- 幸せの後遺症 (5) -



それにしても少し早く来過ぎたようだと思い、帰宅ラッシュで混雑する駅前から一旦離れ、近くのコンビニに立ち寄る。
今朝、出勤前の義之に、たまには外で食事しようと言われ、定時で終わるという前提で、待ち合わせて出掛ける約束をしていた。
このところ、義之の帰宅とほぼ同時にベッドへ連行されるような毎日を送っていたから、少しは自制しようと考えてくれたのかもしれないと、願望を込めて思う。
ただ、義之が記憶を失くしてからというもの、外で会うとか、里桜の実家以外の場所へ二人で出掛けるというのは初めてで、自分でも驚くほど緊張している。
だから、義之が駅に着けば連絡が入ることになっていたのに、家で待っていても落ち着かなくて、かなり早めに出て来てしまった。
かつての義之とは好みや習慣が違っている部分があるとわかっているから、迂闊な言動で気を悪くさせるような事態は極力避けたい。
それに、今の義之が里桜とのことを周囲にどの程度オープンにするつもりなのかもわからず、人目のある場所ではどう接すればいいのかも迷う。
そんな葛藤もあって、里桜は着るものにもかなり悩んだ。
いつも露出し過ぎだと怒られるから、今日はタンクトップの上にシフォンのチュニックを重ね、定番のショートパンツを合わせている。
普段から里桜の服装が可愛らしいことについては、義之に指摘されたことも非難されたこともないから、外で会うなら尚更その方が無難だろうと思い、敢えて性別を間違われそうな格好にしておいた。
もし、里桜の知らない義之の交友関係者に会っても、無駄口をきかなければ問題なくやり過ごせるだろうという、里桜なりの配慮をしたつもりだ。


視線を感じたような気がして、さして興味もないままにページをめくっていた雑誌から顔を上げると、今朝見送った時と同じ淡いグレーのスーツ姿の義之が店に入って来たところだった。
真っ直ぐに近付いて来る義之は、見惚れそうに綺麗な笑顔を里桜に向けていて、ふいに既視感に襲われる。
思えば、初めて出逢った日の、あの魅惑的な微笑みに目を奪われてしまったのが全ての始まりだった。それが意図して里桜の気を惹くためのものだったと、後に本人に言われたが、見事に嵌り込んでしまっていたことを改めて気付かされる。

「ごめん、急に人に会う用ができてしまってね。今メールしようと思っていたんだよ。待たせて悪かったね」
連絡が入るまで家に居るはずの里桜が、もう駅の傍まで来ていると知って、義之の帰りを待ち切れなかったと思われたようだ。
「あの、俺が勝手に出て来ただけだから気にしないで?用事はもう終わったの?」
「本題は済んだんだけど、会うのも久しぶりだったみたいで、積もる話があってね。いろいろ話しているうちにここまで連れて来てしまったよ」
ほんの少し後ろへと視線をやる義之に、つられるように顔を向けて愕然とした。
微妙に視線を外し、所在なげに佇む一際大柄な人影は、里桜が二度と目にしたくないと思っていた男だった。
よもや、こんなタイミングで義之の拘る里桜の最初の相手、斉藤剛紀に再会することになるとは想像もせず、無防備過ぎた体は真っ直ぐに立っていられないくらい震え、呼吸も上手くできなくなっている。
見たくないはずなのに、剛紀から目を逸らすことも伏せることもできず、傍目にも不自然なほど凝視してしまっていた。
雰囲気は里桜の記憶にある姿よりは随分と穏やかになっているようだったが、シルエットや全体的な印象はあの頃と変わらぬ格闘家のような厳つさで、体に沁みついた恐怖心が里桜を固まらせる。
面と向かって会うのはあの日以来初めてで、今思えば、剛紀の在学中も学校で見かけることはあっても顔を合わせることがなかったのは、相手の配慮もあったのかもしれない。


結局、過去から逃げることなどできるはずがなかったのだろう。
義之が忘れてしまったから、なかったことにできるような気になっていたが、こうして事実を突き付けられるたびに激しく動揺していては自分で白状しているようなものだ。
ただ、知られたくなかっただけなのに。




「知り合いだった?学校も同じだったんだし、美咲の弟だから顔見知りかもしれないとは思っていたけど」
何も知らない義之は、里桜の反応の過敏さに訝しげな顔をする。
問われても里桜には答える余裕などなく、これ以上怪しまれないよう平静を装う努力をするだけで精一杯だった。
おそらく、この状況を正確に把握しているだろうと思われる剛紀が、堪りかねたように口を挟む。
「義之さんは忘れてるんだろうけど、こいつは俺の顔も見たくないと思って……」
「やめて」
出ないと思っていた声が、震えながらも発することが出来た。驚いたように里桜を見る剛紀と目が合うのは、たぶん2年ぶりだ。
「お願い、何も、言わないで」
里桜の言いたいことは伝わったようで、剛紀は気まずそうに顔を背けた。
「まさか、里桜とつき合っていたとか言わないだろうね?」
義之はさっきまでの親しげな態度を一変させて、あからさまな敵意を剛紀に向けた。
この頃の義之は、他の誰かが少しでも里桜と性的な関わりがあるような気配を察知すると、尋常ではない独占欲を剥き出しにするようになっている。
「そういうんじゃない。こいつが一年の時、ムカついてシメようとしたことがあるから俺にビビッてるんだろ」
尤もそうな言葉でこの場をやり過ごそうとした剛紀の意図は汲まれることなく、寧ろ義之の気を逆撫でしたようだった。
「里桜に手を上げたのか?」
「軽く頬を張ったくらいだけど、荒っぽいことには縁がなさそうだったから、俺とは二度と関わりたくないと思ったんじゃないか?」
「よくそんな酷いことができたね……里桜は今でもこんなに幼いのに、二年前ならもっと子供っぽかっただろう?」
「子供だったのはそいつだけじゃないんだよ」
その言葉は寧ろ剛紀にとっては免罪符だと言いたげに呟く。
あの件が誤解から起きたことだったのも、後には里桜に悪かったと思ってくれていたらしいことも聞いて知っていたが、まだ体の拒否感が強く、会話に入ることは出来なかった。


「俺、このあと予定あるから」
込み入った話をするような環境ではなく、かといって場所を変えてまでつき合う気はないと、言外に告げて剛紀が店を出てゆく。

「僕たちも行こうか?」
ごく自然に肩を抱かれ、思わずその胸へ縋りたくなる。
息苦しいほどに抱きしめられて、大丈夫だよと言われて、前のように安心させて貰えたら。

「里桜?」
じっと、衝動が行き過ぎるのを待っている里桜に、心配げな声がかけられる。
今の義之が里桜の胸の内など知るはずもないのに、ふいに強い力で引き寄せられ、包み込むように抱きしめられた。
店内にはそれなりに人がいるのに、義之は全くといっていいほど人目を気にしていないようで、それどころか、まるで里桜を自分のものだと主張するために態と密着しているかのようだ。

知らず詰めていた息を吐いて、義之を見上げる。
「あの、俺、高校生だし、こういうのはちょっとダメかも」
なるべく気を悪くさせないよう、そっと胸元を押し返す。
「そうだね……外では気を付けないと、きみはかなり幼く見えるから、僕は犯罪者に間違われてしまいそうだね」
意外なほどすんなりと体が離れ、背に回されていた手が里桜の手に絡む。
「このくらいなら構わないかな?」
「たぶん」
甘い声で囁かれては嫌だと言えるはずもなく、里桜は義之と手をつないで店を後にした。




行き先は告げられなかったが、義之は最初から決めていたように躊躇なく駅の方へと進んでゆく。
外で手をつなぐのはいつだってドキドキしていたが、今の里桜の胸は少し違った意味合いで高鳴っている。

「あ、あの」
食べられないものは殆どない里桜はどこに連れて行かれても困ることはないだろうが、やはり一言くらい尋ねてくれてもいいのではないかと思う。
立ち止り、里桜を見下ろす義之の眼差しは険しく、先の剛紀とのやり取りでは納得していないことに気付く。
自分から話を蒸し返すきっかけを作ってしまったようだと悔やんでも、手遅れだった。
「帰ってからにしようと思っていたんだけど……きみも気にしているようだし、先に話そうか」
歩道とは逆の、店舗の脇へと促され、つないでいた手を解かれる。
義之は行き交う人から隠すように、建物を背にした里桜の前に立ち、背を屈めて顔を近付けてきた。
「昼休みに、美咲から結婚することになったっていうメールが来てね。僕としてはいろいろ思うところもあるわけだけど、もう意見するような立場ではないし、ひとまず剛紀に話を聞いてみようと思って連絡したんだよ。でも、剛紀の都合がついたのが夕方でね。わざわざ会社まで来てくれたんだけど、きみとの約束があったし、話しながら帰って来たというわけだよ」
「そう、なんだ……」
思いがけず剛紀の姿を目にしたときには本当に驚いたが、今の義之からすれば、当然の選択だったのかもしれない。
ただ、よりによって今日でなくても良かったのではないかと恨みがましく思わずにはいられないのだったが。

「もう少し、剛紀の近況とかも聞くつもりでいたんだけど、それどころじゃなくなってしまったからね」
呆然と見上げる里桜を、見つめ返す義之の目元が訝しげに細められる。
そっと、里桜の肩に置かれた手が逃げ道を塞ぐ。
「そういえば、きみの“前の彼”は随分きみに入れ上げていたそうだね。剛紀は思い込みが激しい方だし、きみのように可愛い子が相手なら、心配のあまり暴走してしまっても仕方ないかな」
義之は、まるで自分の想像が正解だと確信しているような言い方をする。
「違うから……俺、あの人とはつき合ってないから」
必死に否定してみても、里桜の声は弱々しく、説得力に乏しい。
そうでなくても、ごく間近から瞳を覗き込まれれば何もかも白状してしまいそうになるほど、今も里桜は義之に弱いのに。
「本当に?剛紀とつき合ってたことはない?」
「うん」
「それなら、剛紀と浮気でもしたのかな?」
いくら知らないとはいえ、あまりの言葉に血の気が引く思いがする。
「きみは嘘を吐くのがヘタだね」
「違うから……俺、本当に、あの人とは」
「きみの怯え方は尋常じゃないよ。もしかして、きみの最初の相手は剛紀だったの?」
全く的外れのことを言っているようでいて、正解を言い当ててしまう義之が恐ろしい。

今にも足元から崩れそうだと察したのか、義之の腕が背に回される。引き寄せられるままにその胸元に身を預け、顔を隠す。
「剛紀とは僕とつき合う前から?」
「……知り合ったのは、あの人の方が先だけど……」
実際には知り合ったというような穏やかなものでなく、呼び出され脅かされたというのが真実だったが、そんなことを言えるはずもなく。
言い淀むうちに、義之の推測が事実であるかのような雰囲気になってしまう。
「きみとつき合ったのは僕の方だったということ?」
「ううん……義くんとは最初はつき合ってたわけじゃなかったから……お茶とか食事とか連れて行って貰ってたけど、デートっていうんじゃなくて」
かつて、義之はそれを“意図的に里桜の気を惹いた”と言っていたから、デートだったと解釈しても間違いではないのだろうが。
「でも、実質つき合っていたということだろう?過去でも、僕は慎重になり過ぎて、他の男に付け入られる隙を作ってしまったのかな?」
まだ里桜の浮気を疑う義之は、自分の方こそが浮気相手だったとは思いもしないようだ。
ともあれ、その結論に義之は得心がいったようで、それ以上里桜を追及するのはやめて、当初の約束を実行する気になったようだった。



- 幸せの後遺症 (5話) - Fin

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2010.12.31.update