- Not Still Over(1) -



「腹へってないか?」
「うん」
ほぼ、淳史から振られる差障りのない会話が間をつなぐ。
淳史が本題を避けているのがただの先延ばしに過ぎないと、忘れてしまいそうなほど穏やかな時間を過ごすうちに、優生の緊張も解けかけていた。
半時間ほどのドライブで、淳史の気も落ち着いたように見える。優生も、なるべく素直に話し合いに応じられるよう、心の準備をしておこうと思っていた。

地下の駐車場に車が停まると、淳史を追うように狭い空間から出る。
なぜか、密室で二人きりだった時間より、外へ一歩踏み出した今の方が居心地が悪いような気がした。
淳史が近付いてくるほど、解けかけていた緊張にまた支配されてしまいそうになる。足を進めることの出来ない優生の、背を促す掌に体が固まってゆく。
「行くぞ?」
訝しげに声をかけてくる淳史に小さく頷いて、慣れた通路を通って部屋へと向う。もう二度とここへ来ることはないと思っていたぶん、懐かしいというより落ち着かないような気分だった。
「セキュリティは大事だが、これだけ防犯カメラに囲まれるとキスひとつできないな」
冗談とも本気ともつかない口調に、曖昧な相槌を返して慣れた通路を行く。
5分とかからず着いた部屋の、ドアを開けた淳史の無言の圧力に背中を押されるように、中へと足を踏み入れた。
「優生」
囁きと同時に、堪りかねたように背後から抱きしめられると息が止まるかと思った。
短くはないブランクが、淳史に触れられることだけでなく、傍にいるだけで激しい緊張を伴わせている。
髪へ鼻先を埋めるように近付かれると、抑えようもなく体が震えた。
まるで、他の男と同棲紛いの関係にあったことなど知らないかのように振舞う淳史と違って、優生は昨日の続きを始めるように元に戻ることは出来そうにない。
「……本物だな」
噛み締めるような言葉の意味もわからず、優生はただ抱きしめられた腕の中で身を竦ませた。


夢見心地から覚めて、淳史が傍にいることが現実だと認識するにつれて、優生の緊張は増していった。
抱擁から伝わってくる、愛おしいという感情に胸が潰れそうな気がする。優生が黒田の所にいたことも、ただならぬ関係にあったことも、淳史の耳に届いているはずなのに。
会えて嬉しいと思うことを阻む罪悪感が、優生を頑なにさせる。ずっと、会いたいとか触れたいとか思わないようにしてきたのは、もう戻れないと自分に言い聞かせるためだった。
立ち尽くす優生を促す腕に連れられるまま、ソファへ辿り着く。淳史と向かい合うように膝に乗せられる体勢は今の優生には心苦しく、顔を上げることが出来なかった。見つめ合う資格がないことなど、最初からわかっている。
そっと頬を撫でる大きな手は優し過ぎて、いっそう優生を居た堪れなくさせると、淳史は思ってもいないようだった。
覗き込んでくる淳史と目を合わせられず、かといって振り切るわけにもいかずに瞼を伏せる。
「優生?」
答える言葉が浮かばず、小さく首を振った。覚悟をしていたつもりでも、いざとなると話し合う勇気はどこかに消えていってしまう。
頬を包んでいた手が後頭部に回され、淳史の胸元へと抱きしめられると、暴走する自分の心臓の音が聞こえてきそうだった。どうすれば、ずっと閉じ込められていたいと思っていた腕を拒むことが出来るのか。
「怒っているとでも思ってるのか?」
ため息のような淳史の言葉は、優生の怯えた態度を思い違えているようだった。もちろん、それを否定するつもりはない。
「まあ、怒っていないと言えば嘘になるが」
穏やかな口調でも、優生を震わせるには充分だった。淳史に心労をかけた罰を受ける時が来たのだと、わかっているのに。
「一方的な別れ話で行方をくらませるのはルール違反だろう?」
遂に始まった審判に、優生は殊勝な気持ちで臨まなくてはいけないと思った。

「おまえは必要なことも言わないからな。自己完結する前に、俺に話せよ?」
それが何を指すのかわからず、優生は項垂れたまま、淳史に返す言葉を探した。
「……俺はそんなに信用がないのか?」
かろうじて首を振って否定しながらも、答えることの出来ない優生に、淳史は抑え切れない何かを滲ませながら続けた。
「俺は既婚だという自覚があるからな、誰に口説かれようが縁談を持ってこられようが、即答で断ってきたんだ。指輪を外したこともなければ、他の誰かに揺れたこともない。こんな一途な旦那を捨てようなんて酷い嫁はおまえくらいだろうな」
「……ごめんなさい」
「少しは否定してくれないか?」
「ごめんなさい」
決して捨てたわけではなく、逃げ出してしまったのだったが、そう言ったところで淳史を納得させられるとは思えなかった。
優生の髪に触れる手は、無理に顔を上げさせようとはせず、殊更やさしく撫でるばかりだ。
「電話で俺に言ったのは本心か?」
「え……と」
「本当は学校に行きたかったのか? そんなに窮屈だと思ってたのか?」
尤もらしいと思ったから選んだ言い訳だったが、今更ながらその効果に驚いた。優生の意図に反して、淳史の気を病ませる結果になっていたようだ。
「そうじゃないけど……俺、このままじゃニートだよ? もし淳史さんが事故や事件で突然いなくなったりしたら、どうやって生きていけばいい?」
「そのために養子縁組したんだろうが。遺言も書いてあるし、生命保険の受取人もおまえにしてあるから心配するな」
「……経済的な話をしてるわけじゃないんだけど」
育ての親だった祖父が亡くなった時に相続は放棄したが、優生は他の親戚には内緒で生前贈与を受けていた。通帳は産みの親に預けているが、キャッシュカードは優生が持っている。淳史には話していないから知らないのだろうが、本当は経済的な心配は無用なのだった。

「俺には、おまえの方が長生きするようには思えないが」
確かに、一見しただけで貧弱そうだとわかる華奢な優生が、淳史より長生きするとは考え難い。
「でも……学校に行かないなら就職するとか、せめてバイトくらいはしないといけないでしょう?」
まだ十代の優生が、学校に行くわけでもないのに、働きもせず庇護されているというのは、世間体も悪いだろう。だから、黒田の所にいる間も夫婦を装っていたのだから。
「それも、俺の母親に言われたのか?」
「え……」
思いもかけない言葉に、一瞬我を忘れて淳史を見つめてしまった。
久しぶりにまともに見る厳つい顔立ちは幾分痩せて、穏やかさを失くしてしまったような気がする。それほども殺伐とした雰囲気を纏わせてしまったのは他ならぬ優生で、改めて罪悪感に胸が詰まった。
「俺の母親が今にも死にそうだと思って別れようとしたんだろう? おまえに何を言ったのかは聞いた」
「そういうわけじゃ……ただ、俺には淳史さんのお嫁さん役は務まらないと思っただけで」
この期に及んで庇う意味があるとは思えなかったが、決して淳史に親と仲違いしてもらいたかったわけではなかった。優生より親を取ると言われるのは当然のことで、自分を選んで欲しいと思ったこともない。ただ、祝福してもらえなくても、淳史の傍にいることを黙認してもらえたら、それ以上を望むつもりはなかった。
「そういうプレッシャーをかけられたんだろう? すぐに気付いてやれなくて悪かった」
また伏せてしまう優生の頭を、そっと後ろから抱き寄せられる。近付くほどに、止め処なく胸を溢れてくるものに抗いきれず、淳史の首へ腕を回して抱きついた。
高鳴る鼓動は、淳史の腕の中にいると実感させてくれる。抱き返してくる腕から伝わる愛おしさに、体中が甘く痺れてくるようだった。
どうして離れていられたのかわからない。こみあげてくる思いは優生の中に留めておくことができず、淳史の肩を濡らした。

あやすように、大きな手が優生の髪を撫でる。似たような優しい仕草でも、優生が感じるものは異なっていた。
「……俺の親のことなら気にしなくていい。ガンといっても初期だったからな。わかったばかりで動揺して、おまえにきついことを言ったんだろうと思う」
淳史の母親のことを思い出すと、また劣等感と自責の念に囚われてしまいそうになる。気に入られなかったことも、淳史が本当は上手くやって欲しいと思っていただろうということも、忘れてはいけなかった。
「ごめんなさい……上手く、つき合えなくて」
「無理してつき合わなくていいんだ。母親が再婚した時に俺は相手の籍に入ってないし、姓も亡くなった父親のものだからな」
「でも」
「俺が心底惚れた相手を否定して別れさせようとするような親なら、つき合う必要はない」
優生が行方をくらましたせいで、淳史に二者択一を迫ることになってしまったようだった。決して、淳史を試したわけではなかったのに。
「……病気で先が短いかもしれないから、早く結婚して孫の顔を見せてほしいって思うのは当たり前のことだってわかってるから」
「当たり前じゃない。誰にも、明日も生きていられるという保障はないんだからな。俺かおまえが事件や事故に巻き込まれて、先に死なないと言い切れるか? 余命が短ければ何でも通るのか? 大体、普通に結婚してもらいたいとか孫の顔が見たいというのは親の身勝手だろうが」
理屈は合っているのかもしれないが、普通に考えれば淳史の言い分の方が身勝手に聞こえる。
「……やっぱ、横暴だ」
「何だって?」
「ううん……淳史さんは揺るぎなくて、羨ましいよ」
「おまえが人に惑わされ過ぎるんだろう? 親だからといって思い通りにしようとする方に問題があるんだ」
だから淳史に惹かれるのかもしれないと、今更のように思った。いつも迷ってばかりの優生を、強い腕で引き寄せる。その強引な抱擁が、優生の一番欲しかったものだと知っているかのように。
それに依存してしまったら、もし淳史を失うような事態に陥った時、優生に耐えられるのだろうか。


「……あの人は?」
むしろ、もう一人の手強い相手の方が優生を遠ざけさせる原因になっていたと思う。淳史のことを思い出すたびに一緒に現れて、優生の劣等感を煽った、淳史の好みを具現化したような女性。まだ淳史と続いているとしたら、優生はまた逃げ出したくなってしまいそうな気がする。
「嫌な思いをさせて悪かったな。もう二度と会うことはないから忘れてくれ」
「え……」
驚く優生に、淳史は事も無げに返した。
「おまえの代わりにはなれないと納得していたからな。もう関わることもないはずだ」
「……ごめんなさい」
その人が淳史と話すのも、触れるのも我慢できないと思っていたことは、とっくに見抜かれていたようだ。けれども、淳史に気を遣わせて、ただのつき合いさえも断ち切らせてしまったのだとを思うと、素直に喜ぶことは出来なかった。
落ち込む優生の心情は正しく伝わっていないのか、淳史の口調が少しきつくなる。
「俺は、おまえと籍を入れる前から、他の誰とも結婚する気はないと言っておいただろうが。もしおまえに振られたら、俺はその後一生独身で過ごさなけりゃならないんだからな?」
だから置いていくなと、目で語る。その瞬間に、全てが優生の疑心暗鬼だったことに気が付いた。
知っていたはずなのに。淳史が他の誰かを代わりにしないことも、優生を切り捨てたりしないことも。どうして他の人の言葉に流されて、淳史を信じられなくなっていたのだろう。
「何か反論があるなら今のうちに言え」
切羽詰ったような雰囲気が怖い。心なしか、優生を抱く腕に力が籠められたような気がする。
「ううん……」
「そうか」
淳史が話を終えるのと、立ち上がるのはほぼ同時で、その腕に包まれた優生の体がふわりと宙に浮いた。


大事そうに腕に抱かれたまま、懐かしいベッドへ辿り着く。もっと見つめていたいと思うのに、淳史の吐息が唇に触れるのを感じると自然に瞼は閉じてしまった。
軽く重ねられた唇は優しく、もどかしいくらいにそっと優生に触れてくる。淳史の首へ回した腕にギュッと力をこめると、背に回された腕に、そっとベッドへ倒されてゆく。
開いた唇を舐める舌に早く触れたくて。
伸ばした舌に絡む淳史の舌に吸われ、擦られるうちにすぐに体は熱く火照ってゆく。どこもかしこも、早く淳史を感じたくて焦れったい。
執拗なまでにキスをくり返しながら、大きな手が優生の体中を確かめるように触れる。
胸の先を摘んで、指の腹で弄って、甘く爪先を立て、淳史は優生の体が跳ねるのを見つめている。色づいて膨らんだ突起を唇と舌で包み、緩く強く吸っては優しく歯を当て、優生の反応を窺いながら、愛撫が強いものに変えられていく。
「ああ……っん……ん、ん」
感じて濡れる優生の前へと伸びた掌に包まれて緩く擦られただけで、体の奥が疼いて身悶えた。請うように開いてしまう内腿を這う指が、奥へと忍んでくる。
「あっ、あん……あんっ」
差し入れた指を馴染ませながら、何度も出入りをくり返して優生の弱い所を突く。背を仰け反らせて感じ入る優生の耳元を噛むように、熱い息が触れた。
「優生……」
「ん、はっ、あんっ……あ……ぁん」
圧倒的な質量で優生を開いてゆく淳史のものは、体が覚えている感覚を凌いでいるようだ。
ゆっくりと優生の中を擦っては引き、感じる所を掠めて奥を貫く。時間をかけた繋がりに焦れて腰を振る優生を押え込むと、淳史は容赦なく突き上げ始めた。
「ひぁっ……あ、あん、んっ……っく」
きつく腰を打ちつけられるたび、確かに淳史が優生の中にいると実感する。それは淳史も同じらしく、荒い息遣いが耳をつく。
「優生……」
切羽詰ったような声に、淳史の方へと腕を伸ばす。
その腕を取った淳史は、優生の体を抱き起こすと、一旦動きを止めて強い力で抱きしめた。しがみつく優生をゆっくりと揺すって、繋がったままの体を更に深めようとする。
「ん……ああっ……ん」
満足する理由など、知っていたはずなのに。
優生は体だけではない充足感に、ただ酔いしれた。






「……っ」
体に走る痛みに上げようとした声が上手く出なかったことに驚き、少し遅れて喉の痛みに気が付いた。
瞼が腫れぼったく、ずいぶん泣いてしまったらしかった。腰はだるく、体の奥に残された痛みと熱っぽさで、まともに座るのはムリそうな気がする。
淳史の気が済むまで優生が誰のものなのか確かめ合ったあとの、泥のような眠りから覚めても、依然として解放する気にはならないらしい。
「……優生」
やや張りのない声は、淳史も疲れているのだろう。それでも、力強い腕で優生の体を抱き直した。離れていた時間を一気に埋められるはずがないのに、淳史は取り戻そうとしているかのように優生を腕に閉じ込める。
少し緩めて欲しいと言いたくなるほど強く抱きしめられた腕の中で、そっと淳史を窺った。
「っあ……」
僅かに掠めただけで、剥き出しの胸の先が痛む。さんざん弄られて吸われた名残は、生々しい赤を伴ってその激しさを物語っていた。
何度抱かれたのかわからない。途中で意識を飛ばしては引き戻され、何度も優生の中を濡らされて、泣きながら許しを請ったことがぼんやりと思い出された。熱にうかされたように口走った言葉が過ると、恥ずかしさで顔が上げられなくなってしまう。
「優生」
焦れたような声が唇に触れる。思わず抗う素振りを見せた優生を、奪うようなキスが襲った。
身じろぐことも許さないというように、淳史の手が頬を固定する。深く舌を絡められて、貪るように熱心に吸われると、頭の芯がクラクラと揺れた。
「ぁっ……はぁ、ん」
また抱かれるのかと本気で怯えたころ、漸く唇が離れて、優生の頭を包むように胸に引き寄せられた。
「本物、だよな」
一瞬、言われた意味がわからず、少し遅れて頷いた。そういえば、戻った時にも言われたような気がする。
実感するかのように、淳史はもう一度腕にギュッと抱きしめて髪を撫でた。
「ずっとこうしていたいところだが、さすがに何か食わないといけないな。起きられるか?」
「……たぶん」
自信はなかったが、一応起きる努力をしてみる。もちろん、腕にも腰にも力が入らず、体は起こせそうになかった。
「悪かった、無理しすぎたな」
言葉ほど反省しているようには感じられなかったが、淳史は優生の体を抱き起こして、膝に乗せた。
そのまま立ち上がるかに思えて、慌てて止める。
「待って、俺、何も着てないんだけど」
「どうせ風呂に入らないといけないだろう? 拭いたくらいじゃ取れないぞ」
赤くなる優生を腕に抱いて、淳史が立ち上がる。もう、引き止める言葉を言う方が恥ずかしくて、黙って身を預けた。




風呂を上がって場所をソファに移しても、状況は何ら変わっていないようだった。
淳史の膝の上に乗せられて、胸元に抱き寄せられるのに任せて身を預ける。 できれば、この気持ちの良い胸の中で、ただ微睡んでいたい。
「ひとつだけ約束してくれないか」
優生を睡魔に取られてしまいそうだと気付いているのか、少し掠れた声が頭の上から降ってくる。
「これから先どんな事情が出来たとしても、連絡がつかないような状態にはならないでくれ」
「うん」
まだ約束をさせようとする淳史にホッとしながら、確りと頷いた。



- Not Still Over(1) - Fin

【 Hide And Seek(6) 】     Novel       【 Not Still Over(2) 】    


ちょっと意味深なタイトルにしたかったので。
でも、良い方に取ってください。

加筆分がちょっと強引な繋ぎになったかもですが、これでせいいっぱいなんです……。
やはり、12話をブログで書くのは無理だったのかもしれません。