- CHINA ROSE(3) -



「……ずいぶん、可愛らしい部屋だね」
リビングの入り口から中を見渡した瞬間、義之の足が止まった。今の義之にとって初めて見ることになる部屋のコーディネイトは、かなりショッキングなものだったらしい。ややあって義之が口にした感想は、それ以上婉曲に言いようがなかったのだろう。
極々淡いグリーンのバルーンカーテンと、お揃いのラグに薄く描かれたオールドローズも、クラシックな猫足の白いチェストやテーブルも、ともすれば少女趣味に見えかねない可愛らしさだ。低い位置には一切物がなく、キャビネットのドアロックやコンセントキャップまでついている様は、とてもではないが、いい年をした男二人が住んでいる部屋には見えないだろう。
「まるで小さな子供でもいるみたいだけど」
「うん、俺の弟、まだ赤ちゃんだから……義くん、すごく可愛がってくれてて、合わせてくれたっていうか」
里桜の弟の来望(くるみ)を連れてくることを前提に考えたかのような部屋にしたのは義之だったはずだが、今そう言ったところで説得力はないのだろう。
「弟って、随分年が空いてるんだね」
「うん。だから、俺が連れてると、俺の子供と間違われることあるよ」
「ずいぶん若いお母さんだと思われてるんだろうね」
おそらく深い意味はなく言っているだろう一言一言が、里桜の胸に引っかかる。自分がこんなにも被害妄想的な思考をしているとは思わなかった。
「……何か入れようか?」
「ありがとう。せっかくだけど、先に風呂を使っていいかな?どうも病院臭さが抜けなくて不快なんだ」
「でも、お風呂入っちゃダメなんじゃなかったの?」
退院の際にいくつかの注意事項があり、その中のひとつに入浴は控えるようにというのがあったはずだ。
「軽くシャワーだけにするよ。すぐに上がるから心配しないで」
優しげな言葉とうらはらに、口出しされたくないと言わんばかりの雰囲気に、また里桜の気分が重くなってゆく。


「ベッドがひとつしかないようだけど、一緒に寝ていたの?」
「え、と」
問われた意味を考えると、答えを躊躇ってしまう。里桜が高校を卒業するまで待ってくれていたという言葉を、“結婚するのを”ではなく、“深い仲になるのを”と思っているらしい義之には、一緒に寝るなど考えられないことなのだろう。
「一緒に寝たからといって間違いが起きるとは思わないけど、やっぱりケジメはつけた方がいいね」
きっぱりと里桜に欲情することはないと言われたこと以上に、“間違い”と表現されたことが引っかかる。どちらかといえば鈍い里桜にも、義之の言葉の端々に覗く本音に気付いてしまった。
「しばらく僕は向こうで寝ることにするよ。予備の寝具はあるんだろう?」
「あ、それなら俺がそっちを使うから……義くんは病人なんだからベッドを使って?」
ベッドを里桜に譲ってゲストルームに行こうとする義之を引き止める。客用寝具は買ったきり開封もしておらず、当然シーツも掛けていなかった。慌てて用意するよりも、記憶にはなくても体に馴染んでいるベッドを使った方が安眠できるはずだ。
「病人なんていうほどでもないつもりだけど……譲り合っていても仕方がないし、そうさせてもらうよ」
少し眠るという義之に、“おやすみ”のキスをしようとして怪訝な顔をされた。
「キスもしちゃダメなの?」
いくら義之が大人で、未成年の里桜に淫行をはたらくわけにはいかないといっても、今時の高校生がキスのひとつもしないという方が異常なのだと思う。
困惑したような顔に、改めて二人の距離感を思い知らされたような気がした。里桜が思っていたよりずっと、事態は深刻らしい。
「どこで線を引くのかは難しいところだけど、僕としてはそういうことは一切しない方がいいんじゃないかと思うよ?」
一切、と言われては、ハグを求めることさえ出来なくなってしまう。
毅然として里桜と一線を画そうとする義之につけ込む隙は、今はなさそうだった。



義之がまだ起きていたら叱られるかもしれないと思いながら、静かに寝室のドアを開けた。
そっとベッドに近付いて、義之の寝顔を覗く。固く閉ざした瞼は少々の物音では開きそうになく、里桜の知っている義之からは想像できないくらい深く眠っているようだった。
一人で使うには広すぎるベッドの、空いた端にちょこんと腰掛ける。手を伸ばして、頬へ触れても義之は僅かも動かなかった。鼓動を確かめるように、胸元へ耳を寄せる。
義之に連絡が取れずに不安でいっぱいだったことを思えば、まがりなりにも無事に戻ってきた現状に満足するべきなのだろうと、頭ではわかっていた。まだ記憶が戻らないと決まったわけではなく、里桜と恋愛するのは無理だと言われたわけでもない。一挙手一投足に憂いている場合ではなく、義之が落ち着くまで、もっと大らかな気持ちで待たなければと思うのに。
おそるおそる、義之の肩の辺りへ頭を乗せる。こんな風に吐息がかかるほど近付くことは、義之の意識のある時にはもう叶わないことなのだろう。
義之と一緒に過ごすようになってからというもの、里桜は毎日毎晩、ハーレクインロマンスか昼メロかと思うほど過剰に甘やかされてきた。今更、子供らしく清く正しく生きていけと言われても、戻れるわけがないのに。
時として面倒に思ってしまうこともあるほど毎回、律儀に欠かすことなくくり返されてきたハグとキスは、里桜が眠りに入るための儀式にもなっていた。それなのに、これからは眠るのも起きるのも一人なんて、想像しただけで胸が潰れてしまいそうだ。
里桜のことを思い出してほしいと思いながら、相反する願いは消せずにいる。もし義之の記憶が戻らないのなら、出逢いの意図も、起こったことも知らないままでいてほしい。義之の状態を淳史に話した時にも、黙っていてほしいと頼んでおいた。
あの頃、責任感ではないと言われた言葉が真実だったとしたら、もう一度里桜を好きになってくれるはずだと思う。今の義之に、本当に里桜と親睦を深める気があるのなら。




軽く頭を撫でられて、微睡みから覚める。
何の根拠もなく続いていくと思い込んでいた昨日の続きのような錯覚に、里桜は一瞬どちらが夢だったのかわからなくなってしまった。
抱かれ慣れた胸の上で、条件反射のようにキスを求めそうになる里桜の体が、やんわりと止められる。
「きみは僕を枕にするのが好きなようだね。悪いけど、寝惚けて人違いをしないという自信はないから、寝込みを襲うのはやめてくれないかな?」
誰と間違えるのかと聞くのは愚問で、里桜は慌てて、もう自分のものではないらしい胸から身を引いた。
「……ごめんなさい、寝顔を見てたらつられちゃったみたい。義くんはこのまま寝るの?」
「目が覚めてしまったから起きるよ。いろいろしなければいけないこともあるしね」
「何か食べる?すぐに用意するけど」
「きみが?無理しなくていいよ?」
義之の目には年齢以上に幼く見えているらしい里桜は、食事の用意をすることも危なっかしく思われているようだ。
「家事は殆ど俺がやってたんだけど……」
「そうなの?僕は結婚している時でも協力していたんだけどな……そんなに仕事が忙しくなってた?」
「ううん……義くん、お仕事はあんまり真面目じゃなかったよ」
「まさか左遷されたとか、勤務先が変わったとか、何かトラブルでもあったの?」
「義くんは俺には仕事の話をしなかったからわからないけど……たぶん、会社は変わってないと思うよ。でも、移動とか担当が変わったとかはあったんじゃないかな?」
仕事に熱中し過ぎて離婚することになったから、次の相手は何より優先するというような言い方をしているのを聞いたことがある。その言葉を証明するかのように、里桜と知り合ってからの義之はしょっちゅう仕事を抜けてきたり、土日の少なくとも一日は出勤しないと公言してみせたり、まともな社会人とは思えない仕事ぶりだった。おそらく、美咲の気持ちが離れていったことにも気付かないほど忙しかったという頃とは全然違っていただろうと思う。まるで、里桜を中心に義之の世界が回っているように見えるほど。
「三年も経てば随分変わってるだろうね。知識は入れられても、人間関係は聞いただけじゃわからないし……やっぱり当分仕事に戻るのは無理かな」
里桜の戸惑い以上に、義之にとって三年間を取り戻すのは大変そうだった。



「とりあえずコーヒーでも淹れようか?」
無難な言葉で義之を窺う。
里桜についてキッチンの中まで来た義之は、見覚えのないレイアウトに戸惑っているようだった。
「頼んでもいいかな?どうも、使い勝手が違うようだし」
「うん。軽くサンドイッチでも作る?」
「今はいいよ。動いてないからかな、あまり食欲はないようだよ」
コーヒーメーカーをセットしながら、リビングに移ってローテーブルの前へと座る義之を眺める。カップにミルクを温めながら、コーヒーが出来上がるのを待った。
その間にも義之は寛ぐ風はなく、破損した携帯電話の代わりにノートパソコンを立ち上げて作業を始めた。里桜と一緒に住み始めた時にはもうあったパソコンは、義之の記憶にあるものらしい。
難しい顔をしてキーボードを叩く義之に声をかけにくくて、少し離れた、なるべく邪魔にならなさそうな場所にマグカップを置いて、里桜も腰を下ろす。
ありがとう、と言いそうに見えた唇が、思いがけない言葉を紡いだ。
「……いつもカフェオレだったの?」
困ったような顔をされる理由がすぐにわからず、しばらく返事が出来なかった。
「僕は砂糖もミルクもいらないよ、先に言っておけば良かったね」
確認をするべきだったという以前に、義之がカフェオレは飲まないかもしれないとは考えもしなかった。
「……もしかして、甘いものも苦手だったりする?」
「食べられないことはないよ?でも、あまり好きではないかな」
「そうなんだ……」
出逢った頃の義之は、しょっちゅう里桜をスイーツの店に誘ったり、おみやげに買ってくれたりしていた。一緒にお茶をする時にも里桜にだけ勧めるわけではなく、同じようにつき合ってくれていた。里桜には、義之が仕方なく食べているようには見えなかったが、そう感じさせないよう振舞っていたのだろうか。


淹れ直したコーヒーを飲み終える頃には、義之の気分も少し落ち着いてきたようだった。
里桜の知らない顔をして、器用な指先が目で追えないほどの速さでキーボードを叩く。その音の他には時折メールの着信が聞こえるだけの静けさに、息が詰まってしまいそうになる。
席を外すべきか迷っていると、不意に義之が里桜の方を向いた。
「あの日のことも全然覚えてないんだけど、僕は仕事だったのかな?」
「お仕事っていうか、おつき合いだったみたいだよ?先生たちと約束があるって言ってたから」
飲むことになるからと、義之は仕事から一旦戻って車を置いてまた出掛けていった。早めに引き上げるつもりだと言っていたが、抜けられず遅くなるとメールがあったきり、こんなことになってしまった。
「誰と一緒だったのかはわかるかな?」
「ううん……そういうのは聞いてない」
「そう」
そんなことも聞かされていないのかと、義之の横顔に書いてあるような気がして、またヘコみそうになる。義之は里桜には仕事の話は殆どしなかった。それが里桜を子供だと思っていたせいなのか、別の理由があるのかはわからなかったが、話してほしいと言ったことはなかった。
「事故の時に携帯が壊れてしまったようだけど、機種変前のとか、置いてないのかな?」
「データを移した後は処分したんじゃないかな?でも、データはパソコンの中に入ってると思うけど」
尤も、義之が残したがったデータは里桜の写真やムービーが殆どで、今の義之が探しているものとは違うのだろうが。
「一応バックアップは取ってあるようだけど……機種変したのはいつだったかわかる?」
「確か3月の終わり頃だったと思うけど」
「それなら、ほぼバックアップを取ってあると思っていいのかな。3年後の僕も慎重なようで良かったよ」
義之にとって大切なのは仕事の交友関係やデータばかりで、里桜のことには触れる気もないらしい。それとも、あと数日で義之と里桜が初めて出逢った日になるというのに、そんなことはパソコンの中には入っていないのかもしれなかった。



「お仕事、しばらくは休むんでしょう?」
「出社はするつもりだよ。会社には美咲が連絡してくれているそうだし、内勤しながら記憶を埋めていこうかと思ってるよ」
義之がそんなにも仕事に思い入れを持っていたとは知らなかった。里桜と出逢ってからの義之はどちらかといえば不真面目で、あまり仕事に時間を取られないよう上手く立ち回っているように見えていたのに。
これを機に休暇を取って、里桜と過ごしているうちに少しずつ思い出すかもしれないとか、想い出さないまでも親密になろうとか、そういうつもりは毛頭ないらしい。
「あんまりムリしないで?」
「大丈夫だよ、無理に思い出そうとしない方がいいとは言われてるけど、新しく入れるぶんには何も言われてないからね。あまりきみに構っている時間は取れないかもしれないけど、協力してくれるかな?」
嫌だと言えるはずがないことを知りながら、そんな言い方をする義之と、これからどう接していけばいいのかわからない。
「協力って、俺は何をしたらいいの?」
「家事をしてくれていたと言っていたけど、きみが担当してくれると助かるよ」
「それは元々俺がやってたんだし構わないけど……それだけ?」
「あとは学生らしく勉学に励むとか、僕を枕にしないとか、普通にしていればいいよ?」
つまりは、必要以上に義之に接触するなということなのだろう。美咲や淳史に言われるまま里桜と暮らすことにしたものの、早速持て余し始めたのかもしれない。
「そんな顔しないで。時間はかかるだろうけど、きみのことも愛せるようになると思うよ?今は急かさないで、仕事に集中させてくれないか?」
まるで里桜を愛せるようになるには努力が要ると言われたようで、素直に頷くことはできなかった。義之は自分が愛されていると思っているからそんな無責任な言葉が吐けるのだと、考えてしまう里桜は卑屈になり過ぎているだろうか。



「……あの、俺、先に寝るね?」
義之の傍にいても所在無くて、せめて邪魔にならないようにと考えると、自然とそう切り出していた。
「まだ10時だよ?」
「俺、夜は弱くて、いつも11時までには寝てるから」
驚く義之に、知り合ったばかりの頃によく言っていた言葉を返す。あの頃の義之は、里桜を睡魔に奪われそうになる度に少し強引な引き止め方をしていたが、今は寧ろホッとしているのだろう。
「健康的だね。早く寝て成長ホルモンをたくさん出した方がいいよ」
暗に里桜は成長不良だと言われているようで、答える代わりに頭を下げた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
こんな時だけ極上の笑顔をくれる義之に一層距離を感じて、早々にリビングを後にする。
いくら可愛いと思ってくれていたとしても、所詮は男で子供っぽい里桜を、分別のある大人なら敬遠したくなるのは当然のことなのだろう。
普段あまり使うことのない和室に置いた、畳んだままの布団に凭れかかるように、力なく座りこむ。暗い部屋で、大きな枕を抱きしめてみても、睡魔は訪れそうになかった。おやすみのキスをしないと眠れないように躾けたのは義之だったのに。
そうでなくてもキス魔の義之は、出掛ける前には今生の別れのようにきつく抱きしめてキスをして、戻れば同じように大げさな抱擁と濃いキスで、別々に過ごした時間を埋めてくれていた。少し大げさなそれは、この先もずっと続いてゆくのだと、何の根拠もなく思っていた。
だから、たった一日の間に義之があまりにも変わってしまったことは信じ難く、里桜にはまだ受け止められそうになかった。



- CHINA ROSE(3) - Fin

【 China Rose(2) 】     Novel       【 CHINA ROSE(4) 】


義之にご飯食べさせるの忘れてました……。
病院で食事が出たかもしれないと思ってください、ごめんなさい。