- ドメスティック.Y(4) -



朝になっても紫の胸の痛みが和らぐことはなかったが、諦めの境地に至るくらいには落ち着きを取り戻していた。
昨夜の電話を紫が聞いてしまったとは知らないはずの黒田に、せめてメールの一通くらいは打っておこうと思えるくらいには。
敢えて、早出の黒田の出勤前を見計らってメールを送る。とりあえず、終業後に連絡を入れるという、すぐには追及され難い一文を添えておいた。


黒田の返答は、電話やメールで済ませるのではなく仕事が終わったら来いという内容だった。
さすがにその頃には紫も覚悟を決めていて、残業に逃げたくなるというようなこともなく、定時で会社を後にするとすぐに黒田の所へ向かった。
それでも、日勤に比べればかなり早く帰っていた黒田を長く待たせることになったせいか想像以上に不機嫌そうで、紫がインターフォンを鳴らした直後に玄関のドアが開かれ、いきなり中へ引きずり込まれたほどだった。
「申し開きしたいことがあれば、一応聞いておきますが?」
怒りを通り越して冷たいほどの黒田の視線に責められると、なぜか悪いのは自分の方のように思えてくる。
「だから、悪かったって言ってるだろ」
無意識に黒田を宥めようとしてしまう自分が情けない。むしろ、傷心を隠して黒田の部屋まで訪ねて来たことを褒めて欲しいくらいなのに。

逃げられるとでも思っているのか、黒田は玄関を上がってすぐの壁に両腕をついて紫の体を閉じ込めている。
そうやって巨体の影にすっぽり入ってしまえば、紫はまるで自分こそが小さな生き物になってしまったような錯覚を起こして落ち着かなくなった。まるで、本当は紫が可愛い存在になりたかったみたいに思えてきて、ますます混乱してしまう。
「仮に急用が出来たとしても、帰るのは直接言ってからにしてください。攫われたのかと、本気で心配しました」
「大げさだな、あんたの家には誘拐犯でも出るのか?」
「出ないという保障はありません。私は紫さんと出逢うまであまり褒められた人付き合いをしてきていませんので」
「あんたの身から出た錆で俺が被害を被るかもしれないってことか。なのに、それで俺が責められんのって納得いかないんだけど?」
辛辣な物言いに、浮かない顔をする黒田の事情など紫の知ったことではない。そこに、笑いごとでは済まないような深刻な事態が潜んでいたとしても。

「責めているわけではありませんよ、どうして黙って帰ってしまったのかを聞いているんです」
なおも追及しようとする黒田への言い訳は、仕事中もずっと考えていた。
「……酔ってたし、よく覚えてないんだ。気が付いたら家で寝てて」
視線は合っているようでも、瞳の奥では無意識に逸らせようとしてしまう紫に、黒田は怪訝な顔を向ける。
「それほど酔っていたようには見えませんでしたが……まさか、目が覚めたら他の男の腕の中にいたなんていうんじゃないでしょうね?」
剣呑な色を浮かべる瞳の鋭さから逃れたくて、紫は黒田の腕の狭間で身を返した。
「そんなわけないだろ、俺は家族と同居だし、誰も連れて帰ってないよ」
腕から抜け出そうとする仕草と掠れた声が、黒田の疑惑をいっそう深めてしまうと思う余裕もなく。
「確かめさせてください」
言い終えるより早く、背後から回された黒田の手は紫の上着の内側へと滑り込んできた。器用にネクタイを緩め、シャツのボタンを外しながら、はだけさせるように触れてくる。
更に降下してゆく手にベルトを外され、スラックスの前を緩められると体が硬直してしまう。
「何もないだろ? あんた、心配しすぎ」
肩越しに振り向き、紫の浮気を心配するのは杞憂だと説くつもりが、黒田の表情はますます険しくなってゆく。
「ヤ、だ……っ」
下着にかけられた手が、乱暴な仕草で下肢を露にしようとする。ずり下げられ、中途半端な位置で蟠った生地は、器用に足をかけられ、床へ落とされてゆく。
焦って暴れる紫の体は、背後から覆い被さっている厚い胸と、脚を開かせるように裏側から挟み込まれた膝に阻まれ、思うように動かせない。
「も、こんな所でそういうことすんなよ、何の跡もついてないだろ?」
「何もないなら、抵抗する必要もないでしょう?」
紫の腿を撫で上げる手が後ろに回り、尻を撫でさする。
「やめろって。俺は、あんたとは面の皮の厚さが違うんだ」
「そこまで嫌がるということは、見られてまずいものでもあるということでしょうね」
「ないって言ってるだろ? ていうか、こういうことは部屋に入ってからしろよな」
なんとか振り解こうと足掻く紫の体は強い力で押さえ込まれ、窪みを辿るように滑ってゆく黒田の指は紫の中まで調べようとする。
「うっ、つ」
乾いた指は躊躇なく中を探り、引き攣れるような痛みに呻く紫の都合など思いやってくれそうになかった。
「やめろ、って」
「ここを使ったわけではないようですね」
耳朶を舐めるように近付いた唇から発せられる声音は、情欲とはかけ離れているように感じる。
“最愛”の相手を引き止めるようなことをしていながら、紫のこともキープしておこうとする男が憎らしく、なのに、それでもいいと思ってしまいそうな自分が何より情けない。いい加減、思い切ってしまわなければいけないと頭ではわかっているのに。
「前にも言いましたが、私は浮気も本気も許しませんので。覚悟はできているでしょう?」
ささやかれる声は、産毛を逆立てさせるほどに冷たく、紫の神経を麻痺させるほどに甘く響いた。


この男から逃れるためには物理的な距離を取るしかなさそうで、いっそ転職でもしようかと、短絡的な思考に陥りそうになる。
密な関係を続けているようでいて、未だにお互いのことをよく知らないという現状は、やはり紫はただのセフレに過ぎなかったのだという結論に行き着かせてしまう。今もって、紫は黒田の出身や家族構成はおろか、交友関係の殆どを教えられていない。
それとなく尋ねたことはあるが、はぐらかすような返事をされればそれ以上詮索しようとは思わなかった。面倒がられるのも、女々しい態度を取るのも、紫のポリシーから外れている。
こんな不確かな関係では、もし黒田が突然行方をくらませるようなことがあれば、紫には行き先を想像することすらできないだろう。同様に、紫が携帯と職場を変えれば、自宅も知らない黒田がコンタクトを取る術は無くなってしまう。
こうして黒田に呼び出されれば、紫は鬱屈した胸の内を隠して会いに来ずにはいられないが、連絡する手立てを失くしたら、黒田との関係はあっけなく終わらせられる気がする。
黒田に染められた身と心が、癒えるまで会わずにいられれば。

頬を掠めた生地の感触に気付いて視線を上げる。
いつの間にか廊下に倒されていた紫の胴の辺りに、馬乗りになったまま服を脱ぐ黒田の表情はひどく不機嫌そうだった。
無言のままシャツのボタンを外し、デニムの前を緩めてゆく仕草を、呆けたように見つめる。
なぜか、黒田が紫に下腹部を晒すときにはいつも既に勃ち上らせていて、こいつは本当に性欲の塊なのではないかと思わずにはいられなかった。

「……いきなり突っ込まれたくないでしょう?」
紫がぼんやりしていたせいか、黒田の声には苛立ちが滲んでいる。
何を求められているのか察すると、紫は慌てて手を伸ばした。誇示するように上向いたそれに手をかけ、首を上げる。また喉の奥まで使われないうちに体を起こしておいた方が身のためだと、理屈より先に体が反応する。
黒田は今日は遮る気はないようで、紫の促すままに体勢を入れ替え、壁に寄りかかるように腰を下ろした。その脚の間に蹲り、催促される前に顔を伏せる。
あまり大きくしては受け入れるときに辛いだけで、紫は唾液を塗しつけるように舐め、申し訳程度に口の中へと迎え入れた。
紫の髪を弄んでいた手が、もっと奥まで銜え込ませようとするように、首の後ろを引き寄せる。強引に喉を開かせられ、ゆっくりとはいえ出し入れされると呼吸が困難になってゆく。
それでも、上から押し込まれたときに比べれば、下から突き上げられる方がマシだった。
潤みそうになる目で睨み上げながら、舌を這わせ、喉の奥まで飲み込む。挿れる気がなくなったのなら、少しでも早く終わらせてしまいたかった。

きっと、黒田が盲目的に愛し続けている相手には、こんな無理強いはしないはずだ。それどころか、“奉仕”はする方で、させることなど考えもしないのかもしれない。
思えば、紫は都合のいい相手になり過ぎて、常に流され、受け入れ過ぎてしまった。それが、余計に紫の価値を落とすことになったのだろう。
手に入らないものの方が強く心に留まり、簡単に思い通りになる紫を軽んじるのも、客観的に考えれば当然のことなのかもしれなかった。


「っう」
その大きさと深さに耐え切れず吐き出しそうになっても、黒田は紫の後頭部に回した手から力を抜こうとはしない。
「……何を考えているんです? まさか、他の男のことじゃないでしょうね?」
苛立ったような声が、見当違いなことを言う。
何故そんなに勘繰るのかわからないが、この頃の黒田は少し異常だ。他の男のことを考えているのは、きっと黒田の方なのに。
そう思うと、また昨夜の声が耳の奥に甦り、胸が痛んだ。
今も黒田の胸を占めるのはあの短気そうな男で、紫に求められているのは体の欲求を満たすことだけなのだと思い知らされる。だから、黒田は紫にこんな扱いをしてなお横柄な口をきくのだろう。

返事をさせたいのか、黒田は紫の口を解放し、顔を上げさせた。
大きな手のひらで紫の目元を覆う髪をかき上げ、頬を包むように撫で、軽く口元を拭う。
そうやって催促されてもすぐには言葉が出ず、小さく首を振ることしかできなかった。
他の男どころか、紫の頭の中は黒田のことで一杯だというのに。
たとえそれが、愛情とは対極にある感情が巡らせた思考だったとしても。

腕を引かれ、腰を抱き寄せられ、結局は挿れる気になったようだと知る。
物足りなかったのか、最初から抱くつもりだったのか、黒田は紫の脚を開かせると膝を跨がせるように腰を引き寄せ、容赦なく貫いた。
「い……っつ」
慣らされないまま擦られてゆく内部が引き攣れるように痛む。なおも腰を落とさせようとする手に逆らうように、黒田の肩に爪を立てた。
ささやかな抵抗は逆に作用したのか、いっそう深く抉られ、痛みに滲む生理的な涙が視界を歪ませる。
「……そんなに締め付けないでください、少しは我慢できないんですか?」
心なしか乱れた息が、紫の項にかかる。からかうような囁きに応える気力はなかった。
どんな評価をされようと、もうどうでもいい。
紫では役者不足なら、他の誰かを探すだろう。体だけでいいなら、黒田は相手には事欠かないのだろうから。




「泊まっていかないんですか?」
不満げな黒田の問いを、いつものように素っ気無く流す。
「明日早いんだ。心配させて悪かったと思ったから寄っただけで、長居するつもりじゃなかったし。じゃあな」
「では気を付けて」
別れの挨拶を終えても、黒田は引き止めるように紫を腕に抱いたまま、なかなか放そうとはしなかった。気を張っていなければ、また部屋へ引き返してしまいそうな危うい心地よさだ。
小さく息を吐き、心を決める。
まとわりつくような抱擁から身を抜いて、部屋を後にした。



- ドメスティック.Y(4) - Fin

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2010.1.25.update