- ドメスティック.Y(5) -



結局、紫が取ったのは着信拒否で、番号やアドレスを変えるようなことはしなかった。
他の友人知人に知らせるのが面倒というのが一番の理由だったが、そこまでするのは思い上がりのような気がしたからというのもある。

それほども思い入れている相手がいるのなら、紫のことなど直に諦めるだろう。
そのうちには海外赴任を終えて帰って来るだろうし、それまでは不便していなかったという相手で繋げばいい。紫と知り合う前にそうだったと言っていたように。
お互い、出逢う前に戻ったと思えばたいしたことではないはずだ。
体に馴染んだ習慣が抜ければ、紫はまた元のように軽いキャラを装って生きてゆける。
あるいは、モテ期を生かして、遅まきながら経験値を上げてみるのもいいかもしれない。義理立てする意味がなくなれば、紫も潔くなれるような気がした。




「ゆうちゃん?」
耳に覚えのある声に呼ばれて、俯きがちな顔を上げる。
声をかけてきたのは雛瀬で、紫の仕事が終わるのを会社の近くで待っていたらしかった。
人懐っこい笑顔は紫の知るままの雛瀬のようでいて、つき合っていた頃に好んで着ていたような淡い色合いの品の良いスタイルとは違い、黒いライダーズジャケットに濃紺のデニムといった、ややハードな印象に様変わりしている。ダメージジーンズも意外なほど雛瀬に似合ってはいるが、見慣れないせいか、ひどく違和感を覚えた。
それは服装のせいだけではなく、雛瀬の言うところの“頑張って”いる成果が表れているのか、ほんの短期間で紫と変わらないほどの背丈になり、華奢に見えていた体に少し厚みが出てきたことに、改めて驚かされる。
「ヒナ……なんか、ちょっと見ない間に厳つくなってない? また背も高くなったみたいだし」
「ほんと? 成長が止まったら困ると思って筋トレし過ぎないよう気を付けてるんだけど、成果が出てるんなら良かった」
「もう可愛いなんて言っちゃいけないかな?」
「可愛くなくていいよ。ゆうちゃん、本当は男くさいのが好きなんでしょ? もっと早くわかってたら“成長しない努力”なんてしなかったのに。今急いで体作ってるから、もうちょっとだけ待ってて? あんなオジサンに負けないくらい、カッコよくなるから」
心なしか非難するような雛瀬の言葉のいくらかは意味不明だったが、明らかな間違いだけは訂正しておく。
「ヒナ、知ってると思うけど、俺は30歳越してるよ? ヒナの言ってる“おじさん”、俺より5つも若いんだから」
「ウソ……ゆうちゃんは30歳でも見た目も若いし全然いいけど、あの人、ゆうちゃんより5つも年下なの? 絶対、もっと年食ってると思ってたのに……」
雛瀬は暫くショックを受けていたようだったが、気を取り直したように言葉を続けた。
「で、その見た目アラサーの人とはまだ続いてるの? 俺がカッコよくなる頃にはすんなり別れてくれそう?」
雛瀬の描く“カッコイイ”基準がどれほどなのかわからないが、まだまだ先だと言うなら、無意味な問いだ。
「……残念ながら、間に合ってないみたいだよ」
「え、間に合ってないってどういうこと?」
「もう、振られたから」
「ウソ……ゆうちゃんを振るなんて厚かましい……。別れてくれたのは嬉しいけど、なんかムカツク」
「しょうがないよ、最初から俺みたいなのは好みじゃないって言われてたし」
何か反論しかけたような唇が、ふっと不謹慎な笑みを作る。殆ど身長差のない、寧ろ少し高いかもしれない位置から、雛瀬が紫の耳元へ顔を近付けてくる。
「……ねえ? もしかして今って付け込み時?慰めちゃっていい?」
こんな表情をする子ではなかったのに、と思いながら、そのしたたかな眼差しから目が離せなくなる。
もう、自制心など使い果たしてしまっていた。
つられるように頷いていたのは、紫の想像以上に別れのダメージが大きかったからかもしれない。
今は、無条件の好意と優しい腕の誘惑を断れないくらい、紫の身も心も渇き切っていた。






ふと視線を向けた先に佇む大きな影に、上向きかけていた気持ちがまた乱される。
いくら他の手立てが無くなったからといって、会社の前で出待ちされるとは思っていなかった。黒田の執念深さは身を持って知っていたが、天敵であるはずの工藤と鉢合わせる可能性のある場所も厭わないとは、どこまで厚顔なのか。

さすがに、気付かないフリも、知人のような顔をして挨拶することもできず、リーチが届かない程度の距離を保った位置で足を止めてしまう。
睨めつけるような視線を無視すれば大事になりかねず、かといって、こちらから歩み寄る気にもなれない。
黒田はまだ、紫を手放す気にはならないのだろうか。
あんなにハッキリと、愛しているのは別の男だと言い切っていたのに。割り切れる相手は他にもいると言っていたくせに。

紫の反応に業を煮やしたように、大股に近付いてくる黒田の剣幕に身が竦む。
「どうして“拒否”されているのか、理由くらい聞かせてくれませんか?」
穏やかとは言えない声から滲み出す怒りは未練のようで、紫の決心を揺らがせる。だから余計に、強気を装わなければならなかった。
「……察しろよな。俺、しつこいの、キライなんだけど?」
「しつこいと言われるほど、まだ何もしていませんよ。手放すつもりはありませんし、私には追及する権利があるはずです」
所有権を主張する黒田の鈍さを、詰るとか諭すとか、方法はいくらもあると思うのに、どれもできない。人目を利用してこの場を逃れることも可能だろうが、一時凌ぎにしかならないことは明らかだった。
「……わかったよ、つき合えばいいんだろ」
自分でも、この男には甘過ぎると思いながら、路駐された車へとついていく。
助手席のドアを開ける黒田が、紫がシートに落ち着くのを待ってドアを閉めるのはエスコートしているわけではなく、逃がさないためなのだろう。
車が走り出しても黒田は口をきかず、本題を切り出さない訳を思うと、紫の方から話しかけることもできなかった。
この後の展開を考えれば世間話ひとつする気にはなれず、おとなしくシートに凭れて黒田の出方を待つ。
ふと、今夜も紫からの連絡を待っているはずの相手に、今日は無理そうだと知らせておいた方が無難かもしれないことに気付いて、静かに携帯を取り出した。
サイレント設定を解除しないまま、なるべく短い言葉で、今日は遅くなりそうだから会えない、というような内容のメールを送る。
本音では、もしかしたら展開次第ではまた慰めてもらいたくなるかもしれないと思っていたのだったが。




「……話がしたいんじゃなかったのか?」
黒田の部屋に連行され、即行ソファに放り投げるように押し倒されている現状に、つくづく自分の弱さを思い知らされる。
「3日と空けないでやらせてくれるんじゃなかったんですか? 今はあなただけだと知っているでしょう?」
真面目な顔をして大嘘を吐く黒田を見つめていると、泣きそうになった。
いや、嘘ではないのだろう。今は、体のつき合いがあるのは紫だけ、という意味なら。
「……そろそろ本命にヤらせて貰えば? あんたは気持ちと体は別なんだろうけど、相手はそうじゃないだろ? たまには会いに行ったり来て貰ったりして、あんたもヤリ溜めできるよう体質変えろよな」
「何の話ですか?」
訝しげに紫を見下ろす黒田は、しらばっくれているのか紫が知らないと思っているのか、思い当たることはないというような顔をしている。
黒田がそういう態度を取るのなら、紫がはっきりと言うしかないのだろう。
「あんたの“一番愛している人”の話だろ? いつ帰ってくるのか知らないけど、遠恋だって試してみれば案外いいものかもしれないし、あんたももうちょっと誠実な男になるよう努力しろよ」
「ちょっと待ってください」
説教じみた言葉を遮るように、紫の肩を掴む黒田の手に力が籠められた。
「まさか、あの時の電話を聞いていたんですか?」
侮るような視線に、割り切ったつもりの感情が噴き出しそうになる。思い切るには、まだまだ時間が足りなかった。
「だから、俺にはもう何も求めるな」
まるで頭が痛いとでも言いたげに一瞬目を閉じた黒田の顔に、隠し切れない焦燥が滲む。
「……聞いていたんなら、どうしてすぐに話してくれなかったんです? 今私が一番愛しているのは紫さんですよ、知っているでしょう? あの時は込み入った事情があってそう言わざるをえなかっただけで、真実ではありません」
甘い言葉を本気にしてしまいそうな自分を叱咤するために、紫は言うつもりのなかった弱音まで吐き出すことになった。
「あんたに必要なのは、本命の代わりに性欲を満たしてくれる相手だろ? 悪いけど、俺はあんたみたいに割り切ることはできないんだ。あいつもそうなんじゃないのか? いつまでも勝手な理屈ばっか通してないで、そろそろ腹括ったら?」
「紫さんこそ、勝手に誤解して自己完結するのもいい加減にしてください。真実ではないと言っているでしょう?」
黒田の言い訳に耳を傾けたら最後、容易く言いくるめられてしまうことは、これまでの経験からわかり切っている。だから、耳を塞いで、早口に返した。
「誤解も何も、俺はカラダとココロは一緒なの。体だけとか、つき合ってやれないから。せっかく気持ちよく別れてやったんだし、あんたもきちんと向き合えよ?」
ほぼ真上にある黒田の顔が色を失くしてゆく。
いつもの人を食ったような不敵な雰囲気はなりを潜め、まるで痛むみたいに表情を歪ませる。


「紫さん、少しは私の話を聞いてください。あなたを本命だと言わなかったのは、電話の相手があまり品のいい輩ではなかったからです。私が心変わりしたとわかれば、あなたに接触しようとするかもしれませんから、稲葉さんを引き合いに出したんです。稲葉さんとのことは周知の事実ですから、信憑性があるかと思いましたので」
“稲葉”と繰り返す口元を塞ぎたくなるくらい、紫は何も越えられていないのに。
肩に置かれた手を振り払い、身勝手な男を睨み上げる。
なるべく穏便に収めたいと思っていたが、もうどうでもいいという気にさせられていた。
「……仮に、俺があんたの“本命”だったとしても、その定義があんたとは違うんだよ。ふつう、つき合っている相手にレイプ紛いのことはしないし、無理やり窒息しそうなフェラなんてさせないもんなの。俺は、あんたの“本気の”セフレになんかなりたくないんだ」
実際には、セフレどころか、本命にはできないことを心置きなくヤれる相手、程度にしか思われていないのだろうが。
紫の反論がよほど意外だったのか、黒田は暫し呆然としていた。
ややあって、頬へと伸びてきた手のひらは、確かめるようにそっと撫で、優しく包み込んだ。
「度が過ぎたのなら謝ります。でも、そんな風に言われるのは心外です。確かに、経験の浅い紫さんには酷なこともしてしまったかもしれませんが、今まで何でも許しておいて、後からそれを理由に逃げるのは狡いんじゃじゃないですか?」
神妙なようでいて、結局は紫のせいだという男に、絆されかけていた気持ちが萎む。
「……あんたが強引すぎんだろ、イヤだって言ってもきかないくせに」
「きけない時もありますよ、紫さんは他の人に対して無防備過ぎます。私は心の広い男ではありませんから、仕事絡みだろうが元彼だろうが、紫さんには指一本触れさせたくないんです。紫さんにささやかな仕返しをしてはいけないと言うなら、これからは相手の方に報復することになるかもしれませんね」
「なっ……どういう理屈だよ、あんた、頭おかしいんじゃないのか?」
「おかしいとは思いません。恋人に手出しされて平気な方が異常です」
そこだけ取れば黒田の言い分は正論で、紫には返す言葉がなかった。
「自分でも心配しすぎだとは思いますが、あなたのことになるとセーブできなくなるんですよ。さっきの話にしても、あなたに危害が及ぶのを避けるために、良かれと思ってしたことです」
そんなことをすれば矛先が稲葉に向くかもしれないということで、そう考えるとやはり信じ難い思いがする。
「あいつなら、日本にいないから危なくないってことか?」
「いえ、結局は稲葉さんを落とせなかったことも知られていますし、そもそもあの人はこちら側の人ではありませんから心配ないと思います。でも、紫さんは、私が脇目も振らずに夢中になっている相手だと気付かれれば、下世話な興味を持たれるでしょうね。一見、紫さんは遊んでそうな印象を受けますから、軽く見られかねません。私は紫さんを危険な目に遭わせたくないですし、興味本位に触れられたくもないんです」
懐柔されたくないのに、雄弁な唇は淀みなく言い訳を語り、舌戦でも紫が黒田に敵うはずがないことを痛感させられる。
とはいえ、黒田の話が事実だったところで、もう手遅れなのだったが。



- ドメスティック.Y(5) - Fin

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2010.2.1.update.