- 幸せの後遺症 -



眠りを妨げようと触れてくる指はしつこく、里桜が小さく首を振ったくらいでは諦めてくれそうになかった。
とはいえ、久しぶりの行為で疲れた体は義之の誘いに応じる気にはなれず、その腕に上体を預けたまま、すぐにも眠りに落ちたがる。

「寝るのはもう少し待ってくれないかな?」
控えめな言葉を裏切る強引な手が、里桜の顎を上向けさせる。
「や、ん……」
里桜の背を支えるように回されている腕は力強く、迫ってくる唇を避ける術がない。
そうでなくても、里桜にはまだ今の義之に対する遠慮のようなものがあって、邪険には出来ないのに。

奪うように唇が塞がれ、その片腕に抱かれた体がソファへと倒されてゆく。
もどかしげに胸元をまさぐる手のひらに余裕はないらしく、覆い被さる体は里桜に体重をかけないよう気遣いながらも、逃れることを許してくれない。睡魔に敵愾心を燃やしているみたいに、義之の行為は強引だ。

喉を伝い、何も纏わないままの里桜の胸へと辿り着いた唇は、痕を残しそうにきつく肌を吸い、否応なしに里桜の意識を義之に向けさせる。
濃い情欲の色を湛えた瞳で見つめられ、また求められていると悟った体が竦む。
里桜が身を強張らせたことに気付かないはずがないのに、腰を撫で降りてゆく手のひらは躊躇することなく膝を押し開こうとする。
「や」
弱々しく伸ばした指先では、せいぜい義之の腕に触れるくらいしかできない。
「足りないよ、もっときみを抱いていたい」
熱を帯びた声は切羽詰まっているようで、思い止まらせることは困難だと、抗い切れない心理が諦めに傾く。

記憶を失くす前の義之なら、久しぶりの行為に疲れ切った体がとっくに里桜の限界を超えているとわかってくれていたはずなのに。
そうと知るはずもない義之は、自分の欲望を抑えることなく里桜に向けた。




「里桜?」
何度かの呼びかけに気付いてはいても、なかなか体は起きてくれず、軽く肩を揺すぶられても、重い瞼を薄く開くくらいしかできなかった。
「時間だから仕事に行くよ」
その言葉と見慣れたスーツ姿で、もう義之が出勤する時間になっていることを知る。
しつこく求められた昨夜、里桜は自分が何時に眠ったのかも覚えていないが、睡眠は全く足りておらず、きちんと起きて送り出すことはできそうになかった。
「合間を見てメールか電話を入れるから、今日はゆっくりしておいで」
里桜に無理をさせたという自覚はあるのか、義之の言葉と頬を撫でる手は優しい。
“おはよう”の、或いは“いってきます”のキスを受け止めると、里桜は塞がってきそうな瞼を開け続けておくことを諦めて、唇の動きだけで“いってらっしゃい”と告げた。




里桜が次に目を覚ました時には10時を回っていて、それも義之からのメールの着信音に眠りを破られる形での覚醒だった。
いくら夏休み中とはいえ、普段から主婦業のようなことをしている里桜からは考えられないくらい遅い起床だ。

“起きている?”というメールに、少し考えてから、正直に“今起きた”と返す。
昨日、記憶を失くした義之に初めて抱かれ、里桜の経験値が低そうだと思い込んでいたようだったにもかかわらず、何度も挑まれたせいで体への負担は想像以上にきつかった。
義之の言葉を信じるなら、自分で抜く以外には禁欲していたという事情で箍が外れたのかもしれないが、もし今後もこんなペースで求められれば、里桜の体はついていけない。

まだ体はだるいが、気持ちを切り替えてベッドを出る。
温い水で顔を洗っていると、またメールの受信音が鳴った。親しい相手からの受信音や着信音をそれぞれ設定している里桜には、それが優生からのものだとすぐにわかった。

優生からのメールも、“起きてる?”というメッセージから始まっていた。
少し迷ってから、“今、顔洗ったとこ”と返す。

短いやり取りの後すぐ、里桜は着替えを済ませただけで隣家を訪れた。
義之の記憶喪失騒動以来、すっかり里桜の世話係と化してしまった優生は、今日も朝食もしくはブランチを勧めてくる。
「お腹すいてるだろ?とりあえず食べて?足りなかったら他にも作るから」
ダイニングテーブルに用意された、大皿に山積みされたサンドイッチやボウルいっぱいのサラダは軽く2人分以上あるように見えたが、普段の里桜の大食漢ぶりを知っている優生は心許無げだ。
「ありがとう。いつも、ごちそうになってばっかりでごめんなさい」
「俺もずっとお世話になってたんだから、お互いさまだよ。里桜もコーヒーでいい?」
部屋に充満する芳醇な香りから、既に用意されているのだろうと思い、頷く。

「寝足りない?」
氷の入ったグラスが満たされてゆくのをぼんやり眺めていると、気遣わしげな声がかけられた。
テーブルの向う側から、いくぶん好奇心を孕んだ瞳で見つめられ、優生の問いを深読みしながら答える。。
「うーん……睡眠不足っていうより、だるくて」
「久しぶりだったんだもんな、もしかして朝までヤっちゃってた?」
敢えて軽い口調で尋ねてくる優生に、“ぶっちゃけ”たところを話す。
「そんなことはないんだけど、俺、元から弱いから……最後の方は記憶なくて。正直、今も何か入ってるみたいな感じでちょっと腰が落ち着かないんだ」
間隔が空いていたからだけでなく、過度に緊張していたせいか、回復も遅いように思う。
「義之さん、全然余裕なさそうだったし……里桜、これから大変かもな」

優生の予想は外れず、里桜の試練の日々は始まってしまったのだった。






仕事から帰っても義之の興味は些かも里桜から逸れた風はなく、辞退しようとする里桜の腰を強引に引き寄せて、向き合う形で膝の上へと乗せてしまった。
「一人で淋しくなかったかな?僕はきみのことが気になって仕事に身が入らなかったよ」
臆面もなくそんなことを言う義之の、あまりにも近いところにある端正な顔をまともに見つめる勇気が持てずに視線を落とす。
何の抵抗もなさそうに里桜を恋人扱いする義之と違って、里桜はまだ今の義之に以前のように接することはできなかった。正直なところ、一度は諦めた恋人に急に蜜月のような扱いをされても、戸惑いの方が勝ってしまう。
「……そこまで子供じゃないから心配しないで?それに、お隣と親しくさせてもらってるの、知ってるでしょう?」
仕事で遅くなったり家を空けたりする時に頼れるよう、境遇の似た工藤家と隣り合わせてマンションを購入することになった話は聞いているはずだ。
「また彼のところに行ってたのか」
俄かにトーンを落とす義之が機嫌を損ねたのは明らかで、また里桜を心細くさせる。

「あ……っ」
タンクトップの、やや広く開いた胸元に触れてきた手のひらが、探るように襟元から内側へと下ってゆく。
指の腹で優しく擦られ、芯を持ってゆく突起を摘まれると甘い痺れが走った。そこがひどく感じることは、昨日触れられた時に見抜かれてしまっていると、意地悪な指に思い知らされる。
「や、ん……」
止めさせようと、義之の腕を掴んでいるつもりの手に力が入らない。
「だから、露出し過ぎだって言っただろう?まさか、こんな格好で隣に行ってないだろうね?」
度々聞かされてきた言いがかりは納得がいかず、里桜は控えめながら抗議した。
「露出ってほどじゃ……家の中だし、上も羽織ってるし」
「僕には充分刺激的だよ、チラ見えする方がいやらしい」
はっきりと言葉にされて、周囲の評価以上に幼いと思われていたはずの里桜が、多少なりとも義之の気を引いていることを知る。
以前、義之は里桜が薄着でいることを誘っているかのように取っていたと淳史から聞かされて以来、なるべく家では袖や裾の長い服装を心掛けていたのだったが。
「だからって、こういうことをするのは早過ぎると思うんだけど……俺とはまだ知り合ったばかりみたいなものだし、この間まで触るのもダメって言ってたのに……」
「もしかして、何度かデートをしてから手をつないで、キスをして、みたいに段階を踏まないといけないのかな?」
まさか、そこまで子供じみてはいないだろうと言う義之は勝手過ぎる。
「俺と“義之さん”は、出逢って一ヶ月くらい経つけど、最初は殆どすれ違いだったし、顔を合わせても二言三言交わすだけで、つき合ってるって感じじゃなかったでしょう?義之さんの常識ではどうなのか知らないけど、俺は早すぎると思うから」
「ひょっとして、僕は仕返しされているのかな?呼び方まで他人行儀に戻るなんてひどいね」
「そんなんじゃなくて……前のときは出逢ってから一ヶ月くらいは手も繋がなかったよ?名前も、その間は“緒方さん”って言ってたし、つき合うようになっても半年くらいは“義之さん”って呼んでたから、今“義之さん”って言うのはもの凄いスピード出世だよ」
必死に言葉を紡ぐ里桜の思いは全く伝わっていないようで、義之は納得がいかなげだった。
「きみの言うこともわからないでもないけど、僕からすれば今更って感じだよ。僕はもうきみを知っているし、また我慢するなんて無理だよ」
こうもあっさり却下されるとは思わず、しかも義之からの一方的な行為を踏まえた上で今更などと言われては、正論のはずの言葉を引っ込めるしかなく。
「じゃ、もう少し……何て言うか、時間を取って欲しいんだけど……」
元からそう強い方ではないのに、ましてや久しぶりの里桜としては、そうそう何度も求められては体がもたないというのが本音だった。
毎日ではなく一日か二日でもいいから日を置いて、できれば挿入は一回だけにして欲しいと、言葉にはできないが察して貰えないかと、期待を籠めて見つめてみる。




「わかったよ、きみの言うようにしよう」
少し驚いたような顔をしたものの、承諾の返事をする義之に、わかってもらえたのかと気を抜いた瞬間、ふいに首筋を舐められた。
「ひゃ……っ」
産毛を撫でるように伝う舌先が、里桜の体を跳ねさせる。意識するほどに、義之に触れられる全てが感じ過ぎて怖い。
「あっ、ん」
喉をきつく吸われてハッとした。薄着の季節に、そんな場所にキスマークなんて付けられたら着られるものが限定されてしまう。
「だめ、痕が……っ」
抗議する言葉を遮るように唇を塞がれ、性急に押し入ってきた舌に口内を隈なく舐められ、抗う思いが躱される。キスが深まるほどに気持ち良さに流され、何もかもをうやむやにされてもいいと思ってしまいそうになる。
「あ、いや」
キスに集中していられなくなるほどの強い刺激に、思わず唇を離した。
過敏になった胸の先端を弄られ、いつの間にか、胸元を露わにするほどにタンクトップが捲り上げられていることに気付く。
「里桜はすごく感じやすいね」
仰け反る里桜の耳元を舐めるように囁く声までが、体に沁み入り、内側から蕩けさせる。
「ぁん」
硬くしこった先端を転がされ、キュッと摘まれれば神経の全てがそこに集中してしまう。
「そうやって素直に感じていればいいよ」
満足げに笑う義之と目が合えば、魅入られたように指一本動かせなくなる。
端正な顔も、強引な仕草にも、慣れていたはずなのに。
抗いきれない里桜の身ぐるみを剥がしてゆく手は淀みなく、露わにされる肌に熱を孕ませながら下ってゆく。止めなければと思いながらもうろたえるうちに、ハーフパンツも下着も抜かれ、義之の唇は下肢に移っていた。
内腿へと口付けられ、別の手に際どいところを撫でられ、いや増す官能の波に溺れそうで、縋るように義之に手を伸ばす。
「待って、俺、まだ体が……」
里桜の聞き間違いでなければ、インターバルを取って欲しいという訴えに、義之は里桜の言うとおりにすると答えたはずだった。
「そんなに心配しなくても、いきなり挿れたりしないよ。ちゃんと時間をかけて準備するから大丈夫だよ」
呆然としてしまったのは、義之の答えが想像とかけ離れていたからだ。
時間をかけて欲しいのは最中より寧ろその後の、次回までの間隔のことで、決して義之が乱暴だというような言い方をしたつもりではなかった。
「あの、ね……っ」
強過ぎる刺激に、切り出そうとしていた言葉を続けることができなくなる。
脚の付け根あたりを押さえた手に大きく開かされた腿を閉じることも、身を折り曲げることも叶わず、義之の唇が伝う感覚に息を詰まらせた。
準備という言葉を即実行する義之の、ある意味ひたむきさを止める術を今の里桜は持たない。
先の里桜の“お願い”は、もう反故にされてしまいそうだった。




以前の義之には、“平日は一回以下”及び“毎日はダメ”という里桜の“お願い”はほぼ聞き入れられていた。
もちろん、それがいつも守られていたとはいえないが、度を過ぎると里桜の体に負担がかかり過ぎるとわかっていて、無理をして休日の予定が潰れたりする方がお互いのためにならないと考えているようだった。時として羽目を外すことはあっても、里桜がまだ未成年で高校生だということを踏まえてのつき合いだったと思う。
だから、今の義之が躊躇いもなく肌に痕を残したり、日常生活に差し支えるほど行為に耽ったりすることに里桜は戸惑っている。

「ひぁ」
昨日の午後まで手も繋ごうとしなかった男と同一人物だとは思えないくらい、義之は一足飛びに距離を詰めて、それが余計に里桜を混乱させる。
「息を止めないで、ゆっくり吐いて」
優しい声音につられるように、大きく息を吐いて緊張を逃がす。
それが義之を受け入れるという意味だとわかっていても、流されるほかに里桜に選択肢はなかった。求められて拒めるなら、こんな事態には陥っていないのだから。
里桜の反応を確かめながら指が動くたび、小さく跳ねる肌に口付けられ、止めさせようと伸ばす手から力が抜ける。
やめて欲しいのか、本当はして欲しいのか、自分でもわからない。
里桜の中へと入ってくる義之はひどく優しく、気持ちの良いところばかりを暴いてゆく。そのくせ、僅かも痛みを感じさせないよう慎重に身を進めてくるから、もどかしさに耐え切れず腰を揺らしてしまう。
自分の体さえ思い通りにできない里桜が、義之を止められないのは仕方ないことなのかもしれなかった。



くったりと力の抜けた体を義之の胸元に凭せかけたまま、窺うようにそっと頭を上げる。
ごく近くから、臆面もなく満足げな表情で見つめられていると知って、恥ずかしさに耐え切れずまた顔を伏せた。
「きみは本当に可愛いね」
髪を撫でる手に促され、もう一度顔を上げると、小さく笑みを作った唇が里桜の額に触れる。
「以前の僕がハマっていたのも仕方ないね」
言いながら、耳の後ろや項へとキスを振り撒いてゆく唇はまだ熱っぽさを保っていて、すぐにも二度目を求められるのではないかと不安が過った。
婉曲に言ったのでは今の義之には通じないと体感しているだけに、思い切って明確な言葉にしてみる。
「あ、あの、今日はもうしないで?」
「無理だよ」
まさか即答で却下されるとは思わず、咄嗟に返す言葉が見つけられない。
「禁欲が長過ぎたのかな、我慢がきかなくなってしまっていてね。きみも慣れるまでは間隔を空けない方がいいと思うし、暫くは負担をかけるかもしれないけどつき合ってくれないか」
同意を求めるようでいて実は決定事項らしいと、義之の顔を見ていればわかる。
せめて、我慢がきかないというのが一時的なものであるよう祈るくらいしか、里桜にできることはなさそうだった。





「里桜?」
玄関まで見送りに出た里桜は、義之のリーチの長さを考慮した位置で足を止めた。
「もっと近くにおいで」
近付けばどうなるかわかっているだけに躊躇してしまう里桜に、義之の表情が険しくなる。
「里桜」
強い語調で呼ばれるのと同時に、届かないだろうと思っていた手に腕を掴まれ、義之の胸元へと引き寄せられた。
息が詰まるほどにギュッと抱きしめる腕は里桜の知る義之のままのようで、その強さに胸が苦しくなる。
やがて抱擁が緩められても、近付く唇は挨拶のキスだけで済ませるつもりはないようで、下唇を舐める舌はすぐに中まで入ってきた。歯列を割り、里桜の舌先を撫で、やさしく絡んで吸いつく。
上向かされた首が痛くなるほどに長引くキスは一向に終わりが見えず、息苦しさに、義之の胸を力なく押し返した。出勤前の義之には、悠長に別れを惜しんでいる暇などないはずなのに。
漸く離れてゆくかに思えた舌が、里桜の顎へと零れた唾液を舐める。
「離れたくないな」
独り言のような低い声が、どこか切羽詰まったように響く。
もう一度きつく抱きしめられたあと、義之は観念したように抱擁を解いた。
「あまり出歩かないで、家でおとなしくしているんだよ?」
「うん、いってらっしゃい」
心配性なところは同棲し始めた頃のようだと、少し懐かしく思いながら“良い子”の返事で義之を送り出す。
相変わらず体はダルかったが、うっかり二度寝の癖がつかないよう、今日は起きておかなくてはと思った。それに、元に戻るのなら、家のこともしなくてはいけない。学生とはいえ、里桜は一応主婦なのだから。


一通りの家事を終えたころ、日課となった隣家通いを催促するメールが優生から届いた。
工藤家にはいつも食の世話になってばかりなので、今日は昼食の食材とおやつを持参して訪ねる。
「よかった、思ってたより元気そう」
出迎える優生の表情は、よかったと言うわりには少々不謹慎なようにも見える。
「カラ元気でも出さないとやってられないもん。もっと体力つけなきゃ、今の義くんには太刀打ちできそうにないけど」
そのためにも、しっかり食べて、質の良い睡眠をとって、メンタル面でも癒されなければいけないと思う。ある意味、マイナスイオンを発生しているような優生と過ごすのはストレス解消にもなるはずだった。

「義之さん、すっかり里桜にハマっちゃってるみたいだよな?」
里桜が珍しく襟ぐりの詰まった服を着て来たことで却って優生の好奇心を煽ってしまったようで、タートルネックに指をかけられ、その証を覗くような素振りをされる。
からかわれているだけだと頭ではわかっているのに、里桜はつい大げさなほどに反応してしまった。
それが、余計に優生の悪戯心をくすぐってしまうことも、わかっているつもりなのに。
「もう……」
里桜をソファの背に追いつめて、胸元まで覗き込む優生はさすがにやり過ぎだと思うが、力では里桜が優生に敵うはずもなく。
「……やらしいなあ」
それは寧ろ里桜が言うべき台詞のはずなのに、心なしか目元を赤らめた優生に先を越されてしまう。
「ここ、服に擦れて痛いだろ?」
「や、ん」
服の上から、赤く腫れた突起を指先で触れられただけで悲鳴を上げてしまう。
恨みがましく見つめてみても、優生は悪びれた様子もない。
「義之さん、本当に里桜のこと初心者だって思ってるのかな?それとも、自分をセーブできないだけ?」
「我慢がきかないって言ってたから、たぶん俺が初心者だとしても関係ないんじゃないかな?前の義くんは出逢ってひと月くらいは手も繋がったんだけど」
尤も、その期間はつき合っていたとは言えなかったのだったが。
「俺はいつも即行最後までいっちゃてるし、すぐ濃いおつき合いしちゃうから、そういうのはよくわからないなあ」
「あ……」
そう言われてみれば、二年前には里桜も、訳ありだったとはいえ義之とは段階を踏まずに一気に最後まで到達してしまったのだった。しかも、その後はなし崩しに蜜月に突入してしまっていたような気がする。
「俺もそうかも。最初は義くんとつき合ってたわけじゃなかったし、ていうか、ヤっちゃってからつき合うことになったんだよね。それからすぐ濃い生活送ってたのに、今更こういうこと気にする方がおかしかったのかも」
結局、今の義之も過去の義之も大差ないということなのかもしれない。
「まあ、元から“旺盛”だったみたいだし、しょうがないのかもな。里桜、ほんとの初心者じゃなくてよかったよな」
あまり慰めにならない言葉を聞きながら、やはり体力をつけるしか対策はないようだと思った。






出掛けに負けず劣らず、義之の帰宅の挨拶は濃すぎて、うろたえているうちに里桜の体は抱き上げられ、リビングへと運ばれてゆく。
ソファに直行する義之は、当然のように里桜を膝の上に乗せ、額が触れそうなほど近くから顔を覗き込んでくる。
「僕がいない間どうしていたの?」
「どうって……いつも通りだよ?洗濯と掃除をして、ゆいさんと買い物に行って、晩ご飯の用意をして、お風呂入って、テレビ見てたら義くんが帰って来て……」
膝から降りる努力をしても無駄だと学習した里桜は、おとなしく義之の上に座ったまま、一日の流れを思い出しながら答えた。
「また隣に行ってたの?」
「うん。今日はタートルネックの長袖のシャツにクロップドパンツで、ちゃんと隠して行ったよ?」
風呂に入って着替えたが、今も首の詰まったTシャツに膝が隠れる長さのパンツを穿いているから、叱られるような格好ではないはずだ。
「いつもそうやってガードしておかないとダメだよ?」
言いながら、もう服の裾から手を忍ばせてきているような義之の方が、よっぽど危険な気がしてならないのだったが。
「待って、先にご飯にしよう?今日はさつまいもご飯を炊いたんだよ。すぐ用意するから、義くんはお風呂入ってきたら?」
何とか気を逸らせないかと無難な言葉をかけてみるが、義之の抱擁は緩みそうにない。
「僕は先に里桜がいいな」
耳朶を舐めるように唇を寄せてくる義之は里桜の都合などお構いなしで、Tシャツの中を滑る手のひらは下着の中へ入ろうとしている。
「ダメ、だって……」
窮屈な腕の中で体を捩ってみても、腹を撫で降りる指は明確な意図を持って下ってゆくばかりだ。
「早く食事にしたいんなら協力して?」
むやみに甘い声が、拒む気力を殺いでしまう。
「あっ……ん」
堪らず反らした胸の頂点に服の上から吸いつかれ、情けないほど簡単に体中の力が抜けてゆく。そのままソファに上体を倒され、浮いた腰から下着ごとクウォーターパンツを抜き取られる。
もしかしたら、今の義之は里桜の記憶の中のその人以上に手際が良いかもしれない。
それほども、上着だけを脱ぎ捨て覆い被さってくる義之に余裕はないようで、里桜の膝裏を押し上げ、身構える間もくれずに後ろへ触れてきた。
「ひぁ」
ずっと腫れぼったいままのそこへ落とされる滴の冷たさに身が竦んだのは束の間で、塗り込めるように中を探る指に奥まで濡らされ、否応なしに熱を煽られてゆく。
「だ、め」
手遅れだと知りながら、義之の胸に腕を突っ張る。
「どうして?きみも気持ち良さそうなのに」
あからさまな言われように返す言葉がない。
長い指を二本、根元まで埋められて感じているのは痛みではあり得なかった。
「だって……疲れちゃう、から……っ、こんな、毎日は、だめ」
「きみは小さいし細いからあまり体力がないのかもしれないけど、僕とつき合う以上、合わせてくれないと困るよ。そのうちには慣れるだろうし、暫く我慢してくれないか?」
まるで譲歩する気のなさげな言いように、反論する言葉が出て来ない。
体の関係ができたせいか義之の行為に対する自制心はすっかり無くなってしまったようで、里桜に求めるものは急速にエスカレートしてしまっている。そのギャップに戸惑いながらも、指の隙間から押し付けられた熱いものを拒む気にはならなかった。
もし、足りないぶんを他の誰かに向けられるくらいなら、全て里桜が受け止める方がいい。
「は……っん」
息を吐くことで少しでも衝撃を和らげようと思うのに、それを協力的と取ったのか、義之は遠慮なく押し入ってきた。
圧迫感から逃れようと、縋るように抱きつく里桜の首筋へ、義之はあやすようにキスを落としながら、更に奥へと腰を進めてくる。
「あっ、あ、ぁん……っ」
里桜の体が馴染むのを待って、反応を確かめながら感じるところばかりを擦られるうちにわけがわからなくなってしまう。
ただ喘ぎながら、義之の背にしがみつくことしかできない里桜は、きつく抱きしめ返され、義之を満足させていることを身を持って教えられて、漸く安堵の息を吐いた。




身に余る愛情を注がれた体はだるく、油断すればすぐにも眠りに落ちてしまいそうだった。
食事の用意を整えるのが億劫にならないうちに、そっと背後から回された腕から抜け出すつもりが、痛いほどに強く抱きしめられ、阻まれる。
「だめだよ」
甘さだけではない拘束力を孕んだ声に、里桜は控えめに訴えた。
「……もうちょっと、緩めて?」
「緩めると逃げ出すだろう?離さないよ、もうきみに夢中なのに」
含みのある言い方と、臆面もなく告げられた言葉に驚いて、咄嗟に返事ができなくなってしまう。
確かに、急速に高まった義之の執着心は尋常ではなく、夢中と言われればそうなのかもしれない。事故に遭い、自ら課した一ヶ月の禁欲を解いたことで箍が外れたというだけでなく、里桜が、もしくは里桜の体が義之の気に入ったのは間違いなさそうだった。




「やっぱり、ケジメはつけないといけないね」
突然、思い立ったように呟かれた義之のその一言だけで、里桜は満足な説明もされないまま、実家に連れて来られていた。
連絡もせずに訪れた二人を、里桜の母は軽い気持ちで迎えてくれたのだと思う。
まさか、義之が畏まった挨拶をしに来たとは、本人以外の誰も想像もせず。
気兼ねなく直行したリビングのソファでは、既にパジャマ姿の里桜の父が寛いでいて、いくら親子でも急に訪ねてくるには少し遅過ぎる時間だったかもしれないと思いながら、向かい側へと腰掛ける。
父と挨拶を交わす義之は、さすがに里桜を膝に乗せたりはせず、揃えた膝に両手を置いて、徐に頭を深く下げた。
「もう一度、里桜を僕にください」
不意打ちのように切り出された言葉に驚いたのは里桜も同じで、瞬時に空気が張り詰めてゆく。
金縛りのような状態に陥りそうだった二人の緊張を和らげたのは、もてなしの用意をするためにキッチンへ向かいかけていた母で、踵を返して三人の元へ戻ってくると、父親の隣りへ浅く腰掛けた。
「里桜のこと、思い出したの?」
事故後の義之に接する時の、やや突き放したような母の物言いに、義之は神妙な顔をする。
「正直に言えば、具体的なことはあまり……でも、まだ学生の里桜を、ご両親の元から引き離して傍に置かずにはいられないほど愛していたということはわかります。今の僕も、もう一日だって里桜をこちらへ返すことはできそうにありません」
しんとした室内に、父のため息だけがやけに大きく響く。
義之は忘れているのだろうが、最初に義之が里桜を貰い受けたいと挨拶に来た時も似たような雰囲気になった。この件に関しては一歩も引く気がないという義之の押しの強さに気押され、それに同調するように寄り添う里桜に、父は諦め顔で言葉を失くしていた。
尤も、今の里桜は義之の剣幕に呆然としているだけで、同じ気持ちとは言い難いのだったが。
「そう言われても、私は妊娠初期は安静にしてないと流れやすい体質だから、里桜に来望(くるみ)の面倒を見てもらっているのよ。前にも話したと思うけど、義之さんが来望を養子に欲しいって言ってたからもう一人産むことにしたのに、今里桜を取られちゃうと困るわね」
当時は強行に反対していたくせに、義之が思い出していないとわかっていて意地悪を言う母に、今の義之は呆れるくらい真剣な顔をする。
「本気で僕たちの養子に出される予定だったということでしょうか?」
「そうね、義之さんがすごーく欲しそうにしてたから、そのつもりでいたんだけど?」
妊娠を告げられたときに、だからもう一人子供をつくることにしたというような言い方をしていたから、母の言葉はまるっきり嘘というわけではなかったが、結局は夫婦の都合で決めたことなのだから、義之に責任転嫁するような問題ではないはずだった。
「申し訳ありません。今は里桜とのこと以外を考える余裕はないような状態なので、すぐにはお答えしかねるのですが」
記憶を失くす前の義之は、来望と接するたびにとても冗談とは思えないほど真面目な顔で、『里桜が産んだような気がします』とか、『僕にもよく懐いていますよね』とか、一種の嫌がらせかと思うほどしつこく母親に言っていたのだったが、その記憶が揺り起こされることはなかったようだ。
「来望は要らないっていうことね?」
「感情論はともかく、里桜はまだ学生ですし、僕も仕事がありますから、育児は難しいと思いますが」
無難な言い訳は、けれども至極尤もなものだった。
「そうね、里桜は進学するようだし、無理でしょうね」
以前の自分が里桜の進学に強硬に反対していたとは、想像もしていないらしい義之には理解できない嫌味を言って、母は少しは気を晴らしたようだった。
「でも、里桜には夏休みの間だけでも来望の面倒を見てもらうわよ?もう前払いしてるし」
最後の一言は、事情を知らない義之には不可解だったようで、説明を求めるように里桜の顔を見つめてくる。
「あの、軽くアルバイトっていうか……くーちゃんの面倒を見るぶん、お金もらってるんだけど……」
「まさか、生活費が足りてないの?僕はそんなに薄給だったかな?」
話の途中だったことも失念してしまうほど、義之は驚いたようだった。
「え、と、あのね、俺、義くんのお給料がどのくらいなのか知らないんだ。毎月決まった口座に分けて振り込まれてるから支払いは勝手に引き落とされるって聞いてたし、生活費は現金で貰ってたし、内訳とかは全然知らなくて」
「じゃ、僕が下ろして渡さないといけなかったということ?ごめん、もっと早く言ってくれればよかったのに。お義母さんにも心配をかけてしまったんだね」
ふと、場所を忘れて二人の世界を作ってしまいそうな気配に気付いてか、母が口を挟んでくる。
「里桜に渡していたのはシッター代だから気にしなくていいのよ。でも、ちょうどいい機会だから、家計の話はきちんとしておいた方がいいでしょうね。帰ったらゆっくり相談しておいて。それより、里桜には来望の面倒を見てもらわないと困るの。毎日とは言わないし、通いでいいから来てもらうわよ?」
それが精一杯の譲歩だと、義之にも伝わったようだった。
つまりは、了承の返事を取りつけたと確信して気を良くしたのかもしれない。
「もちろん、僕も可能な限り協力します」
里桜の夏休みの過ごし方が変わるわけではなさそうだったが、義之は得心したようで、母の条件を快く受け入れることにしたようだった。




来た時と同様、義之の運転する車のサイドシートに座り、里桜は漠然とこれからのことを考えていた。
実家に通うのは夏休みの間だけなのだとしたら、あと半月ほどだろうか。
このところは隣家に通い詰めていて、来望の面倒を見ることもサボり気味になっていたから、母の言葉は里桜を諭す意味もあったのかもしれない。
「向こうに行くのを午後以降にしてもらうと都合が悪いのかな?それなら仕事の帰りに迎えに寄れるけど」
里桜が黙り込む理由を察したように声がかけられる。義之が母に言った言葉は、その場限りの社交辞令というわけではなかったようだ。
「午後でも夕方でもお母さんの都合は大丈夫だと思うけど、義くんが仕事の後で迎えに来てくれるんだったら、晩ご飯も向こうで一緒させてもらうことになっちゃうよ?」
普段の帰宅時間や会社からの距離を考慮すると義之が来れるのはおそらく9時近くなるはずで、それから帰って食事をするのでは随分遅くなってしまう。当然、両親は食事を済ませてから帰るように勧めるだろうし、もし料理だけもらって帰るにしても時間のロスにしかならない。
そうでなくても里桜の睡眠は日に日に足りなくなっているのに、今以上に就寝時間が遅くなれば、義之の要求についていけなくなるのは目に見えている。
「僕は構わないけど……ふたりきりで過ごす時間が短くなることを心配してくれてるの?」
義之の声音が甘さを増してゆくと、運転中の今は何もされないとわかっていても、知らず頬が熱くなる。
そんなつもりで言ったわけではなかったが、結局はそういうことなのかもしれない。義之が里桜に合わせる気がないかぎり、体力のない里桜に負担がかかるのは目に見えている。
ふと、回避するひとつの方法を思いつく。
「義くん、いっそ、くーちゃんをうちに預るのはダメ?それなら、うちの親に気を遣わなくていいし、時間も無駄なく使えると思うんだけど」
「子供は嫌いじゃないし、あの子はきみに似て可愛いと思うけれどね……正直なところ、今はきみとの時間を誰にもジャマされたくないかな。もし、きみに子供ができるとしても、もっと先でいいよ」
二人きりになったせいか、義之は率直な言葉で里桜の提案を却下した。
以前の義之はとても子供を欲しがっていたようだったから、そんな風に言われるのは意外な気がしたが、父親になり損ねたことも知らない今の義之は、それほどの父性を持たないのかもしれない。
だとしたら、里桜は少なくとも今はまだ、産めないことで悩まなくて良いのだろう。遠からず、同じ壁に突き当たる日が来るのだとしても。



結局、これといった代替案も思いつかないうちに、帰るべき家の駐車場に戻って来ていた。
途中からぼんやりと物思いに耽っていた里桜を眠っていると思ったのか、一旦車を降りて助手席側まで回って来た義之が外からドアを開ける。
里桜に覆い被さるように近付いてきた義之にシートベルトを外され、首の後ろと膝の裏に手をかけられたところで、唐突に夢見心地から覚めた。
「あ……え、と」
「きみが寝てる間に帰って来たんだよ、連れて行くからしっかり掴まって」
「え、え?」
引き寄せられ、軽々と抱き上げられた体が宙に浮いた感覚に驚いて、慌てて義之の首に抱きつく。
まさか義之がそのまま部屋まで運んで行くつもりでいるとは想像もせず、降りようと身を捩って、いっそう強く抱きしめられる。
「暴れないで。ちゃんと掴まってないと危ないよ」
義之は里桜が状況を理解するのを待ってはくれず、まるで結婚式を上げたばかりの花嫁にするように腕に抱いたまま部屋に戻ったのだった。






「俺、淳史さんのお母さんが子供に固執する気持ちがなんとなくわかったような気がする」
ソファの背凭れに抱きつくように寄り掛かっていた体を起こして、優生はほんの数時間の間でやつれてしまった面を里桜に向けた。
どうやら優生は本気でそう思っているようだったが、微妙な心理を慮ってなるべく無難な言葉を選ぶ。
「子供って無条件に可愛いもんね。すごく大変な時もあるけど、癒されるっていうか、元気を貰うっていうか」
「俺の場合は元気を貰うっていうより、取られるって気もするけど……見てるぶんには天使だよな」

延び延びになっていた、優生を里桜の実家に連れて行って来望に会わせるという計画をやっと実行したのだったが、日ごろ静かに暮らしている優生にとっては、元気の有り余っている来望の相手は想像を絶する重労働だったようで、自宅に戻るや否や、崩れるようにソファに座り込んでしまった。
あまり人見知りのない来望は、里桜の連れて来たお客さんを大歓迎してすぐに遊びに誘っていたが、優生の方はおっかなびっくりといった風で、なかなか慣れられないようだった。
しかも、見た目だけは女の子のように可愛らしい来望の中身は相当なやんちゃ坊主で、1歳を過ぎた頃からますます活発になってきている。今日も、ビデオを見ながら踊ったり走ったり、ブロックを放り投げてみたり、片時もじっとしていることがなかった。挙句は乗用玩具のショベルカーを室内で乗り回し、床や壁に新たな傷を増やしていた。本人が無傷なことから運動神経は良いのだろうと思われるが、怖いもの知らずな上に少々乱暴で、見ている方の肝が冷えてしまう。もちろん、危ないことや悪いことはくり返し教えるようにしているが、躾とはひどく根気と忍耐力が要ることだと思い知らされる。
それでも、舌足らずの幼児言葉や、遊び疲れて行き倒れたように眠る顔は本当に愛らしくて、癒される場面も多々あるのだったが。

「やっぱり、ゆいさんも養子とか考えてるの?」
寧ろ深刻なのは里桜の方かもしれないと思いながら、隣家の予定を尋ねてみた。
「考えないわけにはいかないだろ?淳史さん、お母さんにすごく勧められてるみたいだし、もし本当にそういう話になったとしたら、俺は嫌とは言えないよ」
「そっか……難しいところだよね」
隣家の、あまり芳しいとは言えなかった嫁姑的な関係を知っているだけに、優生の立場としては断りづらいのだろうとわかる。
「……でも、俺、とてもじゃないけど子育てなんてできそうにないんだよな……今日、里桜を見てて、やっぱ俺には無理って思った」
「そんなことないよ、くーちゃんはすごく活発だから。よその子はもう少しおとなしいと思うし、接してるうちに慣れてくるし、大丈夫だよ」
これまで優生は小さな子供や赤ちゃんと接する機会は殆どなかったようだから、何となく苦手意識を持っているだけなのだろう。特に、来望は快活過ぎる性格だから、圧倒されてしまったに違いない。
「もし本当にそうなったら腹くくるしかないけど……里桜のとこは?やっぱり、くーちゃん養子に貰うの?」
「ううん、義くん、今は子供はいらないって言ってるし、預るのもダメって言われちゃった」
「じゃ、養子の話自体、白紙撤回ってこと?」
「そうみたい。もし、俺に子供ができるとしても、もっと先でいいって」
「それって、里桜を子供に取られそうとか、ベタベタできなくなるとか、そういう理由だろ?」
「まあ、そんな感じみたいだけど……」
優生の読みは的確で、まさしく義之はその二大理由で来望を預ることを反対しているのだった。
「あー、もう。なんだかんだ言いながら、結局ラブラブになっちゃってるんだよな。なんか、俺的にはあんまりおもしろくないなあ」
「義くんにとっては“新婚”みたいな感じらしいから見逃して?それに、俺が里帰りしたりしてたから、心配性になってるんだと思うよ」
「逃げられると追いかけたくなる生きものらしいから仕方ないんだろうな。でも、そんだけ求められてるっていうのはちょっと羨ましいかも。またキスマークが増えたりした?」
優生の追及は、詰まる所いつもそこに行きつく。単におもしろがっているのか、純粋な心配なのかわからないが、隠すのもためらわれ、つい話し過ぎてしまう。
「どうなのかな、痕つけないでって言ってるんだけど……途中からわけわからなくなっちゃうから」
「見せて?」
相変わらず優生のスキンシップは過剰な上に素早くて、抗う間もなくソファの背に押し付けられるような体勢に押さえ込まれていた。




まさしく、その手が襟元を引っ張ろうとした瞬間、玄関の方から聞こえてきた物音に二人して固まった。
「うそ、もう帰って来た?」
優生が疑問形で呟くのも当たり前で、夕方とはいえ、まだ夕飯の用意にも取りかかっていないような時間だ。
とりあえず不適切な体勢から抜け出さなくてはと、押し退けようとした優生の肩越しに、居るはずのない人が現れた。
「あ、義くん……え、と、おかえりなさい?」
「えっ」
慌てて振り向く優生の体が硬直してゆくのは、義之が秀麗な顔を歪ませたからなのだろう。
「里桜に触らないでくれないか」
優生の肩を押し退け、里桜を引っ張り出す義之の手の勢いによろめきながらも、その胸に身を落ち着けた。
すっぽりと抱きしめる腕は、まるで優生には見せたくないとでも言いたげに里桜を覆う。
「ここに来るなって言わせたいの?」
いつもは甘い声が僅かにトーンを落としたせいで、特にきつい口調だったわけでもないのに怖くなる。義之の機嫌を損ねたら、本気でそうされかねないとわかっていた。

「そういうことは帰ってからやれ、目ざわりだ」
後から入って来た淳史の、やや低められた声に慌てて身を離そうとしても、義之の腕は緩みそうにない。
「すぐに帰るよ。僕の心配は杞憂じゃなかったようだし、里桜とよく話し合う必要があるようだからね」
優生に帰宅の“挨拶”をしていた淳史はそれに答えず、義之よりは控えめに、恋人を腕の中に抱きよせた。
「あの、何かあったの?こんな時間に二人揃って帰ってくるなんて」
優生の声が、心なしか責めるような響きを帯びる。早く帰るなら、メールのひとつもくれていればよかったのに、というのは主婦的立場としても当然の要求だと思う。
「義之がな、おまえが里桜に“悪さ”するんじゃないかと勘繰っていたから、二人でいるところを抜き打ちで見に戻ればいいだろうということになったんだ。俺も、まさか義之の心配するような事態になっているとは思ってなかったからな」
不適切な体勢は淳史にも見られていたようで、言葉ほど気分を害している風ではなかったが、嫌味のひとつも言わずにはいられなかったようだ。
「誤解だよ、俺が里桜を襲うわけないでしょう?」
「おまえはじゃれているだけのつもりでも、あんなところを目の当たりにしたら庇いきれないだろうが」
淳史の言うのは尤もで、異常な独占欲に駆られた今の義之が納得するわけがなかった。
「下心が無くても、里桜に触れるのは許さないよ。変な関わり方を改めるつもりがないなら、もう里桜と会わせるわけにはいかないな」
優生の不謹慎さは今に始まったことでなく、かといってそんな大層なことにはなり得ないのに、義之は警戒を強めたようだった。
記憶を失くす前には里桜がいじけそうになるくらい優生を気にかけていたのが嘘のように、今の義之は優生に厳しい。平穏で快適な近所づきあいを妨げてしまいそうなほども。

「義之さん、知らないみたいだから言っておくけど、俺は里桜の“癒し担当”だよ?」
「どういう意味かな?」
優生にではなく、義之は腕の中の里桜に問いかけてくる。
「どうって……そのままだよ?ゆいさん、マイナスイオン発生してるから。いつも癒してもらってるんだ」
「そんなことを言われると、なおさら会わせたくないな。里桜は僕だけじゃ足りないの?」
「……ごめんね」
寧ろストレスの原因のほぼ全てが義之にあるというのに、こんな状態で優生を取り上げられたら、里桜はまたネガティブ思考に陥ってしまうだろう。義之と良好な関係を続けていくためにも、里桜の避難場所は必要不可欠だった。




「納得がいかないよ」
怒りも露わにそう言い切られてしまうと、正直に返していいものか迷い、つい顔を俯けてしまう。
それが気に入らなかったようで、後頭部にかけられた手に少し強引に上向かされ、否応なしに視線を捕らわれる。里桜が思う以上に義之は真剣だと知って、この場だけを凌ぐことは断念した。
「里桜は僕より彼の方が好きだということ?」
「何でそんな……義くん、極端すぎだよ。思い込み激しいし、俺の言うこと全然聞いてくれないし、展開も早過ぎてついていけないよ?」
「でも、悠長に構えていたら、また逃げられてしまうんじゃないのかな?」
譲歩する気配も見せない義之は、まだ“里帰り”を根に持っているようで、その件を持ち出されると、里桜はますます不利になってしまう。
凡その内情を知っているとはいえ身内ではない淳史と優生の前で、どこまで赤裸々に話し合うべきなのか迷い、視線を外した里桜の顔を、義之は覗き込むように顔を近付けてくる。
「や、ん……っ」
まさか淳史や優生の前でそんなことをされるはずがないと、油断していた隙に付け入られたのかもしれない。
徐に塞がれた唇は首を振ったくらいでは放してもらえそうになく、それどころか強引に押し入ってきた舌に抵抗を封じられてしまう。
強く腰を抱き寄せられ、甘く窮屈な抱擁に縛られた体はもう里桜の自由にはならなかった。


「あまりムリさせると里桜が壊れるぞ?」
ややあって、呆れたのか諦めたのか、ため息交じりの淳史の声が、里桜の頭上から降ってきた。
その指摘は義之を挑発するには有効だったようで、腕の拘束は解かれなかったが、唇には自由が戻る。
「ムリさせてるかな?出遅れたぶん、追い上げないといけないと思って焦ってるのは事実だけど」
挑戦的な目線を優生に向けるのは、本気で敵対視しているからなのだろうか。
「俺と里桜がどうかなるんじゃないかって心配してるんだったら、それこそ杞憂だよ。さっきも言ったけど、俺は里桜の話を聞いて励ましてるだけだから。一人占めしたい気持ちはわからないでもないけど、俺と会うのもダメなんて言ったら、本当に里桜が壊れちゃうよ?」
不審げに優生を見返す義之に、淳史が追い打ちをかける。
「里桜はあまり強くないからな。おまえは忘れてるんだろうが、対人恐怖症だか不安障害だかになって引き籠っていた時期があるんだ。あまり追いつめるなよ」
「それは僕のせいで?」
知らぬが故の強気に、おそらくこの中の誰より事情に詳しいはずの淳史が眉を顰めた。
「俺は医者じゃないから何とも言えないな。ともかく、あまり里桜を追いつめるなとだけは言っておく」
「わかったよ、なるべく気を付けるよう努力するよ」
神妙な顔をする義之は、それでも里桜を抱く腕を僅かも緩めることなく、リビングのドアの方へと体の向きを変えた。

「……元に戻ったというより、輪をかけて酷くなったな」
「ほんと、せっかく常識のある大人になったのかと思ったのに、やっぱり義之さんの病んだ性格は死んでも治らないって感じだよね」
聞こえよがしの嫌味に、義之は足を止め、顔だけを振り向かせた。
「里桜と知り合ってからの僕が別人格だったというわけじゃないだろう?勝手に人を殺さないでくれないか」
今の義之が本来の姿だとしたら、少なくとも装っていたのは間違いないと思うのだが、そう突っ込ませる間を置かず、義之は隣の自宅へ帰るべく里桜を急かした。






「僕がきみにムリをさせていることは何?毎日抱くこと?隣の彼と会わせたくないと言うこと?それとも、ヒマさえあればきみにベタベタすることかな?」
矢継ぎ早の問いかけに、全てそうだと言うのは憚られ、返事に悩む。
ベッドの端に腰掛けた里桜の横に膝をつき、今にも押し倒しそうな体勢を保ったままの義之は、本当はすぐにでも行為になだれ込みたいと思っているのだろう。
「里桜?言ってくれないとわからないよ?」
そうやって急かすから里桜が追いつめられるのだとまだわからないのか、義之は焦れたように顔を近付けてくる。
「ま、って」
受け入れるためにもう少し“間”が欲しいと、伝えているつもりが聞き入れられたことはなく。
義之の強引さに気持ちはついていっていないのに、体はいつもその甘く優しいキスに簡単に籠絡されて、知らぬ間に全て許してしまっている。
「ん、や……」
今も、胸元を探ってくる手を止めなければと思っているのに、義之に触れられた体は全くといっていいほど里桜のいうことを聞いてくれず、痺れたように動けなくなってしまう。
「本気で嫌がられているようには見えないんだけど、それも僕の都合のいいように解釈しているだけなのかな?」
目を閉じていても、見つめられているとわかるほどの強い眼差しに、抗い切れずに瞼を上げる。
「里桜?」
「イヤなんじゃなくて……もうちょっとゆっくり、俺の都合っていうか、気持ちの準備みたいのを待ってほしいっていうか……」
義之は一瞬、虚をつかれたような表情を見せると、里桜の肩へ額を押し付けるようにして被さってきた。
「そうだね、確かに僕は焦っているよ。新しく思い出すことは何もないのに、日毎にきみへの思いは募るばかりで、僕の中だけに留めておけなくなってる。ちょっと油断すれば逃げられてしまいそうな、でなければ誰かに取られるんじゃないかっていう強迫観念に駆られてしまってね。離れていると不安で、きみと居ても、僕のものだと思えるまで抱いていないと気が済まないんだ」
あまり目にしたことのない義之の弱気に戸惑い、思わず眼下の髪に手を伸ばした。そっと撫でると、ゆっくりと顔を上げる義之の瞳に捕まる。
見つめ合ってしまえば視線を外すことはできず、その感情に引き摺られてしまうのに。

「もっと待った方がいい?」
きっと気付いているくせに尋ねるのは狡いのではないかと思いながら、言葉にできずに目を閉じる。
義之の首へと腕を回す里桜の、耳の後ろに触れかけた唇が、軽い笑いを含んで離れてゆく。
「隠れるところじゃないといけないんだったね」
シャツの裾を引き上げるように入ってきた手のひらは、肌を撫でるようにして首元まで上がり、衿を頭からするりと抜き取った。
「腕、上げて」
言われるままに伸ばした腕から袖も抜かれ、露わになった鎖骨の端へと唇が降りてくる。
義之に触れられたら、里桜の負けは確定してしまうのに。

「あ……ん」
その長い指と甘い唇に弱いところを悉く暴かれ、仰け反る背中は自分では支え切れないほど傾いでいる。
今にも崩れそうな背を支えるように回された手のひらは、衝撃を和らげながらも、ベッドへと倒れてゆく体を引き止めてはくれなかった。それどころか、もう片方の手はハーフパンツのボタンを外し、緩んだウェストから下着の中まで入り、あっという間に里桜の身ぐるみを剥いでしまった。
「ひ、や……っあ」
里桜と過ごした記憶はないくせに、義之はいつも手慣れた風に里桜に触れる。里桜の肌が予測する以上に大胆に、女の子のような外見を裏切る性を目の当たりにしてもまるで抵抗感がないような触れ方で、里桜の体を煽り立ててゆく。
今も、大きく割られた膝の内側から付け根に移っていく濃いキスが、義之の片手に包まれたそこへ辿りつきそうで里桜の方が焦ってしまった。
「や、いや」
自分でも驚くほど怯えたような声を上げてしまったせいか、義之の吐息が少しだけ肌から距離を取る。
「ごめん、里桜はすごく感度がいいから、初心者だってことをすぐに忘れてしまうよ。もう少し時間をかけた方がいいかな?」
「え……と、ううん、そんなこと、ない」
咄嗟に上手い言葉が出てこず、曖昧な返事しかできない。
今まで否定せずにいた“誤解”を、今更どうやって解けばいいのか。
もうずっと、義之を欺いていることに罪悪感を覚えている。
けれども、ひとつ話せば全て明かさなければならなくなるような気がして、言い出すことはできなかった。
せっかく失くした記憶の、里桜が一番取り戻して欲しくない場所に辿り着かれたらと思うと、また体が震えてきそうになる。




「ひゃぁん」
知らぬ間に考えごとの方に没頭してしまっていたようで、愛撫が再開されたことに気付くのが遅れた。
後孔を円く撫でていた指が、とろりとした感触と共に里桜の中に入ってくる。咄嗟に押し返そうと反発する内壁を宥めるように擦りながら、繊細な指は時間をかけて柔らかく解してゆく。
狭い粘膜を広げるように曲げた指を回され、緩く突かれるたびに跳ねる腰を引き戻され、より奥まで埋められる。
「は、ん、ん……っ」
泣きたくなるような感覚を、息を逃がしてやり過ごそうと思うのに、弛めれば指を増やされ、敏感になった内襞が我慢しきれずに痙攣する。
優しい、というより焦らすような指の動きが堪らなくて、いっそ早く止めを刺して欲しいと思ってしまう。
勢いに流されて抱かれた方が気が楽なのに。

「いや……も」
感じ過ぎるのが嫌で、里桜は腕を伸ばして義之の肩を押した。
「里桜、こういう時は“いや”じゃなくて“いい”って言うんだよ?」
甘く囁く声が、ひどく官能的に響く。
「ひ、んっ」
「里桜?」
中で蠢く指は決定的な刺激をくれず、ただ煽るように緩く抜き差しをくり返すばかりだ。
「やぁん……んっ」
「ちゃんと言わないとこのままだよ?」
そんな意地悪なことを言う義之は知らず、焦って腕に縋った。
「や、いや」
「じゃ、言って?」
甘い声に唆され、体の望むままを口にする。
「も、挿れて……」
ねだる言葉と一緒に、涙がこぼれた。体の都合に、理性はついていってくれない。
「ごめん、欲しがっているのはいつも僕ばかりだから、少しはきみにも求められたかったんだ」
そっと目じりに触れる唇は途方もなく優しくて、恨みごとひとつ返すこともできない。
義之はすっかり忘れてしまっているようだが、事故のあとからずっと求めるばかりだったのは里桜の方なのに。

「ひっ、んっ」
先までの涼しげな顔からは想像できないくらい、義之にも余裕はなかったようで、指の抜けきらないうちに押し入ってくるものは硬く、里桜の腰が引けてしまうほど張り詰めていた。
それでも、義之は一息に突き入れるようなことはせず、里桜の呼吸に合わせて少しずつ腰を進めてくる。
早く、と言いたくなるほど慎重に、指とは比べ物にならない質量が里桜の中に馴染むまで、時間をかけて満たしてゆく。
「や、義くん、も、あ、ぁんっ」
たまらず腰を押し付けてしまうくらい、焦れた内壁は激しく収縮しながらもっと奥へ引き込もうと躍起になっている。 抱え上げられた脚のつま先まで震えが走り、感じ過ぎた体は制御が効かなくなっていた。
「里桜……少し、弛めてくれないか?」
息を詰め、苦笑する義之の声も上手く脳に届かない。
今はただ、余計なことを考える余裕もないほど激しく抱いて欲しいとしか思えなくなっていた。






「きみは、僕の他にも知っているの?」
情事の後に相応しい優しい声に、気が緩んでしまっていたのだと思う。
大事そうに抱きしめられて微睡みたくなる意識を、億劫がらずに覚まし、落ち着いて考えてみれば、何を問われているのかすぐにわかることだったのに。
「ほか、って……?」
「きみの最初の相手は僕だったのかな?」
瞬時に強張る体が、言葉を発する前に雄弁に答えてしまった。
「何で、そんなこと……」
異常なほどにうろたえ、言葉に詰まる里桜の不審さは、勘の鋭い義之でなくても疑惑を抱くに充分だっただろう。
あからさまに表情を変えてゆく義之の顔を見つめ続けることができずに、目を伏せた。
“責任”は、“初めて”でなければ有効ではなかったのかもしれない。
「僕ではなかった、ということのようだね?」
首の後ろに回された腕に引き寄せられ、問い詰めるような眼差しを向けられてもなお答えられない里桜に、義之は確信したようだった。
「最初のときに、きみがあまりにも怖がっていたから、他に経験はないんだと思い込んでいたよ。でも、僕が一度や二度抱いただけにしてはきみはすごく感度がいいし、受け入れるのも上手いからね、もしかしたらと思うようになってはいたけど……いざ、そうと認められてしまうとショックだな」
ごめん、と言いかけて、声にならずに俯いた。
黙っているのは里桜の都合で、知れば義之が自分を責めることになるからというのはたてまえでしかなく、結果として義之を庇うことになっているとしても、それが言い訳になるとも思っていない。

「前の僕は知っていたのかな?」
独り言のような小さな声が、里桜の息を止める。
里桜自身朧げだったあの日の記憶が、ふいに蘇ってきた。

腕を組み、壁に凭れたまま微動だにしない義之は傍観の姿勢を決め込んで、言葉ひとつ掛けてくれる気配もなく。
振り返る里桜と視線が合わないよう微妙に背けられた端正な横顔は、馴染みのある優しげな面差ではなく、どこか冷たさを孕んだ見知らぬ他人のようだった。
今思えば、それが義之の本質だったのかもしれない。

「もしかして、僕の知っている人だった?」
何も覚えていないくせに、義之の問いは核心を突きすぎていて、平静を装う隙もくれずに里桜を追いつめる。
身を捩ろうにも、義之の胸との間に挟まれた手は震えて力が入らない。
バクバクと走り出す鼓動は、触れあった肌に伝うだけでなく耳にまで聞こえてきそうなほど高鳴って乱れ、いっそう里桜を焦らせる。
何と言えば、義之の気を静めることができるのか。




「言えないような相手なのかな?隠されると、どうしても悪い方に想像してしまうものだけど」
里桜の隠し通したい事実以上に悪いことなど、里桜には想像もつかないのに。
「ひゃ……っ」
強く腰を抱き寄せられ、ついさっきまで義之を受け入れていた場所を指でなぞられる。咄嗟に力を籠めて拒んでみても、そこはまだ指くらい簡単に飲み込んでしまいそうなほど熱く潤んでいて、侵入を阻むことなど不可能に思えた。
そうと知ってか、内腿を掠めて近付いてくるものはすっかり回復し終えているようで、その硬い感触に腰が引ける。
「正直に言いたくなるまで、僕の好きにするというのはどうかな?」
とんでもない提案を、ぞっとするような甘い声で囁く義之は、自分がどれほど残酷なことを強いているのか気付きもせず、答えられない里桜を追いつめるべく選択肢を挙げてゆく。
「朝までに何回できるか試してみようか?それとも、挿れたままで何時間いられるか挑戦してみる?」
押し当てられた先端が、言葉が終わりきらないうちに里桜の中に入ってくる。熱く漲り、持久力にも回復力にも満ち溢れたそれは、義之の言葉を本気で実行してしまいそうで怖い。
「や……ま、って……」
口では嫌がってみせても、充分に解され濡らされた体は止める術を持たない。容易く奥まで貫かれ、義之の思うままに翻弄されるのを甘んじて受け入れるほかにできることは何もなかった。

もう、どうすればいいのかわからない。
義之の言う通りだと認めれば、この場は治まるのだろうか。けれども、相手の名まで問われれば何と答えればいいのか。更にそれ以上のことを尋ねられたとしたら、里桜には答えようがないのに。

言葉の代わりに溢れ出した涙が、堰を切ったように頬を零れ落ちてゆく。
次から次へと湧き出す涙は止まりそうになく、しゃくり上げるほどになると、さすがに義之も強気を押し通すことはできなくなったようだった。
「里桜、ごめん、僕が悪かったよ。そんなに泣かないで」
涙を拭い、あやすように髪を梳く手は、先の怒りは嘘だったのかと思えるほどに優しい。
目元に触れる唇が瞼を閉じさせ、里桜の気持ちを和らげる。息が整うのを待って、涙の跡を伝い、やがて唇に辿りつく。
「ん……っ」
酷い言葉はただの脅しだったとでもいうように、義之は甘やかなキスをくり返しながら、殊更優しく里桜を抱きしめた。




「……俺の最初の人は義くんじゃないよ」
絶対に知られたくないと思っていたはずなのに、言葉は勝手に口をついて出ていた。
背後から里桜を窮屈なほどに抱きしめている腕から、そっと脱けだそうと試みて失敗に終わる。その腕は優しげでいて、決して緩くはないのだった。
「そういえば、僕の前にも誰かとつき合ったことがあると言っていたんだったね。きみは幼げで何も知らなさそうに見えたから、勝手な思い込みをしていたよ」
肩越しに見る義之は、眉を顰め、堪えるような苦しげな顔をしている。
曖昧に首を傾げ、どちらとも取れるような態度を取ってしまったのは、もうこの話は終わりにして欲しかったからだ。違うと言えば、また相手や程度を問い詰められるかもしれず、今の里桜にはこれ以上耐えられそうになかった。
「僕以外に、きみの全てを知っている男がいると思うと殺意が湧いてくるよ」
里桜を抱く腕に、また力が籠められる。
確かに、初めては他の男だったかもしれないが、全てどころか里桜のことなど何ひとつ知るはずがなく、ましてや気持ちを許したことも一度もないのに、義之はまた新たな誤解をしたようだった。







それにしても少し早く来過ぎたようだと思い、帰宅ラッシュで混雑する駅前から一旦離れ、近くのコンビニに立ち寄る。
今朝、出勤前の義之に、たまには外で食事しようと言われ、定時で終わるという前提で、待ち合わせて出掛ける約束をしていた。
このところ、義之の帰宅とほぼ同時にベッドへ連行されるような毎日を送っていたから、少しは自制しようと考えてくれたのかもしれないと、願望を込めて思う。
ただ、義之が記憶を失くしてからというもの、外で会うとか、里桜の実家以外の場所へ二人で出掛けるというのは初めてで、自分でも驚くほど緊張している。
だから、義之が駅に着けば連絡が入ることになっていたのに、家で待っていても落ち着かなくて、かなり早めに出て来てしまった。
かつての義之とは好みや習慣が違っている部分があるとわかっているから、迂闊な言動で気を悪くさせるような事態は極力避けたい。
それに、今の義之が里桜とのことを周囲にどの程度オープンにするつもりなのかもわからず、人目のある場所ではどう接すればいいのかも迷う。
そんな葛藤もあって、里桜は着るものにもかなり悩んだ。
いつも露出し過ぎだと怒られるから、今日はタンクトップの上にシフォンのチュニックを重ね、定番のショートパンツを合わせている。
普段から里桜の服装が可愛らしいことについては、義之に指摘されたことも非難されたこともないから、外で会うなら尚更その方が無難だろうと思い、敢えて性別を間違われそうな格好にしておいた。
もし、里桜の知らない義之の交友関係者に会っても、無駄口をきかなければ問題なくやり過ごせるだろうという、里桜なりの配慮をしたつもりだ。


視線を感じたような気がして、さして興味もないままにページをめくっていた雑誌から顔を上げると、今朝見送った時と同じ淡いグレーのスーツ姿の義之が店に入って来たところだった。
真っ直ぐに近付いて来る義之は、見惚れそうに綺麗な笑顔を里桜に向けていて、ふいに既視感に襲われる。
思えば、初めて出逢った日の、あの魅惑的な微笑みに目を奪われてしまったのが全ての始まりだった。それが意図して里桜の気を惹くためのものだったと、後に本人に言われたが、見事に嵌り込んでしまっていたことを改めて気付かされる。

「ごめん、急に人に会う用ができてしまってね。今メールしようと思っていたんだよ。待たせて悪かったね」
連絡が入るまで家に居るはずの里桜が、もう駅の傍まで来ていると知って、義之の帰りを待ち切れなかったと思われたようだ。
「あの、俺が勝手に出て来ただけだから気にしないで?用事はもう終わったの?」
「本題は済んだんだけど、会うのも久しぶりだったみたいで、積もる話があってね。いろいろ話しているうちにここまで連れて来てしまったよ」
ほんの少し後ろへと視線をやる義之に、つられるように顔を向けて愕然とした。
微妙に視線を外し、所在なげに佇む一際大柄な人影は、里桜が二度と目にしたくないと思っていた男だった。
よもや、こんなタイミングで義之の拘る里桜の最初の相手、斉藤剛紀に再会することになるとは想像もせず、無防備過ぎた体は真っ直ぐに立っていられないくらい震え、呼吸も上手くできなくなっている。
見たくないはずなのに、剛紀から目を逸らすことも伏せることもできず、傍目にも不自然なほど凝視してしまっていた。
雰囲気は里桜の記憶にある姿よりは随分と穏やかになっているようだったが、シルエットや全体的な印象はあの頃と変わらぬ格闘家のような厳つさで、体に沁みついた恐怖心が里桜を固まらせる。
面と向かって会うのはあの日以来初めてで、今思えば、剛紀の在学中も学校で見かけることはあっても顔を合わせることがなかったのは、相手の配慮もあったのかもしれない。


結局、過去から逃げることなどできるはずがなかったのだろう。
義之が忘れてしまったから、なかったことにできるような気になっていたが、こうして事実を突き付けられるたびに激しく動揺していては自分で白状しているようなものだ。
ただ、知られたくなかっただけなのに。




「知り合いだった?学校も同じだったんだし、美咲の弟だから顔見知りかもしれないとは思っていたけど」
何も知らない義之は、里桜の反応の過敏さに訝しげな顔をする。
問われても里桜には答える余裕などなく、これ以上怪しまれないよう平静を装う努力をするだけで精一杯だった。
おそらく、この状況を正確に把握しているだろうと思われる剛紀が、堪りかねたように口を挟む。
「義之さんは忘れてるんだろうけど、こいつは俺の顔も見たくないと思って……」
「やめて」
出ないと思っていた声が、震えながらも発することが出来た。驚いたように里桜を見る剛紀と目が合うのは、たぶん2年ぶりだ。
「お願い、何も、言わないで」
里桜の言いたいことは伝わったようで、剛紀は気まずそうに顔を背けた。
「まさか、里桜とつき合っていたとか言わないだろうね?」
義之はさっきまでの親しげな態度を一変させて、あからさまな敵意を剛紀に向けた。
この頃の義之は、他の誰かが少しでも里桜と性的な関わりがあるような気配を察知すると、尋常ではない独占欲を剥き出しにするようになっている。
「そういうんじゃない。こいつが一年の時、ムカついてシメようとしたことがあるから俺にビビッてるんだろ」
尤もそうな言葉でこの場をやり過ごそうとした剛紀の意図は汲まれることなく、寧ろ義之の気を逆撫でしたようだった。
「里桜に手を上げたのか?」
「軽く頬を張ったくらいだけど、荒っぽいことには縁がなさそうだったから、俺とは二度と関わりたくないと思ったんじゃないか?」
「よくそんな酷いことができたね……里桜は今でもこんなに幼いのに、二年前ならもっと子供っぽかっただろう?」
「子供だったのはそいつだけじゃないんだよ」
その言葉は寧ろ剛紀にとっては免罪符だと言いたげに呟く。
あの件が誤解から起きたことだったのも、後には里桜に悪かったと思ってくれていたらしいことも聞いて知っていたが、まだ体の拒否感が強く、会話に入ることは出来なかった。


「俺、このあと予定あるから」
込み入った話をするような環境ではなく、かといって場所を変えてまでつき合う気はないと、言外に告げて剛紀が店を出てゆく。

「僕たちも行こうか?」
ごく自然に肩を抱かれ、思わずその胸へ縋りたくなる。
息苦しいほどに抱きしめられて、大丈夫だよと言われて、前のように安心させて貰えたら。

「里桜?」
じっと、衝動が行き過ぎるのを待っている里桜に、心配げな声がかけられる。
今の義之が里桜の胸の内など知るはずもないのに、ふいに強い力で引き寄せられ、包み込むように抱きしめられた。
店内にはそれなりに人がいるのに、義之は全くといっていいほど人目を気にしていないようで、それどころか、まるで里桜を自分のものだと主張するために態と密着しているかのようだ。

知らず詰めていた息を吐いて、義之を見上げる。
「あの、俺、高校生だし、こういうのはちょっとダメかも」
なるべく気を悪くさせないよう、そっと胸元を押し返す。
「そうだね……外では気を付けないと、きみはかなり幼く見えるから、僕は犯罪者に間違われてしまいそうだね」
意外なほどすんなりと体が離れ、背に回されていた手が里桜の手に絡む。
「このくらいなら構わないかな?」
「たぶん」
甘い声で囁かれては嫌だと言えるはずもなく、里桜は義之と手をつないで店を後にした。




行き先は告げられなかったが、義之は最初から決めていたように躊躇なく駅の方へと進んでゆく。
外で手をつなぐのはいつだってドキドキしていたが、今の里桜の胸は少し違った意味合いで高鳴っている。

「あ、あの」
食べられないものは殆どない里桜はどこに連れて行かれても困ることはないだろうが、やはり一言くらい尋ねてくれてもいいのではないかと思う。
立ち止り、里桜を見下ろす義之の眼差しは険しく、先の剛紀とのやり取りでは納得していないことに気付く。
自分から話を蒸し返すきっかけを作ってしまったようだと悔やんでも、手遅れだった。
「帰ってからにしようと思っていたんだけど……きみも気にしているようだし、先に話そうか」
歩道とは逆の、店舗の脇へと促され、つないでいた手を解かれる。
義之は行き交う人から隠すように、建物を背にした里桜の前に立ち、背を屈めて顔を近付けてきた。
「昼休みに、美咲から結婚することになったっていうメールが来てね。僕としてはいろいろ思うところもあるわけだけど、もう意見するような立場ではないし、ひとまず剛紀に話を聞いてみようと思って連絡したんだよ。でも、剛紀の都合がついたのが夕方でね。わざわざ会社まで来てくれたんだけど、きみとの約束があったし、話しながら帰って来たというわけだよ」
「そう、なんだ……」
思いがけず剛紀の姿を目にしたときには本当に驚いたが、今の義之からすれば、当然の選択だったのかもしれない。
ただ、よりによって今日でなくても良かったのではないかと恨みがましく思わずにはいられないのだったが。

「もう少し、剛紀の近況とかも聞くつもりでいたんだけど、それどころじゃなくなってしまったからね」
呆然と見上げる里桜を、見つめ返す義之の目元が訝しげに細められる。
そっと、里桜の肩に置かれた手が逃げ道を塞ぐ。
「そういえば、きみの“前の彼”は随分きみに入れ上げていたそうだね。剛紀は思い込みが激しい方だし、きみのように可愛い子が相手なら、心配のあまり暴走してしまっても仕方ないかな」
義之は、まるで自分の想像が正解だと確信しているような言い方をする。
「違うから……俺、あの人とはつき合ってないから」
必死に否定してみても、里桜の声は弱々しく、説得力に乏しい。
そうでなくても、ごく間近から瞳を覗き込まれれば何もかも白状してしまいそうになるほど、今も里桜は義之に弱いのに。
「本当に?剛紀とつき合ってたことはない?」
「うん」
「それなら、剛紀と浮気でもしたのかな?」
いくら知らないとはいえ、あまりの言葉に血の気が引く思いがする。
「きみは嘘を吐くのがヘタだね」
「違うから……俺、本当に、あの人とは」
「きみの怯え方は尋常じゃないよ。もしかして、きみの最初の相手は剛紀だったの?」
全く的外れのことを言っているようでいて、正解を言い当ててしまう義之が恐ろしい。

今にも足元から崩れそうだと察したのか、義之の腕が背に回される。引き寄せられるままにその胸元に身を預け、顔を隠す。
「剛紀とは僕とつき合う前から?」
「……知り合ったのは、あの人の方が先だけど……」
実際には知り合ったというような穏やかなものでなく、呼び出され脅かされたというのが真実だったが、そんなことを言えるはずもなく。
言い淀むうちに、義之の推測が事実であるかのような雰囲気になってしまう。
「きみとつき合ったのは僕の方だったということ?」
「ううん……義くんとは最初はつき合ってたわけじゃなかったから……お茶とか食事とか連れて行って貰ってたけど、デートっていうんじゃなくて」
かつて、義之はそれを“意図的に里桜の気を惹いた”と言っていたから、デートだったと解釈しても間違いではないのだろうが。
「でも、実質つき合っていたということだろう?過去でも、僕は慎重になり過ぎて、他の男に付け入られる隙を作ってしまったのかな?」
まだ里桜の浮気を疑う義之は、自分の方こそが浮気相手だったとは思いもしないようだ。
ともあれ、その結論に義之は得心がいったようで、それ以上里桜を追及するのはやめて、当初の約束を実行する気になったようだった。








昨日とほぼ同じ時間に、同じコンビニで、違う相手を待つ。
とてもではないが、今の里桜には時間潰しのために雑誌を手に取って見るような気持ちの余裕はなく、眩暈を起こしてしまいそうなほどに緊張している。
幸いというべきかどうかは自分でもわからないが、さほど間を置かないうちに、できることなら会いたくないと思っていたはずの相手がこちらに向かって来るのが見えた。
迷いながらも、昨日の今日でまた注目を浴びるような事態になってはいけないと思い直し、とりあえず店の外に出る。

まだ仕事の途中なのか剛紀は青いツナギ姿で、近付いてくる歩調はかなり速い。
向けられる視線で、剛紀も里桜に気付いているようだとわかっても、目を合わせるのはひどく勇気が要った。
そうと察しているように、敢えて距離を置いて立ち止まる相手をおそるおそる見上げてみれば、里桜の思い込みとは違って、今の剛紀はごく普通の社会人然としている。
「あ、あの、ごめんなさい、急に」
上手く言葉の続けられない里桜から、やや視線を外すのは、剛紀も気まずいと思っているからなのだろう。
「まさか、そっちから呼び出されるとは思わなかったから驚いたけど……おまえ、姉貴とも仲良かったんだな」
「え、と、仲いいっていうか、義くんが入院したときにもお世話になったし、いろいろ相談に乗ってもらったりしたから……」
当然のことながら、里桜が剛紀の連絡先など知っているはずもなく、美咲に相談がてら事情を話し、会う手はずを整えてもらったのだった。
「みたいだな、また説教されたよ」
「ごめんなさい、どうしても、お願いしておきたいことがあったから」
「たとえ死んでくれって言われても、きかないわけにはいかないんだろうな」
冗談を言っているようには見えない表情は、あの頃のいつキレるかわからない短気そうな男とはまるで別人のようだ。
「……義くんの記憶が三年くらい失くなっちゃったの、知ってるでしょう?最初は俺とのこと、なかなか納得してくれなくて。今は先輩とのこと疑ってるみたいで、いろいろ聞かれるかもしれないけど、本当のことは言わないで貰いたくて」
「頼まれても喋りたいような話じゃないだろ」
「でも、義くん、先輩と仲良いみたいだし、知りたいと思ったらしつこく聞くと思うから……」
義之は里桜の前では納得したような素振りを見せていたが、いつ剛紀を問い詰めないとも限らず、早く話を付けておかなくてはと焦っていた。
「まあ、簡単にはごまかされてくれなさそうだな」
「ていうか、義くん、先輩と俺がつき合ってたと思い込んでて……その、先輩が俺の初めての相手だって」
「この間、ヘンな空気になったのって、そのせいか?」
「たぶん」
「まるっきり見当外れってわけでもないだけに困ってるんだな?」
きっと、剛紀は里桜の最初の相手を前の恋人だと思い込んでいるのだろう。
だからといって、そんな誤解まで解く必要はなかったが。

なるべく手短に済ませたいと思うあまり、場所を変えるとか、せめて入り口付近を避けてもう少し人目に付きにくくするとかいったような配慮をするには至らず、切羽詰まった顔で剛紀に対峙する里桜は、後から思えば周囲の興味を引くような行動を取ってしまっていたかもしれない。

「おまえには関係ないけど、俺、あの時の彼女と結婚してるから」
「えっ……」
「ちゃんと働いてるし、浮気もしてないし、元からおまえには興味ないし、そう怯えるなよ。もし、義之さんと拗れてるんなら協力するけど、俺の“役どころ”は決まってるのか?」
すぐに答えられないくらい、里桜は剛紀の変貌ぶりに驚いてしまった。
あの件のあと、誤解だったとわかって彼女とよりを戻し、就職や結婚をして、剛紀はすっかり真面目になっていたようだ。今まで里桜が知ろうとしなかっただけで。


大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。
会うまでは、そんなことを考えもしなかったのに、今は克服できそうな気がしていた。
「しばらく、じっとしててくれる?」
ただならぬ気配を醸し出し、声を張り詰めさせてしまう里桜に、剛紀は驚いたような顔をする。それでも、仮に里桜が本気で殴ったところで大したダメージはないだろうとでも思ったのだろう。
震える指先を伸ばし、里桜の頭より高い位置にある肩に触れ、見た目通りの硬い胸板へ、そっと頬を近付ける。
剛紀の胸に凭れた瞬間、今にも記憶がフラッシュバックしてきそうになって、体が固まってしまった。
「おい?」
うろたえたような声をかけながらも、剛紀は里桜が頼んだ通り身動きもせず、突っ立ったままでいる。
答えたいのに、声が出ない。
もう怖いことは起きないとわかっているのに。剛紀が里桜を害する気などないことも、過去に起きたことを間違いだったと認めて改心していることもわかったのに。
何度自分に言い聞かせてみても、震えは止まらず、次の行動に移ることができなかった。




「ひ……っ」
不意に肩を掴まれ、恐怖のあまり気が遠くなる。
倒れそうな体を奪うように抱きしめる腕が、大好きな人のものだと気付くより先に、剛紀がよろめくのが視界の隅に映った。
耳が拾った鈍い音と、抱かれた体が不自然に揺れたことで、義之が剛紀を殴ったようだと知る。
「二度と里桜に近付くな」
そんな荒い言葉遣いも、低い声も聞いたことはなく、また里桜の知らない義之の一面を見せられたような気がした。
「……わかってるよ」
短く答える剛紀は一言の弁解もせず、心得たように立ち去ってしまう。
誤解だとか、近付いたのは里桜の方だとか、説明しなければと思い至ったのはずっと後で、なぜ自分が義之の腕の中にいるのかがわからず暫し呆然としてしまっていた。
「え、と……何で、急に……?お仕事は、もう終わったの?」
とりあえず抱擁を解いてもらおうと義之に掛けた声はまだ少し震えていて、里桜は自分で思う以上にダメージを受けているのかもしれなかった。
「終わったというか、まあ、それなりにね。ここに来たのは美咲が連絡をくれたからだよ。里桜に頼まれて剛紀と会う段取りを付けたけど、もしかしたら大変なことになってるかもしれないから早く帰った方がいいって脅かされてね。実際、駆けつけてみれば、きみは剛紀に抱きついているし、本気で殺意を覚えたよ」
義之の思う“大変なこと”と、美咲の心配するそれとは全くの別物なのだったが、そう言えないからこそ、こんなややこしいことになっているのだろう。
「言い訳は今はいいよ、もう自分を抑えている自信がないからね。きみと話すのは帰ってからにしよう」
背中を抱く腕が外され、代わりに指を取られる。義之は里桜と手をつなぐと、少し早足に歩き出した。
一見、平静を取り戻したように見えるのに、滲み出す憤りは触れあった指からも伝わってくるようで落ち着かない。
10分あまりの道のりが途方もなく長く感じられるほど、無言で歩くのは息が詰まる。それでも、何か話しかけようにも義之の頑なな雰囲気に圧倒されて言葉にはできなかった。

家に帰りついても手は解かれず、いっそう早い歩調で寝室に連れて行かれる。
少し荒い動作でベッドに座るよう促され、里桜の正面に立ち、身を屈めて近付いてくる義之は本当に限界のようで、上辺の優しささえ取り繕えなくなっているようだった。
見据える瞳の鋭さに怖気づいて、つい俯いてしまう。それが余計な怒りを煽ってしまうと、わからないわけではないのに。
「きみは僕を好きなんじゃなかったの?」
速まる動悸で息が苦しくて、すぐには答えられない。
「まだ剛紀に未練があるの?」
弱々しく首を振る里桜の真実など義之には想像もつかないらしく、覆い被さってくる体は、ただ縛めるためにあるようだ。
「そうだとしても、放すつもりはないよ」
耳許へ近付く唇さえひどく恐ろしく感じて、逃げ出したい思いに駆られる。
「や」
少しでも距離を取りたくて義之の胸に突っ張る腕に力はなく、難なく抱き込まれ、ベッドへと倒されてゆく。
里桜を見下ろす眼差しは狂気じみて、見つめ返せず目を瞑る。頬を撫で、首筋へ滑ってゆく手に身が竦む。 義之の執着は度が過ぎていると、改めて思い知らされたような気がした。
「きみは僕のものだろう?」
抗う腕を軽く躱し、服を乱してゆく手に淀みはなく、自分の言葉を確かめるように肌に触れてくる。
はだけた胸元を弄られ、大きく仰け反った。そこへ落ちてくる唇に捕らわれ、体が跳ねる。絡みつき、吸い取られてしまうような錯覚に、歯を当てられる甘い痛みに、芯まで痺れて体の自由が利かない。
待って欲しいのに、里桜が誘惑に弱いと知っている指先は、性急に煽り立てようとする。
その執拗さに、以前、里桜を自分のものだと思えるまで抱いていないと不安だと言われたことを思い出す。
きっと、義之が思う以上に、里桜は義之のものなのに。
伝えられないもどかしさに、涙が溢れた。
「きみが泣くと、どうしようもなく欲情すると前にも言ったと思うけど……ごめん、もう抑えられそうにないよ」
「や……いや」
荒っぽい動作で一気に下肢を剥かれ、膝を大きく開かれ、押し上げられる。晒された後孔へ近付く吐息に怯えて身を捩ってみても、力でも敵うはずがなかった。
「やぁっ……んっ」
こじ開けるように中まで押し入ってきた舌先に、腰が跳ねる。
探るように丹念に襞を広げ舐め濡らしてゆく感触に堪らず喘ぎ、義之の髪へと指を伸ばした。
顔を上げ、里桜を見る欲情に塗れた目元が、ふっと笑む。
「ああっ」
舌の代わりに埋められた指は、咄嗟に締め付けた粘膜を宥めるようにやんわりと擦り、少しずつ奥まで進んでゆく。
ゆっくりと抜き差しをくり返し、最初の指が馴染むともう一本増やされ、また念入りに解され、里桜の体はすっかり緩められてしまう。
「は、あ、ん、ん……」
いっそもどかしい刺激に、体は勝手に熱を上げ、腕はいつの間にか義之の肩にしがみついて、まるで待ち望んでいるかのように膝が開き、腰が浮く。
「きみは本当に可愛くて淫らで、誰にも見せたくないな。まして、触れさせるなんてあり得ないよ」
ずいぶんなことを言われているようだと頭の片隅では分かっているのに、魅入られた体は言うことをきいてくれず、義之に止めを刺されるのを待ちわびている。
「も……っ」
ねだるより先に、熱く猛りきったものが押し付けられ、半ば迎えに行くような勢いで受け入れた。奥まで満たされ、それだけで頭が真っ白になるくらい気持ちが良くて、軽く意識が飛ぶ。
もう、どれだけ揺さぶられても激しく突き上げられても、感じるのは快楽ばかりだった。






きっと、里桜にだけ著しく作用するフェロモンのようなものが、義之から溢れ出しているのだとしか思えない。でなければ、こんなにも感じ入って、断続的な絶頂感に襲われるはずがなかった。
もう限界だと思うのに、義之に求められれば何度でも体は綻び、嬉々として応じてしまう。大事そうに抱きしめられて、優しく口づけられれば、どんなことでも許せてしまうような気さえする。


「……ほかの人を好きだったんなら、僕が記憶を失くしたときに逃げていればよかったんだよ」
囲い込むように抱かれた腕の中で聞く声はどこか弱気に響いて、里桜を驚かせた。
「俺が好きなのは最初から義くんだけだよ。他の誰も、好きになったことない」
いくら言っても信じてもらえないのかもしれないが、全てはその事実に終始しているというのに。
「それなら、どうして剛紀に抱きついてたの?あんなところを見せられて、きみが剛紀を好きじゃないとは思えないよ」
少し考えて、嘘ではない言葉を見つける。
「……俺、大きな男の人が苦手っていうか……すごく怖くて。先輩のことは特に苦手だったけど、もう大丈夫そうな気がしたから、ちょっと触らせてもらおうと思って頼んだんだ」
「そういえば、僕が触れるときにも、きみはいつも体を強張らせるね」
意外なほどすんなりと、義之はその部分を理解してくれた。義之は骨太なタイプではないが、背が高いから、里桜の苦手意識を刺激していると思ったのかもしれない。
「でも、わざわざ他所の男で試さなくても、僕にだけ慣れればいいんだよ。別に、他の男には一生触れなくてもいいんだからね」
真顔でそんなことを言うが、思えば義之の心境がどうしてそんなにも変化したのか不思議だった。
「……義くんだって、最初は俺のこと持て余してたでしょう?里帰りしたままにしておけばよかったのに、どうして放っておかなかったの?」
里桜が諦めようと思った途端に、それまで素っ気なかった義之が急に里桜に執着し始めたのは今もって謎だ。
「持て余していたわけじゃないよ。ただ、きみはあまりにも幼く見えたし、僕には“前科”があるようだったから、慎重にならないわけにはいかなくてね。きみが実家の方へ帰っている間も、本当はすごく気掛かりだったよ。里帰りする前に、終わりにしたいっていうようなことを言っていたし、もう戻って来ないんじゃないかって心配でね。しかも、きみは隣まで来てるのに僕には顔も見せずに帰ってしまうし、内心では酷く焦っていたんだよ」
実際のところ、里帰りとは名目だけで里桜はそれきりにするつもりでいたのだから、義之の焦燥はただの心配性ではなかったのだった。
「ごめんね。でも、義くん、お仕事やおつき合いで忙しそうだったし、結婚してた時は家事もしてたって聞いてたから、俺がいなくても構わないかなって思って」
「きみがいなくて不便だったから引き止めたわけじゃないよ?もっと時間をかけるつもりでいたのに、まさかきみの方は別れたつもりでいたとは思いもしなかったから歯止めがきかなくなってしまってね」
そのときのことを思い出したのか、義之は目元に怒りを滲ませた。
「だって、義くん、病院から帰ってからずっと、俺と一緒にいるのイヤみたいだったから、元に戻るのはムリなんだろうなって思うようになってて」
「嫌だったわけじゃないよ、不安にさせて悪かったね。ただ、僕も記憶が無くなっているとわかって仕事のことで焦っていたし、美咲のこともすぐには割り切れなくて、きみを思いやる余裕がなかったんだ。状況を受け止めて気持ちを整理するには時間が必要だったし、だから、落ち着いてきて、きみとのことを真剣に考えるようになった頃に別れると言われて物凄くショックでね。もう僕のものだと思い込んでいたし、絶対に退けないと思ったよ」
そんな風に、里桜を愛さなくてはいけないと思い込む必要はないと、ずっと言ってきたのに。
「どうして?義くんモテるんだから、俺に拘らなくても相手には困らないでしょう?」
「きみがいるのに、他の人に目を向ける必要がないだろう?記憶は戻らなくても、僕がきみに夢中だったというのは間違いないのに……写真もそうだけど、何より自分でも不可解なくらい、きみに対する執着心が凄くてね。たぶん、理屈じゃないんだよ。きみを離したくないっていう思いは忘れようがなかったんだろうね」
里桜を説得するというよりは、義之は寧ろ自分の感情を確認するように結論付けた。
もしもそれが本当なら、里桜にとってはこの上ない救いで、長年の後ろめたさや悲観的な思いから解放されると言っても過言ではない。
「剛紀のおかげで、僕が独占欲の塊になっていたというのが本当だったとわかったよ。きみが他の男と会っているかもしれないと思うと、仕事にも身が入らなくてね。いっそ、ずっと部屋に閉じ込めて隠しておきたいくらいだよ」
その思いの丈を証明するかのように、義之は腕の中の里桜を更に引き寄せ、ギュッと抱きしめた。
頭を包むように回された腕から、そうっと顔を上げ、義之を窺い見る。
「あ、あの、義くんって、元々束縛とかしない人なんじゃなかったの?なんで、俺だけ」
「元々って……ああ、美咲に聞いたのか。彼女とは恋愛していなかった期間が長くてね。それまでの恋愛遍歴をお互い知っているのに、今更という感もあって、そういう風にはならなかったな」
「それなら、俺のことも、義くんの他につき合ってた人がいるって知ってるんだから同じことでしょう?」
言いながら、二年前にも同じような押し問答を交わしたことを、少し懐かしく思い出した。
「きみはダメだよ。最初から僕のだって思っていたからね。僕以外にきみを知っている男がいると思うと、思い出ごと抹殺したくなるよ」
その過激な言いように、改めて別人ではないことを実感する。
「これ以上厳しくされたくなかったら、もう二度と剛紀にも他の男にも近付かないようにね?」
「な、それはあんまり……」
横暴過ぎると、剛紀はともかく他の男にも近付くなというのは無理だと言おうとしたのを見越したように、義之は腕の拘束を強めた。
「きみと前の男とのことを、昔の僕は知っていたんだろうけど、せっかく忘れたんだから、もう思い出させないでくれないか?」
ふと、その言葉の真実に気付きそうになる。
ずっと、忘れて欲しいと里桜が思っていたように、義之もなかったことにしたかったのかもしれない。思い当たるのは里桜のことだけでなく、記憶を失くす前に様子がおかしかったことも、その原因になっているのだろうか。

小さく首を振って、猜疑心を払う。
もう確かめようもないことまで、今の義之を疑っても意味のないことだった。
「でも、ゆいさんは“男”に入らないよね?あっくんの奥さんみたいなものなんだし、“例外”だよね?」
一瞬黙った義之が、不満げな声で答える。
「……微妙なところだけど……きみを誰にも会わせないというわけにはいかないだろうし、実家と隣くらいは許さないと仕方ないかな」
「え、うちとお隣だけ?」
「これでも、かなり譲歩したつもりだよ?いくら奥さんみたいなものと言っても、彼は男なんだからね」
それが嫌なら実家だけと言われそうな気配を察知して、反論を引っ込めた。
「じゃ、当面はそれでも……どうせ休み中は他の予定は入れられないんだし」
深く考えずに了承した里桜に、義之は漸く満足そうな顔をする。

きっと、休みが明けてからも里桜の新しい生活環境は窮屈なものになるのだろうが、やっと義之が自分だけのものになるのだとしたら、それ以上望むべくもないと思えた。



- 幸せの後遺症 - Fin

【 Difference In Time 】     Novel


2011.1.1.update