- An Absolute Monarch -



出逢いは最悪だった。
まだ同棲を始めたばかりの2人の甘い雰囲気を壊すチャイムの音に嫌な予感を感じないでもなかったが、この時はまだ、その客人が優生(ゆいき)と俊明(としあき)の仲を裂くことになるとは知る由もなかった。

「こんな色気のないガキがタイプだったのか?」
突然の来訪者は、リビングへ通されて優生の顔を一瞥したとたん、ノーガードの顔面にストレートを食らわせてくれた。挨拶をしようと思っていた言葉は、優生の喉に引っ込んだまま出てきそうにない。
「淳史(あつし)、こんな遅くにいきなり来て何て言い草だよ?まだおまえには紹介もしてないはずだけど?」
俊明は怒りを露にその友人らしき大男を睨みつけた。優生の知る限り、常に穏やかな印象しかなかった俊明には不似合いな、攻撃的な一面だった。
仕事帰りなのかスーツ姿の淳史は、厳つい顔立ちにいかにも格闘系の骨太な体に厚い筋肉を纏い、見るからに怖そうな風貌をしていた。背の高い俊明より上背もあり、小柄で華奢な優生とは大人と子供ほどに違っている。まっすぐに睨めつける眼差しは、優生にはまともに見つめ返せそうにないほど強い。
「彩華と別れてつきあう相手がこんなのなんて俺は認めないからな」
優生と知り合った時、俊明は離婚したばかりだと言っていたが、3週間余り経った今も詳しいことは何も聞かされていなかった。優生も突っ込んで尋ねていないが、俊明の方から話されることもなく、気にならないと言えば嘘になるが、あまり知りたくないとも思っていた。
まだ、俊明の過去を軽く聞き流せるほど親しくなっていないのに、否応なしに耳に入れられそうな気配にいたたまれなくなる。
「この子とつきあうために離婚したわけじゃないよ。それに、僕はつきあう相手までおまえに許可をもらわないといけないのか?」
「俺には口出しする権利があるんじゃないのか?おまえが彩華を幸せにするって言ったから俺は引いたんだからな」
「相手の協力なしには幸せにはできないよ?彩華には他につきあっている相手がいたことも知ってるだろう?」
いきなりディープな話題になってしまい、優生は身の置き所に迷ってしまった。俊明も聞かれたくない話だろうと思うが、話の腰を折ってまで席を外すわけにもいかない。
「浮気される方にも原因があるんじゃないのか?」
「僕が彼女を裏切ったことは一度もないし、もし僕に不満があったとしても浮気を許す理由にはならないよ」
「それくらいの覚悟もないんなら最初から結婚なんかするなよ」
「離婚を言い出したのは彼女の方だよ。僕は彼女の望み通りにしただけだ」
俊明の揺るぎなさに、淳史の反論が遅れる。その隙に、俊明はやっと優生の方を向いた。
「ゆい、いきなり嫌な思いをさせてごめんよ。一応紹介しておくよ。高校時代からの腐れ縁で就職先まで一緒だった工藤 淳史。困ったことに好きになる相手もいつも一緒なんだ。君のことも取られないか心配だよ」
「心配しなくても、こんな発育不良のガキには興味ない」
――それって、本人を前に言ってもいいこと?
優生の心情を察してか、俊明が抱いた腕に力をこめる。
「優生だよ、まだつきあい始めたばかりだから余計なことを吹き込まないようにしてくれないか?繊細な子だしね、本当はおまえには紹介もしたくなかったんだけど」
今度こそ、挨拶をしようと発しかけた言葉が止まる。まっすぐに淳史に見つめられると身じろぐこともできなくなってしまった。
僅かに目尻の上がった鋭い目元にやや高めの頬骨、薄くない唇。精悍な顔つきも鍛えられた体格も、見た目は優生のストライクゾーンど真ん中だった。緊張でバクバクと高鳴る心臓の音は、淳史に聞かれてしまいそうなほど。
「いくつだ?」
「え、あの、17才です」
その問いが年齢のことを聞かれたのかどうかもわからなかったが、すぐに答えないと怒られそうな気がして焦った。
「犯罪だな」
心底あきれた風に呟かれると泣きたくなる。なぜ、この男はそんなにも優生に攻撃的な態度を取るのだろう。
「もし、ゆいに訴えられたらそうなるのかな?」
笑いながら優生を窺う俊明の言葉を、軽く受け止めることはできなくて話をそらす。
「俺、コーヒー入れてくるから」
立ち上がりかけた優生の体が、射すくめられたように身動きできなくなる。淳史は、視線だけで優生を自由にできるようだ。
「おまえ、男か?」
「えっ……」
何を今更、と思ったのは俊明も一緒だったようだ。
「今まで気が付かなかったのか?」
「おまえにそういう趣味があったとは知らなかったからな」
「この子が初めてだよ」
「まさか、彩華と離婚して自棄になったんじゃないだろうな?」
「そういうわけじゃないよ。今度はあまり奔放な人はパスしようとは思ってるけど」
生真面目に答える俊明に、淳史が初めて戸惑いを見せた。
「なんでよりによってこんな奴を選ぶんだ……」
「ほぼ僕の好み通りだと思うけど?」
「そう言われてみればそうかもしれないな。華奢で清楚で従順そうで、彩華よりよっぽどおまえの好みに合ってるか」
不躾なほどに上から下まで眺められるのは何とも居心地が悪かったが、心配したほど悪い評価ではなくてホッとした。もっとも、その評価には少なからず誤解があるようだったが、敢えて訂正する気にはならなかった。恋愛には誤解や思い込みがつきものだろうし、せっかく手に入れた居場所をまだ失くすわけにはいかなかった。

2人が好みのタイプの話をしている間に、コーヒーを用意しに行く。
淳史の視界から自分が消えたのだと思うと、やっと息がつける気がした。こんなにも淳史を意識するのは、少し面影が被るからなのだろう。高校に入ってからずっと好きだった、打ち明けることもできなかった友人と。背が高く、見るからに格闘系の鍛えられた体つきや、一見怖そうな鋭い眼差しも。
失くすくらいなら一生友達のままでいいと思いながら、傍にいることもできずに逃げてきてしまったが、もし告白なんてしていたら、淳史と同じような態度をとられてしまっていたのかもしれないと改めて思った。

コーヒーの用意ができると、覚悟を決めてリビングへ戻った。
ソファに腰掛けた淳史の前へソーサーに乗せたコーヒーカップを置く。気構えができたぶん、さっきよりは幾らか落ち着いて対応できそうだった。
「ありがとう」
ごく普通の挨拶の言葉に過ぎなかったが、先までの淳史からは意外にさえ思えて、また鼓動が跳ね上がる。
「ゆい」
俊明のコーヒーが乗ったままのトレイをテーブルに置いて傍へ行くと、横へ座るように促された。淳史を意識して少し距離を取って腰掛ける。
呼ばれた意味を窺うように見上げたのと、不意に抱き寄せられたのは同時だった。
「えっ……」
咄嗟に引き剥がそうとしたのは、淳史の目を気にしたからだ。
それを拒否と受け止められたのか、いつになく強く抱き竦められて戸惑った。まるで友人に見せ付けるようにそんな行動を取る真意がわからなかった。
「嫌がらせか?」
言葉ほど何も感じてはいないようだったが、初対面からこれ以上心象を悪くするのは耐え難い。
「俊明さん?」
「突然で驚いたと思うけど、淳史が何を言っても気にしないで」
「うん?」
つき合いが浅いぶん、優生が気にしているのではないかと心配してくれているらしい。
少し長い抱擁を解くと、淳史の方に向き直る。
「ゆいとはつき合い始めたばかりなんだ。わざわざ壊すようなことは言わないでくれないか」
「本気なのか?」
「一緒に住み始めてまだ10日ほどなんだよ。知り合ってからだって1ヶ月と経ってないんだ。追い詰めるような言い方をしないでくれないか」
微妙な返事は仕方のないことだとわかっている。離婚したての淋しい俊明と、行き先に迷う優生が親しくなったのは恋愛感情だとは言い切れなかった。できれば、これからそう発展していってほしいと思うのは願望に過ぎない。
「優生」
一瞬、心臓が鷲づかみにされたかと思った。
日頃から『ゆい』と呼ばれ慣れているせいか、優生と呼ばれるのはドキドキする。でも、俊明の方は気に障ったようだった。不機嫌そうに眉が顰められる。
「初対面の友人の恋人を呼び捨てにするなよ?」
優生の返事を遮るように、俊明が少し不機嫌そうに反論する。
「俺にそのガキに敬称を付けて呼べって言うのか?」
「ゆいさんでもゆいちゃんでも、何か気を遣えよ?」
「俊明さん、俺は別に」
つまらぬことで諍いを起こして欲しくないと思うあまり、つい口を挟んでしまった。
「本人もいいって言ってるだろうが」
「だからってね……ほんとに淳史は横暴だな」
気分を害したようだったが、なぜか今は俊明より淳史の機嫌の方が大事に思える。
「おまえ、学校は行ってるのか?」
「行ってるっていうか、もう登校日が何日かあるだけなので」
2学期が終わり、後は卒業式を待つだけのようなもので、優生はもう自由登校でも学校に行く気はなかった。
「だから一緒に住んでるんだよ。そうでなきゃ、ゆいの両親が許してくれてないだろうね」
「そりゃ普通の親なら、バツイチで一回りも年上の男に大事な息子をやれるわけがないだろうが」
「それもあるだろうけどね、ゆいは事情があって家族と離れて暮らしてたんだよ。やっと一緒に暮らせるっていう時になって僕と一緒に住むことになったからね、反対とかいうんじゃなくて手元に置いておきたかったんだろうと思うよ」
「そこまでわかってたんなら慌てて同棲しなくてもよかったんじゃないのか?それとも、まさか親と一緒に住みたくないからおまえの所へ来たなんていうんじゃないだろうな?」
そのまさかです、というわけにもいかず会話には入らなかったが、俊明は意外なことを言った。
「淳史と一緒だよ」
「え……」
「淳史は高校の時に母親が再婚して家を出たんだよ。別に結婚に反対していたわけじゃなかったみたいけど、居心地は悪かったみたいでね」
「俺は誰の世話にもなってないぞ」
少しは親近感を持ってくれるかと思ったが、ますます呆れられただけかもしれない。確かに、優生は楽な方に逃げたに過ぎなかった。
「ゆいの親は、一人暮らしなんて絶対認めないだろうと思うよ。すごい大事にしてる感じだったからね」
「そんな大事な息子と何で離れて暮らしてたんだ?」
「ゆい?」
話を振られて、なんと答えるか迷った。正直なところ、まだ笑って話せるほど過去にはなっていなかった。
「父が旧家の跡取り息子で婚約者もいる人だったそうなんですけど、母と大恋愛して全部放棄して家を出たそうなんです。すぐ、祖父が最初に生まれた子供を跡取りにくれたら許すって折れてきたみたいで、俺は養子に出されました。その祖父も夏に亡くなって、相続や遺産のことで親戚がうっとうしかったから、全部放棄して出て来たんです」
言葉にすれば、なんともあっけないのに。
「じゃ、もう帰らなくていいのか?」
「はい」
というより、帰れないと言った方が正しいかもしれない。今更、祖父のいない家に帰るのも、あの親切でやさしい家族の中に入り込むのも至難の業だった。
「進学するのか?」
答えに迷う優生の代わりに俊明が答える。本当は、優生にはまだ決めかねていたことだった。
「もう推薦で大学も決まってるみたいだよ。それにまだ若いしね、家に閉じ込めておくわけにはいかないよ。ある程度は自由にしてもらっていいと思ってるよ」
「あまり放ったらかしにしてるとまた浮気されるぞ」
「わかってるよ。だから転職したんだしね」
「こいつのためにか?」
「そうじゃないよ、退職したのはゆいと知り合う前だよ?ただ、離婚する時に、次は失敗したくないと思ってたんだよ」
「優生は家のことはできるのか?」
「いえ、あんまり」
家政婦が常在しているような家で育った優生に、家事などできるわけがなかった。俊明と一緒に住むようになって、少しずつ教わっている最中だ。
「僕も家のことをするのは苦じゃないしね、それに優生は器用で教えたことはすぐ覚えるから問題ないよ」
「飯を食いに来る楽しみができたな」
その楽しみというのが優生を苛めることではないことを祈りつつ。
「新婚家庭のようなものだからね?少しは気を遣えよ?」
「そんなに警戒しなくても、いくら美人でも男は守備範囲外だから安心しろ」
淳史の言葉に、かすかな毒を感じたのは気のせいだろうか。表情の読めない2人からはその正体を窺い知るのは難しかった。
「じゃ、淳史、今日は泊まっていくのか?」
「そうだな、せっかくだからジャマしてやるかな」
「ゆい、万が一ってこともあるかもしれないから、淳史に近づいちゃダメだよ」
そう言われても、うん、と頷くわけにもいかなくて対応に困ってしまう。
「優生はマジメだな」
悪意のない一言だったのだろうが、優生の17年余りを否定されたような気がして愕然とした。いつも周囲に気を遣いながら、当たり障りのない人物でいられるよう努力してきた。特に、自分を前面に出すようなことのないよう抑えて生きてきたと思う。そうありたいと願ってきたはずなのに、今の自分は何ともつまらない人間になってしまったようだと自覚している。
「自由奔放な人には懲りたからね、少し固いくらいの方がいいよ」
知ってか知らずか、俊明はいつも優生の気持ちを軽くする言葉をくれる。たぶん、俊明についてきた理由の大半はそのせいだと思う。
「優生は飲めるのか?」
泊まることが確定したからか、淳史が酒の催促を始めた。多少は、と答えるかどうか迷っている間に俊明が窘める。
「未成年だよ、余計なことを教えないでくれないか。それに、おまえにつき合えるような“うわばみ”は大人でもなかなかいないよ」
全く飲めないというわけではなかったが、わざわざ申告する気はなかった。俊明が飲まない方が好みなら、敢えてつき合う必要はない。
「注がせたいほど色気もないしな、ムリには勧める気はないよ」
「ゆい、もう遅いし先に休んでていいよ?淳史につき合ってたら何時になるかわからないしね」
やんわりと席を外すように言われたのだとわかった。きっと、優生に聞かれたくない話もあるだろうし、知りたくもない。
「じゃ、先に寝るね」
「淳史のことは気にしないで、先に風呂も使っておくといいよ」
「うん、じゃ、お先に」
離れかけた体が抱きよせられて、唇がふさがれる。おやすみのキスにしては少し長すぎるようだった。淳史の視界に入ることを気にして拒む体がきつく抱き竦められる。
「いや」
小さく、俊明を責めるように発した言葉さえその唇に吸い取られてしまう。逆らうことが気に障ったのかもしれない。
「……少し遅くなると思うけど、もしうるさかったらごめん」
「大丈夫だから気にしないで?」
今度こそ部屋を後にしようと思ったが、こんな所を見られた後ではどうしても淳史の方を向くことはできそうになかった。俊明の影から、小さく声をかける。
「お先に、おやすみなさい」
「おやすみ」
ホッとしてドアを出ようとした瞬間に、ドキリとさせられる言葉を耳が拾う。
「泣かせてみたくなるタイプだな」
「ああ、良い声で泣くよ」
思わず耳に神経が集中してしまった優生は、聞いてしまったことを後悔した。ただ、俊明の評価が悪い物ではなさそうなことだけが救いだった。
先とは逆に、なるべく二人の会話を聞かないように神経を遣いながら風呂場へ急ぐ。
さっさとシャワーを浴びて寝てしまおうと思った。後は、まだ付き合い始めたばかりの優生より、よほど親しげな淳史に任せて。
ひとりになると、一度も見たことのない前妻のことを考えてしまった。気難しそうな淳史があれほど褒めるのだから、きっと美人で色気があって、家事も得意で、非の打ち所のない女性なのだろう。今の優生では、とても太刀打ちできないほどの。
だとすれば、そんなすごい相手と結婚していた俊明が、なぜ優生と付き合おうと思ったのだろうか。淳史の言葉を信じるならば、猫を被った状態の優生は俊明の好みに近いのかもしれないが、いずれ、女性ほど華奢ではないことも清楚とはいえないことも気付かれてしまうだろう。出会ったばかりで目新しく感じる今を過ぎれば。




自らを抱くように小さくなった体の隙間に入り込んでくる手に、弾かれたように意識が戻ってきた。抱きよせようとする相手の強引さに、緊張が走る。
庇うように顔の前に上げた腕を取られて、悲鳴をあげる寸前に唇が塞がれた。
意識が覚醒してくるとともに、寝込みを襲おうとしている相手が俊明だと気付いて抗うのをやめた。まだ、寝ている時にさえ警戒してしまうクセが抜けてくれない。
「ごめん、起こして。どうしても抱きたくなった」
「なっ……」
何言ってんの、と否定しようとした言葉はもう俊明の舌に吸い取られていた。アルコールの匂いがほのかに残る、少し苦いキス。
パジャマを開かせようとする手をそっと押し返してみたが、どうにも止められそうにない。
今夜は淳史がいるというのに、できれば、これ以上嫌味を言われるような事態は避けたかった。
「ちょっと待って」
話し合おうとする優生の思いはあまり伝わっていないようで、俊明の手は手際良く身ぐるみをはがしてゆく。
「淳史に君の自慢をしていたら我慢ができなくなってきたんだ。すぐに実践したくてね」
何の話をしていたのか聞くのも恐ろしい。もしかしたら淳史が見学に来ているのではないかと疑ってしまうほど。
「工藤さん、泊まってるんでしょう?」
「ああ、リビングで寝てると思うよ。見せつけたい?」
「冗談きついよ、リビングって隣でしょ」
本気で抗おうとした時にはもう手遅れらしかった。優生に押し付けられた昂ぶりが、もう後戻りできそうにない状態だと告げていた。
「濡れ場くらいで動じるような奴じゃないよ」
相手ではなくて、こちらが動じてしまうのだったが。明日の朝、どんな顔をして会えばいいのか。
「なるべく軽いのにして?」
「休み前なのに?」
「も、遅いし」
「じゃ、協力して?」
口論でも、優生に勝ち目はなさそうだった。
抗うのは諦めて、少しでも穏やかに終わるように協力しようと思った。肌を這う手のくすぐったさにもおとなしく身を任せて。
「っん」
耐えようとしていた声が知らずに洩れる。指に嬲られる小さな突起も、唇に愛される反対側も、感じ過ぎてヘンになりそうだった。優生が胸元が弱いのを知っていて、執拗にそこばかりを責めているらしい。
「いや」
我慢しようと思っていたが、これでは協力している意味がない。
俊明の体を引き離そうと思うのに、なお愛撫を続けられると体中の力が抜けてしまいそうになる。
「や、あ」
潤んでくる視界にはもう俊明も映らない。体が熱を帯びるにつれて知らずに膝が緩んでゆく。我慢ができないのは、本当は優生の方なのかもしれない。
「ゆい」
確かめるように名前を呼ばれると、意味もわからずに頷いた。
下肢が露になっていくのにも、もう恥らう余裕はなかった。含まされる指にさえ体が過剰に反応する。最初の相手との時には知らなかった感覚だ。夢中でしがみつく優生の中へと入ってくる瞬間は何も考えられなくなる。壁一枚隔てた向こう側にいる淳史のことも、明日の朝の気まずさも。
「ぁんっ」
まだ経験の浅い優生にも、俊明とは体の相性が良いらしいとわかる。
痛みを逃がすように大きく吐いた息に甘い声が混じる。優生が行為に没頭し始めたころ、俊明の声が現実へと戻させた。
「ゆいは淳史みたいなタイプが好きなんだろう?」
咄嗟にその人を思い浮かべると、無意識に体が強張ってしまいそうになる。最中に交わす会話ではないと思ったが、否定しないわけにはいかなかった。
「そんなこと、ないよ。どうして?」
「ゆいは淳史のことをかなり意識しているようだから」
どうやら俊明はずいぶんと鋭いようだ。それとも、優生はそんなにもわかりやすい態度を取ってしまっていたのだろうか。
「だって、俊明さんの古くからの友達なんでしょう?気に入らないと思われたら困るから……」
取って付けた言い訳は、まんざら嘘でもなかった。意識してしまう理由は別にあるとしても。
「仲良くしてくれるにこしたことないけど、ムリをする必要はないよ?それに、淳史は見た目ほど悪い奴じゃないから心配しないで」
「うん」
「僕も君とずっと一緒にいたいしね、嫌な思いをさせないように気をつけるよ」
それなら今日一日くらいおとなしく眠ってくれればよかったのに、と思ったが言葉にする勇気はなかった。
ふと、優生が気を遣うのは、初対面の淳史に対してより俊明への方がよほどシビアなことに気が付いた。




「優生?」
だるい体を揺らす手を肩で払って外した。
まだ、意識は現実に戻っていなかったが、警戒してはいけないと自分に言い聞かせていた。いつも、俊明に失礼な行動を取ってしまうから。
頬を撫でる手が唇に触れる。“おはよう”のキスをされるのだと思ったから気にも留めなかった。
ベッドが軋んで、体に風がよぎった。毛布が払われて、おざなりに羽織っていただけのパジャマがはだける。寒さに竦めようとした肩が掴まれる。
「あっ、ん」
昨夜、愛され過ぎて過敏になった胸元を掠めた生地に思わず喘いだ。
「起きられないほどやられたのか?」
耳が予測していたのとは違う男の声に、一気に体中が覚醒した。こんな状況じゃなければ、心地よく響くだろう低い声。
上体を起こして後ずさる。ようやく、昨夜は俊明の友人が泊まったことを思い出した。
だらしなく肩を落としたパジャマから覗いた胸元に淳史の視線を感じて慌てた。急いで前を合わせたが、もう遅かったに違いない。
「起きれるな?」
大きな手のひらが、視界を遮るように優生の額に伸ばされた。
「いやっ」
思わず女の子のような悲鳴をあげてしまっていた。
「優生?」
訝しげに名前を呼ばれて掴まれた腕が振りほどけない。あまりに驚きすぎて上手くリアクションが返せなかった。
「淳史?人の恋人に何してるんだ?」
悲鳴を聞きつけてか、俊明が現れた。
「人聞きの悪い。おまえが起こして来いって言ったんだろうが」
「ゆいの色っぽいところを見せてやるとは言ったけど、触っていいなんて言ってないよ?」
少し不機嫌そうな俊明に、むしろ怒りたいのは優生の方だった。
「自力で起きれなくなるようなことをしたんだろう?」
「そんなことないんだけどな。ゆい、起きられる?」
「ごめんなさい、すぐに起きるから」
「じゃ、着替えておいで。もうすぐ食事の用意ができるから」
「うん」
淳史と俊明が部屋を出て行くと心底ホッとした。
昨日からあまり友好的ではない淳史に、優生の方も苦手意識が芽生えてしまっているらしい。
あまり遅くなるとまた嫌味を言われそうで、急いで着替えてリビングに向かった。
ドアを入ってすぐ右手のソファに淳史が腰掛けていた。俊明はキッチンの方らしい。
そっと、淳史の横を通り抜ける。
「わっ……」
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
固い膝の上に倒れ込んだのは、ソファの横を通り過ぎる瞬間に淳史に腕を引っ張られたかららしい。
「細いな」
ギュッと抱きしめられた体が、淳史を意識して震える。見ているだけでもドキドキするのに、こんなに密着されては不謹慎な感情がバレてしまいそうだ。
「放してください」
消え入りそうに小さく抗議した。
「確かに抱き心地は悪くないな」
「淳史!触るなって言っただろう」
ダイニングからダッシュしてきた俊明が、慌てふためいて淳史の腕を解く。
「そんなに怒るなよ。おまえがあんまり良いって言うから興味が湧いたんだろうが」
「男は守備範囲外だって言ったじゃないか」
「単なる興味だ。こいつの反応はおもしろ過ぎるし、おまえが本気で怒ってるのも珍しいしな」
「興味本位に、ゆいに触るなよ。僕たちは純粋に恋愛中なんだ」
淳史の腕から奪うように優生の体が引き離される。
「ゆい、淳史の近くに行ったらダメだよ?淳史も優生に興味を持ったみたいだ」
仮にそうだったとしても、優生としては頷くことも、否定することもできなかった。
「ごめんなさい、ビックリしただけだから。俺、寝起きが悪いんです」
後半は淳史に対する言い訳で、前半は自分に言い聞かせるための言葉だった。
「それだけ細けりゃ元気な方が不思議なくらいだな。ちゃんと食ってるのか?」
「まあ、それなりに」
「ゆいはつきにくい体質なんだよ。毎日筋トレもしてるしね」
「筋トレ? ちっとも成果の見えない体だな。やり方まちがってるんじゃないのか?」
「そんなことはないと思うんですけど……一応、強制的に道場にも通わされていたので」
「柔道か?」
「いえ、空手です」
「長くやってるのか?」
「今は休んでますけど、10年くらい続けてて」
「フルコンタクトか?」
「ええ、まあ」
やはり淳史は詳しいらしい。あまり追及されて格闘センスのなかったコンプレックスを刺激されるのが嫌で曖昧に答えたのだったが。
「そのわりに貧弱だな」
「向き不向きがあるでしょう?俺のは強制的に通わされてたって言ったじゃないですか」
「それなら何で毎日筋トレしてるんだ?」
「俺、すぐ筋肉落ちちゃうんです。つきにくいけど落ちやすくて。自主トレしておかないと次に行った時に困るから」
「いい心がけだな」
尤も、養子先で通わされていた道場にまた行く機会があるのかどうかは甚だ怪しいのだったが。
「話はそのくらいにして、そろそろ食事にしようか?」
俊明に促されてテーブルにつく。ご飯に焼き魚に卵焼きに味噌汁といった純和風なメニューだ。
「いただきます」
両手を揃えて頭を下げてから箸を取る。
「おまえ、朝からマメなんだな」
「僕は料理は苦にならないんだ」
俊明は料理に限らず家事全般が嫌いではないらしかった。それでも任せっきりというのは気が引けて優生も手伝ってはいるが、何をするにもいちいち教わらなければならず、却って手間をかけさせてしまっている。
「そういや彩華は何もできなかったんだったな」
「何もってことはないよ?そもそも女性がしなきゃならないってことはないしね。僕は家事は嫌いじゃないし、ゆいとも協力し合っているよ。淳史と結婚する人は大変だろうけど?」
「俺は結婚する気はないぞ。100%把握しようとされるのは我慢ならないからな」
「それはお互い様だよ? それに誰かがいると病気の時だって安心だしね」
「俺は頑健だから大丈夫だ」
「そのわりに赤の他人が入ってくるのは平気なんだな?」
「人を雇った方がラクだぜ? 不必要に立ち入ってこないし、気に入らなけりゃ代えさせればいいからな」
「淳史は意外と神経質だからね」
「自覚はないんだが」
「そこがタチが悪いんだよ。向きが揃ってないとか角が揃ってないとか、すごく細かなことが気に障るんだからね」
「いちいち指摘した覚えはないんだが」
「見てればわかるよ」
口は挟まなかったが、淳史がいる間は気をつけようと思った。たぶん、几帳面な性格だという評価を受けることの多い優生にとっては、そう大変なことではないだろうが。それに、育ての親はもっとずっと厳しかった。
「優生」
「はい」
「トマトは出すな」
「はい」
反射的に返事はしたものの、意味はよくわからなかった。
「あと、淳史は生魚も苦手なんだよ」
「そうなんだ……」
好き嫌いのことだったのだと納得しつつ、優生には無関係のような気でいたが、そうではなかったことを、何日も経たないうちに思い知らされた。






「ちょっと待って、冗談でしょ?」
今、まさに運び込まれようとしているリビングの3分の1を占めようかというグランドピアノに優生は動揺しまくっていた。
「おまえがピアノが欲しいって言ったんだろうが。まさか冗談だったのか?」
何気ない会話の中で淳史に欲しい物を尋ねられた時、軽くピアノと答えたのは事実だ。とはいえ、まさかそれを買ってくれるだなんて誰が本気に取るだろうか。しかもアップライトではなくグランドの新品だなんて、常識で考えたらあり得ない。
「だって、まさか本当に買ってくれるとは思わないでしょう? 俊明さんがいない時に勝手に置き場所まで決めるわけには……」
婉曲に断ったつもりだったが、淳史の顔色が変わる。
「出直せって言ってるのか? わざわざクレーンで上げさせたんだぞ。持って来るだけでいくらかかったと思ってるんだ?」
「プチ引越しできるほどでしょ。専門業者じゃないと運べないしね。何で持って来る前に都合を聞いてくれないのかな……」
「俊明には言ったぞ。おまえを驚かせようと思って黙ってたんじゃないのか?」
ということは、俊明も冗談だとは思っていなかったということらしい。

「お取り込み中すみませんが、受け取りをいただきたいんですけど」
運送屋の一人に声をかけられて、やむなく立ち上がる。俊明が了承しているのなら、受け取らないわけにもいかないだろう。
「ごくろうさまでした」
ピアノの運送業者が帰ると、改めて淳史に向き直った。
「俺、まさか買ってくれるなんて思ってなかったから、凄く厚かましいことを言ってしまったみたいですみませんでした」
「欲しかったんじゃなかったのか?」
「正直に言うと禁断症状が出そうなくらいだったので嬉しいです。でも、こんな高価なのをいただくわけにはいかないと思うんですけど」
「とりあえず何か弾いてみろよ」
「えっ」
――調律もしていないピアノを?
優生の方も、家を出て以来ずっとピアノに触れてさえいない。
「まさか、これから習おうなんて言うんじゃないだろうな」
脅すような口調に、やむなく弁解した。
「できればそうしたいと思ってたんです。祖父の所を出てから全然触ってもなかったので」
「長く続けてるのか?」
「12年くらいかな? でも、このピアノは調律してないし、すぐに弾くのはムリですよ?」
「俺はそんな小難しいことを聞き分ける耳は持ってないぞ?」
どうあっても、優生にピアノを弾かせてみたいらしい。
「じゃ、すごく外しても怒らないでくれます?」
しつこいくらいに前置きをしてからピアノに向かう。真新しいピアノは鏡のように優生の姿を写した。蓋を開けて、傷一つない鍵盤を見ると無性に気が昂ぶってきた。
「やっぱりクラシックがいいです?」
「なんでも。俺はそういうのには疎いんだ」
「じゃ、CMの曲とかの方がいいかな?」
淳史は、好きにしろ、と言いたそうな顔で頷いた。優生の頭には、もう今弾きたい曲が浮かんでいた。淳史も、きっと1度や2度は耳にしたことがあるだろう有名な曲だ。
真新しい鍵盤はまだ指には馴染みきらなかったが、弾き心地は悪くなかった。
逸る気持ちを抑えて、1フレーズ終わったところでリタイアする。久しぶりなせいで気ばかりが先走って、指が思うように動いてくれなかった。
「ごめんなさい、暗譜は苦手なんだ。続きは楽譜を用意してからでいいですか?」
「ちゃんと弾けてたんじゃないのか?」
「まあ、ここまでは」
「何ていう曲なんだ?」
「君の瞳に恋してる」
「そういうタイトルなのか。知らなかったよ」
「曲はわかってるのにタイトルは知らないってこと多いですよね」
「俺はそういうのには疎いしな」
「工藤さん、まだ時間あります? よかったらお茶でも淹れますけど」
「コーヒーの方がいいな」
「はい」
思いがけず淳史と2人きりになってしまったが、ピアノのおかげか、以前ほど苦手だと思わなくなっていた。
たわいない会話で時間をつなぐ。
主のいない部屋だということを忘れそうなくらい穏やかな時間だったことに、淳史と別れてから気付いた。






「はい」
なにげなく取った電話の相手が淳史だと知って驚いた。
『おまえ、甘い物は好きか?』
「え? いえ、あんまり」
突然の問いの意味がわからず、とりあえず否定した。
『じゃ、チョコレートは食わないか?』
「いえ、どちらかと言えば好きですけど」
『そうか。今日は俊明と一緒に行くから8時過ぎになるよ。俺は煮物が食いたいな』
どうやら、淳史の夕飯も用意しておけということらしい。初対面の時のように好戦的でなくなっただけでも有難いが、ちょっと厚かましく感じるのは優生の心が狭いのか。
「煮物って、何のです?」
『特に好き嫌いはないから何でもいい。まさか煮物にトマトは入れないだろう?』
「え、ええ、まあ」
言いたいことを言い終えるとさっさと電話を切ってしまう淳史に半ば呆れながら、優生は料理の本をめくった。
「煮物って言ったら、やっぱ肉じゃがかな?」
返事をしてくれる人はいなかったが、王道だろうと思いそれに決めた。晩酌をするのなら他にもつまみになるようなものも何品か要るのだろう。
材料と手順をざっと確認してから買い出しに出かけた。まだ不慣れではあったが、料理は少しずつ覚えてきた。元々、要領は悪くなかったらしく、今のところ失敗というほどひどいものはない。




インターフォンが鳴ったのとほぼ同時に玄関のドアが開く音がして、ほどなく俊明と淳史がリビングに現れる。
「ただいま」
「おかえりなさい」
いつも通り、ごく自然に優生の唇にキスをするのは、俊明が淳史の存在など気にも留めていないからだろう。淳史の方ももう茶化したり嫌な顔をしたりすることはなかった。ただ、優生だけは微妙に居心地の悪さを感じている。
2人分のコートと上着を受け取り、ハンガーに掛けるのは優生の役目だ。
「良い匂いがするね」
「すぐごはんにするの?」
「そうだね、僕は早く食べたいな。飲むのは後にするように言ってあるしね」
俊明は優生が未成年なことをとても気にかけてくれている。淳史と最初に会った日から、はっきりと庇ってくれていた。
「優生」
用意をしにキッチンへ行きかけたところを呼び止められる。
「はい?」
差し出された箱に手を伸ばしながら、軽く首を傾げて淳史を見る。
「電話で言っただろう? それはおまえに持ってきた」
「ありがとう。後で開けさせてもらうね」
淳史は甘い物は嫌いそうな印象があったが、その通りだったらしく自分の持ってきたものに嫌な顔をしてみせた。
「俺はあまり好きじゃないんだ」
「どう見ても甘党には思えないもんね」
「淳史、なんだかんだ言ってゆいを口説く気じゃないだろうね?」
心なしか厳しい眼差しを淳史に向け、俊明はいつもは優しい声を低めた。
「口説くんならもっと色気のある女にするから、そう心配するな」
確かに、淳史には本人の好み通り大人のグラマーな女性が似合いそうだった。少なくとも、淳史に言わせれば“貧相なガキ”の優生など論外なのだろう。
淳史の評価など気にする必要はなかったが、密かに傷ついている自分を否定できなかった。
そっとキッチンに戻って食事の用意をする。鍋を火にかけてアスパラのサラダを冷蔵庫から出していると、俊明が袖を捲りながらやってきた。
「手伝うよ。よそえばいいの?」
「ありがとう。飲むのは後って言ってたけど、いつ用意したらいいの?」
「風呂入ってから軽く飲むくらいにしようと思ってるよ。明日も仕事だしね。ゆいは気にしないでいいよ、勝手にやるから」
「ビールはどのくらい冷やしてたらいいかな?2、3本しか入ってないんだけど」
「ちょっと心許無いかな?もう2、3本冷やしておこうか」
「わかった」
温め直した肉じゃがと味噌汁をよそう端から、俊明がトレーに乗せて運んでいった。初対面の時からそうだったが、淳史が何かを手伝う様子はない。
一通り運び終わって席につくと、意外にも淳史は箸をつけずに待っていた。
「温かいうちにどうぞ」
「じゃ、いただきます」
何もしないが、挨拶だけはきちんとする所が不思議だった。
特に失敗をしたわけではなくても、多少の不安に淳史の表情を窺ってしまう。それに気付かないのか、美味そうでも不味そうでもなくごく普通に箸を運ぶ。直接聞くのも言葉のご褒美を催促しているようでためらわれた。
「そういえば、ピアノはもう習いに行ってるのか?」
優生が所在なさげに見えたのか、淳史の方から話題を振ってくる。
「いえ、まだ調べられてなくて」
「楽譜は買ったのか?」
「まだだけど、持ってきたのがあったから」
「楽譜があったら弾けるって言ってたな?」
「あれは持ってないんだ」
何とか言い逃れようとする優生を追い詰めるのは楽しいらしい。
「他のでもいいぜ?」
「も、遅いから近所迷惑になるし」
「じゃ、昼間聞きに来るとするか」
返事に詰まる優生を庇い、俊明は眉を顰めて淳史を撃退する。
「僕のいる時にしてくれよ? おまえがどう思っていようと、ゆいと二人きりにさせるわけにはいかないからね?」
「じゃ、週末に泊まって次の日ならいいだろう?」
「少しは気を遣えよ? 僕たちはまだ倦怠期のカップルじゃないんだから」
「ジャマした覚えはないぞ?」
悪びれない様子に俊明が肩を竦める。長いつき合いらしいから、もう慣れているのだろう。
淳史は聞き分ける耳を持っていないとは言っていたが、やはり1ヶ月以上も殆どピアノに触らずにいた現状では覚束ない。相手の評価はともかく、自己満足するためにも、週末まではピアノ三昧になりそうだった。






「この頃よく来るね?」
俊明の言葉に含まれる棘に、淳史が気付いていないとは思えなかったが、一向に気にした風でもない。
「そりゃ、そこそこ上手い飯が食えれば通いたくもなるだろう?」
「おまえに振舞うために、ゆいは料理を覚えてくれてるわけじゃないんだけどね?」
「優生がマジメにピアノの練習をしてるかどうかも聞きに来なけりゃならないしな」
どちらにしても、まるで淳史が来る理由は優生だと言っているように聞こえる。
「社長令嬢は放っておいていいのか?」
「言うな。俺はあの女と結婚する気はないからな」
初めて聞く淳史の女性関係の話にドキリとした。以前、あれだけ結婚はしないと言っていた淳史に、まさか結婚を考えるような女性がいるとは思ってもみなかった。
「そろそろ潮時だと思わないのか? これ以上いい相手が出てくるとは思えないよ?」
「あれは彩華以上にきつい女だぞ?」
「そういうのがタイプだろう?」
ナチュラルに交わされる会話にショックを受ける優生はすっかり蚊帳の外だ。
「俺は出世したけりゃ自分の力で上へ行くし、嫁やその親に一生頭が上がらないなんてのはごめんだ。確かにいい女かもしれないが、家庭的な女ではないしな」
「また意外なことを言うんだな。おまえの好みのタイプの女性が家庭的なわけがないだろう?」
「つき合うだけならともかく、結婚するんなら従順な女がいいんだ。余計な口出しや詮索をしないで家のことだけしてくれればいいからな」
「おいおい、いつの間に宗旨替えしたんだ? おまえの言葉とは思えないな」
「そうか?それなら嫁に気を遣ってる方が俺らしいのか?」
そもそも、気を遣うなんてことがこの男にあるのだろうかと思う優生は失礼だろうか。
「そう言われてみれば、淳史が奥さんの機嫌を取るなんて殊勝な真似をするとは思えないかな?」
「そうだろう? だからもうあの女の話はするな」
「なんだ、それでこの頃うちに入り浸ってるのか? そういや携帯も鳴らないな」
「プライベートの方を教えるわけがないだろう? しつこい女だしな、何か口実を作らないと本気でヤバいんだ」
では、その携帯番号&アドレスを淳史から教えられている優生は、少しは自惚れていいのだろうか。少なくとも、俊明の恋人として認められているのだろうか。
「観念して早く誰かと結婚した方がいいんじゃないか? あそこは大口の取引先だからね、そのうち社命で結婚させられかねないよ?」
「縁起でもないことを言うな」
「まんざら冗談でもないと思うよ」
珍しく、淳史が神妙な面持ちを見せる。どうやら、本当に笑い事ではならしい。
「優生」
「えっ」
突然、話を振られて驚いた。
「おまえみたいに従順な女はいないか?」
「は?」
「なんだ、やっぱり淳史もゆいみたいな子の方がいいと思ってるんじゃないか」
誇らしげな俊明の評価も、この際どうでもいいことだった。
「婚約くらいでいいんだが」
どうやら、俊明の提案を無下にする気ではないらしい。
「ごめんなさい、俺の知り合いにはいなさそう」
「おまえが希少価値ってことか」
「そうだよ、僕が羨ましくなっただろう?」
「女ならな」
その一言に傷つく優生は弱いだろうか。
「もう充分遊んだだろう? そろそろ観念しろよ」
「冗談じゃない。まだまだ誰かに縛られるなんてごめんだ」
「お嬢様に押し切られないことを祈っててやるよ」
もし淳史に特別な女性ができたら、もうこんな風に一緒に食事をしたりすることはなくなるのかもしれない。想像しただけで胸が痛む気がして、そんな風に思う自分に驚いた。
優生はまだ、この平穏な日々がすぐにも壊れようとしていることには気付かずにいた。


- An Absolute Monarch - Fin

Novel       【 Let Go 】    


2006.2.23.update

ごたいそうなタイトルをつけてみました。
専制君主とか、独裁者とかいう意味あいなんですが、もちろん淳史のことです。

★フルコンタクトというのは直接体に当てる流派の組手スタイルです。
逆に、伝統派空手は寸止めルールを採用しています。

★『君の瞳に恋してる』は邦題で、確か『Can't take my eyes off (of) you』というタイトルです。