- ゆびわのきもち(2) -



広大な庭に植えられた芝生のようなグリーンの中を、煉瓦を敷いた長いアプローチが続く。その先に構えた巨大な城は中世ヨーロッパの建造物のように華やかで美しい。
よくよく見れば、ここに植えられた花や樹木が全て未知の植物というわけではないようで、最初に見た木の葉や草が見覚えのないものだったのは、単に和巳がそういったものに疎いだけなのかもしれないとも思えた。
だから余計に、これが映画のセットか何かならいいのにと、虚しいことを考えずにはいられない。
繋いだ手に生まれた、焼けるような熱が体温のせいではないとわかっているのに。

「今後のことは後で話し合うとしよう。ひとまず、おまえのことは俺の伴侶候補ということで通すからな」
念を押されたのは城の近くまで来たかららしく、遠目に衛兵らしき姿が確認できた。
和巳の肘を無造作に掴んでいたレナードの手は、いつの間にか指に絡むような繋ぎ方に変わり、そこからまた新たな熱が生まれ、和巳の鼓動を高鳴らせてゆく。きっと、この不可思議な現象は指環のせいなのだろう。こうして相手を意識させられるうちに、指環の思惑通りになってしまうのだとしたら恐ろしすぎる。

やがて、レナードの姿を認めた衛兵が二人、腰を折り深々と礼をするのに気付いた。
まだ随分距離はあったが、レナードが近付いて声をかけるまでずっと頭を下げたままで待っている。やはり、ここでは王は絶対的な存在で、最初に言われたように和巳の態度は不敬罪に当たるような無礼なものなのかもしれなかった。

「異界人を保護した。俺の伴侶候補だから、丁重に扱うようにな」
簡潔に告げながら、レナードは和巳の手を引いて城の中へと入って行く。
レナードの言葉は侍女や侍従たちにも理解されていたようで、恭しく迎え入れられ、王の私室へと案内されることになった。



猫脚の豪奢な長椅子はいかにも座り心地が良さそうで、引き寄せられるように腰を下ろしそうになったところで我に返り、レナードの方を窺った。
「陛下より先に座っちゃダメとか、あるんですよね?」
「そう堅苦しく考えなくてもいい。おまえは俺の伴侶候補で、異界人だからな」
敢えて侍女の前で“無礼講”を許可してくれたと、ポジティブに受け取っていいものかどうか迷っている間に、腕を引かれ、レナードの隣りへと腰掛けるよう促される。
まるで、和巳を伴侶として認めているかのようなアピールの仕方は、レナードの本心が別なところにあることを忘れてしまいそうになるほど。

テーブルに置かれた茶器のセットは、和巳の知るものによく似ていた。
薔薇のような大輪の花が描かれたやや縦長のポットに、同じ柄の繊細な二つのカップ。蔓を模したような柄の入ったソーサー。滑らかで丸みのあるフォルムは陶器製のように見える。
カップに注がれた液体は赤みがかった茶色で透明感があり、花のような甘い香りから察するに、フレーバーティーのようなものなのだろう。
味も和巳に馴染みのあるものかどうか早く確かめてみたかったが、勝手に手を伸ばすわけにもいかず、勧められるのを待つ。

ふと、傍らで控える侍女たちに微笑ましげに見られていることに気付いた。
異界から指環に連れて来られたなどと言われても、普通なら俄かには信用できなさそうな気がするが、ここの人たちは何故か得体の知れない和巳のことを否定的には思わないようだ。
その雰囲気に乗じて、レナードは二人だけにするよう侍女たちに告げて人払いをしてしまう。

「念のために確認しておくが、俺の伴侶になる気はないんだな?」
レナードの問いにどこか引っかかりを覚え、即答するのは躊躇われた。もちろん、伴侶になどなりたいわけはないが、“念のため”少し考えてから無難な答えを探す。
「今のところは。あまりにも判断材料が少ないので、断言するのはちょっと怖いですけど」
「思慮深いのか、計算高いのか……まあいい。異界で生きていくには用心しすぎなくらいで丁度いいのかもしれないな」
おそらく、レナードに思い人がいなかったとしても、和巳は好みから外れているのだろう。
指環の理も、今度ばかりは外れたのかもしれなかった。




「陛下の方こそ、心に決めた方がいらっしゃるのに意地悪ですよね。僕が伴侶になりたいって言ったらどうするつもりです?」
「全力で排除するに決まっているだろう? おまえが俺の味方をするような言い方をしたから、“歓迎”してやる気になったんだからな」
嫌味に対するささやかな仕返しのつもりが、レナードには通じなかったらしい。
侍女たちが出て行ったのと同時に解かれた手と同様、レナードの態度は素っ気ないものになってしまった。建前でしか歓迎されていないのはわかっているが、せめて和巳がこの環境に慣れるまでくらいは優しくしてくれてもいいのに。

「要するに、僕に選択肢はないってことですよね。でも、それならどうして、僕を伴侶候補だなんて仰ったんですか? 陛下なら何とでもごまかせるはずなのに」
「戦略のうちだ。俺に伴侶候補が現れればどんな反応をするのかも知りたいしな」
「僕は当て馬ですか……」
指環を放り投げるような相手に、まだ脈があるかもしれないと思うレナードはよっぽど鈍いのか、思いの丈が深いのか。
もし、そんな役割を振られるために態々異界から呼びつけられたなんてオチが待っていたら救いようがない。

「もちろん、相応の待遇はする。どのみち、この世界で一人では生きていけないだろう? おまえの生涯に責任は持つから、おとなしく言うことをきいておけ」
「生涯なんて……陛下の伴侶にならなければ、僕は用なしってことですよね? そうなれば、元の世界に帰れるんじゃないんですか?」
簡単に連れて来られたのだから、戻るのも造作ないのではないかと、安易な期待はバッサリと切り捨てられる。
「おそらく、無理だろうな。指環の意思で連れて来られた以上、帰れるとは思えない」
「でも、陛下の伴侶にならない場合、僕がここに居続ける意味はないでしょう? そうなったら、僕はどうすれば……」
ここへ連れて来られた意義がなくなっても、元の世界に帰ることはできないなんて理不尽すぎる。

「心配しなくても、異界人の生活は国家で見るのが通例だ。ましてや、俺の伴侶候補だったという経緯があれば、一生遊んで暮せるだろう」
「そんなの……勝手に連れて来ておいて帰れないなんて……そういえば、他の異世界から来た人たちで、元の世界に戻った人はいないんですか? それか、こちらの人が他の世界に行ったとか……」
先達が自分の意思で残っているのなら問題ないのだろうが、帰る方法がないから仕方なく留まっているのだとしたら遣り切れない。ましてや、和巳は間違えて来たかもしれないのに、ここに留まりたいと思うわけがなかった。
「戻ったとか、こちらの人間が向こうへ行ったとかいう話は聞いたことがないな。ずっと過去にまで遡って綿密に調べれば皆無ではないのかもしれないが、俺の知る限り、戻った者はいなかったはずだ」
心なしかレナードの口調に気遣いが含まれたようで、事態の深刻さを突きつけられたような気がする。
前例よりも、可能性は低くても戻る手立てを探さなくてはと、それにはこの男の力が不可欠だと打算的な思いが働く。

「……とりあえず、陛下がお相手の方と上手くいくよう、僕にできる限りの協力はします。その代りと言ってはなんですけど、僕が元の世界に戻れるよう力を貸していただけませんか?」
「それは構わないが、力を貸すといっても、どうしたものだろうな」
レナードがあまり気乗りがしない様子なのは、帰る方法を探したところで無駄だと思っているからなのだろう。
「できれば、他の異界人の方と会って話したいんですけど……あと、古い文献か何かあるんでしたら、見せていただけませんか?」
「そんなことなら、すぐに叶えてやれるが……まずはおまえがここで過ごせるように手配する方が先だな」
そう言って、レナードは和巳に部屋と侍従を与えてくれた。






そろそろ観念しなくてはいけないと、頭では理解しているのに気持ちがついていかない。
和巳の専属に付けられた侍従に暫く一人にして欲しいと頼み、着替えるように言われて用意された衣類をチェストの上に放り投げ、ベッドへと倒れ込む。
現実逃避したがる意識を眠りに誘おうとするみたいに、豪奢なベッドはふかふかで、寝心地も最高だった。

5年前にこちらの世界に来たという人物には、明日にも会えるだろうと言われている。文献についても、全てを揃えるのは時間がかかるだろうが、何冊かはすぐにも見られるということだった。
早く手掛かりを見つけたいと逸る気持ちがないでもないが、疲弊した精神は休養を求めている。
思えば、和巳は眠りに落ちる直前にこちらへ連れて来られてしまったから、日課ともいうべき午睡を今日はまだしていないのだった。

柔らかな枕に頬を埋め、ひととき思考を放棄することにして目を閉じる。
目が覚めたら全て夢だったというオチが待っていることを期待しつつ、睡魔を引き寄せた。




「ん……」
髪に触れる優しい感触が、束の間の微睡みを妨げる。
どうやらそれが誰かの手のひらのようだと気付いて、億劫な瞼を押し上げた。
「さっそく昼寝とは、おまえは度胸が据わっているな」
呆れたような声音に完全に覚醒させられると共に、思い出したくない事実まで一気に甦ってくる。

「あ……っ」
傍らに腰を下ろしたレナードの手が、戯れのように和巳の頬に触れた瞬間、甘い衝動が体を突き抜けた。
弾かれたように手を引きながら、レナードは困惑したように和巳の顔を見下ろしてくる。
不可思議な感覚に襲われたのは、どうやら和巳だけではなかったようだ。

「何なんだろうな……この、わけのわからない衝動は」
ぎこちない動作で、レナードの手がまた和巳の頬へと伸びてくる。
「んっ」
瞬間、目を閉じた和巳の体が強い力で掬い取られた。
痛いほどの圧迫感に、おそるおそる目を開く。身じろぐのも窮屈なのは、レナードに抱きしめられているかららしかった。
「これが指環の力か。フレッドのことを考えていなければ、“誘惑”に負けてしまいそうだ」
独り言のようなレナードの言葉の意味を、深く考えるのは恐ろしい。
認めたくはないが、気を抜けば流されてしまいそうなのは和巳も同じだった。

「おまえは……そういえば、おまえのことは何と呼べばいいんだ?」
抱擁を解いて和巳から少し距離を取ったレナードの、あまりにも今更な問いにヘコみそうになる。
つい今し方、甘い空気に包まれていたはずなのに、指環の思惑から外れてみれば、まだお互いに何もわかり合えていないことに気付く。
「差し支えなければ、和巳と呼んでください。もし、名字で呼ぶ方が一般的なのでなければ、ですけど」
レナードが名乗るときに名前だけを言っていたから、こちらの世界では名字では呼び合わないのではないかと考えた。或いは、それは王族だけの特殊なケースだという可能性もあったのだったが。

「和巳、か。変わった響きだな。それに呼びにくい」
これまで耳にした限りでは、この国は英語圏に近いような名前ばかりだったから、日本語特有の語感は馴染みがないのだろうと推測できる。
それでも、特に呼びやすくなるような愛称もなく、だからといって勝手に命名されるのも嫌だった。
「僕の居たところでは、ごく普通の発音なんですけど……そういえば、何でこんな問題なく言葉が通じてるんでしょうね」
今更ながら、その不思議に気付くと共に不幸中の幸いに感謝した。これで言葉が通じなければ、和巳は帰る手立てを探すどころか、意思の疎通もできなかっただろう。
「それも、指環の力のようだな。これまで訪れた異界人も皆、指環を嵌めて表れて、言葉も通じていたという話だ」
翻訳までこなすとは、さすがに精霊が付いていると言われるだけあるようだと感心する。これで、指環と直接話せるとか、帰してくれるとかいうオプションも付いていれば完璧なのだったが。




「まだ寝足りないようだが、お互いの立場上、ある程度の情報は交換しておかないとな。年はいくつだ?」
共犯者然としたレナードの言い分は尤もで、和巳はもう少し惰眠を貪りたい欲求を抑えて従う。
「16歳です」
「成人しているのか。それなら問題はないな」
「え……いえ、成人するのは二十歳です。僕の住んでいた国では、ですけど。この国は16歳で大人なんですか?」
「二十歳とはまた随分と気の長い話だな。おまえの元居た国の人種は成熟するのが遅いのか? この国では成人するのは15歳だ。奉公に出たり修行を始めたりするのも7,8歳からだからな、おまえの年なら自立しているのが普通だが」
やや呆れたように返されても、和巳の育った環境や国民性がそうだったのだから仕方がない。
少し考えてから、その違いを話しておいた方が良さそうだということに気が付いた。

「僕は学生だから親に扶養されていたし、働いたこともないですけど……未成年だと何か不都合なことがあるんでしょうか?」
「未成年者とは婚姻できないからな。それに、未成年で働いたこともないなら、宮廷作法だけでなく、一般教養なども学ばねばならないだろう? まあ、どちらにしても、異界人のおまえには、こちらの世界のことをいろいろ覚えてもらわなければならないが」
この、中世ヨーロッパのような国の、しかも王族の作法やしきたりを覚えなければならないなんて、考えただけでウンザリする。知識として学ぶだけならまだしも、立ち居振る舞いなどは、高貴な生まれの人々の中で浮かないようにできるようになるか不安だった。

「あの、陛下はおいつくなんですか? もし失礼な質問だったら申し訳ありません。僕はこちらの礼儀には疎いので見逃してください」
たかだか年齢を尋ねるのにここまで気を遣わなければならないのかと思いつつ、下手に出ておく。
「26歳だ。礼儀云々については気にしなくていい。そういう風に言っておいたと思うが」
微妙な距離を保ったまま、レナードの紺碧の瞳が和巳を捉える。
見つめられれば、また先のような妖しげな気分になりそうで、慌てて目を逸らした。
にも拘わらず、火照るような頬の熱は一向に引いてくれそうにない。指環の効力は、時間が経つほどに強まるのかもしれなかった。

「ありがとうございます。それでは、もし物凄く無礼なことを言ったりしたりしてしまっても、不敬罪で牢屋行きとかにはしないで下さいね?」
「おまえは変わっているな。伴侶にはできなくても、近くに置いておけば退屈せずにすみそうだ」
内心の動揺を隠そうと必死な和巳とは違って、レナードは特に何かを抑えている風には見えなかった。
出逢ってからの短い時間で判断する限り、レナードはあまり感情を面に出さないタイプというわけでもなさそうだったから、和巳ほど強く指環の影響は出ていないということなのかもしれない。
これまで経験したことのない色ごとめいた感覚に、不慣れな和巳は戸惑うばかりだというのに。


16年あまりの人生で、和巳は自分が“普通の”人とは違うようだということに薄々ながら気付いていた。
これまでにただの一度として、男性はもちろん女性にも特別な感情を抱いたことがない。
だから、ベクトルの向く対象がどちらなのかもわからず、それどころか、誰かに恋をすることは一生ないかもしれないとまで思っていたのだった。
もしかしたら、指環の力がなければ、レナードに感じたような甘い衝動や疼くような痛みとは無縁の生涯だったかもしれないとさえ思う。




「成人するのは15歳だと仰ってましたけど、王様の場合は結婚されるのは遅めなんでしょうか? それとも、もしかして重婚が許されていてもう既婚者でいらっしゃるとか……あ、まさか、バツイチなんてことはないですよね?」
「なんだ、バツイチというのは」
和巳の使う言葉を理解できずに問い返されるのは初めてだったが、よくよく考えてみれば当たり前のことなのかもしれなかった。
今までの会話では和巳も気を張っていて言葉を選んでいたからスムーズにいっていたのだろうが、指環の力をもってしても、流行語とか短縮語とかいったようなものは上手く変換されないのだろう。

「すみません。ちょっと品がないというか、失礼な言葉なんですけど……バツイチというのは離婚しているといるという意味です。イチの部分は回数を表していて、離婚する毎に増えていきます」
「王がそう簡単に離婚できると思っているのか? 結婚するのも相当に大変だが、離縁するのは更に面倒な手順を踏まねばならないんだ」
「やっぱり、王様って大変なんですね」
「だから、相手が求婚もさせてくれないんだ」
憂い顔を見せられて、事情も知らずにレナードがふられていると決めつけていたことを申し訳なく思った。


「あの、陛下はお時間大丈夫なんですか?」
ふと、出逢ったときにも執務中ではなかったはずで、休憩というにも少し長すぎるようだと気付いて尋ねてみる。
「今は平和だからな、そう忙しくはない。だが、他の者は俺の伴侶候補の異界人が現れたと聞いて、紹介されるのを待ちかねているだろうな。そろそろ用意してもらいたいところだが」
てっきり、今日はゆっくり過ごしていてもいいのだろうと思い込んでいたから、既に予定が組まれていることに驚いた。
「誰かに会わないといけないんですね、待たせてしまってすみません。えっと、用意って、着替えるってことですよね?」
「そういうことだ。着替えはマシューに手伝わせよう」
和巳に付けられた侍従を呼ぼうとするレナードを、慌てて引き止める。
「いえ、着替えくらい一人でできます。でも、もしかしたら着方とか間違えてるかもしれないので、後で見てもらえると助かります」
女性の着るドレスのように複雑なものならともかく、レナードが着ているような丈の長い上着にゆったりとしたパンツを合わせるだけなら、おそらく和巳にも簡単に着られるだろうと思われた。
ただ、随分と長いサッシュベルトの巻き方だけは、少々不安だったが。

「人がいると落ち着かないか?」
「すみません、僕は庶民なので、特に親しいわけでもない人が常に傍にいるという状況には慣れてなくて」
「早く慣れてもらわなくては困るな」
困るのは和巳の方だと言うのも憚られ、曖昧な表情を返して話題を変える。
「もしかして、陛下の前で着替えるのは失礼だったりします?」
気を遣わなくてもいいと言われていたのに敢えて念を押したせいで、レナードは別な意味に取ってしまったようだった。
「男が対象だと言った俺の前で脱ぐということは、それなりの覚悟があると思っていいんだろうな?」
「いえ。すみません、僕の居た世界では同性の前で着替えるのはごく普通のことなんです。それに、陛下には結婚したいほど好きな方がいらっしゃるのに、僕が脱いだくらいで何か起きるとは思えませんし」
予防線を張ったつもりが、レナードは不満げな顔を見せた。
「指環の力を舐めるなよ。先にも言ったが、衝動に引き摺られないとは言い切れないからな」
見つめ合うと、またあの妙な気分になるのではないかと不安になる。レナードの心配は、和巳の方がよほど深刻なのだから。

「それなら、僕はベッドで着替えてきます。布を引いておけば問題ないですよね」
天蓋から垂らされた布でベッドを覆ってしまえば、何も問題はないはずだった。
「余計に煽られそうに思うが」
低く呟かれた不吉な言葉に、和巳は用意された衣類を掴んでベッドの奥へと走る。
「ちょっとだけ後ろを向いててください。超急いで、着替えますから」
苦笑しながらレナードが背中を向けても、和巳はまるで女子の着替えのように、学生服で隠すようにしながら着替えることになった。




寝坊した日の朝でも、これほど早くないのではないかというほどのスピードで着替えを終える。
「あの、合ってるとは思うんですけど、一応見てもらえますか?」
声をかけてから、おそるおそるレナードの方へと近付いていく。
ゆっくりと振り向くレナードは、先の言葉など嘘のように落ち着き払っているように見えた。

「間違ってはいないが、おまえには大き過ぎるようだな。もう少し絞ってみるか」
こちらの衣類はゆったりとしたデザインなのだろうと思っていたが、それにしてもゆとりがあり過ぎるような気がしたのは間違っていなかったらしい。
細かな刺繍の施された幅広の、いっそ帯と呼ぶべきかもしれないベルトを、和巳の腰へと巻き直すレナードの手が、布越しとはいえ和巳に触れる毎に鼓動が走る。
緊張感によるものだけではない胸の高鳴りは、和巳がこれまでに経験したことのない類の感覚を伴っていた。

「おまえにも、誰か思う相手はいたのか?」
「いいえ……僕はあまり恋愛には興味がなくて」
「成熟するのが遅いからか?」
「そうかもしれません」
恋愛に疎い理由など、和巳にもわかっていないのだから答えようがなく、レナードの仮説に乗っかっておく。
「それなら、もし誘惑に負けても問題はないんだな?」
「は……?」
ふわりと被さってくる絹の感触が、レナードの纏う上着のものだと、その逞しい腕に包まれて気が付いた。

「和巳」
名前で呼びかけられるのは初めてで、そうでなくても密着した体から発する妖しげな熱に戸惑い、突っ立った姿勢から指一本動かせなくなる。
背の高いレナードの胸に押しつけられた和巳の頬は火照り、今にも泣きだしてしまいそうな衝動が込み上げてくる。

これまで知らずにいた恋愛感情というものが、果たして今自分の身に起こっているようなものなのかどうかもわからない。
胸は絞られるように痛むのに、どこか甘い感覚に突き動かされれるままに、レナードの背にそっと腕を回した。

「おまえは小さいな。それに男にしては柔らかい。かといって女のように頼りなくもないし、抱き心地はフレッドより良いくらいだ」
その名を聞くのは二度目で、その人こそがレナードの思い人なのだと気付く。

「……陛下がプロポーズしようとしていらっしゃった方のことですか?」
「そうだ。俺の側近の一人で、主に執務をこなしている。昔は俺の教育係だったんだが、権力にものを言わせて傍に縛り付けているんだ」
自嘲気味に笑うレナードの腕が緩んだのは、気が咎めたのか、単にからかわれていただけだったのか。
見上げる先の、レナードの瞳はもう和巳を映してはいなかった。



- ゆびわのきもち(2) - Fin

(1)     Novel     (3)


2011.9.19.update