- 幸せの後遺症 (1) -



眠りを妨げようと触れてくる指はしつこく、里桜が小さく首を振ったくらいでは諦めてくれそうになかった。
とはいえ、久しぶりの行為で疲れた体は義之の誘いに応じる気にはなれず、その腕に上体を預けたまま、すぐにも眠りに落ちたがる。

「寝るのはもう少し待ってくれないかな?」
控えめな言葉を裏切る強引な手が、里桜の顎を上向けさせる。
「や、ん……」
里桜の背を支えるように回されている腕は力強く、迫ってくる唇を避ける術がない。
そうでなくても、里桜にはまだ今の義之に対する遠慮のようなものがあって、邪険には出来ないのに。

奪うように唇が塞がれ、その片腕に抱かれた体がソファへと倒されてゆく。
もどかしげに胸元をまさぐる手のひらに余裕はないらしく、覆い被さる体は里桜に体重をかけないよう気遣いながらも、逃れることを許してくれない。睡魔に敵愾心を燃やしているみたいに、義之の行為は強引だ。

喉を伝い、何も纏わないままの里桜の胸へと辿り着いた唇は、痕を残しそうにきつく肌を吸い、否応なしに里桜の意識を義之に向けさせる。
濃い情欲の色を湛えた瞳で見つめられ、また求められていると悟った体が竦む。
里桜が身を強張らせたことに気付かないはずがないのに、腰を撫で降りてゆく手のひらは躊躇することなく膝を押し開こうとする。
「や」
弱々しく伸ばした指先では、せいぜい義之の腕に触れるくらいしかできない。
「足りないよ、もっときみを抱いていたい」
熱を帯びた声は切羽詰まっているようで、思い止まらせることは困難だと、抗い切れない心理が諦めに傾く。

記憶を失くす前の義之なら、久しぶりの行為に疲れ切った体がとっくに里桜の限界を超えているとわかってくれていたはずなのに。
そうと知るはずもない義之は、自分の欲望を抑えることなく里桜に向けた。




「里桜?」
何度かの呼びかけに気付いてはいても、なかなか体は起きてくれず、軽く肩を揺すぶられても、重い瞼を薄く開くくらいしかできなかった。
「時間だから仕事に行くよ」
その言葉と見慣れたスーツ姿で、もう義之が出勤する時間になっていることを知る。
しつこく求められた昨夜、里桜は自分が何時に眠ったのかも覚えていないが、睡眠は全く足りておらず、きちんと起きて送り出すことはできそうになかった。
「合間を見てメールか電話を入れるから、今日はゆっくりしておいで」
里桜に無理をさせたという自覚はあるのか、義之の言葉と頬を撫でる手は優しい。
“おはよう”の、或いは“いってきます”のキスを受け止めると、里桜は塞がってきそうな瞼を開け続けておくことを諦めて、唇の動きだけで“いってらっしゃい”と告げた。




里桜が次に目を覚ました時には10時を回っていて、それも義之からのメールの着信音に眠りを破られる形での覚醒だった。
いくら夏休み中とはいえ、普段から主婦業のようなことをしている里桜からは考えられないくらい遅い起床だ。

“起きている?”というメールに、少し考えてから、正直に“今起きた”と返す。
昨日、記憶を失くした義之に初めて抱かれ、里桜の経験値が低そうだと思い込んでいたようだったにもかかわらず、何度も挑まれたせいで体への負担は想像以上にきつかった。
義之の言葉を信じるなら、自分で抜く以外には禁欲していたという事情で箍が外れたのかもしれないが、もし今後もこんなペースで求められれば、里桜の体はついていけない。

まだ体はだるいが、気持ちを切り替えてベッドを出る。
温い水で顔を洗っていると、またメールの受信音が鳴った。親しい相手からの受信音や着信音をそれぞれ設定している里桜には、それが優生からのものだとすぐにわかった。

優生からのメールも、“起きてる?”というメッセージから始まっていた。
少し迷ってから、“今、顔洗ったとこ”と返す。

短いやり取りの後すぐ、里桜は着替えを済ませただけで隣家を訪れた。
義之の記憶喪失騒動以来、すっかり里桜の世話係と化してしまった優生は、今日も朝食もしくはブランチを勧めてくる。
「お腹すいてるだろ?とりあえず食べて?足りなかったら他にも作るから」
ダイニングテーブルに用意された、大皿に山積みされたサンドイッチやボウルいっぱいのサラダは軽く2人分以上あるように見えたが、普段の里桜の大食漢ぶりを知っている優生は心許無げだ。
「ありがとう。いつも、ごちそうになってばっかりでごめんなさい」
「俺もずっとお世話になってたんだから、お互いさまだよ。里桜もコーヒーでいい?」
部屋に充満する芳醇な香りから、既に用意されているのだろうと思い、頷く。

「寝足りない?」
氷の入ったグラスが満たされてゆくのをぼんやり眺めていると、気遣わしげな声がかけられた。
テーブルの向う側から、いくぶん好奇心を孕んだ瞳で見つめられ、優生の問いを深読みしながら答える。。
「うーん……睡眠不足っていうより、だるくて」
「久しぶりだったんだもんな、もしかして朝までヤっちゃってた?」
敢えて軽い口調で尋ねてくる優生に、“ぶっちゃけ”たところを話す。
「そんなことはないんだけど、俺、元から弱いから……最後の方は記憶なくて。正直、今も何か入ってるみたいな感じでちょっと腰が落ち着かないんだ」
間隔が空いていたからだけでなく、過度に緊張していたせいか、回復も遅いように思う。
「義之さん、全然余裕なさそうだったし……里桜、これから大変かもな」

優生の予想は外れず、里桜の試練の日々は始まってしまったのだった。






仕事から帰っても義之の興味は些かも里桜から逸れた風はなく、辞退しようとする里桜の腰を強引に引き寄せて、向き合う形で膝の上へと乗せてしまった。
「一人で淋しくなかったかな?僕はきみのことが気になって仕事に身が入らなかったよ」
臆面もなくそんなことを言う義之の、あまりにも近いところにある端正な顔をまともに見つめる勇気が持てずに視線を落とす。
何の抵抗もなさそうに里桜を恋人扱いする義之と違って、里桜はまだ今の義之に以前のように接することはできなかった。正直なところ、一度は諦めた恋人に急に蜜月のような扱いをされても、戸惑いの方が勝ってしまう。
「……そこまで子供じゃないから心配しないで?それに、お隣と親しくさせてもらってるの、知ってるでしょう?」
仕事で遅くなったり家を空けたりする時に頼れるよう、境遇の似た工藤家と隣り合わせてマンションを購入することになった話は聞いているはずだ。
「また彼のところに行ってたのか」
俄かにトーンを落とす義之が機嫌を損ねたのは明らかで、また里桜を心細くさせる。

「あ……っ」
タンクトップの、やや広く開いた胸元に触れてきた手のひらが、探るように襟元から内側へと下ってゆく。
指の腹で優しく擦られ、芯を持ってゆく突起を摘まれると甘い痺れが走った。そこがひどく感じることは、昨日触れられた時に見抜かれてしまっていると、意地悪な指に思い知らされる。
「や、ん……」
止めさせようと、義之の腕を掴んでいるつもりの手に力が入らない。
「だから、露出し過ぎだって言っただろう?まさか、こんな格好で隣に行ってないだろうね?」
度々聞かされてきた言いがかりは納得がいかず、里桜は控えめながら抗議した。
「露出ってほどじゃ……家の中だし、上も羽織ってるし」
「僕には充分刺激的だよ、チラ見えする方がいやらしい」
はっきりと言葉にされて、周囲の評価以上に幼いと思われていたはずの里桜が、多少なりとも義之の気を引いていることを知る。
以前、義之は里桜が薄着でいることを誘っているかのように取っていたと淳史から聞かされて以来、なるべく家では袖や裾の長い服装を心掛けていたのだったが。
「だからって、こういうことをするのは早過ぎると思うんだけど……俺とはまだ知り合ったばかりみたいなものだし、この間まで触るのもダメって言ってたのに……」
「もしかして、何度かデートをしてから手をつないで、キスをして、みたいに段階を踏まないといけないのかな?」
まさか、そこまで子供じみてはいないだろうと言う義之は勝手過ぎる。
「俺と“義之さん”は、出逢って一ヶ月くらい経つけど、最初は殆どすれ違いだったし、顔を合わせても二言三言交わすだけで、つき合ってるって感じじゃなかったでしょう?義之さんの常識ではどうなのか知らないけど、俺は早すぎると思うから」
「ひょっとして、僕は仕返しされているのかな?呼び方まで他人行儀に戻るなんてひどいね」
「そんなんじゃなくて……前のときは出逢ってから一ヶ月くらいは手も繋がなかったよ?名前も、その間は“緒方さん”って言ってたし、つき合うようになっても半年くらいは“義之さん”って呼んでたから、今“義之さん”って言うのはもの凄いスピード出世だよ」
必死に言葉を紡ぐ里桜の思いは全く伝わっていないようで、義之は納得がいかなげだった。
「きみの言うこともわからないでもないけど、僕からすれば今更って感じだよ。僕はもうきみを知っているし、また我慢するなんて無理だよ」
こうもあっさり却下されるとは思わず、しかも義之からの一方的な行為を踏まえた上で今更などと言われては、正論のはずの言葉を引っ込めるしかなく。
「じゃ、もう少し……何て言うか、時間を取って欲しいんだけど……」
元からそう強い方ではないのに、ましてや久しぶりの里桜としては、そうそう何度も求められては体がもたないというのが本音だった。
毎日ではなく一日か二日でもいいから日を置いて、できれば挿入は一回だけにして欲しいと、言葉にはできないが察して貰えないかと、期待を籠めて見つめてみる。




「わかったよ、きみの言うようにしよう」
少し驚いたような顔をしたものの、承諾の返事をする義之に、わかってもらえたのかと気を抜いた瞬間、ふいに首筋を舐められた。
「ひゃ……っ」
産毛を撫でるように伝う舌先が、里桜の体を跳ねさせる。意識するほどに、義之に触れられる全てが感じ過ぎて怖い。
「あっ、ん」
喉をきつく吸われてハッとした。薄着の季節に、そんな場所にキスマークなんて付けられたら着られるものが限定されてしまう。
「だめ、痕が……っ」
抗議する言葉を遮るように唇を塞がれ、性急に押し入ってきた舌に口内を隈なく舐められ、抗う思いが躱される。キスが深まるほどに気持ち良さに流され、何もかもをうやむやにされてもいいと思ってしまいそうになる。
「あ、いや」
キスに集中していられなくなるほどの強い刺激に、思わず唇を離した。
過敏になった胸の先端を弄られ、いつの間にか、胸元を露わにするほどにタンクトップが捲り上げられていることに気付く。
「里桜はすごく感じやすいね」
仰け反る里桜の耳元を舐めるように囁く声までが、体に沁み入り、内側から蕩けさせる。
「ぁん」
硬くしこった先端を転がされ、キュッと摘まれれば神経の全てがそこに集中してしまう。
「そうやって素直に感じていればいいよ」
満足げに笑う義之と目が合えば、魅入られたように指一本動かせなくなる。
端正な顔も、強引な仕草にも、慣れていたはずなのに。
抗いきれない里桜の身ぐるみを剥がしてゆく手は淀みなく、露わにされる肌に熱を孕ませながら下ってゆく。止めなければと思いながらもうろたえるうちに、ハーフパンツも下着も抜かれ、義之の唇は下肢に移っていた。
内腿へと口付けられ、別の手に際どいところを撫でられ、いや増す官能の波に溺れそうで、縋るように義之に手を伸ばす。
「待って、俺、まだ体が……」
里桜の聞き間違いでなければ、インターバルを取って欲しいという訴えに、義之は里桜の言うとおりにすると答えたはずだった。
「そんなに心配しなくても、いきなり挿れたりしないよ。ちゃんと時間をかけて準備するから大丈夫だよ」
呆然としてしまったのは、義之の答えが想像とかけ離れていたからだ。
時間をかけて欲しいのは最中より寧ろその後の、次回までの間隔のことで、決して義之が乱暴だというような言い方をしたつもりではなかった。
「あの、ね……っ」
強過ぎる刺激に、切り出そうとしていた言葉を続けることができなくなる。
脚の付け根あたりを押さえた手に大きく開かされた腿を閉じることも、身を折り曲げることも叶わず、義之の唇が伝う感覚に息を詰まらせた。
準備という言葉を即実行する義之の、ある意味ひたむきさを止める術を今の里桜は持たない。
先の里桜の“お願い”は、もう反故にされてしまいそうだった。




以前の義之には、“平日は一回以下”及び“毎日はダメ”という里桜の“お願い”はほぼ聞き入れられていた。
もちろん、それがいつも守られていたとはいえないが、度を過ぎると里桜の体に負担がかかり過ぎるとわかっていて、無理をして休日の予定が潰れたりする方がお互いのためにならないと考えているようだった。時として羽目を外すことはあっても、里桜がまだ未成年で高校生だということを踏まえてのつき合いだったと思う。
だから、今の義之が躊躇いもなく肌に痕を残したり、日常生活に差し支えるほど行為に耽ったりすることに里桜は戸惑っている。

「ひぁ」
昨日の午後まで手も繋ごうとしなかった男と同一人物だとは思えないくらい、義之は一足飛びに距離を詰めて、それが余計に里桜を混乱させる。
「息を止めないで、ゆっくり吐いて」
優しい声音につられるように、大きく息を吐いて緊張を逃がす。
それが義之を受け入れるという意味だとわかっていても、流されるほかに里桜に選択肢はなかった。求められて拒めるなら、こんな事態には陥っていないのだから。
里桜の反応を確かめながら指が動くたび、小さく跳ねる肌に口付けられ、止めさせようと伸ばす手から力が抜ける。
やめて欲しいのか、本当はして欲しいのか、自分でもわからない。
里桜の中へと入ってくる義之はひどく優しく、気持ちの良いところばかりを暴いてゆく。そのくせ、僅かも痛みを感じさせないよう慎重に身を進めてくるから、もどかしさに耐え切れず腰を揺らしてしまう。
自分の体さえ思い通りにできない里桜が、義之を止められないのは仕方ないことなのかもしれなかった。



くったりと力の抜けた体を義之の胸元に凭せかけたまま、窺うようにそっと頭を上げる。
ごく近くから、臆面もなく満足げな表情で見つめられていると知って、恥ずかしさに耐え切れずまた顔を伏せた。
「きみは本当に可愛いね」
髪を撫でる手に促され、もう一度顔を上げると、小さく笑みを作った唇が里桜の額に触れる。
「以前の僕がハマっていたのも仕方ないね」
言いながら、耳の後ろや項へとキスを振り撒いてゆく唇はまだ熱っぽさを保っていて、すぐにも二度目を求められるのではないかと不安が過った。
婉曲に言ったのでは今の義之には通じないと体感しているだけに、思い切って明確な言葉にしてみる。
「あ、あの、今日はもうしないで?」
「無理だよ」
まさか即答で却下されるとは思わず、咄嗟に返す言葉が見つけられない。
「禁欲が長過ぎたのかな、我慢がきかなくなってしまっていてね。きみも慣れるまでは間隔を空けない方がいいと思うし、暫くは負担をかけるかもしれないけどつき合ってくれないか」
同意を求めるようでいて実は決定事項らしいと、義之の顔を見ていればわかる。
せめて、我慢がきかないというのが一時的なものであるよう祈るくらいしか、里桜にできることはなさそうだった。



- 幸せの後遺症 (1) - Fin

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2010.10.11.update