- Not Still Over(6) -



引越しを終えても、優生の生活は殆ど変わらなかった。
強いて言えば、距離が近くなったぶん里桜と過ごす時間が長くなったことと、淳史が優生の体を気遣うようになったことくらいだ。
このまま平穏な日々を続けられるよう細心の注意を払っていたのに、突然、一人で訪れた義之に戸惑ってしまった。
里桜にさえ腹を立てる淳史が、義之と二人きりになるような状況を快く思うはずがなく、かといって門前払いというわけにもいかず、迷いながらドアを開ける。
「あの、どうかしたんですか? こんな時間に」
「きみの体調が気になっていたからね、ちょっと仕事の合間を見て寄ったんだけど」
わざわざ仕事を調整して優生の健康管理に寄ってくれたことに感謝するべきなのだろうが、血圧計や聴診器の入った袋を見せられると、つい不謹慎な気分になってしまう。
「……“お医者さんごっこ”ですか?」
「ゆいが医者の方がいいなら、往診に出向くようすぐに手配しておくよ?」
表情を崩さない義之が本当にその言葉を実行してしまいそうに思えて、慌てて引き止めた。相手が本物の医者では“ごっこ”にならない。
「ごめんなさい、俺、義之さんの方がいいです」
「本当に?」
「ほんとです」
ヘタに口答えするから追い詰められるとわかっているのに、何故かおとなしく従うことが出来ず、結局は義之を部屋へ通すことになってしまう。
「じゃ、先に体温を測って」
ソファへと促され、これではどちらが家人かわからないなと思いながらも黙って体温計を腋下へ挟んだ。並んで腰掛ける義之に別な腕を預けて、脈と血圧を診てもらう。
白衣を着せればさぞかし似合いそうな、父親に似た整い過ぎなほどに綺麗な顔を盗み見ながら、もしかしたら話を切り出す絶好の機会なのかもしれないと思った。


「え……」
視界を覆うように近付いてきた義之に、気付いた時には抱きしめられていた。わけがわからず固まる体を軽く抱き上げられて、頭の中が真っ白になってしまう。
「やっぱり、痩せ過ぎかな」
難しげな顔で呟くと、義之はすぐに優生をソファに戻した。少し距離を置いて隣へ腰掛けると、優生の動揺など素知らぬふりで、手早く血圧計や聴診器を片付けてゆく。
おかしな意味ではなかったとわかって気が抜けた。それならこんな紛らわしい量り方をしなくても、体重計を使ってくれれば良かったのにと思う。
「ゆいに聞きたいことがあるんだけど構わないかな?」
「あ、はい」
話したいと思っていたのは優生も同じだったが、義之に先を越されてしまったようだ。
「どうして家出したの?」
直球過ぎる問いに、すぐには言葉が出てこない。凡その経緯は淳史から聞いて知っているはずだった。
「……淳史さんのお母さんがガンだって知ってますよね?」
「ゆいは、余命が短い人の言うことは何でも聞かないといけないとでも思ってるの?」
辛辣な口調に驚かされる。優生にはとても耐えられなかった重大な事由にも、義之は微塵も同調する気はなさそうだった。もっと穏やかで優しい人だと思っていたのに。
「……聞いてあげたいと思うのが普通でしょう?」
「じゃ、もし僕があと半年しか生きられないから里桜と別れてきみと暮らしたいと言ったら叶えてくれる?」
「な……そんなこと、義之さんが言うわけないし、里桜だって黙ってないでしょ」
義之がターミナル期を里桜以外の誰かと過ごしたいと思うはずがなく、里桜もその役を誰かに譲るはずがなかった。
「そうだろうね。淳史がきみを手放すわけがないし、きみが黙って身を引く必要もないんじゃないかな?」
それは義之と里桜だから当て嵌まるのであって、優生に置き換えられるものではないと思う。
「でも、俺は子供を産んであげられないし、淳史さんのお母さんにも反対されてるし……とてもじゃないけど、淳史さんの人生に責任もてないから……」
「子供に恵まれない人もいれば、敢えて作らない人もいるだろう?」
「でも、ちゃんと結婚してもらいたいし、孫の顔も見たいって……」
「ゆいは淳史よりお母さんの方が大事なの?」
「え……そういう、つもりじゃ……」
どちらが大事とか考えたことはなく、ただ、一番優先するべき人だと思っていた。
義之がわざとらしいほど大きなため息を吐く。
「ゆいは意外と楽観的なんだね。平均寿命が78歳として、あと40年近く淳史が健康で生き続けているという保証があるとでも思ってるの? もしかしたら、今日の帰りに事故に遭うかもしれないし、それこそガンに罹ってない保証なんてないんだよ?」
そんな事態を想像しただけで体が震えてくる。いつか淳史に言われた時には漠然と聞き流してしまっていたが、優生が離れている間に、もう二度と会えなくなってしまう可能性だってあったのだった。
「それが淳史と別れようと思った理由?」
「それだけじゃないですけど……俺のことが気に入らなくて、他に望まれてる人がいるってわかったら居た堪れなくなって……」
「ゆいを気に入らなかったわけじゃないと思うよ。ゆいの性別は気に入らなかったんだろうけどね」
「同じことでしょう? 結婚を断られた相手にやり直したいって言われてて、それを焚き付けたのはお母さんで。俺がいなかったら、みんな上手くいくのに」
「それを決めるのは淳史で、きみじゃないとは気が付かなかったの?」
「でも……いつか冷めて、普通に結婚して子供が欲しくなった時に、後悔されたくないんだ」
「冷めるとは限らないし、子供が欲しくなるとも限らないし、もっと言えば、その人に子供が出来るという保障もないんだよ?」
義之の言葉が必ずしも仮定とは限らないことに、初めて気が付いた。女性だというだけで、普通の幸せが必ず手に入るものだと思い込んでいたかもしれない。
「もし、ゆいに仕向けられたまま、淳史がその人と結婚して不幸になったら、責任取れるの?」
そんなことを考えたこともなかった。優生にはムリな全てを、美波子は叶えることが出来るのだと思い込んでいた。

「淳史はそんなに信用できないかな?」
「え……いえ」
「あれだけ愛されてて、まだ信じられない?」
「淳史さんを疑ったわけじゃなくて……」
自分に存在価値を見出せなかった、とでも言えばいいのだろうか。
「愛されているとわかっていて逃げ出したの?」
逃げ出したというのは的確過ぎて、何も返せなくなってしまう。あの時は、もう要らないと言われるのが怖くて、その前に消えてしまいたかった。
「……ゆいは僕の母に似てるよ」
いつの間にか伸びてきた手が、優生の頬に触れる。驚いて見上げると、優しげな指はすぐに離れていった。
「そういう儚げな雰囲気とか、何も言わずに自己完結してしまうところはそっくりかもしれないな。といっても、母はゆいと違って相当に強かだったけれどね」
義之の言いたいことがわからず、先を促すように見つめる。叱咤されているのか、ひょっとしたら激励されているのか。
「実は、父があんな風になってしまった原因は母なんだよ」
“あんな風”というのが、見境のなさそうな恋愛体質を指すのか、軽薄そうな性格のことなのか、或いはもっと別なことなのかわからないが、褒めてはいないのだろう。
「父は研修医だった時に勤めていた病院で母と出逢って、結婚の約束をした矢先に、そこの院長の一人娘に見初められてね。立場を弁えて身を引こうとした母は、引き止める父に、“一介の勤務医より院長の方がいい”と言ったそうだよ。父はその言葉を真に受けて、俊明の母親と結婚したんだよ」
「え……他の人と結婚しちゃったら、義之さんのお母さんとつき合えないでしょう?」
「その頃の父は、今からは想像も出来ないくらい純朴だったらしくてね。母の言葉を、院長にならなければ別れるという風に受け取ったようだよ。実際、結婚してからも付き合いが続いたんだから、母の本心には気付いてなかったんだろうね。でも、母は僕を授かった途端に父の前から姿を消して、余命僅かになるまで一切連絡も取らなかったよ。もし病気になったのが僕が成人したあとだったら、父に僕のことは話さず、会うこともなかったんじゃないかな」
似ていると言われたが、優生にはとてもそんな長い時間を耐えることは出来そうになかった。それが、子供を持つがゆえの強みなのだろうか。

「……義之さんのお母さんは子供が欲しかったの?」
「子供というか、父の代わりが欲しかったんだと思うよ。だから、妊娠していることがわかったとき、父の元を去る決心がついたんだろうね」
その気になれば相手の未来まで縛れると思うのに、引き換えにしてしまえる潔さは、優生には理解できそうにない。
「何も言わないで離れていっちゃったの?」
「言えば拗れるだろう? その時の母には、父を思いやるような余裕はなかったんだよ。まさか、残された方が人格が変わるほどダメージを受けるとは思わなかったらしくてね」
ということは、あの破綻した性格は後天的なものだったということらしい。
「先生は、義之さんのお母さんが黙っていなくなったから人間不信になってしまったとか、そういうこと?」
「そのようだね。好きでもない人と結婚させておいて逃げたんだから、裏切られたと取って荒れても仕方ないと思うよ。もう誰かと真面目に向き合う気にはなれなくなってしまうくらいにね」
傍から見れば愚かに見えても、好きな相手の望みだと信じて結婚したのだとしたら。
「……先生は、本当は義之さんのお母さんと結婚するつもりだったんだよね?」
「母が余計な気を回さなければね。でも、母には母の理由があったんだよ。身よりも、何の後ろ盾もない自分が足枷になるのは我慢ならなかったらしくてね。父の気持ちよりも自分のプライドを通してしまったとでもいうのかな」
「ジャマになりたくないっていうのは、わかるような気がするけど」
自分には与えることの出来ない好機が向こうから来ているのに、みすみす逃すようなことはさせたくないに決まっている。
「無理をすれば、その後も歪(いびつ)になってしまうっていうことを言ってるんだよ? もし、ゆいのせいで淳史が父みたいになったらどうする?」
「まさか」
「ただの例え話じゃないよ? もし淳史が自棄になって元カノと結婚したとしても、上手くいくとは思えないからね。別れることになったら財産分与しないといけないし、慰謝料も発生するだろうし、子供ができていたら一生責任を負わないといけないんだよ? そんなに淳史を不幸にしたい?」
「……そんな風には思わなくて……それに、一度は結婚してもいいと思った人なのに」
「それは何年も前の話だよ。今の淳史が他の人と上手くやっていけるわけがないだろう? あれだけきみに執着してたのに、まさか、そんな温い愛情だと思ってた?」

「……ううん」
不安と不信に溺れそうになる前に、誰かに話すべきだったのだろう。あの時は自分の気持ちに手一杯で、離れることが迷惑をかけることになるとは思いもしなかった。
俯く優生の項へと触れてくる指に、引き寄せられそうな錯覚を覚える。義之の手はいつも優し過ぎて、優生を落ち着かなくさせた。
「わかってるんなら、淳史を犯罪者にしないうちに何とかした方がいいよ?」
「犯罪って……?」
「このままだと、きみが一緒にいた相手を殺しに行きかねないからね」
「どうして?」
戻ってからも、特に黒田のことを気にしているような言葉も態度も感じられなかった。ただ、優生の何かが淳史の気に障っているようだということは、薄々わかっていたが。
「ゆいが何も話さないから、淳史の頭の中では凄いことになってるみたいだよ?」
「どういう意味ですか?」
「その男とどういう風に過ごしていたのか聞けないぶん、あらぬ想像をしてしまうんじゃないのかな?」
意味深な表情にも、思い当たることはなかった。おそらく一度として、黒田の名前さえ話題に上らなかったはずだ。
「あらぬ想像って……?」
「ゆいは、その男のところで何をしてたの?」
「何って……食事の用意をしたり、掃除や洗濯をしたり……家事っていうのかな?」
「主婦業をしていたということ? まさか、一緒のベッドで眠って、腕枕をしてもらって? “いってらっしゃい”のキスも?」
羅列されてゆく問いは全て事実なのに、言葉だけを捉えるとまるで同棲か結婚でもしていたと言われているようで、肯定することは出来なかった。
「ゆいの顔を見ていると、蜜月を過ごしていたんだろうと思ってしまうけど?」
「そうじゃなくて……名目だけっていうか」
愛人にして欲しいと言ったから、そういった扱いをしてくれていただけで、愛のある生活をしていたわけではない。
「2ヶ月近くもいれば、情が移ってしまうのも無理ないかな」
「そういうんじゃなくて」
ただ、その場所を失くしたくないと思っていたことも事実だったが。

「淳史が迎えに行かなかったら、戻る気はなかったの?」
優生が本当に淳史と別れたがっていたのかという意味なら、違うに決まっている。ただ、戻る気でいたはずもなかった。
「……戻れるとは思ってなかったから」
「その男を淳史の代わりにしてたの?」
「そんなつもりじゃなかったけど……無意識にそうしてたのかも。その人なら、俺を離さないでいてくれると思ってたし」
最初に望んだ通り、黒田は優生を満たしてくれていた。あの生活がずっと続けば、いつか愛していたのが誰だったのかも忘れてしまいそうなほどに。
「淳史のように独占したがるようなタイプだったの?」
「ううん、俺が匿って欲しいって頼んだから……結局は、その人が淳史さんに連絡してくれたんだけど」
そもそも好みではない優生を、ずっと隠し続ける気はなかったのだろうが、終わりは突然過ぎた。もう少し惜しんでくれるかと思い込んでいた自分の甘さが、思い出しても恥ずかしい。
優生の髪に戯れていた手が、不意に力を籠めた。油断していた体が、容易く義之の胸元に抱きよせられる。
「……どうやら、ゆいは依存症のようだね」
なんとなく、その言葉は自分にしっくりくるような気がした。自立したいと思うのに、一人になることも出来ず、こうして義之と密着していても、万が一にも何かが起こるはずがないと高をくくっている。
「淳史が他の男を近付けたがらないのも無理ないな。ゆいは簡単に気を許し過ぎるよ」
それが、“他の男”に懐柔されかかっていたことを指しているのか、優生の髪を撫でている優しい指を払わないことを言っているのか、わからない。
「淳史さんは、俺のそういうところが気に入らないのかな……」
「気に入らないというより心配なんだろうね。里桜にまで妬くくらい余裕がないようだから」
「それって、俺が見境ないと思われてるからだよね」

「ゆいは疑り深いなあ」
苦笑混じりに義之が呟く。優生にとっては切実なのに、義之を呆れさせてしまったらしかった。
「そんな風に卑下してないで、少しは淳史を安心させてやってくれないかな? ゆいが気に病む気持ちもわからないでもないけど、二度も家出されたら警戒して当然だよ?」
淳史の傍を離れたせいで迷惑をかけてしまったが、戻ってもなお煩わせてばかりいる。どうすれば淳史の気に入るようにできるのかわからない。
「安心させるって、どうしたらいいの?」
「少し大げさなくらいに、もう離れないとか愛してるとか言ってあげればいいんだよ。ゆいがどこにも行かないってわかれば、淳史も落ち着くはずだからね」
その系統の言葉は、戻った日にベッドの中で何度も言わされていた。情事の合間の約束事では信用できないというのでなければ、伝わっていたと思う。ただ、それ以降は尋ねられることもなく、口にする機会はないままだったが。
「もうどこにも行かないっていう約束は戻ってすぐにしたんだけど……それだけじゃダメなのかな?」
「そうだね。ちゃんと愛されてるって、淳史にも実感させてやってくれないかな?」
「そう言うってこと?」
「できれば頻繁にね」
義之には言い慣れた簡単なことなのかもしれないが、優生には、どのタイミングで何と言えばいいのか、考えているだけで心拍数が上がってきそうだ。
「そんなに難しく考え込まなくても、そう思ったときに素直に言葉にすればいいだけだよ? ゆいは甘いことを言いそうにないから、効果覿面(てきめん)だろうね」
「でも、俺には簡単じゃないんだけど」
「言うのが苦手なら、ゆいの方からキスするとか、甘えかかってみるとか、少し頑張ってみてくれないかな?」
「……うん」
勢いに負けて頷いてしまったが、それで淳史に引かれてしまったら、今度こそ立ち直れなくなってしまうだろう。そうでなくても、淳史は積極的なのは好まないようだと思い知らされたばかりなのに。もうこれ以上、淳史の気に障ることはしたくなかった。
「話が長くなり過ぎたかな?」
義之は、優生が黙りこんでしまったのを疲れたせいだと思ったようだった。今のうちに、義之にもっといろいろと尋ねたりアドバイスをもらったりしておけばいいのだろうが、なんとなく億劫だった。
「少し休む?」
「……いいの?」
この体勢のままでは拙いのではないかと思いながら、腕から抜け出す気にはならなかった。優生から離れなくても、寝入ってしまえば下ろされるだろう。
ソファに常備している毛布を肩から掛けられて、緩く抱かれた背を優しく撫でられるうちに本当に眠ってしまいたくなる。そっと髪に絡んでくる指の繊細さは、淳史とは全然違っていたが、ずっと撫でていて欲しいと思うくらい優しかった。きっと、義之は里桜の弟のことも、こんな風に寝かしつけているのだろう。






荒げた声が、浅い眠りを妨げる。
強い力に攫われた体が宙に浮くような不安定さに、咄嗟にしがみつく。覚束ない意識でも、それが淳史のものだと認識していた。
「優生」
声は近く、瞬いた目のすぐ前に怒りの形相を見つけて固まった。思わず退こうとした優生の体がきつく抱きしめられる。
「ん」
押し付けられた唇は容赦なく、噛みつかれそうな勢いに身が竦む。
「や……っ」
起き抜けの働かない頭では状況が把握できず、貪られるに任せたキスについてゆけずに、必死に淳史の腕に縋りついた。
「……多過ぎると言いながら、どうして他の男の腕にいる?」
低い声に滲む憤りに、今は淳史の腕に捕らわれた体が震える。当事者の一人のはずの義之はいつの間に消えたのか見当たらない。
「やっぱり足りないんじゃないのか?」
優生が気に病んでいることは的外れではなく、義之が言うほど淳史は寛容ではなさそうだった。義之の胸で微睡んだことが、また淳史を苛立たせている。
「……汚れてると思ってるんならムリしないで?」
口をついた本音に、縛める腕の力が増す。
「それでまた他の男に抱かせるのか?」
追い詰めるような声に、何も返せなかった。淳史の懸念は尤もで、優生はすぐに楽な方に転がってしまう。
苦しげに眉を顰める淳史が、優生の喉元へと掌を滑らせた。その片手だけで、軽く縊られてしまいそうな気がする。
「それぐらいなら殺してやる」
低く唸るような声が、どれほど甘く響くか知らないのだろう。
そっと目を開けて淳史を見上げる。不似合いなくらい穏やかな顔に、請うように囁く。
「そうして」
それが優生の一番の望みだと知っていても、淳史が叶えてくれることはなかった。

喉を覆っていた掌が顎を伝って頬を包み、思い詰めたような眼差しで優生を覗き込む。
「……俺から逃げたいのか?」
低い声の問いは唐突過ぎて、その真意を理解する前に、新たな問いが重ねられる。
「俺の母親のことも、美波のことも、別れるための言い訳だったのか?」
「ちが……」
ちゃんと伝えたいと思うのに、見つめ返す優生を否定するように、淳史は強い口調で遮った。
「本当はあの男の所に居たかったのか?」
「そんなことない」
「迎えに行った時に帰らないと言ってたな」
「帰りたくなかったわけじゃなくて、もう戻れないと思ってたから驚いて……」
まるで優生の返事など聞く気がないというように、後頭部へ回された手に、淳史の胸元へと押し付けられる。
「前に行方をくらませた時にも、もうどこにも行かないと約束したのにな」
責めるように呟く言葉が、優生を信じられない理由なのだろう。
淳史の背に腕を回して、そっと抱きしめる。淳史に出逢うまで執着されることに慣れていなかったせいか、愛されているということをすぐに忘れてしまう。我慢しているのは自分だけだと、いつの間にか思い込んでいる。
「だって、俺は淳史さんの所を出てすぐ他の人と住んでて……約束も破ってて、元に戻れるとは思わないでしょう?」
進んで他の男の所へ行き、体を許していたのは、もう戻れないと自分に言い聞かせるためだった。他の男に触れさせるのもキスをさせるのも、もちろん浮気をするのもダメだと言われていたのに、禁止事項の主だった項目を悉く破っていて、今更どんな顔をして愛していると言えばいいのか。

「おまえは別れたつもりでいたんだろう? その間のことまでは責められないからな」
「でも」
「構わないと言ってるだろうが」
強い口調に体が震えた。構わないと思っていないから、そんな剣幕になっているに違いないのに。それでも、無理矢理こじつけてくれた解釈に、もう逆らえそうになかった。
「自分でも器が小さいという自覚はあるんだ、これ以上無様にさせないでくれないか」
「ごめんなさい……勝手なことをして、約束を破って」
思えば、出て行ったことをきちんと謝るのは初めてのような気がする。
「悪かったと思ってるんなら、これからはずっと傍にいて俺のことだけ考えて待ってろ」
「うん」
素直に頷いた優生の思いは、少しは淳史を安心させられただろうか。
「もう他の男を見るな。触るな。口もきくな」
真面目な顔をして、また横暴な条件を並べたてる淳史が可笑しくて、なのに、笑うことが出来ずに目元が潤む。
ただ頷くだけの優生に、淳史はそれまでと同じトーンで続けた。
「愛してるって言え」
「え……」
「そうしたら、全部なかったことにする」
簡単に誘惑に負けてしまいそうで、唇を噛む。
そんなことを言う資格はないとわかっていても、胸の中では思っていた。
「淳史さん……」
少し首を傾けるようにして、淳史の顔を見つめる。もう、優生の中で留め切れない思いが、唇から零れた。
「……愛してる」
泣きそうな表情が見えたような気がしたのは一瞬で、気が付けば、折れそうに強く力を籠める腕に囚われていた。
「……もう、思い残すことはないな」
掠れた声に首を振る。
「やだ、置いていかないで?」
髪に触れる手が、優生の頭をそっと上向けさせる。
「もったいなくて死ねるか」
その言葉は、優生の唇に直に伝えられた。



- Not Still Over(6) - Fin

【 Not Still Over(5) 】     Novel     【 Love or Lust(1) 】


☆ターミナル期/人生の終末期。
☆男性の平均寿命は平成18年簡易生命表によると79歳になっています。

プロットの段階で調べた時点では、平成17年のデータが最新でしたので、78,32歳でした。
お話は何れも明確に西暦等を設定していませんので、台詞の変更はしないでおきます。