- ゆびわのきもち(6) -



また後で、と言い残すと、現れた時と同様にアルフレッドは霧と共に消え去り、和巳はまるで狐につままれたような気分になってしまう。
それでもアルフレッドの言葉を信じてマシューを探し、レナードの仕事が終われば会って話したい旨を伝えてくれるよう頼むと、自室に戻って待機しておくことになった。

火急の用件というのがレナードを和巳から離すための口実でないなら、都合をつけて来て貰えるとしても、まだまだ時間がかかるだろう。
もし、そのタイミングが合わずアルフレッドに立ち会って貰えなかったら、指環の件と今後のことをどういう風に話せばいいのか悩む。
この国においても、実際に精霊に会ったというような話は聞いたことがないのに、 いきなり精霊王が現れたなどと言っても説得力がないのではないか。

思案しながら長椅子に腰を下ろし、座面につこうとした手が触れた質感や距離感のズレに驚き、思考と共に体が固まる。
「え……っ」
違和感を確かめようと首を横に向けると、庭園で姿を消したはずのアルフレッドが、すっかり寛いだ姿勢で陣取っていたのだった。

「あ、アルフさん……?」
さっきまで和巳の目には見えていなかったから、まさかアルフレッドが先に腰掛けているとは思わず、何気なく置いた手がちょうどその膝に乗ってしまっていたことに気付いて、慌てて引っ込める。
もちろん、それくらいでは、アルフレッドの顔をまともに見つめ、不本意ながら体にまで触れてしまった和巳の鼓動の暴走を止めることはできなかったのだけれども。

「難しい顔をして悩んでいるより、私の伴侶になれば全て解決するのではないか?」
まるで何もかもを察しているように優しく、事も無げに囁かれる言葉に、浮ついた意識は容易く唆されそうになる。
ついさっき、返事は保留にしてもらうことで話は落ち着いたはずだったのに。

「和巳?」
急かすように、名前を呼ぶ声までが、和巳の心臓を揺さぶるような錯覚を起こす。
頬の辺りに感じる、澄んだ空色の瞳の魔力は、見つめ合っていなくても効果があるに違いない。だから、差し伸べるように開かれたその腕の中に、和巳は自ら捕らわれていったのだった。


「……アルフさんって、もしかして瞬間移動とかも、できたりするんですか?」
バクバクと高鳴る胸のときめきと戦いながら、和巳は話を逸らすためにも、率直な疑問を口にしてみた。
「おまえが思っているのとは少し違うだろうが、できないことはない。ただ、今回は他の者に私の存在を明かすと面倒になりそうだったからな、見られる前に姿と気配を消しておいた」
ということは、庭園から戻る際に一旦別れたのだと思い込んでいたが、ずっと近くに居たということなのだろう。和巳には物思いに浸っている時についつい独語が出そうになる癖があるが、自戒しておいて正解だったようだ。

「それでは、陛下のお仕事が終わるまで大分お待ちいただくことになりそうなのも、わかってくださってるんですよね?」
あまり長く待たされることになればアルフレッドが去ってしまうのではないかと不安になり、レナードが訪れるまで居て貰えるよう念を押さずにはいられない。
「待つも何も、一緒に暮らすことになるのだから、“当面”ここに居ることになるのではないのか?」
「一緒に暮らすって、僕とですか?」
そんなわけがないと思いながら、話の流れ的に他に取りようがなく、一応確認しておく。
「おまえの他に、誰に保護を与えてやる必要がある?」
呆れたような声音ながら、それはまるで告白のように甘く響いて、また和巳の胸を高鳴らせた。




すっかり舞い上がってしまっていた和巳の意識が、扉をノックする音に冷静さを取り戻す。
レナードの訪いを知らせるマシューの声に、弾かれたようにアルフレッドの胸から飛びのき、扉の方を振り返った。

「指環を外すと決めたのなら、そんなに気を遣わなくてもいいと思うが」
不満げに和巳の腕を掴み、引き戻そうとするアルフレッドから立ち上るオーラが、一層勢いを増したような気がする。
神の力なのか、所謂フェロモンなのか和巳にはわからないが、抗い難い強さなのは間違いない。
それでも、レナードの伴侶候補の件に片を付けるまでは、流されている場合ではないのだった。

アルフレッドの手を逃れ、ダッシュで扉の外までレナードを迎えに出る。
逸る気持ちは、レナードを部屋の中へ通すより先に用件を口にしていた。
「お忙しいところ申し訳ありません。僕の指に嵌ってる指環のことなんですけど、外していただけることになったので、早くお伝えしようと思って……」
「指環が外せるだと? 誰に、どうやって外すと言われた?」
てっきり喜んでくれるものだとばかり思い込んでいたのに、レナードは眉間に皺を寄せ、和巳を部屋の中に押しやりながら、疑惑の眼差しを向けてくる。
「この指環の守護をしていらっしゃる方に、外していただけないかお願いしてみたら、聞き入れてくださったんですけど」
率直に、『精霊王に』と言うのは躊躇われ、回りくどい言い方をしてしまう。
「指環の守護をしている方だと? まさか、精霊王と話したとでも言うのか?」
よほど驚いたのか、レナードは和巳の二の腕のあたりをきつく掴み、詰問口調でたたみかけてくる。
その勢いに気圧され、言葉選びに悩み固まる和巳の体が、ふいに背後から包み込むように回された腕にさらわれた。

「乱暴に扱うな。おまえは和巳を伴侶にする権利を放棄したのだろう? この者を自由にできるのは私だけだ」
羽交い絞めにするような体勢ながら、和巳を抱くアルフレッドの腕は優しく、瞬くうちに甘い気分に変えられてゆく。
やはり、精霊王の力は尋常ではないと頭の片隅で思いながら、惹きつけられる引力に身を任せる。目の前で呆然とするレナードのことも、その瞬間は意識の外に追いやられてしまっていた。


「……伝承通りの姿で、対の指環を外せるというあなたは、やはり精霊王なのですか?」
困惑した表情で、躊躇いながらも言葉を選びながら問いかけるレナードにも、アルフレッドの姿は認識できているということらしい。
それでも、俄かには信じ切ることができず、対応に迷っているのだろう。
アルフレッドは、和巳とのことが保留中だということをすっかり忘れてしまっているみたいに、さも自分に所有権があるような素振りで返す。
「そうだ。私の連れて来た者が気に入らないなら、無理に番う必要はない。望み通り、和巳に嵌めていた指環は返してやろう」
精霊王直々に対の相手は和巳だと明言されてしまっては、いかに一国の王といえども、面と向かって意に染まないとは答えられないに決まっている。
そうと知っていながら、アルフレッドは何か言いたげなレナードに口をきかせないよう、素早く和巳の手を取ると、勿体もつけずに指環を抜き取ってしまったのだった。
その動作の延長でレナードに指環を渡し、もう用はないとばかりに、アルフレッドは和巳の背を抱いたまま部屋の奥へと移動しようとする。

驚きの声を上げるレナードの言葉はただの音でしかなく、和巳には上手く聞き取ることもできなかった。
肩越しに振り向き、伝わらないと知っていながら、決別の言葉を告げる。
それに対してレナードが何かを訴えるように話しかけてきたのも、和巳の耳には馴染みのない言語で、解読することはできなかったのだった。




「触るな」
引き止めようとするように、和巳の肘へと伸びてきた手を、容赦のない声が撃退する。
「指環を外した以上、和巳に触れることは許さない。当面は通例通り、和巳の面倒は国家で見てもらうことになるが、もうおまえの伴侶扱いはさせない」
指環を外した和巳にも、なぜかアルフレッドの声は聞き取れていて、理解もできている。
ひどく狼狽しているように見えるレナードが、何と言っているのかは和巳には全くわからないのに。

ぼんやりとしていたせいか、強い影響力のせいか、身を屈めてくるアルフレッドの顔が近付いてきても、魔法にでもかけられたみたいに、和巳は指一本動かすことができなかった。
ただ、瞼だけが自然と落ち、甘い口づけを受けとめるほかに術はない。

短く驚愕の声を上げたレナードの言葉が、また、和巳にもわかるように変換される。
「……指環を外したら、異界人のおまえとは話すこともできないんだな」
「はい。でも、今、精霊王が話せるようにしてくださいましたから大丈夫です」
「そうか、言葉が通じなくては生活にも支障が出るからな。では、精霊王はそのために、わざわざおまえの部屋まで赴いて来られたのか?」
「だと思いますけど……効果は一日しかもたないそうので、とりあえず毎日お願いすることにしました」
加護を与えられる手段がキスだと目の当たりにしたからか、レナードは訝しげな顔で和巳を見る。
「では、精霊王は毎日おまえに会いに来るということか?」
「ずっと傍にいるつもりだが」
ムッとしたように口を挟むアルフレッドの言葉に、レナードはあからさまに眉を顰めた。
「この部屋で一緒に住まわれるつもりでいらっしゃるとでも?」
レナードの対応は不遜で、喧嘩腰のように見えて、和巳は慌てて二人の間に割って入った。
「あの、とりあえず、僕の身の振り方が決まるまでは傍にいてくださることになっています。そうでないと、僕はこの世界のことを何も知らないし、今後どうするか相談することもできないので」
「この国のことも、精霊王に教わるつもりなのか?」
「え、と、できれば、前に仰ってくださっていた通り、教育係の方をつけてくださると助かります。ただ、言葉のこともありますし、当面はアルフさんと一緒に住まわせていただこうかと思っています」
「それなら、もっと大きな部屋の方がいいんじゃないのか?」
レナードの気遣いに、和巳が遠慮する間もなく、アルフレッドが要望を告げる。
「では、離宮をひとつ貸してもらおうか。湖の傍の城が空いていたはずだな? 和巳の気に入る者を何名か連れて移るとしよう」
レナードの返事も待たず、アルフレッドは和巳の背を抱いて、今にもそこへ向かいそうな素振りを見せる。

「すぐに手配しても、部屋を調えるのに1日くらいはお待ちいただくことになるでしょうが」
なぜか、レナードの物言いはいちいち挑発的で、和巳の方がハラハラしてしまう。
「では、今日はこのまま王妃の間に泊るとしよう」
和巳が心配するほどには、アルフレッドは気にしていないようで、進行方向を反転させると、今度こそ部屋の奥へと和巳を連れて行ったのだった。


「え」
その整い過ぎた顔が近付いてくる理由がわからず、咄嗟にアルフレッドの胸を押し返してしまう。
もちろん、抗いきれるはずはなく、掠め取られるようにキスをされてしまったのだけれども。

「あ、あの……言葉は通じてるみたいですから、今日はもうしなくていいんじゃないんでしょうか?」
純粋に疑問に思ったことを言っただけなのに、アルフレッドはひどく驚いたようだった。
「どうやら、手ごわいのはおまえの方だったようだな。あれが頑固なだけかと思っていたが、これでは先が思いやられる」
複雑な表情で何やら呟くアルフレッドがどんな思惑を持っているのかなど、和巳には想像もつかない。
ただ、指環を外してもらい、当面の利便が確保できたことに安心し、これで平穏に過ごしていけそうだと、暢気に思っていただけなのだった。




「え」
視界がぐるりと回ったかと思うと、背中に柔らかな衝撃を受ける。
気を抜いた途端に、和巳の体はあっけなくアルフレッドの腕に攫われ、ベッドへと倒されてしまっていた。
「気の変わらぬうちに、私のものになってしまえばいい」
耳を疑う言葉に呆然と見上げてみれば、真上にある麗しい顔は魅惑の微笑みを浮かべていて、つい、うっとりと見惚れてしまいそうになる。
けれども、見つめ合えば思考も抵抗も何もかも奪われてしまうと、レナードの時に学習したことを思い出して、慌てて視線を逸らした。

「そう難しく考えずに流されておけ」
無責任な言葉と共に、アルフレッドの手がためらいもなく和巳の上着にかけられると、さすがに危機感を覚えないわけにはいかなくなった。
「当面は言葉が通じるようにしてくださるだけなんじゃなかったんですか?」
「あれの件は片が付いたも同然だろう? おまえの願いは叶えてやったのだから、私の望みも聞き入れてもらわないとな」
遠回しな制止はあっさりと躱され、アルフレッドは今後の関係性を明確にしようとする。
“当面”がこんなに短いものだとは思っていなかったから、和巳の思考はすぐには追い付いてくれなかった。
ただ、ゆっくりと考え込む時間がなさそうなことは、長い上着の裾を押し上げて直に肌に触れてくる手の早さで知れる。
アルフレッドが言うように考えることを放棄して流されてしまえば、きっとその方が楽なのだろうけれども。

「ちょっと待ってください。突然連れて来られて国王陛下の伴侶候補だなんて言われて、やっと指環が外れたと思ったら、今度は妖精王さんとなんて……そんな急には切り替えられません」
「和巳はあれに好意を持っているのか?」
心底、不思議そうに問うアルフレッドの心理が理解できない。和巳が混乱するのは当たり前のことなのに。
「……伴侶になるために異世界へ連れて来られたなんて言われて、意識しないわけがないでしょう?」
もしもフレデリックのことがなければ、いくら和巳が晩熟だといっても、レナードとの未来をもう少し前向きに考えていたに違いなかった。

「惹かれるのも無理はないが……あれは薄まっているとはいえ、私の血が受け継がれているからな」
「え……」
「最初に異界人を伴侶にしたのは私だ。今の王家の祖先になった男子を一人産んで、元の世界に戻って行ってしまったが」
「元の世界にって、帰れないんじゃなかったんですか?」
「最初の異界人が元の世界に戻ってしまったから、それ以降は帰れない者しか連れて来ないようにしている。もう逃がさないためにな」
驚きのあまり、思考力まで固まってしまう。
見つめないようにしようと思っていたはずの、アルフレッドの瞳を真っ直ぐに捕えたままなことも忘れてしまうほどに。

「その者には元の世界に伴侶が居たからな。私はそうと知っていて伴侶になるように強いたから、逃げられたのはショックだったが、連れ戻すことはできなかった。それ以来、番う相手を見誤ったことはない。おまえのことも、一目見た時から本当は私の元に置いておきたいと思っていた。ただ、人の王にも合うとわかっていたから、先に引き合わせてやっただけだ。けれども、結果として、あれはおまえの手を取らなかった。私には何とも好都合な展開になったというわけだ」
蓋を開けてみれば、ますます和巳には理解不能なことばかりで、困惑は深まるばかりだった。

「でも、アルフさんのお見立てでは、僕は陛下の対だったんですよね? なのに、アルフさんとも合うってどういうことですか?」
「対は必ずしもその二人でしか成り立たないというわけではない。合う相手というのが複数いる場合だってあるからな。その中で、一番相性の良い相手を見つけて引き合わせているというだけのことだ」
「じゃ、僕はアルフさんより陛下の方が合うということですよね?」
「そうではない。おまえは“人の王にとって最も良い相手”として連れて来たが、おまえにとっても人の王が一番というわけではないからな。今回の件に限ったことではないが、必ずしも互いが一番同士とは限らないものだ。稀に、誰とでも合うような心の広い者もいるからな」
たぶん、和巳の居た世界もアルフレッドの言う通りで、いくつも縁を持っている人もいれば、ひとつもないのではないかと思うような人もいるのだろう。
それに、向こうの世界には指環のきまりなどないから、縁を見過ごしてしまっている場合もあるのかもしれない。

「それなら、僕の一番は誰なんでしょうか?」
真面目に尋ねた和巳に、アルフレッドは苦笑しながら答える。
「だから、私だと言っている。おまえも、これだけ傍にいて何も感じていないわけではないだろう?」
「だって、アルフさんみたいに綺麗な人を見てときめかない人はいないでしょう? それに、アルフさんは言葉が通じるようにするためとはいえ、キスしてくださったし、何も感じない方がおかしいと思うんですけど」
極力、個人的感情を省いて自己分析したつもりの返事に、アルフレッドが嘆息する。
「おまえは本当に鈍いのだな。おまえの前に姿を現すのを、私がどれほど迷ったと思っている?」
「どうしてですか?」
「私に会えば、たとえそれまで人の王と連れ添ってもいいと思っていたとしても、おまえの気持ちがこちらへ向くとわかっていたからな」
それがただの自意識過剰ではないのだろうとわかっていても、振り回された和巳としては、何か言い返さなくては気が治まらなかった。
「でも、アルフさんの一番は、最初にこちらの世界に来た人なんですよね?」
「だから、最初の相手には逃げられたと言っただろうが。あまり可愛らしくないことを言うなら、強硬手段に出ることにするが、いいのか?」
それがベッドに押し倒された状態の続きを差すと気付くまでに暫くかかり、そうとわかった瞬間、和巳は全力で首を横に振った。
これだけ状況が調ってしまっては、いかに鈍い和巳でも、抗い切れる自信はない。

「気の変わらないうちにと思っていたが、もう急く必要はなさそうだな」
残念そうな顔をしながらも、なぜかアルフレッドが思い止まってくれたおかげで、和巳はもう暫く晩熟のままでいられることになったのだった。



- ゆびわのきもち(6話) - Fin

(5話)     Novel     (7話)


2012.6.20.update