- Not Still Over(5) -



「ゆいさん、大丈夫なの?」
沈み込むようにソファに座り込んだ優生の、隣へと腰掛けた里桜が、気遣わしげに声をかけてくる。
里桜が今日も学校帰りに直行してきているのは、淳史の不興を買いつつも、お目付け役に任命されたからだった。優生の買い物に付き添ったり、家に籠もっている時の退屈しのぎになれば、ということらしい。
「……見ての通りだよ」
「なんか、日増しにやつれてくみたいな気がするんだけど」
自分でもそう思うと言うわけにもいかず、曖昧に笑う。とはいえ、優生の身に起きていることが淳史の許へ戻った代償だとしたら、喜んで受け入れたいと思っていた。
「だらけてばっかりでごめん」
「ううん。疲れてるんでしょ? しょうがないよ」
「疲れてるっていうか、だるくて」
その理由も知られているのだと思うと、少し恥ずかしい。
「でも、どっちかっていうと、あっくんの方が傍にいるだけで満足してるみたいな感じがしてたんだけどなあ」
おそらく里桜の推察通りで、今の淳史はまるで強迫観念に駆られているかのように、優生の体に執着するようになっている。以前、傍にいるだけでは満足できないと、頻繁に抱かれていたいと言ったのは優生の方だった。そう欲求の強くなかったらしい淳史に、もっと求められたいとごねて無理をさせておいて、今更メンタリティの方が重要かもしれないなんて言えるはずがない。
「淳史さんはそうだったみたいなんだけど、俺の方が我慢できなくて……欲しがられたかったっていうか」
「そうしたら愛されてるって思えるの?」
「うん……淳史さんはずっと男はダメって言ってたから、俺に感じてるってわかるとホッとして……でも、次の日にはまた不安になって、何度でもして欲しくなってしまって……」
安心したままでいることは出来なくて、何度でも証を欲しがっていたのだと思う。
里桜が、優生の頭をそっと撫でる。本当に未熟で子供なのは、優生の方だったのかもしれない。

「それって、あっくんも愛されてるってことだよね?」
「うん……? そう思ってるんだけど」
「よかった。俺はねえ、長いこと、好きなのは俺ばっかりって思ってたから……本当言うと、今もちょっと思ってるんだけど……だから、どっちか片方ばっかりが思ってるっていうのはイヤなんだ」
「うん……俺も、ちゃんと好きだから」
思えば、好きなのも不安になるのも自分だけのような錯覚を起こしてしまっていて、淳史もそうかもしれないとは考えたこともなかったような気がする。
「ゆいさん? 眠るんならベッドの方がいいんじゃない?」
知らぬ間に目を閉じていた優生に、里桜の声はひどく心地良く響いた。
「ううん。寝入っちゃって淳史さんが帰っても気が付かないと困るし……里桜、肩貸してもらっていい?」
「いいよー」
少し頼りない里桜の肩へと寄りかかる。その華奢な肩は、思いがけず安眠できそうだった。
「……あっくんも、もう少しゆいさんの体のこと考えてくれたらいいのにねえ」
「ううん……俺、気持ち良すぎて蕩けちゃうから……俺が煽ってるのかも」
「……ねえ、ゆいさん? 首のトコ、指の跡みたいに見えるんだけど……?」
タートルネックのシャツを着ていても、ゆったりとした衿の隙間から跡が覗いてしまったらしい。問いに答えるのは面倒過ぎて、口元だけで笑みを返した。
「ゆいさん?」
「……記憶が曖昧っていうか……覚えてないんだ。ごめん、そろそろ寝さして?」
里桜の疑問は、優生が考えないようにしていたことだった。首を絞められて落ちかけたように感じたのは、気のせいだと思おうとしていたのに。






突然、痛みを伴うほどの力強さで腕を引かれて、穏やかな眠りが妨げられた。
心地良い場所から離させるその手の強引さは身に覚えがあり過ぎて、急速に覚醒してゆく。
「や……ん」
緊迫した空気には気付かないのか、里桜の声は寝言のようだった。優生を追うように、伸ばされた里桜の手が軽く払われる。
「他の男の腕で寝るな」
「……ごめんなさい……でも、里桜なのに」
淳史が気分を害するのは“男”相手に限定されていたはずで、里桜のことはずっと、“男のうちには入らない”と言っていたのに。
「誰でも同じだ、他の誰にも触らせるな」
苛立たしげな言葉と共に、淳史の腕に抱き直される。この数日で制限は更に狭まってしまったらしい。
「里桜にまで警戒しなくても」
呆れたような声に驚いて振り向くと、淳史と一緒に来たのか、すぐ後ろに義之が佇んでいた。
「こいつにも、優生に触るなと言ってあっただろうが」
「そこまで言うなら、もっと大事にしてあげたらいいんでしょ」
まだ眠っていると思い込んでいた里桜が、キレたような高い声を上げる。もしかしたら、里桜も寝起きが悪い方なのかもしれない。
「どういう意味だ」
「あっくんは、自分が日本人離れした大きさだっていう自覚がないの? そうでなくても、ゆいさんは華奢なのに、サイズが合ってないでしょ?」
何が、と尋ねるまでもなく、何もかもを知っているかのような里桜の言い方に、優生の方が赤くなってしまった。

「……おまえに見せた覚えはないが」
淳史も同様のことを思ったのか、怪訝な顔を里桜に向ける。
「だって、義くんがいつも言ってるもん」
「何て?」
「あっくんみたいな規格外のでガンガンやったら、ゆいさん壊されちゃう……っ」
「里桜、言い過ぎ」
急いで駆け寄ってきた義之の手は間に合わず、何気なさげでいて随分な里桜の言葉は殆ど発せられてしまった。
「こいつじゃなくて、おまえが言ってるんだろうが」
「まあ、否定はしないけどね。でも、こんな首の詰まった服しか着られなくなるようなことをしなくても、ゆいが淳史のだっていうことはわかってるよ? 里桜も僕も、もちろんゆいも」
優生が隠したいと思ったものがキスマークではないことを、義之が知っているはずがないのに、タートルネックの中を見透かされているようでドキリとする。
「拘束も監禁も出来ないとなると、手段が限られてくるからな」
「それで足腰立たなくなるほど責めてるのか?」
「やだ、義くん、やらしー言い方しないで」
「里桜ほどじゃないと思うけど」
「何とでも言え。これでも随分我慢してるんだ」
連夜、気を失いそうになるほどしつこく抱いておいて、まだ我慢していると言う淳史がそら恐ろしい。
「……淳史は少し頭を冷やした方がいいんじゃないかな? そんなに追い詰めたら、また逃げ出したくなってしまうよ?」
「あ……っ」
まことしやかな忠告を真に受けて動揺したのか、淳史は一層きつく優生を抱いた。息が上手くできないくらい、腕に絞め付けられる。
「やっぱり繋いでおくか?」
囁く声はひどく優しくて、まるで睦言のように響く。本当は優生がそれを望んでいるのかもしれないと思ってしまうほどに。
「淳史がそこまで重症だとは思わなかったよ。道理で、ゆいの線が細くなる一方なわけだね。そうとわかった以上、今日は食事させるまで帰らないよ?」
義之はいつになく強引に、その言葉を実行した。




「ゆいは元から小食なの?」
早々に箸を置いた優生に、義之は少し不満げな顔を向けた。里桜の大食漢ぶりを見慣れている義之からすれば、優生の食事量の少なさが際立ってしまうのだろう。
「俺、人より胃が小さいみたいで……すみません、せっかく緒方さん残ってくれたのに」
優生に向けられている、咎めるような視線の意味がわからず、暫く義之と見つめ合うことになってしまった。
「あ、ごめんなさい。義之さんって呼ぶことにしたの、すっかり忘れてて……」
顔色を変えた淳史に、胸倉を掴まんばかりの勢いで義之から隠すように脇へとやられる。こんなことさえ、淳史の気に障ってしまうらしい。
「何で名前で呼んでやる必要があるんだ?」
「淳史だって、里桜に“あっくん”なんて呼ばれて、満更でもない顔をしてるくせに」
「そうだよー。義くんだけ“緒方さん”なんて呼ばれてるの、ヘンでしょ」
里桜が、優生とは全く違った所を気にしていたと知って驚いた。ほんの少し、里桜が“あっくん”と呼ぶことに対して蟠りを抱いていた自分が恥ずかしくなる。
「それなら俺のことも名字で呼べばいいだろうが」
「えー」
「でも、ゆいも“工藤”なんじゃないのか?」
「あ、そういえば籍入ってるんだもんね。やっぱ、あっくんが慣れるしかないよ」
渋い顔をしている淳史を軽く無視して、義之は話を戻した。
「そんなことより、ゆいをこれ以上痩せさせないようにしないといけないね。もし、ゆいがどうしても食べられないんなら、輸液で栄養補給するとか、何か考えないといけないんじゃないかな」
「義くん、輸液って何?」
「血管から栄養剤や薬剤を入れることだよ、点滴って言ったらわかるかな?」
「ああ、風邪こじらせた時とかにするやつだよね」
こういう話になると、食べられないなら鼻からチューブを入れると言われたことを思い出す。今更ながら、脅迫まがいのその言葉のおかげで、黒田の所にいる間は体調が安定していたのかもしれないと思った。

「俺、一遍にたくさん食べられないだけだから……そんなに心配してもらわなくても大丈夫です」
「目に見えて痩せてきているのに見過ごせないよ。今の淳史は自分のことでいっぱいいっぱいのようだしね?」
確かに、淳史の許へ戻った途端に優生はまた痩せてきている。それは優生が食欲がないからだけではなく、怒りに任せた淳史に求められるまま食事も摂らずに抱き合って、そのまま寝入ってしまうことが度々あったからだった。
目が覚める頃には大抵朝になっていて、朝食の用意をするために疲労の抜けない体を起こす。どういうわけか、優生が戻って以来、淳史は家で食事を摂ってから出勤するようになっていた。淳史が家を出る時間は少し遅くなったが、優生は用意をするぶん早く起きなければならなくなっている。
淳史を送り出してから、残りの家事をこなしつつ、だらだらと過ごすうちに直に夕方になり、里桜が来る。里桜につき合って軽く何かをつまむ程度で胃は満足してしまい、食欲は日増しに減退してしまっていた。
「……そんな暇ないんじゃないのか?」
義之の言い分はいちいち尤もで、淳史にしては珍しく、まともに反論する気にはならないようだ。
「もうすぐ引っ越して来るんだし、これからも里桜と行き来するんだろう? 余分に時間がかかるとは思わないよ。それとも、僕じゃ不満だということなら父に往診するように言おうか?」
「俺は緒方さんの方がいいです」
淳史が答える前に急いで言い切る優生に、義之は複雑な笑いを返しながらも、訂正させることを忘れていなかった。
「まだ“緒方さん”なの? 一応、淳史の了承は貰ったと思うけど?」
「ごめんなさい、義之さんの方がいいです。でも、点滴はともかく、鼻腔(経管栄養)はイヤなんですけど」
「するわけがないだろう? ゆいは嚥下障害もないのに。それに、なるべく食事で栄養を摂ってもらいたいと思ってるしね」
どうやら黒田の脅し文句は大げさなものだったらしいと知ってホッとした。それでも、周囲にこれ以上の負担をかけないためにも、食事を摂る努力はしなければならなかった。




義之と里桜の言葉が効いたのか、淳史はベッドに入っても優生を腕に抱いているだけだった。
何か言いたげでいて核心には触れないのはいつも通りで、体は睡眠を要求しているのに、気になって眠ってしまうことはできない。
髪や頬を撫でていた手が唇に移り、開かせるように触れてきた。淳史の気が変わったのかと思ったが、視線からはそんな甘いものは感じられない。
気まずさに目を逸らすと、指は優生の唇を割って中まで入ってきた。
「……銜えるのが好きなのか?」
聞き取れないほど低められた声は、尋ねることを躊躇しているからなのだろう。決して蔑むような表情ではなかったが、優生が口にも入れて欲しがっていると思っているようだった。そうしたいのは紛れもない事実だったが、おそらく、淳史の考えているような意味ではないだろうと思う。
「そういうわけでもないんだけど……」
「悪いと言っているわけじゃない」
元から優生の恋愛の対象が男だったからといって、それが好きというわけではない。ただ、無性に知っておきたいと思っただけだったのに。
「おまえがしたいんなら」
「ううん」
言いかけた淳史の言葉を遮って、肩を抱く腕から抜け出す。
また淳史に嫌な思いをさせるくらいなら、もう二度と触れなくても構わない。
「優生」
苛立たしげな声と強い腕が、優生の体を引き戻す。淳史の体の下へと敷き込まれて、強い目で見据えられると、何を求められているのかわからず戸惑ってしまう。
「おまえは、どうしたいんだ?」
「どう、って……?」
「足りてるのか、過ぎるのか、俺のやり方が気に入らないんなら正直に言え」
「えっ……?」
一瞬、自分の耳を疑った。まさか、優生が淳史を気に入らないと思うことなど、あり得ない。
「おまえは何も言わないからな。負担になっているのはわかってるんだが、“適量”がわかりにくいんだ」
決して、足りないとは思わない。ただ、与えられるものなら、いくらでも愛して欲しいと望んでしまうだけで。
それが負担になっているのはお互いさまのはずで、淳史には仕事もあることを思えば、なるべくセーブするべきなのだろう。
「……ちょっと多いかな」
「そうか」
優生の返事を信用したのか、淳史は体勢を入れ替えて、いつものように優生を腕に包んで眠りについた。



- Not Still Over(5) - Fin

【 Not Still Over(4) 】     Novel       【 Not Still Over(6) 】


蛇足ですが、淳史が“随分我慢してる”のは性欲ではないですー。

☆鼻腔経管栄養とは、鼻腔から胃へチューブを通して栄養を供給する方法です。
食物や薬剤が経口から摂取できない患者さん(高齢者など)に対して行います。
(経管栄養というのが一般的ですが、うちでは鼻腔と言っています。)