- ゆびわのきもち(1) -



それは、ふわっと落ちてきた。
後から思えば、そこそこ重さもあるそれが、そんな風に軽く落下してくるはずがなかったのだけれど。

うららかな昼下がりの中庭で、昼食のあとの、腹も気分も満たされてもう寝るしかないという状態の和巳(なごみ)には正常な思考力は残っておらず、ただ、目の前をふわりと漂い落ちてゆくそれを、何気なく手のひらで受け止めようとしたに過ぎない。
まさか、いくら指先が上を向いていたとはいえ、狙いを定めたように薬指の根元へ嵌り込んでくるなんて想像もできなかった。
それが本来、指におさまって然るべき指環だったとしても。




気が付けば、和巳が昼休みを過ごしていた中庭とは違った森の中にいた。
意識を失っている間に和巳の膝に落ちてきたらしい木の葉も見たことのない形をしていたし、生えている雑草も、和巳の知っている植物とは似て非なるものだった。
だから、和巳はまだ夢を見ているのかと思ってしまった。

「つ……っ!」
ふいに、左手の薬指に鋭い痛みを感じて目をやると、あの指輪がまるで存在を主張するように熱を帯びて煌めいていた。
陽の光を受けて一層輝く銀色の指環は、薔薇に似た花と蔓を模したような緻密な細工を施されていて、その意味を知らずとも何やら重々しい伝統やら厳格さのようなものを感じる。
とてもではないが、和巳のような一庶民の指におさまっているべきものではないとわかるのに、なぜか誂えたようにぴったりと嵌っていて、どうやっても抜けそうになかったのだった。

「抜けないのか?」
突然、頭上から掛けられた声に驚いて飛び上がりそうになる。
おそるおそる顔を上げてみれば、緩く波を打つ眩いほどに輝く見事な金髪に深い青色の瞳の、おそろしく端正な顔立ちの美丈夫がすぐ傍で和巳を見下ろしていた。
美しいのは顔ばかりではなく、男の纏う丈の長い上着は絹のように光沢のある生地で、襟や袖に宝石がふんだんに縫い込まれている。中に着たチュニックのような上衣には細かな刺繍が施され、和巳には値段の想像もできないほど高価に見えた。
ただ、その服の形も柄も、少なくとも現代日本では馴染みのないデザインなのだったが。

「あ、あの……ここはどこですか?」
まだ夢の可能性を捨てきれないままに口にしてしまったが、男の機嫌を損ねてしまったようだった。
「先に俺の問いに答えろ」
「え……」
そういえば何か聞かれていたような気はするが、動転してしまっていたせいか覚えていない。
それに気付いたのか、男は面倒くさそうに問い直した。
「その指環は抜けないのか?」
「あ、はい。なんか、ぴったり嵌ってしまっていて、全然動かせないんです」
ありのままを答えると、男は盛大にため息を吐いた。
「まさか異界人と番うことになるとはな……」
番う、と言われて思い当たる事態は一つしかなかったが、敢えて問い直す気にはなれない。
和巳を異界人と言う理由についても然りだ。

黙ったままの和巳に焦れたように、男が左腕を上げる。
見れば、和巳の顔前に翳された男の薬指にも同じ指環が嵌っていた。




和巳はどちらかといえば現実主義者だが、自分の目で見たものや経験したこと以外は信じないというほど頭が固いわけではない。
寧ろ、子供の頃から本が好きで、手当たり次第に童話やファンタジーの類も読んでいたから、同年代の男子よりは空想の世界に理解があると思う。
それでも、不思議の国のアリスのように異世界に落ちてしまったと結論付けるには早計過ぎると、否定的な気持ちは抑えきれなかった。
反面、違和感を度外視するにも無理があり、瞬く間に見知らぬ場所に来ているのは不可解で、馴染みのない植物や和巳の指に不自然に嵌って外れない指環の説明もつけようがなかった。
まだ夢の中にいるとか、或いは、酔狂な誰かが、一庶民の和巳にドッキリを仕掛けているというのでもない限り。


「少しは状況が理解できたか?」
まるで全てを把握しているような言い方をするが、この男もおそらくは事態を確認しに来たのだろうと思う。
和巳としても、こんな僅かな情報では異世界に来たと認めてしまうことはできず、しばらくは様子見をするしかなかった。

「……どうして、僕が異界人だと思ったんですか?」
「黒い髪も黒い瞳も、こちらの世界で生まれた者には出ない色だからな。それに、そんな服は見たことがない」
和巳の容姿は至って平凡な方なのだが、男の言うところの“こちらの世界”では珍しいようだ。
せめて今時の学生のように髪を染めるくらいしていれば見過ごされたのかもしれないが、まさかこんなことになるとは想像もせず、至って真面目な高校生の和巳は、校則違反を犯してまで染髪してみたいとは思わなかったのだった。学生服にしても、午後の授業のために先に体操着に着替えておけばもう少し目立たなかったのだろうかとか、悔やみ出したらキリがない。

「大体、この国の民で俺の許しもなしに顔を上げているような者はいない。ましてや、そんな寛いだ格好をとるなど以ての外だ」
尊大な物言いは、頂点に立つ者にのみ許される表現だと気付く。それも、現代日本では考えられないような絶対王政の君主のような。
つまりは、この男はこの国で一番偉い人物だということなのだろうか。

異世界かもしれない国の、無礼にならない格好など知るはずもないから、とりあえず地面に足を投げ出していた姿勢を正座に直す。通じるかどうかはわからないが、一応、日本では畏まった体勢のはずだ。

「もしかして、王さまだったりするんですか?」
「察しがいいな。即位したばかりだが、このアルフレッドの国王だ」
「アルフレッドというのは国名ですよね? 陛下お一人で出歩かれても大丈夫なほど平和な国なんですか? しかも、僕のような不審人物に丸腰で接するなんて」
いくら和巳の見た目が小柄で痩せていて弱そうでも、スタンガンのようなものを隠し持っているかもしれないし、意外と武道に秀でている可能性だってゼロではないだろうに、もしこの男が本当に国王なら、少々警戒心が無さ過ぎるのではないか。
「アルフレッドは精霊に守られた国だ。王位に付くにも精霊王の承認が必要だが、認められればその守護を受け、何人(なんぴと)にも害されることはない」
暗に刃向うことの無意味さを諭されたようで、ひとまず猜疑心には目を瞑ることにした。今は表面上でも友好的な態度で接し、少しでも判断材料を引き出した方が賢明なようだ。

「陛下のお名前を伺っても……あ、僕は秦野 和巳(はたの なごみ)といいます。秦野は姓で、和巳が名前なんですけど」
人に名前を尋ねる場合は先に名乗るものだと思い出し、慌てて言い足す。加えて、名前の並びはおそらく日本式ではないだろうと推測し、補足しておいた。
「全く礼儀を知らないというわけでもないのか……? まあいい、俺はレナードだ。もし俺の伴侶になりたいのなら名前で呼んでも構わないが、そうでないなら、先の呼び方の方が無難だな」
改めて伴侶の件に触れられて、そう何度も流しては後々不利になりそうだと気付く。

「あの、僕は男ですけど……まさか女の子と間違えてるとかってことはないですよね?」
いくら和巳が小柄で細身といっても、顔も仕草も女性的ではなく、人からそんな風に指摘されたこともない。
「女なら、指環に選ばれていないと思うが」
「え……じゃ、伴侶になるっていうのは、結婚するって意味じゃないんですか?」
「俺の伴侶になるということは、精霊王の祝福を受け正妃になるということだ。俺は女と番う気はないからな、指環が女を選ぶとは考えられない」
当然のように言い切られても、和巳には理解し難い理屈で、しばらく絶句してしまった。

「あの……少し、頭を整理する時間をいただいてもいいですか? ぶっちゃけ、夢かもしれないと思って、いろいろとツッコミ入れたいのを我慢してたんですけど、どうもそうじゃなさそうな感じだし、さすがに限界なんで」
もしかしたら異世界の、あろうことか国王陛下の、どう見ても男の伴侶の座になど、うっかり納まってしまうことのないよう、よく考えて行動しなければと気を引き締める。




「考え込むのは後にして、ひとまず俺と一緒に来い。俺の伴侶候補だと言えば、そう面倒なことにはならないはずだ」
レナードは気が短いのか、和巳に悩む時間をくれる気はないようで、急かすように手を差し伸べてきた。
つられて、その手に伸ばした指先が触れたとたん、指環の嵌った部分に熱が灯る。
反射的にレナードの顔を見上げると、甘く、疼くような痛みが胸の奥に生まれた。わけのわからない熱が体中に広がり、鼓動を高鳴らせる。
眉を顰め、厳しい表情をするレナードには思い当たるところがあるようだったが、ため息を吐くだけで説明はしてくれそうになかった。

少し強引に腕を取られ、レナードに引き摺られるように歩き出す。
てっきり、どこかの森の中にいるのだと思い込んでいたが、前方に聳える城らしき大きな建物を目にして、どうやら広大な敷地の一部だったようだと気付く。

城までの長い道のりを無言で連れられてゆくのは気詰りで、和巳の方から話しかけてみる。
「陛下は、僕がここに居るとわかっていたんですか?」
だからタイミングよく現れたのかと思ったのだが、レナードは気まずそうな顔になってしまった。
「いや、指環を捜していたら、この国の民とは思えない人間を見かけて、その指に捜していた指環が嵌っていたから急いで声をかけただけだ。できれば回収したかったんだが、外れない以上どうしようもないな」
レナードにとっても、指輪が和巳の指に嵌ってしまったことは非常に不本意だったようで、この時点では二人の利害関係は一致していると思われた。

「この国では、異界人が来ることは珍しくないんですか?」
「そうだな、報告によれば数十年に一人か二人は来ているようだが、俺が面識があるのは一人だけだ。やはり指環を嵌めて現れて、5年ほどになるか。近衛騎士の伴侶で、おまえと同じく黒髪に黒い瞳をしている」
レナードが、和巳のことを異界人だろうと思いながらもあまり驚いてなさそうだったのは、それなりに前例があったからなのかもしれない。

「僕がここに来ることになったのは、この指環のせい、ということですか?」
「そうだな、おまえはその指環に連れて来られたんだろう。俺の意思を無視して、勝手に伴侶を選んで連れ戻って来るとは迷惑な話だ」
後半は独り言のようだったが、聞き捨てならないことを言われたのはわかる。
迷惑なのはお互いさまだが、被害の度合いを比べるなら、異世界から連れて来られた和巳の方がよっぽど甚大なはずだ。
「この指環って、そんな特殊な力っていうか、意思みたいなものがあるんですか?」
「その指環は当ハノーヴァー家に代々伝わるもののひとつだが、それに限らず、この世界の指環の全てに神の意志が宿っていると言われている。互いが生涯を共にしようと思っていても、揃いの指環が互いの指にぴったりと嵌らない限り、神に認められていないということで周囲から反対される。中には強行に婚姻を結ぶ者もいるが、 遠からず破局を迎える結果になるからな、強ち神の気まぐれとも言えないんだが」
要するに、和巳はレナードと婚姻関係を結ぶしかないということか。
当のレナードの態度からは、それを受け入れようとしているようには思えないのだったが。

「ただ、俺の場合は事故だからな。できることなら、おまえの指から抜いて、本来渡すべき相手の指に嵌めたいところだが」
矛盾することを言われていると思いつつ、和巳にとっても、その方がありがたいことで、できるものならそうして貰いたかった。
「では、そうしてください。陛下なら外せるのですか?」
「無理だろうな」
そう言いながら、和巳の指を取り、外そうと試みているあたりは往生際が悪いようだ。




再び和巳の手を取って歩き始めたレナードに、今更ながらの質問をしてみる。
「あの、この国では男子でも王妃になれるんですか? 陛下のようなお立場だと、お世継ぎが必要でしょうから、女性が相手じゃないと困るような気がするんですけど」
尤も、王という立場だからこそ、ハーレムを持っているとか、子供は側室に産ませるとかいうような手段があるのかもしれないが。
「王に限らず、指環に認められれば男も女も関係ない。それに、この国の王位は世襲制ではないから子供ができなくても特に問題ない」
にべもなく答えるレナードにとっては当たり前のことでも、和巳には理解し難い慣習だった。
「だとしても、指環にそんな重要なことを決められて、みんな従っているんですか?」
「指環に認められた夫婦が離婚に至った前例はないからな。指環には先を見通す力があるのだろうと言われている。寧ろ、指環の意思を無視した者は必ずといっていいほど、心変わりをしたり破局したりしているから信憑性は高いだろうな」
将来的に上手くいくカップルかどうか見極める力があるなんて、占い師か神様のようだ。
「まるで指環に意思があるみたいですね。あ、指環に精霊が宿っているとか、そういう類ですか?」
「そうだな……意思があると考えた方が辻褄が合うのかもしれないな。単に相性の合う者たちだけを認めているのではなく、認めていないのに結婚する者たちを別れさせている可能性もあるか」
深い意味があって言ったことではなかったが、和巳の一言は、後々ややこしくなる原因を作ることになってしまったのだった。

「先にも言ったが、俺には思う相手がいる。できれば、その指環がおまえの指から外れるのを待って、再度その相手に申し込みたいと思っているんだが……」
これまで見たレナードと違って、憂いを帯びた表情に絆されそうになる。
そうでなくても伴侶になどなりたくない和巳としては、可能な限り、喜んで協力したいと思う。
「僕にできることなら何でも協力しますけど……ただ、不本意とはいえ、先に僕が嵌めてしまった指環を贈るなんて、相手の方は気を悪くされないでしょうか?」
「だとしても仕方ないだろう。俺の指にもう一方が嵌っている限り、その指環でなければ意味がないんだからな」
「そうなんですか……早く外れて、その方と一緒になれるといいですね」
自分のためにも、和巳は本心からそう言ってレナードを励ました。

「……相手の了承は得ていない」
ふてくされた様な顔をすると、レナードは急に幼げに見える。20代後半くらいだと思っていたが、案外もう少し若いのかもしれなかった。
「従来通り、指環の片方を俺の指に嵌めてから、相手の指に対の方を嵌めるつもりが、先に奪い取られて思い切り放り投げられてしまってな。落ちた辺りを探している隙に相手には逃げられてしまうし、漸くおまえの指に嵌っているのを見つけたものの外れないと言うし、何としたものか」
それって指環の意思以前にふられているのでは? と思ったが、さすがに口に出して指摘する勇気はなかった。
ただ、相手がレナードと結婚することを拒否しているのなら、指環の儀式をやり直したとしても受け入れられる可能性は低く、ともすれば、和巳の指から外すことも難しいような気がする。
そう思えば、ますますレナードとその思い人に上手くいって欲しいと願わずにはいられなかった。



- ゆびわのきもち(1) - Fin

    Novel     (2話)


2011.9.19.update