- CHINA ROSE(4) -



目が覚めたら全て夢だったとか、何もかも元通りになっていたとか、あるはずのない展開を願ってしまいたくなる朝だった。
結局、昨日は優生の差し入れの弁当以外何も口にしていなかったというのに、未だに里桜は空腹を感じていない。それでも、他にできることもなく、朝食の用意をして義之が起きてくるのを待った。
甘いものは好きではないと言っていた義之に合わせて、オーソドックスなサンドイッチにアスパラとベーコンのサラダ。義之が起きてきたらコーヒーを淹れようと思っていた。
手持ち無沙汰にテレビをつけて時間を潰していたが、よく眠れぬまま6時に起床した里桜と違って、義之は7時を回っても起きてこなかった。
ふと、もしかしたら寝ている間に義之に何かあったのだろうかと考えたとき、いてもたってもいられなくなって寝室へ走った。
「義くん……?」
寝入っているのか、里桜の控えめな呼びかけには義之は反応しなかった。そっと、呼吸を確かめるように顔を近付ける。
寝顔は里桜の知っている義之と同じなのに。
「……きみは本当に人の寝込みを襲うのが好きだね。僕は朝方まで起きていたから、もう少しゆっくりしたかったんだけど?」
里桜の知る義之の寝起きからは考えられないほど不機嫌そうな表情に、慌てて離れた。
「ごめんなさい。義くん、いつも早起きだから……具合が悪くなったのかと思って……」
「そんなに心配しなくても、特に異常はなかったと言っただろう?」
ゆっくりと上体を起こす義之が、僅かに顔を顰める。動かすと痛いと言っていた肩か背中に響いたらしい。
「大丈夫?」
思わず手を伸ばす里桜に、義之は少し困った顔をする。
「大丈夫だよ。起きるから、先に行っててくれないか?」
言葉にされなくても、触れられたくないのだと、鈍い里桜にもわかった。


義之のぶんのコーヒーをテーブルに運ぶと、里桜はソファの方に向かった。今の義之と向き合うには少し勇気が足りない。
「きみは食べないの?」
「……あの、俺はもう」
「そう」
手付かずだと、普段の義之なら気付きそうなものなのに、里桜の返事を、先に済ませたと解釈したようだった。
間が持たなくなる前にテレビを付けて、視線を画面の方にやる。義之に疎ましく思われないように過ごしていける自信は、今の里桜にはなかった。
二人では間が持たないと思ったのは義之も同様だったのかもしれない。
「ちょっと早いけど、淳史の都合が良ければ来てもらっても構わないかな?」
「俺はいいけど……」
約束は10時で、“ちょっと”なんてものではなく早いのだったが。
「電話もかけてもらえると助かるんだけど?」
「うん、聞いてみるね」
休日の8時前に電話をかけていいものかどうか迷いながらも、今は淳史より義之の方に気を遣ってしまう。
だから、2コール目で出た淳史の声が寝起きではなさそうだったことにホッとした。
「ごめんなさい、早くに……うん、おはよ。あのね、あっくんとゆいさんの都合がついたら早めに来てもらってもいい?ううん、うん。じゃ、あとでね」
通話を終えて、一呼吸置いて義之の方を見る。
「30分くらいで来られるって」
「ありがとう。やっぱり携帯がないと不便だね。早く買いに行かないと」
「あっくんと一緒に行くんだよね?」
「そうだね。そのあと午後は会社の人に会うことになったから、僕は夕方まで戻らないと思うよ」
そんなにムリをしない方が、と言い掛けて、余計な口出しだと気付いてやめる。義之は少しでも早く三年間を埋めようと、時間を惜しんでいるのだろうと思った。



揃って訪れた淳史と優生の顔を見ただけで、里桜は安堵のあまり泣きそうになってしまった。自分で思っている以上に、義之と居ることは里桜をひどく緊張させているらしい。
「寝てないのか?」
「ううん」
僅かに目尻の上がったきつい表情に、里桜は勢いよく首を振る。淳史の機嫌が悪そうに見えるのは、里桜を心配してくれているからだというのは充分に伝わってきていた。
「それなら、何でそんなひどい顔になってるんだ?」
「ひどいって……やだ、俺ぶすになってるの?どこらへん?目元?ほっぺた?全部??」
咄嗟に両手で頬を包んだ里桜に、優生が可笑しそうに笑う。
「里桜は今日もキレイだよ?ただ、瞼を腫らして目を赤くしてるから心配してるだけ」
思いがけない一言目をまともに受けて、里桜の頬が熱を帯びてゆく。すかさず優生の腕を引く淳史が低めた声で諫める。
「俺の前で口説くな」
「こっそりだったらいいの?」
今にも口論かラブシーンが始まったらどうしようと、里桜は慌てて話題を変えた。
「あの、ごめんね?せっかくの日曜なのに来てもらって。義くん待ってるし、そろそろ中に入って?」
「人に気を遣っている場合じゃないだろうが。こんな時ぐらい我儘言っとけ」
「うん、ありがと」
場所を移すとすぐに淳史と義之は話し始めたが、優生は全く気にしない様子で間から声をかけた。
「おはよ、義之さん」
いつにないほど優生の態度は不遜で、義之に対する敵意のようなものが窺える。
「おはよう。しばらく淳史を借りるよ?」
「じゃ、違う部屋に行ってようか?俺たち、いない方がいいんでしょ?」
あけすけな優生の言い草も、義之は全く気にしていないようだった。寧ろ、優生に向ける目は嬉しそうにさえ見える。
「放ったらかしにして悪いね。もう一度きみと親睦を深めたいのはやまやまだけど、今は過去を埋めるのに忙しくてね」
「いいよ、俺は里桜とベタベタしてるから」
含みのある言葉も義之の気を逆撫でることは出来ず、微笑ましいと言わんばかりに笑われてしまった。



優生に誘われるまま、里桜が昨夜から過ごすことになった和室へと移動する。普段使っていなかった部屋は昨日出した布団が一式あるだけで、机ひとつ置いていない。
「昨夜もあんまり眠れなかったんだろ?」
「……うん」
「里桜のそんな顔、初めて見たよ。朝はもう食べた?一応、軽く用意して来たんだけど」
優生は持ってきた紙袋から小さなトレーに乗った朝食を取り出すと、畳の上にタオルを敷いてお茶や割り箸を並べ始めた。ラップに包まれたおにぎりと、焼き鮭や厚焼き卵の覗くタッパーを見ていたら、自然と目元が熱くなってくる。
「ごめんなさい、昨日もお弁当作ってもらったのに……」
「そんなの気にしないでいいから食べて。食欲魔人の里桜が食べてないと、淳史さんも俺もうろたえるだろ?」
「そうだよね……ごめんなさい、いただきます。ゆいさんがいてくれると食べられそう」
里桜は、今の義之と一緒にいると落ち着かなかった。まるで知らない人と一つ屋根の下で暮らしているような緊張感で、胸が詰まってしまう。
「俺がいたら食べられるんなら、いつでもつき合うよ?」
「ありがとう」
「俺も里桜にはお世話になったし。もしここに居たら寛げないんだったら、うちの方に来てれば?」
傍目に見ても、義之と里桜はぎこちなく見えているのだろうか。
おにぎりのラップを外しかけた手を止めて、優生を見る。
「……ねえ、ゆいさん。あの人は義くんだと思う?」
優生は少し驚いたような顔をしたが、すぐに頷いた。
「俺は義之さんは元々ああいう人だと思うけど、里桜に対してだけは別人みたいだよな。俺が里桜とベタベタするって言っても、あんな風に笑うくらいだし」
優生の答えに、里桜の感じていた違和感の理由がわかった気がした。



里桜の朝食が終わる頃、廊下を挟んだ隣室で響いた音に飛び上がりそうになった。おそらくテーブルを叩いただろうと知れる剣幕に、里桜の心臓がバクバクと乱れ始める。
「淳史さん、気が短いから」
まるで想像していたかのように、優生はさほど驚いた風もなく腰を上げた。里桜もつられて立ち上がる。
「里桜は食べてていいよ?」
「ううん、もう終わったから……ごちそうさまでした」
立ったままで両手を合わせて挨拶をしてから、優生に続いて部屋を出る。その間にも聞こえてくる淳史の怒声に気が急いた。
「おまえは自分が何をしたのか覚えてないからそんなことが言えるんだ」
「だから、僕が何をしたのか教えてくれって言ってるんだろう?答えないのは淳史の方だよ」
それが淳史に口止めしてあった話のことだと気付いて、慌てて駆け寄った。今にも淳史が答えてしまいそうで、背後からしがみついて止める。
「あっくん、やめて」
もしも義之が忘れたままでいられるのなら、里桜と一緒に住むことになった本当の理由は知られたくなかった。責任感で縛り合うのは、もう終わりにしたい。
「人のものにそういうことをするのはよくないよ?」
その言葉が里桜にかけられたものだということも、言われている意味も、すぐには理解できなかった。
「俺に気を遣ってくれてるんだったら、余計なお世話だよ?淳史さんと里桜がくっついたからって、何も起きないことはわかってるから」
義之の言いたいことを先に理解したらしい優生が、好戦的な口調で里桜を庇う。険悪になるのが嫌で、里桜は淳史の背中から離れた。



「義之さん、まだ何も思い出さないの?」
病院で記憶のない義之と接してからというもの、優生の義之に対する態度はあからさまに高慢になったように見える。まるで、義之が優生を忘れたことに苛立っているのかと勘繰ってしまいたくなるほども。
「残念ながら、思い出す気配もなくてね。いっそ新しく入れた方が早いと思って頑張ってるんだけど」
「忘れた方は楽でいいよね」
意味深長な優生の言葉に淳史が顔色を変えた理由を、里桜は知らなかった。
「きみも知っているということ?」
「そっちとは関係ない話だよ」
「優生」
窘めるように淳史に名前を呼ばれると、優生は急にしおらしくなる。
「……ごめんなさい」
何も言わずに淳史が優生を抱きよせる理由も、何も知らない里桜には見当も付かなかった。
「どうやら、触れてはいけない話題のようだね」
それには答えず、淳史は優生の腰を抱いたままソファへと促した。もう見慣れた、優生を膝に乗せるスタイルは所有のアピールにもなっているのだと思う。ほんの数日前まで、義之もそうだったのに。
淳史の腕で少し気分が落ち着いたのか、優生は話を戻すことにしたようだった。
「義之さん、看護師さんの資格を持ってるでしょう?俺が体調を崩してた時、毎日のように健康管理に来てくれてたのに、何か思い出すことはないの?」
「悪いけど、きみとも初対面としか思えないよ?それに、看護師といってもペーパーだけど、どんなことをしてたのかな?」
「不眠だって言えば寝かしつけてくれて、食べられないって言えばお粥作ってくれて、保育士さんみたいな感じ?」
それは内緒で行われていたことではなかったが、今聞かされるのは辛かった。
「僕はそんなにマメだった?」
「そうだよ。義之さん、世話やくの好きでしょ?今度は里桜の面倒、ちゃんと見てくれるよね?」
「面倒を見るといっても、彼が家のことも殆どしてくれていたそうなのに、何か僕がすることがあるのかな?」
「一緒にご飯食べて、一緒に眠って、忘れてることは何でも聞いて?里桜はハウスキーパーじゃないんだから」
それまで自覚していなかったが、優生が義之に言ってくれたことは、里桜がそうして欲しいと思っていることばかりだった。



- CHINA ROSE(4) - Fin

【 CHINA ROSE(3) 】     Novel       【 CHINA ROSE(5) 】


里桜の視点のみで書くと、いろいろ限界がありますね、不親切でごめんなさい。
個人的好みで、敢えてわからないままにしておきますー。