- Hide And Seek(6) -



「俺、年下だし、もうちょっとくだけた感じで喋ってもらいたいんですけど、ダメですか?」
時間の経過と共に親密な関係が築かれてゆくものだと思っていたが、黒田の口調はいつまで経っても他人行儀な距離を保ったままのようだった。油断すると、優生の方はつい崩してしまいそうになっているというのに。
「相手や年齢に関係なく、こういう感じなんですが」
「疲れないんですか?」
「くだけて、という方が難しいんです。私は九州から来ているので、こちらの言葉に上手く馴染めていないので」
「そうなんですか? 全然、そんな感じしないですよね」
「もう7年目ですからね、さすがに抜けたんでしょう。もしあなたが疲れるようでしたら、普通に喋っていただいて構いませんよ?」
「でも……」
7つも年上の相手が優生に敬語を使っているのに、自分の方だけがタメ口をきくというのも抵抗がある。
「そういう所は固いんですね。そんなに気にしないでください。私も気にしませんので」
「じゃ、そうします」
少しずつ気を許していければ、いつかは自然なもの言いが出来るようになるのだろうか。いつかというほどの時間があるとは思えないのに。

黒田に、優生のことを好きではないと言い切られた時に、いつまでも此処にいられるわけではないことを再認識させられた。ともすれば、ぬるま湯のように楽なこの場所にずっと居られると勘違いしてしまいそうになっていた優生を戒めるような言葉だった。
始める前から、終わりは黒田が決めていいと約束していたが、それはおそらく稲葉が戻るまでということで、リミットはそれほど長くないのだろう。
その頃にはほとぼりも冷めているはずで、優生は身の振り方を考えなければならなくなる。
一人で生きてゆく自信は未だなく、依存し過ぎる自分を変えられるとも思えない。要らないと言われたら、もう次の相手を探す気力もない優生はどうすればいいのだろう。愛してくれなくても、気まぐれに優しさをくれる男の腕を解かれてしまうのは怖かった。




「ゆい?」
軽い睡眠から先に起き出していたらしい黒田の声に、ぼんやりと焦点の合わない瞳を向ける。
優生が血圧が低く寝起きが苦手なことを知らない相手は、まだ頭が上手く働いていないことには気が付いていないようだった。
「……ごめんなさい……もう、時間?」
億劫な体をベッドに横たえたまま、気持ちだけは起きなければと思うのに、すぐには血液が体に回っていってくれない。
「いいえ、まだ2時過ぎですよ。今日は夜勤ですから、一人で留守番できるか心配になりましたので」
「え……と、あの?」
何を言おうとしているのか皆目わからず、黒田を見上げた。片膝をベッドについて優生を覗き込む相手は、いたずらっ子のように笑う。
「一人寝は淋しいんでしょう? おもちゃでも買ってあげましょうか?」
言葉の意味を全て把握できなくても、何となく黒田の意図は伝わってくる。
「いりません」
よからぬ気配に怯えて首を振る優生に、黒田は満面の笑みを浮かべた。
「では、自分で慰めますか?」
「いや」
Tシャツの裾から入ってきた大きな掌が素肌を伝う。正確に突起へ辿り着く指先に擦られて、背を仰け反らせた。
「……ぁんっ」
キュッと摘まれて爪先を立てられると、どうしようもなく甘い痺れに全身を支配されてしまう。力の入らない体から、容易くハーフパンツと一緒に下着を抜かれ、膝を立てた姿勢で腿が開かれてゆく。
「え」
掴まれた手首を引き寄せられて、指先へと冷たい液体が落とされる。わけもわからず振り仰ぐと、黒田の目元が細められた。
「自分で、と言ったでしょう?」
「いや」
振り解こうとする腕は思い通りにならず、晒された腿の奥へと押し付けられるのを止めることが出来ない。
「やめて、お願い」
本気で怯える優生に、黒田は意外そうな顔になった。
「自分でしたことはないんですか?」
「……どうして、こんなこと」
「私の夜勤のたびに、あなたが眠れずにいるかもしれないと思うと気にかかりますから。対処法を考えないといけないでしょう?」
「別に眠れなくても……聖人さんが帰ったら一緒に寝ます」
「可愛いことを言いますね。でも、私もあなたがどういう風に慰めるのか見てみたいんですよ」
あからさまな言葉に、一層不安が募る。どう言えば回避できるのか、考えても考えても頭はパニックに陥ったように何も思い浮かばない。
「ほら、いつまでも初心そうな顔をしてないで」
手首を引かれて促されると、観念するしかなさそうだった。そっと、濡れた指を近付ける。入れるどころか、触れることさえ指が震えてままならない。
「あなたは最初だけは慎ましいですから、一本ずつゆっくり慣らした方がいいですよ」
何とか言われた通りにしようと思っても、拒むように閉じたままのそこへ指を入れるのは思った以上に困難だった。潤滑剤の力を借りて少しずつ、指先で探ってみても、誰かがしてくれる時のように、上手く緩めることは出来そうになかった。
何も考えずに流されてしまうことも、逆らうこともできず、閉じた瞼の端から涙が滲む。
「見られて興奮するタイプじゃないとは意外ですね」
内腿を舐めるように近付く吐息が、不意に体の奥に火を灯す。自分の指ではなく、この唇に触れられたらすぐに高められるのにと思うと、それは瞬くうちに全身に広がっていった。
軽く肌に触れた唇が、日に当たることのない生白い腿に薄っすらと跡を残して這い上ってゆく。
「少しはその気になってきましたか?」
微かな兆しに触れられて腰が跳ねた。して欲しいと言ってしまいそうな唇を噛む。
「そんな細い指じゃ物足りないんでしょう?」
優しい声が、いっそう意地悪く響いた。腕を伝う手が、優生の指先へと伸びてゆく。
「あぁっ……ぁんっ」
優生の指ごと押し込まれて、自分のではない黒田の感覚に悦ぶようにビクビクと震えた。欲しいと言ったも同然の反応に真っ赤になる優生を、意地悪な声が煽る。
「ここがいいんでしょう? どうして自分でしないんです?」
「あぁっ……」
敏感なところを指の腹で擦られて、揃えた指で激しく突き上げられる。それに合わせるように腰を揺すって高みへ駆け上がろうとするたびに、躱すように動きを緩められてしまう。はしたなく開いてゆく脚の間で涼しげな顔をしている黒田に、止めを刺されるのを待ち詫びた。
「……いや……意地悪、しないで」
「自分で出来るようにならないと困るでしょう?」
「いや……あっ……ぁんっ」
「いいんですか、このままで?」
そんな悪人面でもないくせに、優生に意地悪を言う黒田はまるで鬼畜のように見える。
「いや、お願い……も、いかせて……」
指を追って腰を揺すりながら、涙声で訴える。確かな刺激が欲しくて縋るように見上げた。
「……反則ですよ、私は見るだけのつもりだったんですが」
黒田が声を掠れさせた理由はすぐにわかった。
ベッドへ仰向けに横たわったままの優生の頬を撫でる掌と、熱を帯びた眼差しが、欲情を露にする。素早く服を脱ぐ黒田から目が離せない。
顔を跨ぐように膝を付かれて、半ば立ち上がったものを鼻先へ付きつけられても、抵抗感はなかった。軽く頭を上向かせて、唇を薄く開く。片手を伸ばして指で掴み、先端から根元へと上下させながら、先だけを唇に収める。わざと音を立てて舌を絡めて吸いながら、育ってゆくそれが優生の後ろへ入ってくることを思って一層体を熱くした。
黒田の呼吸が荒くなり、太い血管を浮かせて膨らんだものが優生の呼吸を妨げる。
唇を外そうとしたのを見越したように、黒田の掌が頬を包んだ。
「自分で口でと言ったんですから、ちゃんと銜えてください。喉を開いて、もっと奥まで」
黒田の手が、髪をかきあげるようにして優生の顔を上向かせた。首の後ろを引き寄せられながら奥を突かれると、苦しさで涙が滲んでくる。
「ん……っう」
逃れようと首を振ろうにも、黒田の両手が許さず、口の中で弾けるものが頬の内側を打つ。息苦しさに離そうとするほどに押し込まれて、生理的な涙が滲む。
「ダメですよ、最後まで面倒を見てください」
「……っは……う、っく」
喉を打つ白濁に咽せながら、何度となく注がれるものを嚥下した。
優生の唇の端から零れたものを拭う黒田の指へと舌を伸ばす。口の中へ含んで、舌を絡めて丹念に舐めた。早く止めを刺して欲しいという一心でその長い指を濡らす。
「指でいいんですか?」
ぞっとするほど優しい声に、魅入られたように頷く。知らぬ間に思い通りに操られているとわかっていても、誘惑に逆らうことは出来なかった。
「ん、ぁん、あ……ん」
また焦らされると思っていたが、黒田の指は優生の弱い所を執拗に擦り、激しく突いて追い上げ、燻っていた熱を解放させた。
浅く早い呼吸で胸を上下させながら、優生は抱かれた後のような疲労感に、体を起こすことが出来ずにいた。気だるさに横たわったまま、大きな手が髪を撫でるのに任せて目を閉じる。
「眠れないようなら眠剤をあげましょうか?」
「……睡眠薬?」
黒田の勧めるものには裏があるような気がして、つい疑うような口調になってしまう。
「睡眠導入剤といった方が正しいかもしれませんが」
「眠れるようになるんですか?」
「寝付けるということですよ。朝まで眠れるわけではありませんが。クセになりますし、使い続けると効かなくなりますから、私の夜勤の日だけ飲んでみますか?」
「じゃ、一応」
おそらく使うことはないだろうと思いつつ、もらっておくことにした。






「ゆい」
声に籠められた誘いに応えるように、優生の体の奥が疼き始める。求められることを望んでしまうのは黒田といても変わらず、いっそ貪り尽くされて壊れてしまえばいいのにと思う。
それを知っているかのような優しい唇が返事を塞ぐ。深く差し込まれ、口の中を撫でる舌が優生を惑わせる。好きではないと言いながら、まるで恋人にするように甘く執拗に優生にキスをくり返し、深い所へ火種を撒き散らす。
「男だと知らなければ、今のあなたの顔を見ながらでは抱けませんね」
ため息のような囁きは、流されるばかりの優生の女々しさを皮肉っているのかもしれない。
優生の衣服を緩めてゆく手が、確かめるように前を探る。激しく扱きながら、別な手が後ろを探る。無遠慮な太い指が中をかき回し、弱い場所を擦り、奥へと沈んでゆく。
「んっ……は、ぁん、んん……」
慣れた指が突く的確なスポットから生まれる官能が体中に広がる。狂おしいほどの衝動に身を捩りながら、逃れ切れずに捕らわれてしまう。
本当に欲しいのは好きな男のものなのか、結局は誰のものでも良いのかわからなくなってくる。今はただ、愛して欲しいと乱れる体を満たしてくれる身近な相手に縋らずにはいられなかった。
「あ、あ、ぁんっ……おねがい、も、う」
「やっぱり、入れられないと満足できないんでしょう?」
意地悪な問いが事実なだけに、答えることができなかった。強い刺激に慣れた体はすぐに蕩け出して、アイデンティティなど根こそぎ奪われてしまう。
ふいに指が抜かれ、掴まれた足を黒田の肩へと掛けさせるように高く抱き上げられる。
「あっ……ああ……あんっ」
欲しくてたまらないものを埋められて悦ぶ体は、数度擦られただけで満足しそうになった。
高みを極めて吐き出しかけた息が、強い指に縛められたせいで止まる。
「いや、なんで」
「あなたがいくとつられそうですから」
「え……?」
「自覚はないんでしょうけど、凄い締め付けなんです。もう少し我慢を覚えてください」
「や、いや、あ……んっ」
必死に首を振る優生の中を、きつく抉ってはかき混ぜ、突き上げる。嗚咽と涙が絶え間なく零れ、それでも体は快楽に悶えていた。
「や、あ……お願い、も、放して……」
「たまには、愛人らしく……私を満足させてからにしてください」
「ん、ああっ……あ、ん……」
どれほど哀願しても、黒田は優生を先に解放してくれる気にはならないようだった。
中で出されたくないという優生の願いはいつも聞き入れられず、黒田は深く貫いたまま熱い飛沫を吐き出した。優生の腰を引き寄せては二度三度と突き上げ、全てを受け止めさせる。
少し遅れて指を解かれると、堰止められていた血流が出口に向かって迸った。包むように回された指に擦られ、全てを絞り出す。
肩に担がれていた脚が下ろされても、まだ優生の中から出てゆこうとしない黒田に、つい泣き言が口をついた。
「……俺みたいなの、好きじゃないって言ってたくせに……」
優生が望む以上に、黒田の欲求は強かった。むしろ、日を追うごとに濃厚になっているような気がする。
「好きじゃないというわけではありませんよ。ただ、あなたのように中性的で綺麗なタイプより、ごく普通の男の方がより好みだというだけで」
だから、優生にも黒田を欲情させることが出来るのだろうか。優生と同じように、体の合う相手なら誰でもいいのかもしれない。
「それに、私は女難の相があるようですから、なるべく女性的な部分のない人を選んでいたんですよ。元々女性は苦手だったんですが、高校の時に女性教師に襲われそうになって以来、どうしても受け付けなくなってしまいましたので」
「襲われそうにって……学校でですか?」
「ええ、教材を運ぶのを手伝って資料室の床に荷物を下ろした所で抱きつかれました。女性を強く跳ね除けるわけにもいきませんし、参りました」
「聖人さんにセマるなんて、すごい人ですね」
茶化したつもりではなく純粋な驚嘆だったのだが、黒田は本気で忌々しげな目を優生に向けた。
「幸いというか不幸にもというか、すぐに人が来たので難は逃れたんですが、大騒ぎになったんですよ。弁明しようにも私は見てくれがこんなですから、被害者はこちらだと周りがなかなか納得してくれなくて困りました。結局、私は自分の性癖をカミングアウトする破目になって、以来、理解のない両親とは絶縁状態なんですよ。それが、こちらに出てくるきっかけにもなりましたし、私にとって女性は鬼門なんです」
「聖人さんて、苦労してるんですね……」
「まあ、それなりには。あなたほどではありませんが」
「俺は苦労なんてほどのことは……ちょっと不運かなとは思うけど」
生まれた順番も、性別も、好きになる相手も、優生が選んだわけではなく、逆らいようがなく定められたものだ。その何れかひとつでも違っていたら、今ここに優生はいなかっただろう。
「もう死ぬのは諦めましたか?」
「別に、死にたかったわけじゃないし……」
否定してみせても、黒田にはとっくに気付かれていたようだった。やはり、優生の選択は間違っていなかったのだと思う。
一人では死への誘惑に逆らい切れる自信もなく、迷惑をかけても構わないと思えるほど依存できる相手は黒田の他にはいなかった。もし淳史に見つかっても優生の意思に拘らず手放さずにいてくれる人物は、黒田の他には思いつかない。たとえ、それが恋人が戻るまでの繋ぎでも、単なる口約束を守るためだけだったとしても。

心地の良い沈黙に浸っていたのは優生だけだったようだった。黒田の体の両側に投げ出していた膝の、裏側から強い力で押し上げられる。
「ぁあっ……い、や」
体の奥で熱く息衝いたものが動き出すと、声を上げずにはいられなかった。逃げようとする腰を掴む手の強引さは誰かに似て、ますます優生を混乱させる。
「あなたのおかげで女性とでもできそうな気がしますよ」
嫌味のような言葉に首を振りながら、抗い切れない自分の弱さに涙が零れた。
このまま黒田に全てを委ね、蕩かされてしまいたいと思わせられて、やがて情欲に塗れた体が沈められてゆく。
深い情交に犯されているのは体だけではなくなっているような気がした。




「血が滲んでますよ」
洗い物の後で、そっと手の雫を拭っていた優生の腕が、いつの間にか背後に立っていた黒田に取られる。
観察するように見つめられて、誤魔化すのは諦めた。きっと、隠したところですぐにバレてしまうに違いない。
何日か前から、手首や指の間が裂けてきて、薄く血が滲んだり、肩の付け根や肘や手首の関節も少しカサついてきていた。乾燥と痒みは、時として我慢出来ないほどで、症状は悪化の一途を辿っている。
「たいしたことはないんだけど……元々アトピー体質だったんです。でも、もう何年も前に治ってて、最近は殆ど出てなかったんだけど」
「環境が変わったせいでしょうか。化粧させないための方便ではなかったんですね」
黒田は、あの時の優生の返事を化粧を断る口実だと思っていたようだ。もちろん、アレルギーがなくても断っていたに決まっているが。
「肌が弱いのは本当です」
「アレルゲンは特定されているんですか?」
「乾燥肌なのと、合成洗剤が合わないみたいで」
「わかってるんなら、どうして言っておかないんですか? 症状が出てからでは遅過ぎます」
「ごめんなさい」
以前、淳史にも同じことを言われたことを思い出す。けれども、押しかけてきたような立場では、最初からある洗剤を変えてくれとは言い出しにくい。
「石鹸素地なら大丈夫ですか?」
「無添加のものなら、たぶん何でも大丈夫だと思うけど……ラウリル硫酸ナトリウムとかエデト塩酸とかプロピレングレコールとかいうのが入ってるヤツがダメなんです」
「そこまでわかってて使っていたんですか。自虐的にもほどがありますね。すぐに変えましょう」
「ごめんなさい」
「一度診察も受けておいた方がいいでしょうね」
「でも」
受付で何と名前を書けばいいのか。しかも、今の優生には保険証もなかった。
「保険証を使うのが嫌なら、10割払えば済むことですよ?」
「それは、そうですけど……」
少し大げさに、黒田がため息を吐く。すっかり呆れられてしまったようだった。
「……自分に合う薬の名前がわかりますか? とりあえず貰ってくることは出来ますが」
「えっと……昔はリンデロンとか出てたけど……もう長いこと薬は使ってないから」
「強い薬ですね。本当に最近は良くなっていたんですか?」
「もう何年も薬を使ってないし。一番ひどい時は飲み薬も出てたくらいだから。たぶん、洗剤変えたら自然に治ると思うから気にしないで?」
年齢を重ねるうちに、或いは合成洗剤を使わなくなってから、アレルギーは出なくなっていた。
「それじゃ、暫く様子を見た方がいいですか?」
「はい、その方がいいです」
そのまま、黒田は優生を連れて最寄りの薬局へ行き、台所洗剤も洗濯洗剤も、入浴用のものも全て買い変えた。




夜勤明けで帰った黒田は、いつものように風呂場に直行した。
ほどなく入浴を済ませてダイニングへ戻ってきた黒田の、Tシャツにデニムという姿は珍しく、この後眠るつもりではないのかもしれないと思った。
「ゆい」
まだ朝食の用意を終えていない優生は、少し迷いながらも、キッチンを離れて黒田の傍へ急いだ。
「あっ……」
待ち切れないように優生の手首を掴んで引き寄せると、きつく腕の中に抱き込んだ。まだ湿っぽい髪をうなじへ埋めてくる。
“おかえり”のハグもキスもまだだったが、我慢できないと言わんばかりの黒田の態度に胸が騒いだ。
探るように優生の唇に辿り着くと、性急に舌を中へ滑り込ませてくる。優生の舌に絡ませ、優しく吸い、擦らせては舐める。気持ち良さに体中の力を抜いて黒田に身を任せると、痛いほど強く抱きしめられた。
もしかしたら、職場で何か気に入らないことでもあったのかと思った。淳史のように、優生でストレスを解消しているのかもしれない。
黒田の気が納まるまでキスにつき合ったあと、少し冷めてしまった朝食を済ませた。
優生が後片付けを終えるのを待っていた黒田に、眠るのか出掛けるのか尋ねる前に、唐突な言葉を突き付けられる。
「もう女性を装うのはやめましょう」
「え……」
「もう必要ありませんよ」
確かに、充分にほとぼりは冷めた頃かもしれなかった。
絶妙のタイミングで鳴るインターフォンの音に黒田が立ち上がる。嫁を装っている優生が出てもおかしくはないが、大抵は黒田が応対してくれることが多かった。
「ゆい?」
自分を呼ぶ声にハッとして、リビングの入り口辺りにいる黒田の方へ近付く。優生に用のある事態というのがすぐに思いつかなかった。
「なに?」
今にも手が届く距離まで近付いたとき、黒田が意地悪く笑った。
「優生……」
唸るような声にビクリと体が引けた。まるでわかっていたかのように腕を掴む黒田の手に、玄関の方へと押しやられる。
見覚えのある懐かしい大きな影が、数歩の距離を一気に詰めて優生を抱きよせようと腕を伸ばした。あまりの恐怖に後ずさろうとした体が黒田に阻まれる。
「いや」
咄嗟に口を付く言葉は、淳史の胸に消えてゆく。驚きが過ぎると、固まってしまうものだとは知らなかった。
「やっと、会えたな」
噛みしめるような言葉に胸が痛む。忘れたいと思っていた相手が、一瞬で優生の努力をなかったことにしてしまった。
「優生」
優生を腕に閉じ込めたまま、淳史が何度も名前を呼ぶ。その度に首を振る優生の体が苦しいほどに抱きすくめられる。
「……どう、して」
責めるような優生の言葉に、淳史は漸く少しだけ腕の力を緩めて、顔を覗きこんできた。
「不甲斐ない話だが、自力では見つけられなくてな。こんなに長くおまえに会えないとは思いもしなかった」
「や……」
優生が身を捩るほどに淳史の腕は力を籠めるばかりで、息もできないほどに胸がしめ付けられる。
「感動の再会はそのくらいにして、さっさと引き上げていただけませんか?」
憮然とした声に、優生を抱く腕にまた力が籠り、淳史の表情が厳しくなる。改めて見上げると、優生の知る精悍な顔つきは幾分翳りを見せて、淳史は少し痩せたようだった。
「連れて帰っていいんだな?」
「駄目だと言えば諦めてくれますか?」
「ふざけるな」
「それなら止めても無駄でしょう? 気の変わらないうちに早く行ってください」
「どういうつもりだ?」
「詮索はしないという約束ですよ? このまま一生隠しておくことも出来たんですから、むしろ感謝していただきたいくらいですね」
挑発的な黒田の言葉に、淳史が天を仰ぐ。バクバクと心臓が走り出すのは、淳史がまた物騒なことをするのではないかと思ったからだ。
「……世話になったな」
「いいえ。こちらこそ楽しませていただきました」
抱かれた体が軋むほどに強く力を籠められて、痛いほどに淳史が堪えているのが伝わってくる。
「もう、ここにいたらダメなんですか?」
今更のように状況を窺うと、黒田はいつもの意地悪な笑みを浮かべた。
「居所はバレてしまいましたから、もう逃げられませんよ?」
「でも……」
「私は他の男を思って泣く人と恋愛する趣味はありませんから」
「聖人さん……」
「あなたは工藤さんから逃げるために匿われたがっていたわけではないでしょう? あなたが工藤さんの元へ戻ってしまわないように囲ってくれる相手が必要で、私に白羽の矢を立てたんじゃないですか?」
「どうして……」
そんなことまでバレていたとは思いもしなかった。
「あなたは嘘を吐くのが下手ですからね」
「優生」
抑え切れない苛立ちを滲ませた声は、一秒たりとも見つめ合うことは許さないと言わんばかりだった。
そのままの勢いで優生を連れ出そうとする淳史に、自分でも驚くほどの激しい感情がこみあげてくる。
「……帰らない」
「優生」
「別れるって言ったでしょ」
「おまえを見つけられたら、監禁でも拘束でもしていいんじゃなかったのか?」
確かに、そう言ったのは優生の方だ。けれども、もしかしたら今頃は優生を諦めて、結婚の話を進めているかもしれないと思っていた。
「……淳史さんは横暴だよ」
「おまえの方がよっぽど横暴だと思うが」
おそらく、優生以外の誰も反論しないと、自分でもわかっているのに。
「痴話喧嘩は帰ってからにしてください。目障りです」
本気で迷惑そうに黒田が口を挟む。
結局、今回も淳史に知らせたのは黒田だった。淳史に知らせないという約束を破ったから、契約も終わりなのだと言って笑う真意は優生にはわからないままだ。
「……お世話になりました」
「いつでも家出して来ていただいて構いませんが、もう匿うのは無理ですよ?」
「はい」
こみあげてくるものを抑えることも忘れて見つめてしまった。黒田が簡単に優生を手放そうとしているのだとしても、後ろ髪を引かれる思いに視界が潤む。
余韻を遮って腕に抱き直す淳史が、帰るように促す。こんな風に淳史の許へ連れ戻されてゆくのは、まるで夢の続きのようだ。
「帰るぞ」
「……うん」
部屋を後にしてからも、淳史は優生の腰へ回した腕を解く気はないらしく、窮屈に抱かれたままで階下へと向かった。
「言いたいことは山ほどあるんだが、帰ってからゆっくりな」
現実感が薄いからか、もう優生を抱く腕から逃げ出さなければとは思わなかった。懐かしい匂いのするジャケットの胸元へ、そっと鼻先をくっつける。
夢ではない証のように、優生を抱く淳史の腕が痛いほどに力を籠めた。



- Hide And Seek(6) - Fin

【 Hide And Seek(5) 】     Novel       【 Not Still Over(1) 】


これでも、すごーく省いて駆け足で終わったつもりです……。
本当は、もっといろいろさせたいことがあったのですが、
カップリングが変わってしまいかねないような危機を感じてしまっていたので。
蛇足ついでに、黒田が優生を好きじゃないと言ったのは大嘘ですー。
ハマってしまったことを自覚したから言った言葉です。