- CHINA ROSE -

〔ご注意〕
☆サイト趣旨に反することになるかもしれないのでネタバレしておきます。
このお話は(今話だけですが)ビターエンドです。
☆義之と里桜が出逢ってから2年後くらいの設定で書いています。



一睡も出来ない、などというのは里桜の人生において初めての経験だった。
義之から少し遅くなりそうだというメールを貰ってはいても、そのあと何の連絡もないまま朝になっても帰っていないというような事態も初めてのことだった。
携帯電話は圏外なのか電源が入っていないのかずっと繋がらず、義之の行方を誰に尋ねたらいいのかもわからない。
言い知れぬ悪い予感に胸が逸り、里桜が今何をすればいいのかを母親に相談しようと携帯を掴んだのとほぼ同時に着信があった。
てっきり義之からだと思い込んで確かめもせずに出た里桜に、緊迫した声で名乗ったのは美咲だった。
『里桜くん、落ち着いて聞いてね?今病院からなんだけど、義之さん、事故に遭ったらしくて、昨夜から入院しているのよ』
「えっ……事故って……義くんは無事なの?」
最悪の事態というのを考えてみなかったわけではないが、本当にそんなことになっていたとは思いたくなかったのに。
『命に別状はないんだけど、頭を強く打ったらしくて、検査とかいろいろあるから暫く入院することになるんですって。里桜くん、とりあえず保険証と着替えを持って来られる?』
「うん、すぐに用意して行くね。他に何か要るものある?」
動揺のあまり危うく耳を滑っていってしまいそうな言葉を何とかメモしながら、言い知れぬ不安と疑問が胸に沸くのを止められなかった。なぜ美咲が義之の傍にいるのか、里桜に連絡が来るのが後なのか、上手く働かない頭が理由を探そうとする。
それでも、今は一刻も早く義之の元へ向かいたくて、美咲に問うのはやめておいた。



「里桜くん、先に話しておきたいことがあるんだけど」
里桜の着く時間を見計らって来てくれたらしい美咲に、時間外通用口の外で引き止められる。
「電話でも言ったけど、義之さんのケガ自体はたいしたことはないそうだから心配しないで。それよりも、ちょっと困ったことになってるみたいなの」
美咲の前置きが長いのは、良からぬ事情があるのだろうと里桜にもわかっていた。
「事故って言ってたけど、そうじゃなかったの?」
「いいえ、事故自体は義之さんの不注意で単独らしいわね。雨のあとだったから、駅の階段で滑って転落したんですって。見ていた人が複数いたから事件とかじゃないみたいよ。すぐに救急車も呼んでもらえたそうだし。ただ、そのとき携帯が破損してしまったらしくて、他に連絡先がわかるようなものを持っていなくて、義之さんの意識が戻るまで連絡が取れなかったそうよ。なぜ私の所に電話がかかってくるのか疑問には思ったんだけど、義之さんが私を呼んでるって言われたから取敢えず病院に来たの。まさか里桜くんに連絡してないとは思わなかったから知らせるのが遅くなってごめんなさい。その後もちょっと連絡できるような状態じゃなかったの。義之さん、私が来た時には落ち着いてるように見えたんだけど、話してみたらおかしくて……最初は混乱してるだけだと思ったんだけど、違ったの。義之さん、ここ三年くらいの記憶がないみたいなのよ」
「……記憶がないって、どういうこと?」
「レントゲンやCTでも異常はなかったようだし、先生が仰るには、頭を打ったせいで記憶障害を起こしているんじゃないかって。一過性のものなら一日以内に戻るそうだけど、もし戻らないなら、逆行性健忘といって、いわゆる記憶喪失っていう症状かもしれないんですって」
驚き過ぎて頭も気持ちも追いつかず、何を言えばいいのかわからない。里桜が不安な一夜を過ごしていたとき、義之の頭の中に里桜はいなかったのだろうか。
「里桜くん?」
「……三年っていうことは、俺のことも知らないの?」
「追々思い出すかもしれないけれど、今はまだ」
だから、里桜に会ってからずっと、美咲は硬い表情を崩さなかったのだろう。先の見えない“まだ”に、希望は持てそうになかった。
「俺、義くんに会って、何て言ったらいいのかな?」
「一応、私と離婚していることも、里桜くんとおつき合いをしていることも話してあるの。ただ、今の義之さんには寝耳に水な話でしょう?まだ戸惑っているようだから、これからのことを話すのはもう少し待った方がいいと思うの。辛いでしょうけど、しばらく我慢してあげて?」
戸惑っているのは里桜も同じだったが、ただ頷くしかなかった。



美咲の後をついて、おそるおそる個室へと足を踏み入れる。
ギャッジアップしたベッドに上半身を起こした義之は、殺風景な白い部屋で、そこだけ色があるといってもいいくらい際立って見えた。人目を惹く容姿をしていることなど知っていたはずなのに、言いようのない違和感に胸が騒いだ。
「里桜くんが来てくれたわよ?」
美咲の声に応えるように、義之がこちらへ視線を向ける。
「……こんな幼げな子が?」
驚いたような口調は義之がショックを受けているからなのだろうが、それは里桜も同じだった。周囲から童顔だとか幼稚だとか言われ慣れていても、今まで義之にそんな風に言われたことはなかった。
病衣を着ているという以外は、昨日までの義之と外見的には同じはずなのに、里桜の知る人好きのする風貌ではなく、纏う空気まで異質なものに変わってしまったような気がする。里桜を覚えていないらしい義之に、初対面のような挨拶をするべきなのか、いつも通りに接すればいいのかわからなかった。
「義之さん、傍目にも暑苦しいくらい里桜くんにラブラブだったのよ。私がちょっと里桜くんと仲良くしててもキレちゃうくらい独占欲の塊になったりね」
見かねて答える美咲が、わざとらしいくらい大げさに里桜との関係をアピールする。
「本当に、僕を“担いでる”わけじゃないのか?」
「しつこいわね。こんな手の込んだ“ドッキリ”を仕掛けるわけがないでしょう?昨日のことも覚えてないくせに、人を疑うのもいい加減にしてちょうだい」
「そう言われても、急には信じられないよ。きみと離婚してることも、高校生と恋愛してるなんてことも」
里桜を一瞥すると、義之は盛大にため息を吐いた。よっぽど、里桜の幼さが納得いかないのだろう。
「もしかして、僕は犯罪者になっていたのかな?」
真面目な口調に後悔のようなものが滲む。今の義之の預かり知らぬところでインモラルな人間になっていたことが、一番受け入れ難いことらしかった。


「そうね、周りから呆れられるくらい里桜くんに入れ上げてたわよ?」
美咲の言葉の信憑性を確かめようとするかのように、義之の視線が里桜に注がれる。まるで値踏みするかのような無機質な眼差しに、体中が強張ってゆく。初めて会った時でも、義之はもっと親しげな顔をしていたのに、たった一日でこんなにも他人になってしまうとは思いもしなかった。
「きみに振られて、僕は自棄になっていたのかな?」
美咲が返事に詰まっても、今の里桜には庇えるような余裕はなかった。それに、里桜は話の中心にいるようでいて、全くの第三者なのだとわかっている。
「……覚えてもいないくせに、そんな言い方はしないで。里桜くんとは純粋に恋愛していたのよ。一緒に住んでいたのは義之さんの独占欲が強かったからだし、卒業まで待つようにって言う里桜くんのご両親を説得して、マンションを買って……そうそう、工藤さんとお隣なのよね。後で面会に来てくれるように連絡しておくから尋ねてみればいいわ。工藤さんの言うことなら、あなたも信用するでしょう?」
美咲が腹を立てる理由もわからないせいか、義之はまだ納得がいかないようだった。
「マンションを買うなんて、僕はその子と結婚でもするつもりだったのかな?」
「里桜くんが卒業したら籍も入れたいって言ってたわよ?」
「……重症だね」
「そうよ。わかったら早く思い出しなさいね?」
義之が戸惑ったような表情を見せるのは、美咲が突き放すような態度を取るからなのだろう。おそらく、3年前ならまだ美咲と上手くいっていた頃のはずで、離婚していることも認めたがらない義之には、他の相手を勧めるような言動は受け入れ難いことらしかった。


「一応確認しておいていいかな?男の子だと聞いていたけど、とてもそうは見えないんだけど?」
初対面で私服を着ていると、里桜はほぼ100%性別を間違われる。そうでなくても小柄で女顔なのに、似合うからとつい可愛らしい洋服ばかりを選んでしまっているからだ。
「そうなのよ。男の子にしておくのが勿体無いくらい可愛いでしょう?」
「確かに可愛い子だと思うけど、もう少し育つまで待てなかったのかな、その頃の僕は」
性別よりも年齢の方を気にしているところが、義之らしいような気もする。
「待ってる間に誰かに取られると思ったんでしょうね。責任を取るという名目で縛りつけておくつもりだったのよ、きっと」
「それにしたって、ちょっと子供過ぎないかな?」
「そう思うんなら、今のあなたには記憶にないことでも、責任を取らなくちゃいけないんじゃない?」
美咲の口調は笑みを含んだ軽いものだったが、不意に義之の表情が厳しくなった。
「もしかして、僕は、両親も揃っている高校生を、卒業も待たずに引き取って養育しなければいけないような大変なことをしたんだろうか?」
「……もしかしたらそうかもしれないと思いながら、本人の前でそんなことを言うあなたの神経が信じられないわ」
憤慨した美咲の言葉は、暗に義之の問いを肯定することになってしまう。
ずっと美咲の後ろで義之にどう接したらいいのか悩んでいたが、重くなりそうな空気を変えたくて、普段と同じように声をかけてみることにした。
「義くん、本当に俺のこと、忘れちゃったの?」
「そのようだよ。やっと口をきいてくれたね」
「何だか、義くんが知らない人みたいで……どういう風に言ったらいいのかわからなくて」
「いつも通りで構わないよ?僕のことはそういう風に呼んでいたの?」
「うん……?」
前と同じでいいと言っても、随分と年下の里桜が馴れ馴れしく呼びかけるのはあまりいい気がしないのだろうか。
「亡くなった母にも同じように呼ばれていたよ。どうやら、本当に僕も満更でもないと思っていたようだね」
義之の母親と同じ呼び方だというのは聞いたことがなかったが、初めてそう呼びかけた日のことを思い出すと、そうなのかもしれないと思った。


「里桜くん、悪いけど先に帰ってもいいかしら?」
里桜と義之が話せそうだとわかると、美咲は帰り支度を始めた。夜中に呼び出されて、里桜が来るまでずっと付き添っていた美咲も、かなり疲れているようだ。
「うん、ずっと付いててくれてありがとう。手続きとか面倒なことも全部してくれて、ホント助かっちゃった。ゆっくり休んでね」
入院の際の手続きなどは一通り美咲が済ませてあり、今は付き添いも必要ではないらしい。里桜も、とりあえず退院までのことを義之と話し合ったら、ジャマにならないように控えていた方が良さそうだった。
「思ったより早く退院できそうだし、里桜くんもムリしないで困ったことがあったらすぐに電話して?義之さんも、元気があったら里桜くんと親睦を深めておきなさいね?」
「……きみにも、もう誰かがいるの?」
唐突な問いに、美咲は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに笑みを作った。
「そうよ。だからあまり当てにしないで?」
それが事実かどうかはわからなかったが、何となく、義之に付け入る隙を与えないためのような気がした。
「退院してからでも構わないから、別れた理由を今の僕にもわかるように聞かせてくれないかな?」
「私から話すことはもうないわ。時間が経てば思い出すかもしれないし、過去のことよりこれからのことを考えて?」
「まさか、これっきりってことはないだろう?」
義之の言葉が、ひどく弱気に響いたようで驚いた。里桜の知っている義之は、誰かに頼るような素振りを見せたことはなかったのに。
「困っている時はお互いさまだし、なるべく力になるけど、あなたのためというより里桜くんのためだから勘違いしないで?」
不敵に笑いながら、おそらく今の義之には相当に堪えるはずの言葉を残して、美咲は帰っていった。


「……ずいぶん美咲と親しいようだけど」
美咲を部屋の外まで見送って戻った里桜に、不機嫌そうな声がかけられる。義之がすぐに妬いているような言い方をするのは普段と同じようでいて、立場は全く逆になっているとわかっていた。
壁際に立てかけてあった折りたたみの椅子を借りて、ベッドの側に腰掛ける。まずは、里桜の知らなかった頃の義之と親しくなる努力をしなくてはならなかった。
「美咲さんとは仲良しなんだ。でも、俺は女の人とは恋愛しないから、義くんが心配するような意味じゃないよ?」
「それは僕のせい?」
「ううん。俺、前につき合ってた人も男の人だったし、元からだと思うけど」
里桜にとっては、まともに恋愛する前に義之と出逢ってしまったようなもので、自分の性癖を断言することは出来ない。ただ、望まれてつき合うことになった前の相手の時から、そういった意味での違和感を感じたことはなかった。
「僕とつき合うことになったきっかけを聞いても構わないだろうか?」
「えっと……俺がすごく好きになって、義くんが応えてくれたから、かな?」
たぶん、端的に言えばそういうことだったのだと思う。更に、その時の義之には、里桜の気持ちに応えないわけにはいかない理由があったから、と付け加えるべきなのかもしれなかったが。
「未成年のきみと深い関係になった責任、ということだろうか?」
以前の義之が頑なに否定し続けてきたことをあっさりと認めてしまわれたようで、密かに里桜の心の奥底で燻っていた疑惑がまた煽られる。
「……そんな感じ、なのかな?」
「煮え切らない返事だね。何を隠してるの?」
「別に、何も……」
思いがけず鋭い眼差しを向けられて、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。見つめ返せずに俯く里桜の態度は、義之を誤解させたようだった。


「もしかして、合意じゃなかったの?」
問い詰めようとする義之の言葉に、もう乗り越えたはずの過去が不意に甦ってきそうになる。他の男に犯されたことさえ必要なことだったと思えたのは、義之が里桜を傍に置いてくれたからだった。義之に忘れられてしまったのなら、一緒に居る意味も無くなってしまう。
「僕を好きになってくれていても、体を許してくれるほどではなかったということかな?僕はそんなに強引だった?」
「ううん、そうじゃないんだけど……ごめんなさい、俺が子供だったから……」
義之に惹かれていると認めるのが怖くて、その時つき合っていた相手にも何も言わずに中途半端な関係を続けていたから、手痛いしっぺ返しを受けることになってしまった。義之には里桜は悪くないと言われたが、やはり自分で招いたことだったのだと思う。
「僕が強要したんだとしたら、謝るのはこちらの方だよ?相手が誰でも、好きになってくれれば嬉しいと思うし、ましてきみみたいに可愛い子に思われれば悪い気はしなかったんだろうしね」
「そういうんじゃなくて……」
義之が事実とかけ離れた見解をしていても、本当のことを隠したままでは、何と言って説明すればいいのかわからなかった。
「でも、その頃の僕はそんなにも理性や分別が無くなってるのかな?責任を取るつもりだったんなら、一緒に住むことより、きみが大人になるまで待つべきなのに」
「待ってくれてたよ?せめて高校を卒業するまでくらいはって言ってくれてたし」
それが更に誤解を招く表現だと、わかっていながら言ってしまった。
「それじゃ、きみとは一緒に住んでいただけだったの?美咲は僕を独占欲の塊とまで言っていたのに、何もしないでいられたのかな……」
義之は納得のいかない顔で、考え込むように黙りこんだ。もし、義之の記憶がこのまま戻らないとしたら、里桜ともう一度恋愛をするのはムリなのかもしれない。


「義くん、頭が痛いの?」
額を押さえる掌から覗く表情は苦しげで、義之が病人だという事実を突きつけられたような気がした。いつもの義之は、外見からは想像もつかないほどタフで、疲れた姿を見せることが殆どなかっただけに不安になる。
「少し疲れたようだよ」
「俺、静かにしてるから休んでて?」
「悪いけど、そうさせてもらおうかな。きみも時間があるんならゆっくりしててくれないか?目が覚めたら、これからのことを話そう」
「うん」
ベッドを戻して横になる義之に、妙な感じを覚えてしまう。見下ろされたり心配されたりするのはいつも里桜の方で、こんな風に弱った義之を見るのは初めてかもしれなかった。
ほどなく眠ったらしい義之の顔を、そっと覗き込む。義之が寝入るのを待って、里桜は優生に連絡を取るために部屋を出ようと思っていた。



「病人に凭れて眠るなんて大物だね」
笑いを含んだ声に、ぼんやりと目を開ける。どうやら、里桜は義之の胸の辺りへ覆い被さるようにして、二時間ほど眠ってしまっていたらしかった。
「ご、ごめんなさい」
日頃から人一倍睡眠時間を必要とする体質の里桜が、昨夜から一睡もしていないような状態で、朝まで起きていられた方が不思議なくらいだ。
「きみに連絡をするのが遅くなったようだから、あまり眠ってないんだろう?心配をかけて悪かったね」
「ううん……打ったとこ、痛いんでしょ?乗っかっちゃってごめんなさい」
「そんなに気にしなくても大丈夫だよ。肩とか背中は動かすと痛むけど、じっとしているぶんには何ともないからね」
「よかった……」
睡眠はまだまだ足りていなかったが、もう一度寝直すわけにはいかなさそうだった。


「そういえば、あっくんが、お仕事を早めに切り上げて来てくれるって言ってたよ」
優生に電話をした暫く後に淳史から連絡があり、なるべく早く仕事の都合をつけて病院に寄ると言われていた。優生から事情を聞いた淳史は、里桜のことを随分心配してくれているようだった。
「あっくんていうのは誰?」
「えっと……義くん、工藤淳史さんと仲いいでしょ?今お隣に住んでるんだよ」
「じゃ、“あっくん”ていうのは淳史のこと?」
「うん」
義之の記憶にある頃の淳史は、相手が誰であれ“あっくん”なんて呼ばせるはずがなかったのだろう。他人に干渉されることを極端に嫌う淳史と、今では里桜が勝手に家に上がることも許されるほど親密になっていると知ったら、卒倒ものかもしれない。
「隣に住んでいるのは偶然、なんてわけじゃないんだろうね」
「うん。義くんがマンション買わないかって、あっくんを誘ったんだよ。傍にいた方が何かと心強いからって」
「マンション買うって……まさか淳史も結婚してるの?」
厳密に言えば違うのだが、当人が結婚していると言い切っている以上、肯定しておくべきなのだろう。
「うん、ゆいさんていうキレイな人だよ。今度20歳で俺と年も近いし、勉強見てもらったり一緒に留守番したり、仲良くしてもらってるんだ」
「淳史が結婚してるというだけでも信じられないのに、そんな若い子が相手だなんて驚いたよ。年齢より大人びた感じなのかな?」
「ううん。年相応だと思うけど。それにね、あっくんの方が“ベタ惚れ”なんだよ」
「淳史はむしろ年上好みで若い子は好きじゃなかったのに……三年の間に何があったのかな」
もう一言、優生は男の人だと教えておくべきなのかもしれなかったが、これ以上驚かせないよう、やめておいた。


「はーい」
ノックの音に立ち上がる。噂をすれば早速、渦中の二人が面会に訪れたらしかった。
「思ったより元気そうだな?」
里桜の顔を覗き込む眼差しは、いつもの淳史よりずっと優しい。病人より先に里桜を心配してくれたことが嬉しかった。
「うん、ありがとう。お仕事、もういいの?」
「休出だったからな、気にしなくていい」
「俺、イス借りてくるから中に入ってて?」
淳史と一緒に優生を部屋に通してからナースステーションに行くつもりだったが、優生は荷物を置いて里桜についてきた。
「ひとりでも大丈夫だよ?」
「俺が残ったら、誰?ってことになるだろ?俺、そういうの苦手だから」
「一応、ゆいさんのことも話してあるんだけど……あっくんが結婚してるか聞かれたから」
「ふうん……あ」
タイミングよく通りかかった職員を優生が呼びとめて、ナースステーションに行くまでもなく面会用の椅子を借りることが出来た。
「義之さん、俺のことを女だと思ってたりする?」
微妙な顔をする優生に、正直に答える。
「俺は性別の話はしてないよ。あっくんが話すんじゃない?」
個室に戻ると、話し込んでいる義之と淳史から少し離れて、里桜は自分のための椅子を置いた。すぐ隣に、優生が椅子を並べる。里桜と同じく忘れられているはずの優生も、二人に遠慮しているらしかった。
「あ、これ里桜に」
優生から渡された紙袋の中味はお見舞いではなさそうだった。お弁当と思しきパックにペットボトルのお茶、おそらくデザートのフルーツミックス。どう見ても差し入れに違いなかった。
「全然食べてないんだろ?」
「うん。ありがとう、ゆいさん」
大食漢の里桜にすれば有り得ないほど長く何も口にしていなかったが、そんなことにも気が付かないくらい、緊張していたのだと思う。


「遠慮しないで食べてて?義之さんには勝手にあげられないだろ?淳史さんも俺も昼はとっくに済ませてるし」
「ありがとう。それじゃ、いただきます」
会話中の淳史と義之に声をかけるかどうか迷ったが、水を差すことになりそうでやめておいた。なるべく静かに、優生が用意してくれた弁当に箸をつける。
本当は二人のやり取りが気になって仕方なかったが、努めて視線を向けないよう、耳に神経を傾けた。
「とても病人にも怪我人にも見えないな」
「そうだろう?僕だけが三年前に遡ってしまったなんて言われても信じられなくてね、最初は美咲に担がれてるのかと思ったよ。まさか離婚してるなんて思いもしなかったし、なのにマンションまで買ったそうだし驚くことばかりだよ。でも、一番驚いたのは僕がショタになっていたらしいことだけどね」
すぐ傍にいる里桜が気にするかもしれないとは思わないのか、義之は軽い口調でさらりと言い切った。
「……里桜を見て何か思うところはないのか?」
「僕が常識外れのことをしていたという話なら聞いたよ。今の僕なりに考えて、彼の納得のいくように責任を取るつもりだよ」
「そうじゃない。おまえはストーカー並に里桜に思い入れていたんだ。いくら記憶が飛んでるといっても、少しくらいはそういうのが残ってるんじゃないのか?」
「そう言われても……可愛い子だとは思うけど、今の僕は罪悪感と背徳感でいっぱいで、邪な気持ちはないよ」
軽く首を振って、淳史が小さくため息を吐くのが聞こえた。昨日までの義之を、本当の意味で知っているだけに複雑な心境になってしまうのだろう。
「それより、淳史こそ若い子と結婚したんだろう?残念ながら全く覚えていなくてね、改めて紹介してくれないか?」
「……そうだな」
一瞬の逡巡のあと、淳史が優生を呼んだ。優生はあまり気乗りしない風に立ち上がると、殊更ゆっくりと淳史の傍へ近付いていった。


「結婚したというより、既婚者になった気でいる、と言った方が正しいんだろうが……見ての通り優生は男だからな。籍は入れたが、婚姻届というわけにはいかなかったんだ」
座ったままの淳史に掴まれない距離を保って、優生が義之に軽く頭を下げる。それまでの義之の言動を聞いていたせいか、優生の態度はいつになく反抗的な感じがした。
暫し絶句してしまう義之の胸中を思うと、遣る瀬無い気持ちになる。淳史は“見ての通り”と言ったが、優生はかなり中性的なルックスをしていると思う。
「……まさか、淳史もそうなっているとは想像もしなかったよ」
義之が目を覚ましてからというもの、次から次へと衝撃を受けるようなことばかりが続いていて、精神的な疲労は相当なものに違いない。
「覚えていない奴に言っても仕方がないんだろうが、優生が前の相手とおかしくなっている隙に奪ってしまえばいいと言ったのはおまえなんだぞ?」
「僕が淳史をけしかけるようなことを言ったのか?……男の子でも、あの人よりはいいと思ったのかな?」
「それもあるのかもしれないが、どっちかと言えば、自分が“可愛い仔猫”を囲ったから共感して貰いたくなったんじゃないのか?理由はどうあれ、俺を焚きつけるようなことを言ってくれたことには感謝してるよ、もし黙って見ていたら俺のものにはなってなかったからな」
ふと、義之は考え込むような表情を見せた。
「……僕も、彼を強引に自分のものにしたようだけど、誰かに取られそうになっていたんだろうか?淳史はその辺りの事情を知っているんだろう?」
「そうだな……取られるというより、せっかく懐いてきていたものをみすみす逃すのが惜しくなったんじゃないのか?前の男は相当里桜に惚れていたそうだからな」
淳史がそんなことまで把握していたとは、里桜は知らなかった。平然と答えているように見えても、淳史の頭の中では微妙な計算がなされているのだろう。
「ということは、僕も少しはその子のことを好きになっていたということなのかな?」
義之の言葉は、寧ろそうは思えないと言いたげに聞こえた。


「思い違いがあるようだから言っておくが、おまえは責任を取るために里桜を愛そうとしていたわけじゃないぞ?強いて言えば、とっくに好きになっていたから、責任を取るという名目で里桜を縛りつけておくために“強引”なことをしたんだと思うが」
敢えて誤解させるような表現を選んだ淳史に、義之は神妙な顔をする。
「美咲にも同じことを言われたよ。淳史も、僕が責任を取るには傍にいて彼を愛するよう努力するべきだと思うのか?」
「そういう言い方は気に入らないが、結論から言えばそうなんじゃないのか?いくら覚えてないと言っても、おまえが里桜の人生を曲げたのは変えようのない事実だからな。愛せるかどうかは別にしても、試してみるくらいのことはして当然だろう?」
淳史の不遜な態度に、義之は逆らうことを諦めたようだった。記憶を失くして分が悪いからか、里桜の知る、穏やかなようでいて決して自分を曲げることのない義之とは別人のようだ。
「彼とは一緒に住んでいるようだけど、退院してからもそうした方がいいんだろうか?」
「いいも悪いも、おまえには他に帰る所がないだろうが。里桜だって今更実家に戻るわけにはいかないだろうしな。それに、一緒にいるうちに少しずつ思い出すかもしれないだろう?」
「わかったよ、美咲にも親睦を深めるよう言われてるんだ。淳史とは隣らしいし、面倒をかけることになると思うけど」
「元から里桜はうちに入り浸ってるんだ。何かあったら、いつでも頼ってくれていい。うちのは“専業主婦”だからな」
「助かるよ。正直、一回りも年齢が開いていると何を話したらいいのかもわからなくてね。暫く一緒させてもらっていいかな?」
「構わないが、優生とは2歳違うだけだぞ?」
「でも、今度20歳になるんだろう?しっかりしてそうだし、やっぱり高校生とは違うよ」
義之に次々と信じ難い事実が降りかかってきたのと同じように、里桜の存在を悉く否定するようなことばかり言われているような気がする。里桜の年齢もルックスも今の義之の気には召さず、出来るなら一緒に暮らすことも避けたいと思っているのだろう。


「で、どのぐらいで退院できそうなんだ?」
「そうだね、すぐに退院の手続きをしてこようかな?検査の結果は何も異常がなかったようだし、入院していたからといって記憶が戻ってくる可能性は低そうだしね」
ずっと病人然としていた義之が不意にベッドから降りる。一旦思い立つと、行動が早いのは元かららしかった。
「大丈夫なのか?」
「覚えていないということを除けば、軽い打撲だけだからね、入院している必要はないはずだよ。必要なら通院すればいいだろうし。とりあえず仕事に必要なことだけでも頭に入れないといけないし、ゆっくりしてる時間が勿体無いよ」
「仕事のことも覚えてないのか?」
「そのようだよ。ここ三年分ごっそり、切り落としたように皆無なんだ。何から手を付ければいいのか、考えただけで眩暈がしてきそうだよ」
病衣を脱いだ義之が、ふとその手を止める。
「今更かもしれないけど、このまま着替えて構わないかな?」
尋ねられた意味がわからず、里桜は首を傾げてしまった。代わりに答える優生が、わざとらしいくらい真面目な顔をする。
「俺、義之さんが脱いだくらいじゃ欲情しないから、お気遣いなく」
「淳史の恋人はおもしろい子だね」
「……聞き流せよ、ただの嫌味だ」
その真意が気に掛かったのは里桜の方だったが、考え事をしている場合ではなさそうだった。慌てて弁当の残りを食べてしまおうと焦る里桜に、義之は幼い子供を見るような優しげな顔を向けた。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ?手続きには少し時間がかかるだろうし、ゆっくりしてて」
「俺も義之と一緒に行ってくるから、優生、片付けを手伝ってやってくれ。許可が出たら皆で帰ろう」
連れ立って出て行った二人は、義之の宣言通り、退院の許可を貰って戻ってきた。





「……ずいぶん、可愛らしい部屋だね」
リビングの入り口から中を見渡した瞬間、義之の足が止まった。今の義之にとって初めて見ることになる部屋のコーディネイトは、かなりショッキングなものだったらしい。ややあって義之が口にした感想は、それ以上婉曲に言いようがなかったのだろう。
極々淡いグリーンのバルーンカーテンと、お揃いのラグに薄く描かれたオールドローズも、クラシックな猫足の白いチェストやテーブルも、ともすれば少女趣味に見えかねない可愛らしさだ。低い位置には一切物がなく、キャビネットのドアロックやコンセントキャップまでついている様は、とてもではないが、いい年をした男二人が住んでいる部屋には見えないだろう。
「まるで小さな子供でもいるみたいだけど」
「うん、俺の弟、まだ赤ちゃんだから……義くん、すごく可愛がってくれてて、合わせてくれたっていうか」
里桜の弟の来望(くるみ)を連れてくることを前提に考えたかのような部屋にしたのは義之だったはずだが、今そう言ったところで説得力はないのだろう。
「弟って、随分年が空いてるんだね」
「うん。だから、俺が連れてると、俺の子供と間違われることあるよ」
「ずいぶん若いお母さんだと思われてるんだろうね」
おそらく深い意味はなく言っているだろう一言一言が、里桜の胸に引っかかる。自分がこんなにも被害妄想的な思考をしているとは思わなかった。
「……何か入れようか?」
「ありがとう。せっかくだけど、先に風呂を使っていいかな?どうも病院臭さが抜けなくて不快なんだ」
「でも、お風呂入っちゃダメなんじゃなかったの?」
退院の際にいくつかの注意事項があり、その中のひとつに入浴は控えるようにというのがあったはずだ。
「軽くシャワーだけにするよ。すぐに上がるから心配しないで」
優しげな言葉とうらはらに、口出しされたくないと言わんばかりの雰囲気に、また里桜の気分が重くなってゆく。


「ベッドがひとつしかないようだけど、一緒に寝ていたの?」
「え、と」
問われた意味を考えると、答えを躊躇ってしまう。里桜が高校を卒業するまで待ってくれていたという言葉を、“結婚するのを”ではなく、“深い仲になるのを”と思っているらしい義之には、一緒に寝るなど考えられないことなのだろう。
「一緒に寝たからといって間違いが起きるとは思わないけど、やっぱりケジメはつけた方がいいね」
きっぱりと里桜に欲情することはないと言われたこと以上に、“間違い”と表現されたことが引っかかる。どちらかといえば鈍い里桜にも、義之の言葉の端々に覗く本音に気付いてしまった。
「しばらく僕は向こうで寝ることにするよ。予備の寝具はあるんだろう?」
「あ、それなら俺がそっちを使うから……義くんは病人なんだからベッドを使って?」
ベッドを里桜に譲ってゲストルームに行こうとする義之を引き止める。客用寝具は買ったきり開封もしておらず、当然シーツも掛けていなかった。慌てて用意するよりも、記憶にはなくても体に馴染んでいるベッドを使った方が安眠できるはずだ。
「病人なんていうほどでもないつもりだけど……譲り合っていても仕方がないし、そうさせてもらうよ」
少し眠るという義之に、“おやすみ”のキスをしようとして怪訝な顔をされた。
「キスもしちゃダメなの?」
いくら義之が大人で、未成年の里桜に淫行をはたらくわけにはいかないといっても、今時の高校生がキスのひとつもしないという方が異常なのだと思う。
困惑したような顔に、改めて二人の距離感を思い知らされたような気がした。里桜が思っていたよりずっと、事態は深刻らしい。
「どこで線を引くのかは難しいところだけど、僕としてはそういうことは一切しない方がいいんじゃないかと思うよ?」
一切、と言われては、ハグを求めることさえ出来なくなってしまう。
毅然として里桜と一線を画そうとする義之につけ込む隙は、今はなさそうだった。



義之がまだ起きていたら叱られるかもしれないと思いながら、静かに寝室のドアを開けた。
そっとベッドに近付いて、義之の寝顔を覗く。固く閉ざした瞼は少々の物音では開きそうになく、里桜の知っている義之からは想像できないくらい深く眠っているようだった。
一人で使うには広すぎるベッドの、空いた端にちょこんと腰掛ける。手を伸ばして、頬へ触れても義之は僅かも動かなかった。鼓動を確かめるように、胸元へ耳を寄せる。
義之に連絡が取れずに不安でいっぱいだったことを思えば、まがりなりにも無事に戻ってきた現状に満足するべきなのだろうと、頭ではわかっていた。まだ記憶が戻らないと決まったわけではなく、里桜と恋愛するのは無理だと言われたわけでもない。一挙手一投足に憂いている場合ではなく、義之が落ち着くまで、もっと大らかな気持ちで待たなければと思うのに。
おそるおそる、義之の肩の辺りへ頭を乗せる。こんな風に吐息がかかるほど近付くことは、義之の意識のある時にはもう叶わないことなのだろう。
義之と一緒に過ごすようになってからというもの、里桜は毎日毎晩、ハーレクインロマンスか昼メロかと思うほど過剰に甘やかされてきた。今更、子供らしく清く正しく生きていけと言われても、戻れるわけがないのに。
時として面倒に思ってしまうこともあるほど毎回、律儀に欠かすことなくくり返されてきたハグとキスは、里桜が眠りに入るための儀式にもなっていた。それなのに、これからは眠るのも起きるのも一人なんて、想像しただけで胸が潰れてしまいそうだ。
里桜のことを思い出してほしいと思いながら、相反する願いは消せずにいる。もし義之の記憶が戻らないのなら、出逢いの意図も、起こったことも知らないままでいてほしい。義之の状態を淳史に話した時にも、黙っていてほしいと頼んでおいた。
あの頃、責任感ではないと言われた言葉が真実だったとしたら、もう一度里桜を好きになってくれるはずだと思う。今の義之に、本当に里桜と親睦を深める気があるのなら。




軽く頭を撫でられて、微睡みから覚める。
何の根拠もなく続いていくと思い込んでいた昨日の続きのような錯覚に、里桜は一瞬どちらが夢だったのかわからなくなってしまった。
抱かれ慣れた胸の上で、条件反射のようにキスを求めそうになる里桜の体が、やんわりと止められる。
「きみは僕を枕にするのが好きなようだね。悪いけど、寝惚けて人違いをしないという自信はないから、寝込みを襲うのはやめてくれないかな?」
誰と間違えるのかと聞くのは愚問で、里桜は慌てて、もう自分のものではないらしい胸から身を引いた。
「……ごめんなさい、寝顔を見てたらつられちゃったみたい。義くんはこのまま寝るの?」
「目が覚めてしまったから起きるよ。いろいろしなければいけないこともあるしね」
「何か食べる?すぐに用意するけど」
「きみが?無理しなくていいよ?」
義之の目には年齢以上に幼く見えているらしい里桜は、食事の用意をすることも危なっかしく思われているようだ。
「家事は殆ど俺がやってたんだけど……」
「そうなの?僕は結婚している時でも協力していたんだけどな……そんなに仕事が忙しくなってた?」
「ううん……義くん、お仕事はあんまり真面目じゃなかったよ」
「まさか左遷されたとか、勤務先が変わったとか、何かトラブルでもあったの?」
「義くんは俺には仕事の話をしなかったからわからないけど……たぶん、会社は変わってないと思うよ。でも、移動とか担当が変わったとかはあったんじゃないかな?」
仕事に熱中し過ぎて離婚することになったから、次の相手は何より優先するというような言い方をしているのを聞いたことがある。その言葉を証明するかのように、里桜と知り合ってからの義之はしょっちゅう仕事を抜けてきたり、土日の少なくとも一日は出勤しないと公言してみせたり、まともな社会人とは思えない仕事ぶりだった。おそらく、美咲の気持ちが離れていったことにも気付かないほど忙しかったという頃とは全然違っていただろうと思う。まるで、里桜を中心に義之の世界が回っているように見えるほど。
「三年も経てば随分変わってるだろうね。知識は入れられても、人間関係は聞いただけじゃわからないし……やっぱり当分仕事に戻るのは無理かな」
里桜の戸惑い以上に、義之にとって三年間を取り戻すのは大変そうだった。



「とりあえずコーヒーでも淹れようか?」
無難な言葉で義之を窺う。
里桜についてキッチンの中まで来た義之は、見覚えのないレイアウトに戸惑っているようだった。
「頼んでもいいかな?どうも、使い勝手が違うようだし」
「うん。軽くサンドイッチでも作る?」
「今はいいよ。動いてないからかな、あまり食欲はないようだよ」
コーヒーメーカーをセットしながら、リビングに移ってローテーブルの前へと座る義之を眺める。カップにミルクを温めながら、コーヒーが出来上がるのを待った。
その間にも義之は寛ぐ風はなく、破損した携帯電話の代わりにノートパソコンを立ち上げて作業を始めた。里桜と一緒に住み始めた時にはもうあったパソコンは、義之の記憶にあるものらしい。
難しい顔をしてキーボードを叩く義之に声をかけにくくて、少し離れた、なるべく邪魔にならなさそうな場所にマグカップを置いて、里桜も腰を下ろす。
ありがとう、と言いそうに見えた唇が、思いがけない言葉を紡いだ。
「……いつもカフェオレだったの?」
困ったような顔をされる理由がすぐにわからず、しばらく返事が出来なかった。
「僕は砂糖もミルクもいらないよ、先に言っておけば良かったね」
確認をするべきだったという以前に、義之がカフェオレは飲まないかもしれないとは考えもしなかった。
「……もしかして、甘いものも苦手だったりする?」
「食べられないことはないよ?でも、あまり好きではないかな」
「そうなんだ……」
出逢った頃の義之は、しょっちゅう里桜をスイーツの店に誘ったり、おみやげに買ってくれたりしていた。一緒にお茶をする時にも里桜にだけ勧めるわけではなく、同じようにつき合ってくれていた。里桜には、義之が仕方なく食べているようには見えなかったが、そう感じさせないよう振舞っていたのだろうか。


淹れ直したコーヒーを飲み終える頃には、義之の気分も少し落ち着いてきたようだった。
里桜の知らない顔をして、器用な指先が目で追えないほどの速さでキーボードを叩く。その音の他には時折メールの着信が聞こえるだけの静けさに、息が詰まってしまいそうになる。
席を外すべきか迷っていると、不意に義之が里桜の方を向いた。
「あの日のことも全然覚えてないんだけど、僕は仕事だったのかな?」
「お仕事っていうか、おつき合いだったみたいだよ?先生たちと約束があるって言ってたから」
飲むことになるからと、義之は仕事から一旦戻って車を置いてまた出掛けていった。早めに引き上げるつもりだと言っていたが、抜けられず遅くなるとメールがあったきり、こんなことになってしまった。
「誰と一緒だったのかはわかるかな?」
「ううん……そういうのは聞いてない」
「そう」
そんなことも聞かされていないのかと、義之の横顔に書いてあるような気がして、またヘコみそうになる。義之は里桜には仕事の話は殆どしなかった。それが里桜を子供だと思っていたせいなのか、別の理由があるのかはわからなかったが、話してほしいと言ったことはなかった。
「事故の時に携帯が壊れてしまったようだけど、機種変前のとか、置いてないのかな?」
「データを移した後は処分したんじゃないかな?でも、データはパソコンの中に入ってると思うけど」
尤も、義之が残したがったデータは里桜の写真やムービーが殆どで、今の義之が探しているものとは違うのだろうが。
「一応バックアップは取ってあるようだけど……機種変したのはいつだったかわかる?」
「確か3月の終わり頃だったと思うけど」
「それなら、ほぼバックアップを取ってあると思っていいのかな。3年後の僕も慎重なようで良かったよ」
義之にとって大切なのは仕事の交友関係やデータばかりで、里桜のことには触れる気もないらしい。それとも、あと数日で義之と里桜が初めて出逢った日になるというのに、そんなことはパソコンの中には入っていないのかもしれなかった。



「お仕事、しばらくは休むんでしょう?」
「出社はするつもりだよ。会社には美咲が連絡してくれているそうだし、内勤しながら記憶を埋めていこうかと思ってるよ」
義之がそんなにも仕事に思い入れを持っていたとは知らなかった。里桜と出逢ってからの義之はどちらかといえば不真面目で、あまり仕事に時間を取られないよう上手く立ち回っているように見えていたのに。
これを機に休暇を取って、里桜と過ごしているうちに少しずつ思い出すかもしれないとか、想い出さないまでも親密になろうとか、そういうつもりは毛頭ないらしい。
「あんまりムリしないで?」
「大丈夫だよ、無理に思い出そうとしない方がいいとは言われてるけど、新しく入れるぶんには何も言われてないからね。あまりきみに構っている時間は取れないかもしれないけど、協力してくれるかな?」
嫌だと言えるはずがないことを知りながら、そんな言い方をする義之と、これからどう接していけばいいのかわからない。
「協力って、俺は何をしたらいいの?」
「家事をしてくれていたと言っていたけど、きみが担当してくれると助かるよ」
「それは元々俺がやってたんだし構わないけど……それだけ?」
「あとは学生らしく勉学に励むとか、僕を枕にしないとか、普通にしていればいいよ?」
つまりは、必要以上に義之に接触するなということなのだろう。美咲や淳史に言われるまま里桜と暮らすことにしたものの、早速持て余し始めたのかもしれない。
「そんな顔しないで。時間はかかるだろうけど、きみのことも愛せるようになると思うよ?今は急かさないで、仕事に集中させてくれないか?」
まるで里桜を愛せるようになるには努力が要ると言われたようで、素直に頷くことはできなかった。義之は自分が愛されていると思っているからそんな無責任な言葉が吐けるのだと、考えてしまう里桜は卑屈になり過ぎているだろうか。



「……あの、俺、先に寝るね?」
義之の傍にいても所在無くて、せめて邪魔にならないようにと考えると、自然とそう切り出していた。
「まだ10時だよ?」
「俺、夜は弱くて、いつも11時までには寝てるから」
驚く義之に、知り合ったばかりの頃によく言っていた言葉を返す。あの頃の義之は、里桜を睡魔に奪われそうになる度に少し強引な引き止め方をしていたが、今は寧ろホッとしているのだろう。
「健康的だね。早く寝て成長ホルモンをたくさん出した方がいいよ」
暗に里桜は成長不良だと言われているようで、答える代わりに頭を下げた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
こんな時だけ極上の笑顔をくれる義之に一層距離を感じて、早々にリビングを後にする。
いくら可愛いと思ってくれていたとしても、所詮は男で子供っぽい里桜を、分別のある大人なら敬遠したくなるのは当然のことなのだろう。
普段あまり使うことのない和室に置いた、畳んだままの布団に凭れかかるように、力なく座りこむ。暗い部屋で、大きな枕を抱きしめてみても、睡魔は訪れそうになかった。おやすみのキスをしないと眠れないように躾けたのは義之だったのに。
そうでなくてもキス魔の義之は、出掛ける前には今生の別れのようにきつく抱きしめてキスをして、戻れば同じように大げさな抱擁と濃いキスで、別々に過ごした時間を埋めてくれていた。少し大げさなそれは、この先もずっと続いてゆくのだと、何の根拠もなく思っていた。
だから、たった一日の間に義之があまりにも変わってしまったことは信じ難く、里桜にはまだ受け止められそうになかった。




目が覚めたら全て夢だったとか、何もかも元通りになっていたとか、あるはずのない展開を願ってしまいたくなる朝だった。
結局、昨日は優生の差し入れの弁当以外何も口にしていなかったというのに、未だに里桜は空腹を感じていない。それでも、他にできることもなく、朝食の用意をして義之が起きてくるのを待った。
甘いものは好きではないと言っていた義之に合わせて、オーソドックスなサンドイッチにアスパラとベーコンのサラダ。義之が起きてきたらコーヒーを淹れようと思っていた。
手持ち無沙汰にテレビをつけて時間を潰していたが、よく眠れぬまま6時に起床した里桜と違って、義之は7時を回っても起きてこなかった。
ふと、もしかしたら寝ている間に義之に何かあったのだろうかと考えたとき、いてもたってもいられなくなって寝室へ走った。
「義くん……?」
寝入っているのか、里桜の控えめな呼びかけには義之は反応しなかった。そっと、呼吸を確かめるように顔を近付ける。
寝顔は里桜の知っている義之と同じなのに。
「……きみは本当に人の寝込みを襲うのが好きだね。僕は朝方まで起きていたから、もう少しゆっくりしたかったんだけど?」
里桜の知る義之の寝起きからは考えられないほど不機嫌そうな表情に、慌てて離れた。
「ごめんなさい。義くん、いつも早起きだから……具合が悪くなったのかと思って……」
「そんなに心配しなくても、特に異常はなかったと言っただろう?」
ゆっくりと上体を起こす義之が、僅かに顔を顰める。動かすと痛いと言っていた肩か背中に響いたらしい。
「大丈夫?」
思わず手を伸ばす里桜に、義之は少し困った顔をする。
「大丈夫だよ。起きるから、先に行っててくれないか?」
言葉にされなくても、触れられたくないのだと、鈍い里桜にもわかった。


義之のぶんのコーヒーをテーブルに運ぶと、里桜はソファの方に向かった。今の義之と向き合うには少し勇気が足りない。
「きみは食べないの?」
「……あの、俺はもう」
「そう」
手付かずだと、普段の義之なら気付きそうなものなのに、里桜の返事を、先に済ませたと解釈したようだった。
間が持たなくなる前にテレビを付けて、視線を画面の方にやる。義之に疎ましく思われないように過ごしていける自信は、今の里桜にはなかった。
二人では間が持たないと思ったのは義之も同様だったのかもしれない。
「ちょっと早いけど、淳史の都合が良ければ来てもらっても構わないかな?」
「俺はいいけど……」
約束は10時で、“ちょっと”なんてものではなく早いのだったが。
「電話もかけてもらえると助かるんだけど?」
「うん、聞いてみるね」
休日の8時前に電話をかけていいものかどうか迷いながらも、今は淳史より義之の方に気を遣ってしまう。
だから、2コール目で出た淳史の声が寝起きではなさそうだったことにホッとした。
「ごめんなさい、早くに……うん、おはよ。あのね、あっくんとゆいさんの都合がついたら早めに来てもらってもいい?ううん、うん。じゃ、あとでね」
通話を終えて、一呼吸置いて義之の方を見る。
「30分くらいで来られるって」
「ありがとう。やっぱり携帯がないと不便だね。早く買いに行かないと」
「あっくんと一緒に行くんだよね?」
「そうだね。そのあと午後は会社の人に会うことになったから、僕は夕方まで戻らないと思うよ」
そんなにムリをしない方が、と言い掛けて、余計な口出しだと気付いてやめる。義之は少しでも早く三年間を埋めようと、時間を惜しんでいるのだろうと思った。



揃って訪れた淳史と優生の顔を見ただけで、里桜は安堵のあまり泣きそうになってしまった。自分で思っている以上に、義之と居ることは里桜をひどく緊張させているらしい。
「寝てないのか?」
「ううん」
僅かに目尻の上がったきつい表情に、里桜は勢いよく首を振る。淳史の機嫌が悪そうに見えるのは、里桜を心配してくれているからだというのは充分に伝わってきていた。
「それなら、何でそんなひどい顔になってるんだ?」
「ひどいって……やだ、俺ぶすになってるの?どこらへん?目元?ほっぺた?全部??」
咄嗟に両手で頬を包んだ里桜に、優生が可笑しそうに笑う。
「里桜は今日もキレイだよ?ただ、瞼を腫らして目を赤くしてるから心配してるだけ」
思いがけない一言目をまともに受けて、里桜の頬が熱を帯びてゆく。すかさず優生の腕を引く淳史が低めた声で諫める。
「俺の前で口説くな」
「こっそりだったらいいの?」
今にも口論かラブシーンが始まったらどうしようと、里桜は慌てて話題を変えた。
「あの、ごめんね?せっかくの日曜なのに来てもらって。義くん待ってるし、そろそろ中に入って?」
「人に気を遣っている場合じゃないだろうが。こんな時ぐらい我儘言っとけ」
「うん、ありがと」
場所を移すとすぐに淳史と義之は話し始めたが、優生は全く気にしない様子で間から声をかけた。
「おはよ、義之さん」
いつにないほど優生の態度は不遜で、義之に対する敵意のようなものが窺える。
「おはよう。しばらく淳史を借りるよ?」
「じゃ、違う部屋に行ってようか?俺たち、いない方がいいんでしょ?」
あけすけな優生の言い草も、義之は全く気にしていないようだった。寧ろ、優生に向ける目は嬉しそうにさえ見える。
「放ったらかしにして悪いね。もう一度きみと親睦を深めたいのはやまやまだけど、今は過去を埋めるのに忙しくてね」
「いいよ、俺は里桜とベタベタしてるから」
含みのある言葉も義之の気を逆撫でることは出来ず、微笑ましいと言わんばかりに笑われてしまった。



優生に誘われるまま、里桜が昨夜から過ごすことになった和室へと移動する。普段使っていなかった部屋は昨日出した布団が一式あるだけで、机ひとつ置いていない。
「昨夜もあんまり眠れなかったんだろ?」
「……うん」
「里桜のそんな顔、初めて見たよ。朝はもう食べた?一応、軽く用意して来たんだけど」
優生は持ってきた紙袋から小さなトレーに乗った朝食を取り出すと、畳の上にタオルを敷いてお茶や割り箸を並べ始めた。ラップに包まれたおにぎりと、焼き鮭や厚焼き卵の覗くタッパーを見ていたら、自然と目元が熱くなってくる。
「ごめんなさい、昨日もお弁当作ってもらったのに……」
「そんなの気にしないでいいから食べて。食欲魔人の里桜が食べてないと、淳史さんも俺もうろたえるだろ?」
「そうだよね……ごめんなさい、いただきます。ゆいさんがいてくれると食べられそう」
里桜は、今の義之と一緒にいると落ち着かなかった。まるで知らない人と一つ屋根の下で暮らしているような緊張感で、胸が詰まってしまう。
「俺がいたら食べられるんなら、いつでもつき合うよ?」
「ありがとう」
「俺も里桜にはお世話になったし。もしここに居たら寛げないんだったら、うちの方に来てれば?」
傍目に見ても、義之と里桜はぎこちなく見えているのだろうか。
おにぎりのラップを外しかけた手を止めて、優生を見る。
「……ねえ、ゆいさん。あの人は義くんだと思う?」
優生は少し驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。
「俺は義之さんは元々ああいう人だと思うけど、里桜に対してだけは別人みたいだよな。俺が里桜とベタベタするって言っても、あんな風に笑うくらいだし」
優生の答えに、里桜の感じていた違和感の理由がわかった気がした。



里桜の朝食が終わる頃、廊下を挟んだ隣室で響いた音に飛び上がりそうになった。おそらくテーブルを叩いただろうと知れる剣幕に、里桜の心臓がバクバクと乱れ始める。
「淳史さん、気が短いから」
まるで想像していたかのように、優生はさほど驚いた風もなく腰を上げた。里桜もつられて立ち上がる。
「里桜は食べてていいよ?」
「ううん、もう終わったから……ごちそうさまでした」
立ったままで両手を合わせて挨拶をしてから、優生に続いて部屋を出る。その間にも聞こえてくる淳史の怒声に気が急いた。
「おまえは自分が何をしたのか覚えてないからそんなことが言えるんだ」
「だから、僕が何をしたのか教えてくれって言ってるんだろう?答えないのは淳史の方だよ」
それが淳史に口止めしてあった話のことだと気付いて、慌てて駆け寄った。今にも淳史が答えてしまいそうで、背後からしがみついて止める。
「あっくん、やめて」
もしも義之が忘れたままでいられるのなら、里桜と一緒に住むことになった本当の理由は知られたくなかった。責任感で縛り合うのは、もう終わりにしたい。
「人のものにそういうことをするのはよくないよ?」
その言葉が里桜にかけられたものだということも、言われている意味も、すぐには理解できなかった。
「俺に気を遣ってくれてるんだったら、余計なお世話だよ?淳史さんと里桜がくっついたからって、何も起きないことはわかってるから」
義之の言いたいことを先に理解したらしい優生が、好戦的な口調で里桜を庇う。険悪になるのが嫌で、里桜は淳史の背中から離れた。



「義之さん、まだ何も思い出さないの?」
病院で記憶のない義之と接してからというもの、優生の義之に対する態度はあからさまに高慢になったように見える。まるで、義之が優生を忘れたことに苛立っているのかと勘繰ってしまいたくなるほども。
「残念ながら、思い出す気配もなくてね。いっそ新しく入れた方が早いと思って頑張ってるんだけど」
「忘れた方は楽でいいよね」
意味深長な優生の言葉に淳史が顔色を変えた理由を、里桜は知らなかった。
「きみも知っているということ?」
「そっちとは関係ない話だよ」
「優生」
窘めるように淳史に名前を呼ばれると、優生は急にしおらしくなる。
「……ごめんなさい」
何も言わずに淳史が優生を抱きよせる理由も、何も知らない里桜には見当も付かなかった。
「どうやら、触れてはいけない話題のようだね」
それには答えず、淳史は優生の腰を抱いたままソファへと促した。もう見慣れた、優生を膝に乗せるスタイルは所有のアピールにもなっているのだと思う。ほんの数日前まで、義之もそうだったのに。
淳史の腕で少し気分が落ち着いたのか、優生は話を戻すことにしたようだった。
「義之さん、看護師さんの資格を持ってるでしょう?俺が体調を崩してた時、毎日のように健康管理に来てくれてたのに、何か思い出すことはないの?」
「悪いけど、きみとも初対面としか思えないよ?それに、看護師といってもペーパーだけど、どんなことをしてたのかな?」
「不眠だって言えば寝かしつけてくれて、食べられないって言えばお粥作ってくれて、保育士さんみたいな感じ?」
それは内緒で行われていたことではなかったが、今聞かされるのは辛かった。
「僕はそんなにマメだった?」
「そうだよ。義之さん、世話やくの好きでしょ?今度は里桜の面倒、ちゃんと見てくれるよね?」
「面倒を見るといっても、彼が家のことも殆どしてくれていたそうなのに、何か僕がすることがあるのかな?」
「一緒にご飯食べて、一緒に眠って、忘れてることは何でも聞いて?里桜はハウスキーパーじゃないんだから」
それまで自覚していなかったが、優生が義之に言ってくれたことは、里桜がそうして欲しいと思っていることばかりだった。




義之と淳史が出掛けている間、里桜と優生は淳史の家で留守番することになった。午後からは会社の人と約束があるという義之が夜まで帰らないことを心配して、里桜を一人にしないようにという配慮らしい。
午後まで淳史と優生の邪魔はしたくなかったが、今の里桜は放っておけないと思われているらしく、半ば強引に連れて来られてしまった。
それでも、厳しい保護者たちがいなくなると気が緩んで、今度は里桜が優生の肩を借りている。
「なあ、里桜って、何でそんなに義之さんに気を遣ってんの?ちょっとくらい怒ってもいいと思うけど」
自分のことのように腹を立ててくれる優生に、里桜が気後れしている理由を話しておくべきなのだろう。
「ゆいさんは俺と義くんが何でつき合うことになったのか、聞いたことない?」
「何でって……馴初めとかってこと?そういうのは聞いたことないけど」
「前に、俺があっくんみたいな体格の人に襲われたことがあるって話、したでしょ?そのとき、義くんも一緒にいたんだ」
「一緒って……助けられない状況だったってこと?」
真っ当な理由を探す優生に、義之は最初から助ける気はなかったのだと、言ってしまえず代替の言葉を返す。
「……うまく言えないけど、そうなったのは俺の不注意で、俺が悪いんだ。でも、義くん、責任を感じて俺とつき合ってくれることになって……本当は義くんが責任を取る必要なんてなかったんだけど」
「でも、その前から義之さんも里桜のことを好きだったんだろ?助けられなかったんなら、責任を感じるのは当然のような気がするけど。そうでなくても独占欲の強い人だし、もう二度とそんなことにならないよう里桜を傍に置いておこうって思ったんじゃないのかな?」
確かに、あの日義之はもう二度と触れさせないと言ってくれた。それからは独占欲の塊のようになって、他の誰かと接することにも極端に神経質になっていた。もしかしたら、実はそれは執着ではなく、里桜がまた危険なことに巻き込まれないようにという配慮だったのだろうか。



「義くんは俺を好きだったわけじゃなくて、好きになろうとしてくれてたんだよ。俺が義くんのこと好きなの知ってて、あんなトコ見ちゃったら、放っておけないよね」
つい自嘲気味になってしまう里桜に、優生は驚くほど厳しい顔をする。
「義之さんて、そんな甘い人かな?」
「え」
どこか冷たさを孕んでいるように聞こえるのは、優生が冷静でいるからだろうか。
「俺は里桜ほどは義之さんのこと知らないけど、もっと利己的っていうか、その気もないのにそこまでしてくれるような人じゃないと思うよ?場合によっては、お金で解決したりとかしちゃいそうだし」
思いもかけない優生の分析に、里桜はしばらく呆然としてしまった。
まだつき合い始めの頃、責任感でつき合ってくれているのだろうというようなことを言った里桜に、相手が里桜じゃなかったら治療費と慰謝料を払ってお終いにしていると返されたことを思い出す。里桜にはいつも優しくて、過剰に甘やかしてくれていたから、それが義之の本質なのだと思い込んでいたかもしれない。里桜を巻き込んだ手管を思えば、義之がただのいい人なわけがないと知っていたはずなのに。
「……ゆいさんの言う通りかも」
「わかったら、今確認しようのない相手まで疑うのはやめとこう?たぶん、睡眠が足りてないから余計に悪く考えちゃうんだよ。肩でも胸でも貸すし、少しでも寝て?」
「うん、ありがと」
意外な力強さで優生の胸元へと引き寄せられて、里桜はおとなしく目を閉じた。
少なくとも里桜に対しては、義之は別人になってしまったのだと割り切った方が上手くつき合っていけるのかもしれない。最初の関係に戻そうと思うから無理が生じてしまい、悪い方にばかり気持ちが向いてしまうのだろう。それよりは、今の義之と新しい関係を構築していくことを考えた方がよほど建設的だった。
そう思うと少し気分が軽くなったようで、あやすように髪を撫でる手の心地良さに任せて眠ることにした。




「……よっぽど寝不足だったんだろうね」
「こいつが寝てないとか食ってないとかいうのは見るに耐えないな」
「俺も」
頭上で交わされる会話に、だんだんと意識が覚醒してゆく。薄く開けた視界に、覗き込んでくる色素の薄い瞳が映る。
「ごめん、うるさかった?」
目を凝らさなくても少しも似ていないのに、一瞬、優生のことを義之かと思ってしまった。それがただの願望に過ぎないと、自分でもわかっているのに。
優生の膝を借りて横になっている里桜の、反対側の隣には淳史が座っていた。時間の感覚はあまりなかったが、昼寝にしては長く眠ってしまっていたのだろう。
「ごめんなさい、今何時?俺、寝過ぎちゃったんでしょ?」
体を起こそうとした里桜を、優生は膝へと戻すようにして引き止めた。
「そんなことないよ。気にしないでゆっくりしてて?」
「でも、腹へってるんじゃないのか?昼も食ってないんだろう?」
おとなしく横になっていようかと思ったところで、淳史に逆の心配をされる。
「えっと……」
起き抜けでも、今は食べられそうな感じがしていた。
「食べれそうならクレープ焼いてあるよ?無理ならアイスかヨーグルトでもどう?」
“食べない”心配は優生の方がよほど深刻だったはずなのに、今では里桜の方が心配されている状況なのが少し可笑しい。
「俺、クレープが食べたい」
「よかった、食欲が出て来たんだ?里桜は生クリームとカスタード、どっちが好き?両方?」
「うん、どっちも好き」
「すぐ持ってくるから待ってて。あ、飲み物はアイスティーでいいんだよな?」
「うん、ありがと」
用意は万端だったらしく、ほどなくクレープ生地やコランダーがテーブルに並べられてゆく。
生クリームにカスタード、チョコレートのシロップ。スライスした苺にバナナ、パインに剥いた甘夏、水気を切ったフルーツ缶。普段の里桜でも、とても食べ切れないほどの量だった。
「何からいく?やっぱ、いちご?」
「うん」
器用な指が、手際良く苺を並べて生クリームを絞り、食べやすそうなサイズに巻いて里桜に差し出す。
「いただきます」
何気なくかぶりついた里桜は、じっと見つめる二人に気付いて手を止めた。
「ごめんなさい、俺だけ食べて」
「俺が甘いものを食うわけがないだろうが。俺も優生も昼は疾うに済ませてるから気にするな」
「じゃ、俺のためにわざわざ?」
「そんな大した手間じゃないだろ?里桜が気にするんなら、俺もちょっとだけつき合おうか?」
そう言って、あまり甘いものは好まない優生も、自分のためにクレープを巻く。気遣われていることを、素直に嬉しいと思った。




「少しは元気が出たか?」
思う存分甘い物を補給して満足した里桜に、淳史の表情も和らいだようだった。
「うん。心配かけてごめんなさい。やっぱ甘いの摂らないと元気が出ないみたい」
何気ないその一言が、また淳史の差し入れを再開させてしまうことになるとか、甘いものなら食べると確信した優生がお菓子作りに励むことになるとは想像もせず。
ただ、今なら気後れしないで義之のことを尋ねられそうに思えた。
「あっくんは三年前の義くんも知ってるでしょう?その頃は今みたいに素っ気無い感じだったの?」
「素っ気無いというか、人好きのする印象は営業用みたいなところがあって、見た目ほど甘い男ではなかったな。家庭より仕事を優先させていたし、あからさまに執着を見せるようなこともなかったし、おまえとつき合うようになって義之は随分変わったんじゃないか?」
離婚する原因になった相手に復讐するために意図的に里桜を巻き込んだことからも、義之の執着心が半端でないということは身に沁みてわかっている。けれども、義之が変わったのは里桜の影響ではないはずだった。
「ううん。義くんが変わったんだとしたら、美咲さんに振られたからだよ。仕事に熱中し過ぎて、美咲さんが他の人を好きになったことにも気が付かなかったって、すごく後悔してたみたいだったから」
「そういや、義之はそれで仕事をセーブするようになったんだったな。でも、きっかけはどうでも、おまえを大事にしてたのは間違いないだろうが」
「それって、義くんが俺に合わせてくれてたってことだよね?」
「おまえと義之じゃ年も違うし、今度は逃がすつもりはなかっただろうし、そのくらいするのは当然なんじゃないか?」
里桜を一番優先すると言っていた義之は、本当にそういう風に思ってくれていたかもしれない。けれども、罪悪感の向きの違う今の義之が、里桜の気を引こうとか、合わせようとか思うわけがなかった。
「今の義くんはそんなこと、思ったこともないんだろうね」
「おまえが隠すからな」
遠回しな肯定は、里桜を責めているように聞こえた。



「もし、あっくんが義くんの立場になったら、やっぱり知りたいと思う?」
万が一にも、そんな報復をしようなどと考えるはずもない淳史に聞くこと自体が間違っているのかもしれないが。
「どうだろうな……覚えのない相手と一緒に住むことになったり、わけもわからず周りから責められたりするくらいなら、理由を知りたいと思うかもしれないな」
病院で目を覚ましてから、今の義之にとっては身に覚えのないことを美咲や淳史にいろいろ言われて酷く困惑したようだったのに、里桜と暮らすことは断らなかった。内心では面倒なことになったと思っていたのかもしれないが、一応は里桜と恋愛してみる気になってくれただけでも、感謝するべきなのだと思う。
とはいえ、このまま義之の記憶が戻らず、里桜を好きになることもなければ、終わらせなければならなくなる日が来るのだろうが。
「でも、知っちゃったら、俺とじゃ無理って思ったとき困るでしょう?」
一緒に生活するうちに里桜のことを恋愛の対象としては見れないと思っても、罪悪感で言い出せなくなってしまいかねない。
「そうだな。今の義之なら、終わらせたくなったら手切れ金とか慰謝料とか言い出しかねないな」
「やっぱり?」
黙って聞いていた優生が、納得したように言葉を挟む。
「その方が嫌だよな?」
同意を求められるまま、里桜は頷いた。
本当は、過去を消したいと思っていたのは里桜の方だったような気がする。他の男に犯されたことも、その負い目で一緒に居てくれていることも忘れて貰えるなら、全て引き換えにしてもいいと思ったことはなかっただろうか。
「義之が別れたいと言えば、そうするつもりなのか?」
自分からその話題を振ったようなものなのに、里桜はすぐには答えられなかった。



「……そこまで考えてないけど……っていうか、まだ義くんと殆ど話してないし、ほんとに俺とつき合ってくれるのかどうかもハッキリしないし」
里桜を愛せるようになると思う、とは言われたが、そのわりに親しくなろうと歩み寄ってくれる気配は感じられなかった。そのうえ、里桜が卒業するまでスキンシップは禁止と言われている。
「一回り以上も年下の高校生が相手だと聞けば、引くのが普通だろう?そうでなくても、おまえは童顔だからな。躊躇う気持ちもわからないでもないが」
「義くんて、元は俺みたいに子供っぽいのは“対象外”だったの?」
子供っぽい以前に、性別が男という時点で既に外れているのかもしれないが。
「おまえは子供っぽいだけじゃなく、実際に子供だろうが。義之はモラリストってわけじゃないが、未成年は相手にしないっていうポリシーだけは曲げたことがなかったからな」
「じゃ、俺が高校生だからダメなの?」
「未成年者との恋愛は犯罪になりかねないということは知ってるか?ヘタすれば、こっちは社会的に抹殺されるんだからな。相応の覚悟がないとつき合えないだろうが」
里桜と知り合った頃の義之からは、そういう感じは全く受けなかったが、それほどの覚悟で里桜に接触してきたということだったのだろうか。
「だから、あっくんも俺のこと、子供過ぎるって言ってたの?」
「そうだな。モラルがどうという以前に、保身のために避けた方がいいと思うからな。それに、俺は義之と違って幼いのは好みじゃないんだ」
出逢って以来さんざん言われてきた言葉の、矛盾に本当は今も納得はしていない。もちろん、優生が特別だというのはわかっているが、11歳も年下の未成年という事実は変えようのないことだった。
里桜の疑問に加担するように、優生が参戦する。
「淳史さんと出逢ったとき、俺は17歳だったよね。ずっと色気がないとか、発育不良だとか言われてたから、まさかこんな関係になるとは思いもしなかったよ?」
「見た目はともかく、俺と知り合った時には卒業間際だっただろうが。同じ未成年でも、在学中と卒業後じゃ全然違うからな」
それが聞き苦しい言い逃れだと、淳史は思っていないらしい。この話題になると、必ず淳史の分が悪くなってしまう。唯一、淳史の肩を持つはずの義之がいないせいで。




「ほんとに大丈夫だから」
義之が戻るまで、と引き止める淳史と優生をどうにか説得して、見送られながら部屋を後にした。こんなにも甘やかされるのは、よっぽど里桜が頼りなく見えているからなのだろう。
義之から夕食も済ませて帰るという連絡が入ったおかげで、里桜は三食とも淳史と優生の世話になっていた。二人の時間を邪魔している申し訳なさと、心配して貰う心地良さで揺れながら、何とか自制心が勝って誰もいない家に戻ってきた。
玄関と暗い部屋に電気を点けてエアコンを入れてから、バスルームに向かう。また義之が調べ物でもしながら夜更かしをするのなら、邪魔にならないよう早めに部屋へ引っ込んだ方がいいのだろうし、今のうちに入浴しておいた方がお互いに気を遣わずに済むと思った。
「あれ?」
ふと、洗面台の棚で光る、プラチナの指輪に目が止まる。見覚えのあるそれは義之の薬指に嵌っていたはずのもので、里桜の記憶にある限り、外したままにされたことは一度もなかった。
思わず手に取って、内側に彫られたネームを確かめる。
そんなことをしなくても、ほぼ2年間ずっと義之の指に嵌っていた間に無数についたごく細かな傷まで、里桜が見慣れたものに間違いないとわかっていたのだったが。
「……忘れていったのかな」
そう呟きながらも、わざわざ外す理由は思い当たらず、結婚していた期間も指輪はしていたはずの義之には、経験のない里桜のように嵌め慣れないとか、職場にしていけないといった事情はないはずだった。
無造作に置かれた指輪は、そのまま里桜の扱いのような気がする。捨ててしまうことは出来なくても、身に付けておくには邪魔になるもの。おざなりにしておけば、そのうちどこかへ行ってしまうかもしれない小さな存在。失くしたからといって惜しむほどでもない、寧ろ手を下さずに消えてくれればと思っているのかもしれない。
「……やば」
考え込むほどに、らしくないほど悲観的になってしまうと気付いて、里桜はそれを振り払うように両手で頬を叩いた。



「そんな薄着では風邪を引くよ?」
玄関まで出迎えに走った里桜に、義之は少し困ったような笑みを浮かべた。
「……あ、ごめんなさい」
タンクトップに短パン姿は夏場の里桜のパジャマ代わりで、緩くクーラーを効かせた部屋では寒さを感じることはない。けれども、義之の目にだらしなく映るのなら、気を付けなくてはいけないと思った。
急いで寝室の奥のウォークインクローゼットへ行って、上着を羽織り、クォーターパンツに穿きかえる。ふと気付いて、ついでに着替えも数枚抜いておいた。
里桜がリビングに戻ったときには義之の姿はなく、バスルームに行っているようだった。入浴を優先するのは、夏場の汗や体に移った煙草の匂いなどをひどく気にする義之らしい。
待っている間に飲み物でも用意しておこうと思ったが、今の義之の好みがわからず、無難に氷とミネラルウォーターを出しておくことにした。
少し長湯だと思っていたら、義之はきちんと着替えて髪も乾かしてからリビングに戻ってきた。そのままコンビニやドラッグストアに行っても全く問題なさそうな、スタンドカラーのTシャツにハーフパンツ姿は、まだ親しいとはいえない里桜に気を遣っているのかもしれない。
「あの、お水でいいの?もしかして、お酒の方が良かった?」
迷いながら声をかける里桜に、義之は少し驚いたような顔を見せる。
「ありがとう、僕は家で一人では飲まないよ。まさか、きみが酒豪ってこともないんだろう?」
「あ、俺は全然……すぐ酔っちゃうし、まだお酒はダメって義くんが」
本人を前にして“義くんが”もないが、何気に言ってしまっていた。
「そうだね。お酒も恋愛も、大人になってからにしようか」
どさくさに紛れて釘を刺されると、良い子の返事はできなかった。その話題を続けるのが嫌で、少し強引に話を戻す。
「あの、ついでに食事の好みとか確認しておきたいんだけど」
「知ってるんじゃないの?」
「でも、俺の知ってる義くんとは違うみたいだから……」
もしかしたら、前の義之も無理をしてつき合ってくれていたのかもしれないが。疑い出すと、キリがなく不安になってしまう。
「どうしても食べられないようなものはないはずだし、きみに任せる以上、文句は言わないつもりだよ」
「じゃ、食べたいものがある時は言ってくれる?」
「そうするよ。だから、そんなに気を遣わないで、前と同じようにしてくれればいいよ?」
そう言いながら、外との付き合いを重視するようになった義之が、家で夕食を摂ることは無くなってしまうのだったが。



週が明けてからの義之は、記憶がない部分を補うためにひたすら情報収集と勉強に明け暮れているようだった。
“遅くなるから先に寝ていて構わないよ”というのがこの頃の義之の“いってきます”代わりの挨拶で、無事に帰ってきたのを確認してから眠るというのが里桜の習慣になりつつある。
ほぼ毎日、義之は会社の誰かと食事を済ませて遅く戻ると、すぐに入浴を済ませてパソコンに向かう。難しい顔をして分厚いファイルをめくったり、舌を噛みそうなカタカナやアルファベットの並んだ書類と見比べては何やら書きものをしたり、里桜が声をかけるのを躊躇ってしまうような真剣な眼差しで作業に没頭していた。
失くした記憶は、少しずつ思い出すかもしれないし、何年も先に突然思い出すことがあるかもしれないし、思い出さないまま一生を終える場合もあるかもしれないという、詰まるところなってみなければわからないという酷くあやふやなものらしかったが、義之は特に思い出したいとも思っていないようだった。あてにならない可能性を待つぐらいなら、自分でどうにでもするつもりなのだと見ていてわかる。里桜の知っている義之も、何の根回しもせずに朗報を待っているようなタイプではなかった。
まるで怖いものなどもう何もないかのような義之には、なす術もなく不安がっている里桜の気持ちなど、きっと想像もできないのだろう。いつか里桜のことを思い出すのか、一生忘れたままなのか、それだけでも知りたいのに。
里桜の焦りを他所に、義之はどんなに忙しそうにしていても、“ただいま”や“おやすみ”の挨拶を交わすことと、家事全般を引き受けている里桜への労いの言葉をおざなりにはしなかった。実際には、里桜がいれば家事に時間を取られずにすむという以外に義之にメリットがあるとは思えなかったが、義之が感謝の言葉をくれるから、つい役に立っているような気になってしまう。家事が不得手なわけでなく、面倒くさがりというわけでもない義之には、里桜がいなくても特に困ることはないとわかっていても。
一緒に過ごす時間が殆どない生活の中で、それは里桜の存在意義のようで、知らず知らずのうちに家事に気合が入るようになっていった。




「肩凝ってるの?」
無意識にコキコキと首を鳴らした里桜を、優生が心配げに覗き込む。
ほぼ毎日、学校帰りに優生の所へ入り浸っているせいか、今では自宅にいるより居心地が良くなっていた。いつものように、広いソファで優生と並んでいると、何かを勘違いしてしまいそうになる。
「首回すと痛いし、凝ってるのかなあ」
「ちょっと解そうか?横になって」
「ううん、そんな大したことないから……」
遠慮する里桜を、優生は少し強引にソファへとうつ伏せに押さえ込んだ。片膝をついた優生に、肩へと両手をかけられてマッサージされると、声を上げてしまいそうなくらい気持ちがいい。
「ゆいさん、ヤバいよー。めっちゃ気持ち良すぎて寝ちゃいそう」
「いいよ、少し寝れば?どうせ義之さん、遅いんだろ?」
「そうだけど……」
義之のことを思い出しただけで、条件反射で背筋が伸びる気がする。
「気、遣い過ぎだよ。里桜が肩凝るなんて珍しいんじゃないの?」
優生の言う通り、日頃ノーテンキな里桜の肩が凝るなど滅多にないことだった。
「なんか、義くんといるときちんとしてなきゃっていう気になっちゃって」
「里桜って淳史さんには全然なのに、何で義之さんにだけそんなに気を遣うんだよ?それに、あんまり家にいないんだろ?もっとラクにしてれば?」
「そうなんだけど……気を抜くと何かやらかしちゃいそうで落ち着かないっていうか、義くんが居なくても同じ家に住んでるってだけで気張っちゃうっていうか……」
「家に居るだけで緊張するってこと?そんなんじゃ、夏休みに入ったらどうするんだよ?」
「そうなんだよね……里帰りしようかとも思ってるんだけど」
未だ義之の記憶は戻る気配が全くなく、いつまでも里桜の両親に黙ったままではいられないとわかっている。まずは里桜から事故の話をしたあとで義之を交えて話し合うことになるだろうが、元から諸手を挙げて賛成していたというわけではない両親が現状を知れば、連れ戻されるのは必至だった。何より、今の義之が両親を説得しようとするとは思えなかった。



「眠くないんなら、シフォンケーキ食べる?」
すぐに考え込んでしまいそうになる里桜の気を、優生が甘いもので釣ろうとする。それに乗るために体を起こした。
「今日も、ゆいさんの手作り?」
「うん。って言っても、混ぜて焼いただけなんだけど」
「ううん、いつもありがとう。ゆいさんのおかげで、夏バテしないですみそう」
「じゃ、すぐ用意してくるから」
里桜が食べないことを心配して、優生は毎日のようにお菓子を作ってくれるようになった。里桜のためだけに何かしてくれるというのが嬉しくて、ますます優生に懐いてしまったような気がする。
そうでなくても、里桜は義之の朝食を用意する以外は、殆ど優生の世話になっているようなものだった。こんなことになる以前からしょっちゅう入り浸っているせいか淳史に迷惑がられることもなく、今の里桜はどちらに住んでいるのかわからないような状態だ。
ほどなく、アイスティーとシフォンケーキの乗ったトレーを持った優生が戻ってきた。カットされたシフォンケーキにはホイップクリームが添えられていて、チョコレートシロップがかけられている。
「そういえば、里桜って生クリームは苦手だって聞いてたけど、この間は普通に食べてたよな?」
「うん。生クリームべったりっていうのが苦手なだけで、生クリーム自体は嫌いじゃないから。俺、かなりの甘党だと思うけど、むつこいのはダメなんだ」
「ああ、だから太りにくいんだ?そういや、量は凄いけど、油っこいのはあんまり食べてないよな」
「太りにくくはないよ、それなりに気をつけてるし。こうやって甘いもの責めされると、すぐ丸くなっちゃうんじゃないかなあ」
義之と出逢った頃がそうだったように、こんな生活が続けばあっという間に横に広がってしまいそうだ。
「でも、義之さんもあんまり細くない方がいいんだろ?俺も里桜とくっついてると柔らかくて気持ちいいし」
「ほんと?」
「うん。だからいっぱい食べて?」
その言葉に安心して、里桜は甘いものの誘惑に従うことにした。



「……ゆいさん?」
当たった、というのではなく、明らかな意図をもって腰の辺りへ触れられたようで、確かめようと隣に座る優生を見上げる。妙に真面目な表情で距離を詰められても、満腹感と満足感で緩んだ気は、すぐには反応できなかった。
「義之さん、相手してくれないんだろ?」
「や……ゆいさん、だめ」
抵抗を封じるように抱きしめられても、いつもの悪い冗談のような気がしてしまう。こんな時だけ格闘系を主張されても、いつもの弱々しい痩せた猫のような印象に惑わされて、強く抗うことはできなかった。体の線を辿る手は服の上からでも、薄着の里桜にとってはひどく生々しく感じてしまうのに。
いたずら、というには行き過ぎな手が、ハーフパンツの裾から覗く腿を撫でる。
「や……ん」
うなじにかかる吐息に脱力してゆく体がゆっくりソファへと倒されてゆく。優生の真意がわからないまま身を任せてしまうのは不安で、あまり力の入らない指で肩の辺りをそっと掴んだ。
「待って、俺、欲求不満なわけじゃないから……」
「そうなの?もう一週間も経つのに?」
心底意外だと言いたげな表情に、どう返したものか迷ってしまう。
優生は以前からこういう不謹慎なところがあって、どこまで本気なのかわからないが、身の危険を感じたことは一度や二度ではなかった。
「前にも言ったと思うけど、俺、義くんじゃないとイヤだから……そんな心配はしないで?」
「里桜はマジメ過ぎてつまんないなあ」
本気でがっかりした様子に、複雑な気持ちになってしまう。
「ごめんね。でも、ゆいさんだって俺とベタベタしてたらあっくんに怒られるでしょ?」
「……それは置いといて、もう少しベタベタしてようか?」
「でも」
「義之さん、今日は淳史さんと一緒に帰ってくるらしいよ?」
「え……」
あまり一緒に過ごすことのなかった義之と、今夜は長く過ごすことになるのかもしれないと思うと、急に緊張感が甦ってくる。淳史や優生も一緒なら間が持たないということもないのだろうが、もう寛ぐことはできそうになかった。




優生の思惑通り、出迎えにもいかずにソファで抱き合ったままの二人に目を止めた途端、義之は眉を顰めた。
「……そういう所はあまり見たくないんだけど?」
非難するような義之の口調に、優生は当てつけるように密着度を増してきた。
優生は義之を挑発するために度を越した態度を取っているらしく、片割れとしてはどうにも居心地が悪い。義之の少し後ろに立つ淳史が何も言わなくても、優生と里桜が必要以上に接触することを嫌うとわかっているのに。
「義之さんに抱きついているわけじゃないし、関係ないでしょ」
「僕はその子の保護者代わりだよ?害になるようなことはしてもらいたくないな」
尤もらしい言い分にも、優生は耳を貸す気はなさそうだった。
「ヤりたい盛りなの、わからないの?」
「こんなことをしなくても、きみには淳史がいるだろう?」
「俺じゃなくて里桜だよ。義之さんが放っとくから、それなら俺が、って気になるんでしょ」
際どい会話に口を挟むこともできず、ハラハラするだけの里桜を庇うように、淳史が割って入る。
「優生、いい加減にしないか」
「わかってるから、ちょっと待って。義之さんはそんなモラリストじゃないってことを思い出して欲しいだけなんだ」
「そう急かすな。一番焦ってるのは本人に決まってるだろうが」
「とてもそうは見えないけど。このままじゃ、里桜は生殺しだよ?」
「里桜をおまえと一緒にするな」
淳史の言葉にうろたえたのは里桜だけで、当の優生は自覚があるのか、特に気にした風ではない。義之に対しては強気な優生も、淳史に対しては素直で、腕を引かれるままに立ち上がり、身を預けた。
「悪い、ちょっと外す」
寝室へと場所を移す二人を見送りながら、里桜のせいで喧嘩にならないことを祈った。
「仲が良すぎるのも考えものだよ?」
義之の声は里桜を責めているようで、不機嫌な表情を見る勇気が持てずに、俯いたまま言葉を返す。
「……ゆいさんは、少しスキンシップが大げさなだけだから……俺とどうかなるってことは絶対ないし、あの二人がおかしくなることもないから」
幾度かの危機を乗り越えて元の鞘に納まった二人は、もう少々のことで壊れるような関係ではなくなっているはずだった。
「そうだとしても、見ていて気持ちいいものじゃないよ?彼が羽目を外すのは、きみの格好にも問題があるんじゃないのかな?」
里桜の肌の露出が多いと気に障るようだと気付いて以来、義之の前では服装に気を付けていたが、こんなに早く帰ってくるとは知らず、今日はタンクトップにハーフパンツ姿で来ていた。これまでに、淳史から里桜の服にクレームを付けられたことはなく、だから里桜も特に気にしたことはなかった。
「……ごめんなさい、俺、着替えてくるね」
本心では、義之がそこまで怒る方が不思議だと思いながら、これ以上気まずくならないうちにその場を離れることにした。




義之のいる空間から抜け出すと、ホッとしている自分に気付く。傍にいたいと思いながら、それを妨げているのは実は里桜自身なのかもしれなかった。
着替えるついでに風呂に入っておこうと思い、今では里桜の部屋と化している和室に寄る。義之と別々に眠るようになってから一週間も経てば、衣服を取りに寝室に行く必要もなくなってしまった。
洗面所に入る度、見ないようにしようと思っているのに、洗面台の棚に無造作に置かれたままの指輪に目がいってしまう。義之が指に嵌めようとしないのは、まだ里桜と向き合う気がないという意思表示なのだとわかっていた。
或いは、それが義之の指に納まる日はもう来ないのかもしれないが。
まだ結論を出すのは早いのに、かつての義之に甘やかされ過ぎていた里桜はギャップを受け止め切れずにいる。それとも、周りから呆れられるほど猫可愛がりされていたのも、異常なほどに執着されていたのも、実は里桜の妄想だったのだろうか。片思いのあまり、都合の良い夢を見ているうちにそれが現実だと錯覚してしまい、夢から覚めて、途方に暮れているのが本当なのかもしれない。
考え込み過ぎて、シャワーを済ませる頃には、里桜はもう一度義之のいる所へ戻る気を失くしていた。我ながら意気地がないと思いつつ、また義之の気に入らないことをしてしまうかもしれないなら、行かない方がマシだと思い直す。
今日はもう義之に会うことはないだろうが、念のため露出度の低いTシャツに7分丈のパジャマズボンを身に纏って、寝室代わりの和室に場所を移した。
畳んだままのふとんに凭れかかり、眠くなったからこのまま寝ることにしたと優生にメールを送る。里桜が義之といると緊張することを知っている優生なら、今日のように不機嫌な義之と過ごすのは耐えられないとわかってくれるだろう。
ほどなく返ってきた優生からのメールには詮索するような言葉はなく、明日も優生の所へ来るように誘う言葉と、“おやすみ”にキスマークが添えられていた。里桜も、“おやすみなさい”にハートマークを付けて返した。




翌日も、里桜はいつものように夕方から優生と過ごし、一緒に夕飯の用意をしたり、誘われるままに肩を借りて寛いだりしながら過ごした。ゆったりと淳史の帰宅を待つ平和さは、里桜も工藤家の一員になってしまったのかと勘違いしてしまいそうなほど。
それでも、里桜が淳史を出迎えに行く立場にないことくらいは弁えている。優生と連れ立ってリビングへ入ってくる淳史に、“おかえりなさい”と声を掛けるに留めた。
「おまえが居ることに違和感を感じなくなってきたな」
慣れとは凄いもので、この頃の淳史は、優生と里桜がベタベタとくっついていても目くじらを立てて怒ることは無くなっている。淳史と優生の間に信頼関係が築かれたのか、単に里桜では役者不足だと思われているのかはわからないが、優生と仲良くし過ぎることに文句はないようだった。
こうやって淳史と二人して里桜を甘やかすから、ますます居つくことになってしまうのに。
「先に義之のことを話してもいいか?」
「うん?」
里桜の隣へと腰掛ける淳史が、そんな風に前置きをするのは、あまり喜ばしくない話だということなのだろう。
ネクタイを緩める手元に視線を止めて、淳史から何を聞かされても取り乱さないようにしようと身構えた。
「昨夜おまえが帰ったあとで義之と話したんだが、おまえとどういう風につき合っていくべきなのか、まだ迷っているようだな」
「うん、そんな感じだよね」
そのくらいは里桜にもわかっているつもりで、軽く頷いた。未だに義之が里桜とまともに過ごしたことがないのは、意図的に二人になることを回避しているからなのだろうと思っている。
「おまえが卒業するまで、まだ一年近くあるだろう?それまで待たせるということは、その間、義之に禁欲しろという意味だっていうのはわかってるか?」
「え……だって、待つって決めたのは義くんだよ?ケジメだから俺とはそういう類のことは一切ダメって言ってハグもさせないのに……」
そのうえ、一緒に寝たところで間違いも起きないとまで言われていたのに。
里桜の覚悟は全くの見当違いだったようだが、驚きと衝撃は想像以上に大きかった。



「おまえ、裸同然でウロウロしたり、義之のベッドに忍び込んだりしたんだろう?だから、義之はおまえに誘われてるんじゃないかと警戒してるようだな」
「裸同然って……俺、風呂上りでも上も下も着てるし、寝室も義くんに譲ってるから、着替え取りに行くのにも気を遣ってるのに……」
「義之さん、自意識過剰なんじゃないの?」
心底呆れた、と言わんばかりに優生が辛辣な言葉を挟む。
「仮にセマられたとしても、嫌なら応じなきゃいいだけでしょ。里桜みたいな非力で可愛いの相手に、何を怖れることがあるって言うんだよ?」
容赦のないきつい口調は、日頃の優生の優しそうな面差しからは想像もつかないほどだった。
「義之は相手に困ったこともなければ、ストイックに生きようなんて思ったこともないだろうからな。そうでなくても、あの家系は精力が有り余ってるってのに、恋人だという相手は子供で、浮気もできないとなれば、自分の忍耐力を疑うのも仕方がないだろう?」
「口では尤もらしいことを言ってるくせに、里桜に欲情しそうってこと?それなら、さっさと襲っちゃえばいいのに。里桜が幼すぎて出来ないってこともないんでしょ?」
「出来ないと思ってないから苛ついてるんだろう?義之は守備範囲が広いし、里桜の容姿が好みから外れてるとは思えないしな」
「じゃ、問題ないんじゃないの?」
優生は、何を悩むことがあるのかと不思議そうだ。里桜も、まさか義之にそんな風に思われているとは考えてもみなかっただけに戸惑ってしまった。
「……だから、里桜が義之に誤解させているから手が出せないんだろうが。どうあっても、里桜に対してはプラトニックでいなければいけないと思い込んでいるようだからな。それでも、一緒に暮らしていれば、また同じことをくり返してしまうんじゃないかと危惧してるんだ」
それなら、そんなに頑なにならなくても歩み寄ってくれればいいのにと思う。“待つ”の意味を誤解させたのは里桜かもしれないが、記憶を失くした義之までそれに倣う必要はないはずだった。
「そんな常識的でヘタレな義之さん、ニセモノだよ?そんな悠長なことを言ってる間に、里桜を誰かに取られるかもって思わないのかな?」
優生の言葉は、ずっとモヤモヤとしていた里桜の胸の内を言い当てていた。
「……ねえ、あっくん?俺は義くんのそっくりさんと浮気しようとしてるんじゃないよね?」
「おまえも意外と疑り深いんだな。俺には、中も外も義之にしか見えないが」
それは淳史が何年も前から義之を知っているからで、里桜の二年分の認識とは違っているのだと思う。でも、それを上手く説明することはできなくて、反論するのはやめておいた。





植え込みのブロック塀に浅く腰掛けて、ぼんやりと人の流れを追う。
普段の里桜は夜出歩くということは滅多にないが、今日は相手の都合で20時半に駅の傍で待ち合わせていた。着いて間もなく、仕事が終わらず少し遅れるというメールを受け取ったが、他に行きたい所もない里桜はその場に居座ったままで時間を潰すことにした。半時間ほどのためにウロつくより、明るく人通りの多い所でいる方が安全に思えたのと、単に面倒くさかったからだ。
手持ち無沙汰に行き交う人を眺める里桜が、傍目には物欲しげに見えるのか、いつにないほど何度も声を掛けられた。中には義之よりずっと年配の相手もいて、もちろん、それは里桜が女の子に見えているからなのだろうが、世間には里桜のような幼さを好む男もいるのだと思うと複雑な気持ちになってしまう。
いい加減、ナンパを断るのにも疲れてきた頃、待ち人が現れた。今の義之が一番必要としているらしい、元妻の美咲。
「ごめんなさい、遅くなってしまって。どこかに入ってもらっていればよかったわね」
里桜がナンパ相手を刺激しないよう手こずっている所を見ていたらしく、美咲は申し訳なさそうな顔をしていた。
「ううん。連絡もらってたんだし、気にしないで」
仕事の後に直行して来ているからなのだろうが、美咲はいつもの素顔に近い雰囲気ではなく、華やかな顔立ちを際立たせる少し濃い目のメイクだった。重ねたキャミソールから覗く胸元は大きく開いていて、フレアのスカートの裾は短く、長い脚を惜しげもなく晒している。美咲のように長身で美人だったら、せめて童顔でなくもう少し大人びた外見をしていたら、里桜も義之に認められたのだろうか。
「遅くなっちゃったけど、お腹すいてない?」
「うん、俺は食べてきたから。美咲さんは?」
「私も差し入れをいただいたから食事はいいわ。何か冷たいものでも食べましょうか?」
「うん」
仕事帰りで疲れている美咲のためにも、まずは落ち着いて話せる所へ移動することにした。



シャリシャリと青い山を崩しながら、里桜はかき氷に集中しているような振りをしてしまう。
いろいろと聞きたいことがあったから美咲と会うことになったのに、いざ面と向かうと、なかなか切り出せないでいた。
里桜が言いあぐねているのを察してか、美咲は食べることよりも話すことを優先させようとする。
「義之さん、まだ何も思い出してないんだそうね?」
「うん……美咲さん、何か聞いてる?」
本当は、そうと知っていたから美咲に連絡を取って、会いたいと言ったのだったが。
知識を入れることに余念のない義之は、必要に応じて夜分でも電話をしていることがよくあり、特に潜めているわけではない声は、和室まで洩れ聞こえてくることもあった。決して煩いというのではなかったが、静かな時間帯だけに話の内容までわかってしまうことも珍しくない。
昨夜も、里桜がふとんに入ってほどなく義之からかけたらしい電話の相手が、美咲だということは耳に入ってくる言葉でわかった。
“切実に、今きみに傍にいてほしいと思うよ”
心なしか弱気な声が、通話を終える間際に告げた一言は今も里桜の耳に残っている。
「電話で話した時には、覚えることが多過ぎて頭がおかしくなりそうだって言ってたわね。受験の時でもこんなに勉強しなかったそうよ。そんなんじゃ里桜くんと仲良くなる暇もないでしょって言ったら、ずっとすれ違い生活なんですって?」
「うん。なんか、なるべく俺と一緒にならないようにしてるみたいな感じ?」
現状では、義之が出勤するまでの朝の一時間余りが、一緒に過ごす殆ど全てのようになっていた。仕事に行くと夜遅くまで戻らず、挨拶を交わすと直に里桜の就寝時間になってしまう。尤も、それは里桜が睡魔に負けて和室に引き上げているというのではなく、義之が早く一人になりたがっているのではないかと気を回しているからなのだったが。
「たぶん、里桜くんと出逢ってからの義之さんは、“愛がすべて”みたいな甘い人で、いつも優しかったんだと思うけど……元からそうだったわけじゃないのよ?前にも話したけど、私が慎哉くんに気持ちを移すことになったのは、義之さんが仕事に熱中し過ぎていたからよ。家に帰るのは深夜になってからで、土日も学会とか接待とか言って殆どいないし、仕事のこと以外は眼中になかったもの」
「……じゃ、今の義くんの方が本当だってこと?」
「本当っていうんじゃなくて……大切にしないと失くしてしまうっていうことをまだ知らないのよ。離婚した理由だって全部忘れてるんだから。一応言っておくけど、私は里桜くんみたいにベタベタに甘やかされたことは一度もなかったわよ?」
美咲からすれば、里桜がいじけている理由など些細なことだと言いたげだ。もちろん、それは里桜を元気付けようと、わざと大げさに言っているのだとわかっている。
「ともかく、今の義之さんは三年分の知識とか人間関係とかを頭に入れようと躍起になってて、その間にも新しく覚えなきゃならないことはどんどん増えていくし、まだ里桜くんに向き合う余裕がないんだと思うわ」
「俺がいると負担になってるんだよね?」
「そんなことないわよ。でも、一緒に住んでいることで里桜くんの方が辛くなってるってことはない?」
「っていうか、このまま記憶が戻らないんなら、一緒にいても仕方ないのかなって思ったりするけど……」
「もし記憶が戻らなくても、別人になったわけじゃないんだから、もう一度里桜くんを好きになる可能性は充分にあると思うけど……確証はないものね」
美咲の心配は里桜のものとは少し違うような気がしたが、何となく頷いてしまっていた。漠然とした違和感はまだ自分でも把握しきれず、言葉にするのは難しかった。





「本当に何も覚えていないの?」
昼寝中の来望を抱いて訪れた里桜の母の、おそらく病院で目覚めて以来何度尋ねられたか知れないだろう問いに、義之は慇懃に頭を下げた。
「申し訳ありません。本当に、どうして一回り以上も年下の高校生を誑かすようなことをしてしまったのか、自分でもわからず当惑しています」
何も思い出していない以上、今の義之にとって里桜とのことは身に覚えのない、受け入れ難い事態なのだろうが、真摯に向き合う気概だけは窺える。
「そんなに卑屈になってもらわなくても、誑かされたなんて思ってなかったんだけど……ただ、手放しで賛成していたとも言えない親の立場としては、困った事態になったことだけは確かね」
先に事情を話してあったとはいえ、母の落ち着き払った態度は、里桜をひどく不安にさせた。里桜が、父親にはまだ黙っていて欲しいと言っておいた理由を、母ならきっとわかってくれているはずだと思いながら、連れ戻されてしまいそうな予感は消えない。
「今後のお考えがあるようでしたら、伺っておきたいんですが」
いかめしい雰囲気は、寧ろ義之に三行半をつきつけられる方が先のような気もする。
「その前に確認しておきたいんだけど、記憶が戻るかどうかというのはわからないものなの?」
「通常、一過性の健忘なら一両日中には思い出すのが一般的だと考えれば、もう何日も経っているのに何も思い出さない僕のような場合は、戻らない可能性の方が高いだろうと思いますが」
まるで他人事のように淡々と語るのは、義之が三年分の過去に未練がないからのようだ。
「今は里桜のことはどう思っているの?」
「特別な感情はまだ……仕事に復帰するのに手一杯で、一緒にいる時間も殆ど取れていないような状態ですから」
「年齢以上に子供で、しかも男の里桜を持て余してる?」
「戸惑っている、というのが本音ですね。一回り以上も離れていれば、どう接したらいいのかも悩みますし」
それで、義之は里桜と一緒に過ごす時間をあまり取ろうとしないのだろうか。
「それなら、里桜とのことは白紙に戻した方がいいのかもしれないわね。すぐにでも連れて帰りましょうか?」
「え……いえ、それは……」
母の申し出に安堵するかと思いきや、歯切れが悪いながらも、義之は里桜を実家に戻すことには同意しなかった。



「っし、ん」
目を覚ました来望が、まだはっきりとは言葉にならない声を発しながら、向かい側のソファにいる義之へと腕を伸ばす。
知っている者にしか聞き取れない、“義くん”という呼びかけを理解できない義之の困惑顔は、あんなにも来望を可愛がっていたことまで嘘だったかのような気分にさせる。
きょとん、と大きな目を丸くする来望に、里桜は考えるより先に声をかけていた。
「くーちゃん、その人は義くんじゃないんだ」
咄嗟の里桜の一言は、義之も母も驚かせてしまったようだったが、言い直そうとは思わなかった。
「いー」
今度は里桜の方に、体ごと伸ばして抱っこをせがんでくる来望を母から受け取る。
「赤ちゃんと同じ顔というのも、すごいね」
里桜と来望の顔を見比べての義之の感想は、褒め言葉のようには聞こえなかった。よく、“里桜をミニチュアにしたような”という形容をされるくらい顔立ちの似た兄弟だという自覚はあったが、里桜を幼いと思っている義之からすれば、1歳児と比べても大差ないように見えるらしい。以前は、まるで里桜が産んだのかと錯覚してしまいそうになると、半ば本気で言っていたのに。
「来たばかりだけど、来望の機嫌が悪くならないうちに帰るわね。これからのことは、夏休みの間にゆっくり考えましょう」
義之が小さな子と接するのは苦手そうだと察したらしい母からすれば、長居は出来ないと判断したようだった。引き止める間もなく里桜の腕から来望を攫ってしまう。
「今度はうちに来てね。その方が来望も落ち着くでしょうし」
「うん。近いうちに行くから」
含みのある母の言葉に同感だと思いながら、慌しく帰ってゆく二人を玄関まで送った。
リビングに戻り、さっきまでと同じように義之と向かい合わせに座ってみても、緊張感で腰が浮いてしまいそうになる。
「あの、時間取ってもらったのにごめんなさい」
日曜でも朝から出掛けることの多い義之に予定を空けてもらっておいたのに、あまりにも早く済んでしまい、良かったような申し訳ないような複雑な気持ちだった。
「僕の方こそ、こちらから挨拶に行くべき所をそのままにしていて悪かったね」
「ううん。そういうのは、とっくに義くんが済ましてくれてるから……入院してたことも、黙ってたのは俺の勝手だし、気にしないで」
今の義之は知る由もないが、初めて両親に挨拶に訪れた時は、まるで結婚の申し込みのように厳かだった。そんな大層なこととはつゆ知らず、軽い気持ちで迎えた父親は、義之の舌巧に太刀打ちできず、押し切られたように交際を認めることになったのだった。



「考えてみれば、きみのお母さんの方が僕と年齢が近いんだね。美人だし、あの人と恋愛していたと言われたら疑わなかったかもしれないな」
記憶を失くしていても、里桜の母と気が合いそうだというのはわかるらしい。深読みすれば、里桜は対象外だと念を押されたような気になる。
「……もう、お終いにする?」
その言葉は、考えるより先に里桜の唇から零れていた。
「僕を諦めるの?」
ひどく驚いた顔をする義之を見上げる。自分でも不思議なくらい、気持ちは乱れていなかった。
結論を出すのはまだ早いのかもしれないが、里桜の知る義之を取り戻せないのなら、続ける意味がないと気付いてしまった。もし、里桜とつき合っていた頃の義之が作為的に作られた人格だったのだとしたら、そのきっかけまで失くした以上、何年経っても里桜の好きだった義之になることはないのだろう。
「もう俺のことは気にしないで」
やがて、今の義之なりに愛してくれる日が来たとしても、里桜の知らない義之に愛されることは、望んでいることとは少し違うと思った。
「ずっと放ったらかしにしていたことは悪かったと思うけど、そんなに結論を急がないでくれないかな?もう少し時間をかけてからでも遅くないだろう?」
意外なほど強く引き止められているというのに、もう気持ちが揺らぐことはなかった。
「……本当は、俺みたいなの、タイプじゃないんでしょう?」
「そんなことはないよ。でも、きみはまだ子供だからね。前にも言ったけど、もし恋愛関係になったとしても、きみが大人になるまで待つつもりだよ?」
だから、里桜と向き合うのを少しでも先に延ばそうとしていたのだろうか。
「俺は子供っぽいかもしれないけど、自分のしたことを人に責任転嫁するほどは子供じゃないから……大人だからっていうだけで、そんなに責任感じないで?」
仕掛けられた罠に自ら踏み込んでいったのは里桜の狡さで、誰かを責めるつもりはない。責任というのなら里桜が自分の行動に対して感じるべきことで、義之に丸投げすることではないのだと思う。



「もう待つのは嫌になった?」
「そうじゃなくて……俺がここに居る意味がないと思うし、家に帰った方がお互い良いでしょう?」
「意味がないって、本当にそう思ってるの?」
義之が忘れてしまったのなら、意味も理由も無くなってしまう。今の義之が拘っている“責任”は、恋愛が破綻した時点で消滅する程度のものでしかないのに。
気を抜いたら思いが溢れ出してしまいそうで、口を噤んだ。全てを話す気がないのに、わかってもらいたいと思う方が間違っている。
「きみがやめたいと思ってるんなら、僕には引き止める権利はないのかもしれないけど、元々卒業するまで面倒を見る約束だったんだし、もう少し猶予が欲しいよ?」
まだ、責任を全うしようとする義之には、その方が里桜にとって酷なことなのだと気付いてもらえないらしい。
「じゃ、里帰りしていい?」
「それなら……せっかくの夏休みなのに、一人で留守番しているのも退屈だろうし、里帰りということなら反対しないよ」
「ありがとう」
行ったきり戻ってくる予定がなくても、里帰りというのかどうかは知らないが。
話を切り上げるように立ち上がり、義之の方へ近付く。不必要に接触しないよう窘められて以来、里桜から距離を詰めるのは初めてだった。
「……一回だけ、ギュってしてもらっていい?」
返事の代わりに、秀麗な顔に迷いが浮かぶ。
この期に及んでまだ躊躇うような男が、里桜の義之のわけがなかった。ただ見た目が同じだけの、本来接点のなかったはずの相手。美咲と慎哉のことが誤解だったとわかった時に、無意味になってしまった復讐のように、里桜のことも消し去りたい過去の一部だと思えば納得できる気がした。
「ごめんなさい」
小さく前置きしてから、ほんの一瞬だけ懐かしい体に抱きつく。腕が覚えている義之と、どこも変わっていないのに。里桜と恋愛していた義之はもういないと認めたくなくて、結論を引き延ばしてしまった。
名残惜しさを振り切るように腕を解く。
短い決別の儀式を終えると、里桜は帰り支度を始めることにした。





「なに、その荷物?まさか、家出するとか言うんじゃないよな?」
玄関のドアを開けて迎えに出てきた優生が、里桜の肩に掛けられたスポーツバッグに怪訝な顔をする。ちょっと出掛けるにしては大きな荷物の中身は、慌しく用意した当面の着替えと夏休みの課題だった。
「里帰りしようと思って」
「なんだ、里帰りか……ビックリした」
安堵の息をつく優生をまた驚かせてしまうことを申し訳なく思いながら、本当のところを打ち明ける。
「もう、こっちには帰って来ないと思うけど」
「なっ……何それ?“実家に帰らせていただきます”とかいうヤツ?上がって、ちゃんと聞かして?」
少し強引に腕を引かれて、家の中へと通される。実家に戻る前に挨拶だけでもと思って寄ったのだったが、優生はすんなり送り出してくれそうにはなかった。スポーツバッグをその場に下ろし、優生に急かされながらリビングへついてゆく。
いつものようにソファに並んで腰掛けると、優生は里桜の顔を真っ直ぐに覗き込んできた。
「義之さんとはちゃんと話した?俺が言うのもなんだけど、勝手に出て行くのはダメだよ?」
「うん。里帰りならいいって。俺が卒業するまで面倒を見る義務があるみたいに思ってるから、そういうことにしといたんだけど」
「また義之さんに何か言われたの?」
「ううん、そうじゃないんだけど……ただ、あの人は義くんじゃないってわかったから」
「義之さんじゃないってことはないだろ?俺らの知ってる義之さんとはちょっと違うっていうだけで……たぶん、今の方が本質なんじゃないかな」
優生の言う通り、今の義之が本当なのだと思う。ニセモノだったのは、里桜と恋をしていた義之の方だった。
「そうだよね。俺の義くんは、階段から落ちていなくなっちゃったんだよね」
「里桜……」
返事に窮する優生に、上手く説明できるかどうかわからなかったが、思っているままを話してみる。
「義くんの姿をしてるから、義くんだと思い込んでたけど……違う人になっちゃったんだよね」
「俺は、違う人とまでは思わないけど……あれから何かあったの?」
「何にもないよ。ただ、義くんは嘘つきだったってわかっただけ。義くんはほんとは甘いものなんて好きじゃないし、子供は苦手だし、俺みたいに子供っぽいのは“対象外”なんだよ」
「それは三年前の義之さんがそうだったっていうだけで、好みは変わるかもしれないし、里桜のこともまた好きになるかもしれないだろ?」
「ううん、義くんは俺に合わせて一緒にいてくれてたんだよ。何度責任感からじゃないって言ってくれても違和感があったの、何でかやっとわかったんだ」
一生かけて里桜を幸せにすると言った義之はもういない。記憶と共に義之が消えてしまったのだとしたら、あの約束は全うされたと思うべきなのだろう。



「……それで別れることにしたんだ?」
納得はしていないようだったが、優生に里桜の気持ちは伝わったようだった。
「うん。あとになるほど別れ難くなるだろうし、お互いのためにならないでしょ」
「まさか、これっきりってことはないよな?」
「荷物があるし、何度かは来ると思うけど……もう一緒に住む理由はないから」
「うちに来る理由はあるよな?」
至近距離から見つめられて、つられるように頷いた。
「……うん。夏休みは時間もあるし、また遊んで?」
「俺も暇だし、毎日でも来て?この頃ずっと一緒だったから、急に会えなくなると淳史さんも淋しがると思うし」
淳史が淋しがるとは思えなかったが、素直に受け止めておく。
「うん、ありがと。また入り浸るね」
「そういうことなら、餞別はいらないよな?」
「うん。もう貰ってきたし」
ポケットから、半透明のピルケースを取り出して優生に見せる。軽い音を立てるリングは、洗面所から黙って持ってきたものだった。
「それって、義之さんの?」
「うん。ずっと外したままで置きっ放しにしてたし、要らないんだと思うから」
何より、持ち主がいない今、その指輪は里桜のものだと思うからだ。せめて指輪だけでも、2つ一緒にしておきたい。
張り詰めた気を逆撫でないように、そっと優生の腕が里桜を抱きよせた。肩を抱くように回された手はいつものふざけた感じではなく、ただ宥めるように優しく髪を撫でる。
「……もし逆だったら、どう思う?記憶を失くしたのが里桜で、全然知らない相手に、恋愛関係にあったとか同棲してるとか言われて、納得できる?」
「俺は、もし全部忘れても、何度でも義くんに恋すると思う」
初めて会った日に義之に心を奪われてしまったように、一目見た瞬間に全て囚われてしまうだろう。甘い幻想などではなく、それは確信だった。相手が里桜の知る義之のままなら、絶対に。
でも、里桜より先には死なないと言った嘘つきな恋人はもういない。里桜の記憶の中にしか存在しない。なまじ外見が同じ相手の傍にいると、その記憶さえ危うく揺らいでしまいそうになる。だから、これ以上義之を疑わないでいるためにも、離れた方がいいのだと思う。
「ほんとに、里桜は義之さんがいいんだなあ」
「うん。だから、もう一緒に住むのはムリなんだ」
もう少し、同じ姿を見ても気持ちが乱れなくなるまで。
抱きしめる腕が力を籠める。動揺しているのは優生の方のような気がして、そっと抱きしめ返した。



- CHINA ROSE - Fin

Novel       【 Difference In Time 】    


予定外に温いエンディングになりました。(そんなことない?)
次のお話ではキチクを目指しますー