- 幸せの後遺症 (3) -



来た時と同様、義之の運転する車のサイドシートに座り、里桜は漠然とこれからのことを考えていた。
実家に通うのは夏休みの間だけなのだとしたら、あと半月ほどだろうか。
このところは隣家に通い詰めていて、来望の面倒を見ることもサボり気味になっていたから、母の言葉は里桜を諭す意味もあったのかもしれない。
「向こうに行くのを午後以降にしてもらうと都合が悪いのかな?それなら仕事の帰りに迎えに寄れるけど」
里桜が黙り込む理由を察したように声がかけられる。義之が母に言った言葉は、その場限りの社交辞令というわけではなかったようだ。
「午後でも夕方でもお母さんの都合は大丈夫だと思うけど、義くんが仕事の後で迎えに来てくれるんだったら、晩ご飯も向こうで一緒させてもらうことになっちゃうよ?」
普段の帰宅時間や会社からの距離を考慮すると義之が来れるのはおそらく9時近くなるはずで、それから帰って食事をするのでは随分遅くなってしまう。当然、両親は食事を済ませてから帰るように勧めるだろうし、もし料理だけもらって帰るにしても時間のロスにしかならない。
そうでなくても里桜の睡眠は日に日に足りなくなっているのに、今以上に就寝時間が遅くなれば、義之の要求についていけなくなるのは目に見えている。
「僕は構わないけど……ふたりきりで過ごす時間が短くなることを心配してくれてるの?」
義之の声音が甘さを増してゆくと、運転中の今は何もされないとわかっていても、知らず頬が熱くなる。
そんなつもりで言ったわけではなかったが、結局はそういうことなのかもしれない。義之が里桜に合わせる気がないかぎり、体力のない里桜に負担がかかるのは目に見えている。
ふと、回避するひとつの方法を思いつく。
「義くん、いっそ、くーちゃんをうちに預るのはダメ?それなら、うちの親に気を遣わなくていいし、時間も無駄なく使えると思うんだけど」
「子供は嫌いじゃないし、あの子はきみに似て可愛いと思うけれどね……正直なところ、今はきみとの時間を誰にもジャマされたくないかな。もし、きみに子供ができるとしても、もっと先でいいよ」
二人きりになったせいか、義之は率直な言葉で里桜の提案を却下した。
以前の義之はとても子供を欲しがっていたようだったから、そんな風に言われるのは意外な気がしたが、父親になり損ねたことも知らない今の義之は、それほどの父性を持たないのかもしれない。
だとしたら、里桜は少なくとも今はまだ、産めないことで悩まなくて良いのだろう。遠からず、同じ壁に突き当たる日が来るのだとしても。



結局、これといった代替案も思いつかないうちに、帰るべき家の駐車場に戻って来ていた。
途中からぼんやりと物思いに耽っていた里桜を眠っていると思ったのか、一旦車を降りて助手席側まで回って来た義之が外からドアを開ける。
里桜に覆い被さるように近付いてきた義之にシートベルトを外され、首の後ろと膝の裏に手をかけられたところで、唐突に夢見心地から覚めた。
「あ……え、と」
「きみが寝てる間に帰って来たんだよ、連れて行くからしっかり掴まって」
「え、え?」
引き寄せられ、軽々と抱き上げられた体が宙に浮いた感覚に驚いて、慌てて義之の首に抱きつく。
まさか義之がそのまま部屋まで運んで行くつもりでいるとは想像もせず、降りようと身を捩って、いっそう強く抱きしめられる。
「暴れないで。ちゃんと掴まってないと危ないよ」
義之は里桜が状況を理解するのを待ってはくれず、まるで結婚式を上げたばかりの花嫁にするように腕に抱いたまま部屋に戻ったのだった。






「俺、淳史さんのお母さんが子供に固執する気持ちがなんとなくわかったような気がする」
ソファの背凭れに抱きつくように寄り掛かっていた体を起こして、優生はほんの数時間の間でやつれてしまった面を里桜に向けた。
どうやら優生は本気でそう思っているようだったが、微妙な心理を慮ってなるべく無難な言葉を選ぶ。
「子供って無条件に可愛いもんね。すごく大変な時もあるけど、癒されるっていうか、元気を貰うっていうか」
「俺の場合は元気を貰うっていうより、取られるって気もするけど……見てるぶんには天使だよな」

延び延びになっていた、優生を里桜の実家に連れて行って来望に会わせるという計画をやっと実行したのだったが、日ごろ静かに暮らしている優生にとっては、元気の有り余っている来望の相手は想像を絶する重労働だったようで、自宅に戻るや否や、崩れるようにソファに座り込んでしまった。
あまり人見知りのない来望は、里桜の連れて来たお客さんを大歓迎してすぐに遊びに誘っていたが、優生の方はおっかなびっくりといった風で、なかなか慣れられないようだった。
しかも、見た目だけは女の子のように可愛らしい来望の中身は相当なやんちゃ坊主で、1歳を過ぎた頃からますます活発になってきている。今日も、ビデオを見ながら踊ったり走ったり、ブロックを放り投げてみたり、片時もじっとしていることがなかった。挙句は乗用玩具のショベルカーを室内で乗り回し、床や壁に新たな傷を増やしていた。本人が無傷なことから運動神経は良いのだろうと思われるが、怖いもの知らずな上に少々乱暴で、見ている方の肝が冷えてしまう。もちろん、危ないことや悪いことはくり返し教えるようにしているが、躾とはひどく根気と忍耐力が要ることだと思い知らされる。
それでも、舌足らずの幼児言葉や、遊び疲れて行き倒れたように眠る顔は本当に愛らしくて、癒される場面も多々あるのだったが。

「やっぱり、ゆいさんも養子とか考えてるの?」
寧ろ深刻なのは里桜の方かもしれないと思いながら、隣家の予定を尋ねてみた。
「考えないわけにはいかないだろ?淳史さん、お母さんにすごく勧められてるみたいだし、もし本当にそういう話になったとしたら、俺は嫌とは言えないよ」
「そっか……難しいところだよね」
隣家の、あまり芳しいとは言えなかった嫁姑的な関係を知っているだけに、優生の立場としては断りづらいのだろうとわかる。
「……でも、俺、とてもじゃないけど子育てなんてできそうにないんだよな……今日、里桜を見てて、やっぱ俺には無理って思った」
「そんなことないよ、くーちゃんはすごく活発だから。よその子はもう少しおとなしいと思うし、接してるうちに慣れてくるし、大丈夫だよ」
これまで優生は小さな子供や赤ちゃんと接する機会は殆どなかったようだから、何となく苦手意識を持っているだけなのだろう。特に、来望は快活過ぎる性格だから、圧倒されてしまったに違いない。
「もし本当にそうなったら腹くくるしかないけど……里桜のとこは?やっぱり、くーちゃん養子に貰うの?」
「ううん、義くん、今は子供はいらないって言ってるし、預るのもダメって言われちゃった」
「じゃ、養子の話自体、白紙撤回ってこと?」
「そうみたい。もし、俺に子供ができるとしても、もっと先でいいって」
「それって、里桜を子供に取られそうとか、ベタベタできなくなるとか、そういう理由だろ?」
「まあ、そんな感じみたいだけど……」
優生の読みは的確で、まさしく義之はその二大理由で来望を預ることを反対しているのだった。
「あー、もう。なんだかんだ言いながら、結局ラブラブになっちゃってるんだよな。なんか、俺的にはあんまりおもしろくないなあ」
「義くんにとっては“新婚”みたいな感じらしいから見逃して?それに、俺が里帰りしたりしてたから、心配性になってるんだと思うよ」
「逃げられると追いかけたくなる生きものらしいから仕方ないんだろうな。でも、そんだけ求められてるっていうのはちょっと羨ましいかも。またキスマークが増えたりした?」
優生の追及は、詰まる所いつもそこに行きつく。単におもしろがっているのか、純粋な心配なのかわからないが、隠すのもためらわれ、つい話し過ぎてしまう。
「どうなのかな、痕つけないでって言ってるんだけど……途中からわけわからなくなっちゃうから」
「見せて?」
相変わらず優生のスキンシップは過剰な上に素早くて、抗う間もなくソファの背に押し付けられるような体勢に押さえ込まれていた。




まさしく、その手が襟元を引っ張ろうとした瞬間、玄関の方から聞こえてきた物音に二人して固まった。
「うそ、もう帰って来た?」
優生が疑問形で呟くのも当たり前で、夕方とはいえ、まだ夕飯の用意にも取りかかっていないような時間だ。
とりあえず不適切な体勢から抜け出さなくてはと、押し退けようとした優生の肩越しに、居るはずのない人が現れた。
「あ、義くん……え、と、おかえりなさい?」
「えっ」
慌てて振り向く優生の体が硬直してゆくのは、義之が秀麗な顔を歪ませたからなのだろう。
「里桜に触らないでくれないか」
優生の肩を押し退け、里桜を引っ張り出す義之の手の勢いによろめきながらも、その胸に身を落ち着けた。
すっぽりと抱きしめる腕は、まるで優生には見せたくないとでも言いたげに里桜を覆う。
「ここに来るなって言わせたいの?」
いつもは甘い声が僅かにトーンを落としたせいで、特にきつい口調だったわけでもないのに怖くなる。義之の機嫌を損ねたら、本気でそうされかねないとわかっていた。

「そういうことは帰ってからやれ、目ざわりだ」
後から入って来た淳史の、やや低められた声に慌てて身を離そうとしても、義之の腕は緩みそうにない。
「すぐに帰るよ。僕の心配は杞憂じゃなかったようだし、里桜とよく話し合う必要があるようだからね」
優生に帰宅の“挨拶”をしていた淳史はそれに答えず、義之よりは控えめに、恋人を腕の中に抱きよせた。
「あの、何かあったの?こんな時間に二人揃って帰ってくるなんて」
優生の声が、心なしか責めるような響きを帯びる。早く帰るなら、メールのひとつもくれていればよかったのに、というのは主婦的立場としても当然の要求だと思う。
「義之がな、おまえが里桜に“悪さ”するんじゃないかと勘繰っていたから、二人でいるところを抜き打ちで見に戻ればいいだろうということになったんだ。俺も、まさか義之の心配するような事態になっているとは思ってなかったからな」
不適切な体勢は淳史にも見られていたようで、言葉ほど気分を害している風ではなかったが、嫌味のひとつも言わずにはいられなかったようだ。
「誤解だよ、俺が里桜を襲うわけないでしょう?」
「おまえはじゃれているだけのつもりでも、あんなところを目の当たりにしたら庇いきれないだろうが」
淳史の言うのは尤もで、異常な独占欲に駆られた今の義之が納得するわけがなかった。
「下心が無くても、里桜に触れるのは許さないよ。変な関わり方を改めるつもりがないなら、もう里桜と会わせるわけにはいかないな」
優生の不謹慎さは今に始まったことでなく、かといってそんな大層なことにはなり得ないのに、義之は警戒を強めたようだった。
記憶を失くす前には里桜がいじけそうになるくらい優生を気にかけていたのが嘘のように、今の義之は優生に厳しい。平穏で快適な近所づきあいを妨げてしまいそうなほども。

「義之さん、知らないみたいだから言っておくけど、俺は里桜の“癒し担当”だよ?」
「どういう意味かな?」
優生にではなく、義之は腕の中の里桜に問いかけてくる。
「どうって……そのままだよ?ゆいさん、マイナスイオン発生してるから。いつも癒してもらってるんだ」
「そんなことを言われると、なおさら会わせたくないな。里桜は僕だけじゃ足りないの?」
「……ごめんね」
寧ろストレスの原因のほぼ全てが義之にあるというのに、こんな状態で優生を取り上げられたら、里桜はまたネガティブ思考に陥ってしまうだろう。義之と良好な関係を続けていくためにも、里桜の避難場所は必要不可欠だった。




「納得がいかないよ」
怒りも露わにそう言い切られてしまうと、正直に返していいものか迷い、つい顔を俯けてしまう。
それが気に入らなかったようで、後頭部にかけられた手に少し強引に上向かされ、否応なしに視線を捕らわれる。里桜が思う以上に義之は真剣だと知って、この場だけを凌ぐことは断念した。
「里桜は僕より彼の方が好きだということ?」
「何でそんな……義くん、極端すぎだよ。思い込み激しいし、俺の言うこと全然聞いてくれないし、展開も早過ぎてついていけないよ?」
「でも、悠長に構えていたら、また逃げられてしまうんじゃないのかな?」
譲歩する気配も見せない義之は、まだ“里帰り”を根に持っているようで、その件を持ち出されると、里桜はますます不利になってしまう。
凡その内情を知っているとはいえ身内ではない淳史と優生の前で、どこまで赤裸々に話し合うべきなのか迷い、視線を外した里桜の顔を、義之は覗き込むように顔を近付けてくる。
「や、ん……っ」
まさか淳史や優生の前でそんなことをされるはずがないと、油断していた隙に付け入られたのかもしれない。
徐に塞がれた唇は首を振ったくらいでは放してもらえそうになく、それどころか強引に押し入ってきた舌に抵抗を封じられてしまう。
強く腰を抱き寄せられ、甘く窮屈な抱擁に縛られた体はもう里桜の自由にはならなかった。


「あまりムリさせると里桜が壊れるぞ?」
ややあって、呆れたのか諦めたのか、ため息交じりの淳史の声が、里桜の頭上から降ってきた。
その指摘は義之を挑発するには有効だったようで、腕の拘束は解かれなかったが、唇には自由が戻る。
「ムリさせてるかな?出遅れたぶん、追い上げないといけないと思って焦ってるのは事実だけど」
挑戦的な目線を優生に向けるのは、本気で敵対視しているからなのだろうか。
「俺と里桜がどうかなるんじゃないかって心配してるんだったら、それこそ杞憂だよ。さっきも言ったけど、俺は里桜の話を聞いて励ましてるだけだから。一人占めしたい気持ちはわからないでもないけど、俺と会うのもダメなんて言ったら、本当に里桜が壊れちゃうよ?」
不審げに優生を見返す義之に、淳史が追い打ちをかける。
「里桜はあまり強くないからな。おまえは忘れてるんだろうが、対人恐怖症だか不安障害だかになって引き籠っていた時期があるんだ。あまり追いつめるなよ」
「それは僕のせいで?」
知らぬが故の強気に、おそらくこの中の誰より事情に詳しいはずの淳史が眉を顰めた。
「俺は医者じゃないから何とも言えないな。ともかく、あまり里桜を追いつめるなとだけは言っておく」
「わかったよ、なるべく気を付けるよう努力するよ」
神妙な顔をする義之は、それでも里桜を抱く腕を僅かも緩めることなく、リビングのドアの方へと体の向きを変えた。

「……元に戻ったというより、輪をかけて酷くなったな」
「ほんと、せっかく常識のある大人になったのかと思ったのに、やっぱり義之さんの病んだ性格は死んでも治らないって感じだよね」
聞こえよがしの嫌味に、義之は足を止め、顔だけを振り向かせた。
「里桜と知り合ってからの僕が別人格だったというわけじゃないだろう?勝手に人を殺さないでくれないか」
今の義之が本来の姿だとしたら、少なくとも装っていたのは間違いないと思うのだが、そう突っ込ませる間を置かず、義之は隣の自宅へ帰るべく里桜を急かした。



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2010.11.23.update