- Love or Lust(2) -



夜になると、昼間の約束通り、義之は里桜を伴って夕食と“お見舞い”を持って再び訪れた。
優生の体調は昼より悪化してしまったようで、ぐったりとソファに凭れかかったまま、客人たちを出迎える気力もない。
「義くん、早く敷いてー」
義之がキルトの鍋敷をテーブルに置くのを待ちかねたように、里桜は大きな鍋をその上に乗せた。
「良かった、落とさなくて。思ったより距離あるよね」
「だから僕が運ぶって言ったんだよ、里桜には重かっただろう?」
「うん。隣だし大丈夫だと思ったんだけど、シチューって重過ぎだよね」
淡いグリーンのミトンを外しながら、里桜が義之を見上げて同意を求める。寄り添う二人には、一分の隙もなさそうに見えるのに。
「面倒を掛けて悪いな。こっちから行けば良かったのかもしれないが」
淳史が気を遣っていることに驚いたのか、里桜は手にしたミトンを大きく左右に振った。
「ううん。ゆいさん、具合悪いんでしょ? あんまり動かない方がいいだろうし」
里桜の言葉で、皆の視線が一斉に優生の方に集まる。
「そのようだね。ゆいは無理して起きているより横になっていた方がいいんじゃないかな?」
心配げな義之の言葉に後押しされるように、淳史を窺う。
食欲もなく、匂いにも嘔気を誘発されてしまいそうになる優生は、できることなら寝室へ引き上げたいと思っていた。
「ゆいさん、果物なら食べられる? メロン持ってきたんだけど」
優生が食事を摂りそうにないことは見抜かれているらしく、里桜は先回りの気遣いをしてくれる。それがリンゴやミカンなら良かったのだったが。
「ごめん、せっかくだけど、メロンはちょっと……アレルギーがあってダメなんだ」
「え、メロンのアレルギーなんてあるの?!」
「そんな大したことはないんだけど……口のまわりがかぶれるとか喉が痒くなる程度なんだけど、体調が悪い時は酷くなるかもしれないから……ごめん」
優生が果物なら何でも食べるだろうと考えて選んでくれたのだとわかっているだけに申し訳ない気持ちになる。
「ごめんなさい、何がいいか聞いてから用意すればよかった」
「俺こそ、いろいろダメダメでごめん。でも、メロンなら淳史さんも食べられるだろうし、みんなで食べて?」

「ただ嫌いなだけじゃなかったのか?」
優生の隣へ戻ってきた淳史は、僅かに眦を上げて責めるような表情を優生に向けた。
「ごめんなさい、説明するの面倒だったから……」
以前、“甘いものは苦手だと言いながらチーズケーキは例外で、淳史に黙って他の男に奢って貰っていた”という一件が発覚したあと、優生の好きなものと嫌いなものを申告させられていた。その時にメロンが食べられないことは伝えてあったが、好みの問題ではなく体に合わないからだとは説明していなかった。
また淳史の追及が始まりそうだと察してか、ソファの傍まで近付いてきた義之が会話に割って入る。
「そういえば、ゆいはアレルギー体質だと言っていたね。年齢と共に良くなっていると聞いていたけど、元はだいぶひどかったの?」
「うん、子供の時は喘息がきつくて死にかけたこともあるから、重い方だったんじゃないかな?」
尤も、命に関わるほど重症化したのは祖父が厳しくて無理をさせられたからで、喘息のせいではなかったのかもしれなかったが。
「聞いていたよりも症状は重かったようだね。口腔アレルギーまで持っているということは花粉症も?」
「ううん、花粉症はそうでもないよ。その時期に少し涙目になるとか鼻水が止まらなくなることがあるとかいうくらいで」
「それは立派に花粉症だよ、ちゃんと診察を受けて薬を飲んでる?」
「俺、病院は嫌いだし、薬も面倒臭いし」
我慢できないほど酷くないから、敢えて受診する気にはなれないままでいる。
「ということは、ゆいの医者嫌いは父のせいではなかったのかな?」
「うん。俺、別に義貴先生のことは嫌いじゃないよ? 病院は嫌いだけど、それは入院した時に怖い思いをしたからだし」
「怖い先生か看護師さんでもいた?」
「ううん。夜中、眠ってる時に突然胸の上にドンって何かが乗ってきて、目を開けたら黒いモヤモヤが天井の所にあって……声も出ないし、体も動かなくなっちゃうし、怖くて朝まで眠れなかったことがあって」
「金縛り?」
「だと思うけど……やっぱり病院にはいろいろいるみたいだよね」
それ以来、優生は診察はもちろん、見舞いに行くのも昼間に限定しているのだった。


「聞けば聞くほど、ゆいはいろいろ出てくるね。道理で一筋縄じゃいかないわけだよ」
それで合点がいったというような言い方をされてしまうほども、優生は面倒な性格をしているということらしい。
「そんな大したことだとは思ってないんだけど……」
世の中にはもっと悲劇的な生い立ちをしていたり、不幸を一身に背負っているような人もいて、決して優生が特別不遇だとは思わない。ただ、優生がそういう風に自分の境遇に甘んじるしかないと諦めがつくまでに随分時間がかかってしまい、人格形成に歪みが生じてしまったようだとは思う。
だから、実の両親に愛されて真っ直ぐに育ち、恋愛も順風満帆に進んでいる里桜を羨まずにはいられないのかもしれない。
“もしも”などと言い出したらキリがないが、優生の相手が義之だったら上手くいっていたのではないかと考えてしまうことがある。義之なら、優生が口に出せない本心まで見抜いて叶えてくれるだろう。愛されたいと思う以上に、真綿で首を絞めるような優しさで、貪欲に愛してくれるだろう。

「ゆい? 他にアレルゲンだとわかっているものはある?」
考えに沈んでしまっていた優生は、突然の問いに慌てた。
「えっと……山芋とか里芋とか、卵の白身の生がダメみたいだけど」
やんわりと見つめられると、深く考えずに答えてしまった。淳史に申告していないものを挙げれば、また機嫌を損ねてしまうのに。
「だから、どうしてそういう大事なことを言っておかないんだ?」
予想に違わず、淳史の表情は忌々しげで、感情を抑えていると見てとれるぶん余計に気まずい。
「でも、食事の用意は俺がするんだし……火を通して食べるのは大丈夫だから」
「料理するのは大丈夫じゃないんだろうが」
「ううん、山芋とか触る時は手袋してるから大丈夫」
「それだけわかっていて気をつけてるなら、心配ないと思うよ?」
まだ何か言いたげだった淳史も、義之の口添えにひとまず納得したようだった。


「ねえ、あっくんが生魚ダメなのって、アレルギーとかあるからなの?」
里桜の問いは優生も知らずにいたことで、興味を引かれて淳史の横顔を窺う。
「いや、優生のように体に合わないというわけじゃない。ただ、前に中華の前菜で酷い目に遭って以来、見たくもないんだ」
どうやら、あまり触れられたくない話題だったようで、淳史は口にするのもおぞましいと言いたげに眉間に皺を寄せた。
「お刺身を使ったやつに中った(あたった)の?」
「思い出させるなよ」
「ごめんなさい、でも、そんな大変だったの?」
謝りつつも突っ込んで尋ねる里桜に、自分では聞けない優生は、ある種の尊敬のようなものさえ覚えてしまう。
「血を吐いたのは、後にも先にもあれ一回きりだ。痛みもハンパじゃなかったな」
「血を吐いたって……中っただけじゃないの……?」
「アニサキスっていう寄生虫がついてたんだ。魚介類を生で食って、激しい腹痛や嘔吐がある場合は大抵それらしいな」
「えっ……あっくん、寄生されちゃったの……?」
驚きのあまり、大きな瞳を更に見開いて問う里桜に、義之は笑いながら説明を始めた。
「違うよ、本来はクジラとかイルカに寄生してるものなんだけど、魚介類の生食で人体に入ることがあるんだよ。人は宿主じゃないから成虫になることはないけど、胃の粘膜を破ったり炎症を起こしたりするみたいだね。症状が酷い時には、内視鏡を使って鉗子で摘出するんだよ」
「うわ……あっくん、大変な目に遭ったんだね」
痛々しげな顔をする里桜に、淳史の表情が少し和らいだ。
「わかったら、俺の前で刺身も寿司も食うなよ?」
「うん」
里桜は(もちろん優生も)、嫌いだとわかっているものをテーブルに並べたりしたことはなかったが、つられるように頷いていた。

昔のことだとわかっていても、淳史が吐血する光景を思い描いてみると背筋が寒くなってくる。タフで頑健なはずの淳史が、大病をするとか、万が一にも優生より先に天命が尽きるとかいうようなことはないと思っていたいのに。
「そんなに心配しなくても、淳史は頑丈だから大丈夫だよ?」
会話に加わることもなく、顔を強張らせる優生に、義之が声をかけてきた。
過日、淳史の方が長生きするとは限らないと優生を脅かした時と同じ強い口調で、真逆のことを言う義之の慰めでは安心できそうにない。
「なにしろ、一週間入院と言われていたのに一晩で帰ってきてしまうような男だからね」
「すご……。あ、もしかして、あっくん、勝手に帰ってきちゃったんでしょ?」
「いや。義貴先生に無理を言って搬送先まで来て貰って、強引に自宅療養にして貰ったからな。そのあとも、うちに点滴に通って来てくれたから入院は免れられたんだ」
「父が都合がつかないときは僕が代わりに点滴してあげたんだよ」
医者や看護師が身内か知り合いにいると便利だという結論に至るのを聞いて、今更ながら、かつて淳史が言っていた言葉に得心がいった。
「……もしかして、前に先生にはお世話になってるからって言ってたの、それ?」
「そうだな。それ以降も休日や時間外に往診に来て貰ったりしているからな」
以前、義貴が早朝から優生の診察に訪れた時もその流れだったのだろう。寝起きの悪い優生には突然の事態が呑み込めず、パニックを起こして反抗的な態度を取ってしまったのだったが、今になって自分の迂闊さが悔やまれた。
「どうしよう……淳史さんがそんなお世話になってた人に、俺、ものすごく失礼なことしちゃったんだよね……」
「ゆいが気にする必要はないよ。ゆいはそれ以上のことをされてるんだしね」
淳史を差し置いて優生を庇う義之は、義貴のことなど気にかけてやる価値もないと言いたげだ。それでも、拉致された一因が優生の態度にあったことは間違いなく、居直ることはできそうになかった。

「あれは先生が悪い。いくら誤解があったといっても、俺が優生を籍に入れたことは話してあったんだからな」
大きな手が、優生の頭を抱き寄せる。
優生が気にしているのは悪戯されそうになった時のことではなく、初対面の日の自分の言動が、わざわざ往診に来てくれた相手に対してあまりにも無作法だったと気付いたからだ。
ただ、この状況でそんな説明をするのはどうかと迷い、かといって他に気の利いたことも言えずに黙り込んでしまう。
「優生? 疲れてるんなら、このまま寝ていいからな?」
優しい声に寝室へ行くことを禁じられる。
淳史が優生の隣へ陣取ったときから、こういう展開になりそうな気はしていた。淳史はいつも、隣人に対してそういう意味での気遣いをしない。もしかしたら態となのではないかと勘繰ってしまいたくなるくらいに。
それでも、今の優生は反抗するような立場にはなく、おとなしく淳史の胸に身を預けて目を閉じた。


「半分こにしといたからねー」
微睡みかけた意識が、里桜の声に呼び戻される。
淳史の胸に凭れたまま覚束ない視線を上げて声の方を見ると、持参してきた鍋を手に、里桜と義之が帰ろうとしているところだった。
「悪かったな、わざわざ用意してもらっておいて」
淳史の声が低められているのは、優生を起こさないようにという配慮なのだろう。
「ううん。ついでだし、いつでも言って?」
「また明日にでも、ゆいの様子を見に来るよ。淳史はゆいにあまり無理させないようにね?」
「ああ、わかってる」
一瞬、優生の肩に回されていた腕に、痛いほどの力が籠もる。
淳史は客人の見送りもせず、並んで腰掛ける優生の脚を掬い上げて、自分の膝へと乗せた。肩を滑り落ちたハーフケットを引き上げて、包み込むように優生の体を抱き直す。
息苦しいほどの抱擁に、眠り損ねたとは言い出せず、もう一度眠る努力をすることにした。



- Love or Lust(2) - Fin

【 Love or Lust(1) 】     Novel       【 Love or Lust(3) 】  


口腔アレルギー(症候群)/唇や口の中の粘膜、その周囲の粘膜組織にアレルギー症状が起こるもの。
ブタクサの花粉症の人は、ウリ類(メロンやすいか、きゅうり)やバナナにアレルギーを起こしやすい。