- Difference In Time(5) -



「何で、秀もいるの?」
美咲と約束していたカフェに、なぜ秀明が一緒にいるのか不思議で、つい率直に尋ねてしまった。
時間より大分前に来ていたことを感じさせる、半分ほどになったジンジャーエールのグラスとハーブティーのカップ。後から来る里桜のためなのだろうが、美咲と俊明は四人掛けのテーブルのソファ側に並んで座っていた。
「ごめんなさい、なかなか話すタイミングがつかめなくて。私たち、おつき合いしてるの」
気まずそうな秀明を横目に、美咲が申し訳なさそうな顔をする。
「え……美咲さんの相手って、秀だったの……?」
義之が未練がましい態度をとった時、美咲が他につき合っている相手がいるような言い方をしたのは、てっきり無用な期待を持たせないための配慮なのだと思い込んでいたが、そういうわけではなかったようだ。
「そうなの。前に義之さんが、私好みのいい男がいるって言って紹介してくれたのよ。あとで聞いたら、秀くんには里桜くんとのことを反対されていたから、私と纏まったら面倒がなくなると思ったんですって。ほんと、失礼な人よね」
咄嗟に言葉の出てこない里桜が気を悪くしたと思ったのか、秀明は両手を合わせて軽く頭を下げた。
「悪い、ずっと黙ってて。緒方さんにきついこと言った手前、おまえには言い出しにくくて。そのうち話そうと思ってるうちに、つい」
「そんなの気にしなくていいのに。二人が幸せになってくれたら俺も嬉しいよ」
里桜にとって大切な二人が上手くいくのは、自分のことのように喜ばしいことだった。
「それより、里桜くん、実家の方に帰ってるんですって?義之さんには里帰りしてるっていう風に聞いたんだけど、心配になって。本当にただの里帰りなの?」
ということは、義之はずっと美咲にコンタクトを取り続けているということなのだろう。よもや自分が美咲に次の恋の相手を引き合わせていたとは知らず、まだ取り戻したいと思っているのだろうか。



「……おしまいにしようって言ったんだけど、何か意地になってるみたいで聞いてくれなくて。とりあえず里帰りっていうことにして家に帰ってるんだ」
「嘘だろ?おまえ、本気で緒方さんと別れる気なのか?」
義之と里桜の本当の馴れ初めを知った時には、秀明は頑なに反対したのに、今はまるで里桜が間違っていると言いたげな顔をしていた。
「別れるっていうか、今の義くんとは始まってもなかったし……義くん、記憶がないっていうだけじゃなくて、別人みたいになってて、俺ももうつき合いたいとは思ってないから」
「別人って……緒方さんは忘れてるだけだろ?思い出さないにしたって、緒方さんに別れる気がないのに、何でおまえが別れようとしてるんだ?」
義之に記憶が無くても関係ないと思えたのは最初だけだった。前の義之に大事にされ過ぎていたせいか、里桜とまともに向き合おうともしなかった今の義之ともう一度始められるとは、もう思えなくなっていた。
「元々、義くんは俺に対する負い目でつき合ってくれてただけだから……すごく幸せにして貰ったし、もう充分かなって思うんだ。だから、もし聞かれても、俺と義くんが何でつき合ってたのかとか、絶対言わないで?」
このまま別れるとしても、どうしても里桜の最初の相手が誰だったのかは知られたくなかった。
「まだ気にしてるんだな」
ため息のような呟きに、里桜はまた胸が締め付けられるような痛みを覚える。
気にしないわけがない。今でも、最初の相手は里桜の好きな人か、里桜を好きな人だったら良かったと思ってしまうのに。たとえ同じように暴力的に奪われたとしても、好きの延長線上で起きた行為だったら救いがあったような気がする。
「……また、俺を好きになるのが義務みたいに思われたくないし……せっかく忘れたんだから、知らないままでいて欲しいんだ」
それまで黙って聞いていた美咲が、複雑な表情で里桜を見る。
「里桜くんの気持ちもわからないでもないけど……義之さん、だんだん元に戻ってきたと思わない?記憶が戻ってきたわけじゃないようだけど、あの執念深そうな感じ、身に覚えがあるでしょう?」
里桜が最近の義之に感じていた違和感と、美咲の言う変化は同じものなのだろう。ただ、その執着めいた行動に伴うべき一番大切なものがないなら、始める意味もないと思っている。
だから、美咲の言葉に一抹の不安を覚えながらも、里桜は考え直す気はないことを伝えた。





まったりとした空気に水を差すドアホンの音に、里桜の鼓動が荒れる。
そろそろお茶の用意をしようかと優生が言い、クッキーと煎餅のどちらが好きかという問いに、迷いに迷って結論を出しかねていた午後二時半。
里桜に黙って玄関に向かった優生が出迎えているのが義之だろうということは、話し声が聞こえてくる前から察していた。平穏な時間が終わり、ここが安全な場所ではなくなってしまったことに気付いて、テーブルやソファに広げた私物を片付ける。
「こんな時間にどうしたの?慣れてきたら早速サボリ?」
少しきつい優生のもの言いを軽く流しながら、義之がリビングに向かってきた。
「許可は貰って来てるよ、これでも支所一優秀な成果を上げているからね」
土曜に義之が来た時にも驚いたが、平日の昼間にまで訪れるという事態の意味はあまり考えたくない。ましてや、里桜が優生の所に通い詰めていると知っての行動だとは。
「本当にここに入り浸ってばかりいるんだね」
憮然とした表情で見下されると、里桜はソファに座った姿勢のまま固まってしまった。また、義之に挨拶がないと思われているのだろうか。
答えられない里桜の腕を、義之は焦れたように掴み、強引に立たせようとする。
「悪いけど借りていくよ」
「俺じゃなくて、里桜の了承をもらってからにしてくれる?俺には里桜が拉致られそうになってるようにしか見えないから」
止めに入ろうとする優生を目で制して、義之は有無を言わせず里桜を促した。
できれば会うことも避けたいと思い始めた矢先に、義之が急に里桜に関わろうとするようになった理由もわからないのに、おいそれと従えるはずもない。
「……ごめんなさい。ゆいさんの所に来てる時は放っておいて?」
「僕の所に来てることになってるのに?」
いつになく義之の表情が険しく見えて、余計についてゆくのを躊躇ってしまう。
義之の家へ掃除や洗濯に通うついでに優生の所へ立ち寄っている、という名目を利用しているのは事実で、この件に対しては返す言葉がなかった。
「美咲に聞いたよ。僕たちは話し合う必要があるんじゃないかな?」
里桜が別れた気でいることを知って、義之はわざわざ優生と一緒の所へ訪ねて来たらしい。
急かすように、掴まれた腕に力を籠められて、里桜は逃げ続けることを諦めた。



今朝、家主のいない間に来たばかりの部屋へと足を踏み入れる。
優生の前で痴話喧嘩を始めることは躊躇われて、里桜は義之に連れられるまま隣家へと場所を移していた。
掃除や食事の用意をするためにほぼ毎日来ているが、義之と一緒になるのは里桜が里帰りをして以来初めてのことだった。二人きりになるのが久しぶりだからか、義之の不機嫌さが伝わってくるからか、緊張感と不安でバクバクと騒ぐ心臓は今にも飛び出してしまいそうなほど。
少し乱暴な仕草で里桜をソファへと座らせると、義之は隣に浅く腰掛け、膝が触れ合うほどに身を寄せてきた。
「僕と別れたつもりでいるというのは本当なの?」
単刀直入に本題に入るのは、仕事を抜けて来ているからなのだろうか。
手短に済ませた方が良さそうだと思いながら、答える言葉を探しあぐねている里桜に、義之は沈黙を肯定と受け取ることにしたらしかった。
「きみは短気過ぎるよ、もう少し時間をくれても良かったんじゃないのかな?」
逸らせない強さで里桜の目を見つめてくる義之に、いい加減腹を括る時がきたのかもしれないと、覚悟を決める。
「……時間をかけても同じことでしょう?俺には興味ないんだから、一緒に居ても意味がないと思うけど」
言葉を選ばなければと思うのに、口を開けばつい責めるような言い方になってしまう。だから、義之と話すのはまだ早いと思っていたのだったが、これ以上引き伸ばしても結果は同じなのかもしれなかった。
「配慮が足りなかったことは謝るよ。僕は自分のことで手一杯で、きみをないがしろにしてしまっていたね」
漸く、義之にも里桜のことを考える余裕が出てきたのだろうが、もう振り向いて欲しいとは思っていない。中途半端に期待を持って、やっぱりムリだと言われるくらいなら、何も起こさないまま離れたかった。
「気にしないで。俺には帰る家もあるし、迎えてくれる両親もいるし、ここにいなきゃならない理由はないから」
「僕にはあるよ」
すんなりと話し合いを終わらせる気は毛頭ないらしく、義之は里桜の言い分をあっさり却下した。



「きみが居なくなってから、どうにも落ち着かなくてね。家の中をいろいろ調べてみたら随分たくさん写真が出てきたよ。パソコンの中にも凄い量のデータが残っていたしね。その理由は写真を見れば一目瞭然だったよ」
写真が示す理由は記憶を失くす前の義之に限定されているのに、今の義之にも当てはめようとする無意味さには気付かないようだ。
「どうやら僕はきみに夢中だったようだね」
「……俺じゃなくて、写真が趣味みたいになってたんだよ、俺はたまたま身近にいた被写体だったっていうだけで」
「そんなことはないと思うよ。それに、写真を見れば、きみがどれほど僕を好きでいてくれたのかもわかるからね」
里桜が義之の方を向いている時に撮られた写真に、気持ちまで写っているのは当たり前のことだった。ファインダーの向こうに義之がいるなら、恋心を隠すことはできない。
「……好かれたからって、好きにならなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
「そんな風に言わないでくれないかな?きみと離れてから、僕はきみのことが気になって仕事にも身が入らなくなってるのに」
「写真を見て流されてるのかもしれないけど、俺のことを思い出したわけじゃないでしょう?俺の知っている義くんとは別人だって思ってるから、もう俺のことは気にしないで」
まるで口説いているかのような言葉を、ひとつひとつ否定してゆく里桜に、義之は不満げな表情になる。
「もう少し嬉しそうにしてくれると思っていたんだけどな」
軽いため息を挟むと、義之は里桜の顔を覗き込んできた。
「まだ思い出していないけど、脳に異常はなかったんだし、たぶん記憶が失くなったわけではないと思うよ。そこに至る回路に不具合が生じてしまったというか、上手く繋がっていないだけなんじゃないかな?」
鼓動まで聞かれてしまいそうなほど間近で見つめられて、捕らえられた瞳が逸らせなくなる。まともに義之の顔を見るのはひどく久しぶりで、その緊張のせいか、義之の言葉が耳を滑ってゆく。



「もし思い出せなかったとしても、きみと元のようにつき合えるようになると思うから、もう少し待ってくれないかな?」
穏やかな物腰のようでいて、僅かも引く気はないのだろうということは、義之の本質を知っているだけに想像がついた。
だからこそ、義之の機嫌をこれ以上悪くしないよう、この場を曖昧に濁して先延ばしにするのではなく、きちんと終わらせることがお互いのためなのだと思う。
「俺とつき合わなきゃいけないって思わないで?元はといえば俺が好きになったからそうなったんだし、そんなに責任感じるほどのことじゃなかったんだから」
「義務みたいには思っていないよ、僕は好きでもない人を身近に置き続けられるほど出来た人間じゃないはずだからね。きみが思ってくれていた以上に、僕はきみに思い入れていたんじゃないのかな?」
少し前の里桜なら簡単に信じてしまっていただろう尤もそうな言葉にも、今は頷くことは出来なかった。
「だから、それは事故に遭う前のことだから……もう、お終いにしよう?ただでさえ忙しいのに、俺に時間を取られるのは勿体無いでしょう?俺も、くーちゃんの面倒見たり、受験対策したりしないといけないし、これ以上煩わされたくないから」
「もう遅い?」
不似合いな弱気を覗かせる口ぶりに、このまま押し切れるかに思えた。
「周りからいろいろ言われて責任感じてるのかもしれないけど、もう気にしないで?俺は子供だし男だし、ムリしなくていいから」
気遣ったつもりが触発させただけだったと気付いたのは、義之の瞳に物騒なものが過ったからだ。
「きみが子供だから抱く気になれないということはないよ?」
子供扱いしない証明とばかりのあからさまな言い方に、ずっと麻痺していた危機意識が働き出す。
少し距離を取っておこうと腰を浮かせかけた時には、既に義之の腕に捕らわれていた。



「いや……」
懐かしい腕に包まれていても、軽いハグさえ拒み続けていた義之から仕掛けられたことがまだ信じられない。
「きみは見た目よりずっと細いね。それに、小さくて甘い匂いがして……わかっていても錯覚してしまいそうだよ」
まるで女のようだという意味なのだろうと、だから抱きしめるくらい嫌悪感なくできるのだろうとわかる。
だから、その先を確かめられる前に密着した義之の胸を押し戻したいのに、背を抱く腕は苦もなく里桜の抵抗を封じてしまう。抱擁というには一方的な、いっそ拘束というべき力強さで、義之は里桜の髪へと唇を近付けた。
「見た目は女みたいでも、俺は男だから……絶対、ムリだから」
進学や進級の度に新しいクラスメイトに言われてきたような、ある意味侮蔑的な言葉を義之には言われたくなかった。落胆させてしまう前に、何とか思い止まって欲しい。
「無理じゃないと思うよ?いつも、きみで抜いてるしね」
「えっ……」
平然と、とんでもないことを言う義之と目が合うのは怖いのに、真偽を確かめたくて顔を上げた。
瞳が合えば、負けてしまうと知っているのに。
「きみが卒業するまで手を出せないとなると、自分で抜くしかないだろう?そのとき他の人を思うだけでも浮気になると僕は思っているから」
意外な貞操観念の固さと、エンドルフィンの分泌に里桜が協力しているらしいということに驚きながら、おそるおそる尋ねてみる。
「あ、あの……俺で、できたの?」
「やみつきだよ」
いっそ誇らしげに言い切られると里桜の方が照れてしまう。別れると決めたのに、この義之は別人だと割り切ることにしたのに、今更そんなことを言って里桜を揺らがせないで欲しかった。



- Defference In Time(5) - Fin

【 Defference In Time(4) 】     Novel       【 Defference In Time(6) 】


エンドルフィンは、神経伝達物質のひとつで、脳内麻薬とも呼ばれています。
気持ちがいいときや、強い痛みを感じているときに分泌されるホルモンで、快感作用と鎮痛作用を持っています。
性行為をするとβ-エンドルフィンが分泌されるんだそうですー。