
「優生」
強く抱かれる体が痛いほど。今夜の淳史は飲み過ぎているのかもしれない。
「専属契約なんだから、俺は全部、淳史さんのでしょ?」
「……そうだな」
性急に開かされてゆく体に、淳史の焦燥を感じる。独占欲のようなものが淳史の中にあるようには思えないぶん、意外な気がした。
求められると安心する。優生が必要とされている証明のような気がして。俊明は、彩華と再会して以来、一度も優生に触れようとしなかったから。






その翌日、昼休みに帰ってきた淳史と一緒に現れた俊明を見た途端に、心臓が暴走しそうになった。何も聞かされていなかったから、心の準備はできていなかった。
玄関先で立ち尽くす優生の背中を促して淳史がリビングに向かう。当然、“ただいま”のキスも抱擁もなかった。
ぼんやりと淳史が上着を脱ぐのを眺める優生の背中から、俊明が声をかける。
「元気そうでホッとしたよ」
一週間ぶりに会う俊明は、別れる前に比べて少し落ち着いて見えた。優生とケジメをつけたことで余裕が出来たのかもしれない。
俊明の部屋にいた頃よりも親しげな笑顔に気が緩む。距離を置いたことで、優生が思っていたより関係が好転したような気がした。
「今日は付き添ってなくても大丈夫なの?」
優生が尋ねたのと、俊明に抱きしめられたのはほぼ同時だった。
「あ、あの」
戸惑う優生に、俊明の声はやさしく響いた。
「淳史とはあまり仲良さそうじゃなかったから心配していたんだ。意地悪されたりしてないかい?」
「うん、大事にしてもらってるよ」
淳史を気にして、必要以上に言葉を選ぶ。
「仲良くやってるの?」
「うん」
「じゃ、帰っておいでって行ってもムリかな?」
帰ってこいと言う気もないくせに、と思ったのが伝わったように、言葉が続けられた。
「僕は自分の都合ばかりで君の気持ちを聞かないままだったね。言いたいことがあったら、今日は遠慮しないで言ってくれないか」
まさか、そんなことを尋ねられるとは思っていなかったから慌てた。
「別に、言いたいことなんて……今日は付き添ってなくていいの?」
「悪阻(つわり)は少し治まってきたようだよ」
「もしかして、検査の結果が出たの?」
突然俊明が現れた理由で思い当たるのは、検査の結果が出たのかもしれないということだけだ。
「ああ、ほぼ僕の子供で間違いないみたいだよ。でも、そんなことは気にしないで、思っていることを言ってくれればいいよ?」
「ほんとに何もないから気にしないで」
「何もないなんて言われると堪えるよ。僕は本気だったんだけどな」
では、本当に俊明の子供かどうかもわからないうちから、彩華を支えようとしたのは何故なのか。口を開くと責める言葉になってしまいそうで、話すことができない。
「俊明、いい加減にしろよ」
苛付いた声が背後からかかる。優生を抱く腕を緩めようとしない俊明をどうしたらいいのか、淳史に視線を移して問う。それをS.O.Sと取ったのか、淳史が優生の肩を引き離した。
「おまえが彩華を選んだから優生は黙って退いたんだろうが」
「選んだわけじゃないよ。ただ、もし僕の子供なら責任を取らないといけないって言ったんだ。彩華には復縁を迫られていたしね。僕の気持ち次第でどうにかできる状態じゃなかったんだ。自分でも狡いと思うけど、彩華と話し合って結果を出すまで待てないなら、優生の決めたことに従うと言ったんだ」
そう言われてみれば、そういうニュアンスだったかもしれない。あの時の優生はまるで悲劇のヒロインにでもなったみたいに、降って湧いた災難を受け止めることができずにいた。俊明の態度からも、彩華を選ぶことは間違いないと思い込んでいたから。
優生は諦めは良い方だ。幼い時から、どんなに望んでも叶わないことがあることを思い知らされてきた。俊明とも、もし別れたくないと縋ったところでどうにもならないと思っていた。ただ、いらないと言われることが怖くて、ハッキリさせることができずにいただけで。
淳史と俊明の間で所在なく立ち尽くす優生の体が、強い力で抱き取られる。
「今更何を言ったところで返す気はないからな」
殺気立った淳史のオーラに包まれて、わけもわからず優生は身を竦ませた。何をそんなに怒っているのか、その怒りの矛先は誰に向かっているのか。
おそらく、そのターゲットのはずの俊明は動じた風もなく、いつもの口調で返した。
「淳史の都合は聞いてないよ。ゆいがどうしたいのか聞いてるんだ」
淳史の胸元にきつく抱かれた体が窮屈で、答えるのが難しい。
「淳史? ジャマするなよ?」
「ジャマなのはおまえの方だ。もう優生は俺のものだからな」
一瞬、その場の空気が張り詰めたような気がした。俊明も了承しているはずのことだったのに、浮気の現場を押さえられたような嫌な汗が背中を伝う。
「淳史……まさかと思うけど、ゆいに手を出したのか?」
「まさかってことはないだろう」
「あんなに色気がないとか興味がないとか言ってたのに、たった1週間預けただけでそんなことになるとは思いもしなかったよ」
俊明の口ぶりでは、優生はまだ俊明の恋人だと思われているように聞こえる。
「預けた? 譲ったの間違いだろう?」
「僕は預けたつもりだったんだ。淳史はずっとゆいには興味がないって言ってたからね、まさか下心があってゆいの面倒を見てくれるって言ったとは思わなかったよ。ゆい?乱暴なことをされたわけじゃないのか?」
むしろ、そうであってほしいと言われているようで答えに詰まる。どうやら、優生は浮気の共犯者になってしまったらしい。
「僕にはゆいを責める権利はないけどね」
いつになく乱暴な仕草で、俊明が淳史の腕から優生を引き離した。淳史にもその意味がわかっているらしく、止めようとはしなかった。
「あっ……」
声をあげたのは優生だけだった。
おとなしく殴られた淳史も、普段の穏やかさを脱ぎ捨てた俊明もいっそ冷静なくらいだった。
「気が済んだか?」
「済むわけないだろう?おまえが営業職じゃなかったら本気で殴ってるよ。それこそ気が済むまでね」
動揺して固まったままの優生を、俊明が振り返る。
「ゆいは淳史の方がいいんだね?」
この期に及んでもまだ、優生は何と答えればこの場が上手く治まるのか考えていた。
「別に手篭めにしたわけじゃないぜ?」
「ゆい? 淳史が言ってることを信じていいのかな?」
見つめられて、正直に頷く。
「それは、ゆいもここに残りたいってことかな?」
頷くだけのことがこんなにも勇気がいるとは思わなかった。
俊明が小さくため息を吐く。
「もし淳史に意地悪されたら、いつでも相談においで?」
「……うん」
「淳史、ゆいを頼んだよ?」
「おまえに言われるまでもない」
優生に視線を移す俊明が淋しそうに見えるのは自惚れだろうか。
「今日は帰るよ。二人を祝福する気になるにはまだまだ時間がかかりそうだからね」
見送りに出ようとした優生を、俊明が目で止めた。無言のまま、淳史と玄関へ向かう。優生には聞かせたくない話があるのだと理解して待つことにした。
ほどなくリビングへ戻った淳史と目が合うと、気まずい空気が漂う。視線を流した優生を呼び戻すように、淳史の胸元へ少し乱暴に抱きよせられた。
「本当は俊明の所に帰りたかったのか?」
結果的に俊明を裏切ることになってしまったのは淳史のせいだ。今更それを責めるつもりはないが、素直に答える気にはなれなかった。
「優生」
強引な腕が優生を逃がさないように抱き直す。抗う唇がたやすく塞がれた。甘く噛まれた唇があっけなく緩む。舌を舐められると、反論などいつの間にやらどこかに消えてしまう。
キスに夢中になっているうちにソファへと倒されていた。このままうやむやにされてしまうのだと思ったが、問い質す術もない。初めから、淳史に敵うわけがないのだから。
耳元をくすぐる低い声に目を上げる。
「俺にしろ」
「でも……」
「返すと思ってるのか?」
ある意味、脅迫だ。
優生が嫌だと言わなくてすむように、甘い声が念を押す。
「優生?」
返事を促されて、目を伏せたままで頷いた。そっと、淳史の背中に腕を回して抱きしめる。それが、今の優生のせいいっぱいの表現だった。



- Never Say No - Fin

【Let Go】     Novel     【 Just Can't Wait 】


2006.6.29.update

“Never Say No”は、NOBODYの曲からお借りしました。
淳史には無縁の言葉ですが、本家の歌詞には“Please”が付いてます。

一番書きたかったのは淳史と優生の初めてのシーンでした。
あの台詞を言わせてみたかったんです。
かけあい漫才になってないといいのですが……。