- ゆびわのきもち(7) -



それからの生活は、和巳が望んでいた通りの平和な毎日が送れていた。
朝、目が覚めるのとほぼ同時に与えられるキスで一日が始まる。
そうしてもらわなくては言葉での疎通ができないからだとわかっていても、最初は触れるだけだったキスが日毎に深くなってゆくにつれ、和巳の認識も少しずつ変わり始めていた。

美人は三日で慣れるなんて嘘だと、アルフレッドを見るたびに思う。
こうしてアルフレッドの美貌に見惚れているうちにすぐに時間が過ぎてしまうのも、もう日課となっていた。

先に身を起こし、ベッドに腰掛けたアルフレッドの上半身は、和巳のいた世界で有名な彫像のように綺麗な筋肉を纏っている。
ベッドについた腕も、優雅に組まれた長い脚も、秀麗な外見からすれば意外なほど筋肉質で、実は武道派なのかもしれないと思わせた。

「具合が悪いのか?」
いつまでもぼんやりとしている和巳に、心配げな声が掛けられる。
「あ……いえ、寝惚けてました」
慌てて言い訳を口にしながら起き上がり、アルフレッドの横をすり抜けてベッドを降りる。
気を張っていなければ魂を抜かれてしまうのではないかと本気で心配してしまうくらい、合うと言われていたレナードの時以上に、精霊王が和巳に与える影響は尋常ではないのだった。


冷たい水で顔を洗い、緩んだ頬を引き締める。
簡単に身支度を整えてから部屋に戻ると、先に着替えを終えているアルフレッドはすっかり精霊王らしい装いになっていた。

派手な刺繍の施された上着に映える黄金色の髪は、アルフレッドが動くたびに眩く煌めきながら流れ、知らず目を奪われる。
同じ人型でありながら、人には持ち得ない麗しさを具現した姿こそが精霊ゆえなのだろう。
つくづく、どれだけ眺めていても飽きない容姿だと感心しながら、促されるままに片手を預けて、朝食が用意されている別室へと向かった。

その間に、部屋の掃除やベッドメイキング等の手入れが済まされる。
侍女も侍従も、和巳以外の誰とも関ろうとしないアルフレッドを気遣って、極力その目に触れないようひっそりと作業しているのだった。
だから、朝食を終えて、アルフレッドがどこかへ出かけて行くまで、和巳は他の誰とも接する機会がない。
そのぶん、和巳はアルフレッドのいない間に、少しでも良好な人間関係を築こうと、マシューや他の侍女たちと気さくに過ごす。
もうレナードの伴侶候補から外れたのだから(寧ろもっと大物の目に留まったにも拘わらず)、なるべく一庶民として接して貰うよう頼み、身の回りのことは自分でできるように教わり、他の仕事についても可能な限り手伝うようにしている。
その甲斐あって、この頃はお茶の淹れ方も大分上手くなり、ごく簡単なお菓子や軽食程度なら何とか作れるようになってきていた。自活するための準備は、僅かずつながら着実に進んでいるように思う。
そうやって時間を費やしているぶん、せっかく付けて貰った勉強やマナーの教育係の出番はあまりないが、誰にも窘められることなく、有意義に過ごしている。
周囲は、和巳がアルフレッドの伴侶になるなら人の世の理などさほど重要ではないと考えて、和巳の好きに過ごさせてくれているのだった。




自由を満喫していたはずなのに、アルフレッドが戻ってくると不思議なくらい気持ちが落ち着く。
アルフレッドにも王としての務めがあるのだろうとわかっているから、置いて行かれることに不満はないが、いつの間にか、傍にいないと不安を感じるようになっているようだった。

「変わったことはなかったか?」
アルフレッドが何の前触れもなく窓辺に出現することにも、もう驚かない。
「はい、今日は木の実のパンの作り方を教わりました。すごく美味しく出来たので、良かったらアルフさんも後で味見してみてください」
家庭的ではない両親の許で育った和巳はこれまで料理などしたこともなかったが、教え方が上手いのか、和巳に適性があったのかわからないが、なかなか芳しい成果を上げている。
未だに、和巳がアルフレッドの伴侶になるとは信じ難く、やがては一庶民として慎ましく生きてゆくことになるとしか思えないから、とりあえず生活力だけは付けておこうという目標があるからかもしれない。

「退屈しのぎならいいが、あまり無理はしないようにな」
心配げに和巳を抱き寄せるだけでなく、なぜかアルフレッドは日に何度となく唇にキスをしようとする。
言葉の為なら、今朝も起き抜けに長々と施して貰ったはずなのだったが。

抵抗感は拭い切れないのに、アルフレッドに触れられると体の芯から満ち足りてゆくような心地良さに包まれて、ついつい為されるがままに身を預けたくなってしまう。
腰を抱く手が、抱擁だけでは留まらず、その先を求めるように動くのも初めてのことではないのに。

ふわりと攫われた体が、一瞬でベッドへと運ばれる。
いつになく、アルフレッドが焦れたような顔をしているのが不思議で、それが和巳を我に返らせた。

「あ、あの、アルフさんは、どうして僕みたいな平凡な男を伴侶にしようと思ったんでしょうか? アルフさんなら、もっと綺麗な人とか、選り取り見取りだと思うんですけど」
気を逸らしたいという下心だけでなく、それは初めから疑問に思っていたことだ。アルフレッドほどの外見と力があれば、敢えて和巳を選ぶ必要性はないはずだった。
「異界人というだけでも充分に非凡だと思うが。それに、おまえの言う“綺麗な”者など見飽きている。おまえの黒髪に黒い瞳の方がよほど稀少だ」
「こちらの世界では、僕はレアものってことですね」
確かに、美形揃いのこの世界では、和巳のような一般的な日本人の方が却って珍しいというのも頷ける。
「見目の話なら、そういうことだ。なにより、おまえは物静かで落ち着いているうえに控えめで、傍に置いておくのに適しているからな」
そこまで言われては、謙遜も反論もしづらい。好みかどうかは別にして、和巳には稀少価値があるということなのだろう。




「だから、いい加減に観念しないか」
いつもはすぐに諦めるアルフレッドが、なぜか今日は引く気配を見せず、和巳を追い詰めるように見下ろしてくる。
本当はもう流されてしまいたいと思いながら、なけなしの理性が、今の関係のままではいられないものかと足掻く。
「あ、あの、そういうのなしで伴侶になるっていうのは無理でしょうか?」
「無理だ。前にも言ったと思うが、他に相手がいる状態では、加護を与えてやることはできない」
なぜ、追い込まれているはずの和巳よりも、アルフレッドの方が悲壮な表情を見せているのかわからない。
この世界で楽に生きたいと望む和巳に、決定権はないに等しいはずなのに。

「……もし、僕がアルフさんの加護を受けられなくなったとしたら」
「差し迫って危機に陥ることになるだろうな」
問いを最後まで言わせずに、アルフレッドが結論を出してしまう。
それほど大げさなことではないと、思う和巳の考えが甘すぎるのかもしれないが、言葉の壁なら努力次第で何とかなりそうなものなのに。
「この世界の言葉は、僕には覚えられないような独特なものなんでしょうか? 僕の住んでいた世界にはいくつもの種類の言語があって、全く馴染みのないものでも、習えばある程度は身につけられるんですけど」
言い募る和巳を、憐れむように見つめる眼差しに、どうやら問題はそんな単純なことではなさそうだと気付く。

「……言葉の問題は口づけなくてはならないというわけではない。そう言えば、おまえが受け入れやすいのではないかと考えてのことだ」
「え、と、それはどういう意味でしょう?」
解釈次第では、アルフレッドが和巳にキスをするために言葉の件を言い訳に使ったという風に聞こえる。

「本来の目的はおまえに精気を与えることだ。そうしなければ、おまえは生命を維持することができなくなるからな」
「それは、僕が異界人だからですか? だから、誰かに精気を貰わないと生きていけないってことですか?」
どうやら、和巳が思っていた以上に、和巳の置かれた状況は厳しいものだったらしい。
取り立てて生命の危険を感じたり体調を崩したりしたことはなかったが、異界人の和巳にだけ有害な何かがこちらの世界には漂っているとか、食事以外のエネルギー源が必要だったりするのだろうかと、思いつく可能性を考えてみる。

「異界人だからというよりは、最初の異界人以降、死に瀕した者しか連れて来ていないからだ。元の世界に帰らせないためには、ここでなければ生きていけない者だけを連れて来れば良いとわかったからな。要するに、今後おまえが誰の加護も受けないなら、この世界でも生きていくことはできないということだ」

短期間の間に、いろいろと驚きの連続だったが、まだこれほど驚くことがあるとは 思わなかった。
こちらの世界に来る直前までの記憶を辿ってみても、何か持病があったわけでなく、特に体調不良を感じていたわけでもなく、とても死にかけていたとは思えないのだったが。

「つまり、僕はこちらの世界に来る前に死にかけてたってことですか?」
「来る前ではない。今も、これからも、だ。私の庇護から外れれば、すぐにも心臓が止まるだろう」
まるで死の宣告のような言葉に、和巳は暫し呆然としてしまった。
詰まるところ、どうあってもアルフレッドの伴侶にならなくてはならないということなのではないか。

「……元の世界に戻れないっていうのは、戻ると死んでしまうからですか?」
「そもそも、戻る道は塞いでいるが、もしこの世界から出たとしたら、元の世界に辿りつく前に、おまえの存在は消滅することになるだろう。元の世界では、既におまえは死んだことになっている」
だから、以前マシューに兄弟はいないという話をした時に痛ましい顔をされたのだと、今やっとわかった。

「年を取らないのは、そういう理由からですか」
「そうだ。命を留めることはできても、寿命を伸ばすことはできないからな。死ぬ寸前の魂を留めておくためには、伴侶を得て、いずれかの精霊の守護を受けていなければならない。だが、私の伴侶になるなら、両方を一度に叶えることができるというわけだ」

レナードの伴侶にはならないと決めた以上、この世界で生きていくには、アルフレッドの言う通りにするしか術はないのだろう。
他の相手を探すにも、和巳はまだこの世界のことを知らな過ぎるし、そう簡単に相手が見つかるとも思えない。

「だから、アルフさんは僕にキスしてくれていたんですね」
「その場凌ぎに過ぎないが。おまえは対の相手の精気を身の内に受け入れていないからな」
いくら和巳が鈍くても、アルフレッドの言っていることの意味はわかる。

「あ、あの、もしかして、僕はこのままでは生きられないってことですか?」
「そうだ。口づけだけで長らえることはできない。限界はもう間近に迫っている」

見つめ合ったら指一本動かせなくなると、ずっと警戒してきていたはずなのに。
うっかり目の当たりにした瞳に魅入られてしまえば、もう言い逃れの言葉は思い浮かばず、ただアルフレッドの為すがままに身を任せることしかできなかったのだった。






神の気を身の内に受け入れると世界が変わるらしい。
それとも、和巳はまだ夢を見ているのかもしれないと、覚束ない思考を巡らせた。
ぼんやりと開けた視界の端々に、人ならぬ者の姿が見える。
まるで、和巳が昔読んだ童話に出て来るような薄羽の生えた小さな女の子が、花瓶に活けられた花の周りを飛んでいたり、窓辺で踊っていたりする。

ふと、視界を過った眩い黄金色の光に目線を上げて見れば、それがベッドの際に立つアルフレッドの纏うオーラの色だと気付く。
しかも、今まで気配も感じたことがなかったのに、アルフレッドの傍に、流れるような青銀の髪の、やはり見目麗しい精霊が佇んでいるのまで見えてしまった。湖面のように澄んだブルーのオーラに包まれた立ち姿から、おそらく水を司る人なのだろうとわかる。

「……あの、お客さまですか?」
そういえば身繕いもまだだと慌てる和巳を、大きな手のひらが掛布の上から押し留めた。
「いや、人の世界で言えば側近のようなものだから気にしなくていい。疲れているようなら、まだゆっくりしていろ」
“疲れている”と気遣われる理由に思い至ると、いたたまれなくなって掛布の中で身を丸める。
とはいえ、もしかしたら結局は何もなかったのではないかと疑わずにはいられないくらい、眠りに落ちる前の記憶は朧げなのだったが。


後から思えば、アルフレッドが何か力を使ったのかもしれないと勘繰ることもできるが、その時の和巳には事態を冷静に分析するような余裕はなく、溺れる者のように必死に縋りつくばかりだったように思う。
渇いた喉が水を貪るように、本能的にアルフレッドの気を取り込もうと躍起になっていたのは覚えている。
やがて、精気が体中に巡り、細胞のひとつひとつが活性化されてゆくのを実感する頃には、和巳の思考力は完全に飛んでしまっていた。
それがどれくらいの時間だったのかもわからない。ただ、熱に浮かされたように散漫な意識は、アルフレッドの声で、ほんの少しだけ現実に戻された。
「もう大丈夫だな」
安堵の吐息と共にかけられた言葉が、生命の危機から脱したという意味だとは寝惚けた頭では思いも付かず、首を傾げてアルフレッドを見上げた。
目が合うと、苦笑まじりにもう何度目かもわからないキスを唇に落とされ、さすがに鈍い和巳にも、どうやら“初夜”は無事に終了したようだとわかったのだった。


「和巳?」
すっかり物思いに耽ってしまっていて、アルフレッドの呼ぶ声が脳に届くまでに時間がかかったらしい。
掛布が捲られていることに気付いて慌てたが、先の精霊の気配は既に消えていた。
「……“気”が強過ぎたのか」
心配げに伸ばされた腕の中に、吸い寄せられるように近付いていってしまう和巳は、まるで催眠術にかかっているみたいだと思う。
けれども、細かな記憶は曖昧でも、その腕に包まれれば何もかもが満たされることを、和巳はもう知ってしまった。
これからは、身に余るほどの力強い精気を糧にして生きていくしかできないことも、わかっているのだから。






後日、和巳の様子を見にレナードが離宮を訪れた。
執務の合間を縫ってきたのか、敢えてアルフレッドがいない時間帯を狙って来たのかはわからないが、また険悪な場面に立ち合わずに済んだことにホッとする。

「不便はないか?」
「はい、ここは静かで快適です。アルフさんとも仲良くしてます」
レナードの伴侶候補だった時とは比べものにならないくらい、離宮での生活は平和で、異界に居ることを忘れさせるくらい居心地が良い。
もし和巳が一般的な十代の感覚を持っていたとしたら、刺激のない毎日は退屈でストレスになっていただろうが、元から安寧を望む傾向が強かっただけに、願ってもない環境と言ってもいいくらいだった。

「未だ納得はいかないが、おまえが満足しているのなら間違いではなかったということなのだろうな」
「そうですね、恐れ多いとは思ってますけど、アルフさんが傍に置いて下さっているので、甘えさせて貰っています。それに、陛下の時のように周りが異常に盛り上がったりするようなこともないぶん、僕としては今の方が気楽かもしれないですね。陛下の方もお変わりないですか?」
話の流れを装いながら、気掛かりだったことを尋ねてみる。
偽装とはいえ伴侶候補にされていた和巳は、少なからず迷惑を被ったのだから、そのぶん二人には上手くいってもらわなければ意味がないという思いもあった。
「フレッドとは相変わらずだ。周りがまた結婚しろと騒ぎ立てない限り、俺たちは上手くやっていけるだろう」
迷惑していたのは自分たちの方だと言わんばかりの口ぶりに、確かに、振り回されたのはレナードも同じだったことに気付く。
それでも、ひとまず伴侶問題から解放されて肩の荷が下りた気がしているのもまた同様で、余計なお世話かもしれないが、もう周囲がレナードに無駄な期待をかけないことを切に願った。


「そんなに心配なさらなくても、私はずっと陛下の傍にいます。陛下と連れ添うことはできなくても、今後、陛下がどなたかを伴侶に迎えられても、陛下が望む限り、私の忠誠は生涯変わりません」
レナードを迎えに訪れたフレデリックは、和巳にだけこっそりと決意表明をして帰って行った。
フレデリックが敢えて“忠誠”と言ったものを、それでも生涯と言い切る覚悟に安心すればいいのか、結局はレナードの思いに応える気はないのだと悲観するべきなのか、和巳にはわからない。




つらつらと思い悩みながら、午後遅く戻って来たアルフレッドを出迎える。
いつものように、アルフレッドは和巳に口づけると、その広い胸にすっぽりと包み込んだ。
アルフレッドから放たれる気はヒーリング効果を伴っているようで、和巳の気分を落ち着かせてくれる。

「人の王のことで、おまえが気を揉む必要はない。あの二人が対になり得ないことは、もはや明白だろう?」
アルフレッドは唐突に、まるで和巳の胸の内を見透かしたようなことを言う。
「そういえば、アルフさんは最初からカーディフさんが陛下の申し込みを受け入れるはずがないって仰ってたんでしたね」
「あの者は、何年も前から父の方を好いているからな。子の方に仕えるよう命じられたから傍にいて支えてきたものを、好かれて求められた時にその延長線上で応じたばかりにややこしいことになってしまったのだろう。最初に毅然と断っておくか、いっそ父の方を好いているとハッキリ言ってやれば良かったものを」
アルフレッドは二人の経緯やフレデリックの事情も把握していたようで、相性の問題以外の面でも、対にはならないという認識だったようだ。だから、初めて会ったときに、二人の可能性を否定したのだろう。
「まあ、もう片方も脈がないとわかっていて関係を強いているのだから、どっちもどっちなのだろうが」
結局、報われていないと取るかどうかは主観の問題で、当人がそれで納得しているのなら、和巳が心配するのは余計なお世話なのかもしれない。
アルフレッドの言う相性が、恋愛感情や結婚という形に拘ったものなら、レナードとフレデリックが対にならないのは仕方のないことなのだと、漸く和巳にも理解できたような気がした。




「和巳さまって大物食いだよね」
和巳のモヤモヤが解消した頃、休憩中のマシューが侍女の一人に振った話題は、その場にいた皆に共感され、主人のいない空間を盛り上げていた。
本人の自覚はさておいて、和巳が望んでいた平穏よりは些か賑やかな生活を、異界の地で送ることになったのだった。



- ゆびわのきもち(7話) - Fin

(6話)     Novel


2012.6.20.update