- 幸せの後遺症 (6) -



昨日とほぼ同じ時間に、同じコンビニで、違う相手を待つ。
とてもではないが、今の里桜には時間潰しのために雑誌を手に取って見るような気持ちの余裕はなく、眩暈を起こしてしまいそうなほどに緊張している。
幸いというべきかどうかは自分でもわからないが、さほど間を置かないうちに、できることなら会いたくないと思っていたはずの相手がこちらに向かって来るのが見えた。
迷いながらも、昨日の今日でまた注目を浴びるような事態になってはいけないと思い直し、とりあえず店の外に出る。

まだ仕事の途中なのか剛紀は青いツナギ姿で、近付いてくる歩調はかなり速い。
向けられる視線で、剛紀も里桜に気付いているようだとわかっても、目を合わせるのはひどく勇気が要った。
そうと察しているように、敢えて距離を置いて立ち止まる相手をおそるおそる見上げてみれば、里桜の思い込みとは違って、今の剛紀はごく普通の社会人然としている。
「あ、あの、ごめんなさい、急に」
上手く言葉の続けられない里桜から、やや視線を外すのは、剛紀も気まずいと思っているからなのだろう。
「まさか、そっちから呼び出されるとは思わなかったから驚いたけど……おまえ、姉貴とも仲良かったんだな」
「え、と、仲いいっていうか、義くんが入院したときにもお世話になったし、いろいろ相談に乗ってもらったりしたから……」
当然のことながら、里桜が剛紀の連絡先など知っているはずもなく、美咲に相談がてら事情を話し、会う手はずを整えてもらったのだった。
「みたいだな、また説教されたよ」
「ごめんなさい、どうしても、お願いしておきたいことがあったから」
「たとえ死んでくれって言われても、きかないわけにはいかないんだろうな」
冗談を言っているようには見えない表情は、あの頃のいつキレるかわからない短気そうな男とはまるで別人のようだ。
「……義くんの記憶が三年くらい失くなっちゃったの、知ってるでしょう?最初は俺とのこと、なかなか納得してくれなくて。今は先輩とのこと疑ってるみたいで、いろいろ聞かれるかもしれないけど、本当のことは言わないで貰いたくて」
「頼まれても喋りたいような話じゃないだろ」
「でも、義くん、先輩と仲良いみたいだし、知りたいと思ったらしつこく聞くと思うから……」
義之は里桜の前では納得したような素振りを見せていたが、いつ剛紀を問い詰めないとも限らず、早く話を付けておかなくてはと焦っていた。
「まあ、簡単にはごまかされてくれなさそうだな」
「ていうか、義くん、先輩と俺がつき合ってたと思い込んでて……その、先輩が俺の初めての相手だって」
「この間、ヘンな空気になったのって、そのせいか?」
「たぶん」
「まるっきり見当外れってわけでもないだけに困ってるんだな?」
きっと、剛紀は里桜の最初の相手を前の恋人だと思い込んでいるのだろう。
だからといって、そんな誤解まで解く必要はなかったが。

なるべく手短に済ませたいと思うあまり、場所を変えるとか、せめて入り口付近を避けてもう少し人目に付きにくくするとかいったような配慮をするには至らず、切羽詰まった顔で剛紀に対峙する里桜は、後から思えば周囲の興味を引くような行動を取ってしまっていたかもしれない。

「おまえには関係ないけど、俺、あの時の彼女と結婚してるから」
「えっ……」
「ちゃんと働いてるし、浮気もしてないし、元からおまえには興味ないし、そう怯えるなよ。もし、義之さんと拗れてるんなら協力するけど、俺の“役どころ”は決まってるのか?」
すぐに答えられないくらい、里桜は剛紀の変貌ぶりに驚いてしまった。
あの件のあと、誤解だったとわかって彼女とよりを戻し、就職や結婚をして、剛紀はすっかり真面目になっていたようだ。今まで里桜が知ろうとしなかっただけで。


大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
会うまでは、そんなことを考えもしなかったのに、今は克服できそうな気がしていた。
「しばらく、じっとしててくれる?」
ただならぬ気配を醸し出し、声を張り詰めさせてしまう里桜に、剛紀は驚いたような顔をする。それでも、仮に里桜が本気で殴ったところで大したダメージはないだろうとでも思ったのだろう。
震える指先を伸ばし、里桜の頭より高い位置にある肩に触れ、見た目通りの硬い胸板へ、そっと頬を近付ける。
剛紀の胸に凭れた瞬間、今にも記憶がフラッシュバックしてきそうになって、体が固まってしまった。
「おい?」
うろたえたような声をかけながらも、剛紀は里桜が頼んだ通り身動きもせず、突っ立ったままでいる。
答えたいのに、声が出ない。
もう怖いことは起きないとわかっているのに。剛紀が里桜を害する気などないことも、過去に起きたことを間違いだったと認めて改心していることもわかったのに。
何度自分に言い聞かせてみても、震えは止まらず、次の行動に移ることができなかった。




「ひ……っ」
不意に肩を掴まれ、恐怖のあまり気が遠くなる。
倒れそうな体を奪うように抱きしめる腕が、大好きな人のものだと気付くより先に、剛紀がよろめくのが視界の隅に映った。
耳が拾った鈍い音と、抱かれた体が不自然に揺れたことで、義之が剛紀を殴ったようだと知る。
「二度と里桜に近付くな」
そんな荒い言葉遣いも、低い声も聞いたことはなく、また里桜の知らない義之の一面を見せられたような気がした。
「……わかってるよ」
短く答える剛紀は一言の弁解もせず、心得たように立ち去ってしまう。
誤解だとか、近付いたのは里桜の方だとか、説明しなければと思い至ったのはずっと後で、なぜ自分が義之の腕の中にいるのかがわからず暫し呆然としてしまっていた。
「え、と……何で、急に……?お仕事は、もう終わったの?」
とりあえず抱擁を解いてもらおうと義之に掛けた声はまだ少し震えていて、里桜は自分で思う以上にダメージを受けているのかもしれなかった。
「終わったというか、まあ、それなりにね。ここに来たのは美咲が連絡をくれたからだよ。里桜に頼まれて剛紀と会う段取りを付けたけど、もしかしたら大変なことになってるかもしれないから早く帰った方がいいって脅かされてね。実際、駆けつけてみれば、きみは剛紀に抱きついているし、本気で殺意を覚えたよ」
義之の思う“大変なこと”と、美咲の心配するそれとは全くの別物なのだったが、そう言えないからこそ、こんなややこしいことになっているのだろう。
「言い訳は今はいいよ、もう自分を抑えている自信がないからね。きみと話すのは帰ってからにしよう」
背中を抱く腕が外され、代わりに指を取られる。義之は里桜と手をつなぐと、少し早足に歩き出した。
一見、平静を取り戻したように見えるのに、滲み出す憤りは触れあった指からも伝わってくるようで落ち着かない。
10分あまりの道のりが途方もなく長く感じられるほど、無言で歩くのは息が詰まる。それでも、何か話しかけようにも義之の頑なな雰囲気に圧倒されて言葉にはできなかった。

家に帰りついても手は解かれず、いっそう早い歩調で寝室に連れて行かれる。
少し荒い動作でベッドに座るよう促され、里桜の正面に立ち、身を屈めて近付いてくる義之は本当に限界のようで、上辺の優しささえ取り繕えなくなっているようだった。
見据える瞳の鋭さに怖気づいて、つい俯いてしまう。それが余計な怒りを煽ってしまうと、わからないわけではないのに。
「きみは僕を好きなんじゃなかったの?」
速まる動悸で息が苦しくて、すぐには答えられない。
「まだ剛紀に未練があるの?」
弱々しく首を振る里桜の真実など義之には想像もつかないらしく、覆い被さってくる体は、ただ縛めるためにあるようだ。
「そうだとしても、放すつもりはないよ」
耳許へ近付く唇さえひどく恐ろしく感じて、逃げ出したい思いに駆られる。
「や」
少しでも距離を取りたくて義之の胸に突っ張る腕に力はなく、難なく抱き込まれ、ベッドへと倒されてゆく。
里桜を見下ろす眼差しは狂気じみて、見つめ返せず目を瞑る。頬を撫で、首筋へ滑ってゆく手に身が竦む。 義之の執着は度が過ぎていると、改めて思い知らされたような気がした。
「きみは僕のものだろう?」
抗う腕を軽く躱し、服を乱してゆく手に淀みはなく、自分の言葉を確かめるように肌に触れてくる。
はだけた胸元を弄られ、大きく仰け反った。そこへ落ちてくる唇に捕らわれ、体が跳ねる。絡みつき、吸い取られてしまうような錯覚に、歯を当てられる甘い痛みに、芯まで痺れて体の自由が利かない。
待って欲しいのに、里桜が誘惑に弱いと知っている指先は、性急に煽り立てようとする。
その執拗さに、以前、里桜を自分のものだと思えるまで抱いていないと不安だと言われたことを思い出す。
きっと、義之が思う以上に、里桜は義之のものなのに。
伝えられないもどかしさに、涙が溢れた。
「きみが泣くと、どうしようもなく欲情すると前にも言ったと思うけど……ごめん、もう抑えられそうにないよ」
「や……いや」
荒っぽい動作で一気に下肢を剥かれ、膝を大きく開かれ、押し上げられる。晒された後孔へ近付く吐息に怯えて身を捩ってみても、力でも敵うはずがなかった。
「やぁっ……んっ」
こじ開けるように中まで押し入ってきた舌先に、腰が跳ねる。
探るように丹念に襞を広げ舐め濡らしてゆく感触に堪らず喘ぎ、義之の髪へと指を伸ばした。
顔を上げ、里桜を見る欲情に塗れた目元が、ふっと笑む。
「ああっ」
舌の代わりに埋められた指は、咄嗟に締め付けた粘膜を宥めるようにやんわりと擦り、少しずつ奥まで進んでゆく。
ゆっくりと抜き差しをくり返し、最初の指が馴染むともう一本増やされ、また念入りに解され、里桜の体はすっかり緩められてしまう。
「は、あ、ん、ん……」
いっそもどかしい刺激に、体は勝手に熱を上げ、腕はいつの間にか義之の肩にしがみついて、まるで待ち望んでいるかのように膝が開き、腰が浮く。
「きみは本当に可愛くて淫らで、誰にも見せたくないな。まして、触れさせるなんてあり得ないよ」
ずいぶんなことを言われているようだと頭の片隅では分かっているのに、魅入られた体は言うことをきいてくれず、義之に止めを刺されるのを待ちわびている。
「も……っ」
ねだるより先に、熱く猛りきったものが押し付けられ、半ば迎えに行くような勢いで受け入れた。奥まで満たされ、それだけで頭が真っ白になるくらい気持ちが良くて、軽く意識が飛ぶ。
もう、どれだけ揺さぶられても激しく突き上げられても、感じるのは快楽ばかりだった。






きっと、里桜にだけ著しく作用するフェロモンのようなものが、義之から溢れ出しているのだとしか思えない。でなければ、こんなにも感じ入って、断続的な絶頂感に襲われるはずがなかった。
もう限界だと思うのに、義之に求められれば何度でも体は綻び、嬉々として応じてしまう。大事そうに抱きしめられて、優しく口づけられれば、どんなことでも許せてしまうような気さえする。


「……ほかの人を好きだったんなら、僕が記憶を失くしたときに逃げていればよかったんだよ」
囲い込むように抱かれた腕の中で聞く声はどこか弱気に響いて、里桜を驚かせた。
「俺が好きなのは最初から義くんだけだよ。他の誰も、好きになったことない」
いくら言っても信じてもらえないのかもしれないが、全てはその事実に終始しているというのに。
「それなら、どうして剛紀に抱きついてたの?あんなところを見せられて、きみが剛紀を好きじゃないとは思えないよ」
少し考えて、嘘ではない言葉を見つける。
「……俺、大きな男の人が苦手っていうか……すごく怖くて。先輩のことは特に苦手だったけど、もう大丈夫そうな気がしたから、ちょっと触らせてもらおうと思って頼んだんだ」
「そういえば、僕が触れるときにも、きみはいつも体を強張らせるね」
意外なほどすんなりと、義之はその部分を理解してくれた。義之は骨太なタイプではないが、背が高いから、里桜の苦手意識を刺激していると思ったのかもしれない。
「でも、わざわざ他所の男で試さなくても、僕にだけ慣れればいいんだよ。別に、他の男には一生触れなくてもいいんだからね」
真顔でそんなことを言うが、思えば義之の心境がどうしてそんなにも変化したのか不思議だった。
「……義くんだって、最初は俺のこと持て余してたでしょう?里帰りしたままにしておけばよかったのに、どうして放っておかなかったの?」
里桜が諦めようと思った途端に、それまで素っ気なかった義之が急に里桜に執着し始めたのは今もって謎だ。
「持て余していたわけじゃないよ。ただ、きみはあまりにも幼く見えたし、僕には“前科”があるようだったから、慎重にならないわけにはいかなくてね。きみが実家の方へ帰っている間も、本当はすごく気掛かりだったよ。里帰りする前に、終わりにしたいっていうようなことを言っていたし、もう戻って来ないんじゃないかって心配でね。しかも、きみは隣まで来てるのに僕には顔も見せずに帰ってしまうし、内心では酷く焦っていたんだよ」
実際のところ、里帰りとは名目だけで里桜はそれきりにするつもりでいたのだから、義之の焦燥は根拠のないものではなかったのだった。
「ごめんね。でも、義くん、お仕事やおつき合いで忙しそうだったし、結婚してた時は家事もしてたって聞いてたから、俺がいなくても構わないかなって思って」
「きみがいなくて不便だったから引き止めたわけじゃないよ?もっと時間をかけるつもりでいたのに、まさかきみの方は別れたつもりでいたとは思いもしなかったから歯止めがきかなくなってしまってね」
そのときのことを思い出したのか、義之は目元に怒りを滲ませた。
「だって、義くん、病院から帰ってからずっと、俺と一緒にいるのイヤみたいだったから、元に戻るのはムリなんだろうなって思うようになってて」
「嫌だったわけじゃないよ、不安にさせて悪かったね。ただ、僕も記憶が無くなっているとわかって仕事のことで焦っていたし、美咲のこともすぐには割り切れなくて、きみを思いやる余裕がなかったんだ。状況を受け止めて気持ちを整理するには時間が必要だったし、だから、落ち着いてきて、きみとのことを真剣に考えるようになった頃に別れると言われて物凄くショックでね。もう僕のものだと思い込んでいたし、絶対に退けないと思ったよ」
そんな風に、里桜を愛さなくてはいけないと思い込む必要はないと、ずっと言ってきたのに。
「どうして?義くんモテるんだから、俺に拘らなくても相手には困らないでしょう?」
「きみがいるのに、他の人に目を向ける必要がないだろう?記憶は戻らなくても、僕がきみに夢中だったというのは間違いないのに……写真もそうだけど、何より自分でも不可解なくらい、きみに対する執着心が凄くてね。たぶん、理屈じゃないんだよ。きみを離したくないっていう思いは忘れようがなかったんだろうね」
里桜を説得するというよりは、義之は寧ろ自分の感情を確認するように結論付けた。
もしもそれが本当なら、里桜にとってはこの上ない救いで、長年の後ろめたさや悲観的な思いから解放されると言っても過言ではない。
「剛紀のおかげで、僕が独占欲の塊になっていたというのが本当だったとわかったよ。きみが他の男と会っているかもしれないと思うと、仕事にも身が入らなくてね。いっそ、ずっと部屋に閉じ込めて隠しておきたいくらいだよ」
その思いの丈を証明するかのように、義之は腕の中の里桜を更に引き寄せ、ギュッと抱きしめた。
頭を包むように回された腕から、そうっと顔を上げ、義之を窺い見る。
「あ、あの、義くんって、元々束縛とかしない人なんじゃなかったの?なんで、俺だけ」
「元々って……ああ、美咲に聞いたのか。彼女とは恋愛していなかった期間が長くてね。それまでの恋愛遍歴をお互い知っているのに、今更という感もあって、そういう風にはならなかったな」
「それなら、俺のことも、義くんの他につき合ってた人がいるって知ってるんだから同じことでしょう?」
言いながら、二年前にも同じような押し問答を交わしたことを、少し懐かしく思い出した。
「きみはダメだよ。最初から僕のだって思っていたからね。僕以外にきみを知っている男がいると思うと、思い出ごと抹殺したくなるよ」
その過激な言いように、改めて別人ではないことを実感する。
「これ以上厳しくされたくなかったら、もう二度と剛紀にも他の男にも近付かないようにね?」
「な、それはあんまり……」
横暴過ぎると、剛紀はともかく他の男にも近付くなというのは無理だと言おうとしたのを見越したように、義之は腕の拘束を強めた。
「きみと前の男とのことを、昔の僕は知っていたんだろうけど、せっかく忘れたんだから、もう思い出させないでくれないか?」
ふと、その言葉の真実に気付きそうになる。
ずっと、忘れて欲しいと里桜が思っていたように、義之もなかったことにしたかったのかもしれない。思い当たるのは里桜のことだけでなく、記憶を失くす前に様子がおかしかったことも、その原因になっているのだろうか。

小さく首を振って、猜疑心を払う。
もう確かめようもないことまで、今の義之を疑っても意味のないことだった。
「でも、ゆいさんは“男”に入らないよね?あっくんの奥さんみたいなものなんだし、“例外”だよね?」
一瞬黙った義之が、不満げな声で答える。
「……微妙なところだけど……きみを誰にも会わせないというわけにはいかないだろうし、実家と隣くらいは許さないと仕方ないかな」
「え、うちとお隣だけ?」
「これでも、かなり譲歩したつもりだよ?いくら奥さんみたいなものと言っても、彼は男なんだからね」
それが嫌なら実家だけと言われそうな気配を察知して、反論を引っ込めた。
「じゃ、当面はそれでも……どうせ休み中は他の予定は入れられないんだし」
深く考えずに了承した里桜に、義之は漸く満足そうな顔をする。

きっと、休みが明けてからも里桜の新しい生活環境は窮屈なものになるのだろうが、やっと義之が自分だけのものになるのだとしたら、それ以上望むべくもないと思えた。



- 幸せの後遺症 (6話) - Fin

(5)     Novel


2011.1.1.update