- Let Go -



待っている間は不安だった。
いつもの俊明からは考えられないくらい険しい顔をして、取るものも取りあえず慌てて出掛けて行ってしまったからだ。尋ねなくても、俊明を電話で呼び出した相手が別れた妻だということはわかっていた。
それでも、俊明が帰ってくれば不安は消えるのだと思っていた。何の根拠もないのに、所用が片付けば、いつもの穏やかな俊明が戻るのだと思い込んでいた。

別れ話は初めてではなかったから、その気配にはすぐに気が付いた。
ソファに腰掛けていても、どこか落ち着きのない指先、切り出すのをためらう唇。こんな時にまで、やさしい人だと思う自分も大概めでたい人間かもしれない。
いっそ、聞かずに済むならそうしようかとさえ思った。
「コーヒーでも淹れる?」
俊明の纏う切迫した空気から逃れたくて席を立つ。そのオーラに巻き込まれたら、きっと負けてしまう。
「待って。ゆい、先に話してもいいかな?」
優生の先手は逆効果だったらしく、俊明は覚悟を決めたように優生に向き直った。仕方なく、もう一度ソファへ腰を戻す。
「僕にもまだ気持ちの整理ができていないことを君に話すのは難しいんだけれど、事情が事情だから率直に言うよ。別れた奥さんが妊娠している」
驚きのあまり、まさか、という目を俊明に向けてしまう。
それは、別れてくれと言われる以上に衝撃的な一言だった。彩華がそんなカードを持っているとは、思ってもみなかった。
「つわりが最近までなかったらしくてね、もう4ヶ月になってるんだけど、気付くのが遅れたらしいんだ。彼女には僕以外にもつき合ってる人がいたけれど、正直に言って僕の子供じゃないとは言い切れない」
今にも震え出しそうな肩を自ら抱く。何か言おうと思うのに、頭の中が真っ白になってしまい、言葉は出てこなかった。
「もしも僕の子供なら責任を取らないといけない」
うん、と言ったつもりだったが、声になったかどうかは自信がない。
「検査の結果が出るまで待って欲しいというのは狡いってわかってるよ。だから、どうするか君が決めてくれないか?」
けれども、その選択肢の中には、もし俊明の子供だったとしても優生の傍にいる、というのはないのだろう。俊明の子供ではないという結果を待つ以外に、優生が俊明の傍にいられる選択肢はあるのだろうか。
「……いつ、わかるの?」
「羊水検査は5ヶ月にならないと出来ないそうだから、あと1か月くらい先になると思うよ」
「それまで、どうするの?」
「しばらくはこのままでいると思うよ。でも、病院に行く時とか体調の悪い時には付き添うよ。実際はどちらにしても、法律上は僕の子供だしね」
離婚してから半年と経っていない彼女は、法律的にも俊明を縛れるらしい。
そこまで言われては、検査の結果がわかるまでここにいてもいいのかと尋ねることさえ躊躇われた。もし駄目だと言われたら、優生はどこに行けばいいのだろう。
「でも、その方が君に嫌な思いをさせるかもしれないね」
それは、優生にここにいるなという意味だろうか。
「急な話だから、ゆいもすぐには決められないだろうし、少し考えてから答えてくれればいいよ」
「うん」
こんなにも早く居場所を失くすかもしれないとは思わなかったから、身の振り方を考えていなかった。ここにいられなくなったら、どうすればいいのだろう。
ふと、頭を過った昔の男の影に慌てて首を振る。せっかく逃げてきたのに、今戻ったら今度こそ泥沼にハマってしまう。
改めて俊明を見たとき、今更のように、上着も脱がないままでいることに気が付いた。
「また出掛けるの?」
「体調があまり良くないみたいだからね、少し手伝ってこようかと思ってるんだ」
「そうなんだ……じゃ、ごはんもそっちで食べる?」
「いいかな?」
「うん、急いでるんでしょう?」
そわそわしている理由の大半は優生のせいではなかったのかもしれない。
「ごめん」
「ううん」
まるで他人事のように見送れたのは、動揺し過ぎているせいなのかもしれない。
そのくせ、まさかという思いが拭いきれない自分の甘さに泣けてきそうだった。ずっと一緒にいたいと言ってくれたのはついこの間のことだったのに。それとも、それさえも離婚したばかりの人恋しさが言わせた言葉だったのだろうか。






目を覚ました時に誰もいないことには慣れていたはずなのに。
たった2ヶ月の間に、それを淋しいと感じている自分に驚いた。うとうとしては目を覚ます度に、泣きそうになる弱い自分に失望した。自分はもっと強い人間だと思っていたのに。
昨夜、入浴している間に俊明から連絡があったことは、携帯に何度か着信記録があったことでわかっていたが、かけ直す前にメールを見てやめた。
彼女の体調が悪いので今夜は付き添っている、という言葉になんと言えばいいのかわからず、メールで短く了解の旨を返信した。それきり、今朝まで連絡はないままだ。
睡眠は足りていなかったが、横になっていたところで眠れそうにはなかった。
だるい体を起こして、服を着替えて洗面所へ向かう。
とりあえず、顔を洗って、洗濯をして、掃除をしようと思った。それが済んだら、久しぶりに思う存分ピアノを弾こう。きっと、その間だけは忘れていられるはずだった。
昨夜から、食事をすることを忘れていることさえ気がつかないまま。


ちょうど掃除を終えた所で、インターフォンが鳴った。
てっきり、俊明だと思い込でドアを開けたが、現れたのは淳史だった。
「ごめんなさい、俊明さんは留守なんだけど」
「わかってる。だから来たんだ。おまえ、何でそんなに普通にしてるんだ?」
「え?」
どこか苛ついて見える淳史の方が不思議だと思うのだが、変なのは優生の方なのだろうか。
「俊明は昨日から彩華の所に行ってるんだろう?」
「知ってたんだ?」
さすがに情報が早いなあと、焦点のずれた感心をしている優生を呆れ顔で見る。
「入ってもいいか?」
「あ、ごめんなさい、どうぞ」
確かに、いつまでも玄関口でするような話ではなかったかもしれない。
気が緩んでいたせいか、主のいない部屋に迎え入れてもいいものかどうかとは、考えもしなかった。
「コーヒーでいい?」
「ああ」
短く答える淳史を置いてキッチンへ移動する。淳史が不機嫌そうなのが少し気になったが、優生のせいではないはずだった。せっかく別れた二人が元の鞘に戻るかもしれないことが気に入らないのだとしても、それは優生には関わりのないことだ。
「お仕事、大丈夫?」
コーヒーを用意してリビングに戻り、無難な言葉で空気を変えようと試みたが、そんな優生の心遣いなど淳史には伝わらないらしかった。
「仕事に穴を開けるようなことはしないから余計な心配はするな。俊明は昨日から一度も帰ってないのか?」
「なんか、体調が悪いらしくて、付き添ってるみたいだけど」
庇うような言葉を選ぶ自分はおかしいと自覚しながらも、そう言わずにはいられなかった。
「ずいぶん余裕があるんだな」
そんな嫌味を言われる筋合いではないと、寧ろ淳史に対して腹が立つ。
「だって、俊明さんの子供なら責任を取らなきゃいけないなんて言われたら、返す言葉がないでしょう?」
「違うかもしれないだろう」
「でも、そうかもしれない」
こんな水掛け論は意味がないとわかっているのに。
「未成年のおまえとこういう関係になっている責任は取らなくていいのか?」
「俺には子供はできないよ」
本当に言いたい言葉を淳史に言われているような気がする。そして、自分が言っている言葉は俊明に言われそうな言葉だ。
「子供ができなけりゃ何してもいいのか?」
「優先順位の問題でしょ、俺は最初からジョーカーは持ってないんだ」
「本気でそう思ってるのか?」
「俺じゃないよ、もうそう言われてるんだ」
「俊明にか?」
優生はそんなに鈍い方ではないと思う。俊明と昨日交わした短い会話の中に、それだけのニュアンスが含まれていたと感じている。
「じゃ、何でおまえはまだここにいるんだ?」
息の根が止められるとはこういうことを言うのかもしれない。
思わず言葉を失くした優生にたたみ掛けられる言葉が胸を刺す。
「俊明の子供じゃないと言われるのを待ってるのか?」
言われて熱くなるのは、真実を言い当てられているからだとわかっている。反論したい言葉を堪えて、淳史の言葉を流す。
「昨日聞いたばかりだもん、まだわからないよ」
「もし俊明の子供じゃなかったら元に戻るのか?」
意味がわからずに見つめ返した。
「浮気されたのと一緒だろう?」
――たった一晩、病人の傍についていただけのことが?
目で問う優生に、淳史は心底呆れたような顔をする。
「人がいいのか世間知らずなのか知らないが、どっちにしてもこのまま放っといたら彩華に取られるぞ?」
「でも、俺には何もできないよ。俊明さんの意思で行ってるんだから」
「おまえは彩華のことを知らないからな。自分に男ができて離婚したのに、何で俊明に子供のことを話したと思う?」
「さあ……どっちがお父さんかわからないから?」
「たぶん、どっちが父親かは問題じゃない。どっちを父親にしたいか、の方が問題なんだ」
やっぱり、意味がわからない。
「相手の男は父親にはできない男だったんだよ、俺は相手も知ってるからな」
「待って、その言い方だと俊明さんは相手を知らないってこと?」
「たぶんな。離婚は彩華から言い出したんだ。俊明が別れたがってたわけじゃない。やり直したいって言われたら俊明は断りきれないだろうな」
だからといって、どうすればそれを阻止できるのかなんて優生にわかるわけがない。
「俊明には俺から言ってやるから、おまえも縋りつくくらいの演技をしてみせろよ?あいつは可哀そうな奴に弱いからな」
最後の一言にドキリとした。
ということは、優生とつき合うことになったのも同情からなのかもしれない。思い当たる節があるだけに説得力のある言葉だった。
「でも、検査もまだなのに何も言えないよ」
「俊明が父親だとわかったら諦めるのか?」
「そりゃそうでしょ?」
人間としても男としても、それが一般的な責任の取り方だ。
「そうか……それなら余計なことを言うのはやめておくか」
突然、淳史のテンションが下がったことに驚いて、確かめるように表情を窺う。
「工藤さん?」
「おまえにとって、俊明はそれだけの存在でしかないってことだな」
そういう意味ではないと反論したかったが、説得する言葉を持たない優生にはできなかった。
ほんの短い沈黙を待っていたかのようにインターフォンが鳴る。
弾かれたように立ち上がる優生の腕を、淳史が引き止めた。
「本当に、俊明が父親だったら諦めるんだな?」
念を押す意味がわからないまま、曖昧に頷いて淳史の手を逃れて急いだが、優生が出迎える前に俊明が部屋へ入ってきた。
「なんだ、淳史、来てたのか?」
俊明の言葉からは訝るような響きは一切感じられず、純粋な驚きしか含まれていないようだった。ついこの間、優生と二人きりにはさせないと言っていたことも忘れているようだ。
「彩華、どうだった?」
「ゆいに聞いたのか?」
「いや、本人からだ。遅れてきたつわりがきついんだろう?」
「そうなんだよ。あんなにひどい状態だと思わなかったから驚いたよ。しばらく付き添っていようかと思ってるんだ」
優生に何の相談もなく決めてしまっていることを責めるつもりはないが、俄かにさっき淳史が言った言葉に真実味が増す。
「仕事はどうするんだ?」
「事情を話して長期休暇をもらうよ。ゆい、留守番が多くなっても大丈夫かな?」
後回しにされてはいても、忘れられていたわけではないらしい。頷く優生にホッとした表情を見せる俊明を、初めて憎らしく思った。
「しばらくは、あっちとこっちを行き来することにするよ」
「そんなややこしいことをしなくても、どっちかに決めろよ」
「淳史?」
「わかってるんだろう?彩華はおまえとやり直したがってる」
「もし僕の子供ならそうなるんだから、お互い歩み寄らなきゃいけないと思ってるよ?」
たった1日で、こんなにも気持ちが傾くものだとは思いもしなかった。どうやら、淳史の言うことの方が正しかったようだ。
「もうすっかりその気になってるんだな。早速、父性に目覚めたか?」
その一言で俊明の表情が変わった。少なくとも、つき合い始めて2ヶ月あまりの優生は一度も見たことのない、この上なく幸せそうな顔だ。
「病院で赤ちゃんを見せてもらったんだよ。4Dなんて初めて見たけど凄いね。まだすごくちっちゃいけど、ちゃんと人間の形をしていてね、感動したよ」
「もっと早くできていたら離婚せずにすんだのかもな?」
「そうかもしれないね」
誘導尋問のような淳史の言葉に素直に答える俊明は、優生を気遣うということは忘れてしまっているらしい。そんな顔を見せられて、まだ希望を持てるほど優生は能天気な人間ではないのに。
一度は否定した行き先が頭に浮かぶ。それさえも、受け入れてもらえるかどうかもわからないのに、捕まると考えた自分の傲慢さが急に恥ずかしくなる。
居場所を提供してもらうにはどう言えばいいかと考えていて、何度か話を振られたらしいことに気が付くのが遅れた。肩を掴まれて、漸く一人ではなかったことを思い出す。
「ごめん、用意したらまた彩華の所に行くよ。しばらく不安かもしれないけど、淳史も顔を出してくれるそうだから我慢して?」
言われていることの半分も理解できないままに頷いた。
俊明が寝室へと消えた後で、淳史がひどく怖い顔をしていることに驚いた。
「ごめんなさい、ボーっとしてたみたいで。何か怒ってる?」
「おまえ、何か隠してるだろう?」
「え……別に、何もないと思うけど」
俊明と淳史の話を殆ど聞いていなかったので言い切れないが、たぶん思い当たることは何もないはずだった。
「もし俊明と別れたらどうするつもりだ?」
どうして淳史はこんなによく頭が回るのだろう。
「まあ、天涯孤独ってわけじゃないし」
言葉を濁しても、淳史には通じなかった。
「親の所にも養子に行ってた先にも帰れないって言ってただろうが」
「よく覚えてるね。まあ、小さい子供じゃないし何とかなるんじゃない?」
「部屋を借りるのにいくらかかるか知ってるか?保証人だっているんだぞ?そんなに簡単に一人で生きていけると思ってるのか?」
「あてがないってこともないから」
「それなら、何でそんな切羽詰まった顔をしてるんだ?」
答えに窮して負けそうになった時、何も知らない俊明が荷造りを終えて戻ってきた。
「ゆい、しばらく留守番してもらっても大丈夫かな?」
「うん」
本当はもう、留守番をする意味さえないと思ったが、おとなしく頷いた。
「淳史、ゆいを頼むよ。僕がいないからって苛めるなよ?」
「わかってるよ」
短い抱擁で去っていく俊明を見送ると、先の話に戻った。
「あまり気の進まない話なら乗るなよ?スポンサーくらい俺がなってやる」
まるで何もかも知っているかのような口調に、今までとは別の意味で淳史を怖いと感じた。
「進学も決まってるんだろう?心配しなくても、おまえ一人くらい囲っても差し支えない程度には稼いでるからな」
「……ありがとう」
意外とよく気がつく男なのだということに、やっと気が付いた。優生本人でさえ、進学のことなど失念していたというのに。
「ちょっと長居し過ぎたな、仕事に戻るよ。来れれば夜にまた寄るつもりだが、もし俺が来れなくても、ちゃんと飯食えよ?」
「うん、ありがとう」
優生一人だと食事をしそうにないことまでバレているとは思わなかった。
淳史を見送ると、優生も荷造りをすることにした。淳史の言う通り、どうやらもうここに居続けることは難しそうだ。
その時が来たら、淳史の申し出に甘えてもいいものだろうか。何の担保もない自分に本当に投資してもらえるのかは疑問だったが、今はそんな言葉が素直に嬉しかった。




「飯食いに行くぞ」
再び現れた淳史の、有無を言わせないその言い草に、慌てて用意をしてついてきた。
少し山手の奥まった場所にあるその古風な造りの店は、予約客しか取らないらしく、夕食時だというのに忙しない雰囲気はなかった。いくつかある座敷はきちんと仕切られていて、個室ほどではなくともプライバシーを確保できそうだった。あまり賑やかな場所は苦手な優生にも落ち着けそうに思えた。
とはいえ、何品か運ばれてくる料理の半分ほどで、優生の胃が警告を発し始めた。許容量を越えるとリバースするとわかっている優生は、早々に箸を置いた。
「和食の方がいいと思ったんだが」
少し不満げな淳史の言いたい事はわかっている。
「ごめんなさい、あんまり食欲なくて。これでもずいぶん食べた方だと思うんだけど」
「元々あんまり食わないんだろうけど、もうちょっと頑張れよ?そんな細いとそのうち倒れるぞ?」
「俺、胃が弱くていっぺんにたくさんは食べられないんだ。でもまだ大きな病気をしたこともないし大丈夫」
淳史が呆れたようにため息をつく。
「まだ、だろう?あまり体力があるようには見えないな」
「ペース配分は苦手じゃないから心配しないで。自分のキャパは知ってるつもりだし」
「まあ、ムリに勧めて戻されたら意味がないしな」
あっさり引いてくれたと思ったのは甘かったらしい。
「でも一杯くらい付き合えるだろう?」
差し出された熱燗に、大げさに手を振って断った。
「俺、飲んだらすぐ眠くなっちゃうから」
特に、こんな睡眠不足の状態では起きていられる自信は皆無だ。
「眠れないんだろう? ちょうどいいんじゃないか?」
「えっ」
なんで知ってるの?と、危うく聞きそうになった。
半ば強引に持たされた猪口に軽く注がれた日本酒に、覚悟を決める。別に酒癖が悪いわけではない。アルコールが体質に合わないわけでもない。たかだか一杯くらいで弱みを握られるような事態にはならないだろう。
「じゃ、一杯だけ」
念を押してから、一息にあおる。
「あつ」
温度が熱かったわけではなく、ただ久しぶりのアルコールが喉を通る感覚が思った以上にきつかった。
「大丈夫か?」
「うん、ちょっと、ビックリしただけ」
首を振ったせいで、酔いが一気に体中に回ったような気がする。シャツの衿に入れた指で風を入れようとしたが、思うようにいかなかった。意識ほど、体の方はしっかりしていないらしい。
不意に伸びてきた淳史の手がその動作を代わってくれた。ボタンを2つほど外して、襟元を広げてパタパタと振る。近すぎる距離に、ごく普通の仕草にさえ緊張する自分は自意識過剰だとわかっているのに。
淳史の方へと上向けた頭がグラリと傾いた。落ちる、と思った瞬間、淳史の腕に支えられた。
「ごめんなさい、俺、も、起きてるの、ムリかも」
「おいおい、そんなに弱いのか?」
「ううん、そんなこと、ないんだけど」
そう言いながら、体はすっかり淳史の腕の中に納まっていた。アルコールのせいか、その凭れ甲斐のある胸のせいか、ひどく心地が良い。
「少し休むか?」
「ううん」
言葉とは裏腹に、あまりにも気持ちがよくて、その誘惑に逆らうことがどうしてもできなかった。
腕に抱かれて眠るのはずいぶん久しぶりな気がして、しっかりとしがみついた。幸せな夢はすぐに覚めてしまうとわかったから。きつくきつく捕まえておかないと、すぐに腕をすり抜けていってしまうから。
「優生」
低められた声に意識が引き寄せられそうになったが、もう少しその夢の中にいたくて、答えるのはやめた。
軽く唇を掠める感覚にも逆らわなかった。覚めてしまうにはまだ早過ぎる。
抱きしめる腕に無防備に身を任せたまま、心地よい眠りにしがみついた。




「……工藤さん?」
目が覚めて最初に見えたのが淳史の顔だったことにひどく驚いた。
寝入り過ぎて、現実に戻ってくるのに少し時間がかかったのかもしれない。
だんだんとはっきりしてくる記憶に、自分が淳史の腕の中にいる理由も思い出した。
「起きれるか?」
「ごめんなさい、すごく寝た気がするんだけど……工藤さん、時間大丈夫?」
「俺に門限があると思ってるのか?」
「そうじゃなくて……今、何時くらい?」
「10時過ぎだな」
優生を腕に抱いたまま、腕時計を確認する淳史の余裕に、少しホッとした。とんでもない迷惑をかけたかと思ったが。
「ごめんなさい、俺、2時間も」
「あんまり気持ち良さそうだったから起こしそびれたな」
「ごめんなさい」
起こそうとした体が一瞬、強い力で引き止められた。
え?と問う前に体が離されて、緩んだ胸元を直される。ぼんやりしていてすぐには気付かなかったが、普段の淳史からは考えられないような意外な行為だった。
「帰るか」
「はい」
抱きしめられたと感じたのは気のせいだったらしい。






それ以来、多忙なはずの淳史は毎晩現れた。少々遅い時間になっていても優生を食事に連れ出し、日付が変わる頃に帰って行く。相変わらず食欲はあまりなかったが、そうやってムリにでもつき合わされれば食べないわけにいかず、量は少なくても毎晩食事を摂るようになった。
優生の諦めに反して、俊明も毎日家に帰ってきていた。
日によって時間はまちまちだったが、午後から夕方の間の何時間かを優生の傍で過ごした。早く来た日には昼食の用意をして、時には一緒に食べることもあった。恋人というより、もはや家族のような感覚なのかもしれない。
それでも、俊明は彩華の所でもかいがいしく世話をやいているのだろうと思うと、優生のために毎日通わせるのは気が引けた。もう自分の食事も作れないほど何もできないわけではないが、一人でも大丈夫だと言ってしまったら俊明とのつながりがなくなってしまうと思い、なかなか言い出せずにいた。
「毎日、大変だよね」
「そんなことないよ。今は仕事を休んでるし、物足りないくらいだよ。ゆいの方こそ、ずっと留守番してるのは退屈だろう?たまには出掛けた方がいいよ」
「うん、そうだよね」
曖昧に頷いて会話を流す。優生がいなければ、俊明も毎日来なくてもいいのかもしれない。どうしても思考がマイナス方向に向いてしまう。
「時間、大丈夫?」
いつも、時間を気にするのは優生の方だった。申し訳なさそうに帰り支度をされるのは耐えられないから、いつも先回りに声をかけてしまう。
「そうだね、そろそろ帰るよ。胎動が始まったみたいで、あまりよく眠れないらしいんだ」
帰る、と言ったのは無意識だろうか。
「胎動?」
「赤ちゃんがお腹を蹴ったりしてるんだよ。お腹の上から触ってもわかるくらいだから、本人はかなり気になるんじゃないかな」
一瞬見せる幸せそうな顔には殺意さえ覚えた。人は幸せだと周りが見えなくなるものらしい。
「そうなんだ……女の人は大変だね」
「その分、気を遣ってるつもりなんだけど」
「忙しいだろうし、そんな毎日来てもらわなくても大丈夫だよ?」
「ゆいもそんなに気を遣わないでいいよ?僕の都合で別々に生活してもらっているんだから、時間の許す限り来るのは当たり前だよ」
自分の家なのに、俊明にとっては通って来ている感覚らしい。
「もうそろそろ検査するの?」
「そうだね。でも、どんな結果が出ても君のことにもちゃんと責任をもつつもりだよ」
「俺には責任なんて思うことないよ?」
「淳史にも言われてるんだ。未成年の君とこういう関係になった以上、責任を取らないわけにはいかないよ」
「責任って言うんなら、共同責任でしょう?俺は自分で判断できないほど子供じゃなかった」
「でも大人でもないからね。なるべく君の意向に沿うようにしたいと思っているよ」
うまく気持ちを伝えられずに俯いた。
優生が思っていた以上に、俊明との距離は広がってしまっていたのかもしれない。


俊明を送り出すと、体中の力が脱けてしまったように床へと座り込んでしまった。
もうずっと何に対しても意欲など湧かなかったが、掃除をして、洗濯をして、ピアノを弾いて、何とか日々を過ごしてきていた。それは俊明を安心させるためでもあり、生きていくための意味付けでもあった。
なのに、その全てが無駄なことだったと思い知らされたような気がする。
結果を待つまでもなく、俊明は父親モードに入ってしまっているようだった。もし俊明の子供ではなくても、彩華のことを突き放したりはしないのだろう。以前、淳史に言われた通り。
もしかしたら、優生ともこんな生活が続くのかもしれない。俊明の責任感を満足させるために。
ひどい吐き気がしていた。
今に始まったことではないが、優生は精神的にきついとすぐに体が不調を訴える。自分にさえ嘘を吐こうとする優生に、脳が限界を思い知らせているかのように。
やり過ごせそうにない波に、洗面所に急いだ。どうやら俊明の言葉を受け止めて消化することは無理だと、胃が判断したようだった。
2度目の波で一旦落ち着いたことを確信して口をすすぐ。そのままタオルに顔を伏せた。
優生は自分で思っていたよりよほど弱い人間だったらしい。目元を押さえたタオルが外せないまま、しばらく洗面台によりかかっていた。
不意に、背中に触れた手に飛び上がりそうに驚いた。
「調子が悪いのか?何度か鳴らしたんだが出ないから驚いたぞ」
淳史の表情が少し苛立たしげに見える。留守にしているはずがないことを知っているだけに心配をかけたのかもしれない。だが、ドアは施錠していたはずだった。ということは、 俊明が合鍵を渡していたのだろう。二人きりになることさえ懸念していたのはついこの間のことなのに。
「ごめんなさい、ちょっと寝不足気味なだけ」
淳史の横を通り抜けようとした優生の腕が掴まれる。
「寝不足どころか、寝てないんだろう?」
「そんなことないよ」
振り切ろうとした腕を引き寄せられて、腕の中に抱き取られる。
「工藤さん?」
「折れそうだな。元々細いのに痩せ過ぎだ。俊明は何も言わないのか?」
「工藤さんの気のせいだよ」
「まさか気付かないってことないだろう?抱いた感じがこんなに違うのに」
一瞬、動揺を隠すことができなかった。俊明にはあの日以来、一度も触れられていない。
窮屈な腕をそっとほどいて、話題を変える。
「工藤さん、せっかく来てもらってるのに悪いんだけど、今日は一人で行ってもらっていいかな?」
とてもではないが、こんな状態では食事に行くのは無理だった。
「わかった、出かけなくてもいいから何か食えよ」
「今は食材が何もないんだ」
「ということは、普段から何も食ってないってことだな?」
「そういうわけじゃ……」
咄嗟に言い訳が思いつかなくて口籠ってしまう。
「わかった、明日から晩飯を用意しとけ」
「えっ」
「俺の嫌いなものは知ってるな?」
「トマトと生魚」
「用意してなかったら外で食う。わかったか?」
有無を言わせない勢いに思わず頷いてしまったが、よくよく考えてみれば横暴な提案だった。
「とりあえず今日は何か買ってくるか。何なら食える?」
どうあっても何かを食べさせずにはいられないらしい。
「お粥とか?」
「わかった。あとは何か適当に見繕ってくるからな?」
すぐに出掛けていった淳史を、ソファに凭れて待つ。
俊明のことを、かわいそうな奴に弱いと言っていたが、案外それは淳史にも当てはまることだったのかもしれない。
あんなにも眠れなかったのに、不思議と睡魔が優生の瞼を閉ざした。




何かの気配に瞬きをした視界の、あまりにも近い位置に淳史の顔があって驚いた。
咄嗟に飛び起きようとした体を、強い腕が引き寄せる。
「落ちるぞ?」
改めて確認してみると、優生は淳史の胸元に凭れかかるようにソファで寝ていたようだった。優生が暴れたせいか、毛布は足元に落ちていたが。
「ご、ごめんなさい、重かったでしょう」
「だから、軽すぎると言ってるだろうが」
それとこれとは意味が違うと思うのだが。
「少しはマシになったか?」
「はい、もうすっかり」
「何か食えそうか?適当に買って冷蔵庫に入れてあるんだが」
わざわざ買出しに行ってくれたことを思うと、とても否定はできそうになかった。
「ありがとう。頑張ってみるね」
キッチンに行ってみると、調理台の上にレトルトの粥を何種類かと、冷蔵庫には缶詰のフルーツやヨーグルトが入っていた。
「あの、工藤さんは……?」
「悪い、先に食ったから俺はいい」
「それじゃ、俺もいただきます」
鍋に湯を沸かしてレトルトパックの粥を温める。待っている間に淳史にコーヒーを用意した。
深皿に粥をあけて、お茶と一緒にリビングへ運ぶ。
両手を合わせて、改めて淳史に頭を下げた。
「いただきます」
「火傷するなよ?」
「はい」
見守られながら食事をするのは少し緊張する。それでも、思っていたより食欲は戻ってきていたようで、全部は無理かと思っていた量をすんなり平らげてしまった。
「ごちそうさまでした」
再び両手を合わせて挨拶をする。
食器を持って立ち上がった優生を引きとめるように淳史が話しかけた。
「体調が悪い時は無理しなくてもいいが、明日から晩飯を作れるか?」
淳史が買い出しに行く前の話の続きらしい。
「ずいぶんお世話になったし、そんなことでよかったら喜んで」
「もし来れない日は電話かメールで知らせるからな」
「はい」
「とりあえず、いくらか渡しておかないとな」
そう言ってテーブルに置かれた数枚の札に慌てた。優生に一体どんな豪勢な料理を作れと言うつもりなのだろうか。
「工藤さん、知ってると思うけど、俺、そんなすごい料理は作れないよ?」
「足りないか?」
「そんなわけないでしょ。俺、そんなたいしたものは作れないし、そんなに預かれないよ」
「おまえが遠慮すると思って控えめに出したんだが」
果たして、この男に控えめなんてことができるのかどうかもあやしかったが。
「そう思うんなら出さないで」
「家政婦を雇うと思えば安いと思うぞ?」
「本職の人はもっときちんとした料理を作ってくれるでしょ?俺、努力はするけど、そんな金額をもらうような料理はまだまだ作れそうにないし」
「今のままで充分だ」
赤面するのが自分でもわかった。今夜の淳史には驚かされてばかりだ。
「そろそろ帰るよ、もう大丈夫だな?」
「はい、ありがとうございました」
淳史に合わせて立ち上がる優生の頭が軽く撫でられる。
そのまま淳史について玄関のドアの外まで見送りに出ようとするのを止められた。
「危ないからここでいい。ちゃんと戸締りして寝ろよ」
「はい、じゃ、工藤さんも気をつけて」
“危ない”の意味は正しく理解できず、優生の体調を気遣ってくれたのだろうという程度に受け止める。
ドアが閉まった途端にこみあげる淋しさに、思わず胸元を抑えた。遠ざかる相手を見届けることもできない別れがこんなにも淋しいものだとは知らなかった。






淳史との約束通り、翌日から二人分の夕飯を用意することになった。
お金と時間を使わせていることも少なからず優生のプレッシャーになっていたのだから、有難い申し出だったのだと思う。多忙な淳史が優生の許へ毎日来てくれることも本当は気になっていた。いくら、俊明が頼んだことだったとしても。
「料理するくらいの元気は出たか?」
心なしか、淳史の表情が柔らかくなったように見える。
「あんまり凝ったものは作れないから、たいしたものはないけど」
炊き込みご飯にチキンのハーブ焼きに大根サラダ。ちょっと謙虚に勧めてみたが、今の優生は時間だけはたっぷりあるから、新しいレシピに挑むのもそう難しいことではなかった。
「これに酒がついてたら文句ないんだが」
「ごめんなさい、ビールなら冷えてるんだけど、他のはどこに置いてあるのかな……」
ビール以外はいつも俊明が用意していたから、すぐには思い当たらなかった。それに、最近の淳史はいつも車で来るせいか、飲むのも久しぶりだった。
「勝手に出すか」
つきあいが長いのか、目的がアルコールだからか、この家に関しては淳史の方が優生より詳しいようだ。
ほどなく、淳史は一升瓶を持って帰ってきた。
「おまえは?」
つい先日眠りこけてしまった優生は、慌てて辞退した。
「ごめんなさい、また寝ちゃうから」
「家で寝るのは問題ないんじゃないのか?」
「かな?」
確かに、淳史に迷惑をかける確率は低くなる。
安心感からか、優生の許容量を越えて飲んでしまった気がしたが、むしろ気分は良かった。これまで特に酒を飲みたいと思ったことはなかったが、酒好きの気持ちが初めてわかったような気がした。




目が覚めた時、傍に誰もいなくても失望しないのは久しぶりだった。
気のせいか、他人の体温がついさっきまであったような気さえしている。とはいえ、どうやってベッドに辿り付いたのかさえ覚えていないような優生の感覚など当てにはならないが。
「工藤さん、いつ帰ったのかな」
時計を見ると、既に7時を回っていた。ここに泊まってそのまま出勤する時でも7時前に出るという淳史がもしさっきまで居たとしたら、昨夜から一度も自分の家に寄れないということになってしまう。風呂にも入れず着替えも出来ずというのは、意外と神経質そうな淳史には苦痛だろうと推測できる。しかも、俊明が留守にしているからネクタイ一本借りられなかったはずで、そのせいで今日は職場であらぬ誤解を受けることになるかもしれないと思うと、改めて申し訳ない気持ちになった。
あれこれと考えを巡らせながら洗面所へ移動して、洗濯機にかけられたバスタオルに気付いてドキリとする。
「工藤さん、お風呂使ったのかな」
優生が入っていない以上、淳史以外に使う者はいないはずだった。少なくとも、俊明が夜中に帰ってきて入浴だけしてまた出ていったりはしないだろうから。
とりあえず、顔を洗って洗面所を出る。
驚いたことに、後片付けをした覚えのないリビングはキレイに片付けられていた。昨夜のうちに、酔った勢いで優生が片付けたなんてことはないはずだったが。ほろ酔い加減が気持ちよくて、図々しく淳史に寄りかかりながら、いつの間にか眠ってしまったのだと思う。眠りに落ちる前の記憶を思い出すかぎりでは。
キッチンを覗いて、目を疑った。昨夜の食事に使ったものが全て片付けられていたが、どう見ても優生のやり方ではなかった。
「まさか、工藤さんがしてくれたのかな……?」
今まで何もしてくれたこともなく、自分の家でも何もしないと言っていたのに。
でも、他に誰もいない以上、淳史が片付けてくれたのだと考えるのが一番自然だった。
「怒ってないかな……」
おそらく、眠りこんだ優生を寝室に運んでくれたのは淳史で、食事の後片付けまでさせてしまったのだろう。
少し迷ったが、とりあえずメールを打っておくことにした。
『昨夜はご迷惑をおかけしてしまったみたいですみませんでした』
とりあえず、一方的にとはいえ謝ったことで少し気が楽になった。
食事をして掃除をしたら夜ご飯のメニューを考えようと思いながら、カフェオレを用意する。
軽い朝食を乗せたトレーをリビングに持っていった時、携帯が震えだした。
『ロールキャベツが食いたい』
なんとも簡潔な淳史からのメールにすぐ返信する。
『了解です』
メニューは考えなくてもよくなったが、ロールキャベツは作ったことがなかった。
「検索して買い出しに行こう」
パソコンを立ち上げて、まずはレシピの検索を始めることにした。






「ごめん、病院の帰りに彼女が急に具合が悪くなって、こっちの方が近かったから連れて来たんだ」
珍しく朝から現れた俊明は、とんでもない人を連れて来ていた。
なんとも言い訳がましい台詞を吐く俊明に腹が立つというより、前妻の存在感に打ちのめされた。
色を失くしても華やかで美しい顔立ち、従わずにはいられなくなる凛とした声。女性には興味のない優生でも、思わず見惚れてしまいそうなくらい目を惹きつける女性だと思う。淳史があれほど執着する意味がわかったような気がした。
「突然にごめんなさい、気分が悪くなってしまって。少しだけ休ませてね」
俊明に促されてソファへと身を倒す彩華は相当に辛そうに見えたが、優生に挨拶をする気丈さを持ち合わせていた。
「気にしないでゆっくりしてください。何か、掛ける物を取ってきます」
毛布を持ってリビングに戻ると、彩華の手を取って心配そうに見つめている俊明に声をかけられなくなった。
どうやら、別れはもうすぐそこまで来ているらしい。
そっと毛布を置くと、黙って寝室に引き上げた。
ベッドに腰掛けて、潤む視界を閉ざす。
淳史にはあんなに強がってみせたのに。優生は、自分で思っていたほどには覚悟ができていなかったらしい。
元々ここに住んでいた二人のために、優生はさっさと立ち去るべきなのだろう。彩華の体調が悪いのは事実だろうが、そんなのは言い訳で、優生の自覚を促すために来たのかもしれない。
目元を拭って、荷物の整理に取り掛かることにした。
優生の私物は洋服と書籍類が殆どだ。元々物持ちではない方だが、必要最少限の荷物以外は両親の所へ置いて来ていた。祖父の家で慎ましく暮らしていたからか、元来の性質か、優生はあまり物にも執着しない。今も、どうしても持ち出したい物といえばピアノくらいだった。もっとも、いくら優生個人に貰ったものとはいえ、淳史と俊明の許可が必要だろうが。
一段落すると、ふと思いたって淳史にメールを打った。
『今日は都合が悪くなりました』
もしかしたら夜までこのままの状況かもしれないと思うと、淳史には来てもらいたくなかった。できれば、淳史が彩華を気遣うところなど見たくない。
返信はすぐにあった。今は忙しい時間ではなかったらしい。
『体調が悪いのか?』
俺じゃなくて彩華さんが、と打つわけにもいかず、少し考えて理由を簡潔に打った。
『荷造り中なので』
淳史ならその意味に気付くかもしれなかったが。
『とうとう追い出されたのか?』
直球過ぎる言葉には腹が立った。反論しかけた言葉を消して、慇懃な言葉で切り返す。
『いろいろお世話になりました。もうその俺様ぶりが見られなくなると思うと残念です』
ささやかな嫌味に過ぎなかったが、淳史の逆鱗に触れたらしい。即行返って来た言葉に慌てた。
『ふざけるな。今すぐ行くから待ってろ』
「うわ、怒らせちゃったかな」
来てもらいたくないから打ったメールだったのに、結果的に呼びつけることになってしまったかもしれない。メールの言葉が実行されるかどうかは半信半疑だったが、俊明に知らせないわけにはいかなかった。
リビングに戻ると、俊明は電話中だった。
「だから、僕は何も言ってないよ。彩華が具合が悪くなったからこっちに一緒に来ただけで……ちょっと待って」
優生に気付いた俊明が通話を止めた。
「ゆい、淳史が怒ってるんだけど何を言ったんだい?」
「ごめんなさい、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど、怒らせちゃったみたいで」
俊明は曖昧に答える優生から視線を外して通話に戻った。
「ゆいも冗談だって言ってるよ。来るのはいいけど、彩華もいるから大きな声を出さないでくれないか。わかったよ、じゃ後で」
ため息とともに通話を終えた俊明が、優生の方を向く。
「淳史には世話になってるんだから、怒らせるようなことを言ったらダメだよ?」
「うん、ごめんなさい」
メールの内容を話すのが嫌で、言い訳はしなかった。
「すぐ来るって言ってたけど大丈夫なのかな」
「お仕事放ってくるような人じゃないんでしょう?」
「そうだね。いくら怒ったからって仕事を投げ出してくるような奴じゃないよ」
怒らせてしまった犯人としては、その言葉にホッとした。


すぐ、と言った言葉通り、30分と経たないうちに淳史は現れた。
「ごめんなさい、怒らせることになるとは思わなくて」
玄関まで出迎えに行って、まず一番に謝った。
「ここを出ることにしたのか?」
「うん、近々そうしなきゃいけないみたい」
優生の返事を聞くと、すぐにリビングへ急ぐ淳史を慌てて追いかける。
「いつも優生が世話になってて悪いね。喧嘩するほど仲良くなってるとは思わなかったよ」
不機嫌マックスの淳史の耳には、俊明の挨拶など入らなかったかのようだった。
「彩華とここで住むのか?」
「いや、まだそんな話にはなっていないよ? いずれはその方が便利だとは思ってるけどね」
やはり俊明もそういう風に考えていたようだった。優生の勘は外れていなかったらしい。
「優生のことを気にしてるんなら、うちで面倒見てやってもいいぜ?」
前に優生に言っていたように、淳史はいかにも何でもなさげに言った。
「でも、おまえは他人と一緒に住めるような神経をしてないだろう?」
「こいつくらい無害なら大丈夫だ」
「確かにね。淳史の所も一人で住むには広すぎるくらいだし、それほど気にならないかな?」
「無理なら最初から言い出していない」
当人を無視した会話が続いているが、口を挟むタイミングが難しかった。それを察してか、俊明が優生を振り向く。
「ゆい? 君が良かったら、しばらく淳史の所に行ってもらっててもいいかな?けじめをつけるにはもう少し時間がかかると思うけど」
「ちょっと厚かましすぎる気がするんだけど」
「そんなに気にしなくても、タダ飯を食わせる気はないからな?」
むしろ、そんな風に言われる方が気が楽だった。
「もちろん、そこまで甘える気はないよ。いくらでも請求してくれていいよ」
むしろホッとしたような俊明に、淳史は素気なく答える。
「いや、本人からもらうつもりだ」
一瞬、俊明が戸惑ったように優生の表情を窺う。
以前話した時の条件なら、出世払いということだろうか。優生は了承のつもりで頷いた。
「優生も納得しているようだね」
「じゃ、いいんだな?」
どちらにともなく念を押す淳史に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「用意はできてるんだろう?」
やはり淳史は先のメールの意味を理解していたらしい。
「まあ、大体は」
「俺の車に積めるくらいか?」
「たぶん大丈夫だと思うけど……元々あんまり持ってきてないし」
「そうだったな、家出の延長みたいなもんだったな。とりあえず必要なものだけ取ってこい」
「まさか、今すぐ連れて行くつもりかい?」
「だから車で来たんだからな。おまえだって早い方がいいんだろう?」
「そんなことないよ、まだ決めかねているしね」
「おまえの都合はともかく、俺はそうそう仕事を放って来られないんだ」
「仕事を放ってって……大丈夫なのか?」
「まあ、なんとかなるだろう」
「ごめんなさい、俺、迷惑かけてばっかりで」
まさか、仕事の都合をつけずに来てくれたとは思わなかった。それほども、優生の言葉は切羽詰って伝わったのだろうか。
「荷物はそれだけか?」
「教科書とかいろいろあるんだけど、工藤さんの所より家に送った方がいいかなと思って」
少なくとも生活必需品ではないし、処分してもいいくらいのものばかりだった。
「じゃ、また日を改めてだな」
「はい」
「ゆい、君の家に送るのはもう少し先にしてくれないか?まだ決められないんだ」
それは、まだ俊明の所に帰って来れる可能性があるという意味なのだろうか。殆どない希望なら、期待させないでくれた方が親切なのに。
「うちへ持ってくればいいだろう? そんなにたくさんあるのか?」
「そんなことはないんだけど、当面要るようなものじゃないんだ」
「じゃ、置いておくか?」
「置いていってもいのかな?」
「いいよ、そんなたいした量でもないしね」
彩華の了承を得ていないことが気になったが、調子が戻らないのか、話し合いに参加する気はないらしかった。
「淳史、あまり優生をいじめないでくれよ?」
本気で心配してくれているのだと、卑屈になった今でもわかるくらい、俊明は真摯な眼差しで淳史を見ていた。
「心配しなくても大事に扱うよ」
二人の間に微かな緊張が走った気がして、妙な居心地の悪さを感じた。なるべく早くその雰囲気から抜け出したくて、俊明に別れを告げる。
「じゃ、ね」
「もし淳史に意地悪されたらすぐ連絡するんだよ? 目が届かないと心配だな」
もうとっくに俊明の目も手も離れていると思っていたが。
「大丈夫だよ、工藤さん優しいから」
同意を求めるように淳史を見上げると、軽く肩を竦めただけで返事はなかった。
「じゃ、行くか」
「はい」
優生が本当の意味を理解できていなかったと気付くのはもう少し後になってからだった。


- Let Go - Fin

【 An Absolute Monarch 】     Novel     【 Never Say No 】


2006.2.23.update

「 Let go 」というのは、放すとか自由にするという意味や、
別れを受け入れるというようなニュアンスがあるそうです。

前置きが長かったですが……やっと次から蜜月偏です♪

★実際の出生前親子鑑定は絨毛検査なら10週頃から可能です。
羊水検査でも12週頃から可能で、結果が出るまでに2週間以上かかります。
(ネタバレになってしまいますが、男性陣は彩華の思惑に嵌っています。)