- ドメスティック.Z(5) -



紫の身を案じて車で送ると言い張る黒田の“好意”を断り切れず、已む無く実家を教えることになってしまった。
そればかりか、黒田は紫と一緒に車を降りると、家人に挨拶をすると言い出し紫を焦らせた。
玄関先で思案に暮れる紫に、黒田はどうあっても家族公認の仲になるという野望を先送りにする気にはなれないらしく、まずは紫が親に話を通してからにして欲しいという言い分を聞き入れようとはしなかった。いくら妹の碧にはバレているといっても、紫のつき合っている相手がこれまでの好みとは真逆のタイプだと、他の家族には一切話していないというのに。
それでも、紫に輪をかけて可愛い子好きな母親は、彼氏だと名乗る男が紫より一回り以上大きく厳つい面差しだということにそう驚いた様子は見せなかった。(後で知ったことだが、碧から聞いて知っていたらしかった。)ただ、友好的な態度を装いながらも、愛想笑いは少々引き攣っていたような気がする。
そんな事情もあって、紫が黒田に取り上げられていた携帯電話の電源を入れたのは、自分の部屋で一人になってからだった。
夥しい数のメールや着信の殆どは雛瀬からで、ある意味、黒田より厄介かもしれないことに気付く。
もちろん、短いメール一通で連絡を途絶えさせた紫を心配してのものだとわかってはいるが、もはやストーカーに近いものがあるように思えてしまう。
できることなら今夜くらいはゆっくりしたかったが、メールをチェックしている途中で雛瀬から着信があった。
半ば押し切られるように会う約束をさせられ、さすがに出向く元気のない紫の部屋に雛瀬が訪れたのは、電話を切って僅か15分後のことだった。



「ゆうちゃん、またあいつの所に行ってたの?」
先の電話で濁した問いを、雛瀬はまた尋ねてきた。
黒田の執着ぶりと、何より自分の感情を優先するなら、雛瀬に断るしかないと頭ではわかっていても、上手い言葉が見つけられない。
「ヒナ……俺、ね」
ベッドに腰かけていても、気を抜けば後ろへ倒れ込んでしまいそうなほどの疲労と睡魔に抗いながら、隣の雛瀬に顔を向けた。
思わず後退らずにはいられないほど雛瀬の顔はすぐ傍にあり、紫の行動がわかっていたみたいに簡単に背を抱き止められる。
「俺の前でもそんなダルそうにしてしまうくらい、あいつにヤらせてきたの?」
「ヒナ」
らしからぬ言い方をする雛瀬の表情は、怒りというより今にも泣きだしそうで、続けるはずだった言葉を口にするのを躊躇わせる。
「別れないからね? やっと俺のものになったのに、放すわけないでしょ」
先回りして答える雛瀬の強い口調に、紫も覚悟を決めた。
「ごめん、ヒナ。俺、あいつがいいんだ」
「何で? ふられたんじゃなかったの?ゆうちゃんのこと、タイプじゃないって言ったんでしょ?」
それこそが許せないと言いたげに、雛瀬は真っ直ぐに紫を見つめてくる。
今更ながら、本当に自分は雛瀬に愛されているようだと気付いて途方に暮れた。


「や、そうじゃなくて……何て言うか、俺、勘違いしてたみたいで……ふられてないし、タイプじゃないってことでもないみたいなんだ」
雛瀬と違って黒田の愛情表現はわかり難くて、監禁したくなるほど愛されているとか、可愛いというのは黒田の好みに適っているという意味だとか、実感するまでに随分遠回りをしてしまった。
「どう言いくるめられたのか知らないけど、あの人、すごく遊んでるんでしょ?ゆうちゃん、騙されてるんだよ。目、覚まして?」
ぐい、と紫の背を支える雛瀬の腕に力が籠められる。
抱きしめられまいと、咄嗟に雛瀬の胸についた手を掴まれ、振りほどくことができない自分の非力さが歯痒い。
「ゆうちゃん、これ、どうしたの?」
紫が顔を顰めたからか、雛瀬は注意深く紫の手元を観察したようで、そう酷くはない擦過傷を見咎めてしまう。
「何でもないよ、ちょっと擦りむいただけで……」
「あの人に縛られたの? ゆうちゃん、そういうプレイが好きなの?」
不快げな顔を向けられると、紫の性癖を誤解して嫌悪されたのかと思って焦った。三十路まで実体験がないほど晩熟だった紫に、そんな高度な趣味があるわけがないのに。
「違うから。俺が勝手に勘違いしてヒナと浮気したから、ペナルティっていうか……」
「浮気じゃないでしょ、俺、つき合ってって言ったよね? ゆうちゃん、ダメだって言わなかったよね?」
その申し込みをされた時から今に至るまで、明確な返事はしないままだったが、肯定と受け止められるような態度を取ったのは間違いなく、強引な雛瀬に流されてもいいと思ったのも事実だった。
黒田を思い切るためにもそうした方がいいのかもしれないと雛瀬に甘えようとしていたのに、やっぱり元の鞘に収まりたいと言うのは都合が良すぎるのだろう。
「ごめん」
言い訳のしようもなく、けれども雛瀬を選ぶとは言えず、ただ謝ることしかできない。
雛瀬は答えず、紫の肩に凭れかかるように額を乗せ、背中に緩く腕を回してきた。下手に刺激しないよう、されるがままに身を任せて雛瀬の苛立ちが治まるのを待つ。
ややあって、紫の首筋に吐息がかかり、雛瀬はほんの少し頭を上げた。
「ねえ、ゆうちゃん? あの人もここに来たことある?」
ここ、というのが紫の部屋という意味なら、まだない。黒田は今日は母親に挨拶をしただけで、家には上がらずに帰って行った。
「玄関まで送ってもらったことはあるけど、部屋に来たことはないよ」
無難な返事をしたつもりが、紫を見据える雛瀬の瞳に穏やかではない色が浮かぶ。
「じゃ、ここでエッチすんの、俺が先ってことだよね?」
「え」
その言葉を理解する前に、紫の視界が流れ、気付けば雛瀬の体の下に敷き込まれていた。

「ヒナ?」
睨み上げたつもりが、雛瀬は怯む風もなく、紫の肩に置いた手に力を籠めた。
「疲れてるみたいだけど、もうちょっと頑張ってね?」
「ダメだよ、俺、あいつとつき合ってるんだ。ヒナとはつき合えないし、もう、こういうことはできないよ」
きっぱりと言い切った甲斐はあったようで、雛瀬は拗ねた子供のような顔を見せる。
「ズルイよ、ゆうちゃん。一度は俺でもいいと思ったんでしょ?」
雛瀬でもいいというよりは、誰でもいいと思うくらい落ち込んでいて、黒田と別れた気でいた紫には、雛瀬を拒む理由がなかったというのが実際のところだった。
紫の肩へと顔を伏せる雛瀬の頭に、そっと手のひらを乗せる。つき合っていたころに戻ったみたいに髪を撫で、優しく諭す。
「ごめん。やっぱり、俺、あいつの他はイヤなんだ。前に仕事関係で誘われたときも、どうしても最後まではできなかったし……他の人とはつき合えないと思う」
それは真実だったが、ひとつの例外を失念してしまっていた。
顔を上げた雛瀬は先のしおらしさが嘘のように、強気に見つめてくる。
「でも、俺とは大丈夫だったよね?」
「それは……あの時はすごくヘコんでて、自棄になってたっていうか……あ、もちろん、ヒナは特別なんだと思うよ?でも、俺はあいつじゃないとムリなんだ」
「ゆうちゃん、3回もイったのに?」
小声ながらはっきりと、雛瀬は容赦ない突っ込みで紫にダメージを喰らわせた。甘んじて受け止めて、少しでも雛瀬を浮上させようと試みる。
「だから、ヒナは他の奴とは違うんだって。だけど、あいつは別格なの。もう、理屈じゃなくて、体があいつに馴染んじゃってて、あいつに触れられるとわけがわからなくなっちゃうっていうか、感じ入っちゃってどうしようもなくなるんだよ」
恥をかなぐり捨てて正直なところを告げたつもりが、雛瀬には上手く伝わらなかったようだった。
「俺がヘタだったってこと?」
「そうじゃないよ、ヒナは俺がどうだったか知ってるのに……も、ほんと恥ずかしいから言わせないでくれないかな」
「じゃ、俺があの人みたいに育つまで待ってよ」
いくら雛瀬が努力しようと、そんな日は永遠に来ないと言い切れる。元々の体格も違えば、キレ可愛い顔立ちが厳つくなるはずもなく、雛瀬が黒田のようになるのは不可能だ。
なにより、紫は黒田の外見に惹かれて別れられないわけではないのだから。(かといって、内面に惹かれているとも認め難いのだったが。)
「忘れてるみたいだけど、先に俺をふったのはヒナだよ?」
「ふったんじゃないよ。あのままつき合ってても進展がないと思ったから、一旦時間を置いて対策を練ろうと思っただけで……修行のためでも、他の人と関わるのは浮気になるでしょう?」
想像だにしなかった深い理由があったと知って、今更ながら救われたような気がする。雛瀬に突然別れを告げられた時には本当にショックで、もう自分の恋愛観を変えるしかないのかもしれないと真剣に悩んだ。
決して、その仕返しをしているわけではないのだったが、雛瀬にはそういう風に思われているのかもしれなかった。



- ドメスティック.Z(5) - Fin

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2010.4.30.update