- CHINA ROSE(6) -



「ほんとに大丈夫だから」
義之が戻るまで、と引き止める淳史と優生をどうにか説得して、見送られながら部屋を後にした。こんなにも甘やかされるのは、よっぽど里桜が頼りなく見えているからなのだろう。
義之から夕食も済ませて帰るという連絡が入ったおかげで、里桜は三食とも淳史と優生の世話になっていた。二人の時間を邪魔している申し訳なさと、心配して貰う心地良さで揺れながら、何とか自制心が勝って誰もいない家に戻ってきた。
玄関と暗い部屋に電気を点けてエアコンを入れてから、バスルームに向かう。また義之が調べ物でもしながら夜更かしをするのなら、邪魔にならないよう早めに部屋へ引っ込んだ方がいいのだろうし、今のうちに入浴しておいた方がお互いに気を遣わずに済むと思った。
「あれ?」
ふと、洗面台の棚で光る、プラチナの指輪に目が止まる。見覚えのあるそれは義之の薬指に嵌っていたはずのもので、里桜の記憶にある限り、外したままにされたことは一度もなかった。
思わず手に取って、内側に彫られたネームを確かめる。
そんなことをしなくても、ほぼ2年間ずっと義之の指に嵌っていた間に無数についたごく細かな傷まで、里桜が見慣れたものに間違いないとわかっていたのだったが。
「……忘れていったのかな」
そう呟きながらも、わざわざ外す理由は思い当たらず、結婚していた期間も指輪はしていたはずの義之には、経験のない里桜のように嵌め慣れないとか、職場にしていけないといった事情はないはずだった。
無造作に置かれた指輪は、そのまま里桜の扱いのような気がする。捨ててしまうことは出来なくても、身に付けておくには邪魔になるもの。おざなりにしておけば、そのうちどこかへ行ってしまうかもしれない小さな存在。失くしたからといって惜しむほどでもない、寧ろ手を下さずに消えてくれればと思っているのかもしれない。
「……やば」
考え込むほどに、らしくないほど悲観的になってしまうと気付いて、里桜はそれを振り払うように両手で頬を叩いた。



「そんな薄着では風邪を引くよ?」
玄関まで出迎えに走った里桜に、義之は少し困ったような笑みを浮かべた。
「……あ、ごめんなさい」
タンクトップに短パン姿は夏場の里桜のパジャマ代わりで、緩くクーラーを効かせた部屋では寒さを感じることはない。けれども、義之の目にだらしなく映るのなら、気を付けなくてはいけないと思った。
急いで寝室の奥のウォークインクローゼットへ行って、上着を羽織り、クォーターパンツに穿きかえる。ふと気付いて、ついでに着替えも数枚抜いておいた。
里桜がリビングに戻ったときには義之の姿はなく、バスルームに行っているようだった。入浴を優先するのは、夏場の汗や体に移った煙草の匂いなどをひどく気にする義之らしい。
待っている間に飲み物でも用意しておこうと思ったが、今の義之の好みがわからず、無難に氷とミネラルウォーターを出しておくことにした。
少し長湯だと思っていたら、義之はきちんと着替えて髪も乾かしてからリビングに戻ってきた。そのままコンビニやドラッグストアに行っても全く問題なさそうな、スタンドカラーのTシャツにハーフパンツ姿は、まだ親しいとはいえない里桜に気を遣っているのかもしれない。
「あの、お水でいいの?もしかして、お酒の方が良かった?」
迷いながら声をかける里桜に、義之は少し驚いたような顔を見せる。
「ありがとう、僕は家で一人では飲まないよ。まさか、きみが酒豪ってこともないんだろう?」
「あ、俺は全然……すぐ酔っちゃうし、まだお酒はダメって義くんが」
本人を前にして“義くんが”もないが、何気に言ってしまっていた。
「そうだね。お酒も恋愛も、大人になってからにしようか」
どさくさに紛れて釘を刺されると、良い子の返事はできなかった。その話題を続けるのが嫌で、少し強引に話を戻す。
「あの、ついでに食事の好みとか確認しておきたいんだけど」
「知ってるんじゃないの?」
「でも、俺の知ってる義くんとは違うみたいだから……」
もしかしたら、前の義之も無理をしてつき合ってくれていたのかもしれないが。疑い出すと、キリがなく不安になってしまう。
「どうしても食べられないようなものはないはずだし、きみに任せる以上、文句は言わないつもりだよ」
「じゃ、食べたいものがある時は言ってくれる?」
「そうするよ。だから、そんなに気を遣わないで、前と同じようにしてくれればいいよ?」
そう言いながら、外との付き合いを重視するようになった義之が、家で夕食を摂ることは無くなってしまうのだったが。



週が明けてからの義之は、記憶がない部分を補うためにひたすら情報収集と勉強に明け暮れているようだった。
“遅くなるから先に寝ていて構わないよ”というのがこの頃の義之の“いってきます”代わりの挨拶で、無事に帰ってきたのを確認してから眠るというのが里桜の習慣になりつつある。
ほぼ毎日、義之は会社の誰かと食事を済ませて遅く戻ると、すぐに入浴を済ませてパソコンに向かう。難しい顔をして分厚いファイルをめくったり、舌を噛みそうなカタカナやアルファベットの並んだ書類と見比べては何やら書きものをしたり、里桜が声をかけるのを躊躇ってしまうような真剣な眼差しで作業に没頭していた。
失くした記憶は、少しずつ思い出すかもしれないし、何年も先に突然思い出すことがあるかもしれないし、思い出さないまま一生を終える場合もあるかもしれないという、詰まるところなってみなければわからないという酷くあやふやなものらしかったが、義之は特に思い出したいとも思っていないようだった。あてにならない可能性を待つぐらいなら、自分でどうにでもするつもりなのだと見ていてわかる。里桜の知っている義之も、何の根回しもせずに朗報を待っているようなタイプではなかった。
まるで怖いものなどもう何もないかのような義之には、なす術もなく不安がっている里桜の気持ちなど、きっと想像もできないのだろう。いつか里桜のことを思い出すのか、一生忘れたままなのか、それだけでも知りたいのに。
里桜の焦りを他所に、義之はどんなに忙しそうにしていても、“ただいま”や“おやすみ”の挨拶を交わすことと、家事全般を引き受けている里桜への労いの言葉をおざなりにはしなかった。実際には、里桜がいれば家事に時間を取られずにすむという以外に義之にメリットがあるとは思えなかったが、義之が感謝の言葉をくれるから、つい役に立っているような気になってしまう。家事が不得手なわけでなく、面倒くさがりというわけでもない義之には、里桜がいなくても特に困ることはないとわかっていても。
一緒に過ごす時間が殆どない生活の中で、それは里桜の存在意義のようで、知らず知らずのうちに家事に気合が入るようになっていった。




「肩凝ってるの?」
無意識にコキコキと首を鳴らした里桜を、優生が心配げに覗き込む。
ほぼ毎日、学校帰りに優生の所へ入り浸っているせいか、今では自宅にいるより居心地が良くなっていた。いつものように、広いソファで優生と並んでいると、何かを勘違いしてしまいそうになる。
「首回すと痛いし、凝ってるのかなあ」
「ちょっと解そうか?横になって」
「ううん、そんな大したことないから……」
遠慮する里桜を、優生は少し強引にソファへとうつ伏せに押さえ込んだ。片膝をついた優生に、肩へと両手をかけられてマッサージされると、声を上げてしまいそうなくらい気持ちがいい。
「ゆいさん、ヤバいよー。めっちゃ気持ち良すぎて寝ちゃいそう」
「いいよ、少し寝れば?どうせ義之さん、遅いんだろ?」
「そうだけど……」
義之のことを思い出しただけで、条件反射で背筋が伸びる気がする。
「気、遣い過ぎだよ。里桜が肩凝るなんて珍しいんじゃないの?」
優生の言う通り、日頃ノーテンキな里桜の肩が凝るなど滅多にないことだった。
「なんか、義くんといるときちんとしてなきゃっていう気になっちゃって」
「里桜って淳史さんには全然なのに、何で義之さんにだけそんなに気を遣うんだよ?それに、あんまり家にいないんだろ?もっとラクにしてれば?」
「そうなんだけど……気を抜くと何かやらかしちゃいそうで落ち着かないっていうか、義くんが居なくても同じ家に住んでるってだけで気張っちゃうっていうか……」
「家に居るだけで緊張するってこと?そんなんじゃ、夏休みに入ったらどうするんだよ?」
「そうなんだよね……里帰りしようかとも思ってるんだけど」
未だ義之の記憶は戻る気配が全くなく、いつまでも里桜の両親に黙ったままではいられないとわかっている。まずは里桜から事故の話をしたあとで義之を交えて話し合うことになるだろうが、元から諸手を挙げて賛成していたというわけではない両親が現状を知れば、連れ戻されるのは必至だった。何より、今の義之が両親を説得しようとするとは思えなかった。



「眠くないんなら、シフォンケーキ食べる?」
すぐに考え込んでしまいそうになる里桜の気を、優生が甘いもので釣ろうとする。それに乗るために体を起こした。
「今日も、ゆいさんの手作り?」
「うん。って言っても、混ぜて焼いただけなんだけど」
「ううん、いつもありがとう。ゆいさんのおかげで、夏バテしないですみそう」
「じゃ、すぐ用意してくるから」
里桜が食べないことを心配して、優生は毎日のようにお菓子を作ってくれるようになった。里桜のためだけに何かしてくれるというのが嬉しくて、ますます優生に懐いてしまったような気がする。
そうでなくても、里桜は義之の朝食を用意する以外は、殆ど優生の世話になっているようなものだった。こんなことになる以前からしょっちゅう入り浸っているせいか淳史に迷惑がられることもなく、今の里桜はどちらに住んでいるのかわからないような状態だ。
ほどなく、アイスティーとシフォンケーキの乗ったトレーを持った優生が戻ってきた。カットされたシフォンケーキにはホイップクリームが添えられていて、チョコレートシロップがかけられている。
「そういえば、里桜って生クリームは苦手だって聞いてたけど、この間は普通に食べてたよな?」
「うん。生クリームべったりっていうのが苦手なだけで、生クリーム自体は嫌いじゃないから。俺、かなりの甘党だと思うけど、むつこいのはダメなんだ」
「ああ、だから太りにくいんだ?そういや、量は凄いけど、油っこいのはあんまり食べてないよな」
「太りにくくはないよ、それなりに気をつけてるし。こうやって甘いもの責めされると、すぐ丸くなっちゃうんじゃないかなあ」
義之と出逢った頃がそうだったように、こんな生活が続けばあっという間に横に広がってしまいそうだ。
「でも、義之さんもあんまり細くない方がいいんだろ?俺も里桜とくっついてると柔らかくて気持ちいいし」
「ほんと?」
「うん。だからいっぱい食べて?」
その言葉に安心して、里桜は甘いものの誘惑に従うことにした。



「……ゆいさん?」
当たった、というのではなく、明らかな意図をもって腰の辺りへ触れられたようで、確かめようと隣に座る優生を見上げる。妙に真面目な表情で距離を詰められても、満腹感と満足感で緩んだ気は、すぐには反応できなかった。
「義之さん、相手してくれないんだろ?」
「や……ゆいさん、だめ」
抵抗を封じるように抱きしめられても、いつもの悪い冗談のような気がしてしまう。こんな時だけ格闘系を主張されても、いつもの弱々しい痩せた猫のような印象に惑わされて、強く抗うことはできなかった。体の線を辿る手は服の上からでも、薄着の里桜にとってはひどく生々しく感じてしまうのに。
いたずら、というには行き過ぎな手が、ハーフパンツの裾から覗く腿を撫でる。
「や……ん」
うなじにかかる吐息に脱力してゆく体がゆっくりソファへと倒されてゆく。優生の真意がわからないまま身を任せてしまうのは不安で、あまり力の入らない指で肩の辺りをそっと掴んだ。
「待って、俺、欲求不満なわけじゃないから……」
「そうなの?もう一週間も経つのに?」
心底意外だと言いたげな表情に、どう返したものか迷ってしまう。
優生は以前からこういう不謹慎なところがあって、どこまで本気なのかわからないが、身の危険を感じたことは一度や二度ではなかった。
「前にも言ったと思うけど、俺、義くんじゃないとイヤだから・・・そんな心配はしないで?」
「里桜はマジメ過ぎてつまんないなあ」
本気でがっかりした様子に、複雑な気持ちになってしまう。
「ごめんね。でも、ゆいさんだって俺とベタベタしてたらあっくんに怒られるでしょ?」
「……それは置いといて、もう少しベタベタしてようか?」
「でも」
「義之さん、今日は淳史さんと一緒に帰ってくるらしいよ?」
「え……」
あまり一緒に過ごすことのなかった義之と、今夜は長く過ごすことになるのかもしれないと思うと、急に緊張感が甦ってくる。淳史や優生も一緒なら間が持たないということもないのだろうが、もう寛ぐことはできそうになかった。



- CHINA ROSE(6) - Fin

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