- CHINA ROSE(8) -



「本当に何も覚えていないの?」
昼寝中の来望(くるみ)を抱いて訪れた里桜の母の、おそらく病院で目覚めて以来何度尋ねられたか知れないだろう問いに、義之は慇懃に頭を下げた。
「申し訳ありません。本当に、どうして一回り以上も年下の高校生を誑かすようなことをしてしまったのか、自分でもわからず当惑しています」
何も思い出していない以上、今の義之にとって里桜とのことは身に覚えのない、受け入れ難い事態なのだろうが、真摯に向き合う気概だけは窺える。
「そんなに卑屈になってもらわなくても、誑かされたなんて思ってなかったんだけど……ただ、手放しで賛成していたとも言えない親の立場としては、困った事態になったことだけは確かね」
先に事情を話してあったとはいえ、母の落ち着き払った態度は、里桜をひどく不安にさせた。里桜が、父親にはまだ黙っていて欲しいと言っておいた理由を、母ならきっとわかってくれているはずだと思いながら、連れ戻されてしまいそうな予感は消えない。
「今後のお考えがあるようでしたら、伺っておきたいんですが」
いかめしい雰囲気は、寧ろ義之に三行半をつきつけられる方が先のような気もする。
「その前に確認しておきたいんだけど、記憶が戻るかどうかというのはわからないものなの?」
「通常、一過性の健忘なら一両日中には思い出すのが一般的だと考えれば、もう何日も経っているのに何も思い出さない僕のような場合は、戻らない可能性の方が高いだろうと思いますが」
まるで他人事のように淡々と語るのは、義之が三年分の過去に未練がないからのようだ。
「今は里桜のことはどう思っているの?」
「特別な感情はまだ……仕事に復帰するのに手一杯で、一緒にいる時間も殆ど取れていないような状態ですから」
「年齢以上に子供で、しかも男の里桜を持て余してる?」
「戸惑っている、というのが本音ですね。一回り以上も離れていれば、どう接したらいいのかも悩みますし」
それで、義之は里桜と一緒に過ごす時間をあまり取ろうとしないのだろうか。
「それなら、里桜とのことは白紙に戻した方がいいのかもしれないわね。すぐにでも連れて帰りましょうか?」
「え……いえ、それは……」
母の申し出に安堵するかと思いきや、歯切れが悪いながらも、義之は里桜を実家に戻すことには同意しなかった。



「っし、ん」
目を覚ました来望が、まだはっきりとは言葉にならない声を発しながら、向かい側のソファにいる義之へと腕を伸ばす。
知っている者にしか聞き取れない、“義くん”という呼びかけを理解できない義之の困惑顔は、あんなにも来望を可愛がっていたことまで嘘だったかのような気分にさせる。
きょとん、と大きな目を丸くする来望に、里桜は考えるより先に声をかけていた。
「くーちゃん、その人は義くんじゃないんだ」
咄嗟の里桜の一言は、義之も母も驚かせてしまったようだったが、言い直そうとは思わなかった。
「いー」
今度は里桜の方に、体ごと伸ばして抱っこをせがんでくる来望を母から受け取る。
「赤ちゃんと同じ顔というのも、すごいね」
里桜と来望の顔を見比べての義之の感想は、褒め言葉のようには聞こえなかった。よく、“里桜をミニチュアにしたような”という形容をされるくらい顔立ちの似た兄弟だという自覚はあったが、里桜を幼いと思っている義之からすれば、1歳児と比べても大差ないように見えるらしい。以前は、まるで里桜が産んだのかと錯覚してしまいそうになると、半ば本気で言っていたのに。
「来たばかりだけど、来望の機嫌が悪くならないうちに帰るわね。これからのことは、夏休みの間にゆっくり考えましょう」
義之が小さな子と接するのは苦手そうだと察したらしい母からすれば、長居は出来ないと判断したようだった。引き止める間もなく里桜の腕から来望を攫ってしまう。
「今度はうちに来てね。その方が来望も落ち着くでしょうし」
「うん。近いうちに行くから」
含みのある母の言葉に同感だと思いながら、慌しく帰ってゆく二人を玄関まで送った。
リビングに戻り、さっきまでと同じように義之と向かい合わせに座ってみても、緊張感で腰が浮いてしまいそうになる。
「あの、時間取ってもらったのにごめんなさい」
日曜でも朝から出掛けることの多い義之に予定を空けてもらっておいたのに、あまりにも早く済んでしまい、良かったような申し訳ないような複雑な気持ちだった。
「僕の方こそ、こちらから挨拶に行くべき所をそのままにしていて悪かったね」
「ううん。そういうのは、とっくに義くんが済ましてくれてるから・・・入院してたことも、黙ってたのは俺の勝手だし、気にしないで」
今の義之は知る由もないが、初めて両親に挨拶に訪れた時は、まるで結婚の申し込みのように厳かだった。そんな大層なこととはつゆ知らず、軽い気持ちで迎えた父親は、義之の舌巧に太刀打ちできず、押し切られたように交際を認めることになったのだった。



「考えてみれば、きみのお母さんの方が僕と年齢が近いんだね。美人だし、あの人と恋愛していたと言われたら疑わなかったかもしれないな」
記憶を失くしていても、里桜の母と気が合いそうだというのはわかるらしい。深読みすれば、里桜は対象外だと念を押されたような気になる。
「……もう、お終いにする?」
その言葉は、考えるより先に里桜の唇から零れていた。
「僕を諦めるの?」
ひどく驚いた顔をする義之を見上げる。自分でも不思議なくらい、気持ちは乱れていなかった。
結論を出すのはまだ早いのかもしれないが、里桜の知る義之を取り戻せないのなら、続ける意味がないと気付いてしまった。もし、里桜とつき合っていた頃の義之が作為的に作られた人格だったのだとしたら、そのきっかけまで失くした以上、何年経っても里桜の好きだった義之になることはないのだろう。
「もう俺のことは気にしないで」
やがて、今の義之なりに愛してくれる日が来たとしても、里桜の知らない義之に愛されることは、望んでいることとは少し違うと思った。
「ずっと放ったらかしにしていたことは悪かったと思うけど、そんなに結論を急がないでくれないかな?もう少し時間をかけてからでも遅くないだろう?」
意外なほど強く引き止められているというのに、もう気持ちが揺らぐことはなかった。
「……本当は、俺みたいなの、タイプじゃないんでしょう?」
「そんなことはないよ。でも、きみはまだ子供だからね。前にも言ったけど、もし恋愛関係になったとしても、きみが大人になるまで待つつもりだよ?」
だから、里桜と向き合うのを少しでも先に延ばそうとしていたのだろうか。
「俺は子供っぽいかもしれないけど、自分のしたことを人に責任転嫁するほどは子供じゃないから……大人だからっていうだけで、そんなに責任感じないで?」
仕掛けられた罠に自ら踏み込んでいったのは里桜の狡さで、誰かを責めるつもりはない。責任というのなら里桜が自分の行動に対して感じるべきことで、義之に丸投げすることではないのだと思う。



「もう待つのは嫌になった?」
「そうじゃなくて……俺がここに居る意味がないと思うし、家に帰った方がお互い良いでしょう?」
「意味がないって、本当にそう思ってるの?」
義之が忘れてしまったのなら、意味も理由も無くなってしまう。今の義之が拘っている“責任”は、恋愛が破綻した時点で消滅する程度のものでしかないのに。
気を抜いたら思いが溢れ出してしまいそうで、口を噤んだ。全てを話す気がないのに、わかってもらいたいと思う方が間違っている。
「きみがやめたいと思ってるんなら、僕には引き止める権利はないのかもしれないけど、元々卒業するまで面倒を見る約束だったんだし、もう少し猶予が欲しいよ?」
まだ、責任を全うしようとする義之には、その方が里桜にとって酷なことなのだと気付いてもらえないらしい。
「じゃ、里帰りしていい?」
「それなら……せっかくの夏休みなのに、一人で留守番しているのも退屈だろうし、里帰りということなら反対しないよ」
「ありがとう」
行ったきり戻ってくる予定がなくても、里帰りというのかどうかは知らないが。
話を切り上げるように立ち上がり、義之の方へ近付く。不必要に接触しないよう窘められて以来、里桜から距離を詰めるのは初めてだった。
「……一回だけ、ギュってしてもらっていい?」
返事の代わりに、秀麗な顔に迷いが浮かぶ。
この期に及んでまだ躊躇うような男が、里桜の義之のわけがなかった。ただ見た目が同じだけの、本来接点のなかったはずの相手。美咲と慎哉のことが誤解だったとわかった時に、無意味になってしまった復讐のように、里桜のことも消し去りたい過去の一部だと思えば納得できる気がした。
「ごめんなさい」
小さく前置きしてから、ほんの一瞬だけ懐かしい体に抱きつく。腕が覚えている義之と、どこも変わっていないのに。里桜と恋愛していた義之はもういないと認めたくなくて、結論を引き延ばしてしまった。
名残惜しさを振り切るように腕を解く。
短い決別の儀式を終えると、里桜は帰り支度を始めることにした。





「なに、その荷物?まさか、家出するとか言うんじゃないよな?」
玄関のドアを開けて迎えに出てきた優生が、里桜の肩に掛けられたスポーツバッグに怪訝な顔をする。ちょっと出掛けるにしては大きな荷物の中身は、慌しく用意した当面の着替えと夏休みの課題だった。
「里帰りしようと思って」
「なんだ、里帰りか……ビックリした」
安堵の息をつく優生をまた驚かせてしまうことを申し訳なく思いながら、本当のところを打ち明ける。
「もう、こっちには帰って来ないと思うけど」
「なっ……何それ?“実家に帰らせていただきます”とかいうヤツ?上がって、ちゃんと聞かして?」
少し強引に腕を引かれて、家の中へと通される。実家に戻る前に挨拶だけでもと思って寄ったのだったが、優生はすんなり送り出してくれそうにはなかった。スポーツバッグをその場に下ろし、優生に急かされながらリビングへついてゆく。
いつものようにソファに並んで腰掛けると、優生は里桜の顔を真っ直ぐに覗き込んできた。
「義之さんとはちゃんと話した?俺が言うのもなんだけど、勝手に出て行くのはダメだよ?」
「うん。里帰りならいいって。俺が卒業するまで面倒を見る義務があるみたいに思ってるから、そういうことにしといたんだけど」
「また義之さんに何か言われたの?」
「ううん、そうじゃないんだけど……ただ、あの人は義くんじゃないってわかったから」
「義之さんじゃないってことはないだろ?俺らの知ってる義之さんとはちょっと違うっていうだけで、たぶん、今の方が本質なんじゃないかな」
優生の言う通り、今の義之が本当なのだと思う。ニセモノだったのは、里桜と恋をしていた義之の方だった。
「そうだよね。俺の義くんは、階段から落ちていなくなっちゃったんだよね」
「里桜……」
返事に窮する優生に、上手く説明できるかどうかわからなかったが、思っているままを話してみる。
「義くんの姿をしてるから、義くんだと思い込んでたけど……違う人になっちゃったんだよね」
「俺は、違う人とまでは思わないけど……あれから何かあったの?」
「何にもないよ。ただ、義くんは嘘つきだったってわかっただけ。義くんはほんとは甘いものなんて好きじゃないし、子供は苦手だし、俺みたいに子供っぽいのは“対象外”なんだよ」
「それは三年前の義之さんがそうだったっていうだけで、好みは変わるかもしれないし、里桜のこともまた好きになるかもしれないだろ?」
「ううん、義くんは俺に合わせて一緒にいてくれてたんだよ。何度責任感からじゃないって言ってくれても違和感があったの、何でかやっとわかったんだ」
一生かけて里桜を幸せにすると言った義之はもういない。記憶と共に義之が消えてしまったのだとしたら、あの約束は全うされたと思うべきなのだろう。



「……それで別れることにしたんだ?」
納得はしていないようだったが、優生に里桜の気持ちは伝わったようだった。
「うん。あとになるほど別れ難くなるだろうし、お互いのためにならないでしょ」
「まさか、これっきりってことはないよな?」
「荷物があるし、何度かは来ると思うけど……もう一緒に住む理由はないから」
「うちに来る理由はあるよな?」
至近距離から見つめられて、つられるように頷いた。
「……うん。夏休みは時間もあるし、また遊んで?」
「俺も暇だし、毎日でも来て?この頃ずっと一緒だったから、急に会えなくなると淳史さんも淋しがると思うし」
淳史が淋しがるとは思えなかったが、素直に受け止めておく。
「うん、ありがと。また入り浸るね」
「そういうことなら、餞別はいらないよな?」
「うん。もう貰ってきたし」
ポケットから、半透明のピルケースを取り出して優生に見せる。軽い音を立てるリングは、洗面所から黙って持ってきたものだった。
「それって、義之さんの?」
「うん。ずっと外したままで置きっ放しにしてたし、要らないんだと思うから」
何より、持ち主がいない今、その指輪は里桜のものだと思うからだ。せめて指輪だけでも、2つ一緒にしておきたい。
張り詰めた気を逆撫でないように、そっと優生の腕が里桜を抱きよせた。肩を抱くように回された手はいつものふざけた感じではなく、ただ宥めるように優しく髪を撫でる。
「……もし逆だったら、どう思う?記憶を失くしたのが里桜で、全然知らない相手に、恋愛関係にあったとか同棲してるとか言われて、納得できる?」
「俺は、もし全部忘れても、何度でも義くんに恋すると思う」
初めて会った日に義之に心を奪われてしまったように、一目見た瞬間に全て囚われてしまうだろう。甘い幻想などではなく、それは確信だった。相手が里桜の知る義之のままなら、絶対に。
でも、里桜より先には死なないと言った嘘つきな恋人はもういない。里桜の記憶の中にしか存在しない。なまじ外見が同じ相手の傍にいると、その記憶さえ危うく揺らいでしまいそうになる。だから、これ以上義之を疑わないでいるためにも、離れた方がいいのだと思う。
「ほんとに、里桜は義之さんがいいんだなあ」
「うん。だから、もう一緒に住むのはムリなんだ」
もう少し、同じ姿を見ても気持ちが乱れなくなるまで。
抱きしめる腕が力を籠める。動揺しているのは優生の方のような気がして、そっと抱きしめ返した。



- CHINA ROSE(8) - Fin

【 CHINA ROSE(7) 】       Novel       【 Difference In Time(1) 】


来望の言う「いー」というのは里桜のことです。
“りー”と言いたいけど発音できないので“いー”になっています。