- Difference In Time(1) -



「ただいま」
連絡もしないまま、訳ありげな大荷物を背負って家に戻った里桜に、母はさして驚いた風もなかった。
「直(じき)に帰ってくるだろうとは思ってたけど、こんなに早いとはねえ」
「だって……」
母の呆れきった態度に軽くヘコむ里桜の方へ、覚束ない足取りの来望(くるみ)が歩いてくる。
「いー、いー」
短い両手を広げて、里桜の脚に狙いをつけて飛び込んできた。胸へと抱き上げると、満面の笑顔で里桜を癒してくれる。
「くーちゃん、これからはいっぱい遊んだり一緒に寝たりしようねー」
「えー」
ねー、と同意する来望の歓迎ぶりだけが、今の里桜の救いに思えた。
「里桜、その前に何か言うことがあるんじゃないの?」
少し硬い声音に、追い返されるのかとドキリとする。
「ごめんなさい……夏休みに入ったから、里帰りさしてもらいたいんだけど、暫く居ていい?」
「里帰りは構わないけど、義之さんに黙って帰ってきたんじゃないでしょうね?」
いつも優しい母だからこそ、少し強めた口調に身が引き締まる思いがした。
「ちゃんと話したよ。里帰りならいいって」
「いつまで居るつもりなの?」
里桜の思惑を察しているのか、母の追求は容赦がない。
「できれば、夏休みの間ずっと居たいなあと思ってるんだけど……」
「一ヶ月以上、義之さんと家事を放ったらかしで?」
「だって……」
「二学期になったら義之さんの所に戻るの?」
何もかも見透かしたような問いかけに、まだまだ母には敵わないことを思い知らされた。
「……義くんが別人みたいになっちゃったの、お母さんだって知ってるでしょ?」
「確かに、あんな生真面目そうな義之さんは有り得ないわね」
それなりに義之の本性を知っている母には、里桜の言いたいことを理解してもらえているはずだった。
「ブ、ブー」
抱っこに飽きて降りたがる来望を、そっと床へと立たせる。ててて、と危なげな足取りで、先まで遊んでいたらしいミニカーの方へ走ってゆくと、ラグの上に座り込んで一人遊びを始めた。
里桜と母は少し離れたソファに腰掛けて、機嫌よく遊ぶ来望を見ながら話を続ける。
「里桜は義之さんとお別れするつもりで帰ってきたの?」
「うん……俺がいても意味ないし」
「意味ないって、そういうようなことを言われたの?」
「ううん、そうじゃないけど……仕事のつき合いとか、勉強とか、いろいろ忙しいみたいで、俺なんて居ても居なくても一緒みたいだから」
むしろ、里桜がいることで余計な気を遣わせているぶん、迷惑になっているのではないかと、つい卑屈になってしまうほどだった。
「でも、お母さんが里桜を連れて帰りましょうかって言った時も引き止められたでしょう?別れることに義之さんが同意するとは思えないんだけど」
「うん……里帰りはいいけど、もう少し猶予が欲しいって」
「そうね。里桜はちょっと気が早過ぎるようね」
義之が事故に遭ってからもう半月ほど経っているのだとは知らない母に、里桜の我がままのように思われるのは仕方のないことだった。
「でもね、あそこに居ると、知らない人と住んでるみたいで息が詰まっちゃうんだ」
「里桜は意外と人見知りなところがあるものね」
里桜の言い分にも頷いてくれる母に、それなりの時間をかけてムリだという結論に至ったのだとは言えなかった。


「ない、ない」
同じ言葉をくり返しながら、来望は手にしたミニカーをバスケットに入れ始めた。片付けをしているというより遊びのうちらしく、全部入れ終わらないうちに、また取り出しては並べてゆく。
こうやって来望と遊んだり、優生の所へ行ったりしているうちに、少しずつ記憶も風化していくのだろうか。
「来望を育ててみる?」
「え……」
唐突過ぎる母の提案に耳を疑う。
「夏休みの間だけでも、来望の面倒を見てみたら?前に来望を養子に欲しいって言ってたでしょう?」
「それは義くんで、俺が言ったわけじゃないでしょ」
もちろん来望のことは可愛いと思うし、養子に貰いたいという義之の野望が叶っても構わないと思ってはいたが、それはあくまでも当時の義之が強く望んでいたという前提があってのことだった。
「ずっと育てるっていうのはムリでしょうけど、気分転換を兼ねて、しばらく来望の育児に没頭してみない?」
「でも、俺には育児なんてムリだよ」
「保育士になろうと思ってるんでしょ?子育てして損にはならないわよ?」
ずっと迷っていた進路を明確にしたのは、もう義之に束縛されることはないと思ったからだった。今時、女子でも三者面談で家事手伝いなどと言う生徒はおらず、高校を卒業した後は家に居るよう強く勧めていた義之が事故に遭ったことで、里桜はそれまで漠然と思っていた保育士になるという道を選ぶことに決めた。
「でも、俺、ゆいさんの所に遊びに行くって約束しちゃったし、ずっとはムリだよ」
「毎日行くわけじゃないでしょう?里桜の都合に合わせるから、やってみたら?」
「それなら大丈夫かな……でも、お母さん、義くんには預けるのも絶対ダメって言ってたのに急にどうしたの?」
「あの頃の義之さんに冗談でも“来望のお世話してみる?”なんて言ったら一生返してもらえなくなりそうだったもの。でも、里桜ならそんな心配ないでしょう?それに、来望の面倒を見て貰いたいっていうのは本音なの。お母さん、今度こそ女の子だといいなと思ってるし」
「え、お母さん、もう一人産むつもりなの??」
「そうなのよ。義之さんがあんまり欲しがるから、もう一人産んでおかないと二人とも取られるんじゃないかって心配になっちゃって」
「……もしかして、もうお腹にいるとか?」
「まだ病院に行ってないんだけど、たぶんそうだと思ってるの。だから、里桜が来望の面倒を見てくれると、お母さん助かるんだけど」
来望の時と違って母が元気そうだったから気付かずにいたが、どうやらもう一人、弟か妹ができているらしい。里桜のためだけでなく母の都合だと知ると、もう断る理由はなくなってしまった。





ドアホンを鳴らそうと伸ばしかけた人差し指が、隣のドアが立てた音に驚いて止まる。
今日は一人で留守番することになったから暇だという、優生からのメールに喜び勇んで来てみれば、絶妙なタイミングで隣家のドアが開いて家主が姿を現した。
「あ……」
思わず洩らしてしまった声に驚いたのか、義之は顔をこちらに向けて、想定外の事態にフリーズする里桜を不思議そうに見つめた。
「おはよう。こっちじゃなくて、そっちなの?」
義之の問いの意味が理解できるまでに暫くかかり、呆けたように見つめ返してしまった。
「え、えっと……?」
「まず僕の所に帰ってから、隣に挨拶に行くものなんじゃないのかな?」
「あ、あの、俺、ゆいさんに会いに来ただけで……」
「ここまで来てるのに、僕に顔も見せないつもりだったの?」
「あ・・・ごめんなさい」
強行に里帰りしたきり一週間近く連絡ひとつ入れていない里桜に、まだ別れたとは思っていない義之は気を悪くしているようだ。
「僕も今日は外せない用があるから引き止められないんだけどね」
その用が淳史を伴うものなのか、いつまでも里桜が押せずにいたドアホンのボタンを義之が先に鳴らした。
応答が遅いようだと思う間もなく、優生がドアを開ける。
「おはよ、とりあえず中に入って」
里桜の迷いを見越したかのように、間髪入れずに優生は中へと促した。後から入ろうと思っていた里桜を、義之は先に通させる。
「ここにはよく来てるの?」
義之の問いが責めるようなニュアンスを含んで聞こえるのは、里桜に疚しい気持ちがあるからだ。事実を答える勇気はなかったが、嘘をつくこともできずに黙り込んでしまう。
「里桜には俺が無理言って通って来てもらってるんだ。この頃ずっと、家族みたいに一緒に過ごしてたから、離れてると何か違和感があって」
里桜が答えられないことを察してか、優生が庇うような言い方をする。優生の返事のどの部分が気に入らなかったのか、義之は一瞬だけ微妙な表情を見せた。
「ずいぶん仲がいいんだね。でも、僕も午後の早いうちに戻るつもりだから、こっちにもおいで?」
優しげな言葉ほど義之の口調は穏やかではなく、どこか有無を言わせぬ響きが籠っていた。
それでも、かつて義之に一目惚れしてしまった日のような極上の笑顔を向けられると、里桜は魅入られたように視線を外せなくなってしまう。自分の容姿が相手に与える効果を存分に知ったうえでの意図的な行為だとわかっていても、バクバクと走り出す鼓動は鎮められない。


リビングでは、眠っているのかと思うほど深くソファに凭れかかった淳史が、不機嫌そうなオーラを漂わせていた。どうやらその原因は義之らしく、里桜の後ろへと鋭い視線をやる。
「……やっぱり、時間は無視か。何時の予定だったか忘れたってことはないよな?守る気がないんなら、時間を決めてる意味がないだろうが」
「悪かったよ、じっとしている時間が勿体無くてね」
淳史が怒るのも無理はなく、里桜の知る限りでも記憶を失くしてからの義之は、まるで何かに追い立てられているみたいに予定を前倒しにする傾向があった。
「それを見越して早く用意をしなけりゃならないこっちの都合も考えろよ。どうせ、この後の予定も繰り上げてるんだろう?」
「淳史の都合がつき次第行くと言ってあるから、そんなに無理してもらわなくても構わないよ?」
「俺のせいで遅れるみたいだろうが」
それこそが我慢ならないと言いたげに、淳史が背を起こす。大柄な体格からは想像もつかないくらい、淳史は神経質なところがある。
「あっくん、おはよ。お疲れみたいだけど、大丈夫?肩でも揉んであげようか?」
機嫌を窺うように近付いて声をかける里桜に、淳史は軽く首を振った。
「悪いな、今はおまえより優生がいい」
言い終わるや否や、淳史は傍に来ていた優生の手首を掴んで引き寄せると、バランスを崩した体を強引に抱きしめた。見慣れていないわけでもないが、朝っぱらから眼前で繰り広げられるには少し目の毒な光景だ。
「も、こういうの、気まずいからやめてって」
人目を気にして離れようとする優生を、淳史は羽交い絞めにするようにきつく抱きなおした。優生の項へと顔を埋めて、離れている時間のぶんまでチャージしておこうとするように目を閉じる。それは記憶を失くす前の義之がいつも里桜にしていた行為に似て、思い出すとまたせつなくなってしまう。
「……土曜まで譲ってやってるんだ、このくらいさせろ」
淳史の声は低めた小さなものだったが、里桜にも聞き取れてしまった。優生と里桜が一緒に過ごす時間がどんどん長くなっていくことに、内心穏やかではなかったようだ。
「そろそろ気がすんだかな?行くのが遅くなれば、帰るのも遅くなるよ」
所在無く立ち尽くす里桜の後ろから、義之が“補給”にストップをかける。もしかしたら、居辛いのは里桜より義之の方なのかもしれない。
「とことん無粋な奴だな……」
ぼやきながらも、淳史は優生に回した腕を解いた。ホッと気を抜く優生の頬 を大きな手で包むと、一瞬のうちに上向かせてキスをしてしまう。
里桜は思わず声を上げそうになった口元を押えて、目を瞑った。肩越しに、義之が深く息を吐く音が聞こえた気がしたのは、きっと気のせいではないはずだ。
「そう長くかからないらしいからな、いい子にしてろよ?」
席を立つ気配に、そっと目を開けてみると、淳史は何事もなかったようにリビングを後にしようとしていた。二人を送り出すために優生が後からついてゆく。少し迷ったが、里桜はその場で待つことにした。


「ごめん、淳史さんの用意ができたら隣に行くことになってるって聞いてたから、義之さんがこっちに顔出すとは思ってなくて」
ほどなく戻ってきた優生は、申し訳なさそうな顔をしながら、里桜の腕を取ってソファへと促した。
「ううん……俺も、タイミングぴったりで鉢合わせちゃってビックリしただけだから。あっくんも一緒ってことは仕事じゃないんでしょ?義くんが土曜日に仕事じゃないのって珍しいよね」
「なんか、義之さんの身内の人に会うらしいよ。お父さんとお義兄さんに事故のこと話してなかったらしいんだけど、記憶のない状態じゃ説明とか難しいだろ?それで淳史さんが付き添ってあげるみたいだよ」
「……義くんて、お父さんと仲良くなかったけど、三年前はそうじゃなかったのかな?」
初めて義之の父親に会った頃のことや、美咲を引き合わせたことはなかったと言っていたことを思い出すと、親しくしていたとは考えられなかった。
「わりと険悪だったみたいだよ?いろいろ行き違いがあったみたいで、淳史さんと俺が知ってることは話しておいたんだけど」
どうして里桜には殆ど聞かされていないことを、優生が詳しく知っているような口ぶりなのか不思議だった。
「ゆいさんも、義くんのお父さんやお義兄さんのことを知ってるの?」
「え?里桜って、俺が淳史さんの前につき合ってた人と義之さんが兄弟だって、聞いてない?」
「うん。初耳」
「でも、前につき合ってた人の話はしたことあるだろ?俺に料理とかいろいろ教えてくれた褒め上手な人のこと。その人が俊明さんって言って、義之さんの義理のお兄さんだよ」
「そうだったんだ……じゃ、お父さんのこともいろいろ聞いてる?」
「わりと知ってると思うけど……三人それぞれから話を聞いたおかげで、思ってたほど悪い人じゃないのかもって、先生に対する認識も変わったし」
「……ゆいさん、義くんからも先生の話を聞いたの?」
「先生の話っていうより、義之さんのお母さんの話だけど……俺が淳史さんの所に戻ってから上手くいってなかった時期があっただろ?その時に、お説教されたみたいな感じで。なんか、義之さんのお母さんも義貴先生に黙って失踪したらしくて、そのせいで先生があんな風になっちゃったとか、だから黙って居なくなる方が迷惑だっていうような話だったんだけど」
里桜にはあまり多く語らなかった両親のことを、優生には詳しく聞かせていたということらしい。それが必ずしも里桜を軽んじていたという意味ではないと頭ではわかっていても、またひとつ義之に対する不信感が増してゆく。
「義くんは、ゆいさんのこと、すごく気にかけてたもんね」
優生の体調管理のために頻繁に仕事を抜けて来ていたとか、その内容を里桜には話せないくらい優しく接していたとか、本当は知らないままでいたかった。今となっては真意を確かめようもないのに、疑惑だけが里桜の中で膨らんでゆくようで、何もかもが嘘だったように思えてくるのが怖い。
「俺、義之さんのお母さんに少し似てるらしくて、それで気にかけてくれたみたいだよ。そんなことより、俺は、里桜が義貴先生をカッコイイって言ったから、義之さんが敵愾心を剥き出しにしてたって聞いたけど?」
「え……そんなことは……」
そういえば、里桜が義貴のことを褒めたり話題にしようとしたりするだけで、義之はいつも不機嫌になっていたのだった。



- Defference In Time(1) - Fin

Novel       【 Difference In Time(2) 】


全部読んでくださっている方にはちょっとクドイかもしれません……。
自分の頭も整理しつつ書いているのですが、ウソを書いてしまっていたらごめんなさい。