- Hide And Seek(4) -



「優生さん?」
翌朝、なかなか起きてこない優生の様子を見に来た黒田は、何度か名前を呼びかけながら、体温計を腋に挟ませた。片手で手首を取ると、別の手で髪の毛をかきあげるようにして、状態を観察するように覗き込む。昨夜しつこく挑んできたことが嘘のように表情はストイックだ。
熱が下がっていることを確認すると、まだ体がだるいのは病み上がりのせいばかりではなさそうだというのに、その張本人は看護師の顔をして優生を朝食に追い立てた。
鼻をくすぐるコーヒーの香りに、だんだんと目が覚めてくる。図らずも、淳史の好みと同じサントスの香りに、ちくりと胸が痛む。
既に用意されたトーストにベーコンエッグは、優生を起こしに来る前に黒田が作ったものなのだろう。
「そういえば、黒田さんは自炊してたんでしたっけ?」
「たいしたものは出来ませんが、一応は」
それでも、ディリーメニューは手慣れているらしく、ふわっと焼いたベーコンに黄色が鮮やかなサニーサイドは、優生の食欲も引き出すようだった。
「あ、でも、黒田さんて朝はご飯の人じゃなかったんですか?」
「仕事の日でなければ、どちらでも構いません。ただ、和食は用意するのが面倒なので」
それは、優生が用意する時は和食にするように、ということなのだろうか。
「ごめんなさい、俺が起きるのが遅かったから……」
「体調が戻ったら、またお願いします。それより、早く朝食を片付けてしまいましょう。コーヒーで構わないんでしたね?」
「はい、いただきます」
少し大きめのマグにコーヒーを注ぎ分けてテーブルにつくと、遅い朝食が始まった。きちんと手を合わせて挨拶をするところを見ると、黒田は意外とお行儀が良いらしい。観察するのはほどほどにして、ブランチになってしまわないうちに、なるべく急ぐことにした。

緊張感の中で、低いテーブルに向かい合って食事を摂るのは少し照れくさい。
優生の育った環境では畳に座布団といったスタイルは慣れていたが、相手を意識して会話もままならない現状は、いかにも同棲しているといわんばかりの雰囲気を連想させた。
「そういえば昨日カードを渡すのを忘れていました。あなたに預けておこうと思いますので、立て替えていただいた分と当面必要な額を下ろしておいてください」
「え、と」
それが食費などのいわゆる生活費のことを指しているとわかっていたが、何と答えたらいいのか迷ってしまった。
居候になることを了承してもらった以上、生活全般の面倒を見てもらっても構わないのだろうが、抵抗感がないと言えば嘘になる。もしかして、愛人というよりウリになっていないだろうか。
「俺、そういうの苦手なんですけど……どのくらい使ったらいいのかわからないし、失くしても困るし」
「そんなに気にしなくても、あの時の退職金ですから、全部使ったところで文句は言いませんよ? 寧ろあなたが使うべきなのかもしれません」
今更そんなことを言われても、その件はもう終わったことだった。今、黒田の所にいるのは、全然別の事情だ。
「あの……買い物とか、一緒に来てもらうのはムリですか?」
「無理ということはないですが、毎回ですか?」
「……できれば」
「一人で外に出るのは怖いですか?」
「そういうわけじゃないですけど……」
言葉を濁してしまうのは認めたも同然なのかもしれない。でも、もし知り合いの誰かの目に止まったらと思うと、一人で出歩くのは不安だった。
「それだと、私の勤務に合わせていただくことになりますが?」
「黒田さんの都合のいい時だけでいいです。毎日行くのは不経済だし」
「わかりました。それでは、片付けたら出掛けましょう」
「ごめんなさい、せっかくのお休みなのに」
「構いませんよ。どちらにしても、今日は出掛けるつもりでいましたので」
「じゃ、俺にカードも現金も預けないでください。困らない程度には持ってるし」
「そういえば跡取りだったんでしたね。私の所へなど来なくても、自活するくらいの経済力はあったんでしょう?」
優生が疾うに生前贈与を受けていたことを、黒田が知っているように聞こえた。もちろん、かつての雇用主が調べて黒田の耳にも入れたのだろうが、ごく一部の身内しか知らないはずの情報を手に入れていること自体がそら恐ろしい。
それとも、もしかしたら身内にも知られていないと思っていたのは優生だけで、相続を放棄したことで追及を逃れただけだったのだろうか。
「……俺には添い寝をしてくれる人が要るの、知ってるでしょう?」
「そんな理由で工藤さんを裏切る気になったんですか?」
「裏切るも何も、もう別れてるのに」
「素直じゃないんですね」
さも可笑しそうに目元を細められると、まるで褒められているようで落ち着かない。
そんな可愛らしい理由ではなかった。ただ、こうでもしなければ思い切れそうになかっただけだ。もう淳史とは別れたのだと、優生の体を慰めてくれる相手は他にいるのだと自分自身に言い聞かせるために。
「あまり遅くならないうちに出掛けましょうか?」
優生が黙り込んでしまったせいか、黒田はそれ以上からかおうとはしなかった。




優生が食材以外に買い足したいものがあることに気付いていたのか、黒田は一ヶ所で済ませられるよう、大型店舗を選んでいた。
店内に溢れる音がひどく耳障りで、平日の昼間にも拘らず混雑するほどの人波が、今の優生を戸惑わせる。元から出歩くのがあまり好きではない優生にとって、ムダに大きなフロアも華やか過ぎるディスプレイも気後れさせるだけで、早々から帰りたくなってしまうほどだった。
意外にも黒田はこういった場所が苦ではないのか、目的地を告げもせず、ゆったりとした歩調で優生を伴って歩いてゆく。油断するとはぐれてしまいそうに思えて、知らずに黒田の上着の裾を掴んだ。
「もしかして、方向音痴だったりしますか?」
「そんなことはないですけど……」
「では、はぐれたら駐車場で落ち合うことにしておきましょう」
そう言われても不安は僅かも拭えず、けれども、拒まれたらしい手をそっと解いた。
「やっぱり、先に携帯を見に行きましょうか」
ぐい、と引かれた肘は確かな強さで黒田に掴まれたまま、携帯電話を扱う階へと連れられてゆく。
「あの……携帯って、黒田さんのですか?」
「あなたに持っていていただくんですよ。うちには固定電話は引いていませんし、緊急の時に困りますから。もし私が事故にでも巻き込まれたら、どうするつもりです?」
それが優生に携帯電話を持たせるための方便だとわかっていても、必ずしも本当にならないという保障はなく、受け取る理由が出来てしまった。
「あなただって、今まで持っていたものがないと不便でしょう?」
「特には……ネットはパソコン借りてたし、強いて言えば目覚まし時計がなくなったっていうくらいで」
「ああ、それで朝起きてこないんですね」
「それは、黒田さんが……」
病み上がりの優生に、起きれなくなるようなことをするせいだと言いかけて、決して疎らとはいえないほど人がいることを思い出して堪えた。そうでなくても、長身の黒田と一緒にいると目立ちかねないのだから。
口論でも黒田には勝てないまま、あくまで緊急連絡用という名目で、優生はなるべく負担になりにくそうな機種とプランを選んだ。

淳史と養子縁組をして変わった名字はそのままに、別れてしまっている現状で名前を記入するのにはひどく抵抗がある。かといって偽名を使うわけにもいかなかった。籍のことなど考える余裕もなく出て来てしまったが、抜いて欲しいというために連絡する勇気はまだ持てずにいる。
優生の微妙な心情を察しているのか、黒田はそれに関しては一言もなく自分の名義で契約を済ませた。
どちらに対しても扶養されている立場だということを考えれば、一刻も早く対応するべきことなのだとわかってはいたが。
「ゆい?」
「あ、はい」
咄嗟に返事はしたものの、黒田に呼び捨てにされるのは違和感があり、一瞬聞き間違いかと思った。
優生の戸惑いに気付かないような素振りで、黒田は軽く肩を促す。
「着替えも必要なんじゃないですか? 食材は最後にして、先に見ておきましょう」
「はい」
優生から言い出さなくても、黒田は次々と先回りして言葉をかけてくる。
有難い反面、買ってもらうことを前提にしているような状態では、やはり気が引ける。自分で払えば済むことなのだろうが、買い与えられることに慣れてしまった優生には、上手く自分で支払いを済ませることは出来そうになかった。

適当に選んだ細身のデニムとTシャツやレイヤードシャツ、下着を持ってレジへ急ぐ。
「服の好みまで控えめなんですね」
「派手なのは苦手なんです」
外見的には優生よりずっと年上に見える黒田が財布を出せば、固辞するのも却って悪いような気がして結局甘えてしまう。
ひとまず短い言葉で礼を言って、表面上は素直に受け取ることにした。

あまり悩まず、悪く言えば適当に決めてしまった優生が早く帰りたがっていることに気付いてもらえたらしく、黒田はもう余計な場所へは誘わず、食品売り場へと向かった。
「いつも献立を決めてから買い物をするんですか?」
「まあ、大体は。寒くなってきたし、シチューとかどうかなと思ってるんですけど?」
「そうですね。私は食に拘りはありませんから、適当に決めていただいて構いませんよ?」
「わかりました。それで、黒田さんはシチューにはパンとご飯、どっちの人ですか?」
「ご飯の人というのはあまり聞いたことがありませんが……工藤さんはそうなんですか?」
「……ていうか、メニューに拘らずご飯が要る人みたいですけど」
「そうですか。私はどちらでも構いませんよ。あなたの用意しやすい方にしてください」
「じゃ、晩ご飯がパンでも構わない人ですか?」
「構いませんが?」
よく意味がわからないといった顔の黒田に、それ以上の質問を投げるのはやめた。






いつものことながら、当たり前のように優生をベッドへ連れ込む手際の良さには感心させられてしまう。
明日は早出らしい黒田は、10時前には優生を連れて寝室にいた。
キスが長いのも、知らぬ間に優生の身ぐるみを剥いでしまうのも、あっという間に体を蕩けさせてしまうのも、黒田が手慣れているせいだとわかっている。以前にも感じた、この人には敵わないという思いは日増しに強くなるばかりだった。
「あ……んっ」
意思を持った指に辿られる肌が上気して、愛撫を受けるほどに体温が上がってゆくような気がする。すぐに欲しくなってしまうのは優生が淫らだからというだけではなかったが、満たされないのは体ではないことにはまだ気付くことが出来なかった。
濡れた睫毛を持ち上げて、焦点の上手く合わない瞳を黒田に向ける。早く入れて欲しいと訴える優生の唇を、黒田の指先が撫でる。
「工藤さんのはそんなに大きいんですか?」
「……失言でした、忘れてください」
「そんな顔をされるとますます聞きたくなりますね。満足させられないと困りますし」
からかわれているだけだとわかっていても、上手く躱すことは出来そうになかった。
「……俺、黒田さんに満足し過ぎくらいだと思いますけど」
「そうですか?工藤さんの仕様になっているような気がするんですが?」
「そんなわけがないでしょう」
もし本当にそうだったとしたら、黒田にこんなに反応するはずがない。優生の体は好きな相手でなくても、悦びを感じて満足することくらい、とっくに知っている。
「そんなに思い詰めなくても、ゆっくり染め直してあげますよ」
怖い、と言ってしまいそうになる唇を噛んだ。体が染まれば、気持ちも引き摺られるのだろうか。
優生を意味深に見つめる黒田の瞳に、あからさまな欲情が浮かぶ。ぞくりと背が震えるのは不安なのか、それとも期待なのか、自分の深層心理など知りたくなかった。
「あなたの口じゃ辛いでしょうね」
赤くなる優生を挑発するように、指先が唇を開かせるように辿ってゆく。
「したこと、ないんです」
「まさか」
「あ、いえ……淳史さんには、っていうことですけど」
それは単に求められたことがなかったからで、優生がしたくなかったわけではなく、かといって自分からするような機会もなかっただけだった。
「それを聞いて遠慮するとでも思っていましたか?」
「……いえ」
今更、口を使われたからといって、汚されるとは思わない。もうとっくに裏切ってしまっているのに、気にする方がおかしいのだろう。
催促をするように頬を撫でる手をそっと外して、ゆっくりと身を起こす。組み敷かれた体勢を入れ替えるより、ベッドから下りる方が抵抗感が少なかった。
「座ってもらってもいいですか?」
ベッドの縁へ腰掛けた黒田の両膝の間に座り込む。
できれば着ているものは自分で脱いでもらいたかったが、そう言えば却って優生にさせようとするような気がしてやめた。余計なプレッシャーをかけられるくらいなら、少々の苦手は我慢した方が得策だろう。何事も思い切りが肝心だと自分に言い聞かせて、パジャマのウェストに手をかけた。
なるべく平静を保ちながら、まだ殆ど形を変えていないものを引き出す。行為そのものより、観察するようにじっと見られていることの方が耐え難かった。
指を添えて、キスをするように唇を近付ける。舌を伸ばして大きな動作で舐めながら、黒田の反応を窺うように視線を上げた。小さく笑った黒田の掌が、優生の髪を梳くようにして頭を包む。
括れに添って舌を這わせると、優生の髪に埋められた指先に力が籠められる。そのまま唇を被せるように含んで舌を動かしているうちに、優生の体はどうしようもなく昂ぶってくる。唇と舌で扱くようにしながら、口の中で跳ねるものが優生の中で猛っているところを思うと、また体の奥が熱く疼いてくるようだった。
「ゆい……」
囁くような声に目だけを向ける。発情しているのは優生だけではなかった。
「……ぅん」
大きな掌が頬を包んで、上向かせようとする。喉の奥まで使われるのは苦手で、黒田の腕に手をかけた。
「あなたに溺れて毎日のように抱いていたのなら、工藤さんはもて余しているかもしれませんね」
確かに、ハイペースに慣れた淳史にも捌け口が必要に思えた。優生が体を満たしてくれる相手を選んだように、淳史も今頃は腕に美波子を抱いているのかもしれない。
そう思っただけで、優生の胸は裂けてバラバラにちぎれてしまいそうな気がする。自分も、他の男に満たされようとしているのに。
少し強めに腕を払って唇を外し、上目遣いに黒田を窺う。
「……入れて」
そっと、優生の前髪をかき上げた黒田に、背を引きよせられて膝立ちになった。
「んっ……」
確かめるように探ってくる指に身を任せて目を閉じる。初めての日から優生を悶えさせた指はすぐに官能に落としてくれるだろう。
「は……ん、んっ」
促されるまま、黒田の膝に跨るように腰を落とす。優生の中へ埋められてゆく、麻薬のように体を苛む快楽に身を投げれば、余計なことを思う余裕などすぐに飛ぶはずだった。優生の腰が立たなくなるほども激しく何度も抱いた男が、今は他の誰かにそうしているかもしれないことなど。
「あぁっ……ぁんっ、は、ぁん」
浮かびそうになったビジョンを振り切るように、黒田との繋がりをより深いものに変えてゆく。
思うことを放棄するために強い刺激を求めて自分から腰を揺する。快楽に沈められてしまえば、何も考えずにすむ。
「……そんな風にねだられたら、工藤さんも抑えがきかなくなるでしょうね」
それが優生のことだとは思いもせず、淳史にしなだれかかる姿を連想した。優生のような貧相な体ではなく、柔らかく豊満な体をしたその人が相手なら、誘惑に負けてしまうのも仕方のないことなのだろう。最初から、淳史の好みを満たしている人が相手なら。
「や……もっと……きつく、して」
涙まじりに囁けば、下からの突き上げが激しくなる。好みにはほど遠いと言われている優生が黒田の気を引ける意味など、今は理解できなかった。
「……ひ、ぁあっ、ん、ぁん」
両手で腰を掴まれて大きく前後に揺さぶられる度に目尻から涙の粒が散る。泣いている自覚もないのに、雫は後から後から溢れて止まず、頬を濡らし続けた。



- Hide And Seek(4) - Fin

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すみません、名前が出るのは次回になりそうです。
そこまで辿りつかなかったので、もうちょっと待ってください(って、別にどうでもいいことでしょうか)。

個人的にカリカリベーコンは苦手です。
軽く焦げ目がつく程度で、ふわっと柔らかく仕上げた方が断然好き。
そのせいか、うちの家族も全員ふわっと派です。
よって、黒田家も工藤家もふわっとベーコンということに……。

優生が相続したお金は通帳ごと両親に預けてることになっています。
自分で持ってる預金も結構ありそうなんですが、それはまた。