- ドメスティック.Y(3) -



通話ボタンを押すのを一瞬迷ったのは、こんな展開になることを頭の片隅で気付いていたからなのかもしれない。
『ゆうちゃん、あいつとは上手くいってるの?』
近況を尋ね合った末の雛瀬の問いは、今の紫にはすぐには答えられないものだった。
威圧的な態度や強いられる行為の意味を考えると、やはり自分は恋人扱いされているとは思えず、精々、“目下お気に入りのセフレ”といったところだろうか。
少なくとも、若い恋人をベタベタに甘やかし、優し過ぎるとまで言わしめていた紫の恋愛感とは雲泥の差だ。
「……上手くっていうか、“大人のつき合い”だよ」
『それなら良かった、って言った方がいいのかな……ゆうちゃん、あの人にも他の誰にも深入りしないでね? 俺、ちゃんと頑張ってるから』
以前、雛瀬に言われた“もうちょっと待ってて”は依頼ではなく勧告だったのだと、わざわざ念を押されて言葉に詰まってしまった。
“恋人”という概念が黒田とは違うと思い知らされ、いつまで続けられるとも知れない関係でも、紫はどっぷり深みに嵌っている。
こんな状態では軽く相槌を打つわけにもいかず、かといって断るには説得力が足りず。
紫の沈黙をどう取ったのか、雛瀬は畳み掛けるように口説き文句を続けた。
『もし、カッコよくなる前でもよかったら、俺はいつでもオッケーだからね?俺、最初の相手はゆうちゃんって決めてるし』
できるなら、あんな男とつき合っているとは認めたくなかったが(雛瀬にはとっくに見抜かれてしまっていたが)、期待を持たせるような言い方はしてはいけないと思っている。
「ヒナがどう思ってるのかわからないけど、俺は誰とも軽い気持ちでつき合うことはないよ」
『だとしても、俺を振るのはもう少し待ってね? 俺、絶対もったいないって思われるくらいカッコよくなるから。返事はそれまで保留にしておいて?』
雛瀬のダメ押しを否定する言葉が見つけられない。
守れそうにない約束は、紫には荷が重いのに。

そう思ってはいても、近頃めっきり優柔不断が板についてきてしまった紫には、やはり明確な拒否を告げることはできなかった。








「ゆうくん、そいつ何者?」
いきなり、敵意剥き出しで二人の前に回り込んできた人影を認めて、紫は固まってしまった。
怒りに眦を吊り上げた大きな瞳が印象的な、まるでアンティックドールのように可愛らしい顔立ちは、化粧気がないせいかどこか中性的に見える。ましてや細身の体にざっくりとしたニットにデニムといった格好では、女性と見紛う美少年なのか、ボーイッシュな美少女なのか判断がつきかねるほど。
ただ、その容姿は、おそらく誰もが一目で紫の血縁者だとわかるくらいに似通っている。
「何って……カレシ、とか?」
果敢に黒田を睨み付けながら仁王立ちで紫の返事を待つ姿に、ごまかすことは無理だと悟って正直に答えた。
この超絶可愛い妹に問い詰められれば、隠しごとなど出来るわけがないのだから。
「ゆうくん、ヒナと別れてから随分趣味が変わったのね? 可愛い男子じゃなくて、何でこんな厳ついオヤジが彼氏なの?」
面と向かって罵倒されているにも拘らず、黒田は無表情に紫の出方を待っている。
こんなところは大人だと感心するべきなのか、単に相手が女性だから無視を決め込む気なのか、ともあれ紫が窘めないわけにはいかないのだろう。
「碧(みどり)、初対面の相手にそういう言い方は失礼だよ。黙ってたのは悪かったけど……帰ったら、ちゃんと話すから」
「帰ったらって、この頃ゆうくん外泊ばっかりで全然話す暇なんてないじゃない? ゆうくんの彼氏がターミネーターだったなんて、ショックで熱が出そうだわ」
碧の怒りが相当のものだと知って、黒田と一緒だということも忘れてうろたえた。昔から、紫は妹に弱くて、機嫌を損ねたり泣かれたりすると我を忘れてオロオロしてしまうのだった。
「ごめん、今日は早く帰るから」
「そんなこと言って、どうせ明日もそのまま出勤するんでしょ? ゆうくん、この頃ほとんど家に帰ってないじゃない」
言われてみれば正にその通りで、この頃の紫は通い妻を通り越して、半同棲状態に発展している。それもこれも、全ては自分勝手で強引な自称恋人のせいで、決して紫のせいではない。毎回、何だかんだと引き止められたり疲れて眠り込んでしまったりで、紫は当初の約束の“三日と空けず”以上に黒田と過ごしている。
「……じゃ、土曜は? 買い物でも映画でも、碧の行きたい所につき合うよ」
「そんなこと言って、土曜も日曜もその人の所に行くんでしょ?」
「いや、土曜は俺は朝から晩まで空いてるから大丈夫」
その日の黒田の勤務は日勤のはずで、万が一前日から泊まったとしても、朝の7時半には解放されるはずだった。
「……じゃ、土曜は一日つき合ってね?」
差し出された小指と、何気なく指切りを交わす。
碧は挑発的な眼差しで黒田を一瞥してから、申し訳程度に頭を下げて背を向けた。一応の“お許し”が出たことにホッとしながら、去ってゆく背中を見送る。
ぼんやりと碧が小さくなってゆくのを眺めていた紫は、かなり経ってから、不穏な空気を感じて我に返った。



誰かに見咎められないよう、紫はいつも黒田と会うのは職場から少し離れた場所にしている。碧に見つかったのは、おそらく意図的なものがあったからなのだろう。
「悪い、時間取らせて」
二人とも明日は休みではなく、本音を言えば、時間が惜しいと思っているのは紫の方だった。
とりあえず、予め決めてあった目的地に向かうべく黒田を促すように歩き出す。今日は軽く飲んで食事も済ませて帰る(紫からすれば行くというべきなのかもしれないが)予定だった。
「私の勤務を把握していることは褒めておいた方がいいんでしょうね」
紫の隣を歩く少し高い位置にある黒田の顔からは表情が読めず、何を考えているのかは口調からも窺えない。
「その、何て言うか……悪かったよ、あいつ、機嫌悪かったみたいで」
「紫さんが女性も大丈夫だとは知りませんでしたよ」
「そういうんじゃないって、妹だよ。見てわからなかったのか? よく、似てるって言われるんだけど」
「確かに、身内だろうと推測できるくらいには似ているようでしたが、兄妹にしてはずいぶん仲が良いような気がしましたので。それに、幼く見えましたが、幾つ離れてるんですか?」
「8つだよ。うちの家系、みんな若造りなの。ああ見えて立派に社会人やってるから」
「いい年をした妹さんに、ずいぶん甘いんですね」
それが嫌味だとは気付かず、紫はつい余計なことまで言ってしまう。
「あれだけ可愛かったら自然そうなるって。そのうえ年が離れてるから、つい甘やかしたくなんの。それくらいわかるだろ?」
「そうですね。見た目といい、年齢といい、あなたの好みに見事に嵌っているんでしょうね」
揶揄する言葉が的確に核心をついていたことに驚いて、咄嗟に“兄馬鹿”を装うことができず、動揺はもろに態度に出てしまった。
「……そういうことですか」
ひとりで納得してしまう黒田に、何が、と尋ねるのも恐ろしい。
「それで、“メンタルな恋愛”ですか?」
すっとぼける余裕もなく絶句する紫に、黒田はいつものように勝手な推論を押し付けてくる。
「いい年をしてプラトニックだなんておかしいと思っていたんですが、相手が妹では仕方なかったのかもしれませんね。男にベクトルが向いたのも、そのせいですか?」
「あんた、何言って……」
「仲の良い兄妹は珍しくないでしょうが、あなたの妹さんに対する態度は異常です」
はっきり言い切られてしまうと、何も返せなくなってしまう。よりによってこの男に見抜かれるなんて最悪だった。
「可愛い年下の男子とばかりつき合っていたのは代替行為だったんですね。プラトニックを貫こうとしていたのは罪悪感から、といったところでしょうか」
問いかけるようでいて断定的な憶測は、見当違いだとは言い切れない。
そこまで深く、妹に抱いた思いを自分で分析したことはないが、言われてみればその通りのような気がした。


「そういえば、家族構成を聞いてませんでしたね。他にも?」
めっきり口数の減ってしまった紫に、黒田は頻りに話を振ってくる。
初めて黒田と二人で会った居酒屋はあれから何度となく来ているのに、今日はひどく居心地が悪かった。
紫にしては珍しく食が進まず、ビールばかりを空けてしまう。
「……両親と妹のほかに、パールホワイトがいるけど」
「パールホワイトというのは動物ですか?」
「ハムスターだよ、ジャンガリアンの一種で白地に淡いグレーの、ちっちゃくてすごく可愛いコ」
「あなたの“可愛い好き”は人間だけじゃなかったんですね」
ため息と共に吐き出される含みのある言葉に、また紫の胸が打撃を受ける。
それが、黒田のどこにも可愛い要素がないゆえの嘆息だったなどとは、紫に気付けるはずもなく。

食べるわけでもないのに、煮物の皿を箸でつついては間を繋ぐ。
紫自身も気付いていなかった(もしくは気付かないようにしていた)胸のうちを唐突に暴かれ、いつかこんな日が来るかもしれないとは想定していなかったために、今も受け止めきれずにいる。
許容量を超えているかもしれないと思いながら、なかなか酔いが回らない苛立ちに、紫はつい飲み過ぎてしまっていたようだった。
「わ……」
不意に伸びてきた強い腕が、支えるように紫の肘を引き寄せる。
「あなたがそんなだから、つい口煩くなってしまうんですよ」
殆ど食べずに飲むだけの紫を見過ごしていた黒田も、さすがに紫の顎が頬杖から滑り落ちたときには窘める気になったようだった。
「別に、ちょっと手が滑っただけだろ、そんな言うほどは酔ってないし」
黒田に指摘されたことを考えるほどに気も漫ろになってしまい、酔っているというよりは衝撃が大き過ぎたのだと思う。
「……相手が大人で、面影の被りようもない厳つい男だったら、あなたは疾うに流されていたんでしょうね」
「何の話?」
「いえ、よくまあ30年も無事でいられたものだと改めて感動しているんですよ。本当に、私は幸運な男のようです」
何となく黒田の言いたいことはわかるが、同意できるほど紫は可愛い性格をしていない。
「それを言うなら、あんたに出逢った俺の不運、だろ?」
「いいえ、あなたと本当の意味で恋愛ができるのは強引な相手だけのようですから、私と出逢えたのはあなたにとっても幸運なことだと思いますが」
「……あつかましいんだよ」
辛うじて言い返したものの、強く否定するには説得力が足りなかった。
黒田の言うのはおそらくは真実で、その想像力だか推理力だかにはつくづく感心させられる。
こんな重大な秘密を見抜かれてしまっては、ますます黒田に敵わなくなってしまう。
そうでなくても、もう紫のキャパはいっぱいいっぱいで、あとは飽きられるのを待つばかりだというのに。
それがそう遠い先のことではないだろうとわかっていても、容量を増やす余裕は今の紫にはなさそうだった。




「悪い、先に風呂行かして」
黒田の部屋に着くとすぐに、紫は抱き寄せようとする黒田の腕を振り解いてバスルームを目指した。
「しょうがないですね……」
紫の背にかけられた声はどこか甘さを含んでいて、黒田が既に欲情しているようだと知れる。
まだ、紫が危機を感じるほどには黒田は物足りなくは思っていないようで、その猶予に却って追い詰められている。

――いつまで、黒田の気を引いていられるだろうか。
考えてもどうしようもないことを、つい気にしてしまう紫は本当に重症らしい。
熱いシャワーを頭から浴びて、長めの髪に指を通す。ごく明るい薄茶色は染めていると思われがちだが、緩いクセと同じく地毛だった。
少し強めに頭を擦り、疲れも迷いも洗い流してゆく。
手早く全身を洗い、一日の汚れを落とし切ってしまえば、体が軽くなる気がする。
ずいぶんスッキリしたのは頭の中も同じで、考えても詮無いことをウダウダと思い悩むのはもう少し先でもいいかと思えるようになった。

スウェットに着替え、首からタオルをかけた、あまり色気のない格好で廊下に出る。
リビングへと向けかけた足が、閉められたドアを越えて洩れ聞こえてきた黒田の声が誰かと話しているようだと気付いて止まる。
誰かが来ているというわけではなく、電話中のようだった。
入ってもいいものか躊躇して中へと神経を傾けた紫の耳が、最悪なタイミングで黒田の言葉を拾う。
「……一番愛してるのは稲葉さんですよ、知っているでしょう?」
一瞬でほろ酔いが飛び、世界が止まる。
ドアのレバーに伸ばしかけたまま固まった手を、下ろすことさえ容易ではなかった。
もう終わっていると思い込んでいた相手と、実は今も連絡を取っていたうえに未練を訴えるような関係だったとは、想像もしなかった。
まだ通話は続いているようだったが、黒田の声は耳を上滑りするだけで意味を捉えることはできなくなる。
聞こえなかったフリをして入ってゆくような余裕は、紫にはなかった。



どうやって帰りついたのか、朧気な記憶しかない。
気が付いた時には自室のベッドを背に、スウェットに上着を羽織ったまま床に足を投げ出して座り込んでいた。
ほとんど無意識に、帰ることを伝えるメールを打って携帯の電源を落としたように思うが定かではなく、記憶を反芻する度にバクバクと跳ね上がる鼓動は、いつまで経っても落ち着きそうにない。
気を抜けば、すぐにもポケットの重みに手がいきそうになり、慌てて上着を脱ぎ捨てた。
きっと、そこに入れたままの携帯を手にすれば電源を入れてしまう。
視界に入れないよう、ベッドへと体を引き上げて背を向け、頭からすっぽり毛布を被って耳を塞ぐ。
考えないようにしようと思うのに、他の男を一番愛していると言った男の声が、耳から離れてくれない。
あの日、紫の方が可愛くなったと言ったのは、稲葉を諦めて紫を選んだという意味ではなかったのだろうか。それとも、“可愛い”と“愛している”は黒田には同義語だというのは紫の思いこみで、全然別ものだったのかもしれなかった。



- ドメスティック.Y(3) - Fin

【 Y(2) 】     Novel     【 Y(4) 】


2010.1.7.update

黒に“異常”と言われるなんて、紫がよっぽどおかしいみたいですね。
碧はブラコンなので、厳しい小姑になると思いますーv