- 幸せの後遺症 (2) -



「里桜?」
玄関まで見送りに出た里桜は、義之のリーチの長さを考慮した位置で足を止めた。
「もっと近くにおいで」
近付けばどうなるかわかっているだけに躊躇してしまう里桜に、義之の表情が険しくなる。
「里桜」
強い語調で呼ばれるのと同時に、届かないだろうと思っていた手に腕を掴まれ、義之の胸元へと引き寄せられた。
息が詰まるほどにギュッと抱きしめる腕は里桜の知る義之のままのようで、その強さに胸が苦しくなる。
やがて抱擁が緩められても、近付く唇は挨拶のキスだけで済ませるつもりはないようで、下唇を舐める舌はすぐに中まで入ってきた。歯列を割り、里桜の舌先を撫で、やさしく絡んで吸いつく。
上向かされた首が痛くなるほどに長引くキスは一向に終わりが見えず、息苦しさに、義之の胸を力なく押し返した。出勤前の義之には、悠長に別れを惜しんでいる暇などないはずなのに。
漸く離れてゆくかに思えた舌が、里桜の顎へと零れた唾液を舐める。
「離れたくないな」
独り言のような低い声が、どこか切羽詰まったように響く。
もう一度きつく抱きしめられたあと、義之は観念したように抱擁を解いた。
「あまり出歩かないで、家でおとなしくしているんだよ?」
「うん、いってらっしゃい」
心配性なところは同棲し始めた頃のようだと、少し懐かしく思いながら“良い子”の返事で義之を送り出す。
相変わらず体はダルかったが、うっかり二度寝の癖がつかないよう、今日は起きておかなくてはと思った。それに、元に戻るのなら、家のこともしなくてはいけない。学生とはいえ、里桜は一応主婦なのだから。


一通りの家事を終えたころ、日課となった隣家通いを催促するメールが優生から届いた。
工藤家にはいつも食の世話になってばかりなので、今日は昼食の食材とおやつを持参して訪ねる。
「よかった、思ってたより元気そう」
出迎える優生の表情は、よかったと言うわりには少々不謹慎なようにも見える。
「カラ元気でも出さないとやってられないもん。もっと体力つけなきゃ、今の義くんには太刀打ちできそうにないけど」
そのためにも、しっかり食べて、質の良い睡眠をとって、メンタル面でも癒されなければいけないと思う。ある意味、マイナスイオンを発生しているような優生と過ごすのはストレス解消にもなるはずだった。

「義之さん、すっかり里桜にハマっちゃってるみたいだよな?」
里桜が珍しく襟ぐりの詰まった服を着て来たことで却って優生の好奇心を煽ってしまったようで、タートルネックに指をかけられ、その証を覗くような素振りをされる。
からかわれているだけだと頭ではわかっているのに、里桜はつい大げさなほどに反応してしまった。
それが、余計に優生の悪戯心をくすぐってしまうことも、わかっているつもりなのに。
「もう……」
里桜をソファの背に追いつめて、胸元まで覗き込む優生はさすがにやり過ぎだと思うが、力では里桜が優生に敵うはずもなく。
「……やらしいなあ」
それは寧ろ里桜が言うべき台詞のはずなのに、心なしか目元を赤らめた優生に先を越されてしまう。
「ここ、服に擦れて痛いだろ?」
「や、ん」
服の上から、赤く腫れた突起を指先で触れられただけで悲鳴を上げてしまう。
恨みがましく見つめてみても、優生は悪びれた様子もない。
「義之さん、本当に里桜のこと初心者だって思ってるのかな?それとも、自分をセーブできないだけ?」
「我慢がきかないって言ってたから、たぶん俺が初心者だとしても関係ないんじゃないかな?前の義くんは出逢ってひと月くらいは手も繋がったんだけど」
尤も、その期間はつき合っていたとは言えなかったのだったが。
「俺はいつも即行最後までいっちゃてるし、すぐ濃いおつき合いしちゃうから、そういうのはよくわからないなあ」
「あ……」
そう言われてみれば、二年前には里桜も、訳ありだったとはいえ義之とは段階を踏まずに一気に最後まで到達してしまったのだった。しかも、その後はなし崩しに蜜月に突入してしまっていたような気がする。
「俺もそうかも。最初は義くんとつき合ってたわけじゃなかったし、ていうか、ヤっちゃってからつき合うことになったんだよね。それからすぐ濃い生活送ってたのに、今更こういうこと気にする方がおかしかったのかも」
結局、今の義之も過去の義之も大差ないということなのかもしれない。
「まあ、元から“旺盛”だったみたいだし、しょうがないのかもな。里桜、ほんとの初心者じゃなくてよかったよな」
あまり慰めにならない言葉を聞きながら、やはり体力をつけるしか対策はないようだと思った。






出掛けに負けず劣らず、義之の帰宅の挨拶は濃すぎて、うろたえているうちに里桜の体は抱き上げられ、リビングへと運ばれてゆく。
ソファに直行する義之は、当然のように里桜を膝の上に乗せ、額が触れそうなほど近くから顔を覗き込んでくる。
「僕がいない間どうしていたの?」
「どうって……いつも通りだよ?洗濯と掃除をして、ゆいさんと買い物に行って、晩ご飯の用意をして、お風呂入って、テレビ見てたら義くんが帰って来て……」
膝から降りる努力をしても無駄だと学習した里桜は、おとなしく義之の上に座ったまま、一日の流れを思い出しながら答えた。
「また隣に行ってたの?」
「うん。今日はタートルネックの長袖のシャツにクロップドパンツで、ちゃんと隠して行ったよ?」
風呂に入って着替えたが、今も首の詰まったTシャツに膝が隠れる長さのパンツを穿いているから、叱られるような格好ではないはずだ。
「いつもそうやってガードしておかないとダメだよ?」
言いながら、もう服の裾から手を忍ばせてきているような義之の方が、よっぽど危険な気がしてならないのだったが。
「待って、先にご飯にしよう?今日はさつまいもご飯を炊いたんだよ。すぐ用意するから、義くんはお風呂入ってきたら?」
何とか気を逸らせないかと無難な言葉をかけてみるが、義之の抱擁は緩みそうにない。
「僕は先に里桜がいいな」
耳朶を舐めるように唇を寄せてくる義之は里桜の都合などお構いなしで、Tシャツの中を滑る手のひらは下着の中へ入ろうとしている。
「ダメ、だって……」
窮屈な腕の中で体を捩ってみても、腹を撫で降りる指は明確な意図を持って下ってゆくばかりだ。
「早く食事にしたいんなら協力して?」
むやみに甘い声が、拒む気力を殺いでしまう。
「あっ……ん」
堪らず反らした胸の頂点に服の上から吸いつかれ、情けないほど簡単に体中の力が抜けてゆく。そのままソファに上体を倒され、浮いた腰から下着ごとクウォーターパンツを抜き取られる。
もしかしたら、今の義之は里桜の記憶の中のその人以上に手際が良いかもしれない。
それほども、上着だけを脱ぎ捨て覆い被さってくる義之に余裕はないようで、里桜の膝裏を押し上げ、身構える間もくれずに後ろへ触れてきた。
「ひぁ」
ずっと腫れぼったいままのそこへ落とされる滴の冷たさに身が竦んだのは束の間で、塗り込めるように中を探る指に奥まで濡らされ、否応なしに熱を煽られてゆく。
「だ、め」
手遅れだと知りながら、義之の胸に腕を突っ張る。
「どうして?きみも気持ち良さそうなのに」
あからさまな言われように返す言葉がない。
長い指を二本、根元まで埋められて感じているのは痛みではあり得なかった。
「だって……疲れちゃう、から……っ、こんな、毎日は、だめ」
「きみは小さいし細いからあまり体力がないのかもしれないけど、僕とつき合う以上、合わせてくれないと困るよ。そのうちには慣れるだろうし、暫く我慢してくれないか?」
まるで譲歩する気のなさげな言いように、反論する言葉が出て来ない。
体の関係ができたせいか義之の行為に対する自制心はすっかり無くなってしまったようで、里桜に求めるものは急速にエスカレートしてしまっている。そのギャップに戸惑いながらも、指の隙間から押し付けられた熱いものを拒む気にはならなかった。
もし、足りないぶんを他の誰かに向けられるくらいなら、全て里桜が受け止める方がいい。
「は……っん」
息を吐くことで少しでも衝撃を和らげようと思うのに、それを協力的と取ったのか、義之は遠慮なく押し入ってきた。
圧迫感から逃れようと、縋るように抱きつく里桜の首筋へ、義之はあやすようにキスを落としながら、更に奥へと腰を進めてくる。
「あっ、あ、ぁん……っ」
里桜の体が馴染むのを待って、反応を確かめながら感じるところばかりを擦られるうちにわけがわからなくなってしまう。
ただ喘ぎながら、義之の背にしがみつくことしかできない里桜は、きつく抱きしめ返され、義之を満足させていることを身を持って教えられて、漸く安堵の息を吐いた。




身に余る愛情を注がれた体はだるく、油断すればすぐにも眠りに落ちてしまいそうだった。
食事の用意を整えるのが億劫にならないうちに、そっと背後から回された腕から抜け出すつもりが、痛いほどに強く抱きしめられ、阻まれる。
「だめだよ」
甘さだけではない拘束力を孕んだ声に、里桜は控えめに訴えた。
「……もうちょっと、緩めて?」
「緩めると逃げ出すだろう?離さないよ、もうきみに夢中なのに」
含みのある言い方と、臆面もなく告げられた言葉に驚いて、咄嗟に返事ができなくなってしまう。
確かに、急速に高まった義之の執着心は尋常ではなく、夢中と言われればそうなのかもしれない。事故に遭い、自ら課した一ヶ月の禁欲を解いたことで箍が外れたというだけでなく、里桜が、もしくは里桜の体が義之の気に入ったのは間違いなさそうだった。




「やっぱり、ケジメはつけないといけないね」
突然、思い立ったように呟かれた義之のその一言だけで、里桜は満足な説明もされないまま、実家に連れて来られていた。
連絡もせずに訪れた二人を、里桜の母は軽い気持ちで迎えてくれたのだと思う。
まさか、義之が畏まった挨拶をしに来たとは、本人以外の誰も想像もせず。
気兼ねなく直行したリビングのソファでは、既にパジャマ姿の里桜の父が寛いでいて、いくら親子でも急に訪ねてくるには少し遅過ぎる時間だったかもしれないと思いながら、向かい側へと腰掛ける。
父と挨拶を交わす義之は、さすがに里桜を膝に乗せたりはせず、揃えた膝に両手を置いて、徐に頭を深く下げた。
「もう一度、里桜を僕にください」
不意打ちのように切り出された言葉に驚いたのは里桜も同じで、瞬時に空気が張り詰めてゆく。
金縛りのような状態に陥りそうだった二人の緊張を和らげたのは、もてなしの用意をするためにキッチンへ向かいかけていた母で、踵を返して三人の元へ戻ってくると、父親の隣りへ浅く腰掛けた。
「里桜のこと、思い出したの?」
事故後の義之に接する時の、やや突き放したような母の物言いに、義之は神妙な顔をする。
「正直に言えば、具体的なことはあまり……でも、まだ学生の里桜を、ご両親の元から引き離して傍に置かずにはいられないほど愛していたということはわかります。今の僕も、もう一日だって里桜をこちらへ返すことはできそうにありません」
しんとした室内に、父のため息だけがやけに大きく響く。
義之は忘れているのだろうが、最初に義之が里桜を貰い受けたいと挨拶に来た時も似たような雰囲気になった。この件に関しては一歩も引く気がないという義之の押しの強さに気押され、それに同調するように寄り添う里桜に、父は諦め顔で言葉を失くしていた。
尤も、今の里桜は義之の剣幕に呆然としているだけで、同じ気持ちとは言い難いのだったが。
「そう言われても、私は妊娠初期は安静にしてないと流れやすい体質だから、里桜に来望(くるみ)の面倒を見てもらっているのよ。前にも話したと思うけど、義之さんが来望を養子に欲しいって言ってたからもう一人産むことにしたのに、今里桜を取られちゃうと困るわね」
当時は強行に反対していたくせに、義之が思い出していないとわかっていて意地悪を言う母に、今の義之は呆れるくらい真剣な顔をする。
「本気で僕たちの養子に出される予定だったということでしょうか?」
「そうね、義之さんがすごーく欲しそうにしてたから、そのつもりでいたんだけど?」
妊娠を告げられたときに、だからもう一人子供をつくることにしたというような言い方をしていたから、母の言葉はまるっきり嘘というわけではなかったが、結局は夫婦の都合で決めたことなのだから、義之に責任転嫁するような問題ではないはずだった。
「申し訳ありません。今は里桜とのこと以外を考える余裕はないような状態なので、すぐにはお答えしかねるのですが」
記憶を失くす前の義之は、来望と接するたびにとても冗談とは思えないほど真面目な顔で、『里桜が産んだような気がします』とか、『僕にもよく懐いていますよね』とか、一種の嫌がらせかと思うほどしつこく母親に言っていたのだったが、その記憶が揺り起こされることはなかったようだ。
「来望は要らないっていうことね?」
「感情論はともかく、里桜はまだ学生ですし、僕も仕事がありますから、育児は難しいと思いますが」
無難な言い訳は、けれども至極尤もなものだった。
「そうね、里桜は進学するようだし、無理でしょうね」
以前の自分が里桜の進学に強硬に反対していたとは、想像もしていないらしい義之には理解できない嫌味を言って、母は少しは気を晴らしたようだった。
「でも、里桜には夏休みの間だけでも来望の面倒を見てもらうわよ?もう前払いしてるし」
最後の一言は、事情を知らない義之には不可解だったようで、説明を求めるように里桜の顔を見つめてくる。
「あの、軽くアルバイトっていうか……くーちゃんの面倒を見るぶん、お金もらってるんだけど……」
「まさか、生活費が足りてないの?僕はそんなに薄給だったかな?」
話の途中だったことも失念してしまうほど、義之は驚いたようだった。
「え、と、あのね、俺、義くんのお給料がどのくらいなのか知らないんだ。毎月決まった口座に分けて振り込まれてるから支払いは勝手に引き落とされるって聞いてたし、生活費は現金で貰ってたし、内訳とかは全然知らなくて」
「じゃ、僕が下ろして渡さないといけなかったということ?ごめん、もっと早く言ってくれればよかったのに。お義母さんにも心配をかけてしまったんだね」
ふと、場所を忘れて二人の世界を作ってしまいそうな気配に気付いてか、母が口を挟んでくる。
「里桜に渡していたのはシッター代だから気にしなくていいのよ。でも、ちょうどいい機会だから、家計の話はきちんとしておいた方がいいでしょうね。帰ったらゆっくり相談しておいて。それより、里桜には来望の面倒を見てもらわないと困るの。毎日とは言わないし、通いでいいから来てもらうわよ?」
それが精一杯の譲歩だと、義之にも伝わったようだった。
つまりは、了承の返事を取りつけたと確信して気を良くしたのかもしれない。
「もちろん、僕も可能な限り協力します」
里桜の夏休みの過ごし方が変わるわけではなさそうだったが、義之は得心したようで、母の条件を快く受け入れることにしたようだった。



- 幸せの後遺症 (2) - Fin

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2010.10.11.update