- Difference In Time -



「ただいま」
連絡もしないまま、訳ありげな大荷物を背負って家に戻った里桜に、母はさして驚いた風もなかった。
「直(じき)に帰ってくるだろうとは思ってたけど、こんなに早いとはねえ」
「だって……」
母の呆れきった態度に軽くヘコむ里桜の方へ、覚束ない足取りの来望(くるみ)が歩いてくる。
「いー、いー」
短い両手を広げて、里桜の脚に狙いをつけて飛び込んできた。胸へと抱き上げると、満面の笑顔で里桜を癒してくれる。
「くーちゃん、これからはいっぱい遊んだり一緒に寝たりしようねー」
「えー」
ねー、と同意する来望の歓迎ぶりだけが、今の里桜の救いに思えた。
「里桜、その前に何か言うことがあるんじゃないの?」
少し硬い声音に、追い返されるのかとドキリとする。
「ごめんなさい……夏休みに入ったから、里帰りさしてもらいたいんだけど、暫く居ていい?」
「里帰りは構わないけど、義之さんに黙って帰ってきたんじゃないでしょうね?」
いつも優しい母だからこそ、少し強めた口調に身が引き締まる思いがした。
「ちゃんと話したよ。里帰りならいいって」
「いつまで居るつもりなの?」
里桜の思惑を察しているのか、母の追求は容赦がない。
「できれば、夏休みの間ずっと居たいなあと思ってるんだけど……」
「一ヶ月以上、義之さんと家事を放ったらかしで?」
「だって……」
「二学期になったら義之さんの所に戻るの?」
何もかも見透かしたような問いかけに、まだまだ母には敵わないことを思い知らされた。
「……義くんが別人みたいになっちゃったの、お母さんだって知ってるでしょ?」
「確かに、あんな生真面目そうな義之さんは有り得ないわね」
それなりに義之の本性を知っている母には、里桜の言いたいことを理解してもらえているはずだった。
「ブ、ブー」
抱っこに飽きて降りたがる来望を、そっと床へと立たせる。ててて、と危なげな足取りで、先まで遊んでいたらしいミニカーの方へ走ってゆくと、ラグの上に座り込んで一人遊びを始めた。
里桜と母は少し離れたソファに腰掛けて、機嫌よく遊ぶ来望を見ながら話を続ける。
「里桜は義之さんとお別れするつもりで帰ってきたの?」
「うん……俺がいても意味ないし」
「意味ないって、そういうようなことを言われたの?」
「ううん、そうじゃないけど……仕事のつき合いとか、勉強とか、いろいろ忙しいみたいで、俺なんて居ても居なくても一緒みたいだから」
むしろ、里桜がいることで余計な気を遣わせているぶん、迷惑になっているのではないかと、つい卑屈になってしまうほどだった。
「でも、お母さんが里桜を連れて帰りましょうかって言った時も引き止められたでしょう?別れることに義之さんが同意するとは思えないんだけど」
「うん……里帰りはいいけど、もう少し猶予が欲しいって」
「そうね。里桜はちょっと気が早過ぎるようね」
義之が事故に遭ってからもう半月ほど経っているのだとは知らない母に、里桜の我がままのように思われるのは仕方のないことだった。
「でもね、あそこに居ると、知らない人と住んでるみたいで息が詰まっちゃうんだ」
「里桜は意外と人見知りなところがあるものね」
里桜の言い分にも頷いてくれる母に、それなりの時間をかけてムリだという結論に至ったのだとは言えなかった。


「ない、ない」
同じ言葉をくり返しながら、来望は手にしたミニカーをバスケットに入れ始めた。片付けをしているというより遊びのうちらしく、全部入れ終わらないうちに、また取り出しては並べてゆく。
こうやって来望と遊んだり、優生の所へ行ったりしているうちに、少しずつ記憶も風化していくのだろうか。
「来望を育ててみる?」
「え……」
唐突過ぎる母の提案に耳を疑う。
「夏休みの間だけでも、来望の面倒を見てみたら?前に来望を養子に欲しいって言ってたでしょう?」
「それは義くんで、俺が言ったわけじゃないでしょ」
もちろん来望のことは可愛いと思うし、養子に貰いたいという義之の野望が叶っても構わないと思ってはいたが、それはあくまでも当時の義之が強く望んでいたという前提があってのことだった。
「ずっと育てるっていうのはムリでしょうけど、気分転換を兼ねて、しばらく来望の育児に没頭してみない?」
「でも、俺には育児なんてムリだよ」
「保育士になろうと思ってるんでしょ?子育てして損にはならないわよ?」
ずっと迷っていた進路を明確にしたのは、もう義之に束縛されることはないと思ったからだった。今時、女子でも三者面談で家事手伝いなどと言う生徒はおらず、高校を卒業した後は家に居るよう強く勧めていた義之が事故に遭ったことで、里桜はそれまで漠然と思っていた保育士になるという道を選ぶことに決めた。
「でも、俺、ゆいさんの所に遊びに行くって約束しちゃったし、ずっとはムリだよ」
「毎日行くわけじゃないでしょう?里桜の都合に合わせるから、やってみたら?」
「それなら大丈夫かな……でも、お母さん、義くんには預けるのも絶対ダメって言ってたのに急にどうしたの?」
「あの頃の義之さんに冗談でも“来望のお世話してみる?”なんて言ったら一生返してもらえなくなりそうだったもの。でも、里桜ならそんな心配ないでしょう?それに、来望の面倒を見て貰いたいっていうのは本音なの。お母さん、今度こそ女の子だといいなと思ってるし」
「え、お母さん、もう一人産むつもりなの??」
「そうなのよ。義之さんがあんまり欲しがるから、もう一人産んでおかないと二人とも取られるんじゃないかって心配になっちゃって」
「……もしかして、もうお腹にいるとか?」
「まだ病院に行ってないんだけど、たぶんそうだと思ってるの。だから、里桜が来望の面倒を見てくれると、お母さん助かるんだけど」
来望の時と違って母が元気そうだったから気付かずにいたが、どうやらもう一人、弟か妹ができているらしい。里桜のためだけでなく母の都合だと知ると、もう断る理由はなくなってしまった。





ドアホンを鳴らそうと伸ばしかけた人差し指が、隣のドアが立てた音に驚いて止まる。
今日は一人で留守番することになったから暇だという、優生からのメールに喜び勇んで来てみれば、絶妙なタイミングで隣家のドアが開いて家主が姿を現した。
「あ……」
思わず洩らしてしまった声に驚いたのか、義之は顔をこちらに向けて、想定外の事態にフリーズする里桜を不思議そうに見つめた。
「おはよう。こっちじゃなくて、そっちなの?」
義之の問いの意味が理解できるまでに暫くかかり、呆けたように見つめ返してしまった。
「え、えっと……?」
「まず僕の所に帰ってから、隣に挨拶に行くものなんじゃないのかな?」
「あ、あの、俺、ゆいさんに会いに来ただけで……」
「ここまで来てるのに、僕に顔も見せないつもりだったの?」
「あ……ごめんなさい」
強行に里帰りしたきり一週間近く連絡ひとつ入れていない里桜に、まだ別れたとは思っていない義之は気を悪くしているようだ。
「僕も今日は外せない用があるから引き止められないんだけどね」
その用が淳史を伴うものなのか、いつまでも里桜が押せずにいたドアホンのボタンを義之が先に鳴らした。
応答が遅いようだと思う間もなく、優生がドアを開ける。
「おはよ、とりあえず中に入って」
里桜の迷いを見越したかのように、間髪入れずに優生は中へと促した。後から入ろうと思っていた里桜を、義之は先に通させる。
「ここにはよく来てるの?」
義之の問いが責めるようなニュアンスを含んで聞こえるのは、里桜に疚しい気持ちがあるからだ。事実を答える勇気はなかったが、嘘をつくこともできずに黙り込んでしまう。
「里桜には俺が無理言って通って来てもらってるんだ。この頃ずっと、家族みたいに一緒に過ごしてたから、離れてると何か違和感があって」
里桜が答えられないことを察してか、優生が庇うような言い方をする。優生の返事のどの部分が気に入らなかったのか、義之は一瞬だけ微妙な表情を見せた。
「ずいぶん仲がいいんだね。でも、僕も午後の早いうちに戻るつもりだから、こっちにもおいで?」
優しげな言葉ほど義之の口調は穏やかではなく、どこか有無を言わせぬ響きが籠っていた。
それでも、かつて義之に一目惚れしてしまった日のような極上の笑顔を向けられると、里桜は魅入られたように視線を外せなくなってしまう。自分の容姿が相手に与える効果を存分に知ったうえでの意図的な行為だとわかっていても、バクバクと走り出す鼓動は鎮められない。


リビングでは、眠っているのかと思うほど深くソファに凭れかかった淳史が、不機嫌そうなオーラを漂わせていた。どうやらその原因は義之らしく、里桜の後ろへと鋭い視線をやる。
「……やっぱり、時間は無視か。何時の予定だったか忘れたってことはないよな?守る気がないんなら、時間を決めてる意味がないだろうが」
「悪かったよ、じっとしている時間が勿体無くてね」
淳史が怒るのも無理はなく、里桜の知る限りでも記憶を失くしてからの義之は、まるで何かに追い立てられているみたいに予定を前倒しにする傾向があった。
「それを見越して早く用意をしなけりゃならないこっちの都合も考えろよ。どうせ、この後の予定も繰り上げてるんだろう?」
「淳史の都合がつき次第行くと言ってあるから、そんなに無理してもらわなくても構わないよ?」
「俺のせいで遅れるみたいだろうが」
それこそが我慢ならないと言いたげに、淳史が背を起こす。大柄な体格からは想像もつかないくらい、淳史は神経質なところがある。
「あっくん、おはよ。お疲れみたいだけど、大丈夫?肩でも揉んであげようか?」
機嫌を窺うように近付いて声をかける里桜に、淳史は軽く首を振った。
「悪いな、今はおまえより優生がいい」
言い終わるや否や、淳史は傍に来ていた優生の手首を掴んで引き寄せると、バランスを崩した体を強引に抱きしめた。見慣れていないわけでもないが、朝っぱらから眼前で繰り広げられるには少し目の毒な光景だ。
「も、こういうの、気まずいからやめてって」
人目を気にして離れようとする優生を、淳史は羽交い絞めにするようにきつく抱きなおした。優生の項へと顔を埋めて、離れている時間のぶんまでチャージしておこうとするように目を閉じる。それは記憶を失くす前の義之がいつも里桜にしていた行為に似て、思い出すとまたせつなくなってしまう。
「……土曜まで譲ってやってるんだ、このくらいさせろ」
淳史の声は低めた小さなものだったが、里桜にも聞き取れてしまった。優生と里桜が一緒に過ごす時間がどんどん長くなっていくことに、内心穏やかではなかったようだ。
「そろそろ気がすんだかな?行くのが遅くなれば、帰るのも遅くなるよ」
所在無く立ち尽くす里桜の後ろから、義之が“補給”にストップをかける。もしかしたら、居辛いのは里桜より義之の方なのかもしれない。
「とことん無粋な奴だな……」
ぼやきながらも、淳史は優生に回した腕を解いた。ホッと気を抜く優生の頬 を大きな手で包むと、一瞬のうちに上向かせてキスをしてしまう。
里桜は思わず声を上げそうになった口元を押えて、目を瞑った。肩越しに、義之が深く息を吐く音が聞こえた気がしたのは、きっと気のせいではないはずだ。
「そう長くかからないらしいからな、いい子にしてろよ?」
席を立つ気配に、そっと目を開けてみると、淳史は何事もなかったようにリビングを後にしようとしていた。二人を送り出すために優生が後からついてゆく。少し迷ったが、里桜はその場で待つことにした。


「ごめん、淳史さんの用意ができたら隣に行くことになってるって聞いてたから、義之さんがこっちに顔出すとは思ってなくて」
ほどなく戻ってきた優生は、申し訳なさそうな顔をしながら、里桜の腕を取ってソファへと促した。
「ううん……俺も、タイミングぴったりで鉢合わせちゃってビックリしただけだから。あっくんも一緒ってことは仕事じゃないんでしょ?義くんが土曜日に仕事じゃないのって珍しいよね」
「なんか、義之さんの身内の人に会うらしいよ。お父さんとお義兄さんに事故のこと話してなかったらしいんだけど、記憶のない状態じゃ説明とか難しいだろ?それで淳史さんが付き添ってあげるみたいだよ」
「……義くんて、お父さんと仲良くなかったけど、三年前はそうじゃなかったのかな?」
初めて義之の父親に会った頃のことや、美咲を引き合わせたことはなかったと言っていたことを思い出すと、親しくしていたとは考えられなかった。
「わりと険悪だったみたいだよ?いろいろ行き違いがあったみたいで、淳史さんと俺が知ってることは話しておいたんだけど」
どうして里桜には殆ど聞かされていないことを、優生が詳しく知っているような口ぶりなのか不思議だった。
「ゆいさんも、義くんのお父さんやお義兄さんのことを知ってるの?」
「え?里桜って、俺が淳史さんの前につき合ってた人と義之さんが兄弟だって、聞いてない?」
「うん。初耳」
「でも、前につき合ってた人の話はしたことあるだろ?俺に料理とかいろいろ教えてくれた褒め上手な人のこと。その人が俊明さんって言って、義之さんの義理のお兄さんだよ」
「そうだったんだ……じゃ、お父さんのこともいろいろ聞いてる?」
「わりと知ってると思うけど……三人それぞれから話を聞いたおかげで、思ってたほど悪い人じゃないのかもって、先生に対する認識も変わったし」
「……ゆいさん、義くんからも先生の話を聞いたの?」
「先生の話っていうより、義之さんのお母さんの話だけど……俺が淳史さんの所に戻ってから上手くいってなかった時期があっただろ?その時に、お説教されたみたいな感じで。なんか、義之さんのお母さんも義貴先生に黙って失踪したらしくて、そのせいで先生があんな風になっちゃったとか、だから黙って居なくなる方が迷惑だっていうような話だったんだけど」
里桜にはあまり多く語らなかった両親のことを、優生には詳しく聞かせていたということらしい。それが必ずしも里桜を軽んじていたという意味ではないと頭ではわかっていても、またひとつ義之に対する不信感が増してゆく。
「義くんは、ゆいさんのこと、すごく気にかけてたもんね」
優生の体調管理のために頻繁に仕事を抜けて来ていたとか、その内容を里桜には話せないくらい優しく接していたとか、本当は知らないままでいたかった。今となっては真意を確かめようもないのに、疑惑だけが里桜の中で膨らんでゆくようで、何もかもが嘘だったように思えてくるのが怖い。
「俺、義之さんのお母さんに少し似てるらしくて、それで気にかけてくれたみたいだよ。そんなことより、俺は、里桜が義貴先生をカッコイイって言ったから、義之さんが敵愾心を剥き出しにしてたって聞いたけど?」
「え……そんなことは……」
そういえば、里桜が義貴のことを褒めたり話題にしようとしたりするだけで、義之はいつも不機嫌になっていたのだった。



目だけでなく心まで奪われてしまいそうなほど秀逸な顔立ちに柔らかな物腰。義貴の方が少し逞しいという違いはあっても、よく似た印象は二十数年後の義之を想像させる。こんな風に年を重ねていくのだろうかという期待も相まって、里桜は義貴に憧れを抱いていた。
そういった感情を上手く伝えることができず、単に義貴をカッコイイと言った部分だけが義之の印象に残っていたのかもしれない。
「里桜は先生に憧れてるみたいだからガッカリさせてしまうかもしれないけど……先生と俊明さんの奥さんが何年も不倫してて、子供までいるの知ってる?」
「え……ええ??」
里桜の理解の範疇を超えるあまりにも思いがけない内容に、素っ頓狂な声を上げてしまった。聞き間違いかと優生を見返してみても、話は覆りそうにない。
「ごめん、余計なこと言って。でも、そこから話さないと説明できないし、とりあえず聞いて?」
「なんか、あんまり聞きたくない話のような気がするんだけど……」
義之が少し大げさに義貴のことを悪い人だと言ったときも、たった2度会っただけで殆ど言葉も交わしたことのない里桜にはそうは思えなかった。だからこそ、悪い話なら耳に入れないで欲しいと思ってしまう。
「中途半端に知っちゃうと却って気になるだろ?なるべく簡単に話すから、諦めて聞いて?」
そこまで言われては聞かないと言うわけにもいかず、里桜は嫌々ながら頷いた。
「俊明さんの奥さんは彩華さんていう凄く綺麗な人なんだけど、性格に難があるっていうか、俺が言うのも何だけど男グセが悪い人なんだ。淳史さんとつき合ってるときに義貴先生と出逢って好きになって、でも先生が相手にしてくれないから息子の俊明さんを口説いてつき合うことにしたり、俊明さんと結婚が決まってからも義之さんのこと口説いたりしてたんだって」
彩華という名前は、前に義之と淳史の会話の中で何度か聞いたことがあったことに気付く。確か淳史は褒めるような言い方をしていて、対照的に義之は酷く辛辣な評価をしていたようだった。
「えっと……俊明さんって、あっくんの友達なのに、あっくんの彼女さんとつき合ってたの?」
「ていうか、淳史さんは昔から俊明さんと好きな人がよく被ってたから、彩華さんとつき合ってることを内緒にしてたんだって。だから、俊明さんはそうとは知らずに彩華さんとつき合うことになって、知ったときにはもう別れられないくらい好きになってて……何で黙ってたんだ、みたいな感じで一悶着あったらしいよ」
揉めたようだと言いながら、優生はその内容を語る気はないらしかったが。


「友達でフタマタってきついよね」
「二股って言っても、淳史さんは気が付いてたわけだし、そんなに長い期間じゃなかったみたいだよ。それに、彩華さんがあんまりにも先生のことを好き過ぎて、自分じゃ無理だって思ったから引いたって話だし」
淳史では太刀打ちできないと思うほど彩華が義貴を好きだったのなら尚更、俊明や義之まで口説いたという理由がわからない。
「そんなに先生を好きなのに、どうして先生の子供とつき合ったりしたのかな?」
「先生は最初から淳史さんのつき合ってる人だって知ってたから、相手にしてなかったんだって。それで彩華さん、焦れて俊明さんにいっちゃったみたいだよ」
「だから、それでどうして先生の子供にいくの?好きなのは先生なんでしょ?」
それほど好きな相手でも、振り向いてくれなければ諦めて他の人とつき合ってしまうというのはわかるような気がする。でも、そのとき淳史とつき合っていたのなら新たに口説く必要はないはずで、聞けば聞くほど、里桜には彩華という人が理解不能に思えてくる。
「見た目が似てるとか、遺伝子を引き継いでるとか、そういう理由みたいだよ。先生がダメならせめて息子とでもって思ったんだろ?」
「だから義くんのことも口説いたの?」
「そうみたいだよ。俊明さんより義之さんの方が先生に似てるし。でも、その時は義之さんにも他に相手がいたし、そうじゃなくても彩華さんだけはどうしてもムリって言ってたから、俊明さんとつき合うしかなかったんだと思うけど」
里桜なら、義之がダメなら義貴で妥協しようという風には思いつきもしないだろう。それどころか、同じはずの義之でさえ、記憶を失くす前と後では別人のように思えて仕方ないくらいなのに。
「彩華さんって、すごく失礼な人だよね。話聞いてるだけでムカついちゃう」
「そう言うけど、里桜だって本人に会ったら圧倒されてしまうと思うよ?美人っていうだけじゃなくて、凄い存在感みたいなのがあって、俺なんて消えてしまいたくなるくらいだったから」
その姿を思い浮かべているみたいに、優生が視線を伏せる。里桜から見れば、優生も充分に美人だと思うのに。


「じゃ、結局、先生もその魅力に負けちゃったってこと?」
「っていうよりは、彩華さんの執念に根負けしてつき合うことになったんだと思うけど」
「ふうん……諦めなきゃ何とかなるってことなのかな」
ある意味、その挫けない意思の強さには感心してしまう。里桜が初めてつき合った相手の時がそうだったように、辛抱強く口説かれ続ければ、よっぽど確固たる信念でも持っていない限り、断り抜くのは難しい。
「先生は、淳史さんが彩華さんと別れたから気が緩んじゃってたんだよ。彩華さんが俊明さんともつき合ってるってことは知らなかったから絆されただけなのに、彩華さんの方は先生を離す気なんてないから泥沼になっちゃって、別れるなら俊明さんに話すって脅されて、仕方なくズルズル続けてたみたいだよ」
「それなら、どうして子供作っちゃうのかな?ますます別れにくくなっちゃうでしょ?」
世間一般的に、子供というのは女性の側の切り札のようなもので、時として相手の人生を縛る鎖になりかねない。縛られる覚悟がないなら、絶対に回避するべきだと思う。
「彩華さんに、別れる代わりに子供が欲しいって言われたんだって。でも、俊明さんにバレて、子供は取られたっていうか、義貴先生の所で育てることになったんだけど」
「え、でも、先生には子育てなんて出来ないでしょ?」
「俊明さんのお母さんが育ててるみたいだよ。他の女のところに先生の子供がいるのは許せないって」
「だからって、自分が育てるのもイヤじゃないのかなあ……先生だけじゃなくて彩華さんの子供でもあるわけでしょ」
「その辺は複雑だよな……でも、先生の奥さんは子供には罪はないって考え方らしくて、ちゃんと育ててるみたいだよ」
或いは、そのくらいの気概が無くては義貴と婚姻関係を続けてくることは無理だったということなのかもしれない。
「先生と義くんのお義兄さんは険悪になったりしてないの?そんなことがあったら顔も見たくないよね」
「俊明さんは穏やかな人だし、今は事情もわかってるから大丈夫なんじゃないかな?先生より彩華さんには腹を立ててるだろうけど……俺も、彩華さんにはまだちょっと恨みみたいなのがあるし」
「ゆいさんも何かされたの?」
「俺、別れた奥さんのお腹に子供がいることがわかったから復縁するかもって言われて、俊明さんと別れたから。それで淳史さんが拾ってくれて今に至るわけだけど、やっぱり彩華さんに対しては蟠りがあるかなあ。それがトラウマになって、淳史さんのことも信じられなくなっちゃたりしたし」
優生の身に起きたいろいろなことに比べたら、里桜の悩みが小さなものに思えてくる。里桜とつき合っていた義之は今は居なくなってしまったが、“一生かけても”という約束通り、里桜を幸せにしてくれた。





「そんなに急いで帰らなくてもいいだろうが」
“おかえり”の次に掛けた言葉が“じゃあね”だった里桜に、淳史は驚いたというより気を悪くしたような顔をする。
淳史と義之が出掛けているうちに帰るつもりでいたのに、優生と一緒に昼食を摂って後片付けをし終わったところで、二人は戻ってきてしまった。
「ごめんね、早く帰るって言ってきてるから。それに、あっくんだって、ゆいさんと二人きりになりたいでしょ?」
「おまえが帰っても義之が居るから一緒だ」
淳史がまだ引き止めるような言い方をすることを不思議に思いながら、帰る理由をくり返す。
「でも、くーちゃんも待ってるし、今日は帰るね」
「……しょうがないな」
何が“しょうがない”のかわからないまま、差し出される薄い箱の入った紙袋に手を伸ばした。
「おみやげ?」
「きんつば、食いたいって言ってだろう?」
「ありがとー。俺がもらっていいの?」
「おまえ以外の誰が食うんだ?」
里桜につき合ってスイーツを一緒に食べてくれていた義之はもういないことを思い出す。里桜以外の三人は、甘いものは好まないのだった。
「じゃ、遠慮なくもらって帰るね」
今度こそ帰ろうとした里桜の傍へ、義之が近付いてくる。
「送るよ」
当然のような口調に戸惑ってしまう。
「え……でも……俺、寄るところあるし」
「どこでも送るよ。遠慮しないで」
なぜか食い下がる義之に戸惑いながら、それでも送ってもらう気などなかった。
「俺、女の子じゃないし、そんな気にしなくていいから」
「僕には言えないようなところ?」
少し怖い表情に驚いて、答えられずに俯いてしまう。
「僕は保護者も兼ねているんだろう?行き先と相手くらいは言っておくべきなんじゃないのかな?」
今朝もそうだったが、義之は急に里桜の所有権を主張するようになったような気がする。
「……送ってもらう時間が勿体無いと思っただけなんだ。まっすぐ家に帰るから心配しないで」
「きみを送る時間を勿体無いとは思わないよ。この間のこともあるし、僕も一緒に行って挨拶しておきたいしね」
どうあっても引く気のなさそうな義之に負けて、里桜は久しぶりに義之の車に乗ることになった。





「ただいまー」
実家のリビングに辿りついた途端、里桜は崩れるように床に座り込んでしまった。ドアの傍の壁に凭れて、足を投げ出して息をつく。
ベビー布団で昼寝中の来望に添い寝をしていた母が、そっと体を起こしてソファへと移動してくる。
「おかえりなさい。どうしたの?そんな疲れた顔をして」
「ホッとしたら気が抜けちゃって……あのね、義くんが送ってきてくれて、お母さんに挨拶したいって言ってたんだけど、途中で会社の人から電話がかかってきて、仕事に行かないといけなくなっちゃったんだって。お母さんによろしくだって」
緊張から解放されて思考力の低下した里桜は、まとまりのない説明を母に返した。正直なところ、里桜としては義之が帰ってくれて安堵している。
「そう。何か用があったの?」
「ううん。この間、お母さん急に帰っちゃったでしょ?だから気を悪くしたんじゃないかって心配してるみたいだよ」
「今度の義之さんはずいぶん気を遣うのねえ。里桜とも、送ってくれるくらい仲良くなったの?」
「ううん……なんか、いろいろ叱られちゃった。ゆいさんの所に行く前に義くんの所に挨拶に行くものだとか、出かける時には行き先と相手を言っておかないといけないとか」
「なんだかんだ言って、やっぱり義之さんは里桜を束縛しておきたいのね」
「そういうんじゃなくて……俺の保護者だっていう意識が強くなったみたいで、俺に常識がないと思ったんじゃないのかな?」
里桜にはいつも優しかった義之に、怖い顔を向けられた時には本当に驚いてしまった。別人になったのだと自分に言い聞かせていたつもりでも、攻撃的な面を見せられると戸惑ってしまう。
「里桜に常識がないっていうのは反論できないわね。旦那さんをほったらかしにして、主婦業をサボっているのは事実なんだもの」
「でも、俺は別れたつもりだし……ほんと言うと、もう顔を合わせるのもイヤなんだ」
「でも、義之さんは別れたとは思ってないんでしょう?里桜はちょっと勝手過ぎるんじゃない?」
母に指摘されなくても、里桜の我儘なのはわかっている。それでも、義之に接していると、いつまで経っても思い切ることが出来なくなってしまいそうで、つい避けることばかり考えてしまう。



「そうだ、きんつば貰ったから一緒に食べよ?」
淳史に貰った包みを解きながら母を誘う。
「またお隣さんから?いつも悪いわね。たまには何かお返しした方がいいかしら?」
お茶を淹れるためにキッチンへと向かう母の言葉に、今更ながら、してもらってばかりだということに気が付いた。
「えっと、確か地酒とか好きみたいだよ?前に、“何とか一番酒”っていうのを持ってったことがあるんだけど……お母さんわかる?」
「そうね、酒屋さんで聞いてみれば何とかなるでしょ。また月曜にも遊びに行くの?」
毎日でも来て、と言われた通り、平日の昼間はほぼ皆勤賞だ。行かないつもりでいても、午後までには優生から催促のメールが届いて、結局は通い詰めているような状態だった。
「たぶん。でも、日曜以外は殆ど毎日行ってるから急がないよ。あっくんには土曜しか会えないし」
「そういえば、毎日出掛けてるわね。そろそろ里桜にもおこづかいあげないと困るんじゃない?電車代もばかにならないでしょう?」
「ほんと?良かったー。俺、アルバイトでもしないといけないかなあと思ってたんだ」
「じゃ、来望の面倒を見てくれているぶんを払うわね。そうしたら他のアルバイトなんてしなくていいでしょう?」
「ありがとー、ほんと助かるなあ」
「お母さんこそ、里桜が手伝ってくれて助かってるわよ。でもね、義之さんのことをほったらかしっていうのはやっぱり良くないと思うの。隣まで行ってるんだから、義之さんの所にも寄って、お掃除と洗濯だけでもしてこれない?いつも帰りが遅いんなら、顔を合わさずにすむでしょう?」
「そうだけど……留守中に入るのはどうなのかな?」
一緒に住んでいる時でも寝室を分けていたくらいなのに、留守とわかっていて室内に入るのには少し抵抗を感じる。
「向こうは、まだ里桜と一緒に住んでるつもりなんでしょう?鍵を貰ってるんだから、入るのは当たり前と思ってていいんじゃないの?」
「かな?」
「食事は外で摂ってくることが多いんでしょうけど、夜遅く帰って掃除や洗濯をするのは大変よ。感謝されても叱られるってことはないと思うから、少しは主婦業もしてきなさい」
「じゃ、今度からそうするね」
母の言う通りかもしれないと思い直し、週が明けたら実行してみようという気になれた。



「ねえ、里桜は別れたつもりだって言ってたけど、義之さんの記憶が戻ったらどうするの?そのとき他の人とつき合ってたりしたら、義之さん、どう思うかしら?」
一段落したかに思えた話題を蒸し返されて、お茶とお菓子で解れた気分がまた現実に戻される。
「でも、義くんは一生記憶が戻らない可能性の方が高いって言ってたでしょ?それに、俺じゃなくて、義くんの方に好きな人ができる可能性の方が高いと思うけど」
「どうして?義之さんは誠実に、里桜と向き合おうとしてくれているでしょう?」
「でも、俺と恋愛するのが義務みたいに思われるのはイヤなんだ」
「義務だなんて、そんな言い方しないで。義之さんが記憶を失くす前に里桜と恋愛していたのは事実なんだから、できれば元のような関係に戻れるようにって思ってくれているんでしょう?」
「ううん……義くんは、最初から責任感とか義務感で俺の相手をしてくれてただけだから……またそんな風にはなって欲しくないんだ」
初めて明かした事実に、母は心底驚いたようだった。
けれども、それは知らずにいた事実にではなく、里桜の卑屈さに対して、らしかったが。
「なんだか里桜の方が重症みたいね。そういえば、前にも家出してきたことがあったけど、結局は里桜の勘違いだったでしょう?」
「あの時はそう思ってたけど……やっぱり義くんは前の奥さんのことが好きだったんだよ」
「そんなことないでしょう?里桜は疑り深いわね。傍から見てても、義之さんは里桜のこと、すごーく愛してくれてたと思うんだけど」
「ううん、義くんはウソつきだもん。ほんとは甘いものなんて好きじゃないのに、俺が甘党だからって合わせちゃうし、大人の女らしい人の方が好きなのに、大人にならなくてもいいって言うんだから」
「合わせてくれたらいけないの?どちらかが我慢したり無理したりし過ぎるのは良くないけど、誰だって多少は譲り合うものよ?」
「それは、そうかもしれないけど……」
隠し事ばかりの里桜は、誰に対しても納得させられるような説明は出来そうになかった。
「それとも、他にも何か事情があるの?里桜は義之さんのことをちっとも信用していないみたいに思えて仕方ないんだけど」
「だって……お母さんだって、あんな男前で一流企業に勤めてて相手に不自由しそうにない人が、俺なんかを相手にするの、変だと思うでしょう?」
「そうねえ。それは一理あるかもしれないけど……でも、里桜は可愛いし、家事だって出来るし、望まれても不思議じゃないと思うわよ?親からすれば、一回りも年上のくせに若い子に手を出すなんて、ふざけんじゃないわよ、って感じだしね」
今まで里桜や義之には言わずにいた母親の本音を聞いて、引け目を感じているのはお互いさまなのかもしれないと思うことができた。





「いつもキレイにしてくれてありがとう。助かってるよ」
玄関にあった見覚えのある靴に、そうだろうと思ってはいたが、優生の後ろから里桜を迎えに出てきた義之の姿にため息が出てきそうだった。なぜ土曜毎に、義之が淳史の所に来ているのか。
てっきり出勤だと思い込んでいたのに、先週に続いて今日も義之は仕事ではなかったらしい。今更ながら、来る前に優生に確認しておかなかったことが悔やまれた。
「ううん……いない間にどうかなあって思ったんだけど、俺、夜は出られないから」
「きみの家でもあるんだし、そんなに気を遣わないで、いつでも都合のいい時に来てくれて構わないよ。それに、夜でも僕に合わせてもらうと遅くなってしまうから、昼間の方がいいだろうね」
もう、子供扱いされて悲しくなるというようなことはない。それより、義之が居るとわかっていれば来なかったのに、という思いが顔に出ないよう神経を遣った。
いつものように、少し疲れた顔でソファに凭れかかる淳史の方に近付いて、一升瓶の入った袋を手前のテーブルに乗せる。
「あっくん、これ、お母さんからなんだけど」
「気を遣うなって言ってるだろうが」
ともすれば気を悪くさせてしまったのかと思うくらい、淳史の声は低い。
「でも、いつもお世話になってるし、いろいろ買ってもらってばっかりだから、たまには持っていきなさいって」
「優生の時にはこっちが世話になっただろう?お互いさまだ」
「そうかもしれないけど、これ、結構重いし持って帰らさないで?」
何とか受け取ってもらおうと、押し付けがましい口調になってしまう里桜に、淳史は言葉が過ぎたようだと思ったらしかった。
「そういうつもりじゃなかったんだが……悪かったな」
「ううん。却って気を遣わせてたらごめんね。でも、この頃ほんとに貰うばっかりだったから」
なんとか受け取って貰えたことにホッとしながら、淳史の向かいへと腰掛けた。



「何か淹れてこようか?」
テーブルの上には既にマグカップが3つ置かれていて、里桜の来るタイミングが少し悪かったのかもしれないと気付く。
土曜の早朝から押しかけては淳史もゆっくり出来ないだろうと思ってのことだったが、結果的に義之も来ているということは、あまり意味のない気遣いだったようだ。
「ううん、俺はいい。出がけにカフェオレ飲んできたし」
里桜が断ると、優生はすぐ隣へと腰を下ろした。少し近過ぎる距離感をどうしたものかと淳史を窺ったが、疲れの滲む目元はもう伏せられてしまっていた。
「今日は宿題持ってきてないの?」
里桜の肩に凭れかかるように、優生が顔を寄せてくる。まるで見せつけようとしているかのような、何か意図的なものを感じてしまう。
「うん。ゆいさんのおかげで今年は余裕だもん。課題が終わったら、数学と英語と、あとピアノも教えてね?」
保育士になるために進学すると決めた里桜は、遅まきながら真面目に勉強に取り組み始めた。幸い、そのために必要な教科もピアノも、優生に見てもらえるという有難い環境にいる。
「里桜はピアノは全然やったことないんだっけ?」
「全然に近いかなあ。バイエルの2冊目で挫折しちゃったから」
「それって、いくつくらいの話?」
「確か小2の時にやめたんだったと思うけど」
「じゃ、初心者同然ってことだよな?」
「うん。ごめんね。でも、試験には関係ないから、入ってから習う人もいるくらいだし、焦ってはないんだけど」
寄り添ったままで話を続ける里桜と優生に、堪りかねたように義之が割って入る。
「くっつき過ぎだよ。そういうところは見たくないと、前にも言わなかったかな?」
驚いたのは義之の口調が厳しかったことではなく、その言葉が以前とは違って優生に向けられていたからだ。



「悔しかったら、義之さんもすればいいでしょう?俺は里桜にも淳史さんにも止められてないから」
これ見よがしに、優生が里桜の肩を抱きよせた。相変わらずの優生の好戦的な態度に、義之が眉を顰める。
「僕には所有権を主張する権利がないとでも?」
「放棄したんじゃなかったの?」
「どうして?彼を手放す気はないよ。そんなに無責任じゃないつもりだしね」
これ以上気持ちを乱されたくなかったから別れることを選んだのに、義之は里桜を自分のものだと思っているような言い方をする。
「里桜」
見かねて呼ぶ淳史の方へ行くために、優生の腕を抜け出す。今は険悪な二人を見たくなくて、淳史の影に隠れるようにひっそりと隣に座った。
「記憶が無くても、義之は相変わらずだな」
好きでもないのに、里桜に執着するような言動を取る義之が理解できない。責任というなら、もっと別な形でもいいはずなのに。
気を抜くと泣いてしまいそうで、相槌を打つこともできずに項垂れた。
そっと、大きな手に頭を撫でられて、ますます涙腺が緩んでしまいそうになる。あんなに怖いと感じたことがあったのが嘘のように、今は里桜を安心させてくれていた。
「優生が義之に喧嘩を売るのは日課みたいなものだ。おまえが気にすることはないからな?」
まともに話すことも出来ない里桜の代わりに、優生が義之に腹を立ててくれていることはわかっている。だから余計に、里桜は義之に近付くことは避けたいと思っているのだったが。
「淳史まで参戦する気なのか?」
尖った声にハッとして、慌てて身を離す。優生が何も言わなくても、淳史の至近距離には近付かないと決めていたのに、うっかり越えてしまっていた。



「俺、やっぱり今日は帰るね」
こんな自分は弱過ぎるとわかっていても、普通の顔をして傍に居られるようになるにはまだまだ時間が必要だった。
「里桜」
優生の心配げな声に、決して嘘ではない言い訳を返す。
「ゆいさん、ごめんね。今日はあっくんにお酒持って来るだけのつもりだったし、帰ってくーちゃんのお世話しないといけないんだ。夏休み中は俺が面倒見る約束でシッター代も貰ってるのに、この頃サボリ過ぎだったから」
来望の面倒を見ると約束してからも、優生と会うために日中の半分以上を母親が担当している。夕方早めに家に戻っていれば里桜が風呂に入れて一緒に寝るが、遅くまで優生の所に居る日は、それも身重の母親任せになっていた。
「それなら、今度から連れてくれば?俺も、里桜のミニチュア見てみたいし」
優生は事も無げに言うが、おそらく小さい子供と接したことなど殆どないはずで、戸惑う姿が想像できてしまう。
「ありがとう。でも、騒いだり部屋を汚したりするだろうし、ここに連れて来るのはムリかも。良かったら、ゆいさんがうちに見に来て?」
「いいの?」
優生の反応は思いのほか嬉しげで、ただの思いつきで言ったことは近いうちに現実になりそうだった。
「うん。お母さんも一緒でよければ、いつでも遊びに来て?」
「じゃ、週が明けたら行ってもいい?」
淳史へと視線を移して、ねだるような口調で問う優生に、甘い恋人が否と言うはずがない。
「もう何も言ってないだろうが。遅くならなければいい」
優生が引き籠り気味なのは自主的なもので、淳史が制限しているわけではないと知っていても、言葉の端々から束縛したがる心理が垣間見えるようだ。



「ちょっと待って。きみはずっと向こうにいるつもりなの?」
また、義之が纏まりかけた話に水を差す。“ずっと”が夏休みの間中という意味だとすぐには気付かず、答えるのに時間がかかってしまった。
「……そのつもりだけど」
「少しは僕の所にも居てくれないかな?」
「でも……」
里桜が義之の所に住んでいても接点は殆どなく気を遣い合うばかりなのに、“ひとつ屋根の下”に居る意味は感じられない。溝を深めるだけなら傍にいない方がいいと思う。
「きみが朝からしっかり食事を食べさせてくれていたからかな、簡単なものでは物足りなくなってしまってね」
「あ……それなら、そっちへ寄った時に作り置きしておくようにすればいい?」
一般的な男性に比べて家事に慣れている方だとはいっても、働いている義之に朝食の用意は面倒なものなのだろうということはわかる。むしろ、掃除と洗濯を里桜がしているぶん余計に負担に感じているのかもしれなかった。
「僕は出来たての方がいいな」
まるでダダをこねるような、義之には不似合いな口調に、どうすればいいのかわからなくなってしまう。
「でも……まさか早朝に通ってくるっていうわけにもいかないでしょう?」
「僕の所にも泊まればいいだろう?大体、そんなにずっと僕をほったらかしというのはおかしいと思うよ。仮にも僕はきみの恋人以上の存在のはずなのに、きみからはメールひとつくれないし、隣にまで来ているのに僕には挨拶もなしっていうのはひどいんじゃないかな?」
恨み言まで言われて漸く、義之の態度の明らかな変化の意味を考えなくてはいけないようだと気付いた。それもこれも、里桜は別れた気でいるのを隠して、義之にはただの里帰りだと思い込ませているせいなのだろう。
「ごめんなさい」
それでも、今の里桜にはそれ以外の言葉は言えなかった。



「本当に夏休み中ずっと里帰りしているつもりなの?」
「……うん」
夏休みが終わっても義之の所へ戻るつもりはないと、はっきり伝えるべきなのはわかっている。ただ、今の義之には到底太刀打ちできそうになく、強硬に反対されるのは必至で、それを覆すだけの話し合いをする気力が今の里桜にはなかった。
「それなら、僕がきみの実家に伺おうかな」
「それは、ちょっと……」
「どうして?ここに越してくるまでは、そちらでお世話になっていたと聞いたけど?」
「……まだ、お父さんに話してないし」
母の判断で、義之が記憶を失くして里桜のことも忘れているということは、未だに父親には話さないままでいた。元から義之とのことに賛成していたわけではなかった父が今の状況を知れば、即刻別れさせようとするだろうと母は考えているらしく、里桜が別れることを決意して帰った後も、夏休みが終わるまで保留にするよう言われていた。
「それはどういう意味なの?」
里桜はもう別れているつもりなのだと言えば、もう一度別れ話をすることになってしまうとわかっているだけに、言葉に悩んでしまう。
「……お父さんは賛成ってわけじゃなかったから……今は通いでこっち来てることになってて……」
「僕の記憶がないってわかったら、別れさせられるとか、そういうこと?」
「たぶん」
「それで、僕は“責任”という名目を作って、きみとの交際を認めてもらっていたのかな?」
「そうじゃなくて……もう俺のことは気にしないでって言ったでしょう?」
「そこまでして手に入れた人を、みすみす手放すわけにはいかないよ」
まるで言葉が通じない相手になってしまったみたいに、義之と話がかみ合わない。
もう里桜に責任を感じる必要はないと何度も言っているのに、もしかしたらそれこそが逆効果になっているのか、義之は関係を継続させることに固執しているようだった。





「僕より先に、彼がきみの実家へ行くというのは許せないしね」
義之が車中で洩らしたその一言に、突然の同行の理由は要約されているようだった。
結局、前回と同様、強引に押し切られた形で里桜は義之と一緒に実家に戻って来た。先週と違うのは、義之の電話が鳴らなかったことと、だから帰らずに里桜と一緒に車を降りたことだ。
「おかえり、というか、いらっしゃい?」
玄関まで迎えに出て来た母が、満面の笑顔でちくりと嫌味を言った。車の中で母にメールを打っておいたから、心の準備は整っていたのだろう。
母の後ろから、危なげな足取りで走ってきた来望が、来客の確認をしようと顔を覗かせる。
「っし、んー」
義之が覚えていないことなど知らない来望は、両手を上げて、期待に満ちた瞳で見上げた。もしかしたら抱き上げてもらえないかもしれないとは思いもしない、幼いひたむきさが羨ましい。
「人見知りとか、大丈夫なのかな」
怖々と手を伸ばす義之に、来望は飛びかかるようにして抱きついた。面喰らいながらも、義之は条件反射のように来望の脇へ両手を差し入れて胸へと抱き上げた。
「人見知りも何も、義之さんにはすごく懐いていたわよ?義之さんも養子に欲しいっていうくらい、来望のことを可愛がってくれていたし」
来望を義之に任せたまま、里桜の母は先にリビングへと向かった。後をついてゆく義之は、落ち着きのない来望を落とさないよう、確りと腕に閉じ込めている。
「僕は彼と養子縁組していただけじゃなかったんですか?」
「あら。里桜のことだって、まだあげたわけじゃないのよ?予約というか、婚約と言うべきなのかしら?結婚相手として、“ください”と言われたけど、籍は入れていないもの。来望のことは、子供として養子に欲しいって言っていたのよ」
考え込むように押し黙った義之の表情はますます厳しいものになる。
抱っこに飽きた来望が、降りようと上半身を捩ると、義之は慌てて腰を落として床へ膝をついた。来望が落ちないよう咄嗟にそうしたのだろうが、時を戻したような錯覚に陥りそうになる。
「それでは、僕は二人も欲しいって言ってたってことですか?我ながら厚かましいですね」
「そうよー。来望のことは冗談半分っていうか、あわよくば程度だったんでしょうけど、もし本当に取られてしまったらどうしようと思って、もう一人作っちゃったんだから」
母はあっけらかんと、里桜が義之に話しておくべきかどうか躊躇っていたことを次々に言ってしまった。里桜が思い悩んでいたことも、妊婦らしい“案ずるより産むが安し”的思考で片付けてしまう気のようだ。



「ということは、今お腹に?」
「そうなのよ。だから、里桜に子守りを手伝ってもらっているの。こちらにばかり居るけれど、気を悪くしないで?」
さりげなく、里桜が実家に居つく必要性を説く母に、義之の疑惑も解消したようだった。
「そういうことだったんですか。事情を聞いていなかったので、少し心配してしまいました」
「不便でしょうけど、我慢してやってね」
「わかりました。その代わりといっては何ですが、僕も時々こちらに寄せていただいても構いませんか?」
「それは構わないけど……ただ、義之さんが記憶を失くしてること、ちーくんに話してないんけど大丈夫かしら……?」
「ちーくんって、お父さんのことだから」
不思議そうな顔をしている義之に、こそっと父の名前を教える。
「お父さんには反対されていたというようなことを聞いたんですが、僕の記憶がないと知れると、引き離されるということでしょうか?」
あまりにも真面目な顔をする義之に、母は我慢しきれなかったのか、声を立てて笑った。
「そうね。あんまり里桜とよそよそしくしてると、別れさせるチャンスだと思って張り切るかもしれないわよ?」
「でも、彼は未成年ですし、ましてご両親の前で親密な態度を取るというわけにはいかないと思うんですが」
母の言葉をやや曲解して惑う義之は、里桜から見ても可笑しすぎる。けれども、それだけ真剣に向き合ってくれているのだと素直に受け止めるには、里桜は臆病になり過ぎていた。
「本当に忘れちゃったのねえ。里桜と別れる気がないんなら、ちーくんにもそう言えばいいのよ。責任とかいうんじゃなくて、今の義之さんも里桜と一緒になりたいんだってわかれば、ちーくんも諦めると思うわ」
里桜はもう別れた気でいるということをすっかり忘れてしまったみたいに、母は義之に対処法を教えてしまった。





思い返すほど、信じ難い展開に気が滅入ってくる。
里桜の母の助言に従って、義之は里桜の父親に“同棲を解消しない宣言”をしてしまった。
とても完全アウェイとは思えない落ち着き払った態度で、義之は里桜の父と 晩酌を交わしながら、事故で3年ほどの記憶を失くしたことを話し、真顔でこんな可愛い恋人が傍にいてくれたことに感謝していると言い、これからも里桜との生活を続けるつもりだと言い切った。里桜がもう別れた気でいると知らない父は、義之の勢いに諦め顔でため息を吐いただけだった。
保留にしておくはずだったことに先手を打たれても、義之の言い分をその場で却下する勇気はなく、里桜は来望とミニカーを積むのに夢中で聞こえていないフリを装っていた。それでも、このまま有耶無耶のうちに元の鞘に戻されてしまわないよう、いつ、どのタイミングで、何と言って訂正するかを考えるだけで気が重い。
結局、飲酒を理由に義之は泊まっていくことになり、父と母は気を利かせたつもりか、早々に寝室に引き上げていった。唯一の救いは、来望を残していってくれたことだけだ。
時折、同意を求めるように傍らの里桜を見上げたり、少し離れた義之を振り向いたりする以外、来望は機嫌よく一人遊びを続けている。気まずい空気にならないのは、偏に来望のおかげだった。
「いー」
ラグの上で足を投げ出して座る里桜の膝へとよじ登ってくる来望の体は熱く、辿り着いた途端に行き倒れたように眠りに落ちていった。
子供特有の、限界まで遊び、エネルギー切れと同時に補給に入るというあまりにも効率的過ぎるスタイルを目の当たりにして、義之はひどく驚いたようだ。
「もう眠ったの?」
「うん。くーちゃん、寝付きがいいから。寝起きはちょっとぐずったりすることあるけど」
そっと、来望の頬にかかるまだ柔らかな髪を払ってやりながら、寝入ったことを確かめる。幼い弟は、里桜を母の代わりとして認めてくれていた。
「それにしても、本当によく似ているね。そんな風にしていると、きみが産んだみたいだよ」
この間は1歳児の来望と同列の扱いだったのに、今日は母親に進歩したらしい。しかも、思い出したわけでもないだろうに、以前の義之が何度も言っていた言葉で里桜を戸惑わせる。
「……兄弟だもん、似てて当たり前でしょう?」
「そうだろうけど、きみの仕草のせいかな?何だか、きみの子みたいに思えて仕方がないよ」
産めるものなら、疾うに母親になっていたと思う。里桜を縛り付けるためにそうするというような言い方をしていた義之は、卒業を待たずにフライング婚を狙ったに違いなかった。



「あの……くーちゃん寝ちゃったし、少し早いけど俺もそろそろ上がるね?」
義之を一人残しておいていいものだろうかという迷いはあったが、普段の里桜の生活スタイルから考えても、9時過ぎに自室に引き上げるのはおかしなことではなかった。
「僕も一緒に行っても構わないかな?」
「えっ……でも」
すぐにも眠るつもりでいた里桜にとっては、あまり歓迎できない話だった。ほぼ一日中緊張していた状態から、やっと解放されると思っていたのに。
「やっぱり、同じ部屋で眠るというのはまずいかな?」
義之は、里桜が快く承諾しなかった理由を取り違えているようだった。どうやら、もう少し一緒に居たいということではなく、そのまま同じ部屋に泊まる気でいるらしい。
前に、ケジメだからと線を引いたのは義之の方だったが、今それを言うのは揚げ足を取ることになってしまいそうで、微妙な言葉で答えを濁す。
「俺の部屋はシングルベッドがひとつあるだけだし、狭いから床に布団を敷いてもらうことになるんだけど」
「構わないよ、僕はどこででも眠れる体質だから。用意してくれた布団を持って上がったらいいかな?」
「ううん、布団は俺の部屋にも置いてあるから、そっち使って?」
初めて義之が里桜の部屋に泊まった日からずっと、一つのシングルベッドでくっついて眠る二人に使われることのなかった寝具は、クローゼットに置いたままにされていた。
そっと、膝を枕に眠る来望を胸元に抱こうとした時、義之に遮られた。
「僕が連れていくよ」
「あ……じゃ、お願い」
ついこの間、おっかなびっくり眺めていたのが嘘のように、義之は軽く来望を抱き上げた。その違和感のなさが、逆に里桜を不安にさせる。
それでも、この家には不慣れなはずの義之を待たせないよう急いで電気類を消すと、二階の里桜の部屋へと案内した。



「先に布団を敷いてもらっても構わないかな?」
来望を腕に抱いたままの義之がそう言うのを不思議だと思いながら、大急ぎでクローゼットから布団を出す。
「もうちょっと待ってね」
そう広くはないベッドと机の間の空きスペースに、布団を敷いてシーツをかける。フローリングに厚手のカーペット敷きとはいえ、ベッドとの段差に少し気を遣わないでもない。
「もう寝かせてもいいかな?」
「うん。くーちゃんは眠りが深い方だから、そんなに気を遣わなくても大丈夫だと思う」
静かに、今敷いたばかりの布団の上へ来望を下ろすと、義之はベッドの縁へと腰掛けた。ベッドは里桜と来望で使うつもりでいたのだったが、義之は逆にするつもりのようだ。
「あの……ベッドの方、使う?」
「落ちるといけないと思って下に寝かせたけど、ベッドの方が良かったかな?」
「あ、そっか……くーちゃん、あんまり寝相良くないし、下の方が安心だよね」
いつもは二人なので気にしていなかったが、来望が里桜のガードを乗り越えて、ベッドの下へ落ちてしまうこともあるかもしれないのだった。
「かなり活発なタイプのようだから、その方がいいんじゃないかな」
義之の気遣いに納得して、里桜は来望の隣に横になった。今はあまりいろいろと考え過ぎないためにも、早く眠ってしまうに限る。
「あの、俺も明るいのとか物音とか全然気にならないから、何かすることあったら気を遣わないでね?それじゃ、おやすみなさい」
「え、もう寝るの?」
「うん、そのつもりで上がって来たから」
里桜が小学生なみに早く眠り、睡眠時間が長く要るということを信用していなかったのか、義之はひどく驚いたようだった。義之と住んでいる時にも一緒の部屋で寝ていたわけではなかったから、強引に引き止められなければ里桜が10時に就寝してしまうということは知らなかったのだろう。



「少し話をしたかったんだけど」
義之はまだ里桜を眠らせたくないのだとわかっても、“おやすみ”を撤回するつもりはなかった。
「ごめんなさい、俺、ロングスリーパー傾向なの。睡眠時間が足りないと具合悪くなっちゃうから」
引き止められないよう、簡潔な事実を告げて背を向ける。対照的にショートスリーパータイプの義之が一人で起きているのは退屈かもしれないが、今の里桜はそれにつき合えるような余裕は持ち合わせていなかった。
「……しょうがないな」
声音に言葉とうらはらな感情が滲んでいたが、気付かぬ素振りでスルーしておく。
「里桜?」
怪訝な声が、里桜の鼓動を逸らせる。記憶を失くした義之に名前を呼ばれるのは初めてだった。
「里桜?もう少し起きていられないかな?」
眠ったフリをしたつもりはなく、“おやすみ”を言ったのにいつまでも答えていたのではキリがないと思っただけだったのだが。
「……なに?」
「うちにベッドがひとつしかないのは、一緒に眠っていたということなんだろうね?」
振り向いた里桜のすぐ傍まで義之が身を乗り出していたとは知らず、驚いて飛び退ってしまった。
「……そういうの、あんまり気にしないで。もし俺と一緒の部屋だと落ち着かないんなら、和室かリビングを使ってもらって構わないから」
「そうじゃないよ。ただ、きみと一緒に眠るのはやっぱり無理そうだと思ってね」
軽く息を吐いた義之が、抑えた声で呟く言葉の意味を正しく理解することは出来ず、里桜はまた居た堪れない気持ちになる。一緒に寝て欲しいなんて、一言だって言っていないのに。
気を静めようと、眠る来望に身を寄せた。
愛らしい寝顔に、ささくれ立った気持ちが和らいでゆく。頼りないほど柔らかく小さな体を抱きしめていると、面倒を見ているようでいて、里桜はいつも癒されていたことに気付いた。
規則正しい寝息にシンクロすれば、深い眠りに引き摺りこまれそうになる。もう、黙り込んだ里桜を呼ぶ声に答えられるところに意識はなく、睡魔の誘惑に逆らうことは出来なくなってしまっていた。





「何で、秀もいるの?」
美咲と約束していたカフェに、なぜ秀明が一緒にいるのか不思議で、つい率直に尋ねてしまった。
時間より大分前に来ていたことを感じさせる、半分ほどになったジンジャーエールのグラスとハーブティーのカップ。後から来る里桜のためなのだろうが、美咲と俊明は四人掛けのテーブルのソファ側に並んで座っていた。
「ごめんなさい、なかなか話すタイミングがつかめなくて。私たち、おつき合いしてるの」
気まずそうな秀明を横目に、美咲が申し訳なさそうな顔をする。
「え……美咲さんの相手って、秀だったの……?」
義之が未練がましい態度をとった時、美咲が他につき合っている相手がいるような言い方をしたのは、てっきり無用な期待を持たせないための配慮なのだと思い込んでいたが、そういうわけではなかったようだ。
「そうなの。前に義之さんが、私好みのいい男がいるって言って紹介してくれたのよ。あとで聞いたら、秀くんには里桜くんとのことを反対されていたから、私と纏まったら面倒がなくなると思ったんですって。ほんと、失礼な人よね」
咄嗟に言葉の出てこない里桜が気を悪くしたと思ったのか、秀明は両手を合わせて軽く頭を下げた。
「悪い、ずっと黙ってて。緒方さんにきついこと言った手前、おまえには言い出しにくくて。そのうち話そうと思ってるうちに、つい」
「そんなの気にしなくていいのに。二人が幸せになってくれたら俺も嬉しいよ」
里桜にとって大切な二人が上手くいくのは、自分のことのように喜ばしいことだった。
「それより、里桜くん、実家の方に帰ってるんですって?義之さんには里帰りしてるっていう風に聞いたんだけど、心配になって。本当にただの里帰りなの?」
ということは、義之はずっと美咲にコンタクトを取り続けているということなのだろう。よもや自分が美咲に次の恋の相手を引き合わせていたとは知らず、まだ取り戻したいと思っているのだろうか。



「……おしまいにしようって言ったんだけど、何か意地になってるみたいで聞いてくれなくて。とりあえず里帰りっていうことにして家に帰ってるんだ」
「嘘だろ?おまえ、本気で緒方さんと別れる気なのか?」
義之と里桜の本当の馴れ初めを知った時には、秀明は頑なに反対したのに、今はまるで里桜が間違っていると言いたげな顔をしていた。
「別れるっていうか、今の義くんとは始まってもなかったし……義くん、記憶がないっていうだけじゃなくて、別人みたいになってて、俺ももうつき合いたいとは思ってないから」
「別人って……緒方さんは忘れてるだけだろ?思い出さないにしたって、緒方さんに別れる気がないのに、何でおまえが別れようとしてるんだ?」
義之に記憶が無くても関係ないと思えたのは最初だけだった。前の義之に大事にされ過ぎていたせいか、里桜とまともに向き合おうともしなかった今の義之ともう一度始められるとは、もう思えなくなっていた。
「元々、義くんは俺に対する負い目でつき合ってくれてただけだから……すごく幸せにして貰ったし、もう充分かなって思うんだ。だから、もし聞かれても、俺と義くんが何でつき合ってたのかとか、絶対言わないで?」
このまま別れるとしても、どうしても里桜の最初の相手が誰だったのかは知られたくなかった。
「まだ気にしてるんだな」
ため息のような呟きに、里桜はまた胸が締め付けられるような痛みを覚える。
気にしないわけがない。今でも、最初の相手は里桜の好きな人か、里桜を好きな人だったら良かったと思ってしまうのに。たとえ同じように暴力的に奪われたとしても、好きの延長線上で起きた行為だったら救いがあったような気がする。
「……また、俺を好きになるのが義務みたいに思われたくないし……せっかく忘れたんだから、知らないままでいて欲しいんだ」
それまで黙って聞いていた美咲が、複雑な表情で里桜を見る。
「里桜くんの気持ちもわからないでもないけど……義之さん、だんだん元に戻ってきたと思わない?記憶が戻ってきたわけじゃないようだけど、あの執念深そうな感じ、身に覚えがあるでしょう?」
里桜が最近の義之に感じていた違和感と、美咲の言う変化は同じものなのだろう。ただ、その執着めいた行動に伴うべき一番大切なものがないなら、始める意味もないと思っている。
だから、美咲の言葉に一抹の不安を覚えながらも、里桜は考え直す気はないことを伝えた。





まったりとした空気に水を差すドアホンの音に、里桜の鼓動が荒れる。
そろそろお茶の用意をしようかと優生が言い、クッキーと煎餅のどちらが好きかという問いに、迷いに迷って結論を出しかねていた午後二時半。
里桜に黙って玄関に向かった優生が出迎えているのが義之だろうということは、話し声が聞こえてくる前から察していた。平穏な時間が終わり、ここが安全な場所ではなくなってしまったことに気付いて、テーブルやソファに広げた私物を片付ける。
「こんな時間にどうしたの?慣れてきたら早速サボリ?」
少しきつい優生のもの言いを軽く流しながら、義之がリビングに向かってきた。
「許可は貰って来てるよ、これでも支所一優秀な成果を上げているからね」
土曜に義之が来た時にも驚いたが、平日の昼間にまで訪れるという事態の意味はあまり考えたくない。ましてや、里桜が優生の所に通い詰めていると知っての行動だとは。
「本当にここに入り浸ってばかりいるんだね」
憮然とした表情で見下されると、里桜はソファに座った姿勢のまま固まってしまった。また、義之に挨拶がないと思われているのだろうか。
答えられない里桜の腕を、義之は焦れたように掴み、強引に立たせようとする。
「悪いけど借りていくよ」
「俺じゃなくて、里桜の了承をもらってからにしてくれる?俺には里桜が拉致られそうになってるようにしか見えないから」
止めに入ろうとする優生を目で制して、義之は有無を言わせず里桜を促した。
できれば会うことも避けたいと思い始めた矢先に、義之が急に里桜に関わろうとするようになった理由もわからないのに、おいそれと従えるはずもない。
「……ごめんなさい。ゆいさんの所に来てる時は放っておいて?」
「僕の所に来てることになってるのに?」
いつになく義之の表情が険しく見えて、余計についてゆくのを躊躇ってしまう。
義之の家へ掃除や洗濯に通うついでに優生の所へ立ち寄っている、という名目を利用しているのは事実で、この件に対しては返す言葉がなかった。
「美咲に聞いたよ。僕たちは話し合う必要があるんじゃないかな?」
里桜が別れた気でいることを知って、義之はわざわざ優生と一緒の所へ訪ねて来たらしい。
急かすように、掴まれた腕に力を籠められて、里桜は逃げ続けることを諦めた。



今朝、家主のいない間に来たばかりの部屋へと足を踏み入れる。
優生の前で痴話喧嘩を始めることは躊躇われて、里桜は義之に連れられるまま隣家へと場所を移していた。
掃除や食事の用意をするためにほぼ毎日来ているが、義之と一緒になるのは里桜が里帰りをして以来初めてのことだった。二人きりになるのが久しぶりだからか、義之の不機嫌さが伝わってくるからか、緊張感と不安でバクバクと騒ぐ心臓は今にも飛び出してしまいそうなほど。
少し乱暴な仕草で里桜をソファへと座らせると、義之は隣に浅く腰掛け、膝が触れ合うほどに身を寄せてきた。
「僕と別れたつもりでいるというのは本当なの?」
単刀直入に本題に入るのは、仕事を抜けて来ているからなのだろうか。
手短に済ませた方が良さそうだと思いながら、答える言葉を探しあぐねている里桜に、義之は沈黙を肯定と受け取ることにしたらしかった。
「きみは短気過ぎるよ、もう少し時間をくれても良かったんじゃないのかな?」
逸らせない強さで里桜の目を見つめてくる義之に、いい加減腹を括る時がきたのかもしれないと、覚悟を決める。
「……時間をかけても同じことでしょう?俺には興味ないんだから、一緒に居ても意味がないと思うけど」
言葉を選ばなければと思うのに、口を開けばつい責めるような言い方になってしまう。だから、義之と話すのはまだ早いと思っていたのだったが、これ以上引き伸ばしても結果は同じなのかもしれなかった。
「配慮が足りなかったことは謝るよ。僕は自分のことで手一杯で、きみをないがしろにしてしまっていたね」
漸く、義之にも里桜のことを考える余裕が出てきたのだろうが、もう振り向いて欲しいとは思っていない。中途半端に期待を持って、やっぱりムリだと言われるくらいなら、何も起こさないまま離れたかった。
「気にしないで。俺には帰る家もあるし、迎えてくれる両親もいるし、ここにいなきゃならない理由はないから」
「僕にはあるよ」
すんなりと話し合いを終わらせる気は毛頭ないらしく、義之は里桜の言い分をあっさり却下した。



「きみが居なくなってから、どうにも落ち着かなくてね。家の中をいろいろ調べてみたら随分たくさん写真が出てきたよ。パソコンの中にも凄い量のデータが残っていたしね。その理由は写真を見れば一目瞭然だったよ」
写真が示す理由は記憶を失くす前の義之に限定されているのに、今の義之にも当てはめようとする無意味さには気付かないようだ。
「どうやら僕はきみに夢中だったようだね」
「……俺じゃなくて、写真が趣味みたいになってたんだよ、俺はたまたま身近にいた被写体だったっていうだけで」
「そんなことはないと思うよ。それに、写真を見れば、きみがどれほど僕を好きでいてくれたのかもわかるからね」
里桜が義之の方を向いている時に撮られた写真に、気持ちまで写っているのは当たり前のことだった。ファインダーの向こうに義之がいるなら、恋心を隠すことはできない。
「……好かれたからって、好きにならなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
「そんな風に言わないでくれないかな?きみと離れてから、僕はきみのことが気になって仕事にも身が入らなくなってるのに」
「写真を見て流されてるのかもしれないけど、俺のことを思い出したわけじゃないでしょう?俺の知っている義くんとは別人だって思ってるから、もう俺のことは気にしないで」
まるで口説いているかのような言葉を、ひとつひとつ否定してゆく里桜に、義之は不満げな表情になる。
「もう少し嬉しそうにしてくれると思っていたんだけどな」
軽いため息を挟むと、義之は里桜の顔を覗き込んできた。
「まだ思い出していないけど、脳に異常はなかったんだし、たぶん記憶が失くなったわけではないと思うよ。そこに至る回路に不具合が生じてしまったというか、上手く繋がっていないだけなんじゃないかな?」
鼓動まで聞かれてしまいそうなほど間近で見つめられて、捕らえられた瞳が逸らせなくなる。まともに義之の顔を見るのはひどく久しぶりで、その緊張のせいか、義之の言葉が耳を滑ってゆく。



「もし思い出せなかったとしても、きみと元のようにつき合えるようになると思うから、もう少し待ってくれないかな?」
穏やかな物腰のようでいて、僅かも引く気はないのだろうということは、義之の本質を知っているだけに想像がついた。
だからこそ、義之の機嫌をこれ以上悪くしないよう、この場を曖昧に濁して先延ばしにするのではなく、きちんと終わらせることがお互いのためなのだと思う。
「俺とつき合わなきゃいけないって思わないで?元はといえば俺が好きになったからそうなったんだし、そんなに責任感じるほどのことじゃなかったんだから」
「義務みたいには思っていないよ、僕は好きでもない人を身近に置き続けられるほど出来た人間じゃないはずだからね。きみが思ってくれていた以上に、僕はきみに思い入れていたんじゃないのかな?」
少し前の里桜なら簡単に信じてしまっていただろう尤もそうな言葉にも、今は頷くことは出来なかった。
「だから、それは事故に遭う前のことだから……もう、お終いにしよう?ただでさえ忙しいのに、俺に時間を取られるのは勿体無いでしょう?俺も、くーちゃんの面倒見たり、受験対策したりしないといけないし、これ以上煩わされたくないから」
「もう遅い?」
不似合いな弱気を覗かせる口ぶりに、このまま押し切れるかに思えた。
「周りからいろいろ言われて責任感じてるのかもしれないけど、もう気にしないで?俺は子供だし男だし、ムリしなくていいから」
気遣ったつもりが触発させただけだったと気付いたのは、義之の瞳に物騒なものが過ったからだ。
「きみが子供だから抱く気になれないということはないよ?」
子供扱いしない証明とばかりのあからさまな言い方に、ずっと麻痺していた危機意識が働き出す。
少し距離を取っておこうと腰を浮かせかけた時には、既に義之の腕に捕らわれていた。



「いや……」
懐かしい腕に包まれていても、軽いハグさえ拒み続けていた義之から仕掛けられたことがまだ信じられない。
「きみは見た目よりずっと細いね。それに、小さくて甘い匂いがして……わかっていても錯覚してしまいそうだよ」
まるで女のようだという意味なのだろうと、だから抱きしめるくらい嫌悪感なくできるのだろうとわかる。
だから、その先を確かめられる前に密着した義之の胸を押し戻したいのに、背を抱く腕は苦もなく里桜の抵抗を封じてしまう。抱擁というには一方的な、いっそ拘束というべき力強さで、義之は里桜の髪へと唇を近付けた。
「見た目は女みたいでも、俺は男だから……絶対、ムリだから」
進学や進級の度に新しいクラスメイトに言われてきたような、ある意味侮蔑的な言葉を義之には言われたくなかった。落胆させてしまう前に、何とか思い止まって欲しい。
「無理じゃないと思うよ?いつも、きみで抜いてるしね」
「えっ……」
平然と、とんでもないことを言う義之と目が合うのは怖いのに、真偽を確かめたくて顔を上げた。
瞳が合えば、負けてしまうと知っているのに。
「きみが卒業するまで手を出せないとなると、自分で抜くしかないだろう?そのとき他の人を思うだけでも浮気になると僕は思っているから」
意外な貞操観念の固さと、エンドルフィンの分泌に里桜が協力しているらしいということに驚きながら、おそるおそる尋ねてみる。
「あ、あの……俺で、できたの?」
「やみつきだよ」
いっそ誇らしげに言い切られると里桜の方が照れてしまう。別れると決めたのに、この義之は別人だと割り切ることにしたのに、今更そんなことを言って里桜を揺らがせないで欲しかった。



「でも……俺とは間違いも起きないって言ってたのに」
「そのくらいの自制心はあると思ってたんだよ。たぶん、きみが急かさなければ、もう少し我慢できたんじゃないかな」
今にもキスされそうで必死に離れようと足掻いてみても、腰を抱く腕は強まるばかりだった。
「俺、こんなことして欲しいわけじゃないから」
本当に義之の自制心はブレーキが効かなくなっているらしく、吐息は今にも唇に触れそうになっている。そればかりか、いつの間にか義之の手は里桜の首筋を撫で、広く開いた衿元から中へ入ってこようとしていた。
「いや」
非難がましい声を上げる里桜に、義之は納得がいかないと言いたげに眉根を寄せる。
「別れたいと言われて、すんなり応じるとでも思ってたの?」
「だって、俺のこと好きなわけでもないのに……」
「これからなるよ。いや、もうなってるのかな。隣の彼がきみに近付くのが我慢できないのも、きみを好きだからなんだと思うよ」
「ウソだ」
「嘘じゃないよ、あんなに大人げなく妬いている僕を見ればわかりそうなものだけど」
自分の言葉に確信を持ったのか、里桜の体に這わされる掌がますます大胆になってゆく。
「いや、お願いだから離して」
里桜の願いを聞き入れてくれたのかと思ったのは一瞬で、あっという間に義之の腕に抱き上げられていた。
「軽いね。きみは本当に小さくて細くて、壊してしまわないか心配だよ」
「な……やだ、下ろして」
寝室へ移る気なのだとわかって、やみくもに手足をバタつかせてみても、里桜の知っている義之と同じように、聞き入れてくれる気配はなかった。
「おとなしくしていないと、落とすかもしれないよ?」
軽い脅し文句を囁きながら、やはり義之は里桜が暴れることなど全く気にしていないように部屋を移動してゆく。



里桜を腕に抱いたまま、義之はベッドへ膝で乗り上げた。
覆い被さるように里桜を組み敷いて、真上から見下ろす真剣な眼差しは義之の余裕のなさを物語っているようで、いっそう里桜を怖気づかせる。
「や……」
里桜があまりに怖がる素振りを見せたせいか、義之はひどく優しく唇を合わせてきた。
軽く触れては離れ、また触れる。里桜が拒まないのを確かめると、閉ざした唇の隙間をそっと舌先でなぞり、警戒を緩ませてゆく。
つられるように覗かせた里桜の舌に優しく絡み、口の中まで追って、やがて深く交じり合う。
いつまでも触れ合っていたいような気持ちの良いキスに、いつの間にやら夢中になっているうちに頭の芯はぼんやりと霞んで、抵抗するつもりだったことさえ忘れてしまいそうになる。
「あ、だめ」
素肌を滑る手にハッとして声を上げたが、ふと見れば羽織っていたシャツはすっかりはだけて、タンクトップは胸元まで引き上げられていた。
咄嗟に胸元を庇おうとした手がシーツへと押し付けられる。そう強く力を入れてはいないようなのに、重力のせいか、外すことはできなかった。
「きみは脱いでもキレイだね。男の子だと意識する必要もないくらいだよ」
甘い声に侵食された思考はうまく回らず、抗う思いが殺がれてゆく。頭で考えるよりずっと、里桜は義之に飢えていたのかもしれない。
真っ平らな胸を撫で上げてゆく手が小さな突起にかかり、軽く指の腹で擦られただけで体が跳ねる。
「ぁんっ」
堪らず高い声を上げた里桜に、義之は当惑顔で笑みを洩らした。
「我慢していたのは僕だけじゃなかったようだね。きみのことも待たせ過ぎたかな?」
決してからかうような響きはなかったが、羞恥のあまり視線を逸らす。いくら否定したくても、里桜に触れているのは義之の体なのだから、感じてしまうのは仕方がないと思う。



「里桜?」
ひどく優しい声は、耳慣れた呼び方に酷似していた。一瞬、里桜の知る義之が戻ってきたのかと錯覚してしまいそうになるほど。
「ひぁっ……」
尖った胸の先に触れた舌の感触に飛び上がりそうになった。ただ舐められただけなのに、爪先まで電流が走ったような強い痺れが襲う。
「あぁっ……ん、や、いや」
感じ過ぎているとは気付かないのか、義之は小さな突起の片方に舌を絡めて吸い、もうひとつを指先で執拗に弄った。
それだけの行為でも、キスさえ久しぶりだった里桜には刺激が強過ぎて、何とか離したいと義之の髪に手を伸ばすのに、うまく力が入らない。
体の芯から蕩け出すような感覚から逃れることはできず、急速に高められた欲望は出口を求めてあっけなく迸った。
「……っん……は、あ……ん」
「里桜……?」
張り詰めた体が小さく震え、ゆっくりと弛緩してゆく理由に、義之は少し遅れて気付いたようだった。
「自分で抜いてなかったの?それとも、あまり人に触れられたことがないからかな?」
義之は、里桜が晩熟だという憶測に納得したらしく、逆の可能性を考えつきもしないようだ。里桜との関係を誰にも確認しなかったのか、或いは本当の所を誰も義之に教えなかったのか、未だに里桜を見た目に違わぬ未熟な子供だと思っているのだろう。
「いや……っ」
汚れた下着ごとショートパンツを脱がせようとする手に、羞恥で熱を帯びていた体から一気に血の気が引いてゆく。
いくら大丈夫そうだと言われても、今の義之に全てを曝け出すのは恐ろしくて、里桜は体を小さく丸めるようにして身を庇った。



「まだ、キス以上のことをするのは怖いの?」
里桜の抵抗を“まだ”と言う義之は、だから関わるのを躊躇っていたのだとでも言いたげなニュアンスだった。
里桜が嫌がる理由をそう結論づけるのは、義之との関係が一度きりだったかのように誤解させているからなのだろう。
問いの根底にある趣旨とは違うとわかっていながら、義之のせいではないと言うことはできなかった。トラウマの出自を隠し通すためには沈黙を守るほかに術が見つけられない。
「初めての時が強引だったからなんだろうけど……」
“初めて”が呼び起こす記憶に、また体が震え出す。
里桜も、あの日のことは薄っすらと靄がかかったようで今でもハッキリと思い出すことは出来なかった。ただ、引き裂かれるような痛みと、そうさせることを義之が止めようとはしなかったことだけは忘れられずにいる。
「僕はきみをそんなに怯えさせるほど酷く抱いたのかな……?」
独り言のような呟きに戸惑いが混じる。
どんな事情があったとしても、自分がそんな手荒なことをするとは思えない、ということなのだろう。里桜の知る限りでも、義之は思い通りにならなかったからといって手を上げたりするような性質ではなかった。強引に押し切るにしても、極力傷つけないよう気遣うだろう。
「里桜?」
リアクションを求められても、里桜に後遺症を残した相手は義之ではないとは言えず、ただ小さく首を振って答えることを拒んだ。
「……待つのが愛情なのかもしれないけど」
そうする気はないという意思表示のように、義之は徐にスーツの上着を脱いで、傍のテーブルに投げ置いた。
長い指がネクタイのノットを緩め、器用な仕草で抜き取った勢いのまま、上着の方へと放る。喉を反らして、カッターシャツのボタンを上から順に外す指の流れるような動きに見惚れている間に、義之の上半身が露になってゆく。



「僕がきみに恐怖心を植えつけたんだとしたら、それを取り除くのも僕の役目だろうね」
穏やかながら意思の強い声が、もう待つ気はないと念を押す。
見慣れているはずの義之の裸が近付くと、里桜の体が緊張で固まった。
「やっ……」
里桜の身ぐるみを剥がそうとする手には微塵のためらいもなく、抗う間も無いほど手際良く全てを奪ってゆく。
「怖いことはしないよ?だからそんなに身構えないで、楽にしていてくれないかな?」
そんなことはムリだと、弱々しく首を振る里桜を、そっと抱きしめる義之の腕は抜け出せそうにないほど優しい。
義之の裸の胸が里桜の素肌に触れているだけで、息苦しいほどに鼓動は高まり、体に刻まれた記憶が、欲しいのはこの体だと訴える。もはや里桜が抵抗しなければならないのは義之本人より、禁断症状に負けてしまいそうな自分自身なのかもしれなかった。
包むように頬を撫で、唇をなぞる指に促されるまま首を上向ける。口付けられるのだとわかっていても、瞼は自然と落ちて、触れられるのを待つ。
深く重ねられた唇に応えずにいられないのは、さっきキスを交わしたことで箍が外れてしまったせいで、ずっと我慢していたぶん、もう止められそうになかった。
「っふ……ぁ……」
縋るように義之の肩に抱きつく。
他には何もいらないくらい義之のくれるキスは気持ちが良くて、ずっとそうしていたくて、うっとりと身を任せた。
喉を伝い、胸へと辿ってゆく掌が、キスに集中していたい里桜の気を散らす。小さな粒がどれほど敏感なのか知っている指先は、転がすように撫で、軽く摘んで擦り、否応無しに意識をそこへ向けさせた。
「ぁ、ぁん、んっ……」
反射的に背を仰け反らせる里桜の胸へと、唇が触れる。薄く色づいた先端が硬く尖ってゆくのが嫌で、里桜は首を振って愛撫を拒んだ。



キスだけで充分なのに、その先まで求められるのは怖い。そんなにも深く義之と関わってしまったら、何もかもが崩されてしまいそうな気がする。
「まだ僕に全部くれる気にはならないかな……」
抑えた声がどこか思い詰めたように響いたことには気付かず、里桜はただ逃れたい一心で、覆い被さる体を押し返そうと腕を突っ張った。
服を着ている時の印象より厚い胸板は僅かも戻せず、里桜の顔を挟むように置かれた両肘から抜け出すことは出来ない。切迫しているのは里桜だけだと思っていたのに、見下ろしてくる義之の瞳にはあからさまな欲望が浮かんでいた。
「や」
腹を掠めた硬い感触に腰が引ける。
どこか半信半疑でいた、義之が里桜に欲情するという証を生々しく示されたことに驚いて、まるで今までそういったこととは無縁でいたみたいに全身を強張らせてしまう。
「今の僕にも、きみを傍に置く理由が必要なんだろう?」
有無を言わせぬ甘い声は、里桜の知る義之そのままで、身に覚えのある不安に襲われる。別人のようでいて、結局は本人なのだと認めないわけにはいかなかった。
胸を弄っていた手が腹を伝い下りる。行為に抵抗があるのは里桜の方で、もう女の子だと思われていないとわかっていても、そんな象徴的な場所には触れられたくなかった。
「やめて、お願い」
請うように上げた瞳が義之の瞳と合った瞬間、暗示に掛けられたみたいに体の力が抜ける。抗わなければと思うのに、身も心も、義之の名残を追いたがっていた。
「あ……ん、ん」
半ば勃ち上がった里桜のものに絡む指に躊躇いはなく、里桜の反応を確かめるようにゆっくりと上下させる。
目を閉じて、耳慣れた息遣いと体に馴染んだ手に身を委ねていれば、相手を錯覚してしまいそうだった。



里桜の知っている義之との違いがわからない。別人だと思うことにしたはずなのに、繊細な指も少し強引な仕草も、記憶を失くす前の義之のままのようだった。
「やだ……も、う」
止めようとする言葉が、また唇に塞がれる。
里桜がキスに弱いと知った義之は、そこへ意識を留めさせるように舌を舐め、優しく絡み、甘く吸う。
そうとわかっていながら義之の思惑に嵌ってしまう里桜の、過敏になった中心を握る掌は緩い愛撫をくり返し、穏やかな快楽の波に攫おうとする。微かな水音が耳をついても、里桜は義之の舌を追うのに夢中で、その理由を確かめるような余裕はなかった。
「ひゃ、んっ……」
少し冷たい、滴るような感触が夢見心地を破る。
後ろへ回り込んだ長い指が入り口に触れ、反射的に腰が逃げそうになった。
「暴れないで」
宥めるように優しい声が里桜の抵抗を奪う。
内側へ入ってこようとする指は里桜の反応を確かめながら少しずつ、壊れものを扱うみたいに慎重に体を開かせてゆく。
「痛みはない?」
ほぼ唇が触れ合ったままの問いにも、息が詰まって答えられない。
受け入れることに慣れてはいても、義之が事故に遭って以来誰にも触れられずにいた場所は思いのほか固く、義之の誤解を助長させてしまいそうなほど慎ましやかだった。
「里桜?」
焦れたように、義之の掌に少し強めに扱かれて腰がびくびくと跳ねる。
里桜を追い詰めようとする義之が怖くて仕方ないのに、体は魅入られたように自由がきかなくなっていた。
「ん、ん……や」
為す術もなく溢れる涙が睫毛を濡らす。逃れられないと知っていても、まだ覚悟はできそうになかった。
「……きみが泣くと、おかしな気分になるよ。胸が痛むのに、どうしようもなく欲情してくる」
その意味を考える余裕もなく、里桜の下肢が大きく開かされ、押し上げられる。
「ごめん、もっと時間をかけるつもりだったけど、我慢できそうにないよ」
「……や、いや」
指に先導された入り口を貫こうとする硬い塊に、体が硬直してゆく。このまま抱かれてしまえば自分がどうなってしまうのか、想像するのも恐ろしかった。



「里桜?あまり煽られると優しくできなくなってしまいそうだよ、おとなしくしててくれないかな?」
諭すように囁く声が、里桜の思う義之とシンクロして、抗う思いを鈍らせる。
それでも、馴染ませるように浅く出入りしながら徐々に奥まで押し入ってくる感覚に怯えて、知らずに息を詰めてしまう。
「っく……ん、ぁ」
「息を止めないで、力を抜いて。僕も、きみが全部欲しい」
できることなら義之の言う通りにしたいと思っても、つい身構える体は、里桜の中で熱く息衝くものを拒むようにきつく締め付けた。
「里桜……それじゃ、お互い痛いだけだよ?僕をちゃんと受け入れて。ゆっくり、息を吐いて?」
「ん……は、あ、ぁんっ……」
従うほどに深く穿たれて、圧迫感を逃がそうと短い呼吸をくり返す。強く奥を突かれ、反らせた背がギュッと抱きしめられる。
「……全部、入ったよ」
満足そうな言葉の後で揺すり上げるように何度も擦られて、あまりの気持ち良さに意識が飛びそうになる。
「里桜?苦しいの?」
優しく問いながら、けれども抜く気は毛頭ないらしく、里桜の反応を窺いながら注意深くストロークをくり返す。
「ああっ……ん、ぁんっ……」
答える代わりに洩れる声は甘く掠れ、艶を帯びて響く。
「里桜……感じてるの?」
きつく、義之のものに絡みつく理由が痛みのせいではなさそうだと知って、義之は角度をつけて里桜の中を抉った。
「ひ……や、あっ、ぁんっ……」
まるで里桜の体を知り尽くしているみたいに、強引なようでいて少しも傷付けられてはいない。それどころか、肌を合わせることを忘れていた里桜の体が悶えるくらい、弱いところを責められる。欲しがっているのは里桜の方だと気付いているのか、義之は何度も奥まで突き上げた。
「っあっ……あ、あっ……ん」
限界まで昇り詰めたものが、飽和を超えて弾ける。
満足しているのは里桜だけではないことを、義之の吐息と深い所へ打ちつけられた熱い飛沫で知らされた。



ぐったりと力の抜けた体が抱きしめられる。
里桜の上へと被さるように重なった体に包まれていると、もう別人だと言うことは出来そうになかった。大事そうに腕に閉じ込める、過保護で独占欲の強い恋人。
優しい指が頬を撫で、乱れた髪をそっと払い、止まらない涙を拭う。
「……僕は、前の時はもっとひどく泣かせたのかな?」
衝動的な熱が引いて罪悪感を感じ始めたのか、義之はひどく心配げな顔つきになった。
「記憶の断片じゃないかと思うんだけど、きみが壊れてしまったみたいに涙を流している光景が頭から離れなくてね。あれが現実なら、僕はきみによっぽど酷いことをしたんだろうね」
冷たい指で心臓を掴まれたような衝撃に息が止まる。
よりによって、そんな場面だけ覚えていると言う義之が怖い。一番忘れて欲しいことを思い出してしまうのではないかという不安に体の震えが止まらなくなった。
それを思い違えたのか、義之が里桜の肩を抱き直す。あやすように髪を撫で、口付ける。
「泣かせたくないと思うのに、きみを抱かずにはいられないよ。きみを誰にも取られたくない」
どこか弱気を孕んだ声が、確信めいたものに変わってゆく。
「責任を取らせてくれるね?」
また“責任”と言う義之が、殺したいほど憎らしいのに。逸らせようとする里桜の視線を追う眼差しに逆らえるなら、こんなことにはなっていない。
「里桜」
抱きしめる腕に力を籠められて、里桜の震えがますます酷くなる。本当は抱かれて嬉しかったのだと、認めたらもう逃げられなくなってしまう。
今は話し合う余裕などなく、雰囲気を変えることを選んだ。
「……お風呂、入ってきていい?」
「そうだね、一緒に入ろうか?」
返事を待たず、義之は汚れたシーツごと里桜を抱き上げようとする。
「いや」
「里桜?」
あの日と似たような展開は義之の記憶を呼び覚ますことにならないか不安で、思わず強い口調で拒んでしまっていた。
「恥ずかしい?」
「……うん」
義之が良い方に解釈してくれたことに気付いて、慌てて頷く。
「しょうがないな。じゃ、先に行っておいで」
こんな時に強引でないところは前の義之とは違うようだと、里桜は複雑な思いでベッドを抜け出した。



「ゆいさん、パンツ貸して」
開口一番に言うべき台詞ではなかったかもしれないが、里桜の口をついたのはそんな緊張感のない言葉だった。
身ひとつで攫っていかれた里桜が着替えを持っているはずもなく、かといって寝室の奥に置いたままの衣類を取りに行く気にもなれず、入れ違いに義之がバスルームに向かったあと暫く待ってから、物音を立てないよう細心の注意を払って優生の所へ来たのだった。
「……とりあえず、上がって?」
上半身にタンクトップと下半身にバスタオルを巻いただけという、いくら隣とはいえ問題大有りの格好で現れた里桜を、優生はため息混じりに部屋へと通した。
「そのカッコ見て聞くのも何だけど……大丈夫?」
「うん、大丈夫じゃなさそうだったから避難してきた」
下着の替えがないなどというのは言い訳で、頭と気持ちを整理する時間が欲しかったのかもしれない。
里桜の荷物を置いたままのソファに戻り、隣に優生が並んで座るとホッとする。ここの方が安心すると言ったら、今の義之なら怒って出入り禁止にしてしまいそうだ。
「義之さんは里桜が出て来たって知ってるの?」
「ううん、お風呂に行ってる間に抜け出してきた」
「それじゃ、すぐ迎えに来るだろ?」
「うん。ちょっと癒されたかっただけだから……ね、ゆいさん、凭れてもいい?」
優しい手が里桜の肩を抱きよせて、そっと髪を撫でる。その優しさはどこか義之に似て、泣きたくなってしまう。
「いいよ、迎えが来るまで寝てれば?」
それほどの時間がないだろうということはわかっていたが、素直に優生の腕に甘えることにした。
「……今は濡れおかきかなあ」
「用意しておくから、明日まで待って」
脈絡のない呟きでも、優生にはそれがクッキーか煎餅かの返事だとすぐにわかったようだった。



「なんか……優柔不断で自分でイヤになっちゃうよ」
思わず口をついた泣き言に、里桜の髪を撫でる手が止まる。
「義之さんと別れたくなくなったってこと?」
「だって、別人だって思ってたつもりなのに、触れられるとダメなんだ。外側は本物なんだもん」
記憶を失くした義之ではイヤだと言いながら、体は義之だと言い訳をして、充分過ぎるほどに満たされた自分が一番狡いのではないかと思う。
「里桜は頭が固過ぎるんだよ。記憶がないっていうだけで本人に違いないんだし、浮気とか思わないでつき合ばいいだろ?」
「……そうなのかな?」
優生に言われると、不思議とそうかもしれないという気がする。里桜が頭の中でぐるぐる考えているときには、迂闊に気を許してまた傷付けられたらどうしようと思っていたのに。
「あんまり考え過ぎないで、流されてみれば?」
「うん……」
安心したからなのか、久しぶりの疲労のせいなのかはわからなかったが、急速に眠気が押し寄せてくる。
「着るもの、取ってこようか?」
思い出したように尋ねられても、里桜はもう優生の肩から離れるのは嫌で、引き止めることを優先させた。
「後にする」
面倒くさがっていると思われたのか、微かに笑う気配が里桜の髪を揺らす。
「何ていうか……こういうの初めてで、ちょっと目のやり場に困るんだけど」
「……うん?」
優生の言いたいことがわからず、里桜は曖昧な相槌を打った。
「義之さん、やっぱり強引だった?」
「うん。でも、俺が殆ど経験ないって思ってたみたいで、すごく優しくしてくれた」
里桜の決心をあっさり覆してしまいそうになるほども。
「よかった。里桜を連れて行くときの義之さん、怖い顔をしてたから、ちょっと心配してたんだ」
「俺も」
穏やかに続いていくかに思えた会話は、二度目のチャイムの音に遮られた。



「返してくれないか」
里桜を迎えに訪れた義之の抑えた声には、言葉より横暴な本音が隠れているような気がする。優生に迷惑をかけないために、里桜は荷物を手に玄関へと急いだ。
「着替えを貸して欲しいって言いに来ただけだよ、怒らないでやって?」
そんな大層なことではないと言う優生の気遣いを軽く無視して、義之は視線を後方の里桜に向けた。その瞳に潜む、怒りか苛立ちか、或いはそれ以外の、読み取ることのできない物騒な色に足が竦む。
「里桜、帰るよ」
焦れたように、義之は突っ立ったまま躊躇う里桜の腕を取った。自分の方へ引き寄せようとする手の力強さに、頭の中が真っ白になる。
「……や」
怯む里桜の態度が誤解させたのか、義之は眉を顰め、長身を屈ませて里桜の顔を覗き込んできた。
「彼に何かされたの?」
「ちが……お願い、ちょっと待って」
頬へと伸ばされる手が怖くて思わず目を瞑る。触れたのは手ではなく、厚い胸だったと気付いた一瞬後にはもう抱き上げられていた。
その強引さが独占欲の為せる業だと、体が知っているのと同じ感覚に眩暈がする。
「返してもらうよ」
優生を威圧するように見るのは、義之が見当違いの誤解で気を悪くしているのだと思い込んでいた。
「そんなに心配なら目を離さなきゃいいのに」
優生の小声の抗議が義之を挑発する。それとも、臆病な里桜の背を押すつもりでわざと言ったのだろうか。
「どうやら、きみを一人にしてはいけないようだね」
甘く、里桜の骨の髄まで染み入る声に身じろぎまで封じられる。義之から逃れられるとは、もう思っていないのに。
玄関のドアを開ける義之に、里桜は急いで優生に声をかける。
「ごめんね、ゆいさん、また……」
別れの挨拶もさせたくないらしく、義之はほんの数秒も待たずに扉の外へ出てしまった。



里桜を抱いたままリビングに戻ってきた義之は、一旦ソファへ膝をついて体勢を立て直してから腰を下ろした。
まるで赤ちゃんを抱くように里桜を横向きに膝に乗せ、片腕を背に回して引き寄せる。
「こんな格好で他の男の所へ行っちゃダメだよ」
その根拠だという意味なのか、義之は巻いただけのバスタオルの裾を乱して、里桜の内腿を撫で上げた。
「や、ん」
「これじゃ、何をされても文句は言えないよ?」
内側からタオルを外させる手が腹を伝い、タンクトップを引き上げる。素肌に吐息がかかり、鎮まっていた熱をまた呼び覚ましてゆく。怒っていると感じたのは思い違いだったのか、里桜に触れる手はひどく優しかった。
「きみは彼が好きなの?」
「え、と、ゆいさんのこと?もちろん好きだけど……?」
肯定してから、恋愛感情ではないけど、と付け加えるべきだったかもしれないと思ったが間に合わなかった。
「どうして?」
「どうして、って……優しいし……」
好きに理由を付けて説明するのは難しい。合うとか、癒されるとか、考えればそれなりに思い当たるが、どれも決定打とは言えなかった。
「きみは優しい男が好きなの?」
「うん……?」
「僕は優しい恋人だった?」
「うん」
義之の問いはどれも漠然としていて、何を聞きたがっているのかわからない。でも、横暴で独占欲の塊で束縛がきつくても、義之が優しい恋人だったことは事実だ。
「急いで追いつくから、もう少し待ってくれないかな」
漸く、義之の言おうとしていることに気が付いた。曖昧なままになっていた別れ話を、このままにしておくことが出来そうにないことにも。



「……違うから……いくら待っても、俺の義くんにはならないから」
里桜の肌に留まる手をそっと外して、勇気を振り絞る。
「どうして?全て思い出すのはムリでも、何年後かには愛していた相手なんだから、そのうちに追いつくはずだよ」
自然に恋愛関係に発展していっていたのならともかく、以前の義之が意図的に里桜に仕掛けた恋を、そのいきさつも忘れた今、再構築させられるとは思えない。
「一緒に居るうちにまた俺を好きになるはずだって思ってるんだったら違うから……義くんは最初から俺のことを好きだったわけじゃなくて、俺に負い目を感じて愛そうとしてくれてただけなんだ。だから、時間が経ったら俺を好きになるってことはないから」
義之が記憶を失くすずっと前から、心の奥に根付く猜疑心には目を瞑っていた。里桜を愛してくれていたのは真実でも、自発的に愛されていたというのとは少しニュアンスが違うと気付いていた。強迫観念といえば言い過ぎかもしれないが、義之は償う手段として里桜を愛そうと努めていたのだと思う。
「僕もきみを愛したいと思ってるよ。その覚悟ができたから、きみを抱いたんだよ」
迷いのない声が、里桜の疑惑を事も無げに否定する。俯こうとする里桜の頬へと手を伸ばし、里桜の不安の正体を探ろうと瞳を覗き込む。唇を撫で、開かせようとする指に流されてキスしたら、里桜がなし崩しになってしまうのは目に見えていた。
「……愛さなきゃいけないって思わないで?義くんには充分過ぎるくらい愛してもらったから、もういいんだ」
「良くないよ、きみはどうしてそう否定的なことばかり言うのかな。僕は毎日きみのことでいっぱいなのに。夢に見るのも、不意に甦ってくるビジョンも、すべてきみなのに」
義之と同じ表情で、同じトーンで口説かれると、抗い続けることができなくなってしまいそうで、流されたくなる自分を叱咤するために、わざときつい言葉を選ぶ。
「都合のいいところだけ思い出して俺を好きだったのと勘違いしてるだけだよ、全部思い出したら後悔するかもしれないのに」
俄かに、義之が顔色を変え、苛立たしげに眉を顰める。肩を抱く手に力が籠もり、里桜が何か言わなければと思った瞬間、強い力でソファへと押え込まれた。
「いや」
優しく接してくれていたことが嘘だったみたいに、義之は乱暴な仕草で里桜の抵抗を封じた。



「きみはどこまで僕を否定するつもりなんだろうね」
抑え切れない怒りが滲み出す声に、 体が震える。義之がそんな風に攻撃的な一面を里桜に向けたことがショックだった。
「僕を別人だと言い、元の僕の愛情も偽物だったと言う。きみは僕が騙していたとでも思っているの?」
「騙してたっていうんじゃなくて……合わせてくれてたんだよね?甘いものなんて好きじゃないのに一緒にケーキ食べたり、カフェオレにしたり……俺、舞い上がっちゃってたから、そういうの全然気が付かなくて」
あの頃はただ幸せで、義之が傍に置いてくれたことが嬉しくて、無理を強いているかもしれないとは疑いもしなかった。
「覚えてないから確信はないけど、きみに気に入られようとしていたということだろう?恋愛の初めは、多少なりとも自分を良く見せようとするものだし、少しでもきみの好みに添うよう振舞っていたんだと思うけど」
相変わらず、口では義之に太刀打ちできそうになく、里桜は小さくため息を洩らした。せっかく忘れたのだから、もう過去に縛られることも、里桜に拘る必要もないと言っているのに。
「……もう、ムリしないで?」
「今の僕も無理してると思ってるの?」
「だって……急に俺と関わろうとしたり、ハグもしないって言ってたのに、こんな……」
義之の倫理観に悖るからという理由で里桜に限定して欲情するようになったことも、無理をしていないはずがないと思う。
逃げ道を塞ぐように里桜の肩に置かれたままだった手が喉元へ滑ってゆく。大きな掌が里桜の顎を掴み、上向かせる。
「きみを手に入れられるなら、何度でも、力ずくでも抱くよ。他にきみを僕のものにする方法はなさそうだしね」
「ちが……そういうことじゃなくて……いや」
近付く唇を避けることは許されず、深く重ねられた。すぐに押し入ってきた舌が、里桜の舌を探して絡め取る。
脅しではなく本気だと、そんなところは元の義之と同じかもしれないと、ふと思った。
「……責任を取るのはきみの方だよ?この先ずっと、きみと一緒にいる覚悟を決めたのに、今更なかったことにしたいなんて許さないよ」
「いや……お願い、もうしないで」
性急な指に怯えて涙声になる里桜の気持ちなど僅かも考慮する気にはなれないらしく、義之はすぐにも体を繋げようと里桜の膝を押し上げた。今の義之にとってはまだ二度目のはずなのに、硬く勃ち上がったものは迷いもなく里桜の体を開かせようとする。
「ひ、っあ……ああっ」
先の交わりからあまり時間が経っていないせいか、里桜の体はそれほどの抵抗もなく義之を受け入れていた。
「いや……ん、あっ……ぁんっ……」
中を激しく擦られるのは今の里桜には負担なはずなのに、体は歓喜に打ち震えて、瞬く間に昇り詰めてゆく。
「……僕から逃げられると思わないで」
囁かれる声は恐ろしいほどに甘く、捕らえられているのは里桜の方だということを思い知らされた。





簡単に後始末されただけの体を義之の膝に乗せられ、胸元へと抱き寄せられる。閉じ込めるように里桜を抱く腕を解く気力はもうなく、おとなしく身を預けた。
あやすように髪を撫でられても止まらない涙が、義之の胸を濡らす。
「そんなに泣かないで」
「やっ……」
義之の掌に緩く擦られた背がびくりと震える。また求められるのかと危惧した体が強張った。
「里桜」
不満げな声が、里桜の耳元へ口付けるように呟く。
「きみは、本当に僕を好きでいてくれたの?」
何を言われているのかわからず、おそるおそる顔を上げる。ごく近くから里桜を見つめる義之は、少し厳しい顔をしていた。
「僕の一部分だけを好きで、きみの理想とか都合に合わない部分は好きじゃないのかな?」
「え……」
「仮に、僕がきみの好みに合うよう装っていたとしても、それも全部僕なのに、そういう部分は受け入れられないということ?」
今までそういう風に考えたことはなく、まるで騙されていたみたいな気持ちになっていた里桜には、すぐに答えることが出来なかった。
「最初から相思相愛なんてケースの方が珍しいんだよ?きみは知らない相手に申し込まれてつき合ったことはないの?」
「あ……ある、けど」
里桜が義之と知り合う前につき合っていた相手の時がそのパターンに近い。当時まだ誰ともつき合ったことのなかった里桜は、遊び慣れているらしい相手に辛抱強く口説かれるうちに、根負けしたようなかたちでつき合うことになったのだった。
「その人はきみに合わせるようなタイプじゃなかった?」
「ううん……いつも俺のペースに合わせてくれてた」
「じゃ、その人と恋愛しようとは思わなかったの?」
「してたつもりだったけど……」
幼い里桜が大人になるのを待ってくれていたその人を、いつか好きになるのだと思っていた。あの日、義之に出逢うまでは。
「それなら好きになろうと思ってたんじゃないの?」
「そうかもしれないけど……好きになろうとして好きになるっていうのは、ちょっと違うっていうか……」
「きみはお見合いとか紹介は否定派なんだね。別に無理に好きになるわけじゃないよ。というか、無理をしても好きになれない場合だってあると思うしね。ただ、歩み寄る努力をするのは悪いことじゃないと僕は思うんだけど?」
ゆっくりと、諭すように話されているうちに、義之の言い分は間違ってはいないようだと思った。



「僕はそんなにきみの好みから外れてるの?」
「え……ううん……どっちかっていうと、まんまっていうか……」
理想を具現化すれば義之になる、と言っても過言ではないくらいに。
「それなら、どうして僕と別れようとするのかな?」
自分でも解析不能な部分が多くて、上手く説明することはできそうにない。ただ、前の義之への拘りと、もう傷付けられたくないと警戒する気持ちが強くて、安易に信じられなくなっているのだと思う。
答えに迷って、まだ乾き切らない瞳を上げて義之を見る。驚いたことに、義之は困ったように視線を外した。
「……きみは、僕の忍耐力を試してたの?」
「なんで、そんなこと……」
「病院から戻ったあと、何度も僕の寝込みを襲おうとしただろう?キスされそうになったこともあったね」
「ちが……それは、いつも義くんが……」
ことある毎に大げさなほどにハグやキスを交わしたがったり、毎晩一緒に寝ていたからだと言いかけて、プラトニックな関係だったと誤解されていたことを思い出して止める。
それでも、義之には里桜の言い分がわかったようだった。
「以前の僕は相当きみとベタベタしていたようだけど、よく我慢が利いていたね。僕はそんなに忍耐力がある方だったかな?」
心の奥まで覗き込もうとするように見つめられると、何もかもを白状してしまいそうになる。辛うじて視線を落として、どちらとも取れる言葉を探す。
「……だから、責任を感じてたんでしょう?」
「何年後かの僕は随分忍耐強くなっていたのかもしれないけど、今の僕には無理だよ?きみは、僕をこんな気持ちにさせた責任を取らなくちゃいけないね?」
それは、“大人になるまで待つ”という口約の破棄宣言らしかった。
「……待つって言ってたのに」
わざと責めるような言い方をしてみても、義之は自分に非はないという表情を崩さない。
「きみの方に待つ気がないのに?もう僕のものだと思ってるのに、今更離せないよ」
言葉に連動して力を籠める腕が、里桜をきつく抱きしめる。
記憶を失くした義之と早く親しくなりたいと里桜が焦っていた時には、義之は3年のブランクを埋めることを優先させていた。里桜が義之を諦めた頃になって惜しまれるようになったことを、絶妙なタイミングでのタイムラグだと思うには、まだ勇気が足りない。



「でも……また、忘れちゃうかもしれないでしょう?」
退院以降に新たな記憶障害は起きていないが、いつかまた里桜のことを忘れて他人のようになってしまわないという保障はない。
「きみをそんなに臆病にさせてしまったことは悪かったと思ってるよ。でも、もしまた忘れてしまったとしても、今度は記録を付けてるから大丈夫だよ。それに、また淳史や美咲が黙ってないだろうしね」
「記録って……?」
「きみのことだけじゃないけど、覚え直したことや思い出したことを書き留めてるんだよ。日記のような感じかな」
また里桜に対しての記憶がまっさらになっても、自分で書いたものなら信用できるのだろうか。
「そういうのがあったら認められるの?」
「そうだね。もし万が一また同じようなことが起きても、遠回りしないで済むと思うよ」
自信に満ちた眼差しが、里桜の不安を拭い去ろうとする。見つめ合えば、たとえ嘘でも信じずにはいられなくなってしまう。
「だから、諦めて僕のものになりなさい」
里桜を子供扱いする口調は別人のようで、けれども不快だとは思わなかった。逃げ道を塞がれれば、もう逃げずに済む。
義之の肩に凭れていると、知らずに笑みが零れた。もう二度と、こんな風に義之に抱きしめられることはないのかもしれないと思ったこともあったのに、いつの間に里桜はこんなに贅沢になってしまっていたのだろう。
「つい急いてしまったけど、きみの気持ちまで僕のものにするのはもう少し待つことにするよ」
優しい声に緊張が緩んでゆく。今度こそ、取り戻すことができたのだろうか。
求められて応じるキスは了解のしるしで、何より里桜を幸せにする手段だった。そうと知っている義之は、惜しみなく里桜を満たそうと甘いキスをくり返す。
まるで酩酊状態に陥ってしまったような里桜は、義之の言葉をはき違えていたことを、どれほども経たないうちに嫌というほど思い知ることになる。


「そういえば、僕の指輪を持って行っただろう?返してくれないか」
髪を梳く指が気持ち良くて、今にも眠りに落ちそうな里桜は、深く考えずに思っていたままを答える。
「要らないんじゃなかったの……?」
「ひどいな、置いたままにしてしまっていたけど、要らないと思っていたわけじゃないよ」
おそらくは里桜の想像していた通りの理由で置き去りにされていたのだろう。
「それとも、新しいのを買おうか?」
「え……」
「今の僕が嵌めるのが嫌なら、買い直してもいいよ?」
どうやら、義之は里桜の態度から返すのを嫌がっていると判断したようだった。
「ううん、新しいのはいらない。ちゃんと返すから」
新しい指輪を嵌めることは前の義之を否定することになってしまいそうで、慌てて申し出を却下した。叶うなら、何も知らなくても前の義之のように愛して欲しいと思いながら。



- Defference In Time - Fin

【 CHINA ROSE 】     Novel     【 幸せの後遺症 】


崎谷健次郎さんの古い歌のタイトルをお借りしています。

キチクを目指していたはずが、至りませんでした……。
続きを書く機会があれば、ぜひリベンジしたいと思います。